2024年8月15日木曜日

今皇帝:桓武天皇(6) 〔689〕

今皇帝:桓武天皇(6)


延暦三(西暦784年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

三年春正月己夘。宴五位已上。授无位小倉王。石浦王並從五位下。從四位下多治比眞人長野。紀朝臣家守並從四位上。正五位下紀朝臣鯖麻呂正五位上。從五位下大中臣朝臣諸魚從五位上。外從五位下和朝臣國守。安都宿祢眞足。正六位上文室眞人眞屋麻呂。藤原朝臣眞作。大伴宿祢永主。大原眞人越智麻呂。和朝臣三具足。石川朝臣魚麻呂。巨勢朝臣家成。大春日朝臣諸公。安倍朝臣廣津麻呂。坂本朝臣大足。田口朝臣清麻呂。笠朝臣小宗。三方宿祢廣名。紀朝臣兄原。佐伯宿祢老並從五位下。正六位上下道朝臣長人。丹比宿祢稻長。船連稻船。秦忌寸長足並外從五位下。宴訖賜祿各有差。辛巳。授從五位下文室眞人子老從五位上。正六位上平群朝臣牛養從五位下。又授女孺无位藤原朝臣宇都都古。大原眞人明並從五位下。丁亥。授外從五位下伊勢朝臣水通從五位下。戊子。宴五位已上於内裏。饗百官主典已上於朝堂。賜祿各有差。」授右大臣正三位藤原朝臣是公從二位。正五位下大伴宿祢不破麻呂正五位上。從五位下紀朝臣白麻呂。健部朝臣人上並從五位上。以正三位藤原朝臣小黒麻呂。從三位藤原朝臣種繼。並爲中納言。

正月七日に五位以上の官人と宴を催している。小倉王()・石浦王()に從五位下、多治比眞人長野紀朝臣家守に從四位上、紀朝臣鯖麻呂に正五位上、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)に從五位上、和朝臣國守(和史。和連諸乙に併記)安都宿祢眞足(阿刀宿祢。子老に併記)・文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)・藤原朝臣眞作()・「大伴宿祢永主」・大原眞人越智麻呂(年繼に併記)・「和朝臣三具足」・石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)・巨勢朝臣家成(宮人に併記)・大春日朝臣諸公(五百世に併記)・「安倍朝臣廣津麻呂」・坂本朝臣大足(繩麻呂に併記)・田口朝臣清麻呂(祖人に併記)・笠朝臣小宗(雄宗。始に併記)・三方宿祢廣名(御方宿祢。大野に併記)・紀朝臣兄原(眞子に併記)・佐伯宿祢老に從五位下、下道朝臣長人(色夫多に併記)・丹比宿祢稻長(丹比新家連稻長。丹比宿祢を賜姓)・船連稻船(庭足に併記)・「秦忌寸長足」に外從五位下を授けている。宴を催してそれぞれに禄を賜っている。

九日に文室眞人子老(於保に併記)に従五位上、平群朝臣牛養(久度神に併記)に従五位下、女孺の藤原朝臣宇都都古(夜志芳古に併記)・大原眞人明(年繼に併記)に従五位下を授けている。十五日に伊勢朝臣水通(諸人に併記)に従五位下を授けている。十六日に五位以上の官人と内裏で宴会を行い、百官の主典以上を朝堂でもてなし、それぞれに禄を賜っている。

<大伴宿祢永主>
また、右大臣の藤原朝臣是公(黒麻呂)に従二位、大伴宿祢不破麻呂に正五位上、紀朝臣白麻呂(本に併記)健部朝臣人上(建部公人上)に従五位上を授け、藤原朝臣小黒麻呂藤原朝臣種繼(藥子に併記)を中納言に任じている。

● 大伴宿祢永主

中納言家持の子、旅人の孫と知られている。それなりの才覚があれば、順調に昇進したであろうが、「家持」が事件に関わり、それに連坐して配流されてしまったようである。

後に復位されるのであるが、その時点まで生き永らえていたのか、委細は不明である。「家持」の子孫が歴史の表舞台に登場することはないように思われる。

永主=山稜が長く真っ直ぐに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。續紀中では、右京亮に任じられた後、延暦四(785)年八月に配流された経緯が記載されている。

