2024年9月30日月曜日

今皇帝:桓武天皇(12) 〔695〕

今皇帝:桓武天皇(12)


延暦四(西暦785年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

九月乙未。地震。己亥。齋内親王向伊勢太神宮。百官陪從。至大和國堺而還。庚子。行幸水雄岡遊獵。」授正六位上巨勢朝臣嶋人從五位下。正六位上池原公繩主外從五位下。壬寅。河内國言。洪水汎溢。百姓漂蕩或乘船。或寓堤上。粮食絶乏。艱苦良深。於是。遣使監巡。兼加賑給焉。乙夘。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種繼被賊射薨。丙辰。車駕至自平城。捕獲大伴繼人。同竹良并黨与數十人。推鞫之。並皆承伏。依法推斷。或斬或流。其種繼參議式部卿兼大宰帥正三位宇合之孫也。神護二年。授從五位下。除美作守。稍迁。寳龜末。補左京大夫兼下総守。俄加從四位下。遷佐衛士督兼近江按察使。延暦初。授從三位。拜中納言。兼式部卿。三年授正三位。天皇甚委任之。中外之事皆取决焉。初首建議。遷都長岡。宮室草創。百官未就。匠手役夫。日夜兼作。至於行幸平城。太子及右大臣藤原朝臣是公。中納言種繼等。並爲留守。照炬催検。燭下被傷。明日薨於第。時年卌九。天皇甚悼惜之。詔贈正一位左大臣。己未。造東大寺長官内藏頭從四位下石上朝臣家成爲検衛門權督。兵部少輔美作守正五位上藤原朝臣雄友爲兼左衛士權督。辛酉。以從五位下佐伯宿祢葛城爲左少辨。從五位下百濟王英孫爲出羽守。近衛少將從五位下紀朝臣兄原爲検備前介。

九月三日に地震が起こっている。七日に齋宮となる朝原内親王(八千代女王に併記)が伊勢太神宮に向けて出発し、百官はお供をして大和國の堺まで行って還っている。八日に水雄岡に行幸されて遊猟している。また、「巨勢朝臣嶋人」に従五位下、「池原公繩主」に外従五位下を授けている。

十日に河内國が[洪水で水が溢れ、人民は流されて船に乗ったり、堤防の上に仮住まいしたりしており、食糧が欠乏し、苦しみは大変なものである]と言上している。そこで使者を派遣して見回らせるとともに、物を恵み与えている。二十三日に中納言で式部卿を兼任する藤原朝臣種繼(藥子に併記)は、賊に射られて薨じている。

二十四日に天皇は平城より帰っている。大伴繼人・竹良及びその一味数十人を逮捕して罪を取り調べたところ、全員が罪を認めたので、法に従って裁いて斬首あるいは配流としている。「種繼」は参議・式部卿で大宰帥を兼任した宇合の孫であった。天平神護二(766)年に従五位下を授けられ美作守に任ぜられた。

暫くして転任して、寶龜末年に左京大夫兼下総守に任ぜられたが、にわかに天應元(781)年従四位下を授けられ、左衛士督兼近江按察使に転任した。延暦の初めに従三位を授けられて中納言に任ぜられ、式部卿を兼ねた。延暦三(784)年に正三位を授けられた。天皇の信任が大変厚く、内外の事を全て取り仕切った。最初中心となって建議し、長岡に遷都した。宮室は造り始められたが、諸官司は未完成で、職人や人夫は夜を日についで造営していた。

平城に行幸するに至って、皇太子(早良親王)と右大臣の藤原是公、中納言の「種繼」等はそれぞれ留守官となった。松明を照らして工事を急がせ、検分していたところ、燈火の下で傷を受けて、その翌日に自邸で薨じた。時に四十九歳であった。天皇は大変その死を悼み惜しんで、詔して正一位・左大臣を贈っている。

二十七日に造東大寺長官・内藏頭の石上朝臣家成(宅嗣に併記)に衛門権督を兼任させ、兵部少輔・美作守の藤原朝臣雄友()に左衛士権督を兼任させている。二十九日に佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)を左少弁、百濟王英孫(②-)を出羽守、近衛少将の紀朝臣兄原(眞子に併記)を備前介を兼任させている。

<巨勢朝臣嶋人>
● 巨勢朝臣嶋人

「巨勢朝臣」一族も途絶えることなく連綿と人材輩出であるが、高位者は見られず、また、系譜不詳のようである。と言うことで、名前が表す地形から出自の場所を求めてみよう。

既出の文字列である嶋人=鳥の形をした山稜の麓に[人]の形の谷間があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

元明天皇紀に登場した安麻呂の北側に当たる。南側は系譜が知られている徳太(大臣)・黒麻呂一家が占めていた地域であるが、殆ど出現していなかった。

續紀中では後に京官・地方官を歴任したと記載されているが、その後に発生する殺人事件の処理に遣わされたと伝えられている。多分に漏れず高位に就くことはことはなかったようである。

<池原公繩主>
● 池原公繩主

「池原公」は、淳仁天皇紀に禾守が登場していた。「田邊史」(後に上毛野公を賜姓)一族であり、その近隣を居処としていたと推定した。

現地名は、京都郡みやこ町勝山黒田である。繩主=太い山稜が真っ直ぐに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

後の延暦十(791)年四月に「近衛將監從五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東國六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之」と記載されている(「繩主」→「綱主」)。

賜った住吉朝臣住吉=谷間にある真っ直ぐな山稜が蓋をするように延びているところと解釈すると周辺の地形を表していることが解る。武術、とりわけ弓術に優れ、最終従四位下・近衛少将に昇進したと伝えられているが、續紀中では住吉朝臣としての登場は見られないようである。

冬十月甲子。左降從四位下吉備朝臣泉佐渡權守。從五位下藤原朝臣園人爲安藝守。乙丑。從五位上藤原朝臣是人爲長門守。丙寅。遣使五畿内検田。爲班授也。庚午。遣中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。大膳大夫從五位上笠王於山科山陵。治部卿從四位上壹志濃王。散位從五位下紀朝臣馬守於田原山陵。中務大輔正五位上當麻王。中衛中將從四位下紀朝臣古佐美於後佐保山陵以告廢皇太子之状。壬申。遠江。下総。常陸。能登等國。去七八月大風。五穀損傷。百姓飢饉。並遣使賑給之。甲戌。中衛中將從四位下兼式部大輔但馬守紀朝臣古佐美爲參議。從五位下紀朝臣馬守爲中務少輔。從五位下下毛野朝臣年繼爲大監物。從五位上文室眞人子老爲玄蕃頭。從五位上秦忌寸足長爲主計頭。從五位下石川朝臣公足爲主税頭。從五位下縣犬養宿祢伯爲刑部少輔。從四位下大伴宿祢潔足爲大藏卿。外從五位下嶋田臣宮成爲右京亮。從五位上弓削宿祢塩麻呂爲造東大寺次官。從五位下紀朝臣兄原爲近衛少將。備前介如故。外從五位下池原公繩主爲將監。從五位下橘朝臣入居爲中衛少將。近江介如故。正五位下笠朝臣名末呂爲右兵衛督。皇后宮亮如故。外從五位下白鳥村主元麻呂爲武藏大掾。從五位上藤原朝臣眞友爲下総守。左京大夫右衛士督從三位坂上大宿祢苅田麻呂爲兼越前守。從五位上藤原朝臣内麻呂爲介。從五位下川邊朝臣淨長爲安藝介。庚辰。以善藻法師爲律師。辛巳。從五位下春階王爲遠江守。從五位下紀朝臣繼成爲讃岐介。己丑。河内國破壞堤防卅處。單功卅万七千餘人。給粮修築之。

十月二日に吉備朝臣泉(眞備に併記)を佐渡權守に左遷し、藤原朝臣園人(勤子に併記)を安藝守に任じている。三日に藤原朝臣是人を長門守に任じている。四日、使者を畿内五ヶ國に派遣して水田を調査させている。班田収受を行うためである。

