2024年10月29日火曜日

今皇帝:桓武天皇(16) 〔699〕

今皇帝:桓武天皇(16)


延暦六(西暦787年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

五月己丑。有勅。令皇太子帶劔。于時太子未加元服矣。戊戌。典藥寮言。蘇敬注新修本草。与陶隱居集注本草相検。増一百餘條。亦今採用草藥。既合敬説。請行用之。許焉。壬寅。授從四位上紀朝臣古佐美正四位下。正五位上大中臣朝臣諸魚。笠朝臣名末呂。藤原朝臣雄友。藤原朝臣内麻呂並從四位下。乙巳。授正六位上忍海原連魚養外從五位下。戊申。以從五位下多治比眞人豊長爲内藏助。春宮少進如故。外從五位下榮井宿祢道形爲造兵正。外從五位下中臣栗原連子公爲大炊助。從五位上藤原朝臣乙叡爲中衛少將。少納言從五位下藤原朝臣繩主爲兼右衛士佐。從五位下山上王爲内兵庫正。

五月六日に勅されて、皇太子(安殿親王)に剣を帯びさせているが、この時まだ元服していなかった。十五日に典薬寮が以下のように言上している・・・蘇敬が注した『新修本草』(こちら参照)を陶隠居が撰した『集注本草』(こちら参照)と付き合わせて点検すると、前者の方が百条あまりも増補している。また現在採取して用いている薬草は蘇敬の説明に合致していて、これを採用したいと思う・・・。これを許可している。

十九日に紀朝臣古佐美に正四位下、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)笠朝臣名末呂(賀古に併記)・藤原朝臣雄友()・藤原朝臣内麻呂()に從四位下を授けている。二十二日に「忍海原連魚養」に外從五位下を授けている。

二十五日に多治比眞人豊長(豊濱。乙安に併記)を春宮少進のままで内藏助、榮井宿祢道形を造兵正、中臣栗原連子公(栗原勝)を大炊助、藤原朝臣乙叡()を中衛少將、少納言の藤原朝臣繩主()を兼務で右衛士佐、山上王を内兵庫正に任じている。

<忍海原連魚養>
● 忍海原連魚養

「忍海原連」は初見の氏姓であるが、延暦十(791)年正月に以下のような記載がある。

・・・典藥頭外從五位下忍海原連魚養等言。謹検古牒云。葛木襲津彦之第六子曰熊道足祢。是魚養等之祖也。熊道足祢六世孫首麻呂。飛鳥淨御原朝庭辛巳年。貶賜連姓。尓來再三披訴。一二陳聞。然覆盆之下難照。而向隅之志久矣。今属聖朝啓運。品物交泰。愚民宿憤。不得不陳。望請。除彼舊号。賜朝野宿祢。光前榮後。存亡倶欣。今所請朝野者。所處之本名也・・・。

「葛木襲津彦」(古事記では葛城長江曾都毘古)を遠祖とし、その子である熊道足祢(宿祢)が祖先であると述べている。古事記の阿藝那臣の場所に熊道=隅にある首の付け根のように窪んだところの地形が見出せる。

名前の魚養=[魚]の尻尾のように岐れて延びる山稜の麓で谷間がなだらかに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。後に賜る朝野宿祢朝野=山稜に挟まれた丸く小高い地の麓に野が広がっているところと解釈される。言上の通りに、その地の名称であろう。

閏五月丁巳。陸奥鎭守將軍正五位上百濟王俊哲坐事左降日向權介。癸亥。左右京二職所掌調租等物。色目非一。或不勤徴収。多致未納。或犯用其物。遷替之司。貽累後人。於是。始准攝津職。与解由放焉。戊寅。外從五位下白鳥村主元麻呂爲織部正。從五位上丈部大麻呂爲隱伎國守。從五位上文室眞人於保爲備後守。己夘。左中弁兼河内守從四位下巨勢朝臣苗麻呂卒。

閏五月五日に陸奥鎮守将軍の百濟王俊哲(②-)が事件に関係して罪に問われ、日向権介に左遷されている。十一日に左右京識は、職掌として扱う調や租などの物の種類が一つではない。徴収に努力せず未納のままにすることが多かったり、その物を盗んで流用したりして、転任する役人が後任の人に迷惑を及ぼしている、そこで初めて、攝津職の例に準拠して交替の際に解由を与えて離任させるようにしている。

二十六日に白鳥村主元麻呂(白原連三成に併記)を織部正、丈部大麻呂を隱伎國守、文室眞人於保(長谷眞人)を備後守に任じている。二十七日に左中弁で河内守を兼任する巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)が亡くなっている。

六月辛丑。正六位上平田忌寸杖麻呂。路忌寸泉麻呂。從七位下蚊屋忌寸淨足。從八位上於忌寸弟麻呂等四人。並改忌寸賜宿祢姓。壬寅。河内國志紀郡人林臣海主野守等。改臣賜朝臣。

六月二十日に平田忌寸杖麻呂・「路忌寸泉麻呂」・蚊屋忌寸淨足於忌寸弟麻呂(人主に併記)等の四人は「忌寸」姓を改めて「宿祢」姓を賜っている。二十一日に河内國志紀郡の人である「林臣海主・野守」等に臣姓を改めて朝臣姓を賜っている。

<路忌寸泉麻呂>
● 路忌寸泉麻呂

坂上大忌寸苅田麻呂の言上によって「宿祢」を賜姓された具体的な人物名が挙げられている。「路忌寸」は東漢一族であるが、人物名が記載されたのは、書紀の『壬申の乱』で登場した路直益人のみであった。

