2024年7月30日火曜日

今皇帝:桓武天皇(4) 〔687〕

今皇帝:桓武天皇(4)


延暦二(西暦783年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

三月戊寅朔。授正六位上下毛野朝臣年繼從五位下。己丑。以從四位下豊野眞人奄智爲中務大輔。從五位下伊賀香王爲雅樂頭。正五位上當麻王爲大膳大夫。外從五位下忌部宿祢人上爲主油正。從五位下紀朝臣安提爲左京亮。從四位下和氣朝臣清麻呂爲攝津大夫。從五位下文室眞人忍坂麻呂爲造東大寺次官。從五位上當麻眞人得足爲和泉守。庚寅。丹後國丹波郡人正六位上丹波直眞養任國造。丙申。右大臣從二位兼行近衛大將皇太子傅藤原朝臣田麻呂薨。田麻呂。參議式部卿兼大宰帥正三位宇合之第五子也。性恭謙無竸於物。天平十二年。坐兄廣嗣事。流於隱伎。十四年宥罪徴還隱居蜷淵山中。不預時事。敦志釋典。脩行爲務。寳字中授從五位下。爲南海道節度使副。歴美濃守。陸奧按察使。稍遷。神護初授從四位下。拜參議。歴外衛大將。大宰大貳。兵部卿。寳龜初授從三位。拜中納言。轉大納言兼近衛大將。延暦元年。進爲右大臣。授從二位。尋加正二位。薨時年六十二。戊戌。從五位下吉弥侯横刀。正八位下吉弥侯夜須麻呂。並賜姓下毛野朝臣。外正八位上吉弥侯間人。同姓総麻呂。並賜下毛野公。

三月一日に「下毛野朝臣年繼」に従五位下を授けている。十二日に豊野眞人奄智(奄智王)を中務大輔、伊賀香王(置始女王に併記)を雅樂頭、當麻王()を大膳大夫、忌部宿祢人上(止美に併記)を主油正、紀朝臣安提(本に併記)を左京亮、和氣朝臣清麻呂を攝津大夫、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を造東大寺次官、當麻眞人得足を和泉守に任じている。

十三日に「丹後國丹波郡」の人である「丹波直眞養」を國造に任じている。十九日に右大臣で近衛大将・皇太子傳を兼任する藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)が薨じている。「田麻呂」は参議・式部卿で大宰帥を兼任した宇合の第五子であった。性格が慎み深く謙譲で、何事にも競争することがなかった。天平十二(740)年に兄の「廣嗣」の事に連坐して隠岐に流された。

十四年に罪を許されて呼び返されたが、「蜷淵」の山中に隠居して時の政治に関係しなかった。仏教への志が熱心で、修行を務めとした。天平寶字年間に従五位下を授けられ、南海道節度使の副となり、美濃守・陸奥按察使を歴任し、次第に地位が遷って、天平神護の初めに従四位下を授けられて参議に任ぜられ、外衛大将・大宰大貳・兵部卿を歴任した。

寶龜の初めに従三位を授けられて中納言に任ぜられ、大納言に転任し、近衛大将を兼任した。延暦元年に進んで右大臣となり、従二位を授けられた。薨じた時、六十二歳であった。

二十一日に吉弥侯横刀・吉弥侯夜須麻呂(吉弥侯根麻呂に併記)に下毛野朝臣の氏姓を賜っている。「吉弥侯間人」・「同姓総麻呂」には下毛野公の氏姓を賜っている。

<下毛野朝臣年繼・大野朝臣仲男>
● 下毛野朝臣年繼

「下毛野朝臣」の氏姓は、些か混乱気味なのであるが、初見で内位か、あるいは外位であるかも帰属の判断とすることになる。

何かの意図があるのか、定かではないが、出来得るならば複姓にして貰いたいところである。

愚痴るのはこれくらいにして、この人物は、正真正銘の「下毛野朝臣」一族であろう。系譜不詳故に名前が表す地形から出自場所を求めることになる。

名前の年繼に含まれる「年」=「禾+人」と分解される。するとこの人物は「禾」の地形、言い換えると「禾」を要素とする文字を用いた人物に関わっていたと推測される。そう高くない頻度で登場する一族であるが、稻麻呂…光仁天皇紀に散位・従四位下でなくなっている…が思い当たる。