八日に中納言の藤原朝臣小黒麻呂と大膳大夫の笠王山科山陵(天智天皇陵)に、治部卿の壹志濃王()と散位の紀朝臣馬守(馬借)を「田原山陵」(光仁天皇陵:高野山陵近隣、詳細は後日。改葬されるのは約一年後。この時点では廣岡山陵)に、中務大輔の當麻王()と中衛中将の紀朝臣古佐美後佐保山陵(聖武天皇陵)に派遣して、皇太子(早良親王)を廃したことを告げている。

十日に遠江・下総・常陸・能登などの國では、去る七、八月に大風によって五穀が損傷し、人民が飢饉にあったので、使者を派遣して物を恵み与えている。

十二日に中衛中將兼式部大輔で但馬守の紀朝臣古佐美を參議、「紀朝臣馬守」を中務少輔、下毛野朝臣年繼を大監物、文室眞人子老(於保に併記)を玄蕃頭、秦忌寸足長を主計頭、石川朝臣公足(眞人に併記)を主税頭、縣犬養宿祢伯(酒女に併記)を刑部少輔、大伴宿祢潔足(池主に併記)を大藏卿、嶋田臣宮成を右京亮、弓削宿祢塩麻呂()を造東大寺次官、紀朝臣兄原(眞子に併記)を備前介のままで近衛少將、池原公繩主を將監、橘朝臣入居()を近江介のままで中衛少將、笠朝臣名末呂(賀古に併記)を皇后宮亮のままで右兵衛督、白鳥村主元麻呂(白原連三成に併記)を武藏大掾、藤原朝臣眞友()を下総守、左京大夫・右衛士督の坂上大宿祢苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で越前守、藤原朝臣内麻呂()を介、川邊朝臣淨長(東人に併記)を安藝介に任じている。

十八日に善藻法師を律師に任じている。十九日に春階王を遠江守、紀朝臣繼成(大純に併記)を讃岐介に任じている。二十七日に河内國で堤防が三十ヶ所決壊したので、延べ三十万七千人余りに食糧を支給して修築させている。

十一月癸巳朔。授從四位上石川朝臣垣守正四位上。庚子。能登守從五位下三國眞人廣見。坐誣告謀反。合斬。減死一等配佐渡國。壬寅。祀天神於交野柏原。賽宿祷也。甲辰。從五位下平群朝臣清麻呂爲大膳亮。外從五位下麻田連畋賦爲典藥頭。丙辰。授无位藤原朝臣旅子從三位。從五位上笠女王正五位下。丁巳。詔立安殿親王爲皇太子。大赦天下。高年孝義及鰥寡孤獨不能自存者。並加賑恤焉。是日。授從四位下紀朝臣古佐美從四位上。正五位下大中臣朝臣諸魚。笠朝臣名末呂並正五位上。從五位上文室眞人水通正五位下。從五位下佐伯宿祢老從五位上。外從五位下津連眞道。正六位上藤原朝臣仲成。藤原朝臣縵麻呂。紀朝臣楫長。坂上大宿祢田村麻呂並從五位下。外從五位下上毛野公我人。池原公繩主並外從五位上。」又以右大弁從三位兼播磨守石川朝臣名足。近衛大將從三位兼中宮大夫常陸守紀朝臣船守。並爲中納言。大納言中務卿正三位藤原朝臣繼繩爲兼皇太子傅。大外記從五位下朝原忌寸道永。左兵衛佐從五位下津連眞道並爲學士。參議從四位上紀朝臣古佐美爲春宮大夫。中衛中將式部大輔但馬守如故。從五位上安倍朝臣廣津麻呂爲亮。皇后宮少進常陸大掾如故。庚子。詔賀茂上下神社充愛宕郡封各十戸。

十一月一日に石川朝臣垣守に正四位上を授けている。八日に能登守の三國眞人廣見(千國に併記)は謀反を偽り告げた罪に問われて斬罪に処せられるところを死一等を減ぜられて佐渡國に配流されている。十日に天神を交野柏原(交野・百濟寺に併記)に祀っている。以前からの祈願に対するお礼としてである。十二日に平群朝臣清麻呂(久度神に併記)を大膳亮、麻田連畋賦を典薬頭に任じている。二十四日に藤原朝臣旅子(産子に併記)に従三位、「笠女王」に正五位下を授けている。

二十五日に詔されて安殿親王(後の平城天皇)を皇太子としている。天下に大赦し、高齢者、孝行者や行いの正しい者と、鰥・寡・孤・獨で自活できない者に物を恵み与えている。

この日、紀朝臣古佐美に從四位上、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)笠朝臣名末呂(賀古に併記)に正五位上、文室眞人水通に正五位下、佐伯宿祢老に從五位上、津連眞道(眞麻呂に併記)藤原朝臣仲成(藥子に併記)・「藤原朝臣縵麻呂」・紀朝臣楫長(船守に併記)・坂上大宿祢田村麻呂(又子に併記)に從五位下、上毛野公我人(大川に併記)・池原公繩主に外從五位上を授けている。

また、右大弁兼播磨守の石川朝臣名足及び近衛大將兼中宮大夫で常陸守の紀朝臣船守を中納言、大納言・中務卿の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を兼務で皇太子傅、大外記の朝原忌寸道永(箕造に併記)及び左兵衛佐の津連眞道(眞麻呂に併記)を學士、參議の紀朝臣古佐美を中衛中將・式部大輔・但馬守のままで春宮大夫、安倍朝臣廣津麻呂を皇后宮少進・常陸大掾のままで亮に任じている。

<笠女王>
<庚子>(庚申:二十八日?)に詔されて、賀茂上下二社愛宕郡の封戸各十戸を宛てている。

● 笠女王

上記本文では、藤原朝臣旅子と共に初見で高位を叙爵されている。桓武天皇夫人となる「旅子」は別格としても、この人物も天皇所縁の出自と推測される。

笠女王に含まれる頻出の笠=山稜の端が[笠]のように見える様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

前出の鴨王()や淨橋女王の谷間の出口辺りを表していることが解る。既に述べたように彼等は「高田王」の係累だったように思われるが、記録が残されていないようである。この場限りの登場である。

<藤原朝臣縵麻呂-湯守>
● 藤原朝臣縵麻呂

藤原式家の「清成」の子、「種繼」の子と知られている。「仲成」の弟であり、前出の「藥子」の兄となる(こちら参照)。

縵麻呂縵=糸+曼=細長く延びた山稜が覆い被さるように広がっている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「仲成」と「藥子」に挟まれた場所である。

少し後に藤原朝臣湯守が過ちを犯して除籍されていたが、井手宿禰の氏姓を賜って復帰させたと記載されている。母親不詳だが、「種繼」の子と知られているようである。

湯守=水が飛び散るように流れる川の先に両肘を張り出したように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。現在は道路が造られ、地形が、やや変形しているが、土地の勾配は急傾斜であることは確認される。

賜った井手宿祢井手=[手]のような山稜の前に四角く取り囲まれているところと解釈される。「手」は「綱手」に含まれ、「井」は「守」の地形の別表記であることが解る。「藤原」を改められ、また「朝臣」ではなく「宿祢」の賜姓となっている。重罪だったのかもしれない。

十二月辛未。近江國人從七位下勝首益麻呂。起去二月。迄十月。所進役夫惣三万六千餘人。以私粮給之。以勞授外從五位下。而讓其父眞公。有勅許之。甲申。故遠江介從五位下菅原宿祢古人男四人給衣粮令勤學業。以其父侍讀之勞也。

十二月十日に近江國の人である「勝首益麻呂」は、去る二月から十月までの間に、役夫合計三万六千人余りを進上し、自分の費用で食料を支給した。その功労によって外従五位下を授けたが、父の「眞公」にその位階を譲った。勅によってこれが許されている。二十三日に故遠江介の菅原宿祢古人(土師宿祢)の息子四人に衣服と食料を支給して、学業に勤めさせている。その父が天皇に侍して儒学を講じた功労によってである。

