2024年8月31日土曜日

今皇帝:桓武天皇(8) 〔691〕

今皇帝:桓武天皇(8)


延暦三(西暦784年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

十一月戊戌朔。勅曰。十一月朔旦冬至者。是歴代之希遇。而王者之休祥也。朕之不徳。得値於今。思行慶賞。共悦嘉辰。王公巳下。宜加賞賜。京畿當年田租並免之。庚子。詔曰。民惟邦本。本固國寧。民之所資。農桑是切。比者諸國司等。厥政多僻。不愧撫道之乖方。唯恐侵漁之未巧。或廣占林野。奪蒼生之便要。或多營田園。妨黔黎之産業。百姓彫幣。職此之由。宜加禁制。懲革貪濁。自今以後。國司等不得公廨田外更營水田。又不得私貪墾闢侵百姓農桑地。如有違犯者。收獲之實。墾闢之田。並皆沒官。即解見任。科違勅之罪。夫同僚并郡司等。相知容隱。亦与同罪。若有人糺告者。以其苗子。与糺告人。癸夘。以從五位下佐伯宿祢鷹守爲左衛士佐。外從五位下秦造子嶋爲右衛士大尉。外從五位下津連眞道爲左兵衛佐。戊申。天皇移幸長岡宮。甲寅。先是。皇后遭母氏憂。不從車駕。中宮復留在平城。是日。遣出雲守從四位下石川朝臣豊人。攝津大夫從四位下和氣朝臣清麻呂等。爲前後次第司。奉迎焉。丁巳。遣近衛中將正四位上紀朝臣船守。叙賀茂上下二社從二位。又遣兵部大輔從五位上大中臣朝臣諸魚。叙松尾乙訓二神從五位下。以遷都也。戊午。武藏介從五位上建部朝臣人上等言。臣等始祖息速別皇子。就伊賀國阿保村居焉。逮於遠明日香朝廷。詔皇子四世孫須祢都斗王。由地錫阿保君之姓。其胤子意保賀斯。武藝超倫。足示後代。是以長谷旦倉朝廷改賜健部君。是旌庸恩意。非胙土彜倫。望請。返本正名蒙賜阿保朝臣之姓。詔許之。於是。人上等賜阿保朝臣。健部君黒麻呂等阿保公。辛酉。中宮皇后並自平城至。乙丑。遣使修理賀茂上下二社及松尾乙訓社。」從四位下五百枝王。五百井女王。並授從四位上。

十一月一日に次のように勅されている・・・十一月朔日が冬至に当たることは、歴代の中でも稀な回り合わせであり、王者のめでたいしるしである。朕は不徳であるが、今巡り合うことができた。お祝いとして褒美を与え、共にめでたい日を悦びたいと思う。王や公卿以下には賜物を与え、京と畿内には今年の田租をもれなく免除せよ・・・。

三日に次のように詔されている・・・人民は國の根本であり、根本が強固であれば國は安定する。人民の生活のもととしては、農業がもっとも肝要である。ところが、この頃諸國の國司等は政治に多くの間違いを犯している。人民を慈しみ治める道が正しい方法に背いていることを恥じず、ただ収穫が上手でないことを恐れている。広く林野を占領して、人民の生活手段を奪ったり、田や園を多く経営して、人民の生業を妨げたりしているが、人民が衰え弱るのは、これが原因である。これらの行為を禁止し、欲が深く心の穢れているを懲らしめ改めさせるべきである。---≪続≫---

今後、國司等は公廨田以外に水田を営んではならない。また、自分勝手にむやみに開墾することで、人民の農業と養蚕に必要な地を侵してはならない。もし違反する者があれば、収穫物と開墾田は共に官に没収し。現在の官職を解任して違勅の罪を科することにする。國司の同僚と郡司等が知って罪をかばい隠したならば、共に同罪とする。もし糾弾し告発する者がおれば、その罪を犯した者の田の苗を、糾弾し告発した人に与えることにする・・・。