<和朝臣三具足-家麻呂>
● 和朝臣三具足

ほんの少し前に和史家吉が「和朝臣」の氏姓で外従五位下から内位に従五位下を叙位されていた。高野新笠(高野朝臣)の係累が一気に日の目を見ることになった様相である。

今回の人物は、勿論、その一族であり「武助」の谷間を出自としていたと思われる。名前の三具足=三段に並んだ[足]のような山稜が谷間にあるところと解釈される。図に示した場所として求めることができる。

また、別の解釈としては、具足=兜とすると、[兜]のような山稜が三つ並んでいるところとなる。こちらの方が、分り易いかもしれない。

後になるが、和朝臣家麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「國守」の子と知られている。聖武天皇の従弟になる。出自を父親の近隣と図に示した場所と推定した。渡来系の人物として、初めて公卿に列し、最終従三位・中納言となったと伝えられている。

<安倍朝臣廣津麻呂>
● 安倍朝臣廣津麻呂

少々先読みをしてみると、この後に七度ほど登場され、翌年には「皇后宮大進從五位下安倍朝臣廣津麻呂爲兼常陸大掾」、最後は「從五位上安倍朝臣廣津麻呂爲式部少輔。春宮亮越前介如故」と記載されている。

藤原朝臣乙牟漏が皇后となり、その子の安殿親王が皇太子となる時代の流れに寄り添っていることが分かる。この人物は、「乙牟漏」の近隣を出自としていたのではなかろうか。

廣津=水辺で[筆]の形のような地が広がっているところと解釈すると、現在の大川と落合川の合流地点が出自と推定される。幼馴染の気心の知れた間柄だった、のであろう。

それにしても、多くの人材が登場して来た地域であったが、すっぽりと空いていた中州、漸くにして登場である。「乙牟漏」の出自場所、「安倍朝臣」(元は布勢朝臣)の地であったことが確認されたように思われる。

<秦忌寸長足>
● 秦忌寸長足

「秦忌寸」に関しては、無姓の人々に賜姓したりと、やや錯綜として来ているが、本家では伊波太氣(石竹)が幾度か登場している。爵位は外従五位下であり、高位には届いていない様子である。

今回の人物も系譜不詳であるが、本家の地で出自場所を求めてみよう。現地名は田川郡赤村赤周辺である。

長足=谷間が長く延びた[足]のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「石竹」等の既出の人物の合間に位置していることが解る。

地味に空白の地が埋まって行く様子である。この後に豊前介に任官されているが、昇進もなく、以後の消息は不明である。

二月辛巳。授女孺无位百濟王眞徳從五位下。己丑。從三位大伴宿祢家持爲持兼征東將軍。從五位上文室眞人与企爲副將軍。外從五位下入間宿祢廣成。外從五位下阿倍猿嶋臣墨繩。並爲軍監

二月<辛巳?>、女孺の百濟王眞徳(②-)に従五位下を授けている。<己丑?>、大伴宿祢家持を兼務で持節征東將軍、文室眞人与企(与伎)を副將軍、入間宿祢廣成(物部直廣成)・阿倍猿嶋朝臣墨繩(日下部淨人に併記)を軍監に任じている。

三月甲戌。宴五位已上。令文人賦曲水。賜祿有差。乙亥。授外正六位上丸子連石虫外從五位下。以獻軍粮也。丙申。先是。伊豫國守吉備朝臣泉。与同僚不恊。頻被告訴。朝庭遣使勘問。辭泏不敬。不肯承伏。是日下勅曰。伊豫國守從四位下吉備朝臣泉。政跡無聞。犯状有着。稽之國典。容寘恒科。而父故右大臣。往學盈歸。播風弘道。遂登端揆。式翼皇猷。然則伊父美志。猶不可忘。其子愆尤。何無矜恕。宜宥泉辜令思後善。但解見任以懲前惡。乙酉。以外從五位下筑紫史廣嶋爲近衛將監。播磨大掾如故。外從五位下下道朝臣長人爲大和介。從四位上多治比眞人長野爲伊勢守。從五位下藤原朝臣繩主爲介。正五位上紀朝臣鯖麻呂爲尾張守。從五位上藤原朝臣黒麻呂爲遠江守。從五位上文室眞人与企爲相摸守。近衛將監從五位下佐伯宿祢老爲兼介。從五位下三國眞人廣見爲能登守。大外記外從五位下朝原忌寸道永爲兼越後介。外從五位下上毛野公薩摩爲但馬介。中宮大夫内藏頭從四位上紀朝臣家守爲兼備前守。從五位下文室眞人於保爲備後守。正五位下百濟王武鏡爲周防守。從五位下石川朝臣淨繼爲讃岐介。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂爲兼伊豫守。從五位下多治比眞人乙安爲肥後守。丁亥。叙從三位氣太神正三位。

