2024年9月15日日曜日

今皇帝:桓武天皇(10) 〔693〕

今皇帝:桓武天皇(10)


延暦四(西暦785年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

夏四月乙丑朔。授正六位上丸部臣董神外從五位下。辛未。中納言從三位兼春宮大夫陸奥按察使鎭守將軍大伴宿祢家持等言。名取以南一十四郡。僻在山海。去塞懸遠。属有徴發。不會機急。由是權置多賀。階上二郡。募集百姓。足人兵於國府。設防禦於東西。誠是備預不虞。推鋒万里者也。但以。徒有開設之名。未任統領之人。百姓顧望。無所係心。望請。建爲眞郡。備置官員。然則民知統攝之歸。賊絶窺窬之望。許之。己夘。授大初位下日下部連國益外從五位下。以獻稻船瀬也。丁亥。從五位上紀朝臣作良爲造齋宮長官。癸巳。宮内卿從四位上石川朝臣垣守爲兼武藏守。

四月一日に「丸部臣董神」に外従五位下を授けている。七日に中納言の春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍を兼任する大伴宿祢家持等が以下のように言上している・・・名取郡より南の十四郡は、遠く山や海にあり、塞(砦)から遥かに遠く離れている。そこで人民を徴発して事に当たろうとしても機急の間に合わない。このために仮に「多賀・階上」の二郡を設置し、人民を募集し、人民と兵士を國府に集めて、東西を防禦する構えを設けた。まことにこれは、あらかじめ思いがけない事変に備えて、防衛の鋒を万里の遠くにまで推し進めるものである。ただ、思うに、いたずらに郡を開設するというだけで、統領する人を任用していなく、人民が周りを見回しても心のよりどころがない。真の郡を建てて、正規の官員を備え置くことを要望する。そうすれば人民は指揮権のありかを知り、賊徒は隙を伺う望みを失くしてしまうであろう・・・。これを許可している。

十五日に「日下部連國益」に外従五位下を授けている。稲を「船瀬」に献上したからである。二十三日に紀朝臣作良を造齋宮長官に任じている。二十九日に宮内卿の石川朝臣垣守に武藏守を兼任させている。

<丸部臣董神>
● 丸部臣董神

「丸部臣」は、續紀の文武天皇紀に丸部臣君手(書紀では和珥部臣)が『壬申の乱』の功臣として七階級特進したと記載されていた。

また、元正天皇紀には、その子孫に賜田されていた。称徳天皇紀に一族の宗人が宿祢姓を賜っているが、その後に「丸部宿祢」氏姓の人物の記載はない。

一方、光仁天皇紀に讃岐國三野郡を居処とする「豊捄」が私物で貧民を養って叙位されたり、その後に「須治女」が外従五位下を叙爵されていた(こちら参照)。おそらく今回登場の人物は、彼等一族と思われる。

董神の「董」=「艸+東+人+土」と分解され、地形象形的には董=端が細かく岐れた盛り上がった地が谷間を突き通すように延びている様と解釈される。頻出の神=示+申=高台が長く延びている様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。関連する情報もなく、この後に登場することはないようである。

<陸奥國:多賀郡・階上郡>
陸奥國:多賀郡・階上郡

称徳天皇紀に「名取郡」を居処とする人物が登場している。具体的には、「名取公龍麻呂」(名取朝臣を賜姓)及び「吉弥侯部老人」(上毛野名取朝臣を賜姓)の二名であった(こちら参照)。

この「名取郡」より南は、旧の「石城國」であり、陸奥國に併合されたと記載されていた(こちらこちら参照)。

上記本文では十四郡があるとされているが、具体的な郡名は、その約半分であった。海に面した山岳地帯であって、機急の事態に対応するには不都合な地域であることには違いない。”陸奥”(古事記では道奥)の表記の由来であるように、この山岳地帯によって”寸断”されていたのである。

ここで登場の二郡である多賀郡多賀=山稜の端が谷間を押し拡げるように延びているところ階上郡階上=段々になった山稜の麓で盛り上がっているところと解釈すると、各々の場所を図に示したように推定することができる。尚、この地の地形変形が凄まじく国土地理院航空写真1974~8年を用いた。

「多賀郡」については、通説では多賀城(柵)があった地とされるが、全くの見当違いであろう。上記本文に基づくと、「多賀城」の北方に「名取郡」があったことになり、結局この郡の所在が曖昧な状況に陥っているようである。

<日下部連國益>
● 日下部連國益

「日下部連」は、称徳天皇紀に「虫麻呂」が登場し、その後河内國河内郡の人である無姓の「意卑麻呂」が「日下部連」氏姓を賜り、更に後に宿祢姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。

目まぐるしく賜姓の記述があったのだが、別系統である日下部宿祢とは異なる地を居処としていた一族と推測された。

錯綜としているが、おそらく、今回登場の人物は「虫麻呂」系統に属してのではなかろうか。居処は、河内國河内郡であり、現地名の京都郡みやこ町勝山宮原辺りと思われる。

名前の國益=取り囲まれた地が谷間に挟まれて平らに小高く広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。書紀の天武天皇紀に記載された龍田立野の近隣と思われる。河内國と飛鳥を繋ぐ峠道(現在の味見峠)の谷間の出入口に当たる場所である。その場所に船瀬(船泊)が造られていたと推測される。

