今皇帝:桓武天皇(3)
延暦二年(西暦783年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
二年春正月戊寅朔。廢朝也。授正六位上阿倍朝臣眞黒麻呂從五位下。是日。勅。内親王及内外命婦。服色有限。不得僣差。比來所司寛容。曾不禁制。至于閭閻肆廛。恣着禁色。既無貴賎之殊。亦虧等差之序。自今以後。宜嚴禁斷。如有違越。寘以常科。事具別式。辛巳。陰陽頭正五位下榮井宿祢蓑麻呂。今年始登八十。詔。賜絁布米塩。蓑麻呂。經明行修。清愼夙着。後進之輩所推挹也。故有此賞。乙酉。正四位上道嶋宿祢嶋足卒。嶋足本姓牡鹿連。陸奥國牡鹿郡人也。體貌雄壯。志氣驍武。素善馳射。寳字中。任授刀將曹。八年惠美訓儒麻呂之劫勅使也。嶋足与將監坂上苅田麻呂。奉詔疾馳。射而殺之。以功擢授從四位下勳二等。賜姓宿祢。補授刀少將兼相摸守。轉中將。改本姓賜道嶋宿祢。尋加正四位上。歴内廐頭下総播磨等守。戊子。授女孺无位和史家吉外從五位下。癸巳。天皇御大極殿閤門。賜宴於五位已上。」授從五位下廣川王從五位上。正六位上伊香賀王從五位下。正五位上大伴宿祢潔足。佐伯宿祢眞守並從四位下。正五位下石川朝臣眞守。巨勢朝臣苗麻呂並正五位上。從五位下藤原朝臣菅繼。文室眞人与企。中臣朝臣鷹主。紀朝臣家繼並從五位上。正六位上大伴宿祢眞麻呂。藤原朝臣雄友。紀朝臣男仲。石川朝臣淨繼。高橋朝臣船麻呂。佐伯宿祢弟人。上毛野朝臣鷹養。田口朝臣大立。紀朝臣田長。穗積朝臣賀祜並從五位下。正六位上土師宿祢公足。吉田連季元。麻田連眞淨並外從五位下。」宴訖賜祿有差。丁酉。紀朝臣木津魚。吉弥侯横刀等八人。夙夜在公。恪勤匪懈。於是。有詔。並進其爵。授從五位下紀朝臣木津魚從五位上。外從五位下吉弥侯横刀。正六位上橘朝臣入居。三嶋眞人名繼並從五位下。正六位上出雲臣嶋成。嶋田臣宮成。筑紫史廣嶋。津連眞道並外從五位下。庚子。授正六位上紀朝臣安提從五位下。是日。地震。甲辰。授正六位上大村直池麻呂外從五位下。乙巳。饗大隅薩摩隼人等於朝堂。其儀如常。天皇御閤門而臨觀。詔進階賜物各有差。
正月一日、朝賀を廃止している。「阿倍朝臣眞黒麻呂」に従五位下を授けている。この日、次のように勅されている・・・内親王及び内外の命婦の服色には限定があって、それぞれの身分以上の色を使用することはできない。ところが此の頃、担当の役人は寛容で少しも禁制しない。そのため民間の人達や商人に至るまで、自由勝手に禁じられた色を着て、貴賤の区別がなくなってしまっており、また上下の差の秩序を欠いている。今後は厳しく禁断せよ。もし違反する者があったら、通常の罪科を適用して処分せよ。事は別式に詳細に定めてある・・・。
四日、陰陽頭の榮井宿祢蓑麻呂は、今年八十歳になり、詔されて絁・麻布・米・塩を与えている。「蓑麻呂」は古典によく通じ行いにも励み、清廉で慎み深いことは早くから世に知られていた。後進の輩が重んじて推すところであり、この褒賞となっている。
八日に道嶋宿祢嶋足(牡鹿連嶋足)が亡くなっている。「嶋足」は、本姓は牡鹿連で、陸奥國牡鹿郡の人であった。体格や容貌は雄壮で、意気込みが武く勇ましく、生まれつき騎射が上手であった。天平寶字年間に授刀将曹に任じられ、その八(764)年『仲麻呂の乱』の時に恵美(藤原)訓儒麻呂(久須麻呂。眞從に併記)が勅使を劫やかした際、「嶋足」と授刀将監である坂上苅田麻呂(坂上忌寸苅田麻呂)とが、詔を承って早く駆けつけ、射殺した。この功をもって抜擢されて授刀少将兼相摸守に任じられた。その後に中将に転じ、本姓を改めて道嶋宿祢を賜った。次いで正四位上を加えられ、内廐頭、下総・播磨等の國守を歴任した。
