2024年8月23日金曜日

今皇帝:桓武天皇(7) 〔690〕

今皇帝:桓武天皇(7)


延暦三(西暦784年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六月辛丑。唐人賜緑晏子欽。賜緑徐公卿等賜姓榮山忌寸。是日。叙正三位住吉神勳三等。甲辰。中務大輔從四位下豊野眞人奄智卒。戊申。詔以賢璟法師。爲大僧都。行賀法師爲少僧都。善上法師。玄憐法師。並爲律師。己酉。以中納言從三位藤原朝臣種繼。左大弁從三位佐伯宿祢今毛人。參議近衛中將正四位上紀朝臣船守。散位從四位下石川朝臣垣守。右中弁從五位上海上眞人三狩。兵部大輔從五位上大中臣朝臣諸魚。造東大寺次官從五位下文室眞人忍坂麻呂。散位從五位下日下部宿祢雄道。從五位下丈部大麻呂。外從五位下丹比宿祢眞淨等。爲造長岡宮使。六位官八人。於是。經始都城。營作宮殿。辛亥。普光寺僧勤韓獲赤烏。授大法師。并施稻一千束。壬子。遣參議近衛中將正四位上紀朝臣船守於賀茂大神社。奉幣。以告遷都之由焉。又今年調庸。并造宮工夫用度物。仰下諸國。令進於長岡宮。癸丑。唐人正六位上孟惠芝。正六位上張道光等。賜姓嵩山忌寸。正六位下吾税兒賜永國忌寸。壬戌。有勅。爲造新京之宅。以諸國正税六十八万束。賜右大臣以下。參議已上。及内親王。夫人。尚侍等。各有差。丁夘。百姓私宅。入新京宮内五十七町。以當國正税四万三千餘束。賜其主。

六月二日に唐人の賜綠(六・七品の服色)の「晏子欽」と賜綠の「徐公卿」等に「榮山忌寸」の氏姓を賜っている。この日、正三位の住吉神に勲三等を授けている。五日に中務大輔の豊野眞人奄智(奄智王)が亡くなっている。九日に詔されて、賢璟法師を大僧都、行賀法師(上毛野公大川に併記)を少僧都、善上法師・玄憐法師を律師に任じている。

十日に中納言の藤原朝臣種繼(藥子に併記)、左大弁の佐伯宿祢今毛人、參議・近衛中將の紀朝臣船守、散位の石川朝臣垣守、右中弁の海上眞人三狩(三狩王)、兵部大輔の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)、造東大寺次官の文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)、散位の日下部宿祢雄道丈部大麻呂丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)等を造長岡宮使に、及び六位の官人八人を任じ。ここにおいて、都城の建設を開始し、宮殿を造営している。

十二日に「普光寺」の僧である「勤韓」が「赤烏」を捕獲したので、大法師の位を授け、稲一千束を与えている。十三日に参議・近衛中将の紀朝臣船守賀茂大神社に派遣して奉幣させている。遷都の事情を告げるためである。また、今年の調・庸や、宮を造る工人や人夫の必要とする物資は、諸國に命じて長岡宮に進上させている。

十四日に唐人の「孟惠芝」、「張道光」等に「嵩山忌寸」、「吾税兒」に「永國忌寸」の氏姓を賜っている。二十三日に勅されて、新京の宅を造営するために、諸國の正税六十八万束を、右大臣以下、参議以上、及び内親王・夫人・尚侍等に地位に応じて授けている。二十八日に人民の私宅で新京の宮内に入っているものが五十七町あり、当國の正税四万三千束余りをその持主に授けている。

<晏子欽・徐公卿[榮山忌寸]>
<孟惠芝・張道光[嵩山忌寸]>
<吾税兒[永國忌寸]>
● 晏子欽・徐公卿[榮山忌寸]

天平寶字五(761)年、迎入唐大使の高元度等が帰る際に「沈惟岳」等が同行して大宰府に到着したのであるが、「晏子欽」は同行者の一人であった。

結局彼等は帰唐することができず、多くは帰化することになったようである。「惟岳」は既に従五位下を叙位され、寶龜十一(780)年に清海宿祢の氏姓を賜っているが、それに続く賜姓となっている。

