今皇帝:桓武天皇(11)
延暦四年(西暦785年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
秋七月己亥。參議從三位石川朝臣名足爲左大弁。播磨守如故。參議從四位上大中臣朝臣子老爲右大弁。神祇伯如故。外從五位下麻田連畋賦爲左大史。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂爲兼中務卿。參議正三位佐伯宿祢今毛人爲民部卿。皇后宮大夫大和守如故。從五位下紀朝臣安提爲少輔。從五位上紀朝臣作良爲兵部大輔。正五位上内藏宿祢全成爲大藏大輔。從四位上石川朝臣垣守爲宮内卿。武藏守如故。從三位坂上大宿祢苅田麻呂爲左京大夫。右衛士督下総守如故。從五位下賀茂朝臣人麻呂爲亮。從四位下石川朝臣豊人爲右京大夫。大納言正三位藤原朝臣繼繩爲兼大宰帥。從五位下紀朝臣千世爲豊後守。左中弁正五位下大中臣朝臣諸魚爲兼左兵衛督。山背守如故。己酉。外從五位下秦忌寸馬長爲土佐守。庚戌。刑部卿從四位下兼因幡守淡海眞人三船卒。三船大友親王之曾孫也。祖葛野王正四位上式部卿。父池邊王從五位上内匠頭。三船性識聡敏。渉覽群書。尤好筆札。寳字元年。賜姓淡海眞人。起家拜式部少丞。累迁。寳字中授從五位下。歴式部少輔參河美作守。八年被充造池使。往近江國修造陂池。時惠美仲麻呂遁自宇治。走據近江。先遣使者調發兵馬。三船在勢多。与使判官佐伯宿祢三野。共捉縛賊使及同惡之徒。尋將軍日下部宿祢子麻呂。佐伯宿祢伊達等率數百騎而至。燒斷勢多橋。以故賊不得渡江。奔高嶋郡。以功授正五位上勳三等。除近江介。遷中務大輔兼侍從。尋補東山道巡察使。出而採訪。事畢復奏。昇降不慥頗乖朝旨。有勅譴責之。出爲大宰少貳。遷刑部大輔。歴大判事大學頭兼文章博士。寳龜末。授從四位下拜刑部卿兼因幡守。卒時年六十四。癸丑。勅曰。釋教深遠。傳其道者。緇徒是也。天下安寧盖亦由其神力矣。然則惟僧惟尼。有徳有行。自非褒顯。何以弘道。宜仰所司。擇其修行傳燈無厭倦者。景迹齒名。具注申送。」又勅。造宮之務。事弗獲已。所役之夫。宜給其功。於是和雇諸國百姓卅一万四千人。甲寅。從五位下賀茂朝臣人麻呂爲齋宮頭。丁巳。勅曰。夫正税者。國家之資。水旱之備也。而比年。國司苟貪利潤。費用者衆。官物減耗。倉廩不實。職此之由。宜自今已後。嚴加禁止。其國司如有一人犯用。餘官同坐。並解見任。永不叙用。贓物令共填納。不在免死逢赦之限。遞相検察。勿爲違犯。其郡司和許。亦同國司。辛酉。土左國貢調愆期。其物亦惡。勅國司目已上。並解見任。壬戌。外從五位下高篠連廣浪爲左大史。從五位下藤原朝臣眞鷲爲大學頭。外從五位下井上直牛養爲主計助。外從五位下伊蘇志臣眞成爲主船正。從四位下安倍朝臣東人爲刑部卿。從五位上多朝臣犬養爲大輔。從五位下巨勢朝臣家成爲主殿頭。從五位下坂本朝臣大足爲官奴正。從五位下甘南備眞人繼成爲右京亮。從五位下石浦王爲主馬頭。從五位下三嶋眞人大湯坐爲參河介。從五位下笠朝臣雄宗爲能登守。從五位下藤原朝臣宗繼爲因幡守。外從五位下大村直池麻呂爲介。從五位下布勢朝臣大海爲美作介。」授正八位下三野臣廣主外從五位下。以貢献也。
七月六日に參議の石川朝臣名足を播磨守のままで左大弁、參議の大中臣朝臣子老を神祇伯のままで右大弁、麻田連畋賦を左大史、中納言の藤原朝臣小黒麻呂を兼務で中務卿、參議の佐伯宿祢今毛人を皇后宮大夫・大和守のままで民部卿、紀朝臣安提(本に併記)を少輔、紀朝臣作良を兵部大輔、内藏宿祢全成(忌寸。黒人に併記)を大藏大輔、石川朝臣垣守を武藏守のままで宮内卿、坂上大宿祢苅田麻呂(忌寸。犬養に併記)を右衛士督・下総守のままで左京大夫、賀茂朝臣人麻呂を亮、石川朝臣豊人を右京大夫、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を兼務で大宰帥、紀朝臣千世(大宅に併記)を豊後守、左中弁の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を山背守のままで左兵衛督に任じている。十六日に秦忌寸馬長(足長に併記)を土佐守に任じている。
