今皇帝:桓武天皇(2)
延暦元年(西暦782年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。
六月庚申。從四位下飛鳥田女王卒。乙丑。左大臣正二位兼大宰帥藤原朝臣魚名。坐事免大臣。其男正四位下鷹取左遷石見介。從五位下末茂土左介。從五位下眞鷲從父並促之任。」宍人建麻呂之男女。神野眞人淨主。眞依女等十四人。弟宇智眞人豊公。改僞眞人從本姓。初建麻呂冐稱仲江王。事發露而自經。其男女亦僞爲眞人。至是改正之。」和泉國飢。賑給之。是日。地震。戊辰。授從五位下大原眞人室子正五位下。春宮大夫從三位大伴宿祢家持爲兼陸奥按察使鎭守將軍。外從五位下入間宿祢廣成爲介。外從五位下安倍猿嶋臣墨繩爲權副將軍。」散事從四位下多治比眞人若日卒。辛未。從五位下巨勢朝臣廣山爲内藏助。外從五位下安都宿祢眞足爲大學助。外從五位下長尾忌寸金村爲博士。從五位下葛井連根主爲木工頭。外從五位下田邊史淨足爲助。從四位下佐伯宿祢久良麻呂爲衛門督。丹波守如故。左大弁正四位上佐伯宿祢今毛人爲兼大和守。外從五位下尾張連豊人爲介。從五位下紀朝臣作良爲伊勢守。正五位下高賀茂朝臣諸魚爲尾張守。從五位下健部朝臣人上爲武藏介。近衛員外中將從四位上紀朝臣船守爲兼常陸守。内廐頭如故。從五位上大伴宿祢弟麻呂爲介。侍從從四位下五百枝王爲兼越前守。從五位下三國眞人廣見爲越後介。從四位下吉備朝臣泉爲伊豫守。從四位下石上朝臣家成爲大宰大貳。壬申。詔以大納言正三位藤原朝臣田麻呂爲右大臣。中納言正三位藤原朝臣是公爲大納言。從四位下紀朝臣家守爲參議。又以從四位下紀朝臣家守爲中宮大夫。内藏頭如故。從五位下佐伯宿祢鷹守爲左兵衛佐。從四位下五百枝王爲右兵衛督。侍從越前守如故。從五位下紀朝臣木津魚爲佐。從五位下正月王爲備後守。從五位下紀朝臣眞子爲土左守。」授正四位上佐伯宿祢今毛人從三位。從四位上石川朝臣名足。紀朝臣船守。藤原朝臣種繼並正四位下。戊寅。以從四位下紀朝臣古佐美爲左中弁。左兵衛督但馬守如故。從五位下多治比眞人乙安爲右少弁。己夘。大宰帥藤原朝臣魚名到攝津國。病發不堪進途。勅。宜待病愈然後發進。
六月九日に飛鳥田女王が亡くなっている。十四日に左大臣で大宰帥を兼任する藤原朝臣魚名(鳥養に併記)は、ある事で罪に触れ大臣を免ぜられた。その子息の鷹取(❶)は石見介に、末茂(❸)は土左介に左遷され、眞鷲(❹)は父に従って大宰府へと、それぞれ急き立てて任地に行かせている。
また、「宍人建麻呂」の子である「神野眞人淨主」や「眞依女」等十四人と、弟の「宇智眞人豊公」は、偽って眞人の姓を称していたが、改めて元の姓に従わせている。初め「建麻呂」は「仲江王」と偽り称し、事が発覚して頸をくくって自殺している。子等も偽って眞人となっていたので、ここに至り改め正している。和泉國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。この日、地震が起こっている。
十七日に大原眞人室子(年繼に併記)に正五位下、春宮大夫の大伴宿祢家持を兼務で陸奥按察使鎭守將軍、入間宿祢廣成(物部直廣成)を介、安倍猿嶋臣墨繩(日下部淨人に併記)を權副將軍に任じている。また、散事の多治比眞人若日(若日賣)が亡くなっている。
二十日に巨勢朝臣廣山(馬主に併記)を内藏助、安都宿祢眞足(阿刀宿祢。子老に併記)を大學助、長尾忌寸金村を博士、葛井連根主(惠文に併記)を木工頭、田邊史淨足を助、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を丹波守のままで衛門督、左大弁の佐伯宿祢今毛人を兼務で大和守、尾張連豊人を介、紀朝臣作良を伊勢守、高賀茂朝臣諸魚(諸雄。田守に併記)を尾張守、健部朝臣人上(建部公人上)を武藏介、近衛員外中將の紀朝臣船守を内廐頭のままで常陸守、大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を介、侍從の五百枝王を兼務で越前守、三國眞人廣見(千國に併記)を越後介、吉備朝臣泉(眞備に併記)を伊豫守、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を大宰大貳に任じている。