三月三日に五位以上と宴会を行い、文人に曲水の詩を作らせ、それぞれに禄を賜っている。四日に「丸子連石虫」に外従五位下を授けている。兵糧を献上したからである。<甲申(十三日)?>これより先に伊豫國守である吉備朝臣泉(眞備に併記)は、同僚の官人と協調せず、何度も告訴されていた。そこで朝廷が使を派遣して勘問したところ、不敬に当たる言葉があり、承服しようとはしなかった。

この日、次のような勅を下している・・・伊豫國守の吉備朝臣泉については、その政治上の功績に見るべきものがなく。犯した罪は明白である。これを國の掟に照らし合わせると、定められた罪科に処すべきである。しかし、父である故右大臣(眞備)は唐に渡り多くのものを学び帰って、風俗を改良し、道徳を広め、ついに大臣の地位にまでのぼり、天子の政治を助けた。そういうことであるから、まさに父の立派な志を忘れてはならないのであり、その子のあやまちはどうして憐れんで許さないことがあろうか。「泉」の罪を許して将来正しい道を歩むことを考えさせるべきである。但し、現在の任は解いて、以前の悪事を懲らしめることにせよ・・・。

十四日に、筑紫史廣嶋を播磨大掾のままで近衛將監、下道朝臣長人(色夫多に併記)を大和介、多治比眞人長野を伊勢守、藤原朝臣繩主()を介、紀朝臣鯖麻呂を尾張守、藤原朝臣黒麻呂()を遠江守、文室眞人与企(与伎)を相摸守、近衛將監の佐伯宿祢老を兼務で介、三國眞人廣見(千國に併記)を能登守、大外記の朝原忌寸道永(箕造に併記)を兼務で越後介、上毛野公薩摩(大川に併記)を但馬介、中宮大夫・内藏頭の紀朝臣家守を兼務で備前守、文室眞人於保(長谷眞人)を備後守、百濟王武鏡(①-)を周防守、石川朝臣淨繼を讃岐介、右衛士督の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で伊豫守、多治比眞人乙安を肥後守に任じている。

<丸子連石虫・丸子部勝麻呂>
十六日に氣太神(能登國氣多神)に正三位を授けている。

● 丸子連石虫

「丸子連」は、聖武天皇紀に陸奥國小田郡で金が発掘されて大騒ぎとなった時に登場した氏姓であった。宮麻呂が私的に得度したのを公的に認めて法名と僧位を授けたと記載されていた。

その後に登場することもなく、ここに至って漸く叙爵された人物が現れたようである。金の採掘が継続されていたのか、詳細が語られることもなく、小田郡は鎮まりかえっている様子である。

石蟲=山麓の小高い地の傍らに三つに細かく岐れた山稜が延び出ているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。この後に登場することもなくであるが、「丸子連」そのものも二度とお目に掛かることはないようである。

直後に陸奥國小田郡大領の丸子部勝麻呂が蝦夷征討に従軍したことから外従五位下を叙爵されている。部=近隣勝=盛り上がっている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。上記と同様、その場限りの登場である。

