2024年9月8日日曜日

今皇帝:桓武天皇(9) 〔692〕

今皇帝:桓武天皇(9)


延暦四(西暦785年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月丁酉朔。天皇御大極殿受朝。其儀如常。石上。榎井二氏。各竪桙楯焉。始停兵衛叫閽之儀。是日。宴五位已上於内裏。賜祿有差。癸夘。宴五位已上。詔授正六位上多賀王從五位下。從四位上多治比眞人長野正四位上。從五位上文室眞人高嶋正五位下。從五位下藤原朝臣眞友。文室眞人於保。紀朝臣作良並從五位上。正六位上藤原朝臣葛野麻呂。甘南備眞人繼人。平群朝臣清麻呂。阿倍朝臣枚麻呂。佐伯宿祢繼成。小野朝臣河根。雀部朝臣虫麻呂。縣犬養宿祢繼麻呂。大宅朝臣廣江。高橋朝臣三坂。安曇宿祢廣吉。文室眞人大原。大伴宿祢蓑麻呂。紀朝臣廣足。紀朝臣呰麻呂並從五位下。秦忌寸馬長。白鳥村主元麻呂。伊蘇志臣眞成並外從五位下。乙巳。授從五位上川邊女王正五位下。從五位下三嶋女王從五位上。无位八千代女王從五位下。從四位上橘朝臣眞都賀。正四位下藤原朝臣諸姉。百濟王明信並正四位上。從四位下藤原朝臣延福。藤原朝臣人數。和氣朝臣廣虫。因幡國造淨成並從四位上。從五位上藤原朝臣綿手。正五位下武藏宿祢家刀自並正五位上。從五位下藤原朝臣春蓮。從五位上藤原朝臣勤子。田中朝臣吉備並正五位下。從五位下藤原朝臣祖子從五位上。无位平群朝臣竃屋。藤原朝臣慈雲。藤原朝臣家野。多治比眞人豊繼。外從五位下葛井連廣見並從五位下。外從五位下豊田造信女外從五位上。无位道田連桑田外從五位下。又授從五位上三嶋女王正五位下。庚戌。遣使堀攝津國神下。梓江。鯵生野。通于三國川。辛亥。以從五位下藤原朝臣弟友爲侍從。從五位下高橋朝臣御坂爲陰陽頭。從五位下伊勢朝臣水通爲内匠頭。從五位下藤原朝臣仲繼爲大學頭。從五位上中臣朝臣常爲治部大輔。從五位下縣犬養宿祢伯麻呂爲玄蕃頭。從五位下淺井王爲諸陵頭。正五位下粟田朝臣鷹守爲民部大輔。從五位下紀朝臣千世爲少輔。外從五位下奈良忌寸長野爲主税助。從四位下大伴宿祢潔足爲兵部大輔。從五位下藤原朝臣雄友爲少輔。美作守如舊。從五位上丈部大麻呂爲織部正。從五位上文室眞人忍坂麻呂爲木工頭。從五位下布勢朝臣大海爲主殿頭。從五位下平群朝臣清麻呂爲典樂頭。從四位下佐伯宿祢眞守爲造東大寺長官。外從五位下林忌寸稻麻呂爲次官。東宮學士如舊。從三位紀朝臣船守爲近衛大將。中宮大夫常陸守如故。從五位下佐伯宿祢老爲少將。相摸介如故。從四位下紀朝臣古佐美爲中衛中將。式部大輔但馬守如故。從五位下藤原朝臣宗繼爲少將。從五位下紀朝臣廣足爲衛門佐。從五位下縣犬養宿祢堅魚麻呂爲左衛士佐。正五位上安倍朝臣家麻呂爲左兵衛督。從五位下文室眞人大原爲右兵衛佐。從五位上三嶋眞人名繼爲内廐頭。正五位下多治比眞人人足爲主馬頭。正五位上巨勢朝臣苗麻呂爲河内守。從五位下大伴宿祢蓑麻呂爲介。少納言正五位下大中臣朝臣諸魚爲兼山背守。内廐頭從五位上三嶋眞人名繼爲兼介。從五位下紀朝臣呰麻呂爲伊勢介。從五位上淨村宿祢晋卿爲安房守。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂爲兼下総守。皇后宮大進從五位下安倍朝臣廣津麻呂爲兼常陸大掾。從五位上紀朝臣木津魚爲美濃守。從五位下藤原朝臣繩主爲介。從五位下大神朝臣船人爲上野守。從五位下和朝臣國守爲下野介。從五位上多治比眞人宇美爲陸奥守。從五位下佐伯宿祢鷹守爲越中介。正五位下葛井連道依爲越後守。春宮亮從五位上紀朝臣白麻呂爲兼伯耆守。從五位上多治比眞人年主爲出雲守。近衛將監外從五位下筑紫史廣嶋爲兼播磨大掾。從五位下笠朝臣雄宗爲美作介。從五位上百濟王仁貞爲備前守。東宮學士外從五位下林忌寸稻麻呂爲兼介。造東大寺次官如故。從五位上葛井連根主爲伊豫守。外從五位下秦忌寸長足爲豊前介。戊午。安房國言。以今月十九日。部内海邊。漂着大魚五百餘。長各一丈五尺以下。一丈三尺以上。古老相傳云。諸泊魚。癸亥。攝津國能勢郡大領外正六位上神人爲奈麻呂。近江國蒲生郡大領外從六位上佐佐貴山公由氣比。丹波國天田郡大領外從六位下丹波直廣麻呂。豊後國海部郡大領外正六位上海部公常山等。居職匪懈。撫民有方。於是。詔並授外從五位下。又授正六位下海上國造他田日奉直徳刀自外從五位下。」以從五位上小倉王。百濟王玄鏡。並爲少納言。從五位下藤原朝臣乙叡爲權少納言。正五位下大中臣朝臣諸魚爲左中弁。山背守如故。從五位下藤原朝臣園人爲右少弁。從五位上紀朝臣作良爲大藏大輔。外從五位下佐伯直諸成爲園池正。從五位上弓削宿祢大成爲西市正。從五位上中臣朝臣鷹主爲信濃守。從五位上日下部宿祢雄道爲豊前守。