年繼=谷間ある稲穂のような山稜を引き継いでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に幾度か登場されているが、昇進した記述は見当たらないようである。

後に大野朝臣仲男が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、上記と同様に名前が表す地形、仲男=[男]のような山稜の端が谷間を突き通すように延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に安房守を任じられたと記載されている。

<丹後國丹波郡:丹波直眞養>
丹後國丹波郡

「丹後國」の郡名については、光仁天皇紀に与謝郡が記載されていた。「丹波郡」は初見であり、また、續紀中に更なる郡名は現れないことから、どうやらこの二郡のみが存在していたようである。

些か錯綜としているが、丹=谷間から延び出た山稜の端が小高く広がっている様の地形の背後を””と表現した結果、やはり”丹波”の地形を含んでいることになる。

図に示した通り、「与謝郡」の北隣であり、現在の行政区分でも行橋市と京都郡みやこ町との端境となっている。また、東南部は築上郡築上町に接するという入組んだ場所である。

● 丹波直眞養 地形の標高差が極めて少なく、判別が難しいのであるが、眞養=なだらかな谷間が寄り集まって窪んでいるところの地形を図に示した場所に見出せる。古事記の丹波比古多多須美知能宇斯王の娘である阿邪美能伊理毘売命の出自場所近隣であり、「國造」任命は妥当なところであろう。

<南淵山・細川山>
蜷淵山

初見の山名であるが、「南淵」の別表記に「蜷淵」があった(こちら参照)。ならば書紀の天武天皇紀に禁足地とされた南淵山のことではなかろうか(右図を再掲)。

何と言っても、その麓は額田姫王の出自場所であり、万葉歌に何度か登場するほどの有名山だったのである。

禁足地とされていれば、訪れる人もない人里離れた場所ではある。しかしながら、その場所は「飛鳥」近隣であり(こちら参照)、京からそう遠くはない場所でもある。右大臣「田麻呂」は、隠居しながら京の情報を得ていたのかもしれない。深謀遠慮の人柄だったのであろう。

● 吉弥侯間人・総麻呂 既に吉弥侯根麻呂が「下毛野朝臣」の氏姓を賜っている。また、「吉弥侯横刀・吉弥侯夜須麻呂」は無姓で登場して、その出自の場所を推定した(こちら参照)。いずれにせよ、大きく地形変形していて、古地図を参照しながら当時の地形を推測するのであるが、曖昧さは大きくなっている。

今回の人物も同様であり、参照図(こちら)として、引用するだけに留める。各々の出自場所は、地形象形表記としては、既出の間人=門のような谷間に山稜の端が延びているところ上・下総國で用いられる總=山稜が細かく岐れて延びている様と解釈して求められるように思われる。尚、彼等の居処は遠江國蓁原郡、現地名は遠賀郡水巻町吉田である。

夏四月戊申。右京人從八位上大石村主男足等賜姓大山忌寸。庚申。勅改小殿親王名。爲安殿親王。辛酉。勅曰。如聞。比年坂東八國。運穀鎭所。而將吏等。以稻相換。其穀代者。輕物送京。苟得無恥。又濫役鎭兵。多營私田。因茲。鎭兵疲弊。不任干戈。稽之憲典。深合罪罸。而會恩蕩。且從寛宥。自今以後。不得更然。如有違犯。以軍法罪之。宜加捉搦。勿令侵漁之徒肆濁濫。甲子。詔。立正三位藤原夫人爲皇后。是日引侍臣宴飮。賜祿有差。授正四位下藤原朝臣種繼從三位。從五位下葛井連根主從五位上。正六位上飛鳥戸造弟見外從五位下。命婦從五位下藤原朝臣綿手從五位上。乙丑。勅坂東諸國曰。蠻夷猾夏。自古有之。非資干戈。何除民害。是知。加徂征於有苗。奮薄伐於獫狁。前王用兵。良有以也。自頃年夷俘猖狂。邊垂失守。事不獲已。頻動軍旅。遂使坂東之境恒疲調發。播殖之輩久倦轉輸。念茲勞弊。朕甚愍之。今遣使存慰。開倉優給。悦而使之者。寔惟哲王之愛民乎。凡厥東土。悉知朕意焉。丙寅。授正六位上贄田物部首年足外從五位下。以築越智池也。」左大弁從三位佐伯宿祢今毛人爲兼皇后宮大夫。大和守如故。近衛少將從五位下笠朝臣名麻呂爲兼亮。」左京人外從五位下和史國守等卅五人賜姓朝臣。壬申。從五位下大伴宿祢繼人爲左少弁。從五位下路眞人玉守爲大監物。從五位上海上眞人三狩爲兵部大輔。從五位下巨勢朝臣総成爲遠江介。正五位下布勢朝臣清直爲上総守。甲戌。授正六位上藤原朝臣繩主從五位下。先是。去天平十三年二月。勅處分。毎國造僧寺。必合有廿僧者。仍取精進練行。操履可稱者度之。必須數歳之間。觀彼志性始終無變。乃聽入道。而國司等不精試練。毎有死闕。妄令得度。至是勅。國分寺僧。死闕之替。宜以當士之僧堪爲法師者補之。自今以後。不得新度。仍先申闕状。待報施行。但尼依舊。 

