2024年7月8日月曜日

今皇帝:桓武天皇(1) 〔684〕

今皇帝:桓武天皇(1)


延暦元(西暦782年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

延暦元年春正月己巳。以從五位下阿倍朝臣祖足爲駿河守。從五位下阿倍朝臣石行爲大宰少貳。從五位下氷上眞人川繼爲因幡守。癸酉。以從五位上大中臣朝臣繼麻呂爲右少辨。癸未。大秡。百官不釋素服。

延暦元年正月十六日に阿倍朝臣祖足(石行に併記)を駿河守、阿倍朝臣石行を大宰少貮、氷上眞人川繼(河繼)を因幡守に任じている。二十日、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を右少弁に任じている。三十日に大祓をしている。百官は喪中のため白い無地の服を脱いでいなかった。 

閏正月甲子。因幡國守從五位下氷上眞人川繼謀反。事露逃走。於是遣使固守三關。又下知京畿七道搜捕之。」以從五位下多治比眞人濱成爲左京亮。從五位下多治比眞人三上爲主馬頭。外從五位下大荒木臣押國爲助。從五位下藤原朝臣眞友爲衛門佐。丙申。地震。丁酉。獲氷上川繼於大和國葛上郡。詔曰。氷上川繼潜謀逆乱。事既發覺。據法處斷。罪合極刑。其母不破内親王反逆近親。亦合重罪。但以諒闇之始山陵未乾。哀慼之情未忍論刑。其川繼者。宜免其死處之遠流。不破内親王并川繼姉妹者。移配淡路國。川繼塩燒王之子也。初川繼資人大和乙人私帶兵仗闌入宮中。所司獲而推問。乙人款云。川繼陰謀。今月十日夜。聚衆入自北門。將傾朝廷。仍遣乙人召將其黨宇治王以赴期日。於是。勅遣使追召川繼。川繼聞勅使到。潜出後門而逃走。至是捉獲。詔減死一等。配伊豆國三嶋。其妻藤原法壹亦相隨焉。戊戌。地震。庚子。以從五位下大中臣朝臣諸魚爲少納言。外從五位下朝原忌寸道永爲大外記。從五位下笠朝臣名麻呂爲近衛少將。從五位下藤原朝臣弓主爲右衛士佐。從四位下紀朝臣古佐美爲左兵衛督。從五位下佐伯宿祢鷹守爲右兵衛佐。從五位下文室眞人眞老爲攝津亮。外從五位上河内連三立麻呂爲和泉守。外從五位下佐伯部三國爲駿河介。從五位下藤原朝臣内麻呂爲甲斐守。從五位下安倍朝臣木屋麻呂爲相摸介。從五位上文室眞人高嶋爲下野守。從五位下塩屋王爲若狹守。中宮少進外從五位下物部多藝宿祢國足爲兼越中介。從五位上石城王爲因幡守。從五位下安倍朝臣船道爲石見守。從五位下百濟王仁貞爲播磨介。侍從從四位下五百枝王爲兼美作守。從五位下大伴宿祢仲主爲紀伊守。從五位下川村王爲阿波守。左大舍人頭從四位上壹志濃王為兼讃岐守。從四位下石上朝臣家成爲伊豫守。右衛士佐從五位下藤原朝臣弓主爲兼介。辛丑。勅大宰府。氷上川繼謀反入罪。員外帥藤原朝臣濱成之女爲川繼妻。思爲与黨。因茲解却濱成所帶參議并侍從。但員外帥如故。左降正五位上山上朝臣船主爲隱伎介。從四位下三方王爲日向介。以並黨川繼也。壬寅。左大弁從三位大伴宿祢家持。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。散位正四位下伊勢朝臣老人。從五位下大原眞人美氣。從五位下藤原朝臣繼彦等五人。職事者解其見任。散位者移京外。並坐川繼事也。自外黨与合卅五人。或川繼姻戚。或平生知友。並亦出京外。 