路=足+各=山稜の端が開いた足のように岐れて延びている様であり、図に示した場所の地形を表していると読み解いた。路眞人の地形に類似する。

泉麻呂泉=囟+水=窪んだ地から水が流れ出ている様を表し、図に示した谷間の出口辺りが、この人物の出自場所と推定される。現地名は京都郡みやこ町犀川久富である。

上図に示した通り、東側の佐太(忌寸)宿祢、西側の酒人忌寸(多分、同様に宿祢賜姓)に挟まれた配置となっている。東漢一族の居処<今川(犀川)祓川が直角に大きく曲がる地を突き通す台地>の全容が、ほぼ明らかになって来たようである。

<林臣海主-野守>
● 林臣海主・林臣野守

河内國志紀郡には林連一族が既に登場していたが、「臣」姓については初見と思われる。現地名は行橋市二塚であり、多くの渡来系の人々が居処としていた地域である。

林=木+木=谷間の出口で山稜の端が小高く並んでいる様と解釈したが、その地形を探すと図に示した場所が見出せる。図から分るように、ぐるりと他氏族に取り囲まれている(こちらこちらこちら参照)。

名前の海主=真っ直ぐに延びた山稜の前に水辺で母が子を抱くように延びた山稜に囲まれているところと解釈される。「林」の谷間の奥に当たる場所である。もう一人の名前である野守=山稜が両肘を張り出して取り囲んだように延びている前で野が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

彼等は「朝臣」姓を賜ったと記載されている。それなりの系譜を持つ人物だったのであろうが、詳細は伝わっていないようである。「林朝臣」としての登場は、以後に見られない。

秋七月己未。太白晝見。戊辰。右京人正六位上大友村主廣道。近江國野洲郡人正六位上大友民曰佐龍人。淺井郡人從六位上錦曰佐周興。蒲生郡人從八位上錦曰佐名吉。坂田郡人大初位下穴太村主眞廣等。並改本姓賜志賀忌寸。丙子。先是。去寳龜十年立制。牧宰之輩。奉使入京。或無返抄而歸任。或稱病而滯京下。求預考例兼得公廨。如此之類莫預釐務。國司奪料。郡司解任。容許之司。亦同此例。而自時其後。希有遵行。至是重下知。諸國不悛前過。猶致緩怠。即科違勅罪矣。

七月八日に太白(金星)が昼間に見えている。十七日に右京の人である大友村主廣道(廣公に併記)、近江國野洲郡の人である大友民曰佐龍人(大友村主人主に併記)、淺井郡の人である錦曰佐周興(勝首益麻呂に併記)、蒲生郡の人である錦曰佐名吉(佐佐貴山公賀比に併記)、坂田郡に人である穴太村主眞廣(勝首益麻呂に併記)等に本姓を改めて「志賀忌寸」の氏姓を賜っている。

二十五日、これより以前、去る寶龜十(779)年に以下のような制度を立てた・・・國司や郡司は、使者として上京した時、中央官司の受領証を貰わないまま任國に帰ってしまったり、病気と称して京に滞在したまま、勤務評定を受けて昇進する扱いに入れてもらい、併せて公廨を得ることを要求したりしている。このような連中はっ職務に関与させてはならない。國司は給与を没収し、郡司は解任せよ。容認した官司も同様な処分とせよ・・・。

しかしながら、この後も遵守し実行することは稀であった。ここに至って重ねて命令を下し、諸國の國司・郡司が以前の過失を悔い改めず、なお怠り怠けた場合には、違勅の罪を適用する、としている。

八月丙申。以治部卿正四位下壹志濃王爲參議。甲辰。行幸高椅津。還過大納言從二位藤原朝臣繼繩第。授其室正四位上百濟王明信從三位。

八月十六日に治部卿の壹志濃王()を参議に任じている。二十四日に高椅津(交野・百濟寺に併記)に行幸された帰りに、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)の邸に立寄って、妻の百濟王明信(①-)に従三位を授けている。

九月丁夘。以近衛少將從五位下紀朝臣兄原爲兼少納言。從五位上大伴宿祢弟麻呂爲左中弁。從五位上文室眞人与企爲右中弁。中納言從三位石川朝臣名足爲兼左京大夫。兵部卿皇后宮大夫如故。從五位下高倉朝臣殿嗣爲亮。從五位下坂上大宿祢田村麻呂爲近衛少將。内匠助如故。從五位下采女朝臣宅守爲日向守。丁丑。先是。贈左大臣藤原朝臣種繼男湯守有過除籍。至是賜姓井手宿祢。

九月十七日に近衛少將の紀朝臣兄原(眞子に併記)を兼務で少納言、大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を左中弁、文室眞人与企(与伎)を右中弁、中納言の石川朝臣名足兵部卿・皇后宮大夫のまま兼務で左京大夫、高倉朝臣殿嗣(高麗朝臣殿繼)を亮、坂上大宿祢田村麻呂(又子に併記)を内匠助のままで近衛少將、采女朝臣宅守を日向守に任じている。

二十七日、これより以前、贈左大臣の藤原朝臣種繼(藥子に併記)の息子である湯守(縵麻呂に併記)は、過失があったため戸籍から削除されていた。ここに至って井手宿祢の氏姓を賜っている。