十一日に女孺の和史家吉(和連諸乙に併記)に外従五位下を授けている。十六日に大極殿の閤門に出御されて、宴を五位以上に賜っている。廣川王(廣河王。❸)に從五位上、伊香賀王(置始女王に併記)に從五位下、大伴宿祢潔足(池主に併記)・佐伯宿祢眞守に從四位下、石川朝臣眞守・巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)に正五位上、藤原朝臣菅繼・文室眞人与企(与伎)・中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)・紀朝臣家繼(家守に併記)に從五位上、「大伴宿祢眞麻呂」・藤原朝臣雄友(❷)・「紀朝臣男仲・石川朝臣淨繼」・高橋朝臣船麻呂(祖麻呂に併記)・佐伯宿祢弟人(老に併記)・「上毛野朝臣鷹養」・田口朝臣大立(祖人に併記)・紀朝臣田長(船守に併記)・穗積朝臣賀祜(老人に併記)に從五位下、「土師宿祢公足」・吉田連季元(斐太麻呂に併記)・麻田連眞淨(金生に併記)に外從五位下を授けている。宴が終わって、それぞれに禄を賜っている。
二十日、紀朝臣木津魚(馬借に併記)、吉弥侯横刀(吉弥侯根麻呂に併記)等は八人は、朝早くから夜遅くまで朝廷にいて、忠実に勤めておこたらなかった、この時になって詔があって、それぞれ位を昇進させている。紀朝臣木津魚に従五位上、吉弥侯横刀・「橘朝臣入居・三嶋眞人名繼」に従五位下、「出雲臣嶋成・嶋田臣宮成・筑紫史廣嶋」・津連眞道(眞麻呂に併記。後に菅野朝臣を賜姓)にそれぞれ外従五位下を授けている。
二十三日に紀朝臣安提(本に併記)従五位下を授けている。この日、地震が起こっている。二十七日に「大村直池麻呂」に外従五位下を授けている。二十八日に大隅・薩摩の隼人等を朝堂で饗応している。その儀式はいつもの通りで、天皇は閤門に出御して、その場に臨んで観ている。詔されて隼人等にそれぞれ位階を進め物を与えている。
● 阿倍朝臣眞黒麻呂
本紀に入って最初の「阿(安)倍朝臣」一族の新人である。途切れることなく”阿(安)倍”の谷間を埋め尽くしている様子である。
とは言え、殆どが系譜不詳であり、名前が表す地形から出自場所を求めることになる。今回の人物も全く同様であろう。
眞黒麻呂の眞黑=谷間に延び出た炎のような山稜が寄り集まって窪んだところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。豆余理の南隣の地である。この後に再登場することはないようである。
少し後に阿倍朝臣枚麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の枚=木+攴=山稜が二つに岐れて延びている様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。現在の鹿喰峠に向かう谷間もほぼ満杯の感じである。「眞黒麻呂」と同様に再登場は見られないようである。
更に後に安倍朝臣人成が従五位下を叙爵されて登場する。人成=[人]の形の谷間の麓が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に春宮大進や能登守に任じられている。
系譜不詳であり、名前が表す地形から出自場所を求めることになるが、叙位から二年後の『藤原種繼暗殺事件』に関わったとして、斬刑に処せられている(事後の赦免で復位)。
そんな背景からも系譜が抹消されたのかもしれない。かなり頻度高く任官の記述があるが、将来を嘱望された人物だったようである。
幾度か用いられている名前の眞麻呂については、「麻」=「萬」として、眞萬=[萬]の頭部のように延びた山稜が寄り集まって窪んだところと解釈した。その地形を図に示した場所…「吹負」の子、「牛養」の西側の谷間…に見出せる(こちら参照)。
場所的に「牛養」の子、もしくは孫のようでもあるが、上記したように抹消されたのではなかろうか。それにしても死後二十年余経っての復位とは、現代からすると親族にとって悔やまれるところであっただろう。
調べても関連する情報は皆無であり、勿論、系譜不詳の人物のようである。大臣クラスが登場しないと記録は残らない、当然ではあるが・・・。
名前の男仲=[男]のような山稜が谷間を突き通すように延びているところと解釈される。それらしき地形の場所は散見され、一に特定することが難しい状況である。