四月二日に右京の人である「大石村主男足」等に「大山忌寸」の氏姓を賜っている。十四日に勅して、「小殿親王」の名を改めて「安殿親王」としている。

十五日に次のように勅されている・・・聞くところによると、近年坂東八國(九國。常陸國を除く)では籾米を陸奥國の鎮所に運んでいるが、指揮官や役人等は稲をもって籾米に換え、軽物に代えて京に送っている。その場限りに利益を得て恥じることがない。また、勝手に鎮兵を使役して多くは自分の田を経営している。これによって鎮兵は疲れ切って、戦闘に堪えることができない。これを法律で考えると、深刻な罪科に相当している。しかるに恩赦に会って、なんとか寛大に見逃してもらっている。今後は二度とそういうことがあってはならない。もし違反する者があったら、軍法をもって罪し逮捕して、侵し漁る者が恣に悪事を働き乱すことがないようにせよ・・・。

十八日に詔して藤原夫人(藤原朝臣乙牟漏)を立てて皇后としている。この日、侍臣を内裏に引き入れ酒宴し、それぞれに禄を賜っている。藤原朝臣種繼(藥子に併記)に従三位、葛井連根主(惠文に併記)に従五位上、「飛鳥戸造弟見」に外従五位下、命婦の藤原朝臣綿手に従五位上を授けている。

十九日に坂東諸國に次のように勅されている・・・蛮夷が中華の國を侵略することは昔よりある。武力によるのでなければ、どうして民の害となる蛮夷を追い払うことができようか。そこで、有苗を征討したり、獫狁に攻め入るなど、昔の優れた王が兵を用いたことは、まことに理由のあることであると納得する。近年蝦夷は狂ったように乱暴を働き、辺境の守りを失った。それ以来事情止むを得ず、度々軍を動かし、ついに坂東の地方を、常に徴発に疲れさせ、農業に従事する人々を輸送に長期間くたびれさせた。この疲れと苦しみを思いやって、朕は大変哀れに思う。今、使を遣わして慰問し、倉を開いて手厚く支給する。喜ばせて使うということがあるが、まことにこれは、優れた王が民を愛していることの表れであろう。およそ東國の地方には、悉く朕の意のあるところを知らせよ・・・。

二十日に「贄田物部首年足」に外従五位下を授けている。「越智池」を築いたからである。左大弁の佐伯宿祢今毛人に大和守のままで皇后宮大夫、近衛少将の笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)に亮を兼任させている。左京の人である和史國守(和連諸乙に併記)等三十五人に朝臣姓を賜っている。

二十六日に大伴宿祢繼人を左少弁、路眞人玉守(鷹養に併記)を大監物、海上眞人三狩(三狩王)を兵部大輔、巨勢朝臣総成(馬主に併記)を遠江介、布勢朝臣清直(清道)を上総守に任じている。二十八日に藤原朝臣繩主()に従五位下を授けている。

