今皇帝:桓武天皇(12)
延暦四年(西暦785年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
九月乙未。地震。己亥。齋内親王向伊勢太神宮。百官陪從。至大和國堺而還。庚子。行幸水雄岡遊獵。」授正六位上巨勢朝臣嶋人從五位下。正六位上池原公繩主外從五位下。壬寅。河内國言。洪水汎溢。百姓漂蕩或乘船。或寓堤上。粮食絶乏。艱苦良深。於是。遣使監巡。兼加賑給焉。乙夘。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種繼被賊射薨。丙辰。車駕至自平城。捕獲大伴繼人。同竹良并黨与數十人。推鞫之。並皆承伏。依法推斷。或斬或流。其種繼參議式部卿兼大宰帥正三位宇合之孫也。神護二年。授從五位下。除美作守。稍迁。寳龜末。補左京大夫兼下総守。俄加從四位下。遷佐衛士督兼近江按察使。延暦初。授從三位。拜中納言。兼式部卿。三年授正三位。天皇甚委任之。中外之事皆取决焉。初首建議。遷都長岡。宮室草創。百官未就。匠手役夫。日夜兼作。至於行幸平城。太子及右大臣藤原朝臣是公。中納言種繼等。並爲留守。照炬催検。燭下被傷。明日薨於第。時年卌九。天皇甚悼惜之。詔贈正一位左大臣。己未。造東大寺長官内藏頭從四位下石上朝臣家成爲検衛門權督。兵部少輔美作守正五位上藤原朝臣雄友爲兼左衛士權督。辛酉。以從五位下佐伯宿祢葛城爲左少辨。從五位下百濟王英孫爲出羽守。近衛少將從五位下紀朝臣兄原爲検備前介。
九月三日に地震が起こっている。七日に齋宮となる朝原内親王(八千代女王に併記)が伊勢太神宮に向けて出発し、百官はお供をして大和國の堺まで行って還っている。八日に水雄岡に行幸されて遊猟している。また、「巨勢朝臣嶋人」に従五位下、「池原公繩主」に外従五位下を授けている。
十日に河内國が[洪水で水が溢れ、人民は流されて船に乗ったり、堤防の上に仮住まいしたりしており、食糧が欠乏し、苦しみは大変なものである]と言上している。そこで使者を派遣して見回らせるとともに、物を恵み与えている。二十三日に中納言で式部卿を兼任する藤原朝臣種繼(藥子に併記)は、賊に射られて薨じている。
二十四日に天皇は平城より帰っている。大伴繼人・竹良及びその一味数十人を逮捕して罪を取り調べたところ、全員が罪を認めたので、法に従って裁いて斬首あるいは配流としている。「種繼」は参議・式部卿で大宰帥を兼任した宇合の孫であった。天平神護二(766)年に従五位下を授けられ美作守に任ぜられた。
暫くして転任して、寶龜末年に左京大夫兼下総守に任ぜられたが、にわかに天應元(781)年従四位下を授けられ、左衛士督兼近江按察使に転任した。延暦の初めに従三位を授けられて中納言に任ぜられ、式部卿を兼ねた。延暦三(784)年に正三位を授けられた。天皇の信任が大変厚く、内外の事を全て取り仕切った。最初中心となって建議し、長岡に遷都した。宮室は造り始められたが、諸官司は未完成で、職人や人夫は夜を日についで造営していた。
平城に行幸するに至って、皇太子(早良親王❺)と右大臣の藤原是公、中納言の「種繼」等はそれぞれ留守官となった。松明を照らして工事を急がせ、検分していたところ、燈火の下で傷を受けて、その翌日に自邸で薨じた。時に四十九歳であった。天皇は大変その死を悼み惜しんで、詔して正一位・左大臣を贈っている。
二十七日に造東大寺長官・内藏頭の石上朝臣家成(宅嗣に併記)に衛門権督を兼任させ、兵部少輔・美作守の藤原朝臣雄友(❷)に左衛士権督を兼任させている。二十九日に佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を左少弁、百濟王英孫(②-❼)を出羽守、近衛少将の紀朝臣兄原(眞子に併記)を備前介を兼任させている。
「巨勢朝臣」一族も途絶えることなく連綿と人材輩出であるが、高位者は見られず、また、系譜不詳のようである。と言うことで、名前が表す地形から出自の場所を求めてみよう。