聖武天皇紀に従五位下を叙爵された小楫、その後幾度か地方官に任じられたと記載されていた。同様に系譜不詳であって、求めた出自は他の一族とは隔たった地であったが、その後に周辺に多くの人物が登場して来たようである。
別名に男楫とも記載されていて、多分、今回の人物に繋がるのではなかろうか。上図の配置からすると、「男仲」は息子であったように思われる。續紀中ではこの場限りの登場である。
● 石川朝臣淨繼
決して高位の叙位を賜るわけではないが、連綿と人材輩出の一族であろう。系譜不詳であり、名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。
称徳天皇紀に清麻呂(眞守に併記)が登場し、光仁天皇紀に入って「淨麻呂」の名称で従五位上・少納言に任じられている。
淨繼に対して、類似の解釈を行うと、淨繼=[淨]に連なるところとすると、図に示した場所が出自と推定される。図に示した谷間に多くの子孫を蔓延らせた蘇賀臣安麻侶の出自場所の北隣となる。ほぼほぼ、谷間が埋め尽くされたように見える有様であろう。後にもう一度登場され、讃岐介に任じられたと記載されている。
少し後に石川朝臣魚麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「魚」の地形を見出すのは至難であったが、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、図に示した場所が出自と推定される。その後に昇進はないが、幾度か地方官・京官の任命が記載されいている。
更に後に石川朝臣清濱・石川朝臣清成が従五位下を叙爵されて登場する。清濱=[清]の傍らで水辺に接しているところと、清成=[清]の傍らで平らに整えられたところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自と推定される。二人は「清麻呂」に関わる人物のようであるが、その後に「清濱」が一度の任官が記されるのみである。
「上毛野朝臣」一族については、淳仁天皇及び称徳天皇紀に馬長・稻人が種々任官されている。爵位も従五位上と順調に昇進、一時期表舞台から遠ざかっていたのが、息を吹き返した様相である。
「鷹養」は、おそらく彼等の周辺を出自とする人物だったと推測してみると、図に示した場所が見出せる。既出の文字列である。鷹養=山麓で二羽の鳥が並んでいる間の谷間がなだらかに延びているところと解釈される。
何とも広大な地形を表現したものである。直近では実に希少な地形象形表記と思われる。「上毛野朝臣」一族の”過疎化”が進捗していたのかもしれない。残念ながら、この後に登場されることもなく、消息不明である。
● 土師宿祢公足
公足=谷間で小高く区切られた地の麓にある[足]の形をしているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。残念ながら地形変形が凄まじく、国土地理院航空写真1961~9年を参照して推測した。
延暦九(790)年十二月に「辛酉。勅外從五位下菅原宿祢道⾧。秋篠宿祢安人等。並賜姓朝臣。又正六位上土師宿祢諸士等賜姓大枝朝臣。其土師氏惣有四腹。中宮母家者是毛受腹也。故毛受腹者賜大枝朝臣。自餘三腹者。或從秋篠朝臣。或属菅原朝臣矣」と記載されている。
兄弟の土師宿祢諸士が登場し、前記の菅原宿祢・秋篠宿祢に朝臣賜姓と併せて大枝朝臣を賜ったと記載される。諸士=突き出た山稜のまで耕地が交差するように連なっているところと解釈され、出自の場所を図に示した。尚、後に「大枝」は「大江」と表記されるようであるが、大枝=平らな頂の山稜が岐れて延び出ているところと解釈される。「富杼」の地形の別表記であり、「江」ではない。枝から鳥が飛び立ったのであろう。
また土師宿祢菅麻呂も大枝朝臣の氏姓を賜ったと記載されている。菅=艸+官=山稜に挟まれて管のような谷間になっている様であり、出自は図に示した場所と推定される。
