2024年10月7日月曜日

今皇帝:桓武天皇(13) 〔696〕

今皇帝:桓武天皇(13)


延暦五(西暦786年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

五年春正月壬辰朔。宴五位已上。賜祿有差。乙未。授无位長津王從五位下。戊戌。宴五位已上。授正四位下神王正四位上。從四位上壹志濃王正四位下。從五位下篠嶋王從五位上。從四位上大中臣朝臣子老正四位下。正五位上紀朝臣犬養從四位下。正五位下文室眞人高嶋。從五位上藤原朝臣雄友。藤原朝臣内麻呂並正五位上。從五位上藤原朝臣菅繼正五位下。從五位上藤原朝臣乙叡從五位上。外從五位下長尾忌寸金村。物部多藝宿祢國足。外正五位下丹比宿祢眞淨。外從五位上上毛野公大川。正六位上佐伯宿祢志賀麻呂。阿倍朝臣名繼。從七位上和朝臣家麻呂。正六位上多治比眞人賀智。紀朝臣楫人。藤原朝臣清主。百濟王孝徳並從五位下。宴訖賜祿有差。」左京大夫從三位兼右衛士督下総守坂上大宿祢苅田麻呂薨。苅田麻呂。正四位上犬養之子也。寳字中任授刀少尉。八年。惠美仲麻呂作逆。先遣其息訓儒麻呂。邀奪鈴印。苅田麻呂与將曹牡鹿嶋足。共奉詔載馳。射訓儒麻呂而殺之。以功授從四位下勳二等賜姓大忌寸。補中衛少將。兼甲斐守。語在廢帝紀。寳龜初。加正四位下。出爲陸奥鎭守將軍。居無幾。徴入歴近衛員外中將丹波伊豫等國守。天應元年。授正四位上。遷右衛士督。苅田麻呂家世事弓馬善馳射。宿衛宮掖。歴事數朝。天皇寵遇優厚。別賜封五十戸。延暦四年。授從三位。拜左京大夫。右衛士督下総守如故。薨時年五十九。乙巳。授正四位上紀朝臣宮子。橘朝臣眞都賀。藤原朝臣諸姉並從三位。從四位下美作女王從四位上。從五位下八上女王正五位下。從五位下忍坂女王。置始女王並從五位上。從四位上多治比眞人古奈祢正四位下。正五位上武藏宿祢家刀自從四位下。正五位下藤原朝臣春蓮。藤原朝臣勤子並正五位上。從五位下坂上大宿祢又子。藤原朝臣明子。三嶋宿祢廣宅並正五位下。從五位下安倍朝臣黒女從五位上。外從五位下山口宿祢家足。无位紀朝臣古刀自。藤原朝臣姉。藤原朝臣鷹子。正六位上賀茂朝臣三月。无位錦部連姉繼並從五位下。戊申。以從三位藤原朝臣旅子爲夫人。壬子。於近江國滋賀郡。始造梵釋寺矣。乙夘。以從五位下藤原朝臣宗嗣爲伊勢守。從五位下和朝臣家麻呂爲大掾。外從五位下井上直牛養爲尾張介。從五位下紀朝臣廣足爲駿河守。内藥正侍醫從五位下吉田連古麻呂爲兼常陸大掾。正四位下多治比眞人長野爲近江守。從五位下紀朝臣楫長爲介。從五位下多治比眞人賀智爲信濃介。正五位上藤原朝臣内麻呂爲越前守。春宮亮從五位上安倍朝臣廣津麻呂爲兼介。從五位上文室眞人忍坂麻呂爲因幡守。從五位下藤原朝臣眞鷲爲伯耆守。式部少輔從五位下笠朝臣江人爲兼播磨大掾。從五位下伊勢朝臣水通爲紀伊守。己未。地震。」從五位下安倍朝臣枚麻呂爲大監物。從五位下藤原朝臣縵麻呂爲皇后宮大進。正五位上安倍朝臣家麻呂爲左大舍人頭。從五位下安倍朝臣名繼爲右大舍人助。從五位上紀朝臣作良爲大學頭。從五位下縣犬養宿祢繼麻呂爲散位助。外從五位下林連浦海爲主計助。從五位下藤原朝臣乙友爲宮内少輔。從五位下文室眞人久賀麻呂爲木工頭。外從五位下國中連三成爲助。外從五位下上村主虫麻呂爲官奴正。從四位上佐伯宿祢久良麻呂爲左京大夫。從五位下藤原朝臣繩主爲中衛少將。從五位下藤原朝臣仲成爲衛門佐。皇后宮亮正五位上笠朝臣名末呂爲兼右衛士督。從五位上百濟王玄鏡爲右兵衛督。從五位下文室眞人大原爲佐。從五位下大宅朝臣廣江爲美濃介。從五位下安倍朝臣眞黒麻呂爲出雲介。