これより先、去る天平十三(741)年二月に、勅して[國毎に僧寺を造り、必ず二十人の僧を置け]と処分した。そこで、よく努力して厳しく修行し、心身両面の優れた者を取って得度し、必ず数年間、その者の意志と性格が終始変わらないことを見極めて、それから入道を聴すことにした。しかるに國司等は試験を厳しく行わず、死亡や欠員があるごとに、よいかげんに得度させている。ここに至って、次のように勅されている・・・國分寺の僧に死亡や欠員が生じた時の替りは、その土地の僧で法師となるにふさわしい者をもって任命するようにせよ。今後は、新たに得度してはいけない。まず欠員の生じた事情を申告して、返報を待ってから補充を実施せよ。但し、尼はもとのやり方によって補充せよ・・・。

<大石村主男足>
● 大石村主男足

「大石村主」は、聖武天皇紀に「廣嶋」、孝謙天皇紀に「眞人」が外従五位下を叙爵されて登場していた(こちら参照)。それぞれ叙位の記述以外では記載されることもなく、情報は極めて限られた一族のようである。

応神天皇紀に渡来した阿智使主の後裔とされている一族には違いないであろうが、その居処に関して、殆ど伝えられていないようである。そんな背景ではあり、また、大石=平らな山稜の麓に小高い地があるところから、現地名の田川郡川崎町池尻辺りと推定した。

残念ながら、汎用的な名称であり、一に特定するのは難しいが、今回登場人物を含めて確度が高まることを期待したい。男足=突き出た山稜の先が[足]のように岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

賜った大山忌寸大山=平らな頂の山稜が[山]の形に延びているところと解釈すると、書紀の皇極天皇紀に記載された菟田山の形を表していると思われる。彼等の居処がある山稜の中元寺川下流域に…彦山川との合流域の大和國高市郡…同族である阿智使主後裔の桧前忌寸・民忌寸等が蔓延っていた。配置として無理のないように思われる。

<小殿親王(安殿親王)>
● 小殿親王(安殿親王)

桓武天皇の第一皇子であり、後の平城天皇となる。初名を変更したと、わざわざ記載されているが、後に乳母であった「安倍小殿朝臣堺」に従五位下を叙爵している。

乳母の”小殿”、及び改名後の「安殿」は”倍小殿”の略称なんていう解釈が実しやかに述べられているようである。同じく乳母であって従五位下を叙爵された「武生連朔」名前は何処に?・・・二人の乳母については、こちらこちら参照。詳細はご登場の時に・・・。

小殿=山稜の端にある臀部の形が三角になっているところと解釈される。「山部王」の東隣の地形を表している。そして、そこに谷間があり、安殿=山稜の端にある臀部の形になっている地に嫋やかに曲がる谷間があるところと解釈される。現在は高速道路によって大きく地形変形している場所であり、国土地理院航空写真1974~8年を参照した。

改名の理由は定かではないが、「安」の谷間が開拓されて広がり延びたのではなかろうか。山稜の端が二つに岐れたようになって、「小」らしくなくなった、のかもしれない。さて、桓武天皇は多くの子女をもうけたのだが、果たして、周辺を居処としたのか?…後日としよう。

<飛鳥戸造弟見・安宿戸吉足>
● 飛鳥戸造弟見

「飛鳥戸造」の氏姓については、孝謙天皇紀に登場した戸憶志等の一族を表していると推測した。左図に示したように、「飛鳥」の形の山稜が谷間の出入口にある場所なのである。

河内國安宿郡、現地名は行橋市入覚にあたる。河内國に渡来した一族の一つであり、百濟人を遠祖とすると知られている。

名前の頻出の文字列である弟見=ギザギザとした山稜の端の麓で谷間が長く延びているところと解釈される。図に示した辺りが出自と推定される。省略しているが、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)の河内之多治比高鸇陵の近隣が渡来人達によって開拓されたのであろう。

「弟見」は、この後にもう一度だけ登場し、飛騨守を任じられたと述べている。「憶志」、「奈登麻呂」も一度の記載であり、関連する情報は希薄である。

後の『巣伏の戦い』で戦死した一人に安宿戸吉足の名前が記載されている。おそらく「弟見」等の一族だったかと思われる。吉足=蓋をするように延びた山稜で[足]の形になっているところと解釈されるが、この地の変形が凄まじく、国土地理院航空写真を参照して、図に示した辺りが出自と推定した。

