2024年8月31日土曜日

今皇帝:桓武天皇(8) 〔691〕

今皇帝:桓武天皇(8)


延暦三(西暦784年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

十一月戊戌朔。勅曰。十一月朔旦冬至者。是歴代之希遇。而王者之休祥也。朕之不徳。得値於今。思行慶賞。共悦嘉辰。王公巳下。宜加賞賜。京畿當年田租並免之。庚子。詔曰。民惟邦本。本固國寧。民之所資。農桑是切。比者諸國司等。厥政多僻。不愧撫道之乖方。唯恐侵漁之未巧。或廣占林野。奪蒼生之便要。或多營田園。妨黔黎之産業。百姓彫幣。職此之由。宜加禁制。懲革貪濁。自今以後。國司等不得公廨田外更營水田。又不得私貪墾闢侵百姓農桑地。如有違犯者。收獲之實。墾闢之田。並皆沒官。即解見任。科違勅之罪。夫同僚并郡司等。相知容隱。亦与同罪。若有人糺告者。以其苗子。与糺告人。癸夘。以從五位下佐伯宿祢鷹守爲左衛士佐。外從五位下秦造子嶋爲右衛士大尉。外從五位下津連眞道爲左兵衛佐。戊申。天皇移幸長岡宮。甲寅。先是。皇后遭母氏憂。不從車駕。中宮復留在平城。是日。遣出雲守從四位下石川朝臣豊人。攝津大夫從四位下和氣朝臣清麻呂等。爲前後次第司。奉迎焉。丁巳。遣近衛中將正四位上紀朝臣船守。叙賀茂上下二社從二位。又遣兵部大輔從五位上大中臣朝臣諸魚。叙松尾乙訓二神從五位下。以遷都也。戊午。武藏介從五位上建部朝臣人上等言。臣等始祖息速別皇子。就伊賀國阿保村居焉。逮於遠明日香朝廷。詔皇子四世孫須祢都斗王。由地錫阿保君之姓。其胤子意保賀斯。武藝超倫。足示後代。是以長谷旦倉朝廷改賜健部君。是旌庸恩意。非胙土彜倫。望請。返本正名蒙賜阿保朝臣之姓。詔許之。於是。人上等賜阿保朝臣。健部君黒麻呂等阿保公。辛酉。中宮皇后並自平城至。乙丑。遣使修理賀茂上下二社及松尾乙訓社。」從四位下五百枝王。五百井女王。並授從四位上。

十一月一日に次のように勅されている・・・十一月朔日が冬至に当たることは、歴代の中でも稀な回り合わせであり、王者のめでたいしるしである。朕は不徳であるが、今巡り合うことができた。お祝いとして褒美を与え、共にめでたい日を悦びたいと思う。王や公卿以下には賜物を与え、京と畿内には今年の田租をもれなく免除せよ・・・。

三日に次のように詔されている・・・人民は國の根本であり、根本が強固であれば國は安定する。人民の生活のもととしては、農業がもっとも肝要である。ところが、この頃諸國の國司等は政治に多くの間違いを犯している。人民を慈しみ治める道が正しい方法に背いていることを恥じず、ただ収穫が上手でないことを恐れている。広く林野を占領して、人民の生活手段を奪ったり、田や園を多く経営して、人民の生業を妨げたりしているが、人民が衰え弱るのは、これが原因である。これらの行為を禁止し、欲が深く心の穢れているを懲らしめ改めさせるべきである。---≪続≫---

今後、國司等は公廨田以外に水田を営んではならない。また、自分勝手にむやみに開墾することで、人民の農業と養蚕に必要な地を侵してはならない。もし違反する者があれば、収穫物と開墾田は共に官に没収し。現在の官職を解任して違勅の罪を科することにする。國司の同僚と郡司等が知って罪をかばい隠したならば、共に同罪とする。もし糾弾し告発する者がおれば、その罪を犯した者の田の苗を、糾弾し告発した人に与えることにする・・・。