閏正月十一日に因幡國守の氷上眞人川繼(河繼)が謀反し、事が露見して逃走している。ここにおいて使を遣わして、三關を固め守らせている。また、京・畿内と七道に下知して、これを捜索し捕らえるように命じている。多治比眞人濱成(歳主に併記)を左京亮、多治比眞人三上(歳主に併記)を主馬頭、大荒木臣押國(忍國。道麻呂に併記)を助、藤原朝臣眞友()を衛門佐に任じている。十三日に地震が起こっている。

十四日に氷上川繼を大和國葛上郡で捕らえている。次のように詔されている・・・「川繼」は潜に逆乱を謀ったが、事が既に発覚した。法に依って処断すると、罪は極刑に当たる。「川繼」の母である不破内親王も、反逆の近親であるのでまた重罪に当たる。但し、服喪期間が始まったばかりで、太上天皇(光仁天皇)の山陵の土もまだ乾いていない。悲しみ悼む気持ちでいっぱいで、まだ刑を論じるには忍びない。そこで「川繼」は、その死を免じて遠流とし、「不破内親王」と「川繼」の姉妹(忍坂女王・石田女王?)は淡路國に移配せよ・・・。

「川繼」は塩燒王の子である。初め「川繼」の資人である「大和乙人」が密かに武器を帯びて宮中に許可なく進入した。担当の官人が捕らえて尋問すると、白状して以下のように述べている・・・「川繼」は今月十日の夜に衆を集めて、平城宮の北門より入り、朝廷を覆そうという陰謀を企てた。そのため「乙人」を遣わして、一味である「宇治王」を召し率いて、期日に参加させようとしている・・・。

ここにおいて勅して使を遣わし、「川繼」を召し寄せた。「川繼」は勅使が到着したと聞いて潜に裏門から出て遁走した。ここ(閏正月十四日)に至って「川繼」を捉えている。詔されて、死罪から一等を減じて伊豆國三嶋に流している。妻である藤原法壹(大繼に併記)も従っている。十五日に地震が起こっている。

十七日に大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を少納言、朝原忌寸道永(箕造に併記)を大外記、笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)を近衛少將、藤原朝臣弓主()を右衛士佐、紀朝臣古佐美を左兵衛督、佐伯宿祢鷹守を右兵衛佐、文室眞人眞老(長嶋王に併記)を攝津亮、河内連三立麻呂を和泉守、佐伯部三國を駿河介、藤原朝臣内麻呂()を甲斐守、安倍朝臣木屋麻呂を相摸介、文室眞人高嶋(高嶋王)を下野守、塩屋王()を若狹守、中宮少進の物部多藝宿祢國足を兼務で越中介、石城王()を因幡守、安倍朝臣船道(小東人に併記)を石見守、百濟王仁貞(①-)を播磨介、侍從の五百枝王を兼務で美作守、大伴宿祢仲主(中主。人成に併記)を紀伊守、川村王()を阿波守、左大舍人頭の壹志濃王()を兼務で讃岐守、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を伊豫守、右衛士佐の藤原朝臣弓主()を兼務で介に任じている。

十八日に大宰府に次のように勅されている・・・「氷上川繼」は謀反して罪人となった。員外帥である藤原朝臣濱成(濱足)の娘は「川繼」の妻である。思うに「濱成」も一味であろう。そこで任じられている参議並びに侍従は解任する。但し、員外帥は元のままとせよ・・・。山上朝臣船主を左遷して隠岐介、三方王(三形王)を日向介としている。いずれも「川繼」の一味だったためである。

十九日に左大弁の大伴宿祢家持、右衛士督の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)、散位の伊勢朝臣老人大原眞人美氣藤原朝臣繼彦(大繼に併記)等五人については、官職に就いている者は、その現職を解き、散位の者は京外へ移している。いずれも「川繼」の事件に連坐したからである。それ以外の一味の者は合わせて三十五人で、あるいは「川繼」の姻戚であり、あるいは平生からの知人や友人である。それぞれ京外に追放している。

