今皇帝:桓武天皇(10)
延暦四年(西暦785年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
夏四月乙丑朔。授正六位上丸部臣董神外從五位下。辛未。中納言從三位兼春宮大夫陸奥按察使鎭守將軍大伴宿祢家持等言。名取以南一十四郡。僻在山海。去塞懸遠。属有徴發。不會機急。由是權置多賀。階上二郡。募集百姓。足人兵於國府。設防禦於東西。誠是備預不虞。推鋒万里者也。但以。徒有開設之名。未任統領之人。百姓顧望。無所係心。望請。建爲眞郡。備置官員。然則民知統攝之歸。賊絶窺窬之望。許之。己夘。授大初位下日下部連國益外從五位下。以獻稻船瀬也。丁亥。從五位上紀朝臣作良爲造齋宮長官。癸巳。宮内卿從四位上石川朝臣垣守爲兼武藏守。
四月一日に「丸部臣董神」に外従五位下を授けている。七日に中納言の春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍を兼任する大伴宿祢家持等が以下のように言上している・・・名取郡より南の十四郡は、遠く山や海にあり、塞(砦)から遥かに遠く離れている。そこで人民を徴発して事に当たろうとしても機急の間に合わない。このために仮に「多賀・階上」の二郡を設置し、人民を募集し、人民と兵士を國府に集めて、東西を防禦する構えを設けた。まことにこれは、あらかじめ思いがけない事変に備えて、防衛の鋒を万里の遠くにまで推し進めるものである。ただ、思うに、いたずらに郡を開設するというだけで、統領する人を任用していなく、人民が周りを見回しても心のよりどころがない。真の郡を建てて、正規の官員を備え置くことを要望する。そうすれば人民は指揮権のありかを知り、賊徒は隙を伺う望みを失くしてしまうであろう・・・。これを許可している。
「丸部臣」は、續紀の文武天皇紀に丸部臣君手(書紀では和珥部臣)が『壬申の乱』の功臣として七階級特進したと記載されていた。
また、元正天皇紀には、その子孫に賜田されていた。称徳天皇紀に一族の宗人が宿祢姓を賜っているが、その後に「丸部宿祢」氏姓の人物の記載はない。
一方、光仁天皇紀に讃岐國三野郡を居処とする「豊捄」が私物で貧民を養って叙位されたり、その後に「須治女」が外従五位下を叙爵されていた(こちら参照)。おそらく今回登場の人物は、彼等一族と思われる。
董神の「董」=「艸+東+人+土」と分解され、地形象形的には董=端が細かく岐れた盛り上がった地が谷間を突き通すように延びている様と解釈される。頻出の神=示+申=高台が長く延びている様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。関連する情報もなく、この後に登場することはないようである。
称徳天皇紀に「名取郡」を居処とする人物が登場している。具体的には、「名取公龍麻呂」(名取朝臣を賜姓)及び「吉弥侯部老人」(上毛野名取朝臣を賜姓)の二名であった(こちら参照)。
上記本文では十四郡があるとされているが、具体的な郡名は、その約半分であった。海に面した山岳地帯であって、機急の事態に対応するには不都合な地域であることには違いない。”陸奥”(古事記では道奥)の表記の由来であるように、この山岳地帯によって”寸断”されていたのである。
ここで登場の二郡である多賀郡の多賀=山稜の端が谷間を押し拡げるように延びているところ、階上郡の階上=段々になった山稜の麓で盛り上がっているところと解釈すると、各々の場所を図に示したように推定することができる。尚、この地の地形変形が凄まじく国土地理院航空写真1974~8年を用いた。
「多賀郡」については、通説では多賀城(柵)があった地とされるが、全くの見当違いであろう。上記本文に基づくと、「多賀城」の北方に「名取郡」があったことになり、結局この郡の所在が曖昧な状況に陥っているようである。