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けられている。その儀式は常の通りであった。石上・榎井二氏は、各々桙と楯を立てている。初めて兵衛による叫閽之儀(宮門で叫び声をあげて邪霊を祓う儀式)を停止している。この日、五位以上と内裏で宴会し、それぞれに禄を賜っている。

七日に五位以上と宴会をしている。詔されて、多賀王()に從五位下、多治比眞人長野に正四位上、文室眞人高嶋(高嶋王)に正五位下、藤原朝臣眞友()・文室眞人於保(長谷眞人)・紀朝臣作良に從五位上、「藤原朝臣葛野麻呂」・甘南備眞人繼人(清野に併記)・平群朝臣清麻呂(久度神に併記)・阿倍朝臣枚麻呂(眞黒麻呂に併記)・佐伯宿祢繼成(古比奈に併記)・小野朝臣河根(田刀自に併記)・雀部朝臣虫麻呂(東女に併記)・縣犬養宿祢繼麻呂(堅魚麻呂に併記)・大宅朝臣廣江(吉成に併記)・高橋朝臣三坂(祖麻呂に併記)・安曇宿祢廣吉(諸繼に併記)・文室眞人大原(与伎に併記)・大伴宿祢蓑麻呂(眞綱に併記)・紀朝臣廣足・紀朝臣呰麻呂(難波麻呂に併記)に從五位下、秦忌寸馬長(足長に併記)・白鳥村主元麻呂(白原連三成に併記)・伊蘇志臣眞成(総麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

九日、川邊女王に正五位下、三嶋女王(三嶋王の居処。川邊女王の妹?)に從五位上、「八千代女王」に從五位下、橘朝臣眞都賀(眞都我、眞束。古那加智に併記)・藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)百濟王明信(①-)に正四位上、藤原朝臣延福(兄倉に併記)・藤原朝臣人數和氣朝臣廣虫因幡國造淨成に從四位上、藤原朝臣綿手武藏宿祢家刀自(丈部直刀自)に正五位上、藤原朝臣春蓮藤原朝臣勤子田中朝臣吉備(廣根に併記)に正五位下、藤原朝臣祖子(勤子に併記)に從五位上、平群朝臣竃屋(久度神に併記)・「藤原朝臣慈雲・藤原朝臣家野」・多治比眞人豊繼(繼兄に併記)・葛井連廣見に從五位下、豊田造信女(調阿氣麻呂に併記)に外從五位上、道田連桑田(忍海倉連甑に併記)に外從五位下、また、三嶋女王(三嶋王の居処。川邊女王の妹?)に正五位下を授けている。