十七日に刑部卿で因幡守を兼任する淡海眞人三船が亡くなっている。「三船」は大友親王(天智天皇の皇子)の曽孫であった。祖父の「葛野王」は式部卿であり、父の「池邊王」は内匠頭であった(こちら参照)。「三船」の性質は奏鳴鋭敏で、多くの書物に博く目を通し、大変書を書くことを好んだ。天平寶字元(757)年に、「淡海眞人」の氏姓を賜り、官途に就いて式部少丞に任ぜられ、しきりに転任して、寶字年間には従五位下を授けられ、式部少輔や参河守・美作守を歴任した。八年には、造池使に任命され、近江國に行って溜池を修造した。その時、「惠美仲麻呂」(藤原仲麻呂)は宇治から逃走して近江を根拠地として、先ず使者を派遣して兵と馬を徴発させた。
「三船」は勢多にあって造池使判官の佐伯宿祢三野(今毛人に併記)と共に、賊の使とその一味の者達を捕縛した。間もなく将軍の日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)・佐伯宿祢伊達(伊多治)等が騎兵を率いて到着し、勢多橋を焼いて遮断したので賊は川を渡ることができず、高嶋郡に逃走した。その功績によって正五位上・勲三等を授けられ近江介に任ぜられた。
その後中務大輔兼侍従に転任し、間もなく東山道巡察使に任ぜられた。出向いて地方の事情を尋ね集め、事が終わって後に報告の奏上をしたところ、評定が公平でなく、はなはだ天皇の考えに背いていたので、勅によって責め咎められ、大宰少貮に転出させられた。その後刑部大輔に転任し、大判事・大学頭兼文章博士を歴任し、寶龜末年に従四位下に任ぜられ刑部卿兼因幡守に任ぜられた。卒した時、六十四歳であった。
二十七日に次のように勅されている・・・釈尊の教えは深遠で、その道を伝えるのは僧侶である。天下が安寧であるのも、思えばその教えの不思議な力によるものであろう。そうであるから僧であれ尼であれ、徳があり修行を積んでいる人物を褒め称え顕彰しなければ、どうして仏道を弘めることができようか。担当の役所に命じて、倦まず弛まず修行し法燈を伝えている者を選び、その品行・年齢・氏名を詳しく注記し上申させよ・・・。
また、次のように勅されている・・・長岡宮の造営は止むを得ない任務なので、使役される人夫にはその功賃を支給すべきである・・・。そこで諸國の人民三十一万四千人を、各自の意志に従い雇用している。
二十一日に賀茂朝臣人麻呂を齋宮頭に任じている。二十四日に次のように勅されている・・・そもそも正税は運営の財源であり、水害や旱魃への備えである。ところが近年、國司の中には一時的に利潤を貪って正税を費やし用いる者が多い。官物が減少し米藏が充満しないのは、主としてこれが原因である。---≪続≫---
今後は、厳しく禁止せよ。國司の中で、もし一人でも犯し用いる者があれば、他の國司も同様に罪に問い、いずれも現職を解いて永く任用してはならない。不正に得た物品も、ともに返し納めさせよ。死罪を赦免したり恩赦で許したりする範囲に入れてはならない。お互いに検察して違反してはならない。郡司が同調し、許す場合も罪は國司と同じとする・・・。