五月乙未朔。左京人從六位下丑山甘次猪養賜姓湯原造。丁酉。詔曰。春秋之義。祖以子貴。此則典經之垂範。古今之不易也。朕君臨四海。于茲五載。追尊之典。或猶未崇。興言念此。深以懼焉。宜追贈朕外曾祖贈從一位紀朝臣正一位太政大臣。又尊曾祖妣道氏曰太皇大夫人。仍改公姓爲朝臣。」又臣子之礼。必避君諱。比者。先帝御名及朕之諱。公私觸犯。猶不忍聞。自今以後。宜並改避。於是改姓白髪部爲眞髪部。山部爲山。戊戌。右京人從五位下昆解宿祢沙弥麻呂等。改本姓賜鴈高宿祢。癸丑。先是。皇后宮赤雀見。是曰。詔曰。朕君臨紫極。子育蒼生。政未洽於南薫。化猶闕於東戸。粤得参議從三位行左大弁兼皇后宮大夫大和守佐伯宿祢今毛人等奏云。去四月晦日。有赤雀一隻。集于皇后宮。或翔止廳上。或跳梁庭中。皃甚閑逸。色亦奇異。晨夕栖息。旬日不去者。仍下所司。令検圖牒。孫氏瑞應圖曰。赤雀者瑞鳥也。王者奉己儉約。動作應天時則見。是知。朕之庸虚。豈致此貺。良由宗社積徳。餘慶所覃。既叶舊典之上瑞。式表新色之嘉祥。奉天休而倍惕。荷靈貺以逾兢。思敦弘澤以答上玄。宜天下有位。及内外文武官把笏者賜爵一級。但有蔭者。各依本蔭。四世五世。及承嫡六世已下王年廿以上。並叙六位。又五位已上子孫年廿已上。叙當蔭階。正六位上者免當戸今年租。其山背國者。皇都初建既爲輦下。慶賞所被。合殊常倫。今年田租。特宜全免。又長岡村百姓家入大宮處者。一同京戸之例。甲寅。從五位上淨原王爲右大舍人頭。從四位上藤原朝臣雄依爲大藏卿。從四位上大中臣朝臣子老爲宮内卿。神祇伯如故。正四位下神王爲禪正尹。從五位上海上眞人三狩爲大宰少貳。從五位下百濟王英孫爲陸奥鎭守權副將軍。戊午。勅曰。貢進調庸。具著法式。而遠江國所進調庸。濫穢不堪官用。凡頃年之間。諸國貢物。麁惡多不中用。准量其状。依法可坐。自今以後。有如此類。専當國司。解却見任。永不任用。自餘官司。節級科罪。其郡司者加决罸以解見任。兼斷譜第。己未。勅曰。出家之人本事行道。今見衆僧。多乖法旨。或私定檀越。出入閭巷。或誣稱佛驗。詿誤愚民。非唯比丘之不愼教律。抑是所司之不勤捉搦也。不加嚴禁。何整緇徒。自今以後。如有此類。擯出外國。安置定額寺。庚申。遣使五畿内祈雨焉。辛酉。地震。」周防國飢疫。賑給之。壬戌。授正六位上百濟王元基從五位下。 

五月一日に左京の人である「丑山甘次猪養」に「湯原造」の氏姓を賜っている。三日、次のように詔されている・・・『春秋』には祖は子によって貴くなるという意味のことがみえるが、これは聖人の書に示された模範であり、古今に変わることのないものである。朕は君主として天下を治めてここに五年になるが、未だに祖先を崇めて尊い地位・称号を追贈する礼を行っていない。このことを思うと、まことに懼れ多いことである。---≪続≫---

そこで朕の外曽祖である贈従一位の紀朝臣諸人(古麻呂に併記)に正一位・太政大臣を追贈せよ。また曽祖母(「諸人」の室)である「道氏」(道公参照)を尊んで太皇大夫人と申し上げ、公姓を改めて朝臣姓とせよ。また、臣下は必ず君の諱を避けるのを礼とするが、この頃、先帝の御名と朕の諱は、公でも個人でも人名や地名に用いて抵触し犯されている。やはり聞くに忍びないことである。今後は諱に触れるような名は全て改めて避けるようにせよ・・・。そこで白髮部という姓を改めて眞髪部とし、山部を山としている。

四日に右京の人である「昆解宿祢沙弥麻呂」等の本姓を改めて「鴈高宿祢」の氏姓を賜っている(こちら参照)。

十九日、これより以前に、皇后宮に「赤雀」が現れた。この日、次のように詔されている・・・朕は君主として帝位にのぞんで、人民を子として育んでいるが、その政治は南からの薫風のように普く行き渡らず、徳化に欠けて昔の聖人の東戸の時代には及ばない。ここに参議・行左大弁で皇后宮大夫・大和守を兼ねる佐伯宿祢今毛人等の奏上によると、去る四月の晦日、一羽の「赤雀」が皇后宮にいて、建物の上に飛び上がったり、庭の中で飛び跳ねたりしており、大変雅やかでのびのびとした様子で、色も珍しく、朝夕住み、十日の間そこを去らなかったということである<下記参照>。---≪続≫---

そこで所轄の役所に命令して図諜を調べさせたところ、『孫子瑞応図』に[赤雀は瑞鳥である。王者が自ら倹約につとめ、その動作が天の巡り合わせに適った時に出現する]とあった。どうしてこのような賜り物を招致できようか。それはまことに先祖が積み上げた德と、その余りの善が子孫に及んだからであるとわかる。いまや、古典に見えている上瑞に当たっており、色も真新しい目出度いしるしを表している。天の称賛を受けてますます恐れ慎み、霊妙な賜り物を頂いていよいよ恐れ戒めている。広い恵みを厚くして、天に応えたいと思う。---≪続≫---

そこで天下の有位者と、内外の文武官で笏をとる者に、位一級を与える。ただし、蔭位の該当者にそれぞれ本来の蔭位に従って授位せよ。四世・五世の王と、嫡系の六世以下の王のうち、年二十以上の者には、みな六位を授けよ。また五位以上の者の子や孫で、年二十以上の者には、該当する蔭位の位階を授けよ。正六位上の者には、その戸の今年の租を免除せよ。そもそも山背國は皇都が初めて置かれたのであるが、既に天子のお膝元であるから、褒美を授けるのは普通と異なるべきである。今年の田租を特別に全免せよ。また長岡村の人民の家で宮城内に入り他に遷された者は、全て京戸と同様に扱え・・・。

二十日に淨原王(長嶋王に併記)を右大舍人頭、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を大藏卿、大中臣朝臣子老を神祇伯のままで宮内卿、神王()を禪正尹、海上眞人三狩(三狩王)を大宰少貳、百濟王英孫()を陸奥鎭守權副將軍に任じている。

二十四日に次のように勅されている・・・調・庸を貢進することについては、詳しく法律の条文に見えている。ところが遠江國より進上した調・庸は品質が悪くて汚れているので、官での使用に堪えない。およそ近年は諸國の貢進物が粗悪で多くは使用に適合しない。その状態に応じ法律によって罪を問うべきである。今後このようなことがあれば、担当の國司の現職を解き、永く任用しないことにする。その他の官司は等級を設けて罪を科せ。郡司は処罰して現職を解くと共に、郡司任用資格の家柄としての系譜を廃止する・・・。