十四日に使者を派遣して「攝津國神下・梓江・鯵生野」を掘って、「三國川」に通じさせている。

十五日、藤原朝臣弟友()を侍從、高橋朝臣御坂(三坂。祖麻呂に併記)を陰陽頭、伊勢朝臣水通(諸人に併記)を内匠頭、藤原朝臣仲繼(藥子に併記)を大學頭、中臣朝臣常(宅守に併記)を治部大輔、縣犬養宿祢伯麻呂(伯。酒女に併記)を玄蕃頭、淺井王()を諸陵頭、粟田朝臣鷹守を民部大輔、紀朝臣千世(大宅に併記)を少輔、奈良忌寸長野(秦忌寸)を主税助、大伴宿祢潔足(池主に併記)を兵部大輔、藤原朝臣雄友()を美作守のままで少輔、丈部大麻呂を織部正、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を木工頭、布勢朝臣大海を主殿頭、「平群朝臣清麻呂」を典樂頭、佐伯宿祢眞守を造東大寺長官、林忌寸稻麻呂を東宮學士のままで次官、紀朝臣船守を中宮大夫・常陸守のままで近衛大將、佐伯宿祢老を相摸介のままで少將、紀朝臣古佐美を式部大輔・但馬守のままで中衛中將、藤原朝臣宗繼(宗嗣)を少將、「紀朝臣廣足」を衛門佐、縣犬養宿祢堅魚麻呂を左衛士佐、安倍朝臣家麻呂を左兵衛督、文室眞人大原(与伎に併記)を右兵衛佐、三嶋眞人名繼を内廐頭、多治比眞人人足(黒麻呂に併記)を主馬頭、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を河内守、「大伴宿祢蓑麻呂」を介、少納言の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を兼務で山背守、内廐頭の三嶋眞人名繼を兼務で介、「紀朝臣呰麻呂」を伊勢介、淨村宿祢晋卿(袁普卿。李元環東隣)を安房守、右衛士督の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で下総守、皇后宮大進の安倍朝臣廣津麻呂を兼務で常陸大掾、紀朝臣木津魚(馬借に併記)を美濃守、藤原朝臣繩主()を介、大神朝臣船人(末足に併記)を上野守、和朝臣國守(和史。和連諸乙に併記)を下野介、多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を陸奥守、佐伯宿祢鷹守を越中介、葛井連道依(立足に併記)を越後守、春宮亮の紀朝臣白麻呂(本に併記)を兼務で伯耆守、多治比眞人年主(歳主)を出雲守、近衛將監の筑紫史廣嶋を兼務で播磨大掾、笠朝臣雄宗(始に併記)を美作介、百濟王仁貞(①-)を備前守、東宮學士の林忌寸稻麻呂を造東大寺次官のままで兼務で介、葛井連根主(惠文に併記)を伊豫守、秦忌寸長足を豊前介に任じている。

二十二日に安房國が以下のように言上している・・・今月十九日に管内の海辺に大きな魚五百尾余りが漂着した。長さはそれぞれ一丈五尺から一丈三尺までである。古老の言い伝えるところでは諸泊魚ということである・・・。

二十七日に攝津國能勢郡大領「神人爲奈麻呂」、近江國蒲生郡大領「佐佐貴山公由氣比」、丹波國天田郡大領:丹波直廣麻呂、豊後國海部郡大領「海部公常山」等は、職務に勤めて怠らず、正しい方法で人民を慈しんだ。そこで詔されて各々に外従五位下を授けている。また、「海上國造他田日奉直德刀自」に外従五位下を授けている。

また、小倉王()・百濟王玄鏡(①-)を少納言、藤原朝臣乙叡()を權少納言、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を山背守のままで左中弁、藤原朝臣園人(勤子に併記)を右少弁、紀朝臣作良を大藏大輔、佐伯直諸成を園池正、弓削宿祢大成()を西市正、中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を信濃守、日下部宿祢雄道を豊前守に任じている。

<藤原朝臣葛野麻呂-道繼-道雄-上子>
● 藤原朝臣葛野麻呂

藤原北家の小黒麻呂の子と知られている。調べると、その弟妹に「道繼・道雄・上子」があり、纏めて各々の出自場所を求めることにした。

❶葛野葛野=野が取り込められたようなところ
❷道繼首の付け根のような窪んだ地が連なっているところ
❸道雄羽を広げた鳥のような山稜の前に首の付け根のような窪んだ地があるところ
❹上子盛り上がった地が生え出ているところ