二十八日に土左國から貢進された調は、その時期が誤っており、物品も粗悪である。勅されて、國司の目以上をみな解任している。二十九日に高篠連廣浪(衣枳首)を左大史、藤原朝臣眞鷲(❹)を大学頭、「井上直牛養」を主計助、伊蘇志臣眞成(総麻呂に併記)を主船正、安倍朝臣東人(廣人に併記)を刑部卿、多朝臣犬養を大輔、巨勢朝臣家成(宮人に併記)を主殿頭、坂本朝臣大足(繩麻呂に併記)を官奴正、甘南備眞人繼成(繼人。清野に併記)を右京亮、石浦王(❽)を主馬頭、三嶋眞人大湯坐(大湯坐王⑮)を參河介、笠朝臣雄宗(始に併記)を能登守、藤原朝臣宗繼(宗嗣❶)を因幡守、大村直池麻呂を介、布勢朝臣大海を美作介に任じている。「三野臣廣主」に外從五位下を授けている。物を献上したからである。
「井上直」は、初見の氏姓である。しかも既に外従五位下を叙爵されており、その記述も欠落しているようである。一方、井上忌寸一族としては、麻呂・蜂麻呂が既に登場している。
阿智使主を遠祖とする東漢等の派生氏族であり、河内國志紀郡、現地名は行橋市二塚辺りを居処としていたと推測した。彼等は「直」姓で後に「忌寸」姓を賜ったと述べられている。少し前に、その一部は、更に「宿祢」姓を賜っている。
おそらく同族なのだが別系列であって、賜姓時には埋もれていたのではなかろうか。と言うことで、近隣で名前の牛養=牛の頭部のような谷間がなだらかに広がっているところと解釈して、出自の場所を求めると図に示した辺りと推定される。
「井上忌寸(宿禰)」の氏姓の人物は「蜂麻呂」以後には登場することはなく、また、「井上直」としては「牛養」が、この後尾張介を任じられたと記載されるのみである。
「三野臣」は、續紀中初見の氏姓であるが、書紀の応神天皇紀に「吉備武彥」の子、「御友別」が「三野臣」の祖と記載されている。具体的な人物は、その後に登場することもなく、詳細は不明のままであった。
また、古事記には関連する記述はなく、今回登場の「廣主」がその系列に属するかは定かではないが、名前が示す地形から出自の場所を推定してみよう。
既出の文字列である三野=野原が三つ並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。現地名は下関市吉見上である。南~東側には「葛井連(元は白猪史)」(こちら、こちら参照)一族が蔓延っていた地である。
名前の廣主=真っ直ぐ延びる山稜の前が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。勿論、この地域を出自とする人物は未だかつて登場したことはなかった。
後に采女の三野臣淨日女が従五位下を叙爵されて登場する。淨日=[日]のような地の前の水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいるところと解釈され、図に示した場所が出自と推定される。その東隣は鑑眞大和上の招聘に尽力した普照法師の出自場所とした。
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古事記では、倭建命東征に随行したのは御鉏友耳建日子と記載され、「武彥」と同一人物のように受け取られているようだが・・・。
名前が表す出自の場所からすると「建日子」は「御友別」と同じ人物だったと思われる。共に「吉備臣之祖」(「御友別」:上道臣・下道臣・三野臣等の祖)と記されている。
書紀が古事記とは異なるように記述した理由は定かではないが、地形象形表記のルールはきちんと守られているようである。尚、時代が進んで、息長日子王が祖となった吉備品遲君や續紀の称徳天皇紀に記載された息長借鎌の出自場所は、彼等の南に接する場所であったと思われる。