余談だが、引用文の「毛受腹」、通説は”百舌鳥原”(古事記の毛受野)として、河内國に求めている。全くの見当違いであろう。地名は固有ではないのである。高野新笠の母親である土師宿祢眞妹(父親:富杼)の出自場所の別表記(毛受:鱗のような山稜が寄り集まっているところ)である。
「橘朝臣」は、橘諸兄(葛木王が臣籍降下して賜姓)から始まる氏姓であるが、『奈良麻呂の乱』を経て些か曲折があったようである。
地形変形が大きく、国土地理院航空写真1961~9年を用いて、今回登場の「奈良麻呂」の末っ子である「入居」及びその兄等の出自場所を求めることにする。
❶入居:入居=山稜が延びた端にある丸く小高い地が谷間にすっぽりと入っているところ 名称に用いられた初めての例である「居」=「尸+古」と分解する。
❷安麻呂:安=谷間が嫋やかに曲がって延びている様
❸嶋田麻呂:嶋田=[鳥]の形をした山稜の麓で平らに整えられたところ
❹清野:清野=水辺で四角く区切れた野があるところ
❺清友:清友=揃って並んで延びている山稜の前の水辺で四角く区切られているところ
・・・と解釈される。各々の出自は図に示した場所と推定される。後に續紀中に登場するのは「橘朝臣安麻呂」のみである。「清友」は天皇の外祖父となったようである。
これだけの人数がいながら歴史の表舞台に登場しなかったのは、かなりの屈折した理由があったと推測されるが、明らかではないようである。
名前の名繼は、上記と同様に名繼=[名]に連なるところと解釈すると、「名邊」の東隣辺りが出自と推定される。別名に奈繼があったと知られているようで、「奈」の高台の場所であることを表している。
「名邊」の子のようでもあるが、定かではない。この後に幾度か登場し、長岡宮造営に関わる等、最終正四位下・左京大夫を任じられたことが知られている。
● 出雲臣嶋成
この時点での出雲國造は「國上」であり、その前が「益方」であった(こちら参照)。少し先走りになるが、この後は「國成」そして「人長」が國造に任じられることになる。
今回登場の「嶋成」については、関連する情報がなく、少し後に侍医に任じられていることから、彼等とは異なる系列であったように思われる。
そんな背景を念頭にしながら、名前が表す地形を探すと、嶋成=[鳥]の形をした山稜の麓が平らに整えられているところと解釈される。その場所は図に示した、「國上」の南隣であることが解る。
後の蝦夷征伐に関わる記述に別将を務めた出雲諸上が登場する。敗残兵を率いて多賀城に辿り着いたと記載されている。無姓の表記であるが、出雲臣一族であろう。諸上=盛り上がった地の前で耕地が交差するようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後の消息は不明である。
更に後の延暦十(791)年九月に「丁丑。近衛將監正六位下出雲臣祖人言。臣等本系。出自天穗日命。其天穗日命十四世孫曰野見宿祢。野見宿祢之後。土師氏人等。或爲宿祢。或賜朝臣。臣等同爲一祖之後。獨漏均養之仁。伏望与彼宿祢之族」
・・・と願い出て許可されている。その後に「出雲國出雲臣」が登場する機会がなく委細は不明である。「國成・人長・祖人」の出自の場所は図に示した通りであるが、地形象形表記としての読み解きは省略する。
「嶋田臣」は、續紀中初見の氏姓である。関連する名称を思い起こせば、古事記の神八井耳命が祖となった氏族名に含まれていた。「・・・尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也」と記載され、尾張國の地を居処とする一族であったと思われる。
嶋田=[鳥]のような形をした山稜の麓に田が広がっているところと解釈して、現在の北九州市小倉南区長野本町辺りと推定した(こちら参照)。
そして續紀で尾張國愛知郡と名付けられた地域であることが解る。何とも古めかしい一族からの人物を引っ張り出してきたものである。宮成=谷間が奥まで積み重なって広がった地が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