このような背景からすると、「晏子欽」等も、やはり”靈龜”の地に居処を与えられたと推測される。がしかし、大混雑の地に居場所があるのか、果たして・・・。

和風の名前とはなっていないので、与えられた「榮山忌寸」が唯一の頼りである。榮山=[炎]のような山稜に挟まれた谷間に[山]の形の地があるところと解釈される。少々広範囲な地形に基づく名称のようであるが、「惟岳」との確執を配慮した名称だったのかもしれない。

● 孟惠芝・張道光[嵩山忌寸] 唐人ではあるが、既に正六位上の爵位を授かっていて、それぞれの「惠芝」、「道光」の名前は和風になっている。即ち地形象形表記と思われる。賜った嵩山忌寸の氏姓から居処を求めると、「嵩」=「山+高」と分解して、嵩山=山頂が皺が寄ったようになっている麓で「山」の形に山稜が延びているところと解釈される。

惠芝=小高く丸く取り囲まれた地の傍らに蛇行する川が流れているところ道光=[炎]のように山稜が延びた前で首の付け根のように窪んだ地があるところと解釈される。これら地形を表す場所として、図に示した辺りが各々の居処と推定される。

● 吾税兒[永國忌寸] 同様に永國=取り囲まれた地が長く延びているところと解釈される。名前に用いられたのは初めてと思われる「税」=「禾+兌」と分解し、更に「兌」=「八+兄」となる。「兒」=「窪んだ地から谷間が延びている様」である。

纏めると税兒=奥が広がった窪んだ谷間から延び出た山稜の傍らで谷間が広がっているところと解釈される。「松井連」の西隣の谷間の地形を表していることが解る。”靈龜”の隅々にまで渡来系の人々が蔓延っていたことを述べているのである。

<普光寺・僧勤韓>
普光寺

「普光寺」は記紀・續紀を通じて初見の寺であり、また、後に登場することもない。調べると、大和國添上郡に建立された寺院だったようである。

名称が表す地形を求めることにする。「普」=「竝+日」=「丸く小高い地が次々に連なり延びている様」、「光」=「火+儿」=「[火]のような山稜が広がり延びている様」と解釈される。

纏めると普光=[火]のような山稜が広がり延びている谷間で丸く小高い地が次々に連なり延びているところと解釈される。図に示した場所に、その地形を見出せる。元明天皇紀に登場した大倭國添下郡の大倭忌寸果安の「果」の別表記とも言える。添上・下郡の端境の場所だったようである。

● 勤韓 寺僧の「勤韓」の出自を勤韓=山稜の端が牛の頭部のように二つに岐れて火のように長く延びている麓が取り囲まれて窪んでいるところと解釈すると、寺の南隣の場所と推定される。

そして、頻出の赤烏=平らな頂の麓で[火]ように延びる山稜が[烏]の形をしているところと読むと、背後の谷間を開拓したことを伝えているのである。僧位九階の上位の「大法師」を授かるほどの功績だったと記載している。

秋七月癸酉。仰阿波。讃岐。伊豫三國。令進造山埼橋料材。壬午。以正五位上當麻王爲中務大輔。從五位下藤原朝臣乙叡爲侍從。近衛中將正四位上紀朝臣船守爲兼中宮大夫。内厩頭。常陸守如故。從五位下文室眞人久賀麻呂爲左大舍人頭。從四位下石上朝臣家成爲内藏頭。從五位下穗積朝臣賀祐爲散位頭。外從五位下大村直池麻呂爲主計助。從五位下石川朝臣宿奈麻呂爲主税頭。從五位下大伴宿祢眞麻呂爲兵部大輔。從五位上笠王爲大膳大夫。從四位下石川朝臣垣守爲左京大夫。從五位下塩屋王爲若狹守。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂爲兼備前守。從五位下藤原朝臣末茂爲伊豫守。從五位上藤原朝臣菅繼爲大宰少貳。癸未。右少史正六位上高宮村主田使。及同眞木山等。賜姓春原連。