六日に佐伯宿祢鷹守を左衛士佐、秦造子嶋(金城史山守に併記)を右衛士大尉、津連眞道(眞麻呂に併記)を左兵衛佐に任じている。十一日に長岡宮に移られている。十七日、これより以前、皇后は母の死にあたったので、天皇の行幸には付き従わなかった。中宮(高野新笠)もまた平城宮に留まっていた。この日、出雲守の石川朝臣豊人、攝津大夫の和氣朝臣清麻呂等を平城宮に派遣し、前後の次第司に任じて皇后と中宮を迎えさせている。

二十日に近衛中将の紀朝臣船守を派遣して、賀茂上下二社に従二位を授けている。また、兵部大輔の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を派遣して、松尾乙訓の二神に従五位下を授けている。長岡遷都のためである。

二十一日に武藏介の健部朝臣人上(建部公人上)等が以下のように言上している・・・我々の始祖である「息速別皇子」(古事記の伊許婆夜和氣命)は、「伊賀國阿保村」に居住していた。遠明日香朝廷(允恭朝)の時に至って、詔されて皇子の四世の孫の「須祢都斗王」に、その地名をとって「阿保君」の氏姓を賜った。その子孫の「意保賀斯」は、武芸が群を抜いており、後代に模範とするに相応しいので、長谷旦倉朝廷(雄略朝)の時に、氏姓を改めて「健部君」を賜った。---≪続≫---

これは功績を表彰する恩恵の意味であり、土地を与え賜姓するという通常のやり方ではない。どうか本にかえして名称を改正し、「阿保朝臣」の氏姓を賜るようお願いする・・・。詔されて、これを許可している。そこで「人上」等に「阿保朝臣」、「健部君黒麻呂」等には「阿保公」の氏姓を賜わっている。

二十四日に中宮・皇后は共に平城宮から長岡宮に到着している。二十八日に使を派遣して賀茂の上下二社と松尾乙訓の社を修理させている。また、五百枝王・五百井女王に従四位上を授けている。

<伊賀國阿保村:須祢都斗王・意保賀斯>
伊賀國阿保村

健部朝臣人上が語るには、彼等は古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、伊許婆夜和氣命の子孫と述べている。命の母親は阿邪美能伊理毘賣命であり、丹波國が出自と推定した。現地名では京都郡みやこ町呰見である。

他の史書によると、「伊賀國阿保村」に封地を与えられて子孫等が居処としたようである。既に推定した通り、その後信濃國更級郡、現地名の京都郡苅田町雨窪に移り住んだようである。

阿保=谷間に延びた山稜の端が丸く小高い台地になっているところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。現在は広大な住宅地になっていて、国土地理院航空写真1961~9年を用いてその場所を求めることができる。

書紀の持統天皇紀に禁猟地とされた伊賀國伊賀郡身野に該当する地であるが、「阿保村」の開拓は進捗せずの状況であったのだろう。後裔等がその地で蔓延らず移住したのであるから、辻褄の合った経緯と思われる。

● 須祢都斗王・意保賀斯 二人の子孫の名前が記載されている。地形象形表記そのものであり、文字列を読み解くと、須禰都斗=高台の州が広がって柄杓の形の地が寄り集まっているところ意保賀斯=[保]の前にある奥まって取り囲まれた地が押し拡げられて切り分けられたようになっているところと解釈される。それぞれの地形を図に示した場所に見出せる。

<健部君黒麻呂>
「意保賀斯」が賜った「健部君」は、「健」=「人+建」であり、「建」は「倭建命」の「建」に通じるとして、優れた武芸者を表すと記載されているが、勿論、これは地形象形表記である。「賀斯」の山稜の形を表しているのである。

● 健部君黒麻呂

「健部」の氏名は同じだが、姓が異なっていて、おそらく別系列であったのだろう。称徳天皇紀に建部大垣が「爲人恭順。事親有孝」と褒められていた。

「人上」等の谷間の対岸を居処とする一族と推定された。また、この地は一時諏方國として分割されたが、後に信濃國に戻された経緯があり、外来の人達が住まっていたことを暗示する記述と推察される。