二十一日に大納言の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を右大臣、中納言の藤原朝臣是公(黒麻呂)を大納言、紀朝臣家守を參議に任じている。また、紀朝臣家守を内藏頭のままで中宮大夫、佐伯宿祢鷹守を左兵衛佐、五百枝王を侍従・越前守のままで右兵衛督、紀朝臣木津魚(馬借に併記)を佐、正月王(牟都岐王)を備後守、紀朝臣眞子を土左守に任じている。また、佐伯宿祢今毛人に從三位、石川朝臣名足・紀朝臣船守・藤原朝臣種繼(藥子に併記)に正四位下を授けている。
二十七日に紀朝臣古佐美を左兵衛督・但馬守のままで左中弁、多治比眞人乙安を右少弁に任じている。二十八日、大宰帥の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)は、攝津國に到って発病し、道を進めなくなった。[病が癒えるのを待って、それから後に出発するようにせよ]と勅されている。
眞人姓を騙るとは、何とも不埒な輩なのであるが、こんな顛末を記載する目的があったのか、些か腑に落ちないところではある。
いずれにせよ多彩な名称が羅列されているので、しっかりとこの連中の居処を突き止めてみよう。とは言え、過去の情報から文武天皇紀に赤烏を献上した越前國の住人である宍人臣國持の出自場所と推測される。
建麻呂の建=廴+聿=山稜が筆の形をして延びている様と解釈したが、図に示した、その「筆」の端が出自と推定される。仲江=谷間にある山稜が水辺で窪んだ地を突き通すように延びているところと解釈される。同一地形の別表記であろう。娘の眞依女の眞依=谷間に延びる山稜の端が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、「建麻呂」の南側の谷間を荒らしていると思われる。
息子の神野眞人淨主の神野=長く延びる高台の端にあるところ、淨主=真っ直ぐに延びる山稜の前の水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいるところと解釈される。また、「建麻呂」の弟の宇智眞人豊公の宇智=谷間に延び出た山稜の麓に[鏃]と[火]のような山稜が延びているところ、豊公=谷間にある小高い地が段差のある高台になっているところと解釈される。
それぞれの出自の場所を図に示した。「國持」が開拓して豊かになった地、それに悪乗りしてしまったようである。「建麻呂」は「事發露而自經」と記載されているが、ひょっとしたら、御落胤と教えられていたのかもしれない。
秋七月甲申。雷雨。大藏東長藏災。内廐寮馬二疋震死。壬辰。勅解却雜色長上五十四人。廢餅戸。散樂戸。壬寅。松尾山寺僧尊鏡。生年百一歳。請入内裏。叙位大法師。優高年也。丙午。詔曰。朕以不徳。臨馭寰區。憂萬姓之未康。憫一物之失所。况復去歳無稔。縣磬之室稍多。今年有疫。夭殍之徒不少。朕爲民父母。撫育乖術。靜言於此。還慙於懷。又顧彼有罪。責深在予。若非滌蕩。何令自新。宜可大赦天下。自天應二年七月廿五日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。悉皆赦除。但犯八虐。及故殺人。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。若入死罪者。並減一等。鰥寡惸獨。貧窮老疾。不能自存者。量加賑恤。是日。地震。丁未。授女孺從七位上山口忌寸家足。正八位上於保磐城臣御炊並外從五位下。戊申。天皇移御勅旨宮。庚戌。右大臣已下。參議已上。共奏稱。頃者災異荐臻。妖徴並見。仍命龜筮。占求其由。神祗官陰陽寮並言。雖國家恒祀依例奠幣。而天下縞素。吉凶混雜。因茲。伊勢大神。及諸神社。悉皆爲崇。如不除凶就吉。恐致聖體不豫歟。而陛下因心至性。尚終孝期。今乃醫藥在御。延引旬日。神道難誣。抑有由焉。伏乞。忍曾閔之小孝。以社稷爲重任。仍除凶服以充神祇。詔報曰。朕以。霜露未變。荼毒如昨。方遂諒闇。以申罔極。而羣卿再三執奏。以宗廟社稷爲喩。事不獲已。一依來奏。其諸國釋服者。侍秡使到。秡潔國内。然後乃釋。不得飲酒作樂。并著雜彩。