<大和乙人>
● 大和乙人

「氷上川繼」の資人と記載されているが、無姓もしくは犯罪人故に省略されていたのであろう。後者に関連するところでは、「大和(倭)」の氏名は、大倭連深田田長(共に宿祢を賜姓)が登場していた。

前者では、孝謙天皇紀に大和國城下郡の大和神山の麓を居処とする大和雜物が瑞祥を貢上したとして褒賞されていた。しかしながら賜姓されず、無姓のままであった。

いずれにしても彼等の居処は大和國城下郡であり、その地で今回登場の人物の名前、乙人=[乙]の形に曲がる谷間が端で[人]の形になっているところの地形を図に示した場所に見出せる。

武器を持って宮中に入り、あっさりと捕まった上に白状するという間抜けな役割だったのであるが、この後の消息は不明である。大物連中が連坐するという大事件に関わったことも理解していなかったのかもしれない。

<宇治王>
● 宇治王

系譜不詳の「宇治王」は、聖武天皇紀に無位から従五位下を叙爵されて登場し、その後幾度かの任官が記載されていた。出自の場所は、敏達天皇の皇子である宇遲王の場所と推測した。

それからおよそ半世紀が過ぎていることから、今回登場の「宇治王」は、全くの別人と思われる。また、「川繼」一味となっていることから、その周辺を出自とする人物だったのではなかろうか。

頻出の名前である宇治=谷間に延び出た山稜が水辺で耜のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

勿論、連坐して罪に問われ、上記本文「或川繼姻戚。或平生知友。並亦出京外」とされたのであろうが、委細は不明であり、續紀中に関連する記述は見られない。参考にしている資料の注記によると、四半世紀後に従五位下に復位したとのことである。

二月丙辰。參議從三位中宮大夫兼衛門督大伴宿祢伯麻呂薨。祖馬來田贈内大紫。父道足平城朝參議正四位下。伯麻呂。勝寳初授從五位下。除上野守。累遷。神護中至從四位下左中弁。寳龜中遷宮内卿。尋拜參議。宴飮談話。頗有風操。天宗高紹天皇寵幸之。尋授正四位上。歴左大弁衛門督中宮大夫。加從三位。薨時年六十五。庚申。以正五位下當麻王爲中務大輔。遠江守如故。從五位下文室眞人於保爲少輔。從五位下大伴王爲大監物。從五位下多治比眞人年持爲左大舍人助。從五位上笠王爲右大舍人頭。從五位上調使王爲内藏頭。從五位下春階王爲縫殿頭。從五位下紀朝臣本爲陰陽頭。正五位下布勢朝臣清直爲民部大輔。正五位下巨勢朝臣苗麻呂爲兵部大輔。從四位下安倍朝臣東人爲刑部大輔。從五位下大中臣朝臣今麻呂爲大判事。正五位下粟田朝臣鷹守爲大藏大輔。從五位下甘南備眞人淨野爲宮内少輔。從五位上百濟王武鏡爲大膳亮。從五位下縣犬養宿祢堅魚麻呂爲主殿頭。從五位下中臣朝臣鷹主爲鑄錢長官。從四位下吉備朝臣泉爲造東大寺長官。外從五位下林忌寸稻麻呂爲次官。正五位下榮井宿祢蓑麻呂爲造法華寺長官。從五位下紀朝臣作良爲尾張守。民部卿正三位藤原朝臣小黒麻呂爲兼陸奥按察使。中衛中將從四位下佐伯宿祢久良麻呂爲兼丹波守。從五位下羽栗臣翼爲介。從五位下三嶋眞人嶋麻呂爲丹後介。左兵衛督從四位下紀朝臣古佐美爲兼但馬守。從五位下紀朝臣眞木爲肥前守。外從五位下陽侯忌寸玲兼爲豊後介。丁夘。以從四位上壹志濃王爲治部卿。讃岐守如故。外從五位下尾張連豊人爲園池正。外從五位下林忌寸稻麻呂爲東宮學士。造東大寺次官如故。從五位下多治比眞人繼兄爲大宰少貳。從五位下安倍朝臣石行爲豊後守。辛未。空中有聲。如雷。壬申。地動。