六日に佐伯宿祢鷹守を左衛士佐、秦造子嶋(金城史山守に併記)を右衛士大尉、津連眞道(眞麻呂に併記)を左兵衛佐に任じている。十一日に長岡宮に移られている。十七日、これより以前、皇后は母の死にあたったので、天皇の行幸には付き従わなかった。中宮(高野新笠)もまた平城宮に留まっていた。この日、出雲守の石川朝臣豊人、攝津大夫の和氣朝臣清麻呂等を平城宮に派遣し、前後の次第司に任じて皇后と中宮を迎えさせている。

二十日に近衛中将の紀朝臣船守を派遣して、賀茂上下二社に従二位を授けている。また、兵部大輔の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を派遣して、松尾乙訓の二神に従五位下を授けている。長岡遷都のためである。

二十一日に武藏介の健部朝臣人上(建部公人上)等が以下のように言上している・・・我々の始祖である「息速別皇子」(古事記の伊許婆夜和氣命)は、「伊賀國阿保村」に居住していた。遠明日香朝廷(允恭朝)の時に至って、詔されて皇子の四世の孫の「須祢都斗王」に、その地名をとって「阿保君」の氏姓を賜った。その子孫の「意保賀斯」は、武芸が群を抜いており、後代に模範とするに相応しいので、長谷旦倉朝廷(雄略朝)の時に、氏姓を改めて「健部君」を賜った。---≪続≫---

これは功績を表彰する恩恵の意味であり、土地を与え賜姓するという通常のやり方ではない。どうか本にかえして名称を改正し、「阿保朝臣」の氏姓を賜るようお願いする・・・。詔されて、これを許可している。そこで「人上」等に「阿保朝臣」、「健部君黒麻呂」等には「阿保公」の氏姓を賜わっている。

二十四日に中宮・皇后は共に平城宮から長岡宮に到着している。二十八日に使を派遣して賀茂の上下二社と松尾乙訓の社を修理させている。また、五百枝王・五百井女王に従四位上を授けている。

<伊賀國阿保村:須祢都斗王・意保賀斯>
伊賀國阿保村

健部朝臣人上が語るには、彼等は古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、伊許婆夜和氣命の子孫と述べている。命の母親は阿邪美能伊理毘賣命であり、丹波國が出自と推定した。現地名では京都郡みやこ町呰見である。

他の史書によると、「伊賀國阿保村」に封地を与えられて子孫等が居処としたようである。既に推定した通り、その後信濃國更級郡、現地名の京都郡苅田町雨窪に移り住んだようである。

阿保=谷間に延びた山稜の端が丸く小高い台地になっているところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。現在は広大な住宅地になっていて、国土地理院航空写真1961~9年を用いてその場所を求めることができる。

書紀の持統天皇紀に禁猟地とされた伊賀國伊賀郡身野に該当する地であるが、「阿保村」の開拓は進捗せずの状況であったのだろう。後裔等がその地で蔓延らず移住したのであるから、辻褄の合った経緯と思われる。

● 須祢都斗王・意保賀斯 二人の子孫の名前が記載されている。地形象形表記そのものであり、文字列を読み解くと、須禰都斗=高台の州が広がって柄杓の形の地が寄り集まっているところ意保賀斯=[保]の前にある奥まって取り囲まれた地が押し拡げられて切り分けられたようになっているところと解釈される。それぞれの地形を図に示した場所に見出せる。

<健部君黒麻呂>
「意保賀斯」が賜った「健部君」は、「健」=「人+建」であり、「建」は「倭建命」の「建」に通じるとして、優れた武芸者を表すと記載されているが、勿論、これは地形象形表記である。「賀斯」の山稜の形を表しているのである。