冬十月丁亥。詔曰。朕君臨四海。于茲七載。未能使含生之民共洽淳化。率土之内咸致雍熈。顧惟虚薄。良用慙嘆。而天下諸國。今年豊稔。享此大賚。豈獨在予。思與百姓慶斯有年。其賜天下高年百歳已上穀人三斛。九十已上人二斛。八十已上人一斛。鰥寡孤獨。疾之徒。不能自存者。所司准例加賑恤。仍各令本國次官已上巡縣郷邑。親自給稟。又朕以水陸之便遷都茲邑。言念居民。豈無騒然。宜免乙訓郡延暦三年出擧未納。其郡司主帳已上賜爵人一級。丙申。天皇行幸交野。放鷹遊獵。以大納言從二位藤原朝臣繼繩別業爲行宮矣。己亥。主人率百濟王等奏種種之樂。授從五位上百濟王玄鏡。藤原朝臣乙叡並正五位下。正六位上百濟王元眞。善貞。忠信並從五位下。正五位下藤原朝臣明子正五位上。從五位下藤原朝臣家野從五位上。无位百濟王明本從五位下。是日還宮。癸夘。從五位下佐伯宿祢葛城爲民部少輔。下野守如故。甲辰。右衛士督從四位下兼皇后宮亮丹波守勳十一等笠朝臣名末呂卒。

十月十日に次のように詔されている・・・朕が即位して國を治めるようになって今年で七年になる。未だに生ある民を朕の教えに全て馴化させ、支配する地を悉く安泰にさせることはできていない。才能がないことを反省すると、まことに恥じ入り嘆くばかりである。しかしながら今年は豊作であった。天からの賜物を受けるのが、一人自分だけであってよいものであろうか。人民と共にこの豊作を喜びたいと思う。---≪続≫---

そこで高齢者で百歳以上には籾米を各三石、九十歳以上には二石、八十歳以上には一石を与える。鰥・寡・孤・獨、病気で苦しむ人や自活できない人には、所管の官司が前例に準拠して物を恵み与えよ。そのために、それぞれの國司の次官以上には村々を巡回させ、直接に籾米を与えさせよ。また朕は、水陸の便利なことを考慮して、都をこの長岡村に移した。そこで住民のことを考えるに、慌ただしくないであろうか。そこで乙訓郡の延暦三年の出挙の未納分を免除し、郡司の主帳以上には、位階を一階ずつ与えよ・・・。

十七日に交野に行幸され、鷹狩を行って遊猟し、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)の別荘を行宮としている。二十日、別荘の主人が百濟王氏の人々を引率して種々の音楽を演奏させている。百濟王玄鏡(①-)・藤原朝臣乙叡()に正五位下、百濟王元眞(②-)・百濟王善貞(②-)・百濟王忠信(①-)に從五位下、藤原朝臣明子に正五位上、藤原朝臣家野に從五位上、百濟王明本(②-)に從五位下を授けている。この日、宮に帰られている。

二十四日に佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を下野守のままで民部少輔に任じている。二十五日に右衛士督で皇后宮亮・丹波守を兼務する勳十一等の笠朝臣名末呂(賀古に併記)が亡くなっている。

十一月甲寅。祀天神於交野。其祭文曰。維延暦六年歳次丁夘十一月庚戌朔甲寅。嗣天子臣謹遣從二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣繼繩。敢昭告于昊天上帝。臣恭膺眷命。嗣守鴻基。幸頼穹蒼降祚覆燾騰徴。四海晏然万姓康樂。方今大明南至。長晷初昇。敬采燔祀之義。祇修報徳之典。謹以玉帛犧齊粢盛庶品。備茲禋燎。祇薦潔誠。高紹天皇配神作主尚饗。又曰。維延暦六年歳次丁夘十一月庚戌朔甲寅。孝子皇帝臣諱謹遣從二位行大納言兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣繼繩。敢昭告于高紹天皇。臣以庸虚忝承天序。上玄錫祉率土宅心。方今履長伊始。肅事郊禋。用致燔祀于昊天上帝。高紹天皇慶流長發。徳冠思文。對越昭升。永言配命。謹以制幣犧齊粢盛庶品。式陳明薦。侑神作主尚饗。

十一月五日に天神を交野に祀っている。その祭文は以下のようである・・・ここ延暦六年丁卯の年、十一月の朔が庚戌に当たる甲寅の日に、跡継ぎの天子である私が、謹んで行大納言兼民部卿で造東大寺司長官の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を派遣して、敢えて明らかに昊天上帝(天上界を支配する神)に申し上げる。私はうやうやしく情け深い仰せを受けて、皇位を継承し守って来た。幸いにも天は福を下し、万物を覆い育てている証を示され、世界は平安であり、全ての民も安泰に暮らしている。---≪続≫---

まさに今、太陽が最も南に下り、長い影が初めて伸びている。うやうやしく生贄を捧げて天を祭る儀式を行い、謹んで天の徳に報いる式典を行う。そこで謹んで玉や絹、生贄の肉、器に盛った穀物などの品々を取り揃えて、この天帝の祀りに備え、謹んで高潔な誠の心を捧げる。また、高紹天皇(光仁天皇)を神に配して祀る。どうかお受け下さい・・・。

また、高紹天皇への祭文は以下のようである・・・ここに延暦六年丁卯の年、十一月の朔が庚戌に当たる甲寅の日に、孝子である皇帝の私、山部が謹んで行大納言兼民部卿で造東大寺司長官の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を派遣して、敢えて明らかに高紹天皇に申し上げる。臣は平凡で才能がないのにも拘わらず、忝くも皇位を継承した。天より福を授かり、天下の民が心を寄せている。---≪続≫---

今まさに、冬至が始まったので、謹んで郊外で天を祭ることを執り行い、肉を供えて昊天上帝をお祀りする。高紹天皇の幸は(殷が天下を得た時)長発の歌と同じく行渡り、その德は(周の祖先の)思文の歌より優れている。天帝に対うべく明らかに天に昇らせ、永くここに天命を配する。そこで謹んで幣帛を供え、生贄の肉、器に盛った穀物などの品々を整えて、もって祭祀の供え物とする。神に相伴させて祀る。どうかお受け下さい・・・。