夏四月壬寅。授正六位上上毛野公我人外從五位下。」以外從五位下忌部宿祢人上爲神祇大祐。從五位上海上眞人三狩爲右中辨。從五位下藤原朝臣是人爲中務少輔。從五位下石川朝臣魚麻呂爲左大舍人助。從五位上藤原朝臣菅繼爲治部大輔。從五位上大中臣朝臣諸魚爲兵部大輔。少納言如故。從四位下淡海眞人三船爲刑部卿。大學頭因幡守如故。從五位上橘朝臣綿裳爲大判事。參議正四位下神王爲兼大藏卿。從五位下安倍朝臣弟當爲少輔。從五位下紀朝臣繼成爲大膳亮。從五位上宗形王爲大炊頭。從五位下山口王爲鍛冶正。從五位下川邊朝臣淨長爲主油正。外從五位下丹比宿祢眞淨爲内掃部正。正四位下藤原朝臣鷹取爲左京大夫。從五位下田口朝臣清麻呂爲右京亮。外從五位下上毛野公我人爲衛門大尉。從五位下大原眞人越智麻呂爲隼人正。外從五位下津連眞道爲右衛士大尉。近江大掾如故。從五位下紀朝臣眞人爲攝津亮。從五位下和朝臣三具足爲上総介。外從五位下飛鳥戸造弟見爲飛騨守。從五位下路眞人玉守爲上野介。從五位下文室眞人眞老爲長門守。從五位下正月王爲土左守。從五位下大春日朝臣諸公爲防人正。從五位下多治比眞人年持爲日向守。丁未。以從五位下巨勢朝臣家成爲大監物。從五位下吉田連古麻呂爲内藥正。侍醫如故。外從五位下出雲臣嶋成爲侍醫。從五位上藤原朝臣眞葛爲右大舍人頭。外從五位下丹比宿祢稻長爲内藏助。從五位下笠朝臣雄宗爲中衛少將。從五位下藤原朝臣眞友爲越前介。辛亥。大僧都弘耀法師上表辞任。詔許之。因施几杖。己未。參議中宮大夫從四位上紀朝臣家守卒。家守大納言兼中務卿正三位麻呂之孫。大宰大貳正四位下男人之子也。庚午。以從五位下紀朝臣作良爲右少弁。外從五位下船連稻船爲主計助。從五位下安倍朝臣眞黒麻呂爲宮内少輔。從五位下藤原朝臣内麻呂爲右衛士佐。從五位下紀朝臣豊庭爲甲斐守。正五位上巨勢朝臣苗麻呂爲信濃守。從五位下三嶋眞人大湯坐爲因幡介。從五位下御方宿祢廣名爲筑後守。

四月二日に上毛野公我人(大川に併記)に外従五位下を授けている。この日、忌部宿祢人上(止美に併記)を神祇大祐、海上眞人三狩(三狩王)を右中辨、藤原朝臣是人を中務少輔、石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)を左大舍人助、藤原朝臣菅繼を治部大輔、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を少納言のままで兵部大輔、淡海眞人三船を大學頭・因幡守のままで刑部卿、橘朝臣綿裳を大判事、參議の神王()を兼務で大藏卿、安倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)を少輔、紀朝臣繼成(大純に併記)を大膳亮、宗形王を大炊頭、山口王()を鍛冶正、川邊朝臣淨長(東人に併記)を主油正、丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)を内掃部正、藤原朝臣鷹取()を左京大夫、田口朝臣清麻呂(祖人に併記)を右京亮、上毛野公我人(大川に併記)を衛門大尉、大原眞人越智麻呂(年繼に併記)を隼人正、津連眞道(眞麻呂に併記)を近江大掾のままで右衛士大尉、紀朝臣眞人(大宅に併記)を攝津亮、和朝臣三具足を上総介、飛鳥戸造弟見を飛騨守、路眞人玉守(鷹養に併記)を上野介、文室眞人眞老(長嶋王に併記)を長門守、正月王(牟都岐王)を土左守、大春日朝臣諸公(五百世に併記)を防人正、多治比眞人年持(歳主に併記)を日向守に任じている。

七日に巨勢朝臣家成(宮人に併記)を大監物、吉田連古麻呂(斐太麻呂に併記)を侍醫のままで内藥正、出雲臣嶋成を侍醫、藤原朝臣眞葛()を右大舍人頭、丹比宿祢稻長(丹比新家連)を内藏助、笠朝臣雄宗(始に併記)を中衛少將、藤原朝臣眞友()を越前介に任じている。