二十五日に次のように勅されている・・・出家の人の本来の務めは、仏道の修行に専念することである。今多くの僧を見ると、仏法の趣旨に背くことが多く、勝手に檀越を定めて村里に出入したり、仏の霊験と偽り称して愚かな人民を欺き誤らせたりしている。ただ比丘が教えや戒律を重んじないからだけでなく、担当の役所が捕らえようと努めないからである。厳しく禁止しなければ、どうして僧侶を整えることができようか。今後、もしこのようなことがあれば、畿外の國に退け、定額寺に安置せよ・・・。

二十六日に使者を畿内五ヶ國に派遣して降雨を祈らせている。二十七日に地震が起こっている。また、周防國に飢饉と疫病が起こったので物を恵み与えている。二十八日に百濟王元基(②-)に従五位下を授けている。

<丑山甘次猪養>
● 丑山甘次猪養

「丑山甘次」の氏名に関する情報は、皆無のようである。渡来系の人物が”和風”に称したようにも思われ、左京を居処としていたのであろう。

また、「丑」の文字が名前に用いられているは初見であろう。これも渡来人を祖とすることを表しているように推察される。「丑」=「手で物つかむ様」と解説されている。

丑山甘次=手で物をつかむように山稜が[山]の形に延びて大きく口を開いたような谷間から[舌]の形の山稜が延び出ているところと読み解ける。この地形を図に示した場所に見出せる。昆解宿祢(雁高宿禰)韓遠智(中山連)等の東側の場所である。

名前の猪養=なだらかな谷間の前で平らな山稜が交差するように延びているところと解釈すると、出自の場所は図に示したところと推定される。左右京の境界線からほんの僅か左京側に入った場所である。直後に”右京人”昆解宿祢に雁高宿祢を賜姓しているが、平城宮の左右京であることを示している。

賜った湯原造湯原=水が飛び跳ねるように流れる谷間の麓が平らに広がっているところと解釈すると、この地の地形の一側面を表していることが解る。がしかし、「丑山」の地形象形表記は極めて貴重であろう。

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<赤雀>
佐伯宿祢今毛人等の言上である「皇后宮赤雀見 有赤雀一隻。集于皇后宮。或翔止廳上。或跳梁庭中。皃甚閑逸。色亦奇異。晨夕栖息。旬日不去者」は、読み下せば上記のように訳すことができるであろう。

赤雀は、由緒正しき瑞祥のなのであるが、実在とするには些か心許ない鳥であろう。勿論、長岡宮周辺の地形を述べているのである。それにしても、益々難解になって来ているように感じられる。

①赤雀見平らな頂の麓に[火]の形に山稜が延びた長い谷間の上に[雀]のような地があり
②有赤雀一隻その[赤雀]の前にある山稜の端の三角州が[鳥]の形をした山稜を一つに束ねている
③集于皇后宮延び出た山稜が集まったところに皇后宮がある
④或翔止廳上谷間に[羽]のように延びた山稜が揃って並び山麓に四角く区切られた地が盛り上がっているところから
⑤或跳梁庭中足を大きく開いたような山稜の端を跨ぐような山稜が平らに広がった地を突き通すしているところまで
⑥皃甚閑逸丸く小高い地から広がる谷間に[舌]のような山稜が狭い門のように並んだところから抜け出ている
⑦色亦奇異渦巻くように小高くなった地の脇に谷間があり両手を上げるように延びた山稜の前が尖っている
⑧晨夕栖息太陽のような地から[舌]のような山稜が延びて開いた谷間の前で[笊]の形になっている
⑨旬日不去者太陽のような地の前で[炎]のような山稜が[く]の字形に曲がって[不]のように広がり窪んた谷間が交差するようになっているところ

と解釈される。若干の文字解釈の補足をすると、「雀」=「少+隹」=「小さな頭の鳥」、「皃」=「白+儿」=「丸く小高い地から谷間が長く延びている様」、「甚」=「甘+匹」=「[舌]のような山稜が揃って延び出ている様」、「栖」=「木+西」=「山稜が[笊]のような形をしている様」、「旬」=「日+勹」=「[炎]のような山稜が[く]の字形に曲がっている様」である。

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六月乙丑。出羽。丹波。年穀不登。百姓飢饉。並賑給之。癸酉。勅曰。去五月十九日。縁皇后宮有赤雀之瑞。普賜天下有位爵一級。但宮司者是祥瑞出處也。當加褒賞以答靈貺。宜宮司主典已上不論六位五位進爵一級。」右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因神牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望請。改忌寸蒙賜宿祢姓。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。辛巳。右大臣從二位兼中衛大將臣藤原朝臣是公等。率百官上慶瑞表。其詞曰。伏奉去五月十九日勅。比者。赤雀戻止椒庭。既叶舊典之上瑞。式表新色之嘉祥。思與天下喜此靈貺者。臣等生逢明時。頻沐天渙。欣悦之情。實倍恒品。臣聞。徳動天地。無遠不臻。至誠有感。在幽必逹。伏惟。皇帝陛下。道格乾坤。澤沾動植。政化以洽。品物咸亨。皇后殿下。徳超娥英。功軼姙姒。母儀方闡。厚載既隆。故能兩儀合徳。百靈効祉。白燕産帝畿以馴化。赤雀翔皇宮而表禎。稽驗圖牒。僉曰。休徴。斯實曠古殊貺。當今嘉祥。率土抃舞。莫不幸甚。臣是公等不勝踴躍之至。謹詣朝堂。奉表以聞。詔報曰。乾坤表貺。休瑞荐彰。白燕搆巣於前春。赤雀來儀於後夏。寔惟宗社攸祉。群卿所諧。朕之庸虚何應於此。但當与卿等。勉理政化。上答天休。省所來賀。祗懼兼懷。是日。授皇后宮大夫從三位佐伯宿祢今毛人正三位。亮從五位上笠朝臣名末呂正五位下。大進從五位下藤原朝臣眞作。少進從五位下安倍朝臣廣津麻呂並從五位上。大属正六位上阿閇間人臣人足。少属正六位上林連浦海並外從五位下。癸未。參議兵部卿從三位兼侍從下総守藤原朝臣家依薨。贈太政大臣正一位永手之第一子也。

六月二日に出羽・丹波の國の穀物が稔らず、人民が飢饉で苦しんだので、それぞれ物を恵み与えている。十日に次のように勅されている・・・去る五月十九日に、皇后宮に赤雀が現れるという祥瑞があったので、広く天下の有位者に位を一級与えた。但し皇后宮の司は、祥瑞の出現した場所であるので、さらに褒賞を与えて、優れた天の賜物に答えるべきである。そこで皇后宮職の主典以上に対して、六位であれ五位であれ、位を一級進めよ・・・。