延暦五年正月一日に五位以上と宴会し、それぞれに禄を賜っている。四日、長津王(。三長眞人)に従五位下を授けている。七日に五位以上と宴会し、神王()に正四位上、壹志濃王()に正四位下、篠嶋王()に從五位上、大中臣朝臣子老に正四位下、紀朝臣犬養(馬主に併記)に從四位下、文室眞人高嶋(高嶋王)藤原朝臣雄友()・藤原朝臣内麻呂()に正五位上、藤原朝臣菅繼に正五位下、藤原朝臣乙叡()に從五位上、長尾忌寸金村物部多藝宿祢國足丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)上毛野公大川佐伯宿祢志賀麻呂(古比奈に併記)・阿倍朝臣名繼(廣人に併記)・和朝臣家麻呂(三具足に併記)・多治比眞人賀智(伊止に併記)・紀朝臣楫人(小楫に併記)・藤原朝臣清主()・百濟王孝徳(②-)に從五位下を授けている。

この日、左京大夫で右衛士督・下総守を兼任する坂上大宿祢苅田麻呂(犬養に併記)が薨じている。「苅田麻呂」は正四位上の「犬養」の子であった。天平寶字年間に授刀少尉に任ぜられ、八(764)年に恵美仲麻呂が叛逆し、まず息子の訓儒麻呂を平城宮に派遣して鈴印を強奪させた。

「苅田麻呂」は授刀将曹の牡鹿嶋足(牡鹿連嶋足)と共に詔を奉じてただちに馳せ参じ、「訓儒麻呂」を射て殺した。その功績によって従四位下・勲二等を授けられ、姓を大忌寸と賜り、中衛少将に任命され甲斐守を兼任した。詳細は廃帝(淳仁天皇)紀に載っている。

寶龜初年に正四位下に昇進し、地方官に転出して陸奥國鎮守将軍となった。ほどなく召喚されて帰り、近衛員外中将、丹波・伊豫などの國守を歴任した。天應元(781)年に正四位上を授けられ、右衛士督に転任した。「苅田麻呂」は、家柄が代々弓馬の事を職とし、走る馬から騎射する技能に優れていた。

宮中を護衛する任に就いて幾代もの朝廷に次々仕えた。桓武天皇は彼を寵愛し優遇して、別に封戸五十戸を賜った。延暦四(785)年に従三位を授けられ、左京大夫を拝命し、右衛士督・下総守は元のままとされた。薨じた時、五十九歳であった。

十四日に紀朝臣宮子橘朝臣眞都賀(眞都我、眞束。古那加智に併記)・藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に從三位、美作女王(美作王。秋野王に併記)に從四位上、八上女王(八上王)に正五位下、忍坂女王置始女王に從五位上、多治比眞人古奈祢(古奈弥。小耳に併記)に正四位下、武藏宿祢家刀自(丈部直刀自)に從四位下、藤原朝臣春蓮藤原朝臣勤子に正五位上、坂上大宿祢又子(坂上大忌寸)・藤原朝臣明子三嶋宿祢廣宅(三嶋縣主廣調に併記)に正五位下、安倍朝臣黒女に從五位上、山口宿祢家足(山口忌寸)・紀朝臣古刀自(宮子に併記)・藤原朝臣姉藤原朝臣鷹子()・賀茂朝臣三月(御笠に併記)・「錦部連姉繼」に從五位下を授けている。