<勝首益麻呂-眞公>
<錦曰佐周興・穴太村主眞廣>
● 勝首益麻呂

「勝首」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見であろう。近江國の人と冠されていることから、勝=朕+力=押し盛り上げられたような様の地形を探索することになる。

調べると近江國坂田郡に関わる一族のようであり、当該郡には、既に粟田朝臣淨原臣一族が蔓延っていた。すると、彼等の近隣に「勝」の地形を見出すことができる。

益麻呂に含まれる頻出の益=八+八+一+皿=谷間に挟まれた一様に平らな様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。また、父親の眞公=谷間に挟まれた小高い地が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、「益麻呂」の背後の山麓に当たる場所を表していることが解る。親子に関する記述は、この後に見られず消息等は一切不明である。

少し後に近江國淺井郡の人である錦曰佐周興及び坂田郡の人である穴太村主眞廣志賀忌寸の氏姓を賜ったと記載される。錦曰佐=三角に尖った左手のような山稜が谷間から延び出ているところ周興=両手でぐるりと取り囲んだ筒のような谷間が広がっているところと解釈される。

また、穴太=[穴]から延び出たような谷間が広がっているところ眞廣=窪んだ地が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が各々の出自と推定される。共に賜姓された志賀=押し広げられた谷間に蛇行する川が流れているところと解釈されるが、地図上では確認し辛いが、川が流れていたには違いなかろう。

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『續日本紀』巻卅八巻尾



































 

2024年9月23日月曜日

今皇帝:桓武天皇(11) 〔694〕

今皇帝:桓武天皇(11)


延暦四(西暦785年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

秋七月己亥。參議從三位石川朝臣名足爲左大弁。播磨守如故。參議從四位上大中臣朝臣子老爲右大弁。神祇伯如故。外從五位下麻田連畋賦爲左大史。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂爲兼中務卿。參議正三位佐伯宿祢今毛人爲民部卿。皇后宮大夫大和守如故。從五位下紀朝臣安提爲少輔。從五位上紀朝臣作良爲兵部大輔。正五位上内藏宿祢全成爲大藏大輔。從四位上石川朝臣垣守爲宮内卿。武藏守如故。從三位坂上大宿祢苅田麻呂爲左京大夫。右衛士督下総守如故。從五位下賀茂朝臣人麻呂爲亮。從四位下石川朝臣豊人爲右京大夫。大納言正三位藤原朝臣繼繩爲兼大宰帥。從五位下紀朝臣千世爲豊後守。左中弁正五位下大中臣朝臣諸魚爲兼左兵衛督。山背守如故。己酉。外從五位下秦忌寸馬長爲土佐守。庚戌。刑部卿從四位下兼因幡守淡海眞人三船卒。三船大友親王之曾孫也。祖葛野王正四位上式部卿。父池邊王從五位上内匠頭。三船性識聡敏。渉覽群書。尤好筆札。寳字元年。賜姓淡海眞人。起家拜式部少丞。累迁。寳字中授從五位下。歴式部少輔參河美作守。八年被充造池使。往近江國修造陂池。時惠美仲麻呂遁自宇治。走據近江。先遣使者調發兵馬。三船在勢多。与使判官佐伯宿祢三野。共捉縛賊使及同惡之徒。尋將軍日下部宿祢子麻呂。佐伯宿祢伊達等率數百騎而至。燒斷勢多橋。以故賊不得渡江。奔高嶋郡。以功授正五位上勳三等。除近江介。遷中務大輔兼侍從。尋補東山道巡察使。出而採訪。事畢復奏。昇降不慥頗乖朝旨。有勅譴責之。出爲大宰少貳。遷刑部大輔。歴大判事大學頭兼文章博士。寳龜末。授從四位下拜刑部卿兼因幡守。卒時年六十四。癸丑。勅曰。釋教深遠。傳其道者。緇徒是也。天下安寧盖亦由其神力矣。然則惟僧惟尼。有徳有行。自非褒顯。何以弘道。宜仰所司。擇其修行傳燈無厭倦者。景迹齒名。具注申送。」又勅。造宮之務。事弗獲已。所役之夫。宜給其功。於是和雇諸國百姓卅一万四千人。甲寅。從五位下賀茂朝臣人麻呂爲齋宮頭。丁巳。勅曰。夫正税者。國家之資。水旱之備也。而比年。國司苟貪利潤。費用者衆。官物減耗。倉廩不實。職此之由。宜自今已後。嚴加禁止。其國司如有一人犯用。餘官同坐。並解見任。永不叙用。贓物令共填納。不在免死逢赦之限。遞相検察。勿爲違犯。其郡司和許。亦同國司。辛酉。土左國貢調愆期。其物亦惡。勅國司目已上。並解見任。壬戌。外從五位下高篠連廣浪爲左大史。從五位下藤原朝臣眞鷲爲大學頭。外從五位下井上直牛養爲主計助。外從五位下伊蘇志臣眞成爲主船正。從四位下安倍朝臣東人爲刑部卿。從五位上多朝臣犬養爲大輔。從五位下巨勢朝臣家成爲主殿頭。從五位下坂本朝臣大足爲官奴正。從五位下甘南備眞人繼成爲右京亮。從五位下石浦王爲主馬頭。從五位下三嶋眞人大湯坐爲參河介。從五位下笠朝臣雄宗爲能登守。從五位下藤原朝臣宗繼爲因幡守。外從五位下大村直池麻呂爲介。從五位下布勢朝臣大海爲美作介。」授正八位下三野臣廣主外從五位下。以貢献也。

七月六日に參議の石川朝臣名足を播磨守のままで左大弁、參議の大中臣朝臣子老を神祇伯のままで右大弁、麻田連畋賦を左大史、中納言の藤原朝臣小黒麻呂を兼務で中務卿、參議の佐伯宿祢今毛人を皇后宮大夫・大和守のままで民部卿、紀朝臣安提(本に併記)を少輔、紀朝臣作良を兵部大輔、内藏宿祢全成(忌寸。黒人に併記)を大藏大輔、石川朝臣垣守を武藏守のままで宮内卿、坂上大宿祢苅田麻呂(忌寸。犬養に併記)を右衛士督・下総守のままで左京大夫、賀茂朝臣人麻呂を亮、石川朝臣豊人を右京大夫、大納言の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を兼務で大宰帥、紀朝臣千世(大宅に併記)を豊後守、左中弁の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を山背守のままで左兵衛督に任じている。十六日に秦忌寸馬長(足長に併記)を土佐守に任じている。

十七日に刑部卿で因幡守を兼任する淡海眞人三船が亡くなっている。「三船」は大友親王(天智天皇の皇子)の曽孫であった。祖父の「葛野王」は式部卿であり、父の「池邊王」は内匠頭であった(こちら参照)。「三船」の性質は奏鳴鋭敏で、多くの書物に博く目を通し、大変書を書くことを好んだ。天平寶字元(757)年に、「淡海眞人」の氏姓を賜り、官途に就いて式部少丞に任ぜられ、しきりに転任して、寶字年間には従五位下を授けられ、式部少輔や参河守・美作守を歴任した。八年には、造池使に任命され、近江國に行って溜池を修造した。その時、「惠美仲麻呂」(藤原仲麻呂)は宇治から逃走して近江を根拠地として、先ず使者を派遣して兵と馬を徴発させた。

「三船」は勢多にあって造池使判官の佐伯宿祢三野(今毛人に併記)と共に、賊の使とその一味の者達を捕縛した。間もなく将軍の日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)佐伯宿祢伊達(伊多治)等が騎兵を率いて到着し、勢多橋を焼いて遮断したので賊は川を渡ることができず、高嶋郡に逃走した。その功績によって正五位上・勲三等を授けられ近江介に任ぜられた。

その後中務大輔兼侍従に転任し、間もなく東山道巡察使に任ぜられた。出向いて地方の事情を尋ね集め、事が終わって後に報告の奏上をしたところ、評定が公平でなく、はなはだ天皇の考えに背いていたので、勅によって責め咎められ、大宰少貮に転出させられた。その後刑部大輔に転任し、大判事・大学頭兼文章博士を歴任し、寶龜末年に従四位下に任ぜられ刑部卿兼因幡守に任ぜられた。卒した時、六十四歳であった。

