2024年8月6日火曜日

今皇帝:桓武天皇(5) 〔688〕

今皇帝:桓武天皇(5)


延暦二(西暦783年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

秋七月癸巳。左京人散位從六位上金肆順賜姓海原連。右京人正六位上金五百依海原造。越前國人外正七位上秦人部武志麻呂依請賜本姓車持。甲午。詔以大納言正三位藤原朝臣是公爲右大臣。中衛大將如故。中納言正三位藤原朝臣繼繩爲大納言。中務卿如故。從三位大伴宿祢家持爲中納言。春宮大夫如故。正四位下石川朝臣名足。紀朝臣船守並授正四位上。從五位下笠朝臣名麻呂從五位上。正六位上布勢朝臣大海從五位下。戊戌。勅石見國介正四位下藤原朝臣鷹取。土左國介從五位下藤原朝臣末茂等。令得入京。庚子。從三位藤原朝臣種繼爲式部卿兼近江按察使。左衛士督如故。從五位上中臣朝臣常爲民部少輔。從五位上藤原朝臣菅繼爲主計頭。從五位下石川朝臣宿奈麻呂爲兵部少輔。從五位下布勢朝臣大海爲典藥頭。參議民部卿正三位藤原朝臣小黒麻呂爲兼左京大夫。從五位下紀朝臣田長爲伊豫介。」大宰帥正二位藤原朝臣魚名薨。魚名贈正一位太政大臣房前之第五子也。天平末。授從五位下補侍從。稍遷。寳字中至從四位宮内卿。神護二年。授從三位。爲參議。寳龜初。加正三位。拜大納言。尋兼中務卿。八年授從二位。年已長老。次當輔政。拜爲内臣。未幾有勅。改号忠臣。十年進爲内大臣。天應元年。授正二位。俄拜左大臣兼大宰帥。延暦元年。坐事免大臣。出之任所。至攝津國。病發留連。有勅聽便留別業以加療焉。居二年。召還京師。薨時年六十三。詔別賜絁布米塩及役夫等。乙巳。詔曰。疇庸叙功。彰于舊典。赦過宥罪。着自前經。故大宰帥正二位藤原朝臣魚名。乃祖乃父。世着茂功。或盡忠義而事君。或宣風猷以伏時。言念於此。無忘于懷。今故贈以本官。酬其先功。宜去延暦元年六月十四日所下詔勅官符等類。悉皆燒却焉。

七月十八日に左京の人である散位の「金肆順」に「海原連」、右京の人である「金五百依」に「海原造」の氏姓を賜っている。また、越前國の人である「秦人部武志麻呂」に申請に依って本姓である「車持」を賜っている。

十九日に詔されて、大納言の藤原朝臣是公(黒麻呂)中衛大將のままで右大臣、中納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を中務卿のままで大納言、從三位の大伴宿祢家持を春宮大夫のままで中納言に任じている。また、石川朝臣名足紀朝臣船守に正四位上、笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)に從五位上、「布勢朝臣大海」に從五位下を授けている。

二十三日に石見國介の藤原朝臣鷹取()、土左國介の藤原朝臣末茂()等に勅して、入京することを許している。

二十五日に藤原朝臣種繼(藥子に併記)を左衛士督のままで式部卿兼務で近江按察使、中臣朝臣常(宅守に併記)を民部少輔、藤原朝臣菅繼を主計頭、石川朝臣宿奈麻呂を兵部少輔、「布勢朝臣大海」を典藥頭、參議・民部卿の藤原朝臣小黒麻呂を兼務で左京大夫、紀朝臣田長(船守に併記)を伊豫介に任じている。

大宰帥の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)が薨じている。「魚名」は太政大臣「房前」の第五子であった。天平の末に従五位下を授けられ侍従に任ぜられた。やがて転任して天平寶字年間に従四位・宮内卿に至り、天平神護二(766)年に従三位を授けられ参議となった。寶龜の初めに正三位に叙せられて大納言を拝し、ついで中務卿を兼ね、八年に従二位を授けられた。年齢は既に長者となり、ついで天皇の政務を助けることになり、内臣に任ぜられた。