七月三日に雷雨があり、大藏省の東の長藏に火災が起き、内廐寮の馬二匹が死んでいる。十一日に勅されて、各種の技術者で常勤の者五十四人を解雇し、餅戸と散樂戸を廃止している。二十一日に「松尾山寺」の僧である尊鏡は年が百一歳であり、内裏に招き入れて大法師の位に叙している。高齢であることを優遇するためである。
二十五日に次のように詔されている・・・朕は不徳であるのに、天下を統治してる。全ての人々がまだ安らかでないことを憂い、一つの物もあるべき所を失うことを憐れんでいる。ましてや昨年は穀物が不作で、磬をかけたように物のない貧しい家が次第に多くなっており、また、今年は疫病があって、若死にしたり飢え死にする人も少なくない。朕は民の父母として慈しみ育てる方法が間違っているのであろう。静かにこうした状態を思い、顧みて懐に慙じている。また、あの罪ある者のことを顧みるに、責任は深く予にある。もし過ちを洗いそそがなければ、どうして自らを新たにすることができようか。---≪続≫---
そこで天下に大赦すべきである。天應二年七月二十五日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、既に発覚した罪、また発覚していない罪、既に罪名の定まったもの、まだ罪名の定まっていないもの、悉く皆赦免する。但し八虐、故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗など尋常の赦では免されない者は、赦の範囲に入れない。死罪になる者も、みな一等を減ぜよ。鰥・寡・惸・獨・貧・窮・老・疾で自活できない者には、その程度に応じて物を恵み与えよ・・・。この日、地震が起こっている。
二十六日に女孺の「山口忌寸家足・於保磐城臣御炊」に外従五位下を授けている。二十七日に天皇は勅旨宮に移っている。二十九日に右大臣以下、参議以上が共に以下のように奏上している・・・この頃災害や異変がしきりに起こって、奇異なしるしがそれぞれに現れている。そこで龜甲と筮竹による占いを仰せ付けて、その理由を求めさせると、神祇官と陰陽寮はそれぞれ[國の常の祭祀は、いつもの例によって幣を奉っているが、天下は喪に服していて、吉と凶が入り混じっている。これによって伊勢大神および諸々の神社は悉く祟りを起こしている]と申している。---≪続≫---
もし、凶を除き吉に就かないでいると、天皇が病気になるかもしれない。しかし陛下は、御心が大変善良で、尚子としての服喪の期日を全うしようとされている。今、病気に罹り医者にかかり薬を飲んでも、十数日はかかる。神の道をいつわることができないことは、そもそもの理由がある。伏して願うには、曾参や閔損(共に孔子の弟子)のように小さな孝を尽くすことは我慢して、國を治めることを任務とされたい。そうして服喪を止めて、神祇に対応するようにされたい・・・。
次のように詔されている・・・朕が思うのに、父母を悲しむ心はまだ変わらない。激しい苦痛は前と同様である。今、天子として父の喪に服する期間を過ごして、親の限りない恩に答えようとしている。けれども多くの高官達が度々上奏して、皇祖を祭る廟(伊勢神宮)や各地の神々のことをもって諭してくれた。事はやむをえない。全て上奏の通りとしよう、諸國で喪服を脱ぐのは、祓いの使が到着するのを待ち、國内を祓い清め、そののちに脱げ。しかし酒を飲み、音楽を奏し、また色々の彩りの衣服を着てはならない・・・。
「松尾」に関連する記述を検索してみると、聖武天皇紀に「松尾神社」が登場していた。古事記の葛野之松尾に鎮座し、現地名は田川郡赤村赤と推定した。現存する松尾神社は山城国葛野郡(京都市西京区)にある。