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八月癸亥朔。右京人土師宿祢淡海。其姉諸主等。改本姓賜秋篠宿祢。己巳。授從四位上藤原朝臣雄依正四位下。從四位下石川朝臣豊人。安倍朝臣東人。佐伯宿祢久良麻呂並從四位上。從五位下藤原朝臣是人。藤原朝臣雄友。藤原朝臣内麻呂並從五位上。外從五位下朝原忌寸道永。正六位上多治比眞人國成。笠朝臣江人並從五位下。丙子。從五位上多治比眞人濱成爲右中弁。從五位上安倍朝臣廣津麻呂爲皇后宮大進。外從五位下阿閇間人臣人足爲少進。外從五位下林連浦海爲大属。從五位下笠朝臣江人爲式部少輔。從五位下大伴宿祢眞麻呂爲主税頭。從五位下下毛野朝臣年繼爲内掃部正。從四位下大伴宿祢潔足爲近衛中將。從五位上藤原朝臣内麻呂爲中衛少將。外正五位下丹比宿祢眞淨爲右衛士佐。從五位上藤原朝臣眞作爲石見守。從五位下石川朝臣宿奈麻呂爲周防守。」授從五位下羽栗臣翼從五位上。正六位上多治比眞人屋嗣從五位下。正六位上國中連三成。外正六位上丹波直人足並外從五位下。乙酉。授從七位上大秦公忌寸宅守從五位下。以築太政官院垣也。」外從五位下土師宿祢公足爲隱岐守。丙戌。天皇行幸平城宮。先是。朝原内親王齋居平城。至是齋期既竟。將向伊勢神宮。故車駕親臨發入。庚寅。中納言從三位大伴宿祢家持死。祖父大納言贈從二位安麻呂。父大納言從二位旅人。家持天平十七年授從五位下。補宮内少輔。歴任内外。寳龜初。至從四位下左中弁兼式部員外大輔。十一年拜參議。歴左右大弁。尋授從三位。坐氷上川繼反事。免移京外。有詔宥罪。復參議春宮大夫。以本官出爲陸奥按察使。居無幾拜中納言。春宮大夫如故。死後廿餘日。其屍未葬。大伴繼人。竹良等殺種繼。事發覺下獄。案驗之。事連家持等。由是追除名。其息永主等並處流焉。
八月一日に右京の人である「土師宿祢淡海」とその姉の「諸主」等に元の姓を改めて「秋篠宿祢」の氏姓を賜っている。七日、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)に正四位下、石川朝臣豊人・安倍朝臣東人(廣人に併記)・佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)に從四位上、藤原朝臣是人・藤原朝臣雄友(❷)・藤原朝臣内麻呂(❻)に從五位上、朝原忌寸道永(箕造に併記)・「多治比眞人國成」・笠朝臣江人(眞足に併記)に從五位下を授けている。
十四日に多治比眞人濱成(歳主に併記)を右中弁、安倍朝臣廣津麻呂を皇后宮大進、阿閇間人臣人足を少進、林連浦海(雑物に併記)を大属、笠朝臣江人(眞足に併記)を式部少輔、大伴宿祢眞麻呂を主税頭、下毛野朝臣年繼を内掃部正、大伴宿祢潔足(池主に併記)を近衛中將、藤原朝臣内麻呂(❻)を中衛少將、丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)を右衛士佐、藤原朝臣眞作(❸)を石見守、石川朝臣宿奈麻呂を周防守に任じている。また、羽栗臣翼に從五位上、「多治比眞人屋嗣」に從五位下、國中連三成(公麻呂近隣)・丹波直人足(廣麻呂に併記)に外從五位下を授けている。
二十三日に「大秦公忌寸宅守」に従五位下を授けている。太政官院の垣を築いたからである。また、土師宿祢公足を隠岐守に任じている。二十四日に平城宮に行幸されている。それ以前から朝原内親王(八千代女王に併記)は平城に居て潔齋していたが、ここに潔齋の期間が既に終わって伊勢神宮に向かおうとしていた。そのため天皇が自ら立会い、内親王は伊勢に向けて出発している。
二十八日に中納言の「大伴宿祢家持」が亡くなっている。祖父は大納言で従二位を贈られた「安麻呂」、父は大納言・従二位の「旅人」であった(こちら、こちら参照)。「家持」は天平十七(745)年に従五位下を授けられて宮内少輔に任ぜられ、以後中央・地方官を歴任した。寶龜の初め、従四位下・左中弁兼式部員外大輔に官に至った。