それから間もなく勅があって、改めて忠臣と号した。十年に進んで内大臣となり、天應元(781)年に正二位を授けられ、にわかに左大臣に任じられて大宰帥を兼任した。延暦元(782)年に罪に触れて大臣を免ぜられ、任地に行く途中、攝津國に至って病が起こり、留まって滞在した。勅があって、そのまま別業に留まって治療を加えることを許された。居ること二年で、召されて京師に還った。薨じた時、六十三歳であった。詔して絁・麻布・米・塩及び役夫等を与えている。

三十日に次のように詔されている・・・功績に酬い手柄に序列をつけることは、古典に明らかに記され、過ちを赦し罪を宥すことは昔の経籍にも書かれている。故大宰帥の藤原朝臣魚名は、その祖父、父以来、代々立派な功績を立てている。あるいは忠義を尽くして君主に仕え、あるいは風俗・道徳を明示して、うやうやしく仕えた。ここにこれを念い、心中に忘れることはない。今それで元の官である左大臣を贈り以前の功に酬いる。去る延暦元年六月十四日に下した詔・勅・官符などの類は、悉く皆焼却せよ・・・。

<金肆順・金五百依>
● 金肆順・金五百依

同じ氏名及び賜姓された氏名が同じで、左右京に分かれている・・・居処が境界線を跨いでいる、と読み解いた。光仁天皇紀に左京人の「寞位百足」と右京人の「寞位眞士麻呂」が登場し、同じ清津造を賜姓されていた(”靈龜”のこちら参照)。

更に古くは称徳天皇紀に宿祢姓を賜った神麻續連一族が登場していた。平城宮の”北方”の地を左右境界線が通る場所であり、「寞位」一族は平城宮の”南方”を居処としていたと解釈した。

金肆順に含まれる文字は、名称に用いられた初見と思われる。「肆」=「長+聿」=「[筆]の形の山稜が長く延びている様」、「順」=「[順]の古文字形のように山稜が延びている様」と解釈すると、肆順=[順]の古文字形のように延びた山稜の前で[筆]の形の山稜が長く延びているところと読み解ける。図に示した長丘連の北隣の場所が出自と推定される。

金五百依の既出の文字列である五百依=谷間にある山稜の端の前で連なった小高い地が交差するように延びているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。そして、見事にこの二人の間を左右京の境界線が貫いていることが解る。各々が賜った海原連及び海原造海原=水辺で母が子を抱くように延びた山稜に囲まれた平らに広がったところと読むことができる。

<秦人部武志麻呂>
● 秦人部武志麻呂

越前國の住人と記載されているが、広大な領域から居場所を突き止めるのは、些か難しい状況ではある。がしかし、自ら申し出た改名「車持」が重要な情報を提供してくれていることが分かる。

車持=[車]のような丸く小高い地を手で持つように山稜が延びているところと解釈した。車持朝臣一族の出自場所の地形である。その地形を足羽郡の地に見出せる。

秦人部=山稜が二つ並んで延び出た間の谷間に近いところ武志=蛇行する川の傍らで戈のような形をした山稜の端が延びているところと解釈すると、図に示した場所がこの人物の居処と推定される。

「車持」の由来は、”天皇の乗與を供進したことから”、とされるが、書紀の戯れに惑わされているだけであろう。續紀は、それとなく車駕とは無関係であるとし、地形に基づく表記であることを暗示するような記述を行っているようである。勿論、この場限りの登場である。