また、右衛士督で下総守を兼任する坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)等が上表文を奉って以下のように言上している・・・臣下である私共は、元は後漢の霊帝の曽孫にあたる阿智王の後裔である。漢の天子の位が魏に遷った時、阿智王は神牛お教えに従って中国を出て朝鮮の帯方の地に行ったところ、たちまちに寶帯の祥瑞を得た。その形は宮城に似ていたので、帯方に國をつくってその人民を養育した。その後、父や兄を召して、[私は東の國に聖人の君主がいると聞いているが、どうして行って従わないでおられようか。もしこの地に長く居たならば、おそらく滅亡してしまうであろう]と告げた。---≪続≫---

そして母の弟の迂興德、及び七つの姓をもつ人民を伴い、徳化に帰して来朝した。これは誉田天皇(応神天皇)が天下を治めておられた時代のことであった。そこで阿智王は奏上し、[私の旧居は帯方にあり、そこの人民は男女を問わず全て才藝を持っているが、近頃は百濟と高麗の間に挟まれて住むことになり、その地を去ろうかどうか心が定まらずためらっている。どうか天皇の恵みによって、使者を派遣して招き寄せるよう、お願いする]と申請した。---≪続≫---

そこで勅されて臣下を阿智王の八つの分家に遣わし、手分けして出発させた。人民の男女jは村落こぞって使者に従い、全て来朝し、永く公民となった。それから多くの年月が経ち、何代にもわたって今に至っている。今諸國にいる漢人もまたその後裔である。ところが臣下である「苅田麻呂」等は、先祖の王族の姓を失って下級の人の卑しい姓を授けられている。---≪続≫---

どうか忌寸姓を改め、宿祢姓を賜りますように、また天子が恩恵をもって憐れみ察せられるよう伏してお願い申し上げる。もし天子のお許しを賜るならば、いわゆる冷えた灰が再び暖かくなり、枯れた樹がまた茂るというたとえのようになる。臣下である「苅田麻呂」等は、望みを叶えて欲しいという真心を抑えることができない。それで上表文を奉って申し上げる次第である・・・。

詔されてこれを許可している。坂上(こちらも参照)・内藏・「平田」・大藏(こちらも参照)・調文部(こちらも参照)・佐太山口(こちらも参照)等、十一の忌寸姓を持つ氏族の十六人に宿祢姓を賜っている。<「平田忌寸」については、後の延暦六(787)年六月に平田忌寸杖麻呂・蚊屋忌寸淨足等に宿祢姓を賜ったと記載されている>。

十八日に右大臣で中衛大将を兼任する臣下の藤原朝臣是公等は、百官を率いて祥瑞を喜ぶ上表文を奉ったが、その字句で以下のように述べている・・・伏して去る五月十九日の勅を承ったところ、[近頃、赤雀が皇后宮に来て留まっていたが、これは古典にみえる上瑞に当たっており、色も真新しいめでたいしるしを表している。この霊妙な賜り物を天下の人々と共に喜びたいと思う]とある。---≪続≫---

臣下である私どもは、よく治まった御代に生まれ、盛んに天子の恩恵にあずかり、悦びの気持ちは実に普通の物の倍にも当たる。天子の徳が天地を動かす時は、遠くであっても届かないということはなく、至誠が感応する時には、冥界にも必ず達すると聞いている。伏して思うに、皇帝陛下は、その政道は天地の法則にのっとり、その恩恵は動・植物を潤し、政治の教化は広く行き渡り、万物全てその恩恵を受けている。---≪続≫---

また、皇后殿下は、その德が娥皇・女英を越え、その功は太姙・太姒よりも優れており、人の母の手本として立派で、大地が厚く物を載せるような德が豊かである。故に陰陽の徳が合わさり、諸神が幸福を授けて下さったのである。昨年は白燕が畿内に生まれて徳化に馴れ、今赤雀が皇宮に飛び翔って、幸いを表している。図諜に照らして考え調べてみると、みなめでたいしるしである。---≪続≫---

これはまことに、昔からあったためしのない特別の賜り物であり、当今のめでたいしるしである。全ての人々が喜んで手を打って舞い、これ以上の大変な幸いはないとしている。臣下である「是公」等は、小踊りするほどの喜びに耐えられず、謹んで朝堂に参上して、上表文を奉って申し上げる次第である・・・。

これに応えて、次のように詔されている・・・天地が賜り物をあらわして、めでたいしるしがしきりに出現している。白燕は巢を去年の春に作り、赤雀は今年の夏によい姿でやって来た。まことにこれは祖先や國土の神の与えてくれた幸福であり、多くの重臣が心を合わせた結果である。凡庸で無能な朕は、どうしてこれに応えることができようか。ただ卿等と共に政治の指導に努めて、天の下さった幸いに答えるべきである。祝いを述べて来たのを顧みて、慎みと恐れを心に併せ抱くものである・・・。

この日、皇后宮大夫の佐伯宿祢今毛人に正三位、亮の笠朝臣名末呂(賀古に併記)に正五位下、大進の藤原朝臣眞作()と少進の安倍朝臣廣津麻呂に従五位上、大属の「阿閉間人臣人足」と少属の林連浦海(雑物に併記)に外従五位下を授けている。二十日に参議・兵部卿で下総守を兼任する藤原朝臣家依が薨じている。太政大臣「永手」の第一子であった。

<阿閇間人臣人足>
● 阿閇間人臣人足

「阿閉」の地名は、『壬申の乱』で勝利した天武天皇が凱旋帰京する行程で登場していた。「鈴鹿」と「名張」の中間に位置する場所であった(こちら参照)。

この地には曾祢連一族の居処があり、既に幾人かが登場している。谷間に広がる台地状の地形を持ち、古事記の能煩野、書紀の持統天皇紀では菟田吉隱と記された場所があった。

阿閇=台地が閉じ込められたようになっているところと解釈し、全体の台地南半分に当たる場所と推定した。既出の文字列である間人=門のような山稜に挟まれた谷間に山稜の端の三角州があるところと解釈される。図に示した場所にその地形を見出せる。

人足=人の足のように山稜の端が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後、昇進はないが、幾度か京官を任じられて登場している。
