十一(780)年に参議に任ぜられ、左右大弁を経て、間もなく従三位を授けられた。氷上川繼の謀反の事件で罪に問われ、免官されて京外に移された。その後詔があって赦されて参議・春宮大夫に復した。また、本官のまま京を出て陸奥按察使に任ぜられた。その後間もなく中納言に任ぜられたが、春宮大夫は元のままであった。
死後二十日余り後、屍がまた埋葬されないうちに、大伴繼人・竹良等が藤原種繼を殺害し、そのことが発覚して投獄されたが、取り調べてみると「家持」等も関係していた。そこで遡って除名とされた。その息子の永主等はいずれも流罪に処せられた。
現住所が「右京」、本籍が「土師」、その中でも「秋篠」の地を出自とする人々だったのであろう。桓武天皇紀の初めに土師宿祢安人等が「秋篠宿祢」の氏姓を賜っていた。
「土師宿祢古人」等が賜った「菅原宿祢」と同じく「野見宿祢」を始祖とする一族だ、と主張して認められていた(こちら参照)。
頻出の文字列である淡海=水辺で母が両腕で子を抱くように延びた山稜の前に[炎]のような地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「安人」の谷間の先にある場所である。
姉の諸主=真っ直ぐに延びた山稜の前で耕地が交差しているところと解釈される。地形の凹凸が僅かで判別し辛いが、おそらく図に示した場所辺りを出自としていたのであろう。共にこの場限りの登場のようである。
「多治比眞人」一族は、途絶えることなく連綿と人材輩出である。高位に就いたのは長野(従三位・参議)ぐらいであろう。他は下級官吏としての役割だったようである。
今回登場の二名も、後者が後に従五位下の爵位で主鷹正に任官されたと記載されるのみである。いずれにせよ、現地名の行橋市津積周辺を出自としていたには違いなかろう。
既出の文字列である國成=取り囲まれた地が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。川邊の窪んだ地形の場所である。
同様に屋嗣=山稜の延び至った先で谷間が縊れたようになっているところと解釈すると、その地形を図に示した場所に見出せる。まだまだ、輩出は途絶えないようであるが、ご登場の時に・・・。
「大秦公忌寸」は、記紀・續紀を通じて初見の氏姓であるが、後に「濱刀自女」が登場し、その出自が伊豫國神野郡であったことが知られている。
当該郡には既に賀茂伊豫朝臣・大直一族の居処があったと記載されていた。どうやら彼等の合間を補う場所を表しているようである。
既出の文字列である大秦公=平らな頂の麓で稲穂のような山稜が延び出た先に小高い地があるところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。名前の宅守=延び出た山稜の麓に両腕で囲むような地があるところと解釈すると、図の場所辺りが出自と推定される。
延暦十(791)年正月に「大秦公忌寸濱刀自女賜姓賀美能宿祢。賀美能親王之乳母也」と記載されている。濱刀自=水辺の近くで山稜の端が[刀]の形になっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。賜姓の賀美能=押し拡げられた大きな谷間の隅にあるところと解釈され、別表記となっている。
また、”神野”の訓に重ねられた表記でもあろう。後に采女正となる人物である。「賀美能親王」は、後の嵯峨天皇となり、諱回避で神野郡を「新居郡」に改名されることになる。乳母の名前を採ったのではなく、その地で養育されたのである。尚、”新居”は、”大秦公”の地形の別表記である。