頻出の黒麻呂は、黑=囗+米+灬=谷間に[炎]のような山稜が延びている様であり、図に示した場所が出自と推定される。賜った阿保公の表記はこの後に記載されることはないようである。

十二月己巳。詔賜造宮有勞者爵。又免進役夫國今年田租。」授從三位藤原朝臣種繼正三位。正四位上石川朝臣名足。紀朝臣船守並從三位。從五位下氣太王。山口王。小倉王並從五位上。從四位下石川朝臣垣守。和氣朝臣清麻呂並從四位上。從五位上多治比眞人人足。大中臣朝臣諸魚並正五位下。從五位下文室眞人忍坂麻呂。多治比眞人濱成。日下部宿祢雄道。三嶋眞人名繼。丈部大麻呂並從五位上。外從五位下丹比宿祢眞清外正五位下。外從五位下上毛野公大川外從五位上。正六位上佐伯宿祢葛城從五位下。正六位上奈良忌寸長野。大神楉田朝臣愛比。三使朝臣清足。麻田連畋賦。高篠連廣浪並外從五位下。」又以左大弁從三位兼皇后宮大夫大和守佐伯宿祢今毛人爲參議。癸酉。遣使畿内七道。大祓奉幣於天神地祗。庚辰。詔曰。山川薮澤之利。公私共之。具有令文。如聞。比來。或王臣家。及諸司寺家。包并山林。獨專其利。是而不禁。百姓何濟。宜加禁斷。公私共之。如有違犯者。科違勅罪。所司阿縱。亦与同罪。其諸氏冢墓者。一依舊界。不得斫損。乙酉。山背國葛野郡人外正八位下秦忌寸足長築宮城。授從五位上。外從五位下栗前連廣耳飼養役夫。授從五位下。但馬國氣多團毅外從六位上川人部廣井。進私物助公用授外從五位下。丙申。叙住吉神從二位。預造長岡宮主典已上。及諸司雑色人等。隨其勞効。進階賜爵各有差。

十二月二日に詔されて、造営に功労のある者に位を授けている。また、役夫を貢進した國の今年の田租を免除している。

藤原朝臣種繼(藥子に併記)に正三位、石川朝臣名足紀朝臣船守に從三位、氣太王(氣多王)・山口王()・小倉王()に從五位上、石川朝臣垣守和氣朝臣清麻呂に從四位上、多治比眞人人足(黒麻呂に併記)・大中臣朝臣諸魚(子老に併記)に正五位下、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)・多治比眞人濱成(歳主に併記)日下部宿祢雄道三嶋眞人名繼丈部大麻呂に從五位上、丹比宿祢眞清(眞淨。眞嗣に併記)に外正五位下、上毛野公大川に外從五位上、佐伯宿祢葛城(瓜作に併記)に從五位下、奈良忌寸長野(秦忌寸)・大神楉田朝臣愛比(楉田勝)・三使朝臣清足(御使朝臣淨足)・「麻田連畋賦」・高篠連廣浪(衣枳首)に外從五位下を授けている。また、左大弁・皇后宮大夫・大和守の佐伯宿祢今毛人を參議に任じている。

六日に使者を畿内と七道に派遣して大祓し、幣帛を天神・地祇に奉らせている。十三日に次のように詔されている・・・山や川、草木の茂った沢などの未開拓地からの利益は、公も個人もこれを共にするということについては、令に詳しい規定がある。聞くところによると、近頃王臣家や諸々の役所や寺院は、山林を囲い込んで領有し、その利益を独占しているということである。ここで禁止しなければ、どうして人民を救うことができようか。禁断を加えて公も個人も共に利用できるようにせよ。もし違反する者があれば、違勅の罪を科せ。関係の役人でおもねり許す者があれば、共に同罪とする。諸氏の塚や墓は、もっぱら旧の境界に基づいて、生えている樹木を切り損じてはならない・・・。

十八日に山背國葛野郡の人である「秦忌寸足長」は宮城を築いたことにより従五位上を、また、栗前連廣耳は役夫に食料を与え養ったので従五位下を授けている。但馬國の「氣多團」軍毅の「川人部廣井」は私物を貢進して公の用途を助けたので外従五位下を授けている。二十九日に住吉神に従二位を授けている。また、長岡宮の造営に関わった主典以上と諸司の各種の官人等に、その功労にしたがい、それぞれに位階を進め位を与えている。