外従五位下を叙位されているが、立派な皇別氏族となるのだが、系譜等を含めての確認が難しかったのであろう。この後幾度か登場し、内位の従五位下となり、周防守に任じられている。
「筑紫史」の氏姓は、續紀中では初見であるが、書紀の持統天皇紀に、一度だけ記載されていた。筑紫史益が大宰府典として長く怠りなく勤めを果たしたとして褒賞したとのことであった。
大宰府に毎日通える場所が居処と推測し、現地名の北九州市小倉北区寿山町の山麓辺りに求めた。三輪君(續紀では大神朝臣の氏姓)一族が蔓延った地に隣接した場所である。
今回登場の「廣嶋」も、その勤勉さを褒められており、相通じるところであろう。廣嶋=[鳥]の形をした山稜の前が広がっているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。現在は広大な公園になっている。
この後幾度か任官の記載があり、最後に野上連の氏姓を賜っている。野上=盛り上がった地の前に野が広がっているところと解釈される。「鳥」を「上」で置き換えた表記であろう。
「大村直」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見であろう。無姓や他の姓としても記載されたことはなく、関連する情報を調べると、和泉國大鳥郡に関わる一族だったようである。
極めて一般的な表記である大村=平らな頂の山陵が手を広げたように延びているところと解釈すると、図に示した場所が、その地形であることが解る。
池麻呂の池=川が曲がりくねって流れている様であり、出自の場所を求めることができる。周辺は既に多くの人物が登場しているが、この地を居処としていなかった。
この後に幾度か任官の記載が見られるが、昇進することはなく、消息は不明である。「大村直」の氏姓の人物も登場することはなく、関連する情報は極めて少ない状況のようである。
二月壬子。天皇御大極殿。詔贈故式部卿藤原朝臣百川右大臣。又授正五位下當麻王正五位上。无位若江王從五位下。從五位下百濟王仁貞。安倍朝臣謂奈麻呂並從五位上。正六位上忌部宿祢人上外從五位下。從三位藤原朝臣曹子。无位藤原朝臣乙牟漏並正三位。无位藤原朝臣吉子從三位。從四位下飽浪王。尾張王並從四位上。无位八上王。犬甘王並從五位下。正四位下藤原朝臣教基。紀朝臣宮子。平群朝臣邑刀自。藤原朝臣彦子並正四位上。從四位上藤原朝臣諸姉正四位下。正五位下大原眞人室子從四位下。從五位下武藏宿祢家刀自。大宅朝臣宅女並正五位下。從五位下草鹿酒人宿祢水女。美努宿祢宅良。足羽臣眞橋並從五位上。外從五位下平群豊原朝臣靜女。若湯坐宿祢子虫。无位藤原朝臣甘刀自。紀朝臣須惠女。安倍朝臣黒女。藤原朝臣兄倉。坂上大忌寸又子。三嶋宿祢廣宅。山宿祢子虫並從五位下。正七位上他田舍人眞枚女外從五位下。甲寅。正三位藤原朝臣乙牟漏。從三位藤原朝臣吉子並爲夫人。丙辰。授正五位下紀朝臣犬養正五位上。癸亥。授无位安倍朝臣安倍刀自從五位下。庚午。復丈部大麻呂本位從五位下。辛未。授從七位下小治田朝臣古刀自從五位下。壬申。以從五位下春階王。藤原朝臣園人。並爲少納言。外從五位下物部多藝宿祢國足爲中宮大進。外從五位下上毛野公薩摩爲内藏助。從五位下巨勢朝臣廣山爲縫殿頭。從五位上多治比眞人宇美爲民部少輔。從五位下紀朝臣田長爲主計頭。從五位下穗積朝臣賀兼爲主税頭。正四位下紀朝臣船守爲近衛中將。内廐頭常陸守如故。從五位下紀朝臣千世爲中衛少將。外從五位下尾張宿祢弓張爲伊賀守。從五位上文室眞人与企爲相摸介。從五位下吉弥侯横刀爲上野介。從五位上調使王爲越中守。從五位上上毛野朝臣稻人爲越後守。從五位下積殖王爲丹後守。從五位上桑原公足床爲伯耆介。右大弁正四位下石川朝臣名足爲兼播磨守。近衛將曹外從五位下筑紫史廣嶋爲兼大掾。從五位下藤原朝臣雄友爲美作守。東宮學士外從五位下林忌寸稻麻呂爲兼介。從五位下甘南備眞人豊次爲備前介。從五位下榮井宿祢道形爲備中守。從五位下陽侯王爲安藝守。從五位下大伴宿祢眞麻呂爲大宰少貳。從五位下爲奈眞人豊人爲筑後守。丙子。授從五位下宗形王從五位上。