二十七日に次のように勅されている・・・釈尊の教えは深遠で、その道を伝えるのは僧侶である。天下が安寧であるのも、思えばその教えの不思議な力によるものであろう。そうであるから僧であれ尼であれ、徳があり修行を積んでいる人物を褒め称え顕彰しなければ、どうして仏道を弘めることができようか。担当の役所に命じて、倦まず弛まず修行し法燈を伝えている者を選び、その品行・年齢・氏名を詳しく注記し上申させよ・・・。

また、次のように勅されている・・・長岡宮の造営は止むを得ない任務なので、使役される人夫にはその功賃を支給すべきである・・・。そこで諸國の人民三十一万四千人を、各自の意志に従い雇用している。

二十一日に賀茂朝臣人麻呂を齋宮頭に任じている。二十四日に次のように勅されている・・・そもそも正税は運営の財源であり、水害や旱魃への備えである。ところが近年、國司の中には一時的に利潤を貪って正税を費やし用いる者が多い。官物が減少し米藏が充満しないのは、主としてこれが原因である。---≪続≫---

今後は、厳しく禁止せよ。國司の中で、もし一人でも犯し用いる者があれば、他の國司も同様に罪に問い、いずれも現職を解いて永く任用してはならない。不正に得た物品も、ともに返し納めさせよ。死罪を赦免したり恩赦で許したりする範囲に入れてはならない。お互いに検察して違反してはならない。郡司が同調し、許す場合も罪は國司と同じとする・・・。

二十八日に土左國から貢進された調は、その時期が誤っており、物品も粗悪である。勅されて、國司の目以上をみな解任している。二十九日に高篠連廣浪(衣枳首)を左大史、藤原朝臣眞鷲()を大学頭、「井上直牛養」を主計助、伊蘇志臣眞成(総麻呂に併記)を主船正、安倍朝臣東人(廣人に併記)を刑部卿、多朝臣犬養を大輔、巨勢朝臣家成(宮人に併記)を主殿頭、坂本朝臣大足(繩麻呂に併記)を官奴正、甘南備眞人繼成(繼人。清野に併記)を右京亮、石浦王()を主馬頭、三嶋眞人大湯坐(大湯坐王)を參河介、笠朝臣雄宗(始に併記)を能登守、藤原朝臣宗繼(宗嗣)を因幡守、大村直池麻呂を介、布勢朝臣大海を美作介に任じている。「三野臣廣主」に外從五位下を授けている。物を献上したからである。

<井上直牛養>
● 井上直牛養

「井上直」は、初見の氏姓である。しかも既に外従五位下を叙爵されており、その記述も欠落しているようである。一方、井上忌寸一族としては、麻呂・蜂麻呂が既に登場している。


阿智使主を遠祖とする東漢等の派生氏族であり、河内國志紀郡、現地名は行橋市二塚辺りを居処としていたと推測した。彼等は「直」姓で後に「忌寸」姓を賜ったと述べられている。少し前に、その一部は、更に「宿祢」姓を賜っている。

おそらく同族なのだが別系列であって、賜姓時には埋もれていたのではなかろうか。と言うことで、近隣で名前の牛養=牛の頭部のような谷間がなだらかに広がっているところと解釈して、出自の場所を求めると図に示した辺りと推定される。

「井上忌寸(宿禰)」の氏姓の人物は「蜂麻呂」以後には登場することはなく、また、「井上直」としては「牛養」が、この後尾張介を任じられたと記載されるのみである。

<三野臣廣主-淨日女>
● 三野臣廣主

「三野臣」は、續紀中初見の氏姓であるが、書紀の応神天皇紀に「吉備武彥」の子、「御友別」が「三野臣」の祖と記載されている。具体的な人物は、その後に登場することもなく、詳細は不明のままであった。

また、古事記には関連する記述はなく、今回登場の「廣主」がその系列に属するかは定かではないが、名前が示す地形から出自の場所を推定してみよう。

既出の文字列である三野=野原が三つ並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。現地名は下関市吉見上である。南~東側には「葛井連(元は白猪史)」(こちらこちら参照)一族が蔓延っていた地である。

名前の廣主=真っ直ぐ延びる山稜の前が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。勿論、この地域を出自とする人物は未だかつて登場したことはなかった。

後に采女の三野臣淨日女が従五位下を叙爵されて登場する。淨日=[日]のような地の前の水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいるところと解釈され、図に示した場所が出自と推定される。その東隣は鑑眞大和上の招聘に尽力した普照法師の出自場所とした。

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<吉備武彥-浦凝別-御友別-鴨別-兄媛>
余談だが、書紀で日本武尊東征の従者の一人として登場する吉備武彥及びその子等について、各々の出自場所を求めてみた。

古事記では、倭建命東征に随行したのは御鉏友耳建日子と記載され、「武彥」と同一人物のように受け取られているようだが・・・。

名前が表す出自の場所からすると「建日子」は「御友別」と同じ人物だったと思われる。共に「吉備臣之祖」(「御友別」:上道臣・下道臣・三野臣等の祖)と記されている。

書紀が古事記とは異なるように記述した理由は定かではないが、地形象形表記のルールはきちんと守られているようである。尚、時代が進んで、息長日子王が祖となった吉備品遲君や續紀の称徳天皇紀に記載された息長借鎌の出自場所は、彼等の南に接する場所であったと思われる。

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八月癸亥朔。右京人土師宿祢淡海。其姉諸主等。改本姓賜秋篠宿祢。己巳。授從四位上藤原朝臣雄依正四位下。從四位下石川朝臣豊人。安倍朝臣東人。佐伯宿祢久良麻呂並從四位上。從五位下藤原朝臣是人。藤原朝臣雄友。藤原朝臣内麻呂並從五位上。外從五位下朝原忌寸道永。正六位上多治比眞人國成。笠朝臣江人並從五位下。丙子。從五位上多治比眞人濱成爲右中弁。從五位上安倍朝臣廣津麻呂爲皇后宮大進。外從五位下阿閇間人臣人足爲少進。外從五位下林連浦海爲大属。從五位下笠朝臣江人爲式部少輔。從五位下大伴宿祢眞麻呂爲主税頭。從五位下下毛野朝臣年繼爲内掃部正。從四位下大伴宿祢潔足爲近衛中將。從五位上藤原朝臣内麻呂爲中衛少將。外正五位下丹比宿祢眞淨爲右衛士佐。從五位上藤原朝臣眞作爲石見守。從五位下石川朝臣宿奈麻呂爲周防守。」授從五位下羽栗臣翼從五位上。正六位上多治比眞人屋嗣從五位下。正六位上國中連三成。外正六位上丹波直人足並外從五位下。乙酉。授從七位上大秦公忌寸宅守從五位下。以築太政官院垣也。」外從五位下土師宿祢公足爲隱岐守。丙戌。天皇行幸平城宮。先是。朝原内親王齋居平城。至是齋期既竟。將向伊勢神宮。故車駕親臨發入。庚寅。中納言從三位大伴宿祢家持死。祖父大納言贈從二位安麻呂。父大納言從二位旅人。家持天平十七年授從五位下。補宮内少輔。歴任内外。寳龜初。至從四位下左中弁兼式部員外大輔。十一年拜參議。歴左右大弁。尋授從三位。坐氷上川繼反事。免移京外。有詔宥罪。復參議春宮大夫。以本官出爲陸奥按察使。居無幾拜中納言。春宮大夫如故。死後廿餘日。其屍未葬。大伴繼人。竹良等殺種繼。事發覺下獄。案驗之。事連家持等。由是追除名。其息永主等並處流焉。 

八月一日に右京の人である「土師宿祢淡海」とその姉の「諸主」等に元の姓を改めて「秋篠宿祢」の氏姓を賜っている。七日、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)に正四位下、石川朝臣豊人安倍朝臣東人(廣人に併記)佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)に從四位上、藤原朝臣是人藤原朝臣雄友()藤原朝臣内麻呂()に從五位上、朝原忌寸道永(箕造に併記)・「多治比眞人國成」・笠朝臣江人(眞足に併記)に從五位下を授けている。