既出の文字列である嶋人=鳥の形をした山稜の麓に[人]の形の谷間があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
元明天皇紀に登場した安麻呂の北側に当たる。南側は系譜が知られている徳太(大臣)・黒麻呂一家が占めていた地域であるが、殆ど出現していなかった。
續紀中では後に京官・地方官を歴任したと記載されているが、その後に発生する殺人事件の処理に遣わされたと伝えられている。多分に漏れず高位に就くことはことはなかったようである。
現地名は、京都郡みやこ町勝山黒田である。繩主=太い山稜が真っ直ぐに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
後の延暦十(791)年四月に「近衛將監從五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東國六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之」と記載されている(「繩主」→「綱主」)。
賜った住吉朝臣の住吉=谷間にある真っ直ぐな山稜が蓋をするように延びているところと解釈すると周辺の地形を表していることが解る。武術、とりわけ弓術に優れ、最終従四位下・近衛少将に昇進したと伝えられているが、續紀中では住吉朝臣としての登場は見られないようである。
冬十月甲子。左降從四位下吉備朝臣泉佐渡權守。從五位下藤原朝臣園人爲安藝守。乙丑。從五位上藤原朝臣是人爲長門守。丙寅。遣使五畿内検田。爲班授也。庚午。遣中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。大膳大夫從五位上笠王於山科山陵。治部卿從四位上壹志濃王。散位從五位下紀朝臣馬守於田原山陵。中務大輔正五位上當麻王。中衛中將從四位下紀朝臣古佐美於後佐保山陵以告廢皇太子之状。壬申。遠江。下総。常陸。能登等國。去七八月大風。五穀損傷。百姓飢饉。並遣使賑給之。甲戌。中衛中將從四位下兼式部大輔但馬守紀朝臣古佐美爲參議。從五位下紀朝臣馬守爲中務少輔。從五位下下毛野朝臣年繼爲大監物。從五位上文室眞人子老爲玄蕃頭。從五位上秦忌寸足長爲主計頭。從五位下石川朝臣公足爲主税頭。從五位下縣犬養宿祢伯爲刑部少輔。從四位下大伴宿祢潔足爲大藏卿。外從五位下嶋田臣宮成爲右京亮。從五位上弓削宿祢塩麻呂爲造東大寺次官。從五位下紀朝臣兄原爲近衛少將。備前介如故。外從五位下池原公繩主爲將監。從五位下橘朝臣入居爲中衛少將。近江介如故。正五位下笠朝臣名末呂爲右兵衛督。皇后宮亮如故。外從五位下白鳥村主元麻呂爲武藏大掾。從五位上藤原朝臣眞友爲下総守。左京大夫右衛士督從三位坂上大宿祢苅田麻呂爲兼越前守。從五位上藤原朝臣内麻呂爲介。從五位下川邊朝臣淨長爲安藝介。庚辰。以善藻法師爲律師。辛巳。從五位下春階王爲遠江守。從五位下紀朝臣繼成爲讃岐介。己丑。河内國破壞堤防卅處。單功卅万七千餘人。給粮修築之。
十月二日に吉備朝臣泉(眞備に併記)を佐渡權守に左遷し、藤原朝臣園人(勤子に併記)を安藝守に任じている。三日に藤原朝臣是人を長門守に任じている。四日、使者を畿内五ヶ國に派遣して水田を調査させている。班田収受を行うためである。
八日に中納言の藤原朝臣小黒麻呂と大膳大夫の笠王を山科山陵(天智天皇陵)に、治部卿の壹志濃王(❷)と散位の紀朝臣馬守(馬借)を「田原山陵」(光仁天皇陵:高野山陵近隣、詳細は後日。改葬されるのは約一年後。この時点では廣岡山陵)に、中務大輔の當麻王(❻)と中衛中将の紀朝臣古佐美を後佐保山陵(聖武天皇陵)に派遣して、皇太子(早良親王❺)を廃したことを告げている。
十日に遠江・下総・常陸・能登などの國では、去る七、八月に大風によって五穀が損傷し、人民が飢饉にあったので、使者を派遣して物を恵み与えている。
