今皇帝:桓武天皇(14)
延暦五年(西暦786年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
五月辛夘。新遷京都。公私草創。百姓移居。多未豊贍。於是。詔賜左右京及東西市人物。各有差。癸巳。宮内卿正四位上石川朝臣垣守卒。庚子。正四位下伊勢朝臣老人爲縫殿頭。從五位下巨勢朝臣廣山爲大和介。
五月三日、新しく遷都して、公私ともに草創の段階にあり、人民は移住して、まだ豊かな生活をしていない。そこで詔されて、左右京の住人と東西の市人に地位に応じて物を賜っている。五日に宮内卿の石川朝臣垣守が亡くなっている。十二日に伊勢朝臣老人を縫殿頭、巨勢朝臣廣山(馬主に併記)を大和介に任じている。
六月己未朔。先是。去寳龜三年制。諸國公廨處分之事。前人出擧。後人收納。彼此有功。不合無料。前後之司。宜各平分。至是勅。出擧收納。其勞不同。宜革前例。一依天平寳字元年十月十一日式。收納之前。所有公廨入於後人。收納之後入於前人。」又勅。撫育百姓糺察部内。國郡官司同職掌也。然則國郡功過共所預知。而頃年有燒正倉。獨罪郡司不坐國守。事稍乖理。豈合法意。自今以後。宜奪國司等公廨。惣填燒失官物。其郡司者不在會赦之限。丁夘。以從五位上藤原朝臣乙叡。從五位下文室眞人眞屋麻呂。並爲少納言。右大弁從四位上紀朝臣古佐美爲左大弁。春宮大夫中衛中將但馬守如故。從五位下阿倍朝臣弟當爲右少弁。從五位下上毛野公大川爲主計頭。大外記如故。中納言從三位石川朝臣名足爲兼兵部卿。皇后宮大夫播磨守如故。從五位下多治比眞人公子爲大藏少輔。正四位下大中臣朝臣子老爲宮内卿。神祇伯如故。大納言從二位藤原朝臣繼繩爲兼造東大寺長官。東宮傅民部卿如故。丁亥。尚縫從三位藤原朝臣諸姉薨。内大臣從一位良繼之女也。適贈右大臣百川生女。是贈妃也。
六月一日、これより以前、去る寶龜三(772)年に[諸國の公廨の分配方法については、前任の國司が出挙して後任の國司が収納するような場合、どちらの國司も勤めを果たしながら取り分がないということがあってはならない。前任の國司と後任の國司は、均分せよ]と制した。
この度次のように勅されている・・・出挙する事務と収納する事務とでは、労力は同等ではない。そこで前例を改正して、専ら天平寶字元(757)年十月十一日の式に従って、出挙稲を収納する以前に交替した場合、その年の公廨は後任の國司のものとし、収納後に交替した場合は前任の國司に給付せよ・・・。
九日に藤原朝臣乙叡(❻)・文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)を少納言、右大弁の紀朝臣古佐美を春宮大夫・中衛中將・但馬守のままで左大弁、阿倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)を右少弁、上毛野公大川を大外記のままで主計頭、中納言の石川朝臣名足を皇后宮大夫・播磨守のまま兼務で兵部卿、多治比眞人公子(乙安に併記)を大藏少輔、大中臣朝臣子老を神祇伯のままで宮内卿、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を東宮傅・民部卿のまま兼務で造東大寺長官に任じている。
二十九日に尚縫の藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)が薨じている。内大臣の「良繼」の娘であった。右大臣を贈られた「藤原朝臣百川」に嫁して娘を生んだ。これが妃を追贈された女性(藤原朝臣旅子)である(こちら参照)。
秋七月壬寅。正五位下羽栗臣翼爲内藥正兼侍醫。丙午。太政官院成。百官始就朝座焉。
七月十五日に羽栗臣翼を内藥正に任じ、侍医を兼任させている。十九日に太政官院が落成し、百官が初めて朝座に就いている。
八月甲子。以從四位下巨勢朝臣苗麻呂爲左中弁。河内守如故。從四位上和氣朝臣清麻呂爲民部大輔。攝津大夫如故。從五位下中臣朝臣必登爲參河介。從五位上阿保朝臣人上爲武藏守。從五位下紀朝臣楫人爲介。從五位下文室眞人大原爲下総介。中宮大進從五位下物部多藝宿祢國足爲兼常陸大掾。正五位下粟田朝臣鷹守爲上野守。」使從五位下佐伯宿祢葛城於東海道。從五位下紀朝臣楫長於東山道。道別判官一人。主典一人。簡閲軍士。兼検戎具。爲征蝦夷也。」勅曰。正倉被燒。未必由神。何者譜第之徒。害傍人而相燒。監主之司。避虚納以放火。自今以後。不問神災人火。宜令當時國郡司填備之。仍勿解見任絶譜第矣。戊寅。唐人盧如津賜姓清川忌寸。