十二月庚辰朔。授外正七位下朝倉公家長外從五位下。以進軍粮於陸奥國也。

十二月一日に朝倉公家長(朝倉君時に併記)に外従五位下を授けている。兵糧を陸奥國に献上したことによる。





 

2024年10月21日月曜日

今皇帝:桓武天皇(15) 〔698〕

今皇帝:桓武天皇(15)


延暦六(西暦787年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月壬辰。授正四位下多治比眞人長野從三位。无位矢庭王。大庭王。正六位上岡田王並從五位下。從四位下大伴宿祢潔足從四位上。從五位上文室眞人波多麻呂。安倍朝臣常嶋。藤原朝臣眞友並正五位下。從五位下文室眞人久賀麻呂。阿倍朝臣弟當。藤原朝臣宗嗣。紀朝臣眞子並從五位上。正六位上大原眞人長濱。橘朝臣安麻呂。藤原朝臣今川。百濟王玄風。正六位下紀朝臣全繼。從六位上巨勢朝臣人公。正六位上石川朝臣永成並從五位下。

延暦六年正月七日、多治比眞人長野に從三位、「矢庭王・大庭王・岡田王」に從五位下、大伴宿祢潔足(池主に併記)に從四位上、文室眞人波多麻呂安倍朝臣常嶋藤原朝臣眞友()に正五位下、文室眞人久賀麻呂阿倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)・藤原朝臣宗嗣()・紀朝臣眞子に從五位上、大原眞人長濱(年繼に併記)・橘朝臣安麻呂()・藤原朝臣今川(今河。)・百濟王玄風(①-)・紀朝臣全繼(眞媼に併記)・巨勢朝臣人公(宮人に併記)・石川朝臣永成(在麻呂に併記)に從五位下を授けている。

<矢庭王-大庭王-岡田王>
● 矢庭王・大庭王・岡田王

関連する情報を調べると、最後の岡田王について、「殖栗王」(古事記では橘豐日命[用明天皇]の子の植栗王)の子孫だったらしい。厩戸皇子の兄弟である。

現地名は田川市夏吉、「植栗」は白髪川の西岸に延びる山稜の形を象った表記と推定した。伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の大后であった比婆須比賣命の狹木之寺間陵があった場所である。

称徳天皇紀に「寺間臣」一族が「大屋朝臣」を賜姓されたと記載されていた(こちら参照)。岡田王岡田=谷間に延びる山稜に麓で田が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

すると、矢庭王矢庭=[矢]のように延びる山稜の麓が平らに広がっているところ大庭王大庭=平らな頂の山稜の麓が平らに広がっているところと解釈され、各々の出自場所を図にように求めることができる。文室眞人一族が蔓延った東側に当たる場所である。

それぞれ、この後に幾度か登場されているが、續紀中では「岡田王」が臣籍降下して「蜷淵眞人」の賜姓された記述は見られない。「蜷淵」は、彼のみの居処の地形を表しているのだが、詳細は省略する(他の王二人の情報は不明)。尚、「蜷淵」は、南淵に関わると言われているが、勘違いであろう。

二月庚申。勅。諸勝賜姓廣根朝臣。岡成長岡朝臣。以從五位下高倉朝臣石麻呂爲中務少輔。從五位下中臣朝臣比登爲和泉守。從五位下甘南備眞人繼成爲伊賀守。外從五位下御使朝臣淨足爲參河介。近衛少將從五位上佐伯宿祢老爲兼相摸守。少納言如故。從五位下紀朝臣眞人爲介。從五位下百濟王玄風爲美濃介。從五位下佐伯宿祢葛城爲陸奥介。從五位下石淵王爲若狹守。從五位下紀朝臣馬守爲越中守。從五位下丹比宿祢眞淨爲丹波介。從五位下大宅朝臣廣江爲丹後守。外從五位下丹比宿祢稻長爲伯耆介。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂爲兼美作守。中務卿如故。從五位下紀朝臣安提爲備中守。從五位上雄倉王爲阿波守。正五位上内藏宿祢全成爲讃岐守。陸奥介從五位下佐伯宿祢葛城爲兼鎭守副將軍。癸亥。以從五位下石浦王爲少納言。從五位下石川朝臣永成爲左大舍人助。從五位下榮井宿祢道形爲内藏助。從五位下橘朝臣安麻呂爲雅樂助。從五位下巨勢朝臣人公爲民部少輔。外從五位下麻田連眞淨爲主税助。外從五位下奈良忌寸長野爲鼓吹正。從五位下阿倍朝臣祖足爲左京亮。從五位下石川朝臣魚麻呂爲攝津亮。從五位下藤原朝臣繩主爲右衛士佐。從五位下大伴王爲主馬頭。甲戌。渤海使李元泰等言。元泰等入朝時。柁師及挾杪等逢賊之日。並被劫殺。還國無由。於是。仰越後國。給船一艘柁師挾杪水手而發遣焉。庚辰。以從五位上大伴宿祢弟麻呂爲右中弁。從五位上文室眞人久賀麻呂爲攝津亮。從五位下和朝臣國守爲參河守。從五位上多治比眞人濱成爲常陸介。從五位下佐伯宿祢葛城爲下野守。從五位下藤原朝臣葛野麻呂爲陸奥介。從五位下石川朝臣魚麻呂爲丹後守。從五位下池田朝臣眞枚爲鎭守副將軍。