<布勢朝臣大海>
● 布勢朝臣大海

「布勢朝臣」一族が「阿倍朝臣」に改名されて、その名称が暫く途切れていたが、淳仁天皇紀になって本来の氏名を名乗る人物が登場し始めていた。

その一人が清道(直)であり、送唐客使を務めた功績から正五位下まで昇進しているが、人材輩出とまでには至っていないようである。

既に述べたように「布勢朝臣」と名乗る一族は、現在の北九州市門司区寺内辺りを居処としていたと推測した。戸ノ上山の北麓に当たる場所である。

今回登場の既出の文字列である大海=平らな頂の山稜が母が子を抱くように延びて囲まれたところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。この後、京官・地方官を任じられたと記載されているが、昇進はなかったようである。

八月辛酉。散事從四位下石川朝臣毛比卒。壬戌。授從七位下上道臣千若女外從五位下。壬申。授外從五位下和朝臣家吉。眞神宿祢眞絲並從五位下。 

八月十六日に散事の石川朝臣毛比が亡くなっている。十七日に「上道臣千若女」に外従五位下を授けている。二十七日に和朝臣家吉(和連諸乙に併記)・「眞神宿祢眞絲」に従五位下を授けている。

<上道臣千若女>
● 上道臣千若女

上道臣斐太都は、『奈良麻呂の乱』に関わって頭角を現し、後に朝臣姓を賜って、最終従四位下・備前國造まで昇進した人物であった。

備前國上道郡の人であって、備中國の吉備上道(例えばこちら参照)の人ではない。吉備國を備前・備中・備後・美作の四國に分割したのではなく、備中(本来の吉備國)の周辺を拡大統治領域としたのである。

淳仁天皇紀には廣羽女(斐太都に併記)が外従五位下を叙爵されて登場していた。多分、今回登場の「千若女」も彼等の近隣を出自とする女官であったと推測される。

千若=多くの山稜が延びてている前で谷間を束ねるような地があるところと解釈すると、図に示した、備前國上道郡と美作國勝田・久米郡との端境の場所と推定される。暫く後に内位の従五位下を叙爵されている。

<眞神宿祢眞絲>
● 眞神宿祢眞絲

「眞神宿祢」は記紀・續紀を通じて初見の氏姓である。関連する情報を調べると、漢福徳王の子孫であって、「大和國十市郡」を居処とする一族だったことが分かった。

「十市郡」も同様に初見、と言うか、記紀・續紀には登場しない。古事記の大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)紀に「十市縣」が記載されている。この縣及びその周辺を表していたのであろう(こちらこちら参照)。

眞神=高台が延びて窪んだ地に寄り集まっているところと解釈すると、図に示した山麓の地形を表していることが解る。眞絲=細かく延びた山稜の端が窪んだ地に寄り集まっているところと解釈される。出自の場所を図に示した。十市之入日賣命の背後になるが、渡来した人々が居処としたのであろう。

九月丙子。近江國言。除王姓從百姓戸五烟。口一百一人。戸主槻村。井上。大岡。大魚。動神等五人。並山村王之孫也。其祖父山村王。以去養老五年。編附此部。自尓以來。子孫蕃息。或七八世。分爲數烟。依格。六世以下。除承嫡者之外。可科課役。望請。承嫡之戸。遷附京戸。自餘与姓科課。於是下所司。検皇親籍。無山村王之名。仍從百姓之例。但不与眞人之姓。

九月二日に近江國が以下のように言上している・・・王の身分から臣籍に下って公民となった戸が五戸ある。戸口は百一人である。戸主の「槻村・井上・大岡・大魚・動神」等の五人は、いずれも「山村王」の孫である。祖父の「山村王」は、去る養老五(721)年にこの管内の戸籍に編入された。それより以来、子孫が繁栄して増加し、七、八世目で、分かれて数戸となった。---≪続≫---

格によると、六世以下の皇族の子孫は、嫡子として家をつぐ者以外は、課役を負担させることになっている。嫡子となって後を継いだ戸は京内に戸籍を戻し、その他は姓を与えて課役を負担させるようにして頂きたいと思う・・・。そこで所管の役所に下して皇族の籍を調べると、「山村王」の名はなく、一般の人民と同様に扱うこととし、眞人姓は与えないこととする。