十四日に多治比眞人濱成(歳主に併記)を右中弁、安倍朝臣廣津麻呂を皇后宮大進、阿閇間人臣人足を少進、林連浦海(雑物に併記)を大属、笠朝臣江人(眞足に併記)を式部少輔、大伴宿祢眞麻呂を主税頭、下毛野朝臣年繼を内掃部正、大伴宿祢潔足(池主に併記)を近衛中將、藤原朝臣内麻呂()を中衛少將、丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)を右衛士佐、藤原朝臣眞作()を石見守、石川朝臣宿奈麻呂を周防守に任じている。また、羽栗臣翼に從五位上、「多治比眞人屋嗣」に從五位下、國中連三成(公麻呂近隣)・丹波直人足(廣麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

二十三日に「大秦公忌寸宅守」に従五位下を授けている。太政官院の垣を築いたからである。また、土師宿祢公足を隠岐守に任じている。二十四日に平城宮に行幸されている。それ以前から朝原内親王(八千代女王に併記)は平城に居て潔齋していたが、ここに潔齋の期間が既に終わって伊勢神宮に向かおうとしていた。そのため天皇が自ら立会い、内親王は伊勢に向けて出発している。

二十八日に中納言の「大伴宿祢家持」が亡くなっている。祖父は大納言で従二位を贈られた「安麻呂」、父は大納言・従二位の「旅人」であった(こちらこちら参照)。「家持」は天平十七(745)年に従五位下を授けられて宮内少輔に任ぜられ、以後中央・地方官を歴任した。寶龜の初め、従四位下・左中弁兼式部員外大輔に官に至った。

十一(780)年に参議に任ぜられ、左右大弁を経て、間もなく従三位を授けられた。氷上川繼の謀反の事件で罪に問われ、免官されて京外に移された。その後詔があって赦されて参議・春宮大夫に復した。また、本官のまま京を出て陸奥按察使に任ぜられた。その後間もなく中納言に任ぜられたが、春宮大夫は元のままであった。

死後二十日余り後、屍がまた埋葬されないうちに、大伴繼人・竹良等が藤原種繼を殺害し、そのことが発覚して投獄されたが、取り調べてみると「家持」等も関係していた。そこで遡って除名とされた。その息子の永主等はいずれも流罪に処せられた。

<土師宿祢淡海-諸主>
● 土師宿祢淡海・諸主

現住所が「右京」、本籍が「土師」、その中でも「秋篠」の地を出自とする人々だったのであろう。桓武天皇紀の初めに土師宿祢安人等が「秋篠宿祢」の氏姓を賜っていた。

「土師宿祢古人」等が賜った「菅原宿祢」と同じく「野見宿祢」を始祖とする一族だ、と主張して認められていた(こちら参照)。

頻出の文字列である淡海=水辺で母が両腕で子を抱くように延びた山稜の前に[炎]のような地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「安人」の谷間の先にある場所である。

姉の諸主=真っ直ぐに延びた山稜の前で耕地が交差しているところと解釈される。地形の凹凸が僅かで判別し辛いが、おそらく図に示した場所辺りを出自としていたのであろう。共にこの場限りの登場のようである。

<多治比眞人國成-屋嗣>
● 多治比眞人國成・多治比眞人屋嗣

「多治比眞人」一族は、途絶えることなく連綿と人材輩出である。高位に就いたのは長野(従三位・参議)ぐらいであろう。他は下級官吏としての役割だったようである。

今回登場の二名も、後者が後に従五位下の爵位で主鷹正に任官されたと記載されるのみである。いずれにせよ、現地名の行橋市津積周辺を出自としていたには違いなかろう。

既出の文字列である國成=取り囲まれた地が平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。川邊の窪んだ地形の場所である。

同様に屋嗣=山稜の延び至った先で谷間が縊れたようになっているところと解釈すると、その地形を図に示した場所に見出せる。まだまだ、輩出は途絶えないようであるが、ご登場の時に・・・。

<大秦公忌寸宅守-濱刀自女>
● 大秦公忌寸宅守

「大秦公忌寸」は、記紀・續紀を通じて初見の氏姓であるが、後に「濱刀自女」が登場し、その出自が伊豫國神野郡であったことが知られている。

当該郡には既に賀茂伊豫朝臣・大直一族の居処があったと記載されていた。どうやら彼等の合間を補う場所を表しているようである。

既出の文字列である大秦公=平らな頂の麓で稲穂のような山稜が延び出た先に小高い地があるところと解釈される。その地形を図に示した場所に見出せる。名前の宅守=延び出た山稜の麓に両腕で囲むような地があるところと解釈すると、図の場所辺りが出自と推定される。

延暦十(791)年正月に「大秦公忌寸濱刀自女賜姓賀美能宿祢。賀美能親王之乳母也」と記載されている。濱刀自=水辺の近くで山稜の端が[刀]の形になっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。賜姓の賀美能=押し拡げられた大きな谷間の隅にあるところと解釈され、別表記となっている。

また、”神野”の訓に重ねられた表記でもあろう。後に采女正となる人物である。「賀美能親王」は、後の嵯峨天皇となり、諱回避で神野郡を「新居郡」に改名されることになる。乳母の名前を採ったのではなく、その地で養育されたのである。尚、”新居”は、”大秦公”の地形の別表記である。


2024年9月15日日曜日

今皇帝:桓武天皇(10) 〔693〕

今皇帝:桓武天皇(10)


延暦四(西暦785年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

夏四月乙丑朔。授正六位上丸部臣董神外從五位下。辛未。中納言從三位兼春宮大夫陸奥按察使鎭守將軍大伴宿祢家持等言。名取以南一十四郡。僻在山海。去塞懸遠。属有徴發。不會機急。由是權置多賀。階上二郡。募集百姓。足人兵於國府。設防禦於東西。誠是備預不虞。推鋒万里者也。但以。徒有開設之名。未任統領之人。百姓顧望。無所係心。望請。建爲眞郡。備置官員。然則民知統攝之歸。賊絶窺窬之望。許之。己夘。授大初位下日下部連國益外從五位下。以獻稻船瀬也。丁亥。從五位上紀朝臣作良爲造齋宮長官。癸巳。宮内卿從四位上石川朝臣垣守爲兼武藏守。

四月一日に「丸部臣董神」に外従五位下を授けている。七日に中納言の春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍を兼任する大伴宿祢家持等が以下のように言上している・・・名取郡より南の十四郡は、遠く山や海にあり、塞(砦)から遥かに遠く離れている。そこで人民を徴発して事に当たろうとしても機急の間に合わない。このために仮に「多賀・階上」の二郡を設置し、人民を募集し、人民と兵士を國府に集めて、東西を防禦する構えを設けた。まことにこれは、あらかじめ思いがけない事変に備えて、防衛の鋒を万里の遠くにまで推し進めるものである。ただ、思うに、いたずらに郡を開設するというだけで、統領する人を任用していなく、人民が周りを見回しても心のよりどころがない。真の郡を建てて、正規の官員を備え置くことを要望する。そうすれば人民は指揮権のありかを知り、賊徒は隙を伺う望みを失くしてしまうであろう・・・。これを許可している。

十五日に「日下部連國益」に外従五位下を授けている。稲を「船瀬」に献上したからである。二十三日に紀朝臣作良を造齋宮長官に任じている。二十九日に宮内卿の石川朝臣垣守に武藏守を兼任させている。

<丸部臣董神>
● 丸部臣董神

「丸部臣」は、續紀の文武天皇紀に丸部臣君手(書紀では和珥部臣)が『壬申の乱』の功臣として七階級特進したと記載されていた。

また、元正天皇紀には、その子孫に賜田されていた。称徳天皇紀に一族の宗人が宿祢姓を賜っているが、その後に「丸部宿祢」氏姓の人物の記載はない。

一方、光仁天皇紀に讃岐國三野郡を居処とする「豊捄」が私物で貧民を養って叙位されたり、その後に「須治女」が外従五位下を叙爵されていた(こちら参照)。おそらく今回登場の人物は、彼等一族と思われる。