「日下部連」は、称徳天皇紀に「虫麻呂」が登場し、その後河内國河内郡の人である無姓の「意卑麻呂」が「日下部連」氏姓を賜り、更に後に宿祢姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。
目まぐるしく賜姓の記述があったのだが、別系統である日下部宿祢とは異なる地を居処としていた一族と推測された。
錯綜としているが、おそらく、今回登場の人物は「虫麻呂」系統に属してのではなかろうか。居処は、河内國河内郡であり、現地名の京都郡みやこ町勝山宮原辺りと思われる。
名前の國益=取り囲まれた地が谷間に挟まれて平らに小高く広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。書紀の天武天皇紀に記載された龍田立野の近隣と思われる。河内國と飛鳥を繋ぐ峠道(現在の味見峠)の谷間の出入口に当たる場所である。その場所に船瀬(船泊)が造られていたと推測される。
五月乙未朔。左京人從六位下丑山甘次猪養賜姓湯原造。丁酉。詔曰。春秋之義。祖以子貴。此則典經之垂範。古今之不易也。朕君臨四海。于茲五載。追尊之典。或猶未崇。興言念此。深以懼焉。宜追贈朕外曾祖贈從一位紀朝臣正一位太政大臣。又尊曾祖妣道氏曰太皇大夫人。仍改公姓爲朝臣。」又臣子之礼。必避君諱。比者。先帝御名及朕之諱。公私觸犯。猶不忍聞。自今以後。宜並改避。於是改姓白髪部爲眞髪部。山部爲山。戊戌。右京人從五位下昆解宿祢沙弥麻呂等。改本姓賜鴈高宿祢。癸丑。先是。皇后宮赤雀見。是曰。詔曰。朕君臨紫極。子育蒼生。政未洽於南薫。化猶闕於東戸。粤得参議從三位行左大弁兼皇后宮大夫大和守佐伯宿祢今毛人等奏云。去四月晦日。有赤雀一隻。集于皇后宮。或翔止廳上。或跳梁庭中。皃甚閑逸。色亦奇異。晨夕栖息。旬日不去者。仍下所司。令検圖牒。孫氏瑞應圖曰。赤雀者瑞鳥也。王者奉己儉約。動作應天時則見。是知。朕之庸虚。豈致此貺。良由宗社積徳。餘慶所覃。既叶舊典之上瑞。式表新色之嘉祥。奉天休而倍惕。荷靈貺以逾兢。思敦弘澤以答上玄。宜天下有位。及内外文武官把笏者賜爵一級。但有蔭者。各依本蔭。四世五世。及承嫡六世已下王年廿以上。並叙六位。又五位已上子孫年廿已上。叙當蔭階。正六位上者免當戸今年租。其山背國者。皇都初建既爲輦下。慶賞所被。合殊常倫。今年田租。特宜全免。又長岡村百姓家入大宮處者。一同京戸之例。甲寅。從五位上淨原王爲右大舍人頭。從四位上藤原朝臣雄依爲大藏卿。從四位上大中臣朝臣子老爲宮内卿。神祇伯如故。正四位下神王爲禪正尹。從五位上海上眞人三狩爲大宰少貳。從五位下百濟王英孫爲陸奥鎭守權副將軍。戊午。勅曰。貢進調庸。具著法式。而遠江國所進調庸。濫穢不堪官用。凡頃年之間。諸國貢物。麁惡多不中用。准量其状。依法可坐。自今以後。有如此類。専當國司。解却見任。永不任用。自餘官司。節級科罪。其郡司者加决罸以解見任。兼斷譜第。己未。勅曰。出家之人本事行道。今見衆僧。多乖法旨。或私定檀越。出入閭巷。或誣稱佛驗。詿誤愚民。非唯比丘之不愼教律。抑是所司之不勤捉搦也。不加嚴禁。何整緇徒。自今以後。如有此類。擯出外國。安置定額寺。庚申。遣使五畿内祈雨焉。辛酉。地震。」周防國飢疫。賑給之。壬戌。授正六位上百濟王元基從五位下。
五月一日に左京の人である「丑山甘次猪養」に「湯原造」の氏姓を賜っている。三日、次のように詔されている・・・『春秋』には祖は子によって貴くなるという意味のことがみえるが、これは聖人の書に示された模範であり、古今に変わることのないものである。朕は君主として天下を治めてここに五年になるが、未だに祖先を崇めて尊い地位・称号を追贈する礼を行っていない。このことを思うと、まことに懼れ多いことである。---≪続≫---
そこで朕の外曽祖である贈従一位の紀朝臣諸人(古麻呂に併記)に正一位・太政大臣を追贈せよ。また曽祖母(「諸人」の室)である「道氏」(道公参照)を尊んで太皇大夫人と申し上げ、公姓を改めて朝臣姓とせよ。また、臣下は必ず君の諱を避けるのを礼とするが、この頃、先帝の御名と朕の諱は、公でも個人でも人名や地名に用いて抵触し犯されている。やはり聞くに忍びないことである。今後は諱に触れるような名は全て改めて避けるようにせよ・・・。そこで白髮部という姓を改めて眞髪部とし、山部を山としている。