二月五日に勅されて、「諸勝」に「廣根朝臣」、「岡成」に「長岡朝臣」(こちら参照)の氏姓を与えている。高倉朝臣石麻呂(高麗朝臣)を中務少輔、中臣朝臣比登(必登。藤原朝臣夜志芳古に併記)を和泉守、甘南備眞人繼成(繼人。清野に併記)を伊賀守、御使朝臣淨足を參河介、近衛少將の佐伯宿祢老少納言まま兼務で相摸守、紀朝臣眞人(大宅に併記)を介、百濟王玄風(①-)を美濃介、佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を陸奥介、石淵王(山上王に併記)を若狹守、紀朝臣馬守(馬借)を越中守、丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)を丹波介、大宅朝臣廣江(吉成に併記)を丹後守、丹比宿祢稻長(丹比新家連)を伯耆介、中納言の藤原朝臣小黒麻呂を中務卿のまま兼務で美作守、紀朝臣安提(本に併記)を備中守、雄倉王(小倉王)を阿波守、内藏宿祢全成(忌寸。黒人に併記)を讃岐守、陸奥介の佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を兼務で鎭守副將軍に任じている。

八日に石浦王()を少納言、石川朝臣永成(在麻呂に併記)を左大舍人助、榮井宿祢道形を内藏助、橘朝臣安麻呂()を雅樂助、巨勢朝臣人公(宮人に併記)を民部少輔、麻田連眞淨(金生に併記)を主税助、奈良忌寸長野(秦忌寸)を鼓吹正、阿倍朝臣祖足(石行に併記)を左京亮、石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)を攝津亮、藤原朝臣繩主()を右衛士佐、大伴王()を主馬頭に任じている。

十九日に渤海の使節の李元泰が以下のように言上している・・・元泰等が日本に来朝した時、柂師や挾杪などが賊に遭遇した際、それぞれ拉致されたり殺害されたりしたので、帰る手段を失くしてしまった・・・。そこで越後國に命じて、船一艘と柂師・挾杪や水手を与えて出発させている。

二十五日に大伴宿祢弟麻呂(益立に併記)を右中弁、文室眞人久賀麻呂を攝津亮、和朝臣國守(和史。和連諸乙に併記)を參河守、多治比眞人濱成(歳主に併記)を常陸介、佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を下野守、藤原朝臣葛野麻呂を陸奥介、石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)を丹後守、池田朝臣眞枚(足繼に併記)を鎭守副將軍に任じている。

<諸勝(王)[廣根朝臣]>
● 諸勝[廣根朝臣]

氏名が無く唐突に登場しているが、調べると光仁天皇が女孺に産ませた子と知られているようである。「諸勝」は、光仁天皇紀に従五位下を叙位された縣犬養宿祢勇耳の子であった。

当然のことながら、名前は出自の場所を表しているのであるが、その場所は母親の近隣と推測される。諸勝=盛り上がった地の前で耕地が交差しているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

賜った氏姓である廣根朝臣廣根=[根]のような地が広がっているところと解釈される。母子の居処の地形を表していることが解る。皇族が臣籍降下すると眞人姓かと思われるのだが、朝臣姓となっている。「長岡朝臣」を賜姓された「岡成」も同様なのだが・・・共に「王」が付記されていない。

續紀中での登場は、この場限りであるが、後に従五位下を叙爵され、最終従五位上・攝津介であったと伝えられている。地形変形が凄まじく、国土地理院航空写真から求めた「八重」等の出自場所の確からしさが高まったようである。

三月丁亥。宴五已上於内裏。召文人令賦曲水。宴訖賜祿各有差。己亥。散事從四位上飽波女王卒。甲辰。詔曰。養老之義著自前修。歴代皇王率由斯道。方今時属東作。人赴南畝。迺眷生民。情深矜恤。其左右京五畿内七道諸國。百歳已上各賜穀二斛。九十已上一斛。八十已上五斗。鰥寡孤獨及癈疾之徒者。量其老幼。三斗已下。一斗已上。仍令本國長官親至郷邑存情賑贍。丙午。以從五位上中臣朝臣常爲神祇大副。從五位下藤原朝臣繩主爲少納言。從五位上阿倍朝臣弟當爲左少弁。從五位下笠朝臣江人爲右少弁。播磨大掾如故。正五位下藤原朝臣眞友爲右大舍人頭。下総守如故。近衛將監從五位下坂上大宿祢田村麻呂爲兼内匠助。從五位上安倍朝臣廣津麻呂爲式部少輔。春宮亮越前介如故。從五位下朝原忌寸道永爲大學頭。東宮學士文章博士越後介如故。從五位上紀朝臣作良爲治部大輔。從五位下文室眞人眞屋麻呂爲少輔。從五位下文室眞人八嶋爲正親正。從五位下廣田王爲鍛冶正。從五位上藤原朝臣乙叡爲右衛士佐。

三月三日に五位以上と内裏で宴会し、文人を召して曲水の詩を作らせている。宴の後それぞれに禄を賜っている。十五日に散事の飽波女王が亡くなっている。

二十日に次のように詔されている・・・老人を養うことの意義は前代より明らかであり、歴代の天皇も、この道理に従って来た。今はちょうど春の耕作の時期に当たり、人々は田畠に出向いている。そこで人民に目をかけ、深い情をもって憐れみ恵もうと思う。左右京、畿内五ヶ國と七道の諸國にいる百歳以上の者にそれぞれ籾米二石を与えよ。また、九十歳以上の者には一石を、八十歳以上の者には五斗を、鰥・寡・孤・獨と病気で苦しんでいる者には、年齢に応じて三斗以下、一斗以上を与えよ・・・。そこで各國の長官に自ら村々に行かせ、思いやりをもって施し与えさせている。