十二日に中衛中將兼式部大輔で但馬守の紀朝臣古佐美を參議、「紀朝臣馬守」を中務少輔、下毛野朝臣年繼を大監物、文室眞人子老(於保に併記)を玄蕃頭、秦忌寸足長を主計頭、石川朝臣公足(眞人に併記)を主税頭、縣犬養宿祢伯(酒女に併記)を刑部少輔、大伴宿祢潔足(池主に併記)を大藏卿、嶋田臣宮成を右京亮、弓削宿祢塩麻呂(❽)を造東大寺次官、紀朝臣兄原(眞子に併記)を備前介のままで近衛少將、池原公繩主を將監、橘朝臣入居(❶)を近江介のままで中衛少將、笠朝臣名末呂(賀古に併記)を皇后宮亮のままで右兵衛督、白鳥村主元麻呂(白原連三成に併記)を武藏大掾、藤原朝臣眞友(❶)を下総守、左京大夫・右衛士督の坂上大宿祢苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で越前守、藤原朝臣内麻呂(❻)を介、川邊朝臣淨長(東人に併記)を安藝介に任じている。
十八日に善藻法師を律師に任じている。十九日に春階王を遠江守、紀朝臣繼成(大純に併記)を讃岐介に任じている。二十七日に河内國で堤防が三十ヶ所決壊したので、延べ三十万七千人余りに食糧を支給して修築させている。
十一月癸巳朔。授從四位上石川朝臣垣守正四位上。庚子。能登守從五位下三國眞人廣見。坐誣告謀反。合斬。減死一等配佐渡國。壬寅。祀天神於交野柏原。賽宿祷也。甲辰。從五位下平群朝臣清麻呂爲大膳亮。外從五位下麻田連畋賦爲典藥頭。丙辰。授无位藤原朝臣旅子從三位。從五位上笠女王正五位下。丁巳。詔立安殿親王爲皇太子。大赦天下。高年孝義及鰥寡孤獨不能自存者。並加賑恤焉。是日。授從四位下紀朝臣古佐美從四位上。正五位下大中臣朝臣諸魚。笠朝臣名末呂並正五位上。從五位上文室眞人水通正五位下。從五位下佐伯宿祢老從五位上。外從五位下津連眞道。正六位上藤原朝臣仲成。藤原朝臣縵麻呂。紀朝臣楫長。坂上大宿祢田村麻呂並從五位下。外從五位下上毛野公我人。池原公繩主並外從五位上。」又以右大弁從三位兼播磨守石川朝臣名足。近衛大將從三位兼中宮大夫常陸守紀朝臣船守。並爲中納言。大納言中務卿正三位藤原朝臣繼繩爲兼皇太子傅。大外記從五位下朝原忌寸道永。左兵衛佐從五位下津連眞道並爲學士。參議從四位上紀朝臣古佐美爲春宮大夫。中衛中將式部大輔但馬守如故。從五位上安倍朝臣廣津麻呂爲亮。皇后宮少進常陸大掾如故。庚子。詔賀茂上下神社充愛宕郡封各十戸。
十一月一日に石川朝臣垣守に正四位上を授けている。八日に能登守の三國眞人廣見(千國に併記)は謀反を偽り告げた罪に問われて斬罪に処せられるところを死一等を減ぜられて佐渡國に配流されている。十日に天神を交野柏原(交野・百濟寺に併記)に祀っている。以前からの祈願に対するお礼としてである。十二日に平群朝臣清麻呂(久度神に併記)を大膳亮、麻田連畋賦を典薬頭に任じている。二十四日に藤原朝臣旅子(産子に併記)に従三位、「笠女王」に正五位下を授けている。
二十五日に詔されて安殿親王(後の平城天皇)を皇太子としている。天下に大赦し、高齢者、孝行者や行いの正しい者と、鰥・寡・孤・獨で自活できない者に物を恵み与えている。
この日、紀朝臣古佐美に從四位上、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)・笠朝臣名末呂(賀古に併記)に正五位上、文室眞人水通に正五位下、佐伯宿祢老に從五位上、津連眞道(眞麻呂に併記)・藤原朝臣仲成(藥子に併記)・「藤原朝臣縵麻呂」・紀朝臣楫長(船守に併記)・坂上大宿祢田村麻呂(又子に併記)に從五位下、上毛野公我人(大川に併記)・池原公繩主に外從五位上を授けている。
また、右大弁兼播磨守の石川朝臣名足及び近衛大將兼中宮大夫で常陸守の紀朝臣船守を中納言、大納言・中務卿の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を兼務で皇太子傅、大外記の朝原忌寸道永(箕造に併記)及び左兵衛佐の津連眞道(眞麻呂に併記)を學士、參議の紀朝臣古佐美を中衛中將・式部大輔・但馬守のままで春宮大夫、安倍朝臣廣津麻呂を皇后宮少進・常陸大掾のままで亮に任じている。