董神の「董」=「艸+東+人+土」と分解され、地形象形的には董=端が細かく岐れた盛り上がった地が谷間を突き通すように延びている様と解釈される。頻出の神=示+申=高台が長く延びている様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。関連する情報もなく、この後に登場することはないようである。

<陸奥國:多賀郡・階上郡>
陸奥國:多賀郡・階上郡

称徳天皇紀に「名取郡」を居処とする人物が登場している。具体的には、「名取公龍麻呂」(名取朝臣を賜姓)及び「吉弥侯部老人」(上毛野名取朝臣を賜姓)の二名であった(こちら参照)。

この「名取郡」より南は、旧の「石城國」であり、陸奥國に併合されたと記載されていた(こちらこちら参照)。

上記本文では十四郡があるとされているが、具体的な郡名は、その約半分であった。海に面した山岳地帯であって、機急の事態に対応するには不都合な地域であることには違いない。”陸奥”(古事記では道奥)の表記の由来であるように、この山岳地帯によって”寸断”されていたのである。

ここで登場の二郡である多賀郡多賀=山稜の端が谷間を押し拡げるように延びているところ階上郡階上=段々になった山稜の麓で盛り上がっているところと解釈すると、各々の場所を図に示したように推定することができる。尚、この地の地形変形が凄まじく国土地理院航空写真1974~8年を用いた。

「多賀郡」については、通説では多賀城(柵)があった地とされるが、全くの見当違いであろう。上記本文に基づくと、「多賀城」の北方に「名取郡」があったことになり、結局この郡の所在が曖昧な状況に陥っているようである。

<日下部連國益>
● 日下部連國益

「日下部連」は、称徳天皇紀に「虫麻呂」が登場し、その後河内國河内郡の人である無姓の「意卑麻呂」が「日下部連」氏姓を賜り、更に後に宿祢姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。

目まぐるしく賜姓の記述があったのだが、別系統である日下部宿祢とは異なる地を居処としていた一族と推測された。

錯綜としているが、おそらく、今回登場の人物は「虫麻呂」系統に属してのではなかろうか。居処は、河内國河内郡であり、現地名の京都郡みやこ町勝山宮原辺りと思われる。

名前の國益=取り囲まれた地が谷間に挟まれて平らに小高く広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。書紀の天武天皇紀に記載された龍田立野の近隣と思われる。河内國と飛鳥を繋ぐ峠道(現在の味見峠)の谷間の出入口に当たる場所である。その場所に船瀬(船泊)が造られていたと推測される。

五月乙未朔。左京人從六位下丑山甘次猪養賜姓湯原造。丁酉。詔曰。春秋之義。祖以子貴。此則典經之垂範。古今之不易也。朕君臨四海。于茲五載。追尊之典。或猶未崇。興言念此。深以懼焉。宜追贈朕外曾祖贈從一位紀朝臣正一位太政大臣。又尊曾祖妣道氏曰太皇大夫人。仍改公姓爲朝臣。」又臣子之礼。必避君諱。比者。先帝御名及朕之諱。公私觸犯。猶不忍聞。自今以後。宜並改避。於是改姓白髪部爲眞髪部。山部爲山。戊戌。右京人從五位下昆解宿祢沙弥麻呂等。改本姓賜鴈高宿祢。癸丑。先是。皇后宮赤雀見。是曰。詔曰。朕君臨紫極。子育蒼生。政未洽於南薫。化猶闕於東戸。粤得参議從三位行左大弁兼皇后宮大夫大和守佐伯宿祢今毛人等奏云。去四月晦日。有赤雀一隻。集于皇后宮。或翔止廳上。或跳梁庭中。皃甚閑逸。色亦奇異。晨夕栖息。旬日不去者。仍下所司。令検圖牒。孫氏瑞應圖曰。赤雀者瑞鳥也。王者奉己儉約。動作應天時則見。是知。朕之庸虚。豈致此貺。良由宗社積徳。餘慶所覃。既叶舊典之上瑞。式表新色之嘉祥。奉天休而倍惕。荷靈貺以逾兢。思敦弘澤以答上玄。宜天下有位。及内外文武官把笏者賜爵一級。但有蔭者。各依本蔭。四世五世。及承嫡六世已下王年廿以上。並叙六位。又五位已上子孫年廿已上。叙當蔭階。正六位上者免當戸今年租。其山背國者。皇都初建既爲輦下。慶賞所被。合殊常倫。今年田租。特宜全免。又長岡村百姓家入大宮處者。一同京戸之例。甲寅。從五位上淨原王爲右大舍人頭。從四位上藤原朝臣雄依爲大藏卿。從四位上大中臣朝臣子老爲宮内卿。神祇伯如故。正四位下神王爲禪正尹。從五位上海上眞人三狩爲大宰少貳。從五位下百濟王英孫爲陸奥鎭守權副將軍。戊午。勅曰。貢進調庸。具著法式。而遠江國所進調庸。濫穢不堪官用。凡頃年之間。諸國貢物。麁惡多不中用。准量其状。依法可坐。自今以後。有如此類。専當國司。解却見任。永不任用。自餘官司。節級科罪。其郡司者加决罸以解見任。兼斷譜第。己未。勅曰。出家之人本事行道。今見衆僧。多乖法旨。或私定檀越。出入閭巷。或誣稱佛驗。詿誤愚民。非唯比丘之不愼教律。抑是所司之不勤捉搦也。不加嚴禁。何整緇徒。自今以後。如有此類。擯出外國。安置定額寺。庚申。遣使五畿内祈雨焉。辛酉。地震。」周防國飢疫。賑給之。壬戌。授正六位上百濟王元基從五位下。 

五月一日に左京の人である「丑山甘次猪養」に「湯原造」の氏姓を賜っている。三日、次のように詔されている・・・『春秋』には祖は子によって貴くなるという意味のことがみえるが、これは聖人の書に示された模範であり、古今に変わることのないものである。朕は君主として天下を治めてここに五年になるが、未だに祖先を崇めて尊い地位・称号を追贈する礼を行っていない。このことを思うと、まことに懼れ多いことである。---≪続≫---

そこで朕の外曽祖である贈従一位の紀朝臣諸人(古麻呂に併記)に正一位・太政大臣を追贈せよ。また曽祖母(「諸人」の室)である「道氏」(道公参照)を尊んで太皇大夫人と申し上げ、公姓を改めて朝臣姓とせよ。また、臣下は必ず君の諱を避けるのを礼とするが、この頃、先帝の御名と朕の諱は、公でも個人でも人名や地名に用いて抵触し犯されている。やはり聞くに忍びないことである。今後は諱に触れるような名は全て改めて避けるようにせよ・・・。そこで白髮部という姓を改めて眞髪部とし、山部を山としている。

四日に右京の人である「昆解宿祢沙弥麻呂」等の本姓を改めて「鴈高宿祢」の氏姓を賜っている(こちら参照)。

十九日、これより以前に、皇后宮に「赤雀」が現れた。この日、次のように詔されている・・・朕は君主として帝位にのぞんで、人民を子として育んでいるが、その政治は南からの薫風のように普く行き渡らず、徳化に欠けて昔の聖人の東戸の時代には及ばない。ここに参議・行左大弁で皇后宮大夫・大和守を兼ねる佐伯宿祢今毛人等の奏上によると、去る四月の晦日、一羽の「赤雀」が皇后宮にいて、建物の上に飛び上がったり、庭の中で飛び跳ねたりしており、大変雅やかでのびのびとした様子で、色も珍しく、朝夕住み、十日の間そこを去らなかったということである<下記参照>。---≪続≫---