二月五日に大極殿に出御されて、詔して、故式部卿の藤原朝臣百川に右大臣を贈っている。また、當麻王(❻)に正五位上、若江王(❺。三度の登場、同一人物か否かは不明)に從五位下、百濟王仁貞(①-⓰)・安倍朝臣謂奈麻呂(こちら参照)に從五位上、忌部宿祢人上(止美に併記)に外從五位下、藤原朝臣曹子(巨曾子)・藤原朝臣乙牟漏(安倍朝臣子美奈に併記)に正三位、藤原朝臣吉子(❺)に從三位、飽浪王(飽波女王)・尾張王(尾張女王❽)に從四位上、八上王(八上女王。❺近隣)・犬甘王(女王。山上王に併記)に從五位下、藤原朝臣教基(教貴。綿手に併記)・紀朝臣宮子・平群朝臣邑刀自・藤原朝臣彦子(産子)に正四位上、藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)に正四位下、大原眞人室子(年繼に併記)に從四位下、武藏宿祢家刀自(丈部直刀自)・大宅朝臣宅女(廣麻呂に併記)に正五位下、草鹿酒人宿祢水女・美努宿祢宅良(奥麻呂に併記)・足羽臣眞橋に從五位上、平群豊原朝臣靜女(佐和良臣)・若湯坐宿祢子虫(子人に併記)・藤原朝臣甘刀自(明子に併記)・「紀朝臣須惠女・安倍朝臣黒女・藤原朝臣兄倉・坂上大忌寸又子」・三嶋宿祢廣宅(三嶋縣主廣調に併記)・「山宿祢子虫」に從五位下、他田舍人眞枚女(千世賣に併記)に外從五位下を授けている。
七日に藤原朝臣乙牟漏(安倍朝臣子美奈に併記)・藤原朝臣吉子(❺)を夫人としている。九日に紀朝臣犬養(馬主に併記)に正五位上を授けている。十六日に「安倍朝臣安倍刀自」に從五位下を授けている。二十三日に丈部大麻呂を本位の從五位下に復している。二十四日に小治田朝臣古刀自(水内に併記)に從五位下を授けている。
二十五日に春階王・藤原朝臣園人(勤子に併記)を少納言、物部多藝宿祢國足を中宮大進、上毛野公薩摩(大川に併記)を内藏助、巨勢朝臣廣山(馬主に併記)を縫殿頭、多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を民部少輔、紀朝臣田長(船守に併記)を主計頭、穗積朝臣賀祜(老人に併記)を兼務で主税頭、紀朝臣船守を内廐頭・常陸守のままで近衛中將、紀朝臣千世(大宅に併記)を中衛少將、尾張宿祢弓張(小塞連)を伊賀守、文室眞人与企(与伎)を相摸介、吉弥侯横刀(吉弥侯根麻呂に併記)を上野介、調使王(❻)を越中守、上毛野朝臣稻人(馬長に併記)を越後守、積殖王を丹後守、桑原公足床(桑原連足床)を伯耆介、右大弁の石川朝臣名足を兼務で播磨守、近衛將曹の筑紫史廣嶋を兼務で大掾、藤原朝臣雄友(❷)を美作守、東宮學士の林忌寸稻麻呂を兼務で介、甘南備眞人豊次(清野に併記)を備前介、榮井宿祢道形を備中守、陽侯王(楊胡王。陽胡女王近隣)を安藝守、大伴宿祢眞麻呂を大宰少貳、爲奈眞人豊人(東麻呂に併記)を筑後守に任じている。
<紀朝臣須惠女-伯-登万理> |
● 紀朝臣須惠女
多くの女官が従五位下に叙位された、その中の一人である。橡姫が光仁天皇の母親であり、皇族に繋がる一族として、とりわけ女性は注目されるところであったろう。
残念ながら系譜は伝わっていなく、名前が表す地形から出自の場所を求めることになる。
既出の文字列である須惠女の須惠=州が丸く取り囲まれようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「麻路」等の居処とは遠く離れており、別系列であったには違いない(こちら参照)。聖武天皇紀に登場した「牟良自」の南隣の場所と思われる。この後に登場することはなく、消息不明である。
後に紀朝臣伯・紀朝臣登万理が従五位下を叙爵されて登場する。既出の伯麻呂と混同しかけるが、別人と思われる。伯=谷間がくっ付いて様と解釈される。ただ、これでは一に特定し辛い表記であり、伯=人+白=谷間に丸く小高い地があるところとも読める。両意に重ねられているのではなかろうか。
登萬理=切り分けられた山稜にある小高い地から山稜が[萬]の形に岐れているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。前者は、その後にもう一度登場されるが、後者は見られず消息不明である。