二十二日に中臣朝臣常(宅守に併記)を神祇大副、藤原朝臣繩主()を少納言、阿倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)を左少弁、笠朝臣江人(眞足に併記)を播磨大掾のままで右少弁、藤原朝臣眞友()下総守のままで右大舍人頭、近衛將監の坂上大宿祢田村麻呂(又子に併記)を兼務で内匠助、安倍朝臣廣津麻呂春宮亮・越前介のままで式部少輔、朝原忌寸道永(箕造に併記)を東宮學士・文章博士・越後介のままで大學頭、紀朝臣作良を治部大輔、文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)を少輔、文室眞人八嶋(久賀麻呂に併記)を正親正、廣田王()を鍛冶正、藤原朝臣乙叡()を右衛士佐に任じている。 

夏四月乙夘朔。唐人王維倩。朱政等賜姓榮山忌寸。乙丑。武藏國足立郡采女掌侍兼典掃從四位下武藏宿祢家刀自卒。庚午。山背國獻白雉。戊寅。授蒲生采女從七位下佐佐貴山公賀比外從五位下。

四月一日に唐人の「王維倩・朱政」等に「榮山忌寸」の氏姓を賜っている(晏子欽等に榮山忌寸を賜姓。こちら参照)。十一日に武藏國足立郡の采女で、掌侍・典掃を兼任する武藏宿祢家刀自(丈部直刀自)が亡くなっている。十六日に山背國が「白雉」を献上している。二十四日に蒲生采女の「佐佐貴山公賀比」に外従五位下を授けている。

<山背國:白雉>
山背國:白雉

山背國獻白雉は、寶龜六(775)年四月にも記載されていた。山背の地では、瑞祥が繰り返し捕獲されたのだ、ではない。早期に開拓された場所の中で、希少な未開拓地だったことを告げているのである。

白雉=[矢]のような鳥がくっ付いて並んでいるところと解釈した。その地形を探すと、図に示した愛宕郡の東部に見出せる。現地名は田川郡赤村赤であるが、京都郡みやこ町犀川喜多良(豊前國遠珂郡)との端境に位置する。

唐突に記載される白雉献上物語であるが、後の”平安遷都”に繋がるものであろう。残念ながら續紀記述の範囲外ではあるが・・・。

<佐佐貴山公賀比・錦曰佐名吉>
● 佐佐貴山公賀比

「蒲生采女」とは、近江國蒲生郡を出自とする采女であろう。氏姓名が「佐佐貴山公」であり、聖武天皇紀に登場した佐佐貴山君親人・足人は、それぞれ近江國の蒲生郡・神前郡の大領を任じられていたと記載されていた。

その後に佐佐貴山公由氣比が大領となり、善政を行った攝津國、豊後國の大領と共に外従五位下を叙爵されていた。

「由氣比」の出自場所は、元々の佐佐貴山君の居処、現地名の北九州市八幡西区笹田に求めたが、今回登場の「賀比」は、おそらく近江國蒲生郡を出自としていたのであろう。

賀比=押し開かれた谷間がくっ付いて並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。大領の「由氣比」は、多分、その近隣を居処としていたのではなかろうか。この場限りの登場であって、この後の詳細は不明である。

直後の七月記に蒲生郡の人である錦曰佐名吉等が志賀忌寸の氏姓を賜ったと記載されている。既出の文字列である錦曰佐=三角に尖った左手のような山稜が谷間から延び出ているところ、名前の名吉=山稜の端の三角の地が蓋をしているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。

賜った志賀忌寸(志賀=蛇行する川が流れる押し開かれた谷間)の氏姓は、「賀比」の「賀」に蛇行する川が流れていたことを表している。


2024年10月14日月曜日

今皇帝:桓武天皇(14) 〔697〕

今皇帝:桓武天皇(14)


延暦五(西暦786年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

五月辛夘。新遷京都。公私草創。百姓移居。多未豊贍。於是。詔賜左右京及東西市人物。各有差。癸巳。宮内卿正四位上石川朝臣垣守卒。庚子。正四位下伊勢朝臣老人爲縫殿頭。從五位下巨勢朝臣廣山爲大和介。

五月三日、新しく遷都して、公私ともに草創の段階にあり、人民は移住して、まだ豊かな生活をしていない。そこで詔されて、左右京の住人と東西の市人に地位に応じて物を賜っている。五日に宮内卿の石川朝臣垣守が亡くなっている。十二日に伊勢朝臣老人を縫殿頭、巨勢朝臣廣山(馬主に併記)を大和介に任じている。

六月己未朔。先是。去寳龜三年制。諸國公廨處分之事。前人出擧。後人收納。彼此有功。不合無料。前後之司。宜各平分。至是勅。出擧收納。其勞不同。宜革前例。一依天平寳字元年十月十一日式。收納之前。所有公廨入於後人。收納之後入於前人。」又勅。撫育百姓糺察部内。國郡官司同職掌也。然則國郡功過共所預知。而頃年有燒正倉。獨罪郡司不坐國守。事稍乖理。豈合法意。自今以後。宜奪國司等公廨。惣填燒失官物。其郡司者不在會赦之限。丁夘。以從五位上藤原朝臣乙叡。從五位下文室眞人眞屋麻呂。並爲少納言。右大弁從四位上紀朝臣古佐美爲左大弁。春宮大夫中衛中將但馬守如故。從五位下阿倍朝臣弟當爲右少弁。從五位下上毛野公大川爲主計頭。大外記如故。中納言從三位石川朝臣名足爲兼兵部卿。皇后宮大夫播磨守如故。從五位下多治比眞人公子爲大藏少輔。正四位下大中臣朝臣子老爲宮内卿。神祇伯如故。大納言從二位藤原朝臣繼繩爲兼造東大寺長官。東宮傅民部卿如故。丁亥。尚縫從三位藤原朝臣諸姉薨。内大臣從一位良繼之女也。適贈右大臣百川生女。是贈妃也。