そこで所轄の役所に命令して図諜を調べさせたところ、『孫子瑞応図』に[赤雀は瑞鳥である。王者が自ら倹約につとめ、その動作が天の巡り合わせに適った時に出現する]とあった。どうしてこのような賜り物を招致できようか。それはまことに先祖が積み上げた德と、その余りの善が子孫に及んだからであるとわかる。いまや、古典に見えている上瑞に当たっており、色も真新しい目出度いしるしを表している。天の称賛を受けてますます恐れ慎み、霊妙な賜り物を頂いていよいよ恐れ戒めている。広い恵みを厚くして、天に応えたいと思う。---≪続≫---

そこで天下の有位者と、内外の文武官で笏をとる者に、位一級を与える。ただし、蔭位の該当者にそれぞれ本来の蔭位に従って授位せよ。四世・五世の王と、嫡系の六世以下の王のうち、年二十以上の者には、みな六位を授けよ。また五位以上の者の子や孫で、年二十以上の者には、該当する蔭位の位階を授けよ。正六位上の者には、その戸の今年の租を免除せよ。そもそも山背國は皇都が初めて置かれたのであるが、既に天子のお膝元であるから、褒美を授けるのは普通と異なるべきである。今年の田租を特別に全免せよ。また長岡村の人民の家で宮城内に入り他に遷された者は、全て京戸と同様に扱え・・・。

二十日に淨原王(長嶋王に併記)を右大舍人頭、藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を大藏卿、大中臣朝臣子老を神祇伯のままで宮内卿、神王()を禪正尹、海上眞人三狩(三狩王)を大宰少貳、百濟王英孫()を陸奥鎭守權副將軍に任じている。

二十四日に次のように勅されている・・・調・庸を貢進することについては、詳しく法律の条文に見えている。ところが遠江國より進上した調・庸は品質が悪くて汚れているので、官での使用に堪えない。およそ近年は諸國の貢進物が粗悪で多くは使用に適合しない。その状態に応じ法律によって罪を問うべきである。今後このようなことがあれば、担当の國司の現職を解き、永く任用しないことにする。その他の官司は等級を設けて罪を科せ。郡司は処罰して現職を解くと共に、郡司任用資格の家柄としての系譜を廃止する・・・。

二十五日に次のように勅されている・・・出家の人の本来の務めは、仏道の修行に専念することである。今多くの僧を見ると、仏法の趣旨に背くことが多く、勝手に檀越を定めて村里に出入したり、仏の霊験と偽り称して愚かな人民を欺き誤らせたりしている。ただ比丘が教えや戒律を重んじないからだけでなく、担当の役所が捕らえようと努めないからである。厳しく禁止しなければ、どうして僧侶を整えることができようか。今後、もしこのようなことがあれば、畿外の國に退け、定額寺に安置せよ・・・。

二十六日に使者を畿内五ヶ國に派遣して降雨を祈らせている。二十七日に地震が起こっている。また、周防國に飢饉と疫病が起こったので物を恵み与えている。二十八日に百濟王元基(②-)に従五位下を授けている。

<丑山甘次猪養>
● 丑山甘次猪養

「丑山甘次」の氏名に関する情報は、皆無のようである。渡来系の人物が”和風”に称したようにも思われ、左京を居処としていたのであろう。

また、「丑」の文字が名前に用いられているは初見であろう。これも渡来人を祖とすることを表しているように推察される。「丑」=「手で物つかむ様」と解説されている。

丑山甘次=手で物をつかむように山稜が[山]の形に延びて大きく口を開いたような谷間から[舌]の形の山稜が延び出ているところと読み解ける。この地形を図に示した場所に見出せる。昆解宿祢(雁高宿禰)韓遠智(中山連)等の東側の場所である。

名前の猪養=なだらかな谷間の前で平らな山稜が交差するように延びているところと解釈すると、出自の場所は図に示したところと推定される。左右京の境界線からほんの僅か左京側に入った場所である。直後に”右京人”昆解宿祢に雁高宿祢を賜姓しているが、平城宮の左右京であることを示している。

賜った湯原造湯原=水が飛び跳ねるように流れる谷間の麓が平らに広がっているところと解釈すると、この地の地形の一側面を表していることが解る。がしかし、「丑山」の地形象形表記は極めて貴重であろう。

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<赤雀・大枝山陵・長岡山陵>
佐伯宿祢今毛人等の言上である「皇后宮赤雀見 有赤雀一隻。集于皇后宮。或翔止廳上。或跳梁庭中。皃甚閑逸。色亦奇異。晨夕栖息。旬日不去者」は、読み下せば上記のように訳すことができるであろう。

赤雀は、由緒正しき瑞祥のなのであるが、実在とするには些か心許ない鳥であろう。勿論、長岡宮周辺の地形を述べているのである。それにしても、益々難解になって来ているように感じられる。

①赤雀見平らな頂の麓に[火]の形に山稜が延びた長い谷間の上に[雀]のような地があり
②有赤雀一隻その[赤雀]の前にある山稜の端の三角州が[鳥]の形をした山稜を一つに束ねている
③集于皇后宮延び出た山稜が集まったところに皇后宮がある
④或翔止廳上谷間に[羽]のように延びた山稜が揃って並び山麓に四角く区切られた地が盛り上がっているところから
⑤或跳梁庭中足を大きく開いたような山稜の端を跨ぐような山稜が平らに広がった地を突き通すしているところまで
⑥皃甚閑逸丸く小高い地から広がる谷間に[舌]のような山稜が狭い門のように並んだところから抜け出ている
⑦色亦奇異渦巻くように小高くなった地の脇に谷間があり両手を上げるように延びた山稜の前が尖っている
⑧晨夕栖息太陽のような地から[舌]のような山稜が延びて開いた谷間の前で[笊]の形になっている
⑨旬日不去者太陽のような地の前で[炎]のような山稜が[く]の字形に曲がって[不]のように広がり窪んた谷間が交差するようになっているところ

と解釈される。若干の文字解釈の補足をすると、「雀」=「少+隹」=「小さな頭の鳥」、「皃」=「白+儿」=「丸く小高い地から谷間が長く延びている様」、「甚」=「甘+匹」=「[舌]のような山稜が揃って延び出ている様」、「栖」=「木+西」=「山稜が[笊]のような形をしている様」、「旬」=「日+勹」=「[炎]のような山稜が[く]の字形に曲がっている様」である。

大枝山陵 後に皇太后(高野新笠)が埋葬された場所が大枝山陵と記載されている。大枝=平らな頂の山陵が岐れて延びたところと解釈すると、図に示した場所を表していると思われる。皇太后の母親が大枝朝臣眞妹(旧土師宿祢)であることから、様々に論説されているが、類似する”大枝”の地形があった、それぞれの場所であろう。

長岡山陵 引き続いて皇后(藤原朝臣乙牟漏)が三十一歳で亡くなっている。些か不穏な雰囲気が漂うことになったようである。埋葬された場所が長岡山陵と記載されている。確定し辛い表記であるが、図に示した辺りかと思われる。