地図の解像度の限界に近付いているが、図に示したように各々の出自場所を推定することができる。「小黒麻呂」の「小」の地形は、「雄」の地形をしていることが解る。彼等の居処の推定の確からしさが得られたように思われる。尚、續紀中には「道雄・上子」の二人は登場しない。

「葛野麻呂」は、多くの役職や遣唐大使を歴任し、最終正三位・中納言となったと伝えられているが、活躍の記述は後続の史書に委ねられている。

<八千代女王・朝原内親王・全野女王>
● 八千代女王

残念ながら本女王に関する情報は皆無の状況である。類似の名前では高名な縣犬養(橘)宿祢三千代や聖武天皇紀に外従五位下を授かった氣多十千代などが挙げられる。

地形象形表記としての解釈は、「三(十)つの谷間を束ねる杙のようなところ」となる。ならば八千代=八つの谷間を束ねる杙のようなところと解釈される。言い換えると、大きな谷間の中に幾つかの山稜が延び出て、谷間が岐れている地形を表現しているのである。

田原天皇(施基皇子)の谷間で数えていみると、図に示したように八つの谷間が確認される。そして、それらを束ねる”杙”も谷間の出口に見出せることが解った。「八千代女王」もさることながら、「八千代」の文字列も續紀中に出現するのはこの場限りである。光仁天皇・桓武天皇、そして続く天皇等の出自の場所を見事に表している名称であろう。

少し後に齋宮となって平城から伊勢に向かう朝原内親王を天皇が平城宮までわざわざ出向いて見送ったと記載される。天皇と酒人内親王()との間に誕生した第一皇女と知られている。朝原=山稜に挟まれた丸く小高い地の麓が平らに広がっているところと解釈される。母親の「酒」を「朝」と見做した表記であろう。續紀中では、その場限りの登場のようである。

更に後に全野女王が無位から従四位下を叙爵されて登場する。皇孫の叙位なのだが、系譜不詳とのことである。上記の谷間周辺として、全野=谷間に玉のような山稜がすっぽりと嵌っている麓に野が広がっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。後に正式に皇孫と認知され、最終正四位下で亡くなられたようである。

<藤原朝臣慈雲-家野>
● 藤原朝臣慈雲・藤原朝臣家野

関連情報皆無の藤原朝臣であるが、本文の記載から女官であったと思われる。また、この後に前者は正五位下、後者は従五位上に昇進したと記されている。

その後は歴史の表舞台から退いたのであろうか、消息不明のようである。そんな背景で「藤原惠美朝臣仲麻呂」の係累(こちら参照)だったのではなかろうか。

慈雲=ゆらゆらと曲がりながら二つの山稜が並んで延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「薩雄」の東隣の場所である。

家野=端が豚の口のような形をしている山稜の麓に野が広がっているところと解釈すると、更に東隣にその地形を見出せる。地形変形が凄まじく国土地理院航空写真1961~9年を参照した。上記したように両者共にあと一度の登場であり、関連情報が望まれるところである。

三國川:攝津國神下・梓江・鯵生野

<攝津國三國川:神下・梓江・鯵生野>

治水工事をして、耕地を拡大したのであろうか。三國川は、勿論初見である。先ずは三國川=三つ並んだ取り囲まれた地を流れる川と解釈し、それを攝津國の中で探すと、図に示した川、現在の井尻川を表していることが解る。御所ヶ岳山系の北麓、”多治比(丹比)”の地形であり、延び出た山稜で三つに区切られたようになっている。

この川に神下梓江鯵生野の場所を繋ぐ運河を通じたと記載されている。神下=長く延びる高台の端が[下]の形になっているところ梓江=山稜が切り分けられた谷間にある水辺で窪んだところ鯵生野=生え出た[鯵]の形をした小高い地の麓で野が広がっているところと解釈される。それぞれを図に示した場所に見出せる。

<神人爲奈麻呂>
書紀が記す大郡・小郡があった地であり、その周辺を開拓したのであろう。また、更に古くは、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が訪れた足一騰宮の周辺である。