「松尾山寺」を調べると、法隆寺の北方にあった寺院と知られていることが分かった。舎人親王が開基とされているようである。
松尾=谷間にある小高い地が長く延びた端のところと解釈すると、図に示した場所が所在地だったと推定される。この地は廐戸皇子の子、山背大兄王の出自場所と推定したところである。
高齢僧の優遇記事ではあるが、ひょっとしたら、「山背大兄王」一族の亡骸を葬った場所だったのかもしれない。蘇我氏隆盛の時代の皇嗣に纏わる混乱に巻き込まれ、上宮家の断絶を生じてしまったのである。
「山口忌寸」一族は、書紀の孝徳天皇紀に漢山口直大口が登場している。仏師として著名であり、法隆寺金堂にある仏像の光背に名を残しているとのことである。
また、直近では田主・佐美麻呂親子が登場し、光仁天皇紀には従五位下を叙爵された「佐美麻呂」が木工介を任じられたりしている。一家の伝統は絶えていなかったのであろう。「田主」は「大口」系列とは異なっていたようではあるが・・・。
今回登場の女孺の家足=足の形をして岐れて延びる山稜の前が豚の口のようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。配置からすると「田主」系列の女性だったのではなかろうか。
外従五位下の叙爵ではあるが、「佐美麻呂」も初めは外位であり、後に内位を授けられている。「家足」は、今後に登場されることもなく、消息は不明である。
● 於保磐城臣御炊
「於保磐城臣」は、称徳天皇紀に陸奥國磐城郡の住人である丈部山際(⓮)に賜姓されていた。夥しい数の住人への賜姓の一環として記載されていた。
現地名は北九州市門司区吉志(新町)であり、広大な宅地に変貌している場所である。元は「石城國」(こちら、こちら参照)であり、陸奥國に転属したと述べられていた。勿論、現在の地形図では全く不詳となり、国土地理院航空写真1961~9年を参照することになる。
名前の御炊の「炊」=「火+欠」=「[火]のような形に山稜が延びている麓で[口]を大きく開けたような谷間が延びている様」と解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。そして、御炊=[炊]の地を束ねているところと読み解ける。「火」の頭部を二つの[炊]の地が寄り集まっていると見做していることが解る。
上記と同様に二度と登場されることはないが、七位や八位から外従五位下への叙位であり、多分、蝦夷征討に関わった功績があったのではなかろうか。
後に蝦夷征討の別将を勤めた丈部善理が敢え無く戦死したと記載される。更に後に外従五位下を贈位されるのであるが、陸奥國磐城郡の人であったと追記されている。「於保磐城臣」を賜姓されていないのは、異なる系列だったのであろう。善理=耕地にされた谷間が二つ並んでいる麓が区分けされているところと解釈される。航空写真である故に詳細は確認し辛いが、図に示した場所が出自と推定される。
八月辛亥朔。百官釋服。己未。遣治部卿從四位上壹志濃王。左中弁從四位下紀朝臣古佐美。治部大輔從五位上藤原朝臣黒麻呂。主税頭從五位下榮井宿祢道形。陰陽頭從五位下紀朝臣本。大外記外從五位下朝原忌寸道永等。六位已下解陰陽者合一十三人於大和國。行相山陵之地。爲改葬天宗高紹天皇也。庚申。以外從五位下田邊史淨足爲伊豆守。己巳。詔曰。殷周以前。未有年号。至于漢武始稱建元。自茲厥後。歴代因循。是以。繼體之君。受禪之主。莫不登祚開元。錫瑞改号。朕以寡徳。纂承洪基。詫于王公之上。君臨寰宇。既經歳月。未施新号。今者宗社降靈。幽顯介福。年穀豊稔。徴祥仍臻。思与萬國。嘉此休祚。宜改天應二年。曰延暦元年。其天下有位。及伊勢大神宮祢宜大物忌内人。諸社祢宜祝。并内外文武官把笏者。賜爵一級。但正六位上者廻授一子。其外正六位上者不在此限。乙亥。以從五位上安倍朝臣常嶋爲圖書頭。從五位下八上王爲内礼正。正五位下石川朝臣眞守爲式部大輔。武藏守如故。從五位下多治比眞人濱成爲少輔。外從五位下和史國守爲園池正。從五位下川邊朝臣淨長爲主油正。從五位下文室眞人忍坂麻呂爲左京亮。左少弁從五位下笠朝臣名麻呂爲兼近衛少將。從五位下多治比眞人三上爲左衛士佐。正五位下粟田朝臣鷹守爲主馬頭。從五位下石川朝臣美奈伎麻呂爲安房守。外從五位下伊勢朝臣水通爲下野介。大學頭從四位下淡海眞人三船爲兼因幡守。文章博士如故。右大弁正四位下石川朝臣名足爲兼美作守。丙子。授正五位上因幡國造淨成女從四位下。