2024年9月8日日曜日

今皇帝:桓武天皇(9) 〔692〕

今皇帝:桓武天皇(9)


延暦四(西暦785年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月丁酉朔。天皇御大極殿受朝。其儀如常。石上。榎井二氏。各竪桙楯焉。始停兵衛叫閽之儀。是日。宴五位已上於内裏。賜祿有差。癸夘。宴五位已上。詔授正六位上多賀王從五位下。從四位上多治比眞人長野正四位上。從五位上文室眞人高嶋正五位下。從五位下藤原朝臣眞友。文室眞人於保。紀朝臣作良並從五位上。正六位上藤原朝臣葛野麻呂。甘南備眞人繼人。平群朝臣清麻呂。阿倍朝臣枚麻呂。佐伯宿祢繼成。小野朝臣河根。雀部朝臣虫麻呂。縣犬養宿祢繼麻呂。大宅朝臣廣江。高橋朝臣三坂。安曇宿祢廣吉。文室眞人大原。大伴宿祢蓑麻呂。紀朝臣廣足。紀朝臣呰麻呂並從五位下。秦忌寸馬長。白鳥村主元麻呂。伊蘇志臣眞成並外從五位下。乙巳。授從五位上川邊女王正五位下。從五位下三嶋女王從五位上。无位八千代女王從五位下。從四位上橘朝臣眞都賀。正四位下藤原朝臣諸姉。百濟王明信並正四位上。從四位下藤原朝臣延福。藤原朝臣人數。和氣朝臣廣虫。因幡國造淨成並從四位上。從五位上藤原朝臣綿手。正五位下武藏宿祢家刀自並正五位上。從五位下藤原朝臣春蓮。從五位上藤原朝臣勤子。田中朝臣吉備並正五位下。從五位下藤原朝臣祖子從五位上。无位平群朝臣竃屋。藤原朝臣慈雲。藤原朝臣家野。多治比眞人豊繼。外從五位下葛井連廣見並從五位下。外從五位下豊田造信女外從五位上。无位道田連桑田外從五位下。又授從五位上三嶋女王正五位下。庚戌。遣使堀攝津國神下。梓江。鯵生野。通于三國川。辛亥。以從五位下藤原朝臣弟友爲侍從。從五位下高橋朝臣御坂爲陰陽頭。從五位下伊勢朝臣水通爲内匠頭。從五位下藤原朝臣仲繼爲大學頭。從五位上中臣朝臣常爲治部大輔。從五位下縣犬養宿祢伯麻呂爲玄蕃頭。從五位下淺井王爲諸陵頭。正五位下粟田朝臣鷹守爲民部大輔。從五位下紀朝臣千世爲少輔。外從五位下奈良忌寸長野爲主税助。從四位下大伴宿祢潔足爲兵部大輔。從五位下藤原朝臣雄友爲少輔。美作守如舊。從五位上丈部大麻呂爲織部正。從五位上文室眞人忍坂麻呂爲木工頭。從五位下布勢朝臣大海爲主殿頭。從五位下平群朝臣清麻呂爲典樂頭。從四位下佐伯宿祢眞守爲造東大寺長官。外從五位下林忌寸稻麻呂爲次官。東宮學士如舊。從三位紀朝臣船守爲近衛大將。中宮大夫常陸守如故。從五位下佐伯宿祢老爲少將。相摸介如故。從四位下紀朝臣古佐美爲中衛中將。式部大輔但馬守如故。從五位下藤原朝臣宗繼爲少將。從五位下紀朝臣廣足爲衛門佐。從五位下縣犬養宿祢堅魚麻呂爲左衛士佐。正五位上安倍朝臣家麻呂爲左兵衛督。從五位下文室眞人大原爲右兵衛佐。從五位上三嶋眞人名繼爲内廐頭。正五位下多治比眞人人足爲主馬頭。正五位上巨勢朝臣苗麻呂爲河内守。從五位下大伴宿祢蓑麻呂爲介。少納言正五位下大中臣朝臣諸魚爲兼山背守。内廐頭從五位上三嶋眞人名繼爲兼介。從五位下紀朝臣呰麻呂爲伊勢介。從五位上淨村宿祢晋卿爲安房守。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂爲兼下総守。皇后宮大進從五位下安倍朝臣廣津麻呂爲兼常陸大掾。從五位上紀朝臣木津魚爲美濃守。從五位下藤原朝臣繩主爲介。從五位下大神朝臣船人爲上野守。從五位下和朝臣國守爲下野介。從五位上多治比眞人宇美爲陸奥守。從五位下佐伯宿祢鷹守爲越中介。正五位下葛井連道依爲越後守。春宮亮從五位上紀朝臣白麻呂爲兼伯耆守。從五位上多治比眞人年主爲出雲守。近衛將監外從五位下筑紫史廣嶋爲兼播磨大掾。從五位下笠朝臣雄宗爲美作介。從五位上百濟王仁貞爲備前守。東宮學士外從五位下林忌寸稻麻呂爲兼介。造東大寺次官如故。從五位上葛井連根主爲伊豫守。外從五位下秦忌寸長足爲豊前介。戊午。安房國言。以今月十九日。部内海邊。漂着大魚五百餘。長各一丈五尺以下。一丈三尺以上。古老相傳云。諸泊魚。癸亥。攝津國能勢郡大領外正六位上神人爲奈麻呂。近江國蒲生郡大領外從六位上佐佐貴山公由氣比。丹波國天田郡大領外從六位下丹波直廣麻呂。豊後國海部郡大領外正六位上海部公常山等。居職匪懈。撫民有方。於是。詔並授外從五位下。又授正六位下海上國造他田日奉直徳刀自外從五位下。」以從五位上小倉王。百濟王玄鏡。並爲少納言。從五位下藤原朝臣乙叡爲權少納言。正五位下大中臣朝臣諸魚爲左中弁。山背守如故。從五位下藤原朝臣園人爲右少弁。從五位上紀朝臣作良爲大藏大輔。外從五位下佐伯直諸成爲園池正。從五位上弓削宿祢大成爲西市正。從五位上中臣朝臣鷹主爲信濃守。從五位上日下部宿祢雄道爲豊前守。

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けられている。その儀式は常の通りであった。石上・榎井二氏は、各々桙と楯を立てている。初めて兵衛による叫閽之儀(宮門で叫び声をあげて邪霊を祓う儀式)を停止している。この日、五位以上と内裏で宴会し、それぞれに禄を賜っている。