十七日に藤原朝臣旅子(産子に併記)を夫人としている。二十一日に近江國滋賀郡(志賀郡。こちらも参照)に「梵釋寺」を造営し始めている。二十四日に藤原朝臣宗嗣()を伊勢守、和朝臣家麻呂(三具足に併記)を大掾、井上直牛養を尾張介、紀朝臣廣足を駿河守、内藥正・侍醫の吉田連古麻呂(斐太麻呂に併記)を兼務で常陸大掾、多治比眞人長野を近江守、紀朝臣楫長(船守に併記)を介、多治比眞人賀智(伊止に併記)を信濃介、藤原朝臣内麻呂()を越前守、春宮亮の安倍朝臣廣津麻呂を兼務で介、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を因幡守、藤原朝臣眞鷲()を伯耆守、式部少輔の笠朝臣江人(眞足に併記)を兼務で播磨大掾、伊勢朝臣水通(諸人に併記)を紀伊守に任じている。

二十八日に地震が起こっている。また、安倍朝臣枚麻呂(眞黒麻呂に併記)を大監物、藤原朝臣縵麻呂(藥子に併記)を皇后宮大進、安倍朝臣家麻呂を左大舍人頭、「安倍朝臣名繼」を右大舍人助、紀朝臣作良を大學頭、縣犬養宿祢繼麻呂(堅魚麻呂に併記)を散位助、林連浦海(雑物に併記)を主計助、藤原朝臣乙友(弟友。)を宮内少輔、文室眞人久賀麻呂を木工頭、國中連三成(公麻呂近隣)を助、上村主虫麻呂(墨繩に併記)を官奴正、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を左京大夫、藤原朝臣繩主()を中衛少將、藤原朝臣仲成(藥子に併記)を衛門佐、皇后宮亮の笠朝臣名末呂(賀古に併記)を兼務で右衛士督、百濟王玄鏡(①-)を右兵衛督、文室眞人大原(与伎に併記)を佐、大宅朝臣廣江(吉成に併記)を美濃介、安倍朝臣眞黒麻呂を出雲介に任じている。

<錦部連姉繼>
● 錦部連姉繼

「錦部連」一族は、文武天皇紀に道麻呂が登場し、その後聖武天皇紀に入って吉美・男笠、孝謙天皇紀には踏歌に堪能な河内、初めは外位だが、後に内位の従五位上を授けられている。

また、称徳天皇紀には錦部毘登一族に連姓を賜っていた。「錦部」の「錦」は、現在の行橋市下崎にある幸ノ山を表しいると読み解き、「錦部連」は、その麓を居処とする人々と推定した。

姉繼は初見で内位の従五位下を叙位されていて、おそらく前者の「道麻呂」等の系列に属する人物と推測される。姉繼=嫋やかに曲がる谷間が集まる地を繋げるところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。後に安殿皇太子の乳母を勤めたことが明かされて、従五位上を賜っている。

<梵釋寺>
梵釋寺

新しく寺を造営し始めたと記載している。近江國滋賀郡には、文武天皇紀に志我山寺が登場し、後の聖武天皇紀に紫郷山寺(官寺に昇格)と記されている。

この地では、古事記の若帶日子命(成務天皇)の近淡海之志賀高穴穗宮があったり、聖武天皇紀には近接する甲賀郡に紫香樂宮が造営されていた。

交通の要所であり、早くから開けた地域であったことに違いないであろう。古事記の”近淡海”は、”近江”に置換えられている。罷り間違っても近江大津宮があった地ではない。

さて、梵釋寺の「梵」=「林+凡」=「山稜が並び立つ地に[凡]の形に谷間がある様」、また、「釋」=「釆+睪」=「丸く小高い地を揃えて並べる様」と解釈される。纏めると梵釋=丸く小高い山稜にぐるりと囲まれた地で[凡]の形に谷間が広がり延びているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。寺の場所は麓の小高いところではなかろうか。

續紀中では後に「下総越前二國封各五十戸施入梵釋寺」と記載れるのみであるが、その後歴代の天皇が行幸されたようである。ただ、上図の”本貫”の場所であったかは、定かではない。