<近江國:槻村・井上・大岡・大魚・動神>
● 槻村・井上・大岡・大魚・動神

臣籍降下した王の子孫が蔓延ったのだが、賜姓されずにいたのであろう。近江國の何処に降下したのか、彼等の名称から、その場所を突止めてみよう。

近江國は広範囲に領域拡大しているのだが、一方で既に登場した場所も多数存在し、古代より栄えた地域だったのである。

先ずは、先人の居処ではない場所を中心に探索すると、文武天皇紀に献上された白樊石の場所が思い出せる。近江國蒲生郡の山麓、現地名は京都郡苅田町新津辺りである。

❶槻村手のような山稜が延びた前に丸く小高い地があるところ
❷井上四角く囲まれた地に上にあるところ
❸大岡平らな頂の山稜が[岡]の形に延びてるところ
❹大魚平らな頂の山稜が[魚]の形に広がっているところ
❺動神延びた高台の前が押し被せるように突き出ているところ

・・・と解釈される。各々の出自場所を図に示したように求めることができる。

彼等の祖父である「山村王」は、五、六世前の天皇の子とすると、舒明・孝徳天皇あたりが該当するのではなかろうか。すると孝謙天皇紀に一挙に三嶋眞人を賜姓された舒明天皇の蚊帳皇子の後裔の例が記載されていた。不幸にも「山村王」の素性を確認できず、”白樊眞人?”の氏姓を賜ることが叶わなかったようである。

冬十月乙巳朔庚戌。治部省言。去寳龜元年以降。増加國師員。或國四人。或國三人。於事准量。深匪允。望請。自今以後。依承前例。大上國各任大國師一人。少國師一人。中下國各任國師一人。許之。戊午。行幸交野。放鷹遊獵。庚申。詔免當郡今年田租。國郡司及行宮側近高年。并諸司陪從者。賜物各有差。又百濟王等供奉行在所者一兩人。進階加爵。施百濟寺近江播磨二國正税各五千束。授正五位上百濟王利善從四位下。從五位上百濟王武鏡正五位下。從五位下百濟王元徳。百濟王玄鏡並從五位上。從四位上百濟王明信正四位下。正六位上百濟王眞善從五位下。壬戌。車駕至自交野。

十月六日に治部省が以下のように言上している・・・去る寶龜元(770)年より以降、國師の定員を、ある國は四人、ある國は三人と増加して来た。考えてみると、これはまことに適切ではない。今後は、従来の例により、大・上國には各々大國師一人、少國師一人を任じ、中・下國には各々國師一人を任じるようにして頂きたいと思う・・・。これを許可している。

十四日に「交野」に行幸されて、鷹を放して遊猟されている。十六日に詔されて、当郡の今年の田租を免じ、國司・郡司及び行宮の近くに住む高齢者、並びに諸司の付随う者に、年齢や地位に応じて物を与えている。また、百濟王氏等で仮の御所に供奉する者一、二人の位を上げている。百濟寺に近江・播磨二國の正税各五千束を施入し、百濟王利善(①-)に従四位下、百濟王武鏡(①-)に正五位下、百濟王元德(②-)・百濟王玄鏡(①-)に従五位上、百濟王明信(①-)に正四位下、百濟王眞善(②-)に従五位下を授けている。

<交野・百濟寺・百濟宮>
<天神於交野柏原>
十八日に「交野」から帰還している。

交野・百濟寺

「交野」は、元明天皇紀に登場した河内國交野郡や光仁天皇紀に難波宮(難波長柄豊埼宮)に向かう途中で交野に立寄ったと記載されていた。既に述べたように「交野」は固有の地名ではない。