<越智池:贄田物部首年足>
越智池

「越智」の地名は、幾度か登場している。元正天皇紀に明經第一博士の越智直廣江、称徳天皇紀に伊豫國越智郡が思い出せるが、池の名称とするには些か不似合いの感じであろう。

そもそも書紀の天智天皇紀に斉明天皇・間人皇女の陵墓が小市岡上陵と名付けられていた。更に天武天皇紀にそれを越智にある御陵と記載していた。

現在も幾つかの池が地図上で見られるが、そのうちの一つだったのではなかろうか。これを築造した人物の出自場所を求めてから、池の場所を推定しようかと思う。

● 贄田物部首年足 「贄田」の「贄」は小野朝臣小贄などに用いられた文字であり、贄=執+貝=谷間が両手を合わせて差し延べるような山稜で挟まれている様と解釈した。すると図に示した谷間を表していることが解り、その谷間が物部の地形をしていることも確認される。

年足=稲穂のように延びた山稜の端に[足]の形の地があるところと解釈すると、この人物の出自場所を図に示した辺りと推定することができる。「越智池」は、この人物の眼前に造られたのではなかろうか。

五月丁亥。太政官奏稱。外記之官。職務繁多。詔勅格令。自此而出。至於官品。實合昇進。其大外記二人。元正七位上官。今爲正六位上官。少外記二人元從七位上官。今爲正七位上官。臣等商量改張。伏聽天裁。奏可之。是日。勅。大宰帥正二位藤原朝臣魚名老病相仍。留滯中路。宜令還京詫其郷親。己丑。授從五位下多治比眞人三上從五位上。辛夘。授正五位上石川朝臣眞守從四位下。以正五位上巨勢朝臣苗麻呂爲左中弁。從四位下紀朝臣古佐美爲式部大輔。左兵衛督但馬守如故。正五位上大伴宿祢益立爲兵部大輔。從四位下石上朝臣家成爲造東大寺長官。從五位下橘朝臣入居爲近江介。右衛士少尉外從五位下津連眞道爲兼大掾。從四位下石川朝臣眞守爲大宰大貳。從五位下賀茂朝臣人麻呂爲筑後守。

五月十一日に太政官が以下のように奏している・・・外記の官は職務が繁多で、詔・勅・格・令はここより出る。官職の相当位階については実に昇進させるべきである。大外記二人は、もと正七位上の官であるが、今、正六位上の官とし、少外記二人は、もと従七位上の官であるが、今、正七位上の官と致したい。臣等は協議して制度を改めたいと思う。伏して天皇の判断をお聴きしたい・・・。奏上は許可されている。

この日、次のように勅されている・・・大宰帥の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)は、老いと病いとが重なって、途中に留まって滞在している。京に還らせ、郷里の親戚に依託させよ・・・。

十三日に多治比眞人三上(歳主に併記)に従五位上を授けている。十五日に石川朝臣眞守に従四位下を授けている。巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を左中弁、紀朝臣古佐美を左兵衛督・但馬守のままで式部大輔、大伴宿祢益立を兵部大輔、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を造東大寺長官、橘朝臣入居()を近江介、右衛士少尉の津連眞道(眞麻呂に併記)を兼務で大掾、石川朝臣眞守を大宰大貳、賀茂朝臣人麻呂を筑後守に任じている。