二月三日に参議・中宮大夫兼衛門督の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)が亡くなっている。祖父の馬來田は内大紫を贈られ、父道足は平城朝(聖武天皇)の参議であった。「伯麻呂」は天平勝寶の初めに従五位下を授けられ、上野守に任じられた。その後頻りに転任して、天平神護年間(765~7年)に從四位下・左中弁に至った。寶龜年間(770~80年)に宮内卿に転じ、ついで参議を拝した。宴会の席ではよく酒を飲んで談話し、人柄はすこぶる節操があった。天宗高紹(光仁)天皇は、「伯麻呂」を寵愛し、ついで正四位上を授け、左大弁・衛門督・中宮大夫を歴て、更に従三位を授けられた。薨じた時、六十五歳であった。

七日に當麻王()を遠江守のままで中務大輔、文室眞人於保(長谷眞人)を少輔、大伴王()を大監物、多治比眞人年持(歳主に併記)を左大舍人助、笠王を右大舍人頭、調使王()を内藏頭、春階王を縫殿頭、紀朝臣本を陰陽頭、布勢朝臣清直(清道)を民部大輔、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を兵部大輔、安倍朝臣東人(廣人に併記)を刑部大輔、大中臣朝臣今麻呂を大判事、粟田朝臣鷹守を大藏大輔、甘南備眞人淨野(清野)を宮内少輔、百濟王武鏡(①-)を大膳亮、縣犬養宿祢堅魚麻呂を主殿頭、中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を鑄錢長官、吉備朝臣泉(眞備に併記)を造東大寺長官、林忌寸稻麻呂を次官、榮井宿祢蓑麻呂を造法華寺長官、紀朝臣作良を尾張守、民部卿の藤原朝臣小黒麻呂を兼務で陸奥按察使、中衛中將の佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を兼務で丹波守、羽栗臣翼を介、三嶋眞人嶋麻呂を丹後介、左兵衛督の紀朝臣古佐美を兼務で但馬守、紀朝臣眞木を肥前守、陽侯忌寸玲璆(陽侯史)を兼務で豊後介に任じている。

十四日に壹志濃王()を讃岐守のままで治部卿、尾張連豊人を園池正、林忌寸稻麻呂を造東大寺次官のままで東宮學士、多治比眞人繼兄を大宰少貳、安倍朝臣石行を豊後守に任じている。十八日、空中で音がし、雷鳴のようであった。十九日に地震が起こっている。

三月辛夘。有虹。繞日。乙未。武藏。淡路。土左等國飢。並賑給之。戊申。從四位下三方王。正五位下山上朝臣船主。正五位上弓削女王等三人。坐同謀魘魅乘輿。詔減死一等。三方。弓削。並配日向國。〈弓削三方之妻也〉。船主配隱伎國。自餘与黨亦據法處之。」以從四位上藤原朝臣種繼爲參議。辛亥。以從五位下高倉朝臣殿嗣爲下総介。

三月九日に虹が太陽の周りをめぐっている。十三日に武藏・淡路・土左等の國に飢饉が起こったので物を恵み与えている。二十六日に三方王(三形王)・山上朝臣船主弓削女王(和氣王に併記)〈注記:三方の妻〉等三人は、共謀して天皇を呪い殺す呪法を行ったことに連坐している。

詔されて、死罪から一等を減じて、「三方・弓削」は日向國に、「船主」は隠岐國に配流している。それ以外の一味の者もまた法によって処分されている。また、藤原朝臣種繼(藥子に併記)を参議に任じている。二十九日に高倉朝臣殿嗣(高麗朝臣殿繼)を下総介に任じている。