七月四日に阿波・讃岐・伊豫の三國に命じて「山埼橋」を造営する材料を進上させている。

十三日に當麻王()を中務大輔、藤原朝臣乙叡()を侍從、近衛中將の紀朝臣船守を内厩頭・常陸守のままで兼務で中宮大夫、文室眞人久賀麻呂を左大舍人頭、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を内藏頭、穗積朝臣賀祐(賀祜。老人に併記)を散位頭、大村直池麻呂を主計助、石川朝臣宿奈麻呂を主税頭、大伴宿祢眞麻呂を兵部大輔、笠王を大膳大夫、石川朝臣垣守を左京大夫、塩屋王()を若狹守、右衛士督の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で備前守、藤原朝臣末茂()を伊豫守、藤原朝臣菅繼を大宰少貳に任じている。

十四日に右少史の「高宮村主田使」と同姓の「眞木山」等に「春原連」の氏姓を賜っている。

<山埼橋>
山埼橋

Wikipediaによると・・・、

山崎橋は、かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋である。日本三古橋の筆頭として、山崎太郎と呼ばれる。ちなみに、日本三古橋の残りの2つは、瀬田の唐橋(勢多次郎)と宇治橋(宇治三郎)である。

・・・と記載されている。

勿論、瀬田橋宇治橋も既に求めた通り、Wikipediaの述べる場所ではない、と解釈して来た。そして今回の「山埼橋」も淀川に架かる橋ではない、であろう。

山埼橋山埼=[山]の形の山稜が延びた先にあるところと解釈される。図に示した通り、明瞭な「山」の地形が確認される。その先端部を流れる川(現在名松坂川)に架けられた橋であることが解る。「山」の表記は、山部王のように、明確に「山」の文字形を表しているのである。

称徳天皇の紀伊國行幸の途中で檀山陵(檀山=積み上げられた山稜が[山]の形に延びているところ)の脇を通って宇智郡(宇治郡)に向かったと記載されていた。この陵がある谷間を抜けて「山埼橋」を通過する行程だったわけである。重要な渡渉地点だったと思われる。

<高宮村主田使-眞木山>
● 高宮村主田使

書紀の天武天皇紀に桑原連人足が登場した時に大倭(和)國葛上郡を出自と推定した。それは神功皇后紀に葛城襲津彥が新羅遠征時に捕虜とした漢人を住まわせた地「桑原・佐糜・高宮・忍海」と記載されていることに基づいていた。

同様に今回の登場人物は、「高宮」の地を居処としていたと思われる。續紀の称徳天皇紀に秦勝古麻呂が秦忌寸の氏姓を賜っていたが、「高宮」の地は東側に隣接する場所と推定した。高宮=皺が寄ったような山稜(高)に囲まれた谷間の奥まで積み重なっている(宮)ところと解釈される。

田使=谷間にある山稜が真ん中を突き通すように延びている前に田が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。また、高宮村主眞木山眞木山=[山]の形に延びる山稜の前で山稜の端が寄り集まって窪んでいるところと解釈される。図に示した場所が出自と思われる。

賜った春原連の氏姓については、春原=山稜が[炎]のように延び出た麓が平らに広がっているところと解釈される。「高宮」の別名として申し分のない表記であろう。更に後に高村忌寸に改姓されている。古事記に記載された大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の黑田廬戸宮があったと推定した場所である。「葛城」は早期に漢人等によって開拓された地であった。

八月壬寅。叙近江國高嶋郡三尾神從五位下。戊午。左少史正六位上衣枳首廣浪等賜姓高篠連。乙丑。以外從五位下吉田連季元爲伊豆守。 

八月三日に近江國高嶋郡の三尾神(三尾埼に鎮座)に従五位下を授けている。十九日に左少史の「衣枳首廣浪」等に「高篠連」の氏姓を賜っている。二十六日に吉田連季元(斐太麻呂に併記)を伊豆守に任じている。

<衣枳首廣浪>
● 衣枳首廣浪

「衣枳首」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見である。関連する記述も見当たらず、賜姓の「高篠連」を調べると、古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、五百木之入日子命の後裔と分かった。