六月一日、これより以前、去る寶龜三(772)年に[諸國の公廨の分配方法については、前任の國司が出挙して後任の國司が収納するような場合、どちらの國司も勤めを果たしながら取り分がないということがあってはならない。前任の國司と後任の國司は、均分せよ]と制した。

この度次のように勅されている・・・出挙する事務と収納する事務とでは、労力は同等ではない。そこで前例を改正して、専ら天平寶字元(757)年十月十一日の式に従って、出挙稲を収納する以前に交替した場合、その年の公廨は後任の國司のものとし、収納後に交替した場合は前任の國司に給付せよ・・・。

九日に藤原朝臣乙叡()・文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)を少納言、右大弁の紀朝臣古佐美を春宮大夫・中衛中將・但馬守のままで左大弁、阿倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)を右少弁、上毛野公大川を大外記のままで主計頭、中納言の石川朝臣名足を皇后宮大夫・播磨守のまま兼務で兵部卿、多治比眞人公子(乙安に併記)を大藏少輔、大中臣朝臣子老を神祇伯のままで宮内卿、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を東宮傅・民部卿のまま兼務で造東大寺長官に任じている。

二十九日に尚縫の藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)が薨じている。内大臣の「良繼」の娘であった。右大臣を贈られた「藤原朝臣百川」に嫁して娘を生んだ。これが妃を追贈された女性(藤原朝臣旅子)である(こちら参照)。

秋七月壬寅。正五位下羽栗臣翼爲内藥正兼侍醫。丙午。太政官院成。百官始就朝座焉。

七月十五日に羽栗臣翼を内藥正に任じ、侍医を兼任させている。十九日に太政官院が落成し、百官が初めて朝座に就いている。

八月甲子。以從四位下巨勢朝臣苗麻呂爲左中弁。河内守如故。從四位上和氣朝臣清麻呂爲民部大輔。攝津大夫如故。從五位下中臣朝臣必登爲參河介。從五位上阿保朝臣人上爲武藏守。從五位下紀朝臣楫人爲介。從五位下文室眞人大原爲下総介。中宮大進從五位下物部多藝宿祢國足爲兼常陸大掾。正五位下粟田朝臣鷹守爲上野守。」使從五位下佐伯宿祢葛城於東海道。從五位下紀朝臣楫長於東山道。道別判官一人。主典一人。簡閲軍士。兼検戎具。爲征蝦夷也。」勅曰。正倉被燒。未必由神。何者譜第之徒。害傍人而相燒。監主之司。避虚納以放火。自今以後。不問神災人火。宜令當時國郡司填備之。仍勿解見任絶譜第矣。戊寅。唐人盧如津賜姓清川忌寸。

八月八日に巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を河内守のままで左中弁、和氣朝臣清麻呂を攝津大夫のままで民部大輔、中臣朝臣必登(藤原朝臣夜志芳古に併記)を參河介、阿保朝臣人上(健部朝臣)を武藏守、紀朝臣楫人(小楫に併記)を介、文室眞人大原(与伎に併記)を下総介、中宮大進の物部多藝宿祢國足を兼務で常陸大掾、粟田朝臣鷹守を上野守に任じている。

佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を東海道、紀朝臣楫長(船守に併記)を東山道に派遣し、それぞれ道ごとに判官一人、主典一人を任命している。軍団の兵士を選んで検閲し、併せて武器を点検させている。蝦夷を征伐するためである。

次のように勅されている・・・正倉が火災にあうのは、必ずしも神の祟りによるものばかりではない。何故なら郡司になる資格の譜第の家の輩が同輩を貶めるために火をつけ、管轄している官司が税の納入が虚偽であるのをそらすために放火しているからである。---≪続≫---

今後は、神による火災か人の放火かを問わず、火災が発生した時の國司・郡司に補填させよ。このため在職中の官人を解任したり、郡司となる資格のある家格を断絶させてはならない・・・。

二十二日に唐人の「盧如津」に清川忌寸の氏姓を賜っている(こちら参照)。

九月甲辰。出羽國言。渤海國使大使李元泰已下六十五人。乘船一隻漂着部下。被蝦夷略十二人。見存卌一人。丁未。攝津職言。諸國驛戸免庸輸調。其畿内者本自無庸。比于外民勞逸不同。逋逃不禁。良爲此也。驛子之調請從免除。許之。自餘畿内之國亦准此例。乙夘。以正四位上神王爲大和國班田左長官。從五位下石川朝臣魚麻呂爲次官。從四位上佐伯宿祢久良麻呂爲右長官。外從五位下嶋田臣宮成爲次官。從四位下巨勢朝臣苗麻呂爲河内和泉長官。從五位上紀朝臣作良爲次官。從四位上和氣朝臣清麻呂爲攝津長官。從五位下藤原朝臣葛野麻呂爲次官。正四位下壹志濃王爲山背長官。從五位下多治比眞人繼兄爲次官。使別判官二人。主典二人。

九月十八日に出羽國が以下のように言上している・・・渤海國の使節である大使李元泰をはじめ六十五人が、船一隻に乗って管内に漂着した。その時蝦夷に襲われて連れ去られた者が十二人、現在無事でいる者は、四十一人である・・・。

二十一日に攝津職が以下のように言上している・・・諸國の驛戸は庸を免除されて調を納入している。さて畿内では、元来庸の負担なく、畿外の民と比べると軽重が同じではない。逃亡が禁止できないのは、まことにこのためである。---≪続≫---