六月丙午朔。出羽國言。寳龜十一年雄勝平鹿二郡百姓。爲賊所略。各失本業。彫弊殊甚。更建郡府。招集散民。雖給口田。未得休息。因茲不堪備進調庸。望請。蒙給優復。將息弊民。勅給復三年。辛亥。勅曰。夷虜乱常。爲梗未已。追則鳥散。捨則蟻結。事須練兵教。卒備其寇掠。今聞。坂東諸國。属有軍役毎。多尫弱全不堪戰。即有雜色之輩。浮宕之類。或便弓馬。或堪戰陣。毎有徴發。未甞差點。同曰皇民。豈合如此。宜仰坂東八國。簡取所有散位子。郡司子弟。及浮宕等類。身堪軍士者隨國大小。一千已下。五百已上。專習用兵之道。並備身装。即入色之人。便考當國白丁。免徭。仍勒堪事國司一人。專知勾當。如有非常。便即押領奔赴。可告事機。乙夘。勅曰。京畿定額諸寺。其數有限。私自營作。先既立制。比來。所司寛縱。曾不糺察。如經年代。無地不寺。宜嚴加禁斷。自今以後。私立道場。及將田宅園地捨施。并賣易与寺。主典已上解却見任。自餘不論蔭贖。决杖八十。官司知而不禁者。亦与同罪。乙丑。右京人外從五位下佐伯部三國等賜姓佐伯沼田連。丙寅。從五位上中臣朝臣鷹主爲神祇大副。從五位上文室眞人波多麻呂爲雅樂頭。從五位上多治比眞人宇美爲民部大輔。從五位下紀朝臣豊庭爲少輔。從四位下多治比眞人長野爲刑部卿。從五位下賀茂朝臣大川爲大藏少輔。從五位下藤原朝臣繩主爲中衛少將。彈正尹從三位高倉朝臣福信爲兼武藏守。從五位下伊賀香王爲若狹守。從五位下大中臣朝臣安遊麻呂爲播磨介。從五位上百濟王仁貞爲備前介。」授外從五位下尾張連豊人從五位下。

六月一日に出羽國が以下のように言上している・・・寶龜十一(780)年に雄勝郡・平鹿郡の人民は、賊に略奪されて、各自の本業を営むことができなくなり、ことに甚だしく疲れ衰えている。改めて郡役所を建てて、散り散りになった民を呼び集め、口分田を支給しているが、まだ休養することができない。このため調・庸を準備・進上する余裕がない。どうか租税負担を免除して頂き、疲れ切った人民を休ませるよう、お願いする・・・。勅して三年間の租税負担を免除している。

六日に次のように勅されている・・・蝦夷は平常の世を乱して服従しないことがまだ止まない。追いかけると鳥のように散り、捨てておくと蟻のように集結する。これに対応するには、兵卒を訓練し、教育して、その侵略に備えるべきである。今、聞くところでは、坂東諸國の民は、軍役がある場合、つねに多くは虚弱であって、まったく戦闘に堪えることができない。ところで、役人として出身できる資格をもつ各種の者たちや、浮浪人の類には、あるいは弓や乗馬に慣れ、あるいは戦闘能力のある者があるが、徴発することのある場合、今まで一度も指名していない。彼等も同じ皇民である。どうしてこのようなことがあってよかろう。

坂東八國に命じて、居住している散位の子、郡司の子弟、及び浮浪人の類で、身体が軍士たるに堪える者を選び取って、國の大小に従って一千以下、五百以上の者に専ら武器の使い方を習わせ、それぞれに装備を準備させよ。その上で役人となる資格のある人は、便宜として毎年の勤務評定を与え、その國の無位の公民は徭を免ぜよ。そこで職務に堪能な國司一人に命じて、専門にこれを担当させ、もし非常のことがあれば、すぐさま彼等を率いて急行し、事の次第を報告せよ・・・。

十日に次のように勅されている・・・京・畿内の定額の諸寺はその数に制限があり、自ら営み作ることについては、先に既に制度を立てた。ところが此の頃担当の役所は緩やかでしまりがなく、少しも取調べをしない。もし年代が経ったら、寺でない土地はなくなるであろう。厳しく禁断の処置をするべきである。今後は、自分で道場を建てたり、また田や家や園地を喜捨したり、またそれらを売却・交換して寺に与えたりしたならば、主典以上の官人ならば現職を解任し、それ以外の者は蔭や贖を論ぜず、杖八十の罪と定める。役人が知りながら禁止しなかった場合も、また同罪とする・・・。

二十日に右京の人である「佐伯部三國」等に「佐伯沼田連」の氏姓を賜っている(こちら参照)。二十一日に中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を神祇大副、文室眞人波多麻呂を雅楽頭、多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を民部大輔、紀朝臣豊庭(豊賣に併記)を少輔、多治比眞人長野を刑部卿、賀茂朝臣大川を大藏少輔、藤原朝臣繩主()を中衛少將、彈正尹の高倉朝臣福信(高麗朝臣)を兼務で武藏守、伊賀香王(置始女王に併記)を若狹守、大中臣朝臣安遊麻呂(今麻呂に併記)を播磨介、百濟王仁貞(①-)を備前介に任じている。また、尾張連豊人に内位の從五位下を授けている。