「五百木」は伊豫國の別名であると読み解いたが、通説では全く解読されておらず、情報が欠落しているのは、当然の成り行きなのである。この人物は、他の史書中には幾度となく記載されており、活躍していたようなのだが、書紀・續紀の正史の扱いは貧弱である。八坂と「伊豫」が近接していては、何かと具合が悪いからであろう。

名前に含まれる「枳」=「木+只」=「小高い地から山稜が延び出ている様」と解釈すると、衣枳=小高い地から山稜が延び出ている前に山稜の端の三角の地があるところと解釈される。廣浪=水辺で山稜がなだらかに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

別名の廣波=水辺で覆い被さるように広がっているところも適切なものであろう。賜姓された高篠連高篠=皺が寄ったような山稜が細かく岐れて延び出ているところであり、出自場所の地形を表していることが解る。

九月庚午。授命婦外正五位下刑部直虫名從五位下。癸酉。京中大雨。壞百姓廬舍。詔遣使東西京賑給之。庚辰。伊豫守從五位下藤原朝臣末茂。坐事左降日向介。乙未。太白晝見。

九月二日に命婦の刑部直虫名に従五位下を授けている。五日に京中に大雨が降って、人民の家屋が壊れたいる。詔されて、使を東西の京(平城京と難波京)に派遣して物を恵み与えている。十二日に伊豫守の藤原朝臣末茂()が罪にふれて日向介に左遷されている。二十七日に太白(金星)が昼に現れている。

閏九月戊申。河内國茨田郡堤。决一十五處。單功六萬四千餘人。給粮築之。乙夘。天皇幸右大臣田村第宴飮。授其第三男弟友從五位下。

閏九月十日に河内國茨田郡の堤防が十五ヶ所で決壊したので、延べ六万四千人余りの人夫に食糧を与えて築造させている。十七日に右大臣(藤原朝臣是公)の田村第(南家の邸宅。「仲麻呂」の邸と同じかどうかは不明)に行幸して宴会・飲酒し、三男の弟友()に従五位下を授けている。

冬十月庚午。勅。備前國兒嶋郡小豆嶋所放官牛。有損民産。宜遷長嶋。其小豆嶋者住民耕作之。壬申。任御装束司并前後次第司。爲幸長岡宮也。甲戌。賜陪從親王已下五位已上装束物各有差。戊子。越後國言。蒲原郡人三宅連笠雄麻呂。蓄稻十萬束。積而能施。寒者与衣。飢者与食。兼以修造道橋。通利艱險。積行經年。誠合擧用。授從八位上。癸巳。以從五位下石川朝臣公足爲主計頭。從五位下大伴宿祢永主爲右京亮。又任左右鎭京使。各五位二人。六位二人。以將幸長岡宮也。乙未。尚藏兼尚侍從三位阿倍朝臣古美奈薨。遣左大弁兼皇后宮大夫從三位佐伯宿祢今毛人。散位從五位上當麻眞人永繼。外從五位下松井連淨山等。監護喪事。古美奈中務大輔從五位上粳虫之女也。適内大臣贈從一位藤原朝臣良繼生女。即是皇后也。丁酉。勅曰。如聞。比來。京中盜賊稍多。掠物街路。放火人家。良由職司不能肅清。令彼凶徒生茲賊害。自今以後。宜作鄰保検察非違。一如令條。其遊食博戯之徒。不論蔭贖。决杖一百。放火刧略之類。不必拘法。懲以殺罸。勤加捉搦。遏絶姦宄。

十月三日に次のように勅されている・・・「備前國兒嶋郡小豆嶋」で放牧している官牛が、人民の生業を損なうことがある。「長嶋」に遷し、「小豆嶋」には人民を住まわせ耕作させよ・・・。五日、御装束司と前後の次第司を任命している。長岡宮に行幸するためである。七日に行幸に従う親王以下、五位以上に地位に応じて装束の物を授けている。