二月己巳。出雲國國造出雲臣國成奏神吉事。其儀如常。賜國成及祝部物各有差。丁丑。從四位上紀朝臣古佐美爲右大弁。舂宮大夫中衛中將但馬守如故。中納言從三位石川朝臣名足爲兼中宮大夫。左大弁播磨守如故。正五位上内藏宿祢全成爲内藏頭。中納言近衛大將從三位紀朝臣船守爲兼式部卿。常陸守如故。正五位上大中臣朝臣諸魚爲大輔。左兵衛督如故。正四位下大中臣朝臣子老爲兵部卿。神祇伯如故。正五位上藤原朝臣雄友爲大輔。正五位下文室眞人水通爲大藏大輔。從五位下大原眞人美氣爲彈正弼。從四位下石上朝臣家成爲衛門督。兵部大輔正五位上藤原朝臣雄友爲兼左衛士督。内厩頭從五位上三嶋眞人名繼爲兼山背守。外從五位下御使朝臣淨足爲美濃介。從五位下大宅朝臣廣江爲丹後介。 

二月九日に出雲國造の出雲臣國成(嶋成に併記)が神吉事を奏上している。その儀式は通常通りであった。「國成」と祝部に地位に応じて物を賜っている。

十七日に紀朝臣古佐美を舂宮大夫・中衛中將・但馬守のままで右大弁、中納言の石川朝臣名足を左大弁・播磨守のまま兼務で中宮大夫、内藏宿祢全成(忌寸。黒人に併記)を内藏頭、中納言・近衛大將の紀朝臣船守を常陸守のまま兼務で式部卿、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を左兵衛督のままで大輔、大中臣朝臣子老を神祇伯のままで兵部卿、藤原朝臣雄友()を大輔、文室眞人水通を大藏大輔、大原眞人美氣を彈正弼、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を衛門督、兵部大輔の藤原朝臣雄友()を兼務で左衛士督、内厩頭の三嶋眞人名繼を兼務で山背守、御使朝臣淨足を美濃介、大宅朝臣廣江(吉成に併記)を丹後介に任じている。 

夏四月庚午。詔日。諸國所貢。庸調支度等物。毎有未納。交闕國用。積習稍久。爲弊已深。良由國宰郡司遞相怠慢。遂使物漏民間用乏官庫。又其莅政治民。多乖朝委。廉平稱職。百不聞一。侵漁潤身。十室而九。忝曰官司。豈合如此。宜量其状迹。隨事貶黜。其政績有聞。執掌無廢者。亦當甄録擢以顯榮。所司宜詳沙汰。明作條例奏聞。於是。太政官商量。奏其條例。撫育有方戸口増益。勸課農桑積實倉庫。貢進雜物依限送納。肅清所部盜賊不起。剖斷合理獄訟無寃。在職公平立身清愼。且守且耕軍粮有儲。邊境清肅城隍修理。若有國宰郡司。鎭將邊要等官。到任三年之内。政治灼然。當前二條巳上者。五位巳上者量事進階。六位已下者擢。之不次。授以五位。在官貪濁處事不平。肆行姦猾以求名譽。畋遊無度擾乱百姓。嗜酒沈湎廢闕公務。公節無聞。私門日益。放縱子弟請託公行。逃失數多克獲數少。統攝失方戍卒違命。若有同前群官不務職掌。仍當前一條已上者。不限年之遠近。解却見任。其違乖撫育勸課等條者。亦望准此而行之。奏可之。」授正三位藤原朝臣繼繩從二位。從四位上石川朝臣豊人爲中宮大夫。中納言左大弁從三位石川朝臣名足爲兼皇后宮大夫。播磨守如故。大納言從二位藤原朝臣繼繩爲兼民部卿。東宮傅如故。參議正三位佐伯宿祢今毛人爲大宰帥。乙亥。左京人正七位下維敬宗等賜姓長井忌寸。」播磨國言。四天王寺餝磨郡水田八十町。元是百姓口分也。而依太政官符入寺訖。因茲百姓口分。多授比郡。營種之勞。爲弊實深。其印南郡。戸口稀少。田數巨多。今當班田。請遷餝磨郡置印南郡。許之。戊寅。式部大輔正五位上大中臣朝臣諸魚為兼右京大夫。左兵衛督如故。從五位上大中臣朝臣繼麻呂爲大和守。