● 神人爲奈麻呂

攝津國能勢郡の大領に任じられていることから、その地を出自とする人物かと思われる。「能勢郡」は、元明天皇紀に河邊郡の一部を分割して設置されたと記載されていた。現地名では行橋市東泉・南泉である。

神人の氏名は、文武天皇紀に美濃國大野郡人神人大、称徳天皇紀に出雲國意宇郡人神人公人足・神人公五百成が登場していた。神人=長く延びる高台の麓に谷間があるところであり、各所に見られる地形であろう。

爲奈麻呂の爲奈=高台が手で掴まれた[象]のように見えるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。詳細な場所を特定するのは難しいが、現在神社が鎮座している辺りかと思われる。

<佐佐貴山公由氣比>
● 佐佐貴山公由氣比

近江國蒲生郡の大領と記載されているが、佐佐貴山公(君)は既出であり、巨勢朝臣・雀部朝臣一族の近隣の地を居処していたと推定した。現地名は北九州市八幡西区笹田である。

聖武天皇紀に登場した佐佐貴山君親人・足人は、それぞれ近江國の蒲生郡・神前郡の大領を任じられていたと記載されていた。どうやら「由氣比」は「親人」の後を引き継いだように思われる。

近江國のこれらの二郡は、天智天皇紀に百濟からの帰化人を住まわせた地であって、その地の人材を任用するわけには行かず、「佐佐貴山公」を任じたのであろう。

これらの経緯を考慮して、由氣比=突き出た山稜がゆらゆらと曲がって並んで延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この場限りの登場であり、以後の消息は不明である。

<丹波直廣麻呂-人足>
● 丹波直廣麻呂

「丹波國天田郡」は、「華浪山」や「奄我社」がある地と記載されていた。丹波郡から分割して郡建したと推測した(こちら参照)

古事記の息長一族が蔓延った地域である。その大領を務めるならば、地元の人物であったと思われる。

廣麻呂の「廣」=「広がっている様」であるが、図に示したように山稜が二つに岐れて広がっているところを表していると解釈する。

少し後に丹波直人足が外従五位下を叙爵されて登場する。人足=人の足のように谷間が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。共にこの場限りの登場であり、その後の消息は不明のようである。

<豊後國海部郡:海部公常山>
豊後國海部郡

「豊後國海部郡」は、初見であるが、光仁天皇紀に「速見郡」が登場していた。その郡の「歒見郷」では、谷間が土砂崩れで埋まり、その後決壊し、人的災害も発生した、と記載されていた(こちら参照)。

今回登場の「海部郡」も山間の谷間の地と思われるが、海部=水辺で母が子を抱くように延びた山稜の麓で分れた山稜が寄り集まっているところと読み解くと、図に示した場所を表していることが解る。

現在は伊良湖ダム湖(2018年竣工)になっているが、かつては棚田が広がる地域であったことが伺える。”海部”のようになるとは、夢想だにしていなかったであろう(国土地理院航空写真1961~9年はこちら)。

● 海部公常山 名前の常山=[山]の形の山稜が北向きに並んでいるところと解釈すると、ぞの地形を図に示した場所に見出せる。上記の人物等と同様にこの後に登場することはないようである。

<他田日奉直德刀自>
● 他田日奉直德刀自

「海上國造」と記されているが、「海上國」と読んでは、意味不明となろう。称徳天皇紀に「上総國海上郡」の人である「桧前舍人直建麻呂」に「上総宿祢」を授けたと記載されていた(こちら、古事記の菟上國造参照)。

「海上」の「國造」と理解すると、「海上郡」を居処とする人物と思われる。既出の文字列である他田=谷間がうねりくねって曲がり平らに整えられた地が広がり延びているところ、と解釈した。

また、同じく既出である日奉=丸く小高い地を両手で挟んでいるように山稜が延びているところとすると、図に示した場所の地形を表していることが解る。

名前の德刀自=山稜の端が[刀]の形をした山稜の傍らで四角く取り囲まれているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「丈部大麻呂・上総宿祢建麻呂」の谷奥に当たる場所である。これ以後の消息は不明である。

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さて、本文「安房國言。以今月十九日。部内海邊。漂着大魚五百餘。長各一丈五尺以下。一丈三尺以上。古老相傳云。諸泊魚」は、間違いなく安房國の地形を表していると思われる。既に記載された「鈴鹿關」(例えばこちら参照)の場合に類するものであろう。