八月一日に百官は喪服を脱いでいる。九日に治部卿の壹志濃王(❷)、左中弁の紀朝臣古佐美、治部大輔の藤原朝臣黒麻呂(❶)、主税頭の榮井宿祢道形、陰陽頭の紀朝臣本、大外記の朝原忌寸道永(箕造に併記)等と、六位以下の陰陽を解する者合わせて十三人を大和國に遣わして、各地の山陵の地を選ばせている。天宗高紹天皇の陵を改葬するためである。十日に田邊史淨足(上毛野公大川に併記)を伊豆守に任じている。
十九日、次のように詔されている・・・殷周より以前は、まだ年号がなかった。漢の武帝に至って初めて建元を称した。これより後、歴代前例に従った。そのため世継の君も禅りを受けた君主も天子の位に登って元号を開き、めでたいしるしを授かって年号を改めないということはなかった。朕は薄徳の身で皇位を承けつぎ、王公にたよって統治し、既に年月を経たけれどもまだ新しい年号を施行していない。今は祖先を祭る社が霊異をくだし、現世と冥界は大きな福を授け、穀物の稔は豊かで、めでたいしるしは頻りに現れた。全ての國々と共にこのよい幸福を喜ぼうと思う。天應二年を改めて、「延暦」元年としよう。それで天下の有位の者、および伊勢大神宮の禰宜・大物忌・内人、諸社の禰宜・祝、ならびに内外の文武の官人の笏を持つ身分の者に位一級を与える。但し、正六位の者は廻して一子に授ける。外正六位上の者は、この限りではない。
二十五日に安倍朝臣常嶋を圖書頭、八上王(❺)を内礼正、石川朝臣眞守を武藏守のままで式部大輔、多治比眞人濱成(歳主に併記)を少輔、和史國守(和連諸乙に併記)を園池正、川邊朝臣淨長(東人に併記)を主油正、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を左京亮、左少弁の笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)を兼務で近衛少將、多治比眞人三上(歳主に併記)を左衛士佐、粟田朝臣鷹守を主馬頭、石川朝臣美奈伎麻呂(眞人に併記)を安房守、伊勢朝臣水通(諸人に併記)を下野介、大學頭の淡海眞人三船を文章博士のままで因幡守、右大弁の石川朝臣名足を兼務で美作守に任じている。二十六日に因幡國造淨成女に従四位下を授けている。
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短命であった元号「天應」(天の感應)、その前の「寶龜」は、勿論、地形象形表記であったが、既に抽象的な表記となっていた。それを引き継いで「延暦」(暦を延ばす)となっている。いよいよ、時代が変わって行くことを表しているのであろう。即ち、全ての名称が地形象形表記ではなくなる過程である。さて、この後如何なることになるのか、楽しみにしておこう。
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九月乙酉。以從五位下紀朝臣本爲肥後守。戊子。以從五位上藤原朝臣黒麻呂爲右中弁。從五位下廣川王爲右大舍人頭。正五位下榮井宿祢蓑麻呂爲陰陽頭。從五位上大中臣朝臣繼麻呂爲治部大輔。從五位上多治比眞人年主爲大藏大輔。神祇伯從四位上大中臣朝臣子老爲兼右京大夫。從五位下積殖王爲右兵庫頭。從五位下甘南備眞人淨野爲肥前守。辛亥。以内匠頭正五位下葛井連道依爲兼中宮亮。
九月六日に紀朝臣本を肥後守に任じている。九日に藤原朝臣黒麻呂(❶)を右中弁、廣川王(廣河王。❸)を右大舍人頭、榮井宿祢蓑麻呂を陰陽頭、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を治部大輔、多治比眞人年主(歳主)を大藏大輔、神祇伯の大中臣朝臣子老を兼務で右京大夫、積殖王を右兵庫頭、甘南備眞人淨野(清野)を肥前守に、(辛亥?)内匠頭の葛井連道依(立足に併記)を兼務で中宮亮に任じている。