夏四月庚申。授正五位上紀朝臣家守從四位下。癸亥。右京人少初位下壹礼比福麻呂等一十五人賜姓豊原連。是日。詔曰。朕君臨區宇。撫育生民。公私彫弊。情實憂之。方欲屏此興作。務茲稼穡。政遵儉約。財盈倉廩。今者宮室堪居。服翫足用。佛廟云畢。錢價既賎。宜且罷造宮勅旨二省。法花鑄錢兩司。以充府庫之寳。以崇簡易之化。但造宮勅旨雜色匠手。隨其才幹。隷於木工内藏等寮。餘者各配本司。乙丑。授正六位上文直人上外從五位下。」重閣門白狐見。戊辰。遣使畿内。祈雨焉。己巳。尚侍從二位藤原朝臣百能薨。兵部卿從三位麻呂之女也。適右大臣從一位豊成。大臣薨後。守志年久。供奉内職。見稱貞固。薨時年六十三。己夘。以正四位上佐伯宿祢今毛人爲左大弁。」山背國言。諸國兵士免庸輸調。至於左右京亦免其調。今畿内之國曾無所優。勞逸不同。請同京職。欲免其調。於是。勅免畿内兵士之調。

四月八日に紀朝臣家守に従四位下を授けている。十一日に右京の人である「壹礼比福麻呂」等十五人に「豊原連」の氏姓を賜っている。この日、次のように詔されている・・・朕は君主として臨み、全ての人々を慈しみ育てて来たが、公も民間も共に疲れ衰えていて、心中これを心配している。まさにここに造営を中止し、農業に務め、政治を倹約第一にし、財物が倉に満ちるようにしたい。---≪続≫---

今、宮の住居は住むに十分であり、種々の調度品も事欠くようなことはない。また、諸寺院の造営も終了し、銭の価値はもはや安くなった。ひとまず造営・勅旨の二省と法花・鋳銭の両司を罷め、それで朝廷の庫の宝を増やし、省いた政治を大切にすべきである。但し、造営・勅旨二省の各分野の技術者は、その能力に従って木工・内蔵などの寮に配属せよ。余った者はそれぞれ元の役所に配せ・・・。

十二日に「文直人上」に外従五位下を授けている。この日、重閣門に白い狐が現れている。十六日に使を畿内に遣わして雨の降ることを祈らせている。十七日に尚侍の藤原朝臣百能が亡くなっている。兵部卿の麻呂の娘であった。右大臣豊成に嫁ぎ、大臣が薨じた後もずっと貞節の志を守って、後宮の職に仕えて、貞操の固いことを賞賛された。薨じた時、六十二歳であった。

二十七日に佐伯宿祢今毛人を左大弁に任じている。また、山背國が以下のように言上している・・・諸國の兵士は庸を免じ調を出させている。左右京の兵士に関しては、調も免じられている。今、畿内には全く優遇措置がなく、苦楽に差がある。どうか京識と同じく調を免じて頂きたく思う・・・。ここにおいて勅されて、畿内の兵士の調を免じている。

<壹礼比福麻呂>
● 壹礼比福麻呂

淳仁天皇紀に右京人の上部王虫麻呂が「豊原連」を賜姓されていたが、同一場所とは限られず、やはり右京の地で氏名が表す地形から出自場所を求めてみよう。

上記の藤原(朝臣)法壹(百能の姪)にも用いられている「壹」について、あらためて文字解釈を行うと、「壹」=「蓋+壺+囗」=「谷間を蓋するように山稜が延びている様」と解釈される。

また「礼(禮)」=「示+豊」=「高台が並んで揃っている様」と解釈される。日本の古代史上極めて重要な二文字なのである。言い換えれば、それが読み解けていないことが、”混迷”の歴史となっているのである。

そんな二文字を含む壹禮比=並んで揃っている高台がくっ付いたいる山稜が谷間を蓋するように延びているところと読み解ける。福麻呂福=示+畐=高台が酒樽のような形をしている様であり、図に示した場所が出自と推定される。現在の地図では、近隣は大きく地形変形しているが、おそらく古くから人々が住居としていたために残存した地形だったのであろう。まさに奇跡である。

<文直人上>
賜姓の豊原連は「上部王」等と重なるが、ひょっとしたら同族だったのかもしれない。豐原=段々になった高台が平らに広がっているところと解釈される。

● 文直人上

元正天皇紀に『壬申の乱』の功臣である「文直成覺」の子の「古麻呂」に賜田されたと記載されていた。「成覺」の父親である「福因」も含めて、彼等の居処を求めた(こちら参照)。