七日に五位以上と宴会をしている。詔されて、多賀王(。川村王に併記)に從五位下、多治比眞人長野に正四位上、文室眞人高嶋(高嶋王)に正五位下、藤原朝臣眞友()・文室眞人於保(長谷眞人)・紀朝臣作良に從五位上、「藤原朝臣葛野麻呂」・甘南備眞人繼人(清野に併記)・平群朝臣清麻呂(久度神に併記)・阿倍朝臣枚麻呂(眞黒麻呂に併記)・佐伯宿祢繼成(古比奈に併記)・小野朝臣河根(田刀自に併記)・雀部朝臣虫麻呂(東女に併記)・縣犬養宿祢繼麻呂(堅魚麻呂に併記)・大宅朝臣廣江(吉成に併記)・高橋朝臣三坂(祖麻呂に併記)・安曇宿祢廣吉(諸繼に併記)・文室眞人大原(与伎に併記)・大伴宿祢蓑麻呂(眞綱に併記)・紀朝臣廣足・紀朝臣呰麻呂(難波麻呂に併記)に從五位下、秦忌寸馬長(足長に併記)・白鳥村主元麻呂(白原連三成に併記)・伊蘇志臣眞成(総麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

九日、川邊女王に正五位下、三嶋女王(三嶋王の居処。川邊女王の妹?)に從五位上、「八千代女王」に從五位下、橘朝臣眞都賀(眞都我、眞束。古那加智に併記)・藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)百濟王明信(①-)に正四位上、藤原朝臣延福(兄倉に併記)・藤原朝臣人數和氣朝臣廣虫因幡國造淨成に從四位上、藤原朝臣綿手武藏宿祢家刀自(丈部直刀自)に正五位上、藤原朝臣春蓮藤原朝臣勤子田中朝臣吉備(廣根に併記)に正五位下、藤原朝臣祖子(勤子に併記)に從五位上、平群朝臣竃屋(久度神に併記)・「藤原朝臣慈雲・藤原朝臣家野」・多治比眞人豊繼(繼兄に併記)・葛井連廣見に從五位下、豊田造信女(調阿氣麻呂に併記)に外從五位上、道田連桑田(忍海倉連甑に併記)に外從五位下、また、三嶋女王(三嶋王の居処。川邊女王の妹?)に正五位下を授けている。

十四日に使者を派遣して「攝津國神下・梓江・鯵生野」を掘って、「三國川」に通じさせている。

十五日、藤原朝臣弟友()を侍從、高橋朝臣御坂(三坂。祖麻呂に併記)を陰陽頭、伊勢朝臣水通(諸人に併記)を内匠頭、藤原朝臣仲繼(藥子に併記)を大學頭、中臣朝臣常(宅守に併記)を治部大輔、縣犬養宿祢伯麻呂(伯。酒女に併記)を玄蕃頭、淺井王()を諸陵頭、粟田朝臣鷹守を民部大輔、紀朝臣千世(大宅に併記)を少輔、奈良忌寸長野(秦忌寸)を主税助、大伴宿祢潔足(池主に併記)を兵部大輔、藤原朝臣雄友()を美作守のままで少輔、丈部大麻呂を織部正、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を木工頭、布勢朝臣大海を主殿頭、「平群朝臣清麻呂」を典樂頭、佐伯宿祢眞守を造東大寺長官、林忌寸稻麻呂を東宮學士のままで次官、紀朝臣船守を中宮大夫・常陸守のままで近衛大將、佐伯宿祢老を相摸介のままで少將、紀朝臣古佐美を式部大輔・但馬守のままで中衛中將、藤原朝臣宗繼(宗嗣)を少將、「紀朝臣廣足」を衛門佐、縣犬養宿祢堅魚麻呂を左衛士佐、安倍朝臣家麻呂を左兵衛督、文室眞人大原(与伎に併記)を右兵衛佐、三嶋眞人名繼を内廐頭、多治比眞人人足(黒麻呂に併記)を主馬頭、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を河内守、「大伴宿祢蓑麻呂」を介、少納言の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を兼務で山背守、内廐頭の三嶋眞人名繼を兼務で介、「紀朝臣呰麻呂」を伊勢介、淨村宿祢晋卿(袁普卿。李元環東隣)を安房守、右衛士督の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で下総守、皇后宮大進の安倍朝臣廣津麻呂を兼務で常陸大掾、紀朝臣木津魚(馬借に併記)を美濃守、藤原朝臣繩主()を介、大神朝臣船人(末足に併記)を上野守、和朝臣國守(和史。和連諸乙に併記)を下野介、多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を陸奥守、佐伯宿祢鷹守を越中介、葛井連道依(立足に併記)を越後守、春宮亮の紀朝臣白麻呂(本に併記)を兼務で伯耆守、多治比眞人年主(歳主)を出雲守、近衛將監の筑紫史廣嶋を兼務で播磨大掾、笠朝臣雄宗(始に併記)を美作介、百濟王仁貞(①-)を備前守、東宮學士の林忌寸稻麻呂を造東大寺次官のままで兼務で介、葛井連根主(惠文に併記)を伊豫守、秦忌寸長足を豊前介に任じている。

二十二日に安房國が以下のように言上している・・・今月十九日に管内の海辺に大きな魚五百尾余りが漂着した。長さはそれぞれ一丈五尺から一丈三尺までである。古老の言い伝えるところでは諸泊魚ということである・・・。

二十七日に攝津國能勢郡大領「神人爲奈麻呂」、近江國蒲生郡大領「佐佐貴山公由氣比」、丹波國天田郡大領:丹波直廣麻呂、豊後國海部郡大領「海部公常山」等は、職務に勤めて怠らず、正しい方法で人民を慈しんだ。そこで詔されて各々に外従五位下を授けている。また、「海上國造他田日奉直德刀自」に外従五位下を授けている。

また、小倉王()・百濟王玄鏡(①-)を少納言、藤原朝臣乙叡()を權少納言、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を山背守のままで左中弁、藤原朝臣園人(勤子に併記)を右少弁、紀朝臣作良を大藏大輔、佐伯直諸成を園池正、弓削宿祢大成()を西市正、中臣朝臣鷹主(伊加麻呂に併記)を信濃守、日下部宿祢雄道を豊前守に任じている。