<安房國:諸泊魚>
①海邊水辺で母が子を抱くように山稜が広がっているところに
②漂着大魚[魚]の形をした平らな山稜が薄く広がってぴったりとくっ付いて
③五百餘なだらかに延び出て広がった丸く小高い地が連なっている
④長各一丈長く延びた十本の山稜が次々に並び連なり一つに纏まっているところで
⑤五尺以下交差する広い谷間は[下]の形に似ているように並び
⑥三尺以上三段に並んだ広い谷間は上にある[魚]の形に似ている
⑦諸泊魚交差する耕地が水辺で魚とくっ付いているところ

若干の文字解釈を補足すると、「漂」=「氵+票」=「薄く広がっている様」、「着」=「ぴったりとくっ付く様」、「餘」=「食+余」=「延び出て広がった地がなだらかになっている様」、「各」=「次々に並び連なる様」、「丈」=「十+又」=「十本の腕のような山陵が延びている様」、「尺」=「谷間が[尺]の形になっている様(広い谷間)」、「以」=「似」である。

「以下・以上」の表記は、実に巧みと言える。「長各一丈」は坂東八國(九國。常陸國を除く)の別表記である。「魚」は、下野國安蘇郡の「蘇」=「艸+魚+禾」の「魚」を表していることが解る安房國と下野國の國境が確定したようである。「諸泊魚」は、通説では意味不明、あるいは、とある人は海豚(イルカ)だとか、いずれにせよ、古代史学は呑気なものであろう。

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二月丁夘。近衛將監外從五位下筑紫史廣嶋賜姓野上連。壬申。授陸奥國小田郡大領正六位上丸子部勝麻呂外從五位下。以經征戰也。甲戌。但馬國氣多郡人外從五位下川人部廣井改本姓。賜高田臣。丁丑。從五位上多治比眞人宇美爲陸奥按察使兼鎭守副將軍。國守如故。」授正四位上坂上大忌寸苅田麻呂從三位。癸未。出雲國國造外正八位上出雲臣國成等奏神吉事。其儀如常。授國成外從五位下。自外祝等。進階各有差。丁未。彈正尹從三位兼武藏守高倉朝臣福信。上表乞身。優詔許之。賜御杖并衾。 

二月二日に近衛将監の「筑紫史廣嶋」に「野上連」の氏姓を賜っている(こちら参照)。七日に陸奥國小田郡大領の丸子部勝麻呂(丸子連石虫に併記)に外従五位下を授けている。蝦夷征討の戦いに参加したためである。九日に但馬國氣多郡の人である「川人部廣井」の本姓を改めて「高田臣」の氏姓を賜っている(こちら参照)。十二日に多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を國守のままで陸奥按察使兼鎭守副將軍に任じている。坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)に從三位を授けている。

十八日に出雲國國造の出雲臣國成(嶋成に併記)等は神吉事を奏上している。その儀式はいつもの通りであった。「國成」に外従五位下を授け、その他の祝等に地位に応じて位を進めている。<丁未?>弾正尹で武藏守を兼任する高倉朝臣福信(高麗朝臣)は、表を奉って辞職を願い出ている。手厚い詔を下して、これを許可し、自らの杖と夜着を賜っている。

三月戊戌。御嶋院。宴五位已上。召文人令賦曲水。賜祿各有差。甲辰。授陸奥按察使從五位上多治比眞人宇美正五位下。又賜彩帛十疋。絁十疋。綿二百屯。丙午。以從五位下安倍朝臣草麻呂爲神祇大副。從五位下高倉朝臣石麻呂爲治部少輔。從五位下佐伯宿祢葛城爲中衛少將。甲寅。正六位上春原連田使。從七位下眞木山等。改春原連。賜高村忌寸。

三月三日に嶋院(長岡宮内)に出御されて、五位以上と宴会を行っている。文人を召して曲水の詩を作らせ、それぞれに禄を賜っている。九日に陸奥按察使の多治比眞人宇美(海。歳主に併記)に正五位下を授けている。また色染めの絹十疋・絁十疋・真綿二百屯を与えている。十一日に安倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)を神祇大副、高倉朝臣石麻呂(高麗朝臣)を治部少輔、佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を中衛少将に任じている。十九日に「春原連田使・眞木山」等に「春原連」を改めて「高村忌寸」の氏姓を賜っている(元は高宮村主。こちら参照)。