<麻田連畋賦>
● 麻田連畋賦

「麻田連」の氏姓は、聖武天皇紀に百濟滅亡に伴って帰化した「荅本春初」の子、「陽春」が賜ったと記載されていた(こちら参照)。その後、淳仁天皇紀に「金生」、称徳天皇紀に「眞淨」が登場していた(こちら参照)。

百濟王一族を筆頭に多くの避難民を受け入れ、有能な人材を登用して来たのである。漢民族の拡大膨張に伴う周辺地域の再編が盛んに行われた時代だったようである。

名前の「畋賦」に用いられた「畋」の文字は初見である。文字解釈を行うと、「畋」=「田+攴」と分解される。文字要素は見慣れたものであり、地形象形的には「畋」=「[田]が二つに岐れている様」と解釈される。

纏めると畋賦=[田]が二つに岐れている谷間に[杙]のような山稜が延びているところと解釈される。「金生」と「眞淨」との間に位置する場所が出自と推定される。この後に幾度か登場し、京官・地方官を歴任したと記載されている。尚、「畋」の代わりに「𤝗」の文字が使われている。地形象形表記としては、前者が適切であろう。

<秦忌寸足長-馬長>
● 秦忌寸足長

山背國葛野郡の人と記され、「築宮城」の功績で外正八位下から内位の従五位上に昇位している。凄まじいばかりの褒賞なのであるが、おそらく造宮のための良質の木材を提供したのではなかろうか。

葛野郡内における、山林に囲まれた未開の地域だったことを暗示しているように推測される。そんな背景で出自場所を求めてみよう。

足長=長く延びた山稜の前が[足]のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。愛宕郡との端境近傍の地であり、既出の秦忌寸一族とは、遠く離れている山岳地帯である。

通説では”造長岡宮長官”のように解釈されているが、誤りであろう。同時に功績があった、外従五位下から内位の従五位下に昇進した栗前連廣耳の”食料提供”の記述がある。「足長」は後に主計頭に任じられているが、その後の消息は不明である。

直後に秦忌寸馬長が外従五位下を叙爵されて登場する。馬長=長く延びた山稜の前が[馬]の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「足長」と同様に造営に寄与したのであろう。間もなくして土左守に任じられているが、以後の消息は不明である。

<川人部廣井・氣多團・高田道成>
● 川人部廣井

「氣多團」の軍毅を務めていた人物と記載されている。おそらく但馬國氣多郡に設けられていたのであろう。但馬國の中心の地である。

その地を居処とする桑氏連鷹養が物を献上したとして外従五位下を叙爵されていた。古くから開けて、更に豊かになっていたのであろう。

川人=[川]の文字形のように谷間が延びているところと解釈される。「部」=「近隣」とする。廣井=四角く取り囲まれた地が広がっているところであり、図に示した場所が出自と推定される。

「氣多團」の團=囗+專=丸く取り囲まれている様と解釈される。「廣井」の東隣の地形を表しているように思われる。どうやらこの地に設けられた軍団だったようである。

二ヶ月余り後の延暦四(785)年二月に「但馬國氣多郡人外從五位下川人部廣井改本姓。賜高田臣」と記載されている。高田=皺が寄ったような山稜の麓で[田]が広がっているところと読める。

後に蝦夷征討で高田道成が戦死したと記載されている。無姓の故に高田首高田公の一族なのか不明であるが、道成=首の付け根のように窪んだ地で平らに整えられているところの地形から、図に示した場所が出自と推定される。














2024年8月23日金曜日

今皇帝:桓武天皇(7) 〔690〕

今皇帝:桓武天皇(7)