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六月乙丑。出羽。丹波。年穀不登。百姓飢饉。並賑給之。癸酉。勅曰。去五月十九日。縁皇后宮有赤雀之瑞。普賜天下有位爵一級。但宮司者是祥瑞出處也。當加褒賞以答靈貺。宜宮司主典已上不論六位五位進爵一級。」右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因神牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。永爲公民。積年累代。以至于今。今在諸國漢人亦是其後也。臣苅田麻呂等。失先祖之王族。蒙下人之卑姓。望請。改忌寸蒙賜宿祢姓。伏願。天恩矜察。儻垂聖聽。所謂寒灰更煖。枯樹復榮也。臣苅田麻呂等。不勝至望之誠。輙奉表以聞。詔許之。坂上。内藏。平田。大藏。文。調。文部。谷。民。佐太。山口等忌寸十一姓十六人賜姓宿祢。辛巳。右大臣從二位兼中衛大將臣藤原朝臣是公等。率百官上慶瑞表。其詞曰。伏奉去五月十九日勅。比者。赤雀戻止椒庭。既叶舊典之上瑞。式表新色之嘉祥。思與天下喜此靈貺者。臣等生逢明時。頻沐天渙。欣悦之情。實倍恒品。臣聞。徳動天地。無遠不臻。至誠有感。在幽必逹。伏惟。皇帝陛下。道格乾坤。澤沾動植。政化以洽。品物咸亨。皇后殿下。徳超娥英。功軼姙姒。母儀方闡。厚載既隆。故能兩儀合徳。百靈効祉。白燕産帝畿以馴化。赤雀翔皇宮而表禎。稽驗圖牒。僉曰。休徴。斯實曠古殊貺。當今嘉祥。率土抃舞。莫不幸甚。臣是公等不勝踴躍之至。謹詣朝堂。奉表以聞。詔報曰。乾坤表貺。休瑞荐彰。白燕搆巣於前春。赤雀來儀於後夏。寔惟宗社攸祉。群卿所諧。朕之庸虚何應於此。但當与卿等。勉理政化。上答天休。省所來賀。祗懼兼懷。是日。授皇后宮大夫從三位佐伯宿祢今毛人正三位。亮從五位上笠朝臣名末呂正五位下。大進從五位下藤原朝臣眞作。少進從五位下安倍朝臣廣津麻呂並從五位上。大属正六位上阿閇間人臣人足。少属正六位上林連浦海並外從五位下。癸未。參議兵部卿從三位兼侍從下総守藤原朝臣家依薨。贈太政大臣正一位永手之第一子也。

六月二日に出羽・丹波の國の穀物が稔らず、人民が飢饉で苦しんだので、それぞれ物を恵み与えている。十日に次のように勅されている・・・去る五月十九日に、皇后宮に赤雀が現れるという祥瑞があったので、広く天下の有位者に位を一級与えた。但し皇后宮の司は、祥瑞の出現した場所であるので、さらに褒賞を与えて、優れた天の賜物に答えるべきである。そこで皇后宮職の主典以上に対して、六位であれ五位であれ、位を一級進めよ・・・。

また、右衛士督で下総守を兼任する坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)等が上表文を奉って以下のように言上している・・・臣下である私共は、元は後漢の霊帝の曽孫にあたる阿智王の後裔である。漢の天子の位が魏に遷った時、阿智王は神牛お教えに従って中国を出て朝鮮の帯方の地に行ったところ、たちまちに寶帯の祥瑞を得た。その形は宮城に似ていたので、帯方に國をつくってその人民を養育した。その後、父や兄を召して、[私は東の國に聖人の君主がいると聞いているが、どうして行って従わないでおられようか。もしこの地に長く居たならば、おそらく滅亡してしまうであろう]と告げた。---≪続≫---

そして母の弟の迂興德、及び七つの姓をもつ人民を伴い、徳化に帰して来朝した。これは誉田天皇(応神天皇)が天下を治めておられた時代のことであった。そこで阿智王は奏上し、[私の旧居は帯方にあり、そこの人民は男女を問わず全て才藝を持っているが、近頃は百濟と高麗の間に挟まれて住むことになり、その地を去ろうかどうか心が定まらずためらっている。どうか天皇の恵みによって、使者を派遣して招き寄せるよう、お願いする]と申請した。---≪続≫---

そこで勅されて臣下を阿智王の八つの分家に遣わし、手分けして出発させた。人民の男女jは村落こぞって使者に従い、全て来朝し、永く公民となった。それから多くの年月が経ち、何代にもわたって今に至っている。今諸國にいる漢人もまたその後裔である。ところが臣下である「苅田麻呂」等は、先祖の王族の姓を失って下級の人の卑しい姓を授けられている。---≪続≫---

どうか忌寸姓を改め、宿祢姓を賜りますように、また天子が恩恵をもって憐れみ察せられるよう伏してお願い申し上げる。もし天子のお許しを賜るならば、いわゆる冷えた灰が再び暖かくなり、枯れた樹がまた茂るというたとえのようになる。臣下である「苅田麻呂」等は、望みを叶えて欲しいという真心を抑えることができない。それで上表文を奉って申し上げる次第である・・・。

詔されてこれを許可している。坂上(こちらも参照)・内藏・「平田」・大藏(こちらも参照)・調文部(こちらも参照)・佐太山口(こちらも参照)等、十一の忌寸姓を持つ氏族の十六人に宿祢姓を賜っている。<「平田忌寸」については、後の延暦六(787)年六月に平田忌寸杖麻呂・蚊屋忌寸淨足等に宿祢姓を賜ったと記載されている>。

十八日に右大臣で中衛大将を兼任する臣下の藤原朝臣是公等は、百官を率いて祥瑞を喜ぶ上表文を奉ったが、その字句で以下のように述べている・・・伏して去る五月十九日の勅を承ったところ、[近頃、赤雀が皇后宮に来て留まっていたが、これは古典にみえる上瑞に当たっており、色も真新しいめでたいしるしを表している。この霊妙な賜り物を天下の人々と共に喜びたいと思う]とある。---≪続≫---

臣下である私どもは、よく治まった御代に生まれ、盛んに天子の恩恵にあずかり、悦びの気持ちは実に普通の物の倍にも当たる。天子の徳が天地を動かす時は、遠くであっても届かないということはなく、至誠が感応する時には、冥界にも必ず達すると聞いている。伏して思うに、皇帝陛下は、その政道は天地の法則にのっとり、その恩恵は動・植物を潤し、政治の教化は広く行き渡り、万物全てその恩恵を受けている。---≪続≫---

また、皇后殿下は、その德が娥皇・女英を越え、その功は太姙・太姒よりも優れており、人の母の手本として立派で、大地が厚く物を載せるような德が豊かである。故に陰陽の徳が合わさり、諸神が幸福を授けて下さったのである。昨年は白燕が畿内に生まれて徳化に馴れ、今赤雀が皇宮に飛び翔って、幸いを表している。図諜に照らして考え調べてみると、みなめでたいしるしである。---≪続≫---

これはまことに、昔からあったためしのない特別の賜り物であり、当今のめでたいしるしである。全ての人々が喜んで手を打って舞い、これ以上の大変な幸いはないとしている。臣下である「是公」等は、小踊りするほどの喜びに耐えられず、謹んで朝堂に参上して、上表文を奉って申し上げる次第である・・・。

これに応えて、次のように詔されている・・・天地が賜り物をあらわして、めでたいしるしがしきりに出現している。白燕は巢を去年の春に作り、赤雀は今年の夏によい姿でやって来た。まことにこれは祖先や國土の神の与えてくれた幸福であり、多くの重臣が心を合わせた結果である。凡庸で無能な朕は、どうしてこれに応えることができようか。ただ卿等と共に政治の指導に努めて、天の下さった幸いに答えるべきである。祝いを述べて来たのを顧みて、慎みと恐れを心に併せ抱くものである・・・。

この日、皇后宮大夫の佐伯宿祢今毛人に正三位、亮の笠朝臣名末呂(賀古に併記)に正五位下、大進の藤原朝臣眞作()と少進の安倍朝臣廣津麻呂に従五位上、大属の「阿閉間人臣人足」と少属の林連浦海(雑物に併記)に外従五位下を授けている。二十日に参議・兵部卿で下総守を兼任する藤原朝臣家依が薨じている。太政大臣「永手」の第一子であった。

<阿閇間人臣人足>
● 阿閇間人臣人足

「阿閉」の地名は、『壬申の乱』で勝利した天武天皇が凱旋帰京する行程で登場していた。「鈴鹿」と「名張」の中間に位置する場所であった(こちら参照)。

この地には曾祢連一族の居処があり、既に幾人かが登場している。谷間に広がる台地状の地形を持ち、古事記の能煩野、書紀の持統天皇紀では菟田吉隱と記された場所があった。

阿閇=台地が閉じ込められたようになっているところと解釈し、全体の台地南半分に当たる場所と推定した。既出の文字列である間人=門のような山稜に挟まれた谷間に山稜の端の三角州があるところと解釈される。図に示した場所にその地形を見出せる。

人足=人の足のように山稜の端が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後、昇進はないが、幾度か京官を任じられて登場している。