四月十一日に次のように詔されている・・・諸國が貢納する庸や調、年間に要する物品には、いつも未納分があって、いずれも國の用途に不足をきたしている。これが積み重なって習いとなり次第に長期化して、弊害は深刻である。まことに國司や郡司が互いに職務を怠っていることに原因があり、ついには物資を民間に横流しして、そのために朝廷の倉庫を欠乏させている。

また、彼等が政治に従事して民衆を治めるやり方が、多くの場合朝廷の委任している方針に背いている。無欲かつ公平で、職務に適任であると言える者は、百人に一人もいないようである。他人の物を勝手に掠め取って、懐を肥やすような者が十人に九人はいる。もったいなくも官司といいながら、このようであっていいであろうか。---≪続≫---

その行状を調べて、違反の軽重に応じて地位を剥奪したり降格させたりせよ。その治績が評判になり、執務態度が怠るようなことがない者は、明らかに記録して栄誉の地位に抜擢せよ。所管の官司は詳しく善悪を弁別し、明確な箇条書きの規定を作成して報告するように・・・。

そこで太政官は審議して以下のような条例を奏上している・・・〈第一〉人民を慈しみ育てるのに有効な方策をたて、戸数を増加させる。〈第二〉耕作と養蚕を奨励し税を割り当て、倉庫を収穫と産物でいっぱいにする。〈第三〉各種の物を貢進する場合、規程の日限に従って京に輸送し納入する。〈第四〉管内を取り締まって、盗賊を発生させない。〈第五〉訴訟の判決が道理に合致して、裁判で冤罪がない。〈第六〉職務においては公平で、生活態度が清廉で慎み深い。〈第七〉防備に努めながら耕作を行って、、兵糧の備蓄が豊かである。〈第八〉辺境が平静でよく治まっており、城や濠が修理されている。---≪続≫---

もし、國司・郡司、鎮守将軍など辺境を守る官人が、任地に赴いて三年以内に、政治で輝かしい成果をあげ、前掲の二ヶ条以上に該当するならば、五位以上は事績に応じて位階を昇進させ、六位以下は序列に拘らず抜擢して五位の位階を授けることにしたい。---≪続≫---

一方、〈第一〉在任中に欲が深くて潔白でなく、事を処理するにも公平ではない。〈第二〉勝手に邪で悪賢い事を行い、名声を追い求める。〈第三〉狩の遊びをして限度がなく、人民の生活を乱し騒がせる。〈第四〉酒を好んで耽溺し、公務を滞らせる。〈第五〉公務に節度があるという評判がなく、請託を受けることが日毎に盛んになる。〈第六〉子弟を気儘にさせ、私事の頼みごとを公然と行う。〈第七〉逃亡して行方不明になる者が多く、捕らえることのできた人数が少ない。〈第八〉統率の仕方が不適切で、守備の兵卒が命令に違反する。---≪続≫---

もし先の官人達が、職掌を勤めることをせず、前掲の一ヶ条以上に該当するならば、不正の年の遠近に関係なく、現職を解任させることにしたい。人民を慈しみ育てたり、産業を奨励し、税を割り当てたりするなどの条項に違反する者も、これに準じて処罰を行いたいと希望する・・・。奏上の通り許可されている。

藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)に從二位、石川朝臣豊人を中宮大夫、中納言・左大弁の石川朝臣名足を播磨守のまま兼務で皇后宮大夫、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を東宮傅のまま兼務で民部卿、參議の佐伯宿祢今毛人を大宰帥に任じている。

十六日に左京の人である「維敬宗」等に「長井忌寸」の氏姓を賜っている(こちら参照)。また、播磨國が以下のように言上している・・・餝磨郡にある四天王寺領の水田八十町は、元々人民の口分田であった。しかしながら太政官符によって寺に施入されてしまった。そのために人民の口分田の多くは隣の郡で与えたので、まことに深刻なものがあった。---≪続≫---

さて、印南郡は人口がごく少ないにもかかわらず、田数は大変多い状況である。今、班田の時に当たり、「餝磨郡」の四天王寺領田を「印南郡」に移して設置するようにお願いする・・・。これを許可している。

十九日に式部大輔の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を左兵衛督のまま兼務で右京大夫、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を大和守に任じている。