八月八日に巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を河内守のままで左中弁、和氣朝臣清麻呂を攝津大夫のままで民部大輔、中臣朝臣必登(藤原朝臣夜志芳古に併記)を參河介、阿保朝臣人上(健部朝臣)を武藏守、紀朝臣楫人(小楫に併記)を介、文室眞人大原(与伎に併記)を下総介、中宮大進の物部多藝宿祢國足を兼務で常陸大掾、粟田朝臣鷹守を上野守に任じている。
佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を東海道、紀朝臣楫長(船守に併記)を東山道に派遣し、それぞれ道ごとに判官一人、主典一人を任命している。軍団の兵士を選んで検閲し、併せて武器を点検させている。蝦夷を征伐するためである。
次のように勅されている・・・正倉が火災にあうのは、必ずしも神の祟りによるものばかりではない。何故なら郡司になる資格の譜第の家の輩が同輩を貶めるために火をつけ、管轄している官司が税の納入が虚偽であるのをそらすために放火しているからである。---≪続≫---
今後は、神による火災か人の放火かを問わず、火災が発生した時の國司・郡司に補填させよ。このため在職中の官人を解任したり、郡司となる資格のある家格を断絶させてはならない・・・。
二十二日に唐人の「盧如津」に清川忌寸の氏姓を賜っている(こちら参照)。
九月甲辰。出羽國言。渤海國使大使李元泰已下六十五人。乘船一隻漂着部下。被蝦夷略十二人。見存卌一人。丁未。攝津職言。諸國驛戸免庸輸調。其畿内者本自無庸。比于外民勞逸不同。逋逃不禁。良爲此也。驛子之調請從免除。許之。自餘畿内之國亦准此例。乙夘。以正四位上神王爲大和國班田左長官。從五位下石川朝臣魚麻呂爲次官。從四位上佐伯宿祢久良麻呂爲右長官。外從五位下嶋田臣宮成爲次官。從四位下巨勢朝臣苗麻呂爲河内和泉長官。從五位上紀朝臣作良爲次官。從四位上和氣朝臣清麻呂爲攝津長官。從五位下藤原朝臣葛野麻呂爲次官。正四位下壹志濃王爲山背長官。從五位下多治比眞人繼兄爲次官。使別判官二人。主典二人。
九月十八日に出羽國が以下のように言上している・・・渤海國の使節である大使李元泰をはじめ六十五人が、船一隻に乗って管内に漂着した。その時蝦夷に襲われて連れ去られた者が十二人、現在無事でいる者は、四十一人である・・・。
二十一日に攝津職が以下のように言上している・・・諸國の驛戸は庸を免除されて調を納入している。さて畿内では、元来庸の負担なく、畿外の民と比べると軽重が同じではない。逃亡が禁止できないのは、まことにこのためである。---≪続≫---
そこで驛戸に属する成年男子の調は、免除するように申請する・・・。これを許可している。その他の畿内の國もまた、この例に準じさせている。
二十九日に神王(❸)を大和國の班田使左長官、石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)を次官、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を班田使右長官、嶋田臣宮成を次官、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を河内・和泉國の班田使長官、紀朝臣作良を次官、和氣朝臣清麻呂を攝津國の班田使長官、藤原朝臣葛野麻呂を次官、壹志濃王(❷)を山背國の班田使長官、多治比眞人繼兄を次官に任じ、使ごとに判官二人・主典二人を任命している。