四日に右京の人である「昆解宿祢沙弥麻呂」等の本姓を改めて「鴈高宿祢」の氏姓を賜っている(こちら参照)。
十九日、これより以前に、皇后宮に「赤雀」が現れた。この日、次のように詔されている・・・朕は君主として帝位にのぞんで、人民を子として育んでいるが、その政治は南からの薫風のように普く行き渡らず、徳化に欠けて昔の聖人の東戸の時代には及ばない。ここに参議・行左大弁で皇后宮大夫・大和守を兼ねる佐伯宿祢今毛人等の奏上によると、去る四月の晦日、一羽の「赤雀」が皇后宮にいて、建物の上に飛び上がったり、庭の中で飛び跳ねたりしており、大変雅やかでのびのびとした様子で、色も珍しく、朝夕住み、十日の間そこを去らなかったということである<下記参照>。---≪続≫---
そこで所轄の役所に命令して図諜を調べさせたところ、『孫子瑞応図』に[赤雀は瑞鳥である。王者が自ら倹約につとめ、その動作が天の巡り合わせに適った時に出現する]とあった。どうしてこのような賜り物を招致できようか。それはまことに先祖が積み上げた德と、その余りの善が子孫に及んだからであるとわかる。いまや、古典に見えている上瑞に当たっており、色も真新しい目出度いしるしを表している。天の称賛を受けてますます恐れ慎み、霊妙な賜り物を頂いていよいよ恐れ戒めている。広い恵みを厚くして、天に応えたいと思う。---≪続≫---
そこで天下の有位者と、内外の文武官で笏をとる者に、位一級を与える。ただし、蔭位の該当者にそれぞれ本来の蔭位に従って授位せよ。四世・五世の王と、嫡系の六世以下の王のうち、年二十以上の者には、みな六位を授けよ。また五位以上の者の子や孫で、年二十以上の者には、該当する蔭位の位階を授けよ。正六位上の者には、その戸の今年の租を免除せよ。そもそも山背國は皇都が初めて置かれたのであるが、既に天子のお膝元であるから、褒美を授けるのは普通と異なるべきである。今年の田租を特別に全免せよ。また長岡村の人民の家で宮城内に入り他に遷された者は、全て京戸と同様に扱え・・・。
二十日に淨原王(長嶋王に併記)を右大舍人頭、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を大藏卿、大中臣朝臣子老を神祇伯のままで宮内卿、神王(❸)を禪正尹、海上眞人三狩(三狩王)を大宰少貳、百濟王英孫(②)を陸奥鎭守權副將軍に任じている。
二十四日に次のように勅されている・・・調・庸を貢進することについては、詳しく法律の条文に見えている。ところが遠江國より進上した調・庸は品質が悪くて汚れているので、官での使用に堪えない。およそ近年は諸國の貢進物が粗悪で多くは使用に適合しない。その状態に応じ法律によって罪を問うべきである。今後このようなことがあれば、担当の國司の現職を解き、永く任用しないことにする。その他の官司は等級を設けて罪を科せ。郡司は処罰して現職を解くと共に、郡司任用資格の家柄としての系譜を廃止する・・・。
二十五日に次のように勅されている・・・出家の人の本来の務めは、仏道の修行に専念することである。今多くの僧を見ると、仏法の趣旨に背くことが多く、勝手に檀越を定めて村里に出入したり、仏の霊験と偽り称して愚かな人民を欺き誤らせたりしている。ただ比丘が教えや戒律を重んじないからだけでなく、担当の役所が捕らえようと努めないからである。厳しく禁止しなければ、どうして僧侶を整えることができようか。今後、もしこのようなことがあれば、畿外の國に退け、定額寺に安置せよ・・・。
二十六日に使者を畿内五ヶ國に派遣して降雨を祈らせている。二十七日に地震が起こっている。また、周防國に飢饉と疫病が起こったので物を恵み与えている。二十八日に百濟王元基(②-❸)に従五位下を授けている。