● 健部君黒麻呂

「健部」の氏名は同じだが、姓が異なっていて、おそらく別系列であったのだろう。称徳天皇紀に建部大垣が「爲人恭順。事親有孝」と褒められていた。

「人上」等の谷間の対岸を居処とする一族と推定された。また、この地は一時諏方國として分割されたが、後に信濃國に戻された経緯があり、外来の人達が住まっていたことを暗示する記述と推察される。

頻出の黒麻呂は、黑=囗+米+灬=谷間に[炎]のような山稜が延びている様であり、図に示した場所が出自と推定される。賜った阿保公の表記はこの後に記載されることはないようである。

十二月己巳。詔賜造宮有勞者爵。又免進役夫國今年田租。」授從三位藤原朝臣種繼正三位。正四位上石川朝臣名足。紀朝臣船守並從三位。從五位下氣太王。山口王。小倉王並從五位上。從四位下石川朝臣垣守。和氣朝臣清麻呂並從四位上。從五位上多治比眞人人足。大中臣朝臣諸魚並正五位下。從五位下文室眞人忍坂麻呂。多治比眞人濱成。日下部宿祢雄道。三嶋眞人名繼。丈部大麻呂並從五位上。外從五位下丹比宿祢眞清外正五位下。外從五位下上毛野公大川外從五位上。正六位上佐伯宿祢葛城從五位下。正六位上奈良忌寸長野。大神楉田朝臣愛比。三使朝臣清足。麻田連畋賦。高篠連廣浪並外從五位下。」又以左大弁從三位兼皇后宮大夫大和守佐伯宿祢今毛人爲參議。癸酉。遣使畿内七道。大祓奉幣於天神地祗。庚辰。詔曰。山川薮澤之利。公私共之。具有令文。如聞。比來。或王臣家。及諸司寺家。包并山林。獨專其利。是而不禁。百姓何濟。宜加禁斷。公私共之。如有違犯者。科違勅罪。所司阿縱。亦与同罪。其諸氏冢墓者。一依舊界。不得斫損。乙酉。山背國葛野郡人外正八位下秦忌寸足長築宮城。授從五位上。外從五位下栗前連廣耳飼養役夫。授從五位下。但馬國氣多團毅外從六位上川人部廣井。進私物助公用授外從五位下。丙申。叙住吉神從二位。預造長岡宮主典已上。及諸司雑色人等。隨其勞効。進階賜爵各有差。

十二月二日に詔されて、造営に功労のある者に位を授けている。また、役夫を貢進した國の今年の田租を免除している。

藤原朝臣種繼(藥子に併記)に正三位、石川朝臣名足紀朝臣船守に從三位、氣太王(氣多王)・山口王()・小倉王()に從五位上、石川朝臣垣守和氣朝臣清麻呂に從四位上、多治比眞人人足(黒麻呂に併記)・大中臣朝臣諸魚(子老に併記)に正五位下、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)・多治比眞人濱成(歳主に併記)日下部宿祢雄道三嶋眞人名繼丈部大麻呂に從五位上、丹比宿祢眞清(眞淨。眞嗣に併記)に外正五位下、上毛野公大川に外從五位上、佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)に從五位下、奈良忌寸長野(秦忌寸)・大神楉田朝臣愛比(楉田勝)・三使朝臣清足(御使朝臣淨足)・「麻田連畋賦」・高篠連廣浪(衣枳首)に外從五位下を授けている。また、左大弁・皇后宮大夫・大和守の佐伯宿祢今毛人を參議に任じている。

六日に使者を畿内と七道に派遣して大祓し、幣帛を天神・地祇に奉らせている。十三日に次のように詔されている・・・山や川、草木の茂った沢などの未開拓地からの利益は、公も個人もこれを共にするということについては、令に詳しい規定がある。聞くところによると、近頃王臣家や諸々の役所や寺院は、山林を囲い込んで領有し、その利益を独占しているということである。ここで禁止しなければ、どうして人民を救うことができようか。禁断を加えて公も個人も共に利用できるようにせよ。もし違反する者があれば、違勅の罪を科せ。関係の役人でおもねり許す者があれば、共に同罪とする。諸氏の塚や墓は、もっぱら旧の境界に基づいて、生えている樹木を切り損じてはならない・・・。