冬十月庚戌朔。叙伊勢國桑名郡多度神從五位下。
十月一日に「伊勢國桑名郡多度神」に従五位下を叙している。
「桑名」の名称は、書紀の天武天皇紀に大海人皇子が吉野脱出をして、一先ず向かった桑名郡家に含まれていた。現地名の北九州市小倉南区守恒辺りと推定した。
その後、聖武天皇の行幸時に桑名郡石占頓宮に立寄ったと記載されている。些か地形の確認が難しい場所ではあるが、桑名郡に地に所在地を求めた。
また「多度」の名称は、元正天皇の「美濃國」への行幸に際して、「當耆郡」の多度山美泉で用いられていた。現地名の北九州市小倉南区朽網辺りを示す表記と推定した。要するに、伊勢の桑名郡にも美濃の當耆郡にも「多度」の地形がある、と述べているのである。
あらためて多度=山稜の広がった端を跨ぐように山稜が延びているところと解釈される。その地形を図に示した場所に確認することができる。「桑名」は、交通の要所として栄えていたのであろう。
十一月辛夘。有光挾日。其形圓而色似虹。日上復有光向日。長可二丈。丁酉。叙田村後宮今木大神從四位上。丁未。式部史生正八位下倭漢忌寸木津吉人等八人言。吉人等是阿智使主之後也。是以蒙賜忌寸之姓。可注倭漢木津忌寸。而誤記倭漢忌寸木津。姓字繁多。唱噵不穩。望請。除倭漢二字。爲木津忌寸。許之。
十一月十三日に光があって太陽を挟み、その形は円くて色は虹に似ている。また太陽の上にもう一つの光があって日に向かい、長さは二丈ぐらいである。十九日に田村後宮の「今木大神」に従四位下を授けている。
二十九日に式部史生の「倭漢忌寸木津吉人」等八人が以下のように言上している・・・「吉人」等は阿智使主の後裔である。それで忌寸姓を授けて頂いた。倭漢木津忌寸と記すべきである。ところが誤って倭漢忌寸木津と記された。姓の字数が多くて、口で唱えるのも穏当ではない。どうか倭漢の二字を除いて「木津忌寸」として下さるようにお願い申し上げる・・・。許可されている。
「田村後宮・今木大神」共に初見の文字列であるが、「田村後宮」に関連すると思われる「田村宮・田村旧宮」の表記が幾度か登場していた。
藤原南家邸宅の田村第であり、平城宮改修時、臨時に孝謙天皇が遷られた宮の名称である。また、淳仁天皇が離宮として使用されたり、光仁天皇紀では『仲麻呂の乱』後に没収されて「田村旧宮」と呼称されていた。
田村後宮の「後宮」は、勿論、田村(旧)宮を表すのではなく、後宮=その背後にある谷間の奥まで積み重なって広がっているところと解釈される。ご丁寧な表現であるが、錯覚しそうである。通説は、物の見事にその編者等の口車に乗じているようである。
今木大神の今木=[木]のような山稜が覆い被さるように延びているところと解釈される。奈保山(那富山)から延びる山稜の形を表現していることが解る。「田村第」の背後の谷間地形を表し、その地に鎮座していた大神であったと述べている。
● 倭漢忌寸木津吉人
阿智使主が祖である「倭漢直」一族は連姓を経て『八色之姓』で忌寸姓を賜ったと書紀で記載されている。但し、賜姓された具体的な人物名は見られずであった。
書紀の孝徳天皇紀に登場した倭漢直比羅夫の名称を地形象形的に解読することによって、彼等の居処を突止めることが可能となった。現地名は田川市夏吉辺りと推定した。百濟川(現在名は不詳)が直角に曲がっている場所である。
今回登場の人物名に含まれる木津=水辺にある筆のような山稜の前に[木]の形をした山稜が延びているところ、及び吉人=谷間に蓋をするように山稜が延びているところと解釈される。これ等の地形を表す図に示した場所が出自と推定される。賜った木津忌寸は妥当なものであろうが、この後にその名称が記載されることはないようである。