「丑山甘次」の氏名に関する情報は、皆無のようである。渡来系の人物が”和風”に称したようにも思われ、左京を居処としていたのであろう。
また、「丑」の文字が名前に用いられているは初見であろう。これも渡来人を祖とすることを表しているように推察される。「丑」=「手で物つかむ様」と解説されている。
丑山甘次=手で物をつかむように山稜が[山]の形に延びて大きく口を開いたような谷間から[舌]の形の山稜が延び出ているところと読み解ける。この地形を図に示した場所に見出せる。昆解宿祢(雁高宿禰)や韓遠智(中山連)等の東側の場所である。
名前の猪養=なだらかな谷間の前で平らな山稜が交差するように延びているところと解釈すると、出自の場所は図に示したところと推定される。左右京の境界線からほんの僅か左京側に入った場所である。直後に”右京人”昆解宿祢に雁高宿祢を賜姓しているが、平城宮の左右京であることを示している。
賜った湯原造の湯原=水が飛び跳ねるように流れる谷間の麓が平らに広がっているところと解釈すると、この地の地形の一側面を表していることが解る。がしかし、「丑山」の地形象形表記は極めて貴重であろう。
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佐伯宿祢今毛人等の言上である「皇后宮赤雀見 有赤雀一隻。集于皇后宮。或翔止廳上。或跳梁庭中。皃甚閑逸。色亦奇異。晨夕栖息。旬日不去者」は、読み下せば上記のように訳すことができるであろう。
赤雀は、由緒正しき瑞祥のなのであるが、実在とするには些か心許ない鳥であろう。勿論、長岡宮周辺の地形を述べているのである。それにしても、益々難解になって来ているように感じられる。
①赤雀見:平らな頂の麓に[火]の形に山稜が延びた長い谷間の上に[雀]のような地があり
②有赤雀一隻:その[赤雀]の前にある山稜の端の三角州が[鳥]の形をした山稜を一つに束ねている
③集于皇后宮:延び出た山稜が集まったところに皇后宮がある
④或翔止廳上:谷間に[羽]のように延びた山稜が揃って並び山麓に四角く区切られた地が盛り上がっているところから
⑤或跳梁庭中:足を大きく開いたような山稜の端を跨ぐような山稜が平らに広がった地を突き通すしているところまで
⑥皃甚閑逸:丸く小高い地から広がる谷間に[舌]のような山稜が狭い門のように並んだところから抜け出ている
⑦色亦奇異:渦巻くように小高くなった地の脇に谷間があり両手を上げるように延びた山稜の前が尖っている
⑧晨夕栖息:太陽のような地から[舌]のような山稜が延びて開いた谷間の前で[笊]の形になっている
⑨旬日不去者:太陽のような地の前で[炎]のような山稜が[く]の字形に曲がって[不]のように広がり窪んた谷間が交差するようになっているところ
と解釈される。若干の文字解釈の補足をすると、「雀」=「少+隹」=「小さな頭の鳥」、「皃」=「白+儿」=「丸く小高い地から谷間が長く延びている様」、「甚」=「甘+匹」=「[舌]のような山稜が揃って延び出ている様」、「栖」=「木+西」=「山稜が[笊]のような形をしている様」、「旬」=「日+勹」=「[炎]のような山稜が[く]の字形に曲がっている様」である。
大枝山陵 後に皇太后(高野新笠)が埋葬された場所が大枝山陵と記載されている。大枝=平らな頂の山陵が岐れて延びたところと解釈すると、図に示した場所を表していると思われる。皇太后の母親が大枝朝臣眞妹(旧土師宿祢)であることから、様々に論説されているが、類似する”大枝”の地形があった、それぞれの場所であろう。
長岡山陵 引き続いて皇后(藤原朝臣乙牟漏)が三十一歳で亡くなっている。些か不穏な雰囲気が漂うことになったようである。埋葬された場所が長岡山陵と記載されている。確定し辛い表記であるが、図に示した辺りかと思われる。