延暦三(西暦784年)六月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

六月辛丑。唐人賜緑晏子欽。賜緑徐公卿等賜姓榮山忌寸。是日。叙正三位住吉神勳三等。甲辰。中務大輔從四位下豊野眞人奄智卒。戊申。詔以賢璟法師。爲大僧都。行賀法師爲少僧都。善上法師。玄憐法師。並爲律師。己酉。以中納言從三位藤原朝臣種繼。左大弁從三位佐伯宿祢今毛人。參議近衛中將正四位上紀朝臣船守。散位從四位下石川朝臣垣守。右中弁從五位上海上眞人三狩。兵部大輔從五位上大中臣朝臣諸魚。造東大寺次官從五位下文室眞人忍坂麻呂。散位從五位下日下部宿祢雄道。從五位下丈部大麻呂。外從五位下丹比宿祢眞淨等。爲造長岡宮使。六位官八人。於是。經始都城。營作宮殿。辛亥。普光寺僧勤韓獲赤烏。授大法師。并施稻一千束。壬子。遣參議近衛中將正四位上紀朝臣船守於賀茂大神社。奉幣。以告遷都之由焉。又今年調庸。并造宮工夫用度物。仰下諸國。令進於長岡宮。癸丑。唐人正六位上孟惠芝。正六位上張道光等。賜姓嵩山忌寸。正六位下吾税兒賜永國忌寸。壬戌。有勅。爲造新京之宅。以諸國正税六十八万束。賜右大臣以下。參議已上。及内親王。夫人。尚侍等。各有差。丁夘。百姓私宅。入新京宮内五十七町。以當國正税四万三千餘束。賜其主。

六月二日に唐人の賜綠(六・七品の服色)の「晏子欽」と賜綠の「徐公卿」等に「榮山忌寸」の氏姓を賜っている。この日、正三位の住吉神に勲三等を授けている。五日に中務大輔の豊野眞人奄智(奄智王)が亡くなっている。九日に詔されて、賢璟法師を大僧都、行賀法師(上毛野公大川に併記)を少僧都、善上法師・玄憐法師を律師に任じている。

十日に中納言の藤原朝臣種繼(藥子に併記)、左大弁の佐伯宿祢今毛人、參議・近衛中將の紀朝臣船守、散位の石川朝臣垣守、右中弁の海上眞人三狩(三狩王)、兵部大輔の大中臣朝臣諸魚(子老に併記)、造東大寺次官の文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)、散位の日下部宿祢雄道丈部大麻呂丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)等を造長岡宮使に、及び六位の官人八人を任じ。ここにおいて、都城の建設を開始し、宮殿を造営している。

十二日に「普光寺」の僧である「勤韓」が「赤烏」を捕獲したので、大法師の位を授け、稲一千束を与えている。十三日に参議・近衛中将の紀朝臣船守賀茂大神社に派遣して奉幣させている。遷都の事情を告げるためである。また、今年の調・庸や、宮を造る工人や人夫の必要とする物資は、諸國に命じて長岡宮に進上させている。

十四日に唐人の「孟惠芝」、「張道光」等に「嵩山忌寸」、「吾税兒」に「永國忌寸」の氏姓を賜っている。二十三日に勅されて、新京の宅を造営するために、諸國の正税六十八万束を、右大臣以下、参議以上、及び内親王・夫人・尚侍等に地位に応じて授けている。二十八日に人民の私宅で新京の宮内に入っているものが五十七町あり、当國の正税四万三千束余りをその持主に授けている。

<晏子欽・徐公卿・王維倩-朱政[榮山忌寸]>
<孟惠芝・張道光[嵩山忌寸]>
<吾税兒[永國忌寸]>
<馬清朝[新長忌寸]>
● 晏子欽・徐公卿[榮山忌寸]

天平寶字五(761)年、迎入唐大使の高元度等が帰る際に「沈惟岳」等が同行して大宰府に到着したのであるが、「晏子欽」は同行者の一人であった。

結局彼等は帰唐することができず、多くは帰化することになったようである。「惟岳」は既に従五位下を叙位され、寶龜十一(780)年に清海宿祢の氏姓を賜っているが、それに続く賜姓となっている。