近縁の書直一族等は忌寸姓を賜って「文忌寸」と名乗るのだが、彼等は直姓のままだったようである。「成覺」は大海皇子(後の天武天皇)の吉野脱出に随行した舎人の一人と思われるが、有能な渡来系の人々を重用していたのであろう。

百濟王一族が蔓延った地の西側に当たる場所を居処としていたと推定された。些か時を経て後裔が登場したようである。既出の人名である人上=谷間で盛り上がっているところと解釈したが、図に示した谷間の奥の地形を表していることが解る。續紀中での登場は、この場限りである。

五月乙酉。授從五位下海上眞人三狩從五位上。」又下野國安蘇郡主帳外正六位下若麻續部牛養。陸奥國人外大初位下安倍信夫臣東麻呂等獻軍粮。並授外從五位下。庚寅。諸司直丁。勞廿四箇年已上者八人。賜爵一級。甲午。陸奥國頃年兵乱。奥郡百姓並未來集。勅給復三年。丙申。以從五位上調使王爲少納言。丁酉。散事從四位下福當女王卒。戊戌。以正四位上坂上大忌寸苅田麻呂爲右衛士督。己亥。以從五位下笠朝臣名麻呂爲左少弁。正四位下藤原朝臣鷹取爲中宮大夫。侍從越前守如故。從五位上笠王爲左大舍人頭。從五位上多治比眞人年主爲右大舍人頭。從四位下紀朝臣家守爲内藏頭。右兵衛督如故。從五位下藤原朝臣是人爲大判事。從五位下葛井連根主爲木工助。參議從三位大伴宿祢家持爲春宮大夫。從五位下多治比眞人豊濱爲參河守。壬寅。陸奥國言。祈祷鹿嶋神。討撥凶賊。神驗非虚。望賽位封。勅奉授勳五等封二戸。」授外從五位下榮井宿祢道形從五位下。癸夘。少内記正八位上土師宿祢安人等言。臣等遠祖野見宿祢。造作物象。以代殉人。垂裕後昆。生民頼之。而其後子孫。動預凶儀。尋念祖業。意不在茲。是以土師宿祢古人等。前年因居地名。改姓菅原。當時安人任在遠國。不及預例。望請。土師之字改爲秋篠。詔許之。於是。安人兄弟男女六人賜姓秋篠。

五月三日に海上眞人三狩(三狩王)に従五位上を授けている。また、「下野國安蘇郡」主帳の「若麻續部牛養」と陸奥國の人である「安倍信夫臣東麻呂」等が兵粮を献じたので、それぞれに外従五位下を授けている。八日に諸司の直丁で二十四年以上勤務している者八人に位階一級を与えている。

十二日に陸奥國では、この頃兵乱があって、奥の郡の人民はそれぞれの村落に集まって来ていない。勅されて、三年間の租税負担を免除している。十四日に調使王()を少納言に任じている。十五日に散事の福當女王(福當王)が亡くなっている。十六日に坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を右衛士督に任じている。

十七日に笠朝臣名麻呂(名末呂。賀古に併記)を左少弁、藤原朝臣鷹取()を侍従・越前守のままで中宮大夫、笠王を左大舍人頭、多治比眞人年主(歳主)を右大舍人頭、紀朝臣家守を右兵衛督のままで内藏頭、藤原朝臣是人を大判事、葛井連根主(惠文に併記)を木工助、參議の大伴宿祢家持を春宮大夫、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を參河守に任じている。

二十日に陸奥國が以下のように言上している・・・鹿嶋神に祈祷して凶賊を討ち亡ぼした。神の霊験はうそではない。神位を報いるようにお願いする・・・。勅されて、勲五等と封二戸を授けている。また、榮井宿祢道形に内位の従五位下を授けている。