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六月乙丑。出羽。丹波。年穀不登。百姓飢饉。並賑給之。癸酉。勅曰。去五月十九日。縁皇后宮有赤雀之瑞。普賜天下有位爵一級。但宮司者是祥瑞出處也。當加褒賞以答靈貺。宜宮司主典已上不論六位五位進爵一級。」右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因神牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望請。改忌寸蒙賜宿祢姓。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。辛巳。右大臣從二位兼中衛大將臣藤原朝臣是公等。率百官上慶瑞表。其詞曰。伏奉去五月十九日勅。比者。赤雀戻止椒庭。既叶舊典之上瑞。式表新色之嘉祥。思與天下喜此靈貺者。臣等生逢明時。頻沐天渙。欣悦之情。實倍恒品。臣聞。徳動天地。無遠不臻。至誠有感。在幽必逹。伏惟。皇帝陛下。道格乾坤。澤沾動植。政化以洽。品物咸亨。皇后殿下。徳超娥英。功軼姙姒。母儀方闡。厚載既隆。故能兩儀合徳。百靈効祉。白燕産帝畿以馴化。赤雀翔皇宮而表禎。稽驗圖牒。僉曰。休徴。斯實曠古殊貺。當今嘉祥。率土抃舞。莫不幸甚。臣是公等不勝踴躍之至。謹詣朝堂。奉表以聞。詔報曰。乾坤表貺。休瑞荐彰。白燕搆巣於前春。赤雀來儀於後夏。寔惟宗社攸祉。群卿所諧。朕之庸虚何應於此。但當与卿等。勉理政化。上答天休。省所來賀。祗懼兼懷。是日。授皇后宮大夫從三位佐伯宿祢今毛人正三位。亮從五位上笠朝臣名末呂正五位下。大進從五位下藤原朝臣眞作。少進從五位下安倍朝臣廣津麻呂並從五位上。大属正六位上阿閇間人臣人足。少属正六位上林連浦海並外從五位下。癸未。參議兵部卿從三位兼侍從下総守藤原朝臣家依薨。贈太政大臣正一位永手之第一子也。
六月二日に出羽・丹波の國の穀物が稔らず、人民が飢饉で苦しんだので、それぞれ物を恵み与えている。十日に次のように勅されている・・・去る五月十九日に、皇后宮に赤雀が現れるという祥瑞があったので、広く天下の有位者に位を一級与えた。但し皇后宮の司は、祥瑞の出現した場所であるので、さらに褒賞を与えて、優れた天の賜物に答えるべきである。そこで皇后宮職の主典以上に対して、六位であれ五位であれ、位を一級進めよ・・・。
また、右衛士督で下総守を兼任する坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)等が上表文を奉って以下のように言上している・・・臣下である私共は、元は後漢の霊帝の曽孫にあたる阿智王の後裔である。漢の天子の位が魏に遷った時、阿智王は神牛お教えに従って中国を出て朝鮮の帯方の地に行ったところ、たちまちに寶帯の祥瑞を得た。その形は宮城に似ていたので、帯方に國をつくってその人民を養育した。その後、父や兄を召して、[私は東の國に聖人の君主がいると聞いているが、どうして行って従わないでおられようか。もしこの地に長く居たならば、おそらく滅亡してしまうであろう]と告げた。---≪続≫---
そして母の弟の迂興德、及び七つの姓をもつ人民を伴い、徳化に帰して来朝した。これは誉田天皇(応神天皇)が天下を治めておられた時代のことであった。そこで阿智王は奏上し、[私の旧居は帯方にあり、そこの人民は男女を問わず全て才藝を持っているが、近頃は百濟と高麗の間に挟まれて住むことになり、その地を去ろうかどうか心が定まらずためらっている。どうか天皇の恵みによって、使者を派遣して招き寄せるよう、お願いする]と申請した。---≪続≫---
そこで勅されて臣下を阿智王の八つの分家に遣わし、手分けして出発させた。人民の男女jは村落こぞって使者に従い、全て来朝し、永く公民となった。それから多くの年月が経ち、何代にもわたって今に至っている。今諸國にいる漢人もまたその後裔である。ところが臣下である「苅田麻呂」等は、先祖の王族の姓を失って下級の人の卑しい姓を授けられている。---≪続≫---