<藤原朝臣葛野麻呂-道繼-道雄-上子>
● 藤原朝臣葛野麻呂

藤原北家の小黒麻呂の子と知られている。調べると、その弟妹に「道繼・道雄・上子」があり、纏めて各々の出自場所を求めることにした。

❶葛野葛野=野が取り込められたようなところ
❷道繼首の付け根のような窪んだ地が連なっているところ
❸道雄羽を広げた鳥のような山稜の前に首の付け根のような窪んだ地があるところ
❹上子盛り上がった地が生え出ているところ

地図の解像度の限界に近付いているが、図に示したように各々の出自場所を推定することができる。「小黒麻呂」の「小」の地形は、「雄」の地形をしていることが解る。彼等の居処の推定の確からしさが得られたように思われる。尚、續紀中には「道雄・上子」の二人は登場しない。

「葛野麻呂」は、多くの役職や遣唐大使を歴任し、最終正三位・中納言となったと伝えられているが、活躍の記述は後続の史書に委ねられている。

<八千代女王・朝原内親王>
● 八千代女王

残念ながら本女王に関する情報は皆無の状況である。類似の名前では高名な縣犬養(橘)宿祢三千代や聖武天皇紀に外従五位下を授かった氣多十千代などが挙げられる。

地形象形表記としての解釈は、「三(十)つの谷間を束ねる杙のようなところ」となる。ならば八千代=八つの谷間を束ねる杙のようなところと解釈される。言い換えると、大きな谷間の中に幾つかの山稜が延び出て、谷間が岐れている地形を表現しているのである。

田原天皇(施基皇子)の谷間で数えていみると、図に示したように八つの谷間が確認される。そして、それらを束ねる”杙”も谷間の出口に見出せることが解った。「八千代女王」もさることながら、「八千代」の文字列も續紀中に出現するのはこの場限りである。光仁天皇・桓武天皇、そして続く天皇等の出自の場所を見事に表している名称であろう。

少し後に齋宮となって平城から伊勢に向かう朝原内親王を天皇が平城宮までわざわざ出向いて見送ったと記載される。天皇と酒人内親王()との間に誕生した第一皇女と知られている。朝原=山稜に挟まれた丸く小高い地の麓が平らに広がっているところと解釈される。母親の「酒」を「朝」と見做した表記であろう。續紀中では、その場限りの登場のようである。

<藤原朝臣慈雲-家野>
● 藤原朝臣慈雲・藤原朝臣家野

関連情報皆無の藤原朝臣であるが、本文の記載から女官であったと思われる。また、この後に前者は正五位下、後者は従五位上に昇進したと記されている。

その後は歴史の表舞台から退いたのであろうか、消息不明のようである。そんな背景で「藤原惠美朝臣仲麻呂」の係累(こちら参照)だったのではなかろうか。

慈雲=ゆらゆらと曲がりながら二つの山稜が並んで延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「薩雄」の東隣の場所である。

家野=端が豚の口のような形をしている山稜の麓に野が広がっているところと解釈すると、更に東隣にその地形を見出せる。地形変形が凄まじく国土地理院航空写真1961~9年を参照した。上記したように両者共にあと一度の登場であり、関連情報が望まれるところである。

攝津國三國川:神下・梓江・鯵生野

<攝津國三國川:神下・梓江・鯵生野>

治水工事をして、耕地を拡大したのであろうか。三國川は、勿論初見である。先ずは三國川=三つ並んだ取り囲まれた地を流れる川と解釈し、それを攝津國の中で探すと、図に示した川、現在の井尻川を表していることが解る。御所ヶ岳山系の北麓、”多治比(丹比)”の地形であり、延び出た山稜で三つに区切られたようになっている。

この川に神下梓江鯵生野の場所を繋ぐ運河を通じたと記載されている。神下=長く延びる高台の端が[下]の形になっているところ梓江=山稜が切り分けられた谷間にある水辺で窪んだところ鯵生野=生え出た[鯵]の形をした小高い地の麓で野が広がっているところと解釈される。それぞれを図に示した場所に見出せる。

<神人爲奈麻呂>
書紀が記す大郡・小郡があった地であり、その周辺を開拓したのであろう。また、更に古くは、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が訪れた足一騰宮の周辺である。

● 神人爲奈麻呂

攝津國能勢郡の大領に任じられていることから、その地を出自とする人物かと思われる。「能勢郡」は、元明天皇紀に河邊郡の一部を分割して設置されたと記載されていた。現地名では行橋市東泉・南泉である。

神人の氏名は、文武天皇紀に美濃國大野郡人神人大、称徳天皇紀に出雲國意宇郡人神人公人足・神人公五百成が登場していた。神人=長く延びる高台の麓に谷間があるところであり、各所に見られる地形であろう。

爲奈麻呂の爲奈=高台が手で掴まれた[象]のように見えるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。詳細な場所を特定するのは難しいが、現在神社が鎮座している辺りかと思われる。

<佐佐貴山公由氣比>
● 佐佐貴山公由氣比

近江國蒲生郡の大領と記載されているが、佐佐貴山公(君)は既出であり、巨勢朝臣・雀部朝臣一族の近隣の地を居処していたと推定した。現地名は北九州市八幡西区笹田である。

聖武天皇紀に登場した佐佐貴山君親人・足人は、それぞれ近江國の蒲生郡・神前郡の大領を任じられていたと記載されていた。どうやら「由氣比」は「親人」の後を引き継いだように思われる。

近江國のこれらの二郡は、天智天皇紀に百濟からの帰化人を住まわせた地であって、その地の人材を任用するわけには行かず、「佐佐貴山公」を任じたのであろう。

これらの経緯を考慮して、由氣比=突き出た山稜がゆらゆらと曲がって並んで延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この場限りの登場であり、以後の消息は不明である。

<丹波直廣麻呂-人足>
● 丹波直廣麻呂

「丹波國天田郡」は、「華浪山」や「奄我社」がある地と記載されていた。丹波郡から分割して郡建したと推測した(こちら参照)

古事記の息長一族が蔓延った地域である。その大領を務めるならば、地元の人物であったと思われる。

廣麻呂の「廣」=「広がっている様」であるが、図に示したように山稜が二つに岐れて広がっているところを表していると解釈する。

少し後に丹波直人足が外従五位下を叙爵されて登場する。人足=人の足のように谷間が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。共にこの場限りの登場であり、その後の消息は不明のようである。

<豊後國海部郡:海部公常山>
豊後國海部郡

「豊後國海部郡」は、初見であるが、光仁天皇紀に「速見郡」が登場していた。その郡の「歒見郷」では、谷間が土砂崩れで埋まり、その後決壊し、人的災害も発生した、と記載されていた(こちら参照)。