二十一日に少内記の「土師宿祢安人」等が以下のように言上している・・・臣等の遠祖の野見宿祢は土で物の形を作り、それを殉死の人に代え、恵みを後世の人々に垂れ、人民はそのお蔭を蒙っている。しかるにその後、子孫は、ややもすると不吉な儀式(葬儀)に関係している。先祖の功績をたずねて思うに、本意はこういう事ではない。---≪続≫---

その故に土師宿祢古人等は、去年居住している土地の名により、姓を菅原と改めた。当時「安人」は任地が遠國にあって、その例に預かっていない。どうか土師の字を改めて「秋篠」とするようにお願い申し上げる・・・。詔されて、これを許可している。そこで「安人」の兄弟男女六人に「秋篠」姓を賜っている。

<下野國安蘇郡:若麻續部牛養>
下野國安蘇郡

下野國の郡割では、既に賀美郡都賀郡の二郡が登場していたが、「安蘇郡」は記紀・續紀を通じて初見であろう。

結果として、図に示したような配置と推定される。「都賀郡」の南に接し、武藏國・安房國との國境に位置する地域である。現地名は北九州市小倉南区上吉田となっている。

名称の安蘇=[魚]の形をした山稜と稲穂のような山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がって延びているところと読み解ける。その地形を示す地域であることが解る。「阿蘇・蘇賀」などで多用される「蘇」の文字解釈、確信である。

「禾(稲穂)」の場所は、図では省略しているが、聖武天皇紀に外従五位下を叙爵された古仁染思・虫名等の居処と推定した山稜である。また、足利驛や幾度か登場した下野藥師寺は当郡に属するように思われる。

● 若麻續部牛養 土地を開拓して財を成した人物だったのであろう。国土地理院航空写真1961~9年を参照(こちら)すると平らな耕地が拡がっている様子を伺えるように思われる。

若麻續=細かく岐れて延びる山稜の先に擦り潰されたような平らな地が次々と続いているところと読み解ける。その部=近隣牛養=牛の頭部のように岐れて延びる山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところの場所が出自と推定される。

<安倍信夫臣東麻呂>
● 安倍信夫臣東麻呂

「安(阿)倍信夫臣」の氏姓は、称徳天皇紀に多くの陸奥國住人への一斉賜姓の中で記載され、「信夫郡」の人である丈部大庭()に賜った氏姓であった。

一見、錯綜とした記述のように思われるが、陸奥國の地勢情報がふんだんに盛り込まれており、現地名の北九州市門司区畑・今津辺りとした推定を確かにするものであった。

名前の東=突き通す様であり、図に示した三角州の地形を表していることが解る。時が過ぎて水際が後退し、陸地が広がったのであろう。上記と同様に、平らな土地が耕地となって財を蓄えることができたのであろう。

下野國の「牛養」と同様に「東麻呂」も、この後に續紀中に登場することはないが、いずれにせよ当該地の住人に関する記述として貴重であり、関連する情報を求めると、詳細に解説されているようである。

<土師宿祢安人>
● 土師宿祢安人

前記の「野見宿禰」の後裔である「古人」等(こちら参照)と同様に、土地の名称に因んだ氏姓にしたいと申し出ている。「安人」も同様な系列であったのであろう。

調べると父親が「千村」であったと知られている。本著では「弟麻呂・百村」と繋がる系列に属する人物と分った(こちら参照)。

安人=山稜に挟まれた嫋やかに曲がって延びる谷間の先が[人]の形になっているところと解釈すると、図に示した、父親の北隣の場所が出自と推定される。図では省略しているが、多くの土師一族が犇めきあっていた様子が伺える。

土地の名称は、勿論、地形象形表記であり、賜った秋篠宿祢に含まれる既出の文字列である秋篠=細かく岐れて延びる山稜の前が[火]のような形になっているところと解釈される。「千村」の出自場所の地形を表現したものであろう。

後になるが、「菅原宿祢」と同様に朝臣姓を賜ったようである。また、未だ登場しないが、もう一つの系列(上図眞妹[富杼の娘]等の系列)である「大枝宿祢」も朝臣姓を賜っているようであるが、詳細はその時点で述べることにする。