十二月庚戌。内掃部正外從五位下小塞宿祢弓張言。弓張等二世祖近之里。庚寅歳以降。因居地名。從小塞姓。望請。依庚午年籍。改換小塞。蒙賜尾張姓。許之。壬子。勅。太上天皇周忌御齋。當今月廿三日。宜令天下諸國國分二寺見僧尼奉爲誦經焉。」又詔曰。公廨之設。先補欠負。次割國儲。然後作差處分。如聞。諸國曾不遵行。所有公廨。且以費用。至進税帳。詐注未納。因茲。前人滯於解由。後人煩於受領。於事商量。甚乖道理。又其四位已上者。冠葢既貴。榮祿亦重。授以兼國。佇聞善政。今乃苟貪公廨。徴求以甚。至于遷替。多無解由。如此不責。豈曰皇憲。自今以後。遷替國司。滿百廿日。未得解由者。宜奪位祿食封以懲將來。癸亥。近江國坂田郡人少初位上比瑠臣麻呂等。改本姓賜淨原臣。丙寅。散事正四位下巨勢朝臣巨勢野卒。辛未。是日。太上天皇周忌也。於大安寺設齋焉。百官參會。各供其事。壬申。詔曰。礼制有限。周忌云畢。元會之旦。事須賀正。但朕乍除諒闇。哀感尚深。霜露既變。更増陟岵之悲。風景惟新。弥切循陔之戀。來年元正。宜停賀礼焉。
十二月二日に内掃部正の小塞宿祢弓張が以下のように言上している・・・「弓張」等の二代前の祖である「近之里」は、庚寅の歳(持統天皇四[690]年)より以降、居住地の名によって小塞の姓に従った。どうか庚午年(天智天皇九[670]年)の戸籍によって、「小塞」を改め変えて「尾張」の姓を下し賜るようお願いする・・・。これを許可している。
四日に次のように勅されている・・・太上天皇の一周忌の御齋會は、今月二十三日に当たる。天下の諸國の國分二寺に現在いる僧尼に、誦経させよ・・・。また、次のように詔されている・・・公廨を設けてあるのは、まずそれを出挙した利稲でその國の正税の欠損を補い、次に國儲に割り当て、その後残額を國司の地位によって差を作って、処分するためである。---≪続≫---
ところが聞くところによると、諸國は全くこの制度を守らず、存在する公廨はひとまず消費してしまい、正税帳を太政官に進上する時には、偽って公廨稲の欠けた部分は未納と記している。このため前任の國司は解由(國司交替時に後任者が前任者の不正のないことを証明する書類)を得るのに暇がかかり、後任の國司は事務引継ぎをするのに苦労している。---≪続≫---
こうしたことをよく考えてみると、甚だ道理に背いている。また四位以上の者は、位階が既に貴く俸禄もまた多い。京官と國司を兼任させ、善政のよい評判が聞こえて来るのを待つのであるが、今では少しでも公廨を貪り取り、利益を徴収しようと求めることが甚だしく、交替するようになっても解由のないものが多い。---≪続≫---
このようなままで責め正さなければ、どうして國法があると言えるであろうか。今後、交替の國司で百二十日を過ぎてもまだ解由を得ない者は、位禄と食封を剥奪して、将来を懲らすようにせよ・・・。
十五日に近江國坂田郡の人である「比瑠臣麻呂」等は本の姓を改めて「淨原臣」の氏姓を賜っている。十八に散事の巨勢朝臣巨勢野が亡くなっている。二十三日、太上天皇の一周忌であるので大安寺において齋會を設けている。諸々の官人が參會して、それぞれ奉仕している。
二十四日に次のように詔されている・・・礼の制には限度があり、一周忌はここに終わった。元日の朝廷の会の朝は、正月を賀すべきである。但し、朕はたちまち諒闇の期間を終わってしまい、哀しい心持ちはなお深い。寒冷の季節は既に変わったが、親を慕う悲しみは更に増し、風景は新たになったが、いよいよ親に仕えて孝を尽くしたい気持ちが切である。来年の正月元旦は、宜しく元日を祝う礼を停めよ・・・。
名前が表す地形から出自の場所を求めることになる。含まれる「瑠」=「玉+留」と分解される。既出の文字である「留」=「卯+田」=「平らに広がった地に山稜が谷間から滑り出ている様」とする。
纏めると、比瑠=平らに広がった地に滑り出ている玉が連なったような山稜がくっ付いて並んでいるところと解釈される。図に示した場所の地形を表していることが解る。賜った淨原臣の淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様から、本来の居処の場所は、図に示した場所であり、出自場所を求めることができる。