勿論、今回も同様であり、書紀の舒明天皇紀に記載された百濟寺・百濟宮周辺にあった「交野」を表していると推測される。

舒明天皇紀では、”百濟川の畔にある大寺”と記され、「百濟寺」の名称は、孝徳天皇紀に選ばれた僧十師の中の惠妙法師を寺主にしたと記載されたのが初見であるが、今紀まで登場することはなかった。天武天皇紀になって高市(大官)大寺が造立されて些か影が薄くなったのかもしれない。

交野=野が交差するように広がっているところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。鷹狩を兼ねて本寺の復興を目論んだようである。おそらく、百濟王一族が帰化して彼等の氏寺として守って来たのであろう。

後に天神於交野柏原を祭祀したと記載される。柏原=山稜がくっ付いている麓が平らに広がっているところと解釈すると、図に示した場所を表していると思われる。天神=高台が長く延びた前が擦り潰したようなところを地形象形している。おそらく重ねた表記なのであろう。

十一月甲戌朔。日有蝕之。乙酉。以從五位下石淵王爲大監物。從五位上藤原朝臣菅繼爲右大舍人頭。大外記外從五位下朝原忌寸道永爲兼大學助。從五位下安倍朝臣草麻呂爲治部少輔。外從五位下安都宿祢眞足爲主計頭。從五位下三嶋眞人大湯坐爲宮内少輔。從五位下大伴王爲正親正。外從五位下嶋田臣宮成爲上野介。常陸介從五位上大伴宿祢弟麻呂爲兼征東副將軍。丁酉。授正四位下百濟王明信正四位上。

十一月一日に地震が起こっている。十二日に石淵王(山上王に併記)を大監物、藤原朝臣菅繼を右大舍人頭、大外記の朝原忌寸道永(箕造に併記)を兼務で大學助、安倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)を治部少輔、安都宿祢眞足(阿刀宿祢。子老に併記)を主計頭、三嶋眞人大湯坐(大湯坐王)を宮内少輔、大伴王()を正親正、嶋田臣宮成を上野介、常陸介の大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を兼務で征東副將軍に任じている。二十四日に百濟王明信(①-)に正四位上を授けている。

十二月甲辰。阿波國人正六位上粟凡直豊穗。飛騨國人從七位上飛騨國造祖門並任國造。戊申。先是。去天平勝寳三年九月。太政官符稱。豊富百姓。出擧錢財。貧乏之民。宅地爲質。至於迫徴。自償其質。既失本業。迸散他國。自今以後。皆悉禁止。若有約契。雖至償期。猶任住居。令漸酬償。至是。勅。先有禁斷。曾未懲革。而今京内諸寺。貪求利潤。以宅取質。廻利爲本。非只綱維越法。抑亦官司阿容。何其爲吏之道。輙違王憲。出塵之輩。更結俗網。宜其雖經多歳。勿過一倍。如有犯者。科違勅罪。官人解其見任。財貨沒官。丁巳。大和國平羣郡久度神叙從五位下爲官社。

十二月二日に阿波國の人である「粟凡直豊穂」、飛騨國の人である「飛騨國造祖門」をそれぞれ國造に任じている。六日、これより先、去る天平勝寶三(751)年九月の太政官符で以下のように述べている・・・豊かで富んだ人民は銭や財物を出挙し、貧乏な人民は宅地を質としている。強く取りたてる時になって、自分からその質物を償還に当て、そのために本業を失ってしまい、他國に逃げて散り散りになる。今後はこのような私出挙は皆悉く禁止せよ。もし契約があり、その償還期限がきても、尚本人の希望にまかせて、自分の家に居住して、漸次に返済して償わせよ・・・。

ここに至って、次のように勅されている・・・さきに禁断の命を出したが、まだ少しも懲り改めていない。今京内の諸寺は、利潤を貪り求め、人民の宅を質に取ったり、利子を元本に繰り入れたりしている。それは三綱が法を無視するだけでなく、官司もこれにおもねり寛大に扱っている。どうしていったい、官吏たるの道がたやすく法に違反し、出家した筈の僧侶のやからが、もう一度俗世間と結びつくのであるか。出挙の利子は多くの歳を経ても元本の一倍を過ぎてはならない。もしこれを犯す者があったら、違勅の罪を科して、官人はその現職を免じ、財貨は政府に没収しよう・・・。