どうか忌寸姓を改め、宿祢姓を賜りますように、また天子が恩恵をもって憐れみ察せられるよう伏してお願い申し上げる。もし天子のお許しを賜るならば、いわゆる冷えた灰が再び暖かくなり、枯れた樹がまた茂るというたとえのようになる。臣下である「苅田麻呂」等は、望みを叶えて欲しいという真心を抑えることができない。それで上表文を奉って申し上げる次第である・・・。
詔されてこれを許可している。坂上(こちらも参照)・内藏・「平田」・大藏・文(こちらも参照)・調・文部・谷・民(こちらも参照)・佐太・山口(こちらも参照)等、十一の忌寸姓を持つ氏族の十六人に宿祢姓を賜っている。<「平田忌寸」については、後の延暦六(787)年六月に平田忌寸杖麻呂・蚊屋忌寸淨足等に宿祢姓を賜ったと記載されている>。
十八日に右大臣で中衛大将を兼任する臣下の藤原朝臣是公等は、百官を率いて祥瑞を喜ぶ上表文を奉ったが、その字句で以下のように述べている・・・伏して去る五月十九日の勅を承ったところ、[近頃、赤雀が皇后宮に来て留まっていたが、これは古典にみえる上瑞に当たっており、色も真新しいめでたいしるしを表している。この霊妙な賜り物を天下の人々と共に喜びたいと思う]とある。---≪続≫---
臣下である私どもは、よく治まった御代に生まれ、盛んに天子の恩恵にあずかり、悦びの気持ちは実に普通の物の倍にも当たる。天子の徳が天地を動かす時は、遠くであっても届かないということはなく、至誠が感応する時には、冥界にも必ず達すると聞いている。伏して思うに、皇帝陛下は、その政道は天地の法則にのっとり、その恩恵は動・植物を潤し、政治の教化は広く行き渡り、万物全てその恩恵を受けている。---≪続≫---
また、皇后殿下は、その德が娥皇・女英を越え、その功は太姙・太姒よりも優れており、人の母の手本として立派で、大地が厚く物を載せるような德が豊かである。故に陰陽の徳が合わさり、諸神が幸福を授けて下さったのである。昨年は白燕が畿内に生まれて徳化に馴れ、今赤雀が皇宮に飛び翔って、幸いを表している。図諜に照らして考え調べてみると、みなめでたいしるしである。---≪続≫---
これはまことに、昔からあったためしのない特別の賜り物であり、当今のめでたいしるしである。全ての人々が喜んで手を打って舞い、これ以上の大変な幸いはないとしている。臣下である「是公」等は、小踊りするほどの喜びに耐えられず、謹んで朝堂に参上して、上表文を奉って申し上げる次第である・・・。
これに応えて、次のように詔されている・・・天地が賜り物をあらわして、めでたいしるしがしきりに出現している。白燕は巢を去年の春に作り、赤雀は今年の夏によい姿でやって来た。まことにこれは祖先や國土の神の与えてくれた幸福であり、多くの重臣が心を合わせた結果である。凡庸で無能な朕は、どうしてこれに応えることができようか。ただ卿等と共に政治の指導に努めて、天の下さった幸いに答えるべきである。祝いを述べて来たのを顧みて、慎みと恐れを心に併せ抱くものである・・・。
この日、皇后宮大夫の佐伯宿祢今毛人に正三位、亮の笠朝臣名末呂(賀古に併記)に正五位下、大進の藤原朝臣眞作(❸)と少進の安倍朝臣廣津麻呂に従五位上、大属の「阿閉間人臣人足」と少属の林連浦海(雑物に併記)に外従五位下を授けている。二十日に参議・兵部卿で下総守を兼任する藤原朝臣家依が薨じている。太政大臣「永手」の第一子であった。
「阿閉」の地名は、『壬申の乱』で勝利した天武天皇が凱旋帰京する行程で登場していた。「鈴鹿」と「名張」の中間に位置する場所であった(こちら参照)。
阿閇=台地が閉じ込められたようになっているところと解釈し、全体の台地南半分に当たる場所と推定した。既出の文字列である間人=門のような山稜に挟まれた谷間に山稜の端の三角州があるところと解釈される。図に示した場所にその地形を見出せる。
人足=人の足のように山稜の端が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後、昇進はないが、幾度か京官を任じられて登場している。