十八日に山背國葛野郡の人である「秦忌寸足長」は宮城を築いたことにより従五位上を、また、栗前連廣耳は役夫に食料を与え養ったので従五位下を授けている。但馬國の「氣多團」軍毅の「川人部廣井」は私物を貢進して公の用途を助けたので外従五位下を授けている。二十九日に住吉神に従二位を授けている。また、長岡宮の造営に関わった主典以上と諸司の各種の官人等に、その功労にしたがい、それぞれに位階を進め位を与えている。

<麻田連畋賦>
● 麻田連畋賦

「麻田連」の氏姓は、聖武天皇紀に百濟滅亡に伴って帰化した「荅本春初」の子、「陽春」が賜ったと記載されていた(こちら参照)。その後、淳仁天皇紀に「金生」、称徳天皇紀に「眞淨」が登場していた(こちら参照)。

百濟王一族を筆頭に多くの避難民を受け入れ、有能な人材を登用して来たのである。漢民族の拡大膨張に伴う周辺地域の再編が盛んに行われた時代だったようである。

名前の「畋賦」に用いられた「畋」の文字は初見である。文字解釈を行うと、「畋」=「田+攴」と分解される。文字要素は見慣れたものであり、地形象形的には「畋」=「[田]が二つに岐れている様」と解釈される。

纏めると畋賦=[田]が二つに岐れている谷間に[杙]のような山稜が延びているところと解釈される。「金生」と「眞淨」との間に位置する場所が出自と推定される。この後に幾度か登場し、京官・地方官を歴任したと記載されている。尚、「畋」の代わりに「𤝗」の文字が使われている。地形象形表記としては、前者が適切であろう。

<秦忌寸足長-馬長>
● 秦忌寸足長

山背國葛野郡の人と記され、「築宮城」の功績で外正八位下から内位の従五位上に昇位している。凄まじいばかりの褒賞なのであるが、おそらく造宮のための良質の木材を提供したのではなかろうか。

葛野郡内における、山林に囲まれた未開の地域だったことを暗示しているように推測される。そんな背景で出自場所を求めてみよう。

足長=長く延びた山稜の前が[足]のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。愛宕郡との端境近傍の地であり、既出の秦忌寸一族とは、遠く離れている山岳地帯である。

通説では”造長岡宮長官”のように解釈されているが、誤りであろう。同時に功績があった、外従五位下から内位の従五位下に昇進した栗前連廣耳の”食料提供”の記述がある。「足長」は後に主計頭に任じられているが、その後の消息は不明である。

直後に秦忌寸馬長が外従五位下を叙爵されて登場する。馬長=長く延びた山稜の前が[馬]の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「足長」と同様に造営に寄与したのであろう。間もなくして土左守に任じられているが、以後の消息は不明である。

<川人部廣井・氣多團>
● 川人部廣井

「氣多團」の軍毅を務めていた人物と記載されている。おそらく但馬國氣多郡に設けられていたのであろう。但馬國の中心の地である。

その地を居処とする桑氏連鷹養が物を献上したとして外従五位下を叙爵されていた。古くから開けて、更に豊かになっていたのであろう。

川人=[川]の文字形のように谷間が延びているところと解釈される。「部」=「近隣」とする。廣井=四角く取り囲まれた地が広がっているところであり、図に示した場所が出自と推定される。

「氣多團」の團=囗+專=丸く取り囲まれている様と解釈される。「廣井」の東隣の地形を表しているように思われる。どうやらこの地に設けられた軍団だったようである。

二ヶ月余り後の延暦四(785)年二月に「但馬國氣多郡人外從五位下川人部廣井改本姓。賜高田臣」と記載されている。高田=皺が寄ったような山稜の麓で[田]が広がっているところと読める。