<粟凡直豊穗>
十五日に大和國平群郡の「久度神」に従五位下を授けて官社としている。

● 粟凡直豊穗

「粟凡直」の氏姓は、聖武天皇紀に女官の粟凡直若子が外従五位下を叙爵された時が初見である。阿波國、別名粟國…現地名の北九州市若松区藤木辺りと推定…を居処とする一族と思われる。

称徳天皇紀に麻呂が氏姓の表記が間違っている(凡費)と訴えて、修正されたと記載されていた。いずれにしても、実に旧い姓であって、些か時代に取り残された地域だったのかもしれない。

この時代になっても変わらずの氏姓で登場している。妙に変わるよりも分かり易いのだが・・・豐穗=稲穂のように山稜が延びた前が段々になっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。國造に任じられたのであるが、この後に登場することはないようである。

<飛騨國造祖門>
● 飛騨國造祖門

聖武天皇紀に飛騨國大野郡大領の飛騨國造高市麻呂が外従五位下を叙爵されて登場していた。郡名もさることながら、飛騨國を出自とする人物名の初見であった。

現地名は北九州市門司区黒川西辺りと推定したが、企救半島北部の実に狭隘な場所であり、果たして如何なる人物が幾人登場するのか、やや杞憂するところであった。

今紀になって漸く後続の人物が登場したようである。先ずは出自の場所を求めると、祖門=高台が積み重なった地が谷間の出入口に並んでいるところと解釈される。「高市麻呂」の麓に位置する場所であることが解る。

大領の「高市麻呂」は、その後に地方官を任じられたりしているが、「祖門」はこの後に登場することはないようである。「國造」は、立派な地方官なのかもしれない。

<久度神>
<平群朝臣牛養-清麻呂-竈屋>
久度神

鎮座地は、大和國平羣郡と記載されているが、広い領域であって、かつ地形変形が凄まじい場所でもある。「久度」が表す地形は、頻出の文字列である久度=[く]の字形に曲がる山稜が跨ぐように延びているところとなる。

直近では佐和良臣靜女、また平群朝臣邑刀自等多くの人物が近隣を居処としていたと推定した場所に求める地形があることが解った。図に示したように枝分かれして屈折した山稜が谷間を跨ぐように延びている地形である。

その山稜が届いた先の地形を見ると、変形してはいるが、小高く盛り上がっていたのであろう。そこから幾つかの山稜が延び出ている。この地形、古事記の若御毛沼命(後の神武天皇)が兄の五瀬命を葬った竈山の地形ではなかろうか。

即ち、「久度神」は”竈”の前に鎮座していたことになる。久度(クド)神=竈神である。関西地方に残る”おくどさん”の呼称の由来ではなかろうか。調べると種々の由来が見つかるが、いつものように”火処”が訛ったなどと言われているようである。果たして・・・この場限りの登場で、もう少し戯れて頂きたかった。

● 平群朝臣牛養 直後に従五位下を叙爵されて登場する。牛養=牛の頭部のような山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「久度神」同様に二度とお目に掛かることはないようである。

後(桓武天皇紀)に平群朝臣清麻呂平群朝臣竈屋が従五位下を叙爵されて登場する。淸=氵+靑=水辺で四角く取り囲まれた様竈屋=[竈]のような高台から山稜が延び至るところと解釈すると、図に示した場所がそれぞれの出自の場所と推定される。

戯れるどころか、「竈」を含む名前の人物が登場したわけである。目出度し、であろう。尚、「竈屋」の名前は、縣犬養宿祢竈屋に用いられていた。類似の地形を表す表記として、貴重であろう。

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『続日本紀』巻卅七巻尾