上記本文では、藤原朝臣旅子と共に初見で高位を叙爵されている。桓武天皇夫人となる「旅子」は別格としても、この人物も天皇所縁の出自と推測される。
笠女王に含まれる頻出の笠=山稜の端が[笠]のように見える様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
藤原式家の「清成」の子、「種繼」の子と知られている。「仲成」の弟であり、前出の「藥子」の兄となる(こちら参照)。
縵麻呂の縵=糸+曼=細長く延びた山稜が覆い被さるように広がっている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「仲成」と「藥子」に挟まれた場所である。
少し後に藤原朝臣湯守が過ちを犯して除籍されていたが、井手宿禰の氏姓を賜って復帰させたと記載されている。母親不詳だが、「種繼」の子と知られているようである。
湯守=水が飛び散るように流れる川の先に両肘を張り出したように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。現在は道路が造られ、地形が、やや変形しているが、土地の勾配は急傾斜であることは確認される。
賜った井手宿祢の井手=[手]のような山稜の前に四角く取り囲まれているところと解釈される。「手」は「綱手」に含まれ、「井」は「守」の地形の別表記であることが解る。「藤原」を改められ、また「朝臣」ではなく「宿祢」の賜姓となっている。重罪だったのかもしれない。
十二月辛未。近江國人從七位下勝首益麻呂。起去二月。迄十月。所進役夫惣三万六千餘人。以私粮給之。以勞授外從五位下。而讓其父眞公。有勅許之。甲申。故遠江介從五位下菅原宿祢古人男四人給衣粮令勤學業。以其父侍讀之勞也。
十二月十日に近江國の人である「勝首益麻呂」は、去る二月から十月までの間に、役夫合計三万六千人余りを進上し、自分の費用で食料を支給した。その功労によって外従五位下を授けたが、父の「眞公」にその位階を譲った。勅によってこれが許されている。二十三日に故遠江介の菅原宿祢古人(土師宿祢)の息子四人に衣服と食料を支給して、学業に勤めさせている。その父が天皇に侍して儒学を講じた功労によってである。
● 勝首益麻呂
「勝首」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見であろう。近江國の人と冠されていることから、勝=朕+力=押し盛り上げられたような様の地形を探索することになる。
益麻呂に含まれる頻出の益=八+八+一+皿=谷間に挟まれた一様に平らな様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。また、父親の眞公=谷間に挟まれた小高い地が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、「益麻呂」の背後の山麓に当たる場所を表していることが解る。親子に関する記述は、この後に見られず消息等は一切不明である。
少し後に近江國淺井郡の人である錦曰佐周興及び坂田郡の人である穴太村主眞廣が志賀忌寸の氏姓を賜ったと記載される。錦曰佐=三角に尖った左手のような山稜が谷間から延び出ているところ、周興=両手でぐるりと取り囲んだ筒のような谷間が広がっているところと解釈される。
また、穴太=[穴]から延び出たような谷間が広がっているところ、眞廣=窪んだ地が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自と推定される。共に賜姓された志賀=押し広げられた谷間に蛇行する川が流れているところと解釈されるが、地図上では確認し辛いが、川が流れていたには違いなかろう。
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『續日本紀』巻卅八巻尾