十一日に大僧都の弘耀法師は上表文を奉って辞任しようとし、詔して、これを許し肘付きと杖を与えている。十九日に参議・中宮大夫の「紀朝臣家守」が亡くなっている。「家守」は大納言兼中務卿の「麻呂」の孫で、大宰大貳の「男人」の子であった(こちら参照)。

三十日に紀朝臣作良を右少弁、船連稻船(庭足に併記)を主計助、安倍朝臣眞黒麻呂(阿倍朝臣。常嶋に併記)を宮内少輔、藤原朝臣内麻呂()を右衛士佐、紀朝臣豊庭(豊賣に併記)を甲斐守、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を信濃守、三嶋眞人大湯坐(大湯坐王)を因幡介、御方宿祢廣名(三方宿祢。大野に併記)を筑後守に任じている。

五月辛未朔。勅曰。比年。國師遷替。一同俗官。送故迎新。殊多勞擾。教導未宣。弘益有虧。永言其弊。理須改革。自今以後。宜擇有智有行爲衆推仰者補之。其秩滿之期。六年爲限。如有身死及心性麁惡爲民所苦者。隨即与替。庚辰。左京大夫正四位下藤原朝臣鷹取卒。癸未。攝津職言。今月七日夘時。蝦蟇二万許。長可四分。其色黒斑。從難波市南道。南行池列可三町。隨道南行。入四天王寺内。至於午時。皆悉散去。丙戌。勅遣中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。從三位藤原朝臣種繼。左大弁從三位佐伯宿祢今毛人。參議近衛中將正四位上紀朝臣船守。參議神祗伯從四位上大中臣朝臣子老。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。衛門督從四位上佐伯宿祢久良麻呂。陰陽助外從五位下船連田口等於山背國。相乙訓郡長岡村之地。爲遷都也。己丑。授正六位上藤原朝臣乙叡從五位下。甲午。攝津職史生正八位下武生連佐比乎貢白燕一。賜爵二級并當國正税五百束。」散位頭從四位下百濟王利善卒。

五月一日に次のように勅されている・・・この頃、國師の転任・交替は、世俗の官職と同じことで、前任者を送り後任者を迎える折に特に手数と煩いが多い。朕の教導が広く行き渡らず、益を弘めるのに不十分なところがある。永くその弊害の続くことを思うと、道理として改革すべきである。今後は優れた知識を持ち修行も積んで、多くの僧侶が尊び仰ぐ者を選んで任命せよ。任期は六年を限度とするように。もし死亡したり、性格が悪く人民の重荷となるような者であれば、その時はすぐに交替させよ・・・。

十日に左京大夫の藤原朝臣鷹取()が亡くなっている。十三日に攝津職が以下のように言上している・・・今月七日の卯の時(午前六時頃)、長さ四分ほどで色が黒くまだらな蝦蟇が二万匹ほどが、難波の市の南の道の南にあるたまり水から、約三町ばかり連なって道に従って南行し、四天王寺の境内に入り、午の刻(午前十二時頃)になって全て散り散りになった・・・<下記参照>。

十六日に勅して、中納言の藤原朝臣小黒麻呂藤原朝臣種繼(藥子に併記)、左大弁の佐伯宿祢今毛人、参議・近衛中将の紀朝臣船守、参議・神祇伯の大中臣朝臣子老、右衛士督の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)、衛門督の佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)、陰陽助の船連田口(腰佩に併記)等を山背國に遣わして、「乙訓郡長岡村」の地を視察させている。都を遷すためである(長岡宮参照)。

十九日に藤原朝臣乙叡()に従五位下を授けている。二十四日に攝津職史生の「武生連佐比乎」が「白燕」一羽を貢上したので、位二級とその國の正税五百束を賜っている。散位頭の百濟王利善(①-)が亡くなっている。