そこで驛戸に属する成年男子の調は、免除するように申請する・・・。これを許可している。その他の畿内の國もまた、この例に準じさせている。

二十九日に神王()を大和國の班田使左長官、石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)を次官、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を班田使右長官、嶋田臣宮成を次官、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を河内・和泉國の班田使長官、紀朝臣作良を次官、和氣朝臣清麻呂を攝津國の班田使長官、藤原朝臣葛野麻呂を次官、壹志濃王()を山背國の班田使長官、多治比眞人繼兄を次官に任じ、使ごとに判官二人・主典二人を任命している。

冬十月甲子。以外從五位下忌部宿祢人上爲神祗少副。正五位下高賀茂朝臣諸魚爲中宮亮。從五位下文室眞人眞屋麻呂爲右大舍人頭。從五位下高倉朝臣殿嗣爲玄蕃頭。從五位下淺井王爲内匠頭。正五位下廣上王爲内礼正。從五位下八上王爲諸陵頭。外從五位下息長眞人清繼爲木工助。衛門大尉外從五位上上毛野公我人爲兼西市正。從五位上文室眞人子老爲尾張守。從五位下縣犬養宿祢堅魚麻呂爲信濃守。從五位下阿倍朝臣草麻呂爲豊前守。丁丑。常陸國信太郡大領外正六位上物部志太連大成。以私物周百姓急。授外從五位下。戊寅。授七位上大津連廣刀自外從五位下。庚辰。授采女正六位上三野臣淨日女外從五位下。辛巳。授正六位上中臣栗原連子公外從五位下。甲申。改葬太上天皇於大和國田原陵。

十月八日に忌部宿祢人上(止美に併記)を神祗少副、高賀茂朝臣諸魚(諸雄。田守に併記)を中宮亮、文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)を右大舍人頭、高倉朝臣殿嗣(高麗朝臣殿繼)を玄蕃頭、淺井王()を内匠頭、廣上王を内礼正、八上王(八上女王。近隣)を諸陵頭、息長眞人清繼(淨繼。廣庭に併記)を木工助、衛門大尉の上毛野公我人(大川に併記)を兼務で西市正、文室眞人子老(於保に併記)を尾張守、縣犬養宿祢堅魚麻呂を信濃守、阿倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)を豊前守に任じている。

二十一日に常陸國信太郡大領の「物部志太連大成」に、私物で人民の危急を救ったので、外従五位下を授けている。二十二日に大津連廣刀自(白鼠に併記)に外從五位下を授けている。

二十四日に采女の三野臣淨日女(廣主に併記)に外從五位下を授けている。二十五日に中臣栗原連子公(栗原勝)に外從五位下を授けている。二十八日に太上天皇(光仁天皇)を「大和國田原陵」に改葬している。

<物部志太連大成>
● 物部志太連大成

元正天皇紀に「常陸國信太郡」の人である「物部國依」に「信太連」の氏姓を賜ったと記載されて、信太=谷間の耕地が広がり延びたところと解釈した(こちら参照)。

志太=蛇行する川の傍らで山稜が広がり延びているところの表記に変えている。確かに谷間の耕地とするよりも、実際の地形に適しているように思われる。

現地名は北九州市門司区吉志であり、陸奥國磐城郡に接する場所を居処としていた一族と推定した。現在は住宅地になっているが、国土地理院航空写真1945~50を参照すると、一面耕地が広がった地域だったことが伺える。

名前の大成=平らな頂の山陵が整えられているところと解釈すると、若干特定は難しいが、その出自場所を図に示した辺りと推定される。後に外従五位上へ昇進したと記載されている。

<大和國田原陵>
大和國田原陵

光仁天皇は、廣岡山陵に葬られたと記載されていた。その場所を出自の地である越前國江沼郡(現地名は北九州市門司区伊川)の山間として求めた。ここで「大和國田原」に改葬されている。

ごくありふれた名称であり、地形象形的にも一に特定することが難しいようである。少し調べると大和國添上郡だったようであり、ならば歴代の天皇陵が並ぶ場所だったのではなかろうか。

田原=田が広がったところと解釈して、眺めると図に示した山稜の端辺りを表しているように思われる。直近では近隣で普光寺が登場し、また谷間が開拓された様子が述べられていた。この後、續紀中に関連する記述は見られるない。

十一月丁未。從五位下巨勢朝臣総成爲遠江守。

十一月二十二日に巨勢朝臣総成(馬主に併記)を遠江守に任じている。

十二月己夘。陰陽助正六位上路三野眞人石守言。己父馬養。姓無路字。而今石守獨着路字。請除之。許焉。辛巳。叙從五位下松尾神從四位下。

十二月二十四日に陰陽助の「路三野眞人石守」が[私の父の馬養の姓に路の字が付いていないが、今の私には付いている。これを除くように願う]と言上し、許可されている。

<路三野眞人石守>
二十六日に松尾神に従四位下を授けている。

● 路三野眞人石守

父親の「馬養(甘)」は、淳仁天皇紀に従五位下を叙爵されて登場していた。それ以前では「三嶋」が元正天皇紀だから、極めて限られた人物の任用のようである(出自場所はこちら参照)。

路眞人から派生した一族と知られていて、居処は近隣、現地名の田川郡赤村内田と推定した。今回登場の「石守」に”路”の文字が付加されているのは、どうやら、「路眞人」の領域にはみ出ていたのかもしれない。

石守=山麓の小高かい地の麓に肘を張ったように曲がる山稜に囲まれているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。父親の麓でもある。

確かに「路眞人」でも問題なし、の配置であろう。續紀中では、以後の昇進や任官の記載は見られず、消息不明である。