冬十月甲子。以外從五位下忌部宿祢人上爲神祗少副。正五位下高賀茂朝臣諸魚爲中宮亮。從五位下文室眞人眞屋麻呂爲右大舍人頭。從五位下高倉朝臣殿嗣爲玄蕃頭。從五位下淺井王爲内匠頭。正五位下廣上王爲内礼正。從五位下八上王爲諸陵頭。外從五位下息長眞人清繼爲木工助。衛門大尉外從五位上上毛野公我人爲兼西市正。從五位上文室眞人子老爲尾張守。從五位下縣犬養宿祢堅魚麻呂爲信濃守。從五位下阿倍朝臣草麻呂爲豊前守。丁丑。常陸國信太郡大領外正六位上物部志太連大成。以私物周百姓急。授外從五位下。戊寅。授七位上大津連廣刀自外從五位下。庚辰。授采女正六位上三野臣淨日女外從五位下。辛巳。授正六位上中臣栗原連子公外從五位下。甲申。改葬太上天皇於大和國田原陵。
十月八日に忌部宿祢人上(止美に併記)を神祗少副、高賀茂朝臣諸魚(諸雄。田守に併記)を中宮亮、文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)を右大舍人頭、高倉朝臣殿嗣(高麗朝臣殿繼)を玄蕃頭、淺井王(❺)を内匠頭、廣上王を内礼正、八上王(八上女王。❺近隣)を諸陵頭、息長眞人清繼(淨繼。廣庭に併記)を木工助、衛門大尉の上毛野公我人(大川に併記)を兼務で西市正、文室眞人子老(於保に併記)を尾張守、縣犬養宿祢堅魚麻呂を信濃守、阿倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)を豊前守に任じている。
二十一日に常陸國信太郡大領の「物部志太連大成」に、私物で人民の危急を救ったので、外従五位下を授けている。二十二日に大津連廣刀自(白鼠に併記)に外從五位下を授けている。
元正天皇紀に「常陸國信太郡」の人である「物部國依」に「信太連」の氏姓を賜ったと記載されて、信太=谷間の耕地が広がり延びたところと解釈した(こちら参照)。
志太=蛇行する川の傍らで山稜が広がり延びているところの表記に変えている。確かに谷間の耕地とするよりも、実際の地形に適しているように思われる。
現地名は北九州市門司区吉志であり、陸奥國磐城郡に接する場所を居処としていた一族と推定した。現在は住宅地になっているが、国土地理院航空写真1945~50年を参照すると、一面耕地が広がった地域だったことが伺える。
名前の大成=平らな頂の山陵が整えられているところと解釈すると、若干特定は難しいが、その出自場所を図に示した辺りと推定される。後に外従五位上へ昇進したと記載されている。
光仁天皇は、廣岡山陵に葬られたと記載されていた。その場所を出自の地である越前國江沼郡(現地名は北九州市門司区伊川)の山間として求めた。ここで「大和國田原」に改葬されている。
ごくありふれた名称であり、地形象形的にも一に特定することが難しいようである。少し調べると大和國添上郡だったようであり、ならば歴代の天皇陵が並ぶ場所だったのではなかろうか。
田原=田が広がったところと解釈して、眺めると図に示した山稜の端辺りを表しているように思われる。直近では近隣で普光寺が登場し、また谷間が開拓された様子が述べられていた。この後、續紀中に関連する記述は見られるない。
十一月丁未。從五位下巨勢朝臣総成爲遠江守。
十一月二十二日に巨勢朝臣総成(馬主に併記)を遠江守に任じている。
十二月己夘。陰陽助正六位上路三野眞人石守言。己父馬養。姓無路字。而今石守獨着路字。請除之。許焉。辛巳。叙從五位下松尾神從四位下。
十二月二十四日に陰陽助の「路三野眞人石守」が[私の父の馬養の姓に路の字が付いていないが、今の私には付いている。これを除くように願う]と言上し、許可されている。
二十六日に松尾神に従四位下を授けている。
● 路三野眞人石守
父親の「馬養(甘)」は、淳仁天皇紀に従五位下を叙爵されて登場していた。それ以前では「三嶋」が元正天皇紀だから、極めて限られた人物の任用のようである(出自場所はこちら参照)。
路眞人から派生した一族と知られていて、居処は近隣、現地名の田川郡赤村内田と推定した。今回登場の「石守」に”路”の文字が付加されているのは、どうやら、「路眞人」の領域にはみ出ていたのかもしれない。
石守=山麓の小高かい地の麓に肘を張ったように曲がる山稜に囲まれているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。父親の麓でもある。
確かに「路眞人」でも問題なし、の配置であろう。續紀中では、以後の昇進や任官の記載は見られず、消息不明である。