今回登場の「海部郡」も山間の谷間の地と思われるが、海部=水辺で母が子を抱くように延びた山稜の麓で分れた山稜が寄り集まっているところと読み解くと、図に示した場所を表していることが解る。

現在は伊良湖ダム湖(2018年竣工)になっているが、かつては棚田が広がる地域であったことが伺える。”海部”のようになるとは、夢想だにしていなかったであろう(国土地理院航空写真1961~9年はこちら)。

● 海部公常山 名前の常山=[山]の形の山稜が北向きに並んでいるところと解釈すると、ぞの地形を図に示した場所に見出せる。上記の人物等と同様にこの後に登場することはないようである。

<他田日奉直德刀自>
● 他田日奉直德刀自

「海上國造」と記されているが、「海上國」と読んでは、意味不明となろう。称徳天皇紀に「上総國海上郡」の人である「桧前舍人直建麻呂」に「上総宿祢」を授けたと記載されていた(こちら、古事記の菟上國造参照)。

「海上」の「國造」と理解すると、「海上郡」を居処とする人物と思われる。既出の文字列である他田=谷間がうねりくねって曲がり平らに整えられた地が広がり延びているところ、と解釈した。

また、同じく既出である日奉=丸く小高い地を両手で挟んでいるように山稜が延びているところとすると、図に示した場所の地形を表していることが解る。

名前の德刀自=山稜の端が[刀]の形をした山稜の傍らで四角く取り囲まれているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「丈部大麻呂・上総宿祢建麻呂」の谷奥に当たる場所である。これ以後の消息は不明である。

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さて、本文「安房國言。以今月十九日。部内海邊。漂着大魚五百餘。長各一丈五尺以下。一丈三尺以上。古老相傳云。諸泊魚」は、間違いなく安房國の地形を表していると思われる。既に記載された「鈴鹿關」(例えばこちら参照)の場合に類するものであろう。

<安房國:諸泊魚>
①海邊水辺で母が子を抱くように山稜が広がっているところに
②漂着大魚[魚]の形をした平らな山稜が薄く広がってぴったりとくっ付いて
③五百餘なだらかに延び出て広がった丸く小高い地が連なっている
④長各一丈長く延びた十本の山稜が次々に並び連なり一つに纏まっているところで
⑤五尺以下交差する広い谷間は[下]の形に似ているように並び
⑥三尺以上三段に並んだ広い谷間は上にある[魚]の形に似ている
⑦諸泊魚交差する耕地が水辺で魚とくっ付いているところ

若干の文字解釈を補足すると、「漂」=「氵+票」=「薄く広がっている様」、「着」=「ぴったりとくっ付く様」、「餘」=「食+余」=「延び出て広がった地がなだらかになっている様」、「各」=「次々に並び連なる様」、「丈」=「十+又」=「十本の腕のような山陵が延びている様」、「尺」=「谷間が[尺]の形になっている様(広い谷間)」、「以」=「似」である。

「以下・以上」の表記は、実に巧みと言える。「長各一丈」は坂東八國(九國。常陸國を除く)の別表記である。「魚」は、下野國安蘇郡の「蘇」=「艸+魚+禾」の「魚」を表していることが解る安房國と下野國の國境が確定したようである。「諸泊魚」は、通説では意味不明、あるいは、とある人は海豚(イルカ)だとか、いずれにせよ、古代史学は呑気なものであろう。

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二月丁夘。近衛將監外從五位下筑紫史廣嶋賜姓野上連。壬申。授陸奥國小田郡大領正六位上丸子部勝麻呂外從五位下。以經征戰也。甲戌。但馬國氣多郡人外從五位下川人部廣井改本姓。賜高田臣。丁丑。從五位上多治比眞人宇美爲陸奥按察使兼鎭守副將軍。國守如故。」授正四位上坂上大忌寸苅田麻呂從三位。癸未。出雲國國造外正八位上出雲臣國成等奏神吉事。其儀如常。授國成外從五位下。自外祝等。進階各有差。丁未。彈正尹從三位兼武藏守高倉朝臣福信。上表乞身。優詔許之。賜御杖并衾。 

二月二日に近衛将監の「筑紫史廣嶋」に「野上連」の氏姓を賜っている(こちら参照)。七日に陸奥國小田郡大領の丸子部勝麻呂(丸子連石虫に併記)に外従五位下を授けている。蝦夷征討の戦いに参加したためである。九日に但馬國氣多郡の人である「川人部廣井」の本姓を改めて「高田臣」の氏姓を賜っている(こちら参照)。十二日に多治比眞人宇美(海。歳主に併記)を國守のままで陸奥按察使兼鎭守副將軍に任じている。坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)に從三位を授けている。

十八日に出雲國國造の出雲臣國成(嶋成に併記)等は神吉事を奏上している。その儀式はいつもの通りであった。「國成」に外従五位下を授け、その他の祝等に地位に応じて位を進めている。<丁未?>弾正尹で武藏守を兼任する高倉朝臣福信(高麗朝臣)は、表を奉って辞職を願い出ている。手厚い詔を下して、これを許可し、自らの杖と夜着を賜っている。

三月戊戌。御嶋院。宴五位已上。召文人令賦曲水。賜祿各有差。甲辰。授陸奥按察使從五位上多治比眞人宇美正五位下。又賜彩帛十疋。絁十疋。綿二百屯。丙午。以從五位下安倍朝臣草麻呂爲神祇大副。從五位下高倉朝臣石麻呂爲治部少輔。從五位下佐伯宿祢葛城爲中衛少將。甲寅。正六位上春原連田使。從七位下眞木山等。改春原連。賜高村忌寸。

三月三日に嶋院(長岡宮内)に出御されて、五位以上と宴会を行っている。文人を召して曲水の詩を作らせ、それぞれに禄を賜っている。九日に陸奥按察使の多治比眞人宇美(海。歳主に併記)に正五位下を授けている。また色染めの絹十疋・絁十疋・真綿二百屯を与えている。十一日に安倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)を神祇大副、高倉朝臣石麻呂(高麗朝臣)を治部少輔、佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を中衛少将に任じている。十九日に「春原連田使・眞木山」等に「春原連」を改めて「高村忌寸」の氏姓を賜っている(元は高宮村主。こちら参照)。