直近では傍流系の人物(例えば長田朝臣)が多く登場しているが、今回登場の人物名からすると本流系に属するように推測される。
あらためて解釈すると安倍=嫋やかに曲がる谷間が二つに岐れて延びているところと読み解いた。名前の安倍刀自=[安倍]の地に山稜の端が[刀]の形をしているところと解釈される。
黒女は、多分黒麻呂に関わる人物と推測される。『廣嗣の乱』の際に登場したが、鎮圧将軍である「虫麻呂」の下で功績を上げたと記載されていた。なんだか、過去の事件を思い起こさせる人事考課のようである。
凄まじいばかりの「藤原朝臣」一族の女官が記載されているが、この人物もその一人であろう。例によって系譜不詳であり、”藤原”の地で出自場所を求めることになる。
聖武天皇紀に同じく女官として従五位下を叙爵された弟兄子が登場していた。おそらく、「兄倉」の「兄」の谷間を共有した表記と推測される。
兄倉=奥が広がっている谷間で四角く取り囲まれたところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。續紀中にこれ以後登場することはないようである。
少し後に藤原朝臣延福が初見で従四位上を叙爵されて登場する。後に女官として正四位下、續紀には記載されないが、最終従三位で薨じたと伝えられている。延福=酒樽の形をした高台が引き延ばされたようなところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。
そんな背景で、「苅田麻呂」系列では初めて登場した人物であり、調べるとその娘と知られているようである。
又子=生え出た山稜の前が手のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。別称の全子=谷間にすっぽりと玉のような地が嵌っているところと解釈される。その地形も満足する名称であろう。後に桓武天皇夫人となったようである。
延暦四(785)年十一月に坂上大宿祢田村麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。平安時代を代表する武将となる人物であり、「又子」の兄である。ご登場の際に詳細を述べるとして、出自場所は「又子」の西隣と推定される。既出の文字列である田村=開いた手のように延びている地の前が田になっているところと解釈される。
「山宿祢」の氏姓は記紀・續紀を通じて初見と思われる。関連するところでは、書紀の『八色之姓』で「山部連」が宿祢姓を賜ったと記載されていた。
「山部連」については、古事記に登場する山部連小楯・大楯等の氏姓と推測された。また、仁徳天皇紀に登場する「袁陀弖夜麻登」の”袁陀弖=小楯”に繋がる名称が含まれている。
おそらく、”山部”は恐れ多くて用いることが憚れ、「部」を省略したのであろう。今回登場の人物は、極めて希少な夜麻登の住人だったと思われる。
子蟲=延び出た山稜の端が細かく三つに岐れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に登場することはないようである。
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余談になるが、夜麻登(ヤマト)は訓であり、本来の表記は如何なるものであろうか?…上記の「山部連・山宿祢」の山=[山]の字形に山稜が延びている様が関わっていることが解る。即ち…、
夜麻登=山戸(門)
…となる。山戸(門)=[山]の字形の山稜が谷間の出入口にあるところと解釈される。天石屋戸や天孫降臨に随行した天石戸(門)別神の石屋戸・石戸(門)を連想させる表現と思われる。ましてや、”大倭(和)”の訓では、決してあり得ないのである。
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