二十一日に越後國が以下のように言上している・・・蒲原郡の人である「三宅連笠雄麻呂」は稲十万束を蓄え、積み置いてよく人に施した。寒さに震えて居る者には衣服を与え、飢えている者には食物を与え、それに加えて道路や橋を修造して、険しい所を通行できるようにした。善行を重ねて何年も経ったが、まことに登用されるべきである・・・。そこで従八位上を授けている。

二十六日に石川朝臣公足(眞人に併記)を主計頭、大伴宿祢永主を右京亮、また、左右京鎮使として、各々五位二人、六位二人を任じている。長岡宮に行幸するためである。

二十八日に尚蔵・尚侍の阿倍朝臣古美奈(子美奈)が薨じている。左大弁・皇后大夫の佐伯宿祢今毛人、散位の當麻眞人永繼(永嗣。得足に併記)松井連淨山(戸淨山)等を派遣して葬儀を監督・護衛させている。「古美奈」は中務大輔の粳虫の娘で、内大臣の藤原朝臣良繼に嫁ぎ女子を産んだ。これが皇后(藤原朝臣乙牟漏。子美奈に併記)である。

三十日に次のように勅されている・・・聞くところによると、近頃京中に盗賊が次第に多くなり、街路で物を略奪し、人家に放火するということである。担当の役所では取り締まることができないために、このような凶徒が盗賊となって害を起こすことになる。今後はもっぱら令の規定にあるように、鄰組を作って間違ったことを検察するようにせよ。遊び暮らしている者や博奕打ちの連中は、蔭や贖のような特権を問題にせず、杖百回の罪とし、放火や追剥ぎ・恐喝のような罪は、必ずしも法律に拘らず死刑の罪で懲らしめよ。努力して捕らえ、悪事を根絶せよ・・・。

<備前國兒嶋郡小豆嶋-長嶋>
備前國兒嶋郡小豆嶋

備前國の郡名に関して、直近では称徳天皇紀に御野郡が登場していた。同紀に行われた藤野郡再編を経て、かなり縮小された「邑久郡」の西側の谷間である。

今回登場の郡名は、古の吉備兒嶋を想起させる文字列となっている。勿論、通説は”固有名詞”として疑うことはないようである。

何度も述べたようにかつての吉備國(備前國)は、美作國に改名されているのである。備前國は、北へ北へと開拓して統治領域を拡大して来たのである。ならば、新たな「兒嶋郡」は、その経緯の延長線上にある郡と推察される。

兒嶋郡兒嶋=頭部が窪んでいる[鳥]のように山稜が延びているところと解釈される。その地形を「御野郡」の北側に見出せる。古事記の兒嶋=島に成りかけのところと読み解いたが、これは古事記特有の文字使いと思われる。

小豆嶋小豆=高台が三角に広がっているところと解釈すると、図に示した場所を表していることが解る。「嶋」に「嶋」がくっ付いている様子である。光仁天皇紀の寶龜四(773)年十二月に備前國が木連理を献上したと記載されていた。正にその場所である。

開拓されて十年余り、耕地ではなく、放牧地として利用されていたのである。がしかし、長嶋(見たままの地形であろう)を放牧地として、「小豆嶋」はちゃんと耕地にせよ、と命じられている。耕地開拓は、決して楽な仕事ではないのである。

<三宅連笠雄麻呂>
● 三宅連笠雄麻呂

越後國蒲原郡は、文武天皇紀に越中國四郡を越後國に転属させたと記載され、調べると、その四郡は頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡」であったことが分かった。

国防体制強化策の一環として、越後國へのてこ入れがなされたものと推察した。「蒲原郡」の場所は、現在の奥畑川が流れる谷間の奥で広がった地域、「魚沼郡」の東隣、と推定された。

三宅連三宅=谷間に山稜が三つ並んで延びているところと解釈される。図に示した場所を表している。また、笠雄麻呂の頻出の「雄」=「厷+隹」=「羽を広げた鳥のような形」を表している。「笠」が付くのは、「笠」の地形に含まれているからであろう。

纏めると笠雄=[笠]のような形をした山稜に羽を広げた[鳥]の形をしているところと解釈される。急斜面の麓を開拓したことに加え、険しい山中での往来を可能したようである。