<武生連佐比乎-朔>
● 武生連佐比乎

攝津職史生と記載れているが、河内國古市郡を居処とする武生連一族を出自とする人物と推測される。元は「馬毘登」の氏姓であったが称徳天皇紀に賜姓されていた。

直近では送渤海客使の鳥守が登場し、紆余曲折があったが、任務を果たして帰還し、その後に外従五位下を叙爵されていた。

既出の文字列である佐比乎=左手のような山稜が並んでいる地で谷間が息を吐くように延び広がっているところと解釈される。図に示したように少々山稜を広く大きく捉えた表記と思われる。お褒めを貰ったのだが、その後の官人としての活躍は不明のようである。

後の延暦七(788)年二月に
<白燕>
安殿親王の乳母の一人である武生連朔が従五位下を叙爵されて登場する。前記で安殿親王の名前の由来に関して述べた若干言及した。

あらためて、「朔」の出自場所を求めると、朔=屰+月=山稜の端が向かい合うように延びている様と解釈され、図に示した辺りと推定される。

白燕

久々に”白〇”献上物語となっている。勿論、”白い燕”を献上したのではなく、攝津國にある燕の形をした山稜が二つ並んでいることを言上したのであろう。

その地形を図に示した場所に見出せる。難波宮(難波長柄豊埼宮)の東側に当たる地域であり、王等の居処があったと推定したが、まだまだ未開の地だったのであろう。幾度かの”白燕”献上が記載されて来たが(こちら参照)、珍しいことには違いない。

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さて、気になるのが以下の記述・・・癸未。攝津職言。今月七日夘時。蝦蟇二万許。長可四分。其色黒斑。從難波市南道。南行池列可三町。隨道南行。入四天王寺内。至於午時。皆悉散去・・・一般的な読み下しは、上記のようだが・・・である。

「蝦蟇」に関しては、称徳天皇紀に肥後國八代郡の「蝦蟇」が隊列を組んで、何処かに消えてしまったと記載されていた。これも八代郡の地形を詳細に物語る記述と解読した(こちらこちら参照)。やはり、今回も同様な記述かと思われる。

<蝦蟇が四天王寺へ①>
夘時蛇行する川の前で山稜の端が小高くなっている
蝦蟇二万許杵突くように延びている耕地の前で蝦蟇と二匹の萬が並んでいる
長可四分長い谷間が二つに分れ
其色黒斑箕のような山稜がある渦巻くように小高くなった地の麓に炎のように延び出た山稜と玉のようの山稜が交差している
從難波市南道難波に集まる南道に従うと
南行池列可三町水辺をうねりくねって南に行くと谷間が列をなして三つの平らなところがある
隨道南行道に従って南に行くと
入四天王寺内四天王寺境内に入る
至於午時蛇行する川の前で旗のような山稜が交差する地に至る

・・・と解釈される。

今回は多くの蝦蟇の地形ではなく、蝦蟇二万(萬)=二匹の萬(蠍)が並んでいると解釈する。長可四分其色黒斑は、更に詳細に現在の二先山の地形を表記しているのである。列可三町は、難波三津之浦の別表記であろう。四天王寺を通り抜けて、至於午時は、時刻を表しているように思わせて、きっちりと地形を表している。

<蝦蟇が四天王寺へ②>
上図では省略しているが、最後の皆悉散去は、この一文を締める相応しい、と言うか難解な表記なのだが、読み解くと・・・、

「皆」=「比+自」=「並び揃う様」、「悉」=「釆+心」=「真ん中に動物の爪のような形の山稜がある様」、「散」=「㪔+肉」=「引き千切る様」、「去」=「大+𠙴」=「平らに窪んだ様」

・・・と解釈される。纏めると皆悉散去=並び揃っている動物の爪のような山稜が谷間の真ん中で引き千切られて平らに窪んだ地になっているところと読み解ける。

古事記に記載された神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が東行を思い立った時訪れた「豐國宇沙」の地形を表していることが解る(こちらこちら参照)。通常、「宇沙」は現在の大分県宇佐と解釈されているが、明らかに”豊前”と”豊後”の領域に齟齬が生じている。黙して語らぬ古代史学である。

間違いなく、万葉歌にも地形象形表記が用いられているのであろう・・・となれば、それを紐解けば多くの地形情報が得られるような気になるが、後日としよう。

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