このような背景からすると、「晏子欽」等も、やはり”靈龜”の地に居処を与えられたと推測される。がしかし、大混雑の地に居場所があるのか、果たして・・・。

和風の名前とはなっていないので、与えられた榮山忌寸が唯一の頼りである。榮山=[炎]のような山稜に挟まれた谷間に[山]の形の地があるところと解釈される。少々広範囲な地形に基づく名称のようであるが、「惟岳」との確執を配慮した名称だったのかもしれない。

少し後に王維倩王朱政等が榮山忌寸の氏姓を賜ったと記載されている。近隣に住まわせてのであろう。併せて図に示した。同行仲間だったのであろう。

● 孟惠芝・張道光[嵩山忌寸] 唐人ではあるが、既に正六位上の爵位を授かっていて、それぞれの「惠芝」、「道光」の名前は和風になっている。即ち地形象形表記と思われる。賜った嵩山忌寸の氏姓から居処を求めると、「嵩」=「山+高」と分解して、嵩山=山頂が皺が寄ったようになっている麓で「山」の形に山稜が延びているところと解釈される。

惠芝=小高く丸く取り囲まれた地の傍らに蛇行する川が流れているところ道光=[炎]のように山稜が延びた前で首の付け根のように窪んだ地があるところと解釈される。これら地形を表す場所として、図に示した辺りが各々の居処と推定される。

● 吾税兒[永國忌寸] 同様に永國=取り囲まれた地が長く延びているところと解釈される。名前に用いられたのは初めてと思われる「税」=「禾+兌」と分解し、更に「兌」=「八+兄」となる。「兒」=「窪んだ地から谷間が延びている様」である。

纏めると税兒=奥が広がった窪んだ谷間から延び出た山稜の傍らで谷間が広がっているところと解釈される。「松井連」の西隣の谷間の地形を表していることが解る。”靈龜”の隅々にまで渡来系の人々が蔓延っていたことを述べているのである。

後に唐人の馬清朝新長忌寸の氏姓を賜ったと記載される。おそらく上記の連中の近隣に住まわせていたのであろう。新長=切り分けられた山稜が長く延びているところと解釈すると、図に示した場所を居処としていたのではなかろうか。

<普光寺・僧勤韓>
普光寺

「普光寺」は記紀・續紀を通じて初見の寺であり、また、後に登場することもない。調べると、大和國添上郡に建立された寺院だったようである。

名称が表す地形を求めることにする。「普」=「竝+日」=「丸く小高い地が次々に連なり延びている様」、「光」=「火+儿」=「[火]のような山稜が広がり延びている様」と解釈される。

纏めると普光=[火]のような山稜が広がり延びている谷間で丸く小高い地が次々に連なり延びているところと解釈される。図に示した場所に、その地形を見出せる。元明天皇紀に登場した大倭國添下郡の大倭忌寸果安の「果」の別表記とも言える。添上・下郡の端境の場所だったようである。

● 勤韓 寺僧の「勤韓」の出自を勤韓=山稜の端が牛の頭部のように二つに岐れて火のように長く延びている麓が取り囲まれて窪んでいるところと解釈すると、寺の南隣の場所と推定される。

そして、頻出の赤烏=平らな頂の麓で[火]ように延びる山稜が[烏]の形をしているところと読むと、背後の谷間を開拓したことを伝えているのである。僧位九階の上位の「大法師」を授かるほどの功績だったと記載している。

秋七月癸酉。仰阿波。讃岐。伊豫三國。令進造山埼橋料材。壬午。以正五位上當麻王爲中務大輔。從五位下藤原朝臣乙叡爲侍從。近衛中將正四位上紀朝臣船守爲兼中宮大夫。内厩頭。常陸守如故。從五位下文室眞人久賀麻呂爲左大舍人頭。從四位下石上朝臣家成爲内藏頭。從五位下穗積朝臣賀祐爲散位頭。外從五位下大村直池麻呂爲主計助。從五位下石川朝臣宿奈麻呂爲主税頭。從五位下大伴宿祢眞麻呂爲兵部大輔。從五位上笠王爲大膳大夫。從四位下石川朝臣垣守爲左京大夫。從五位下塩屋王爲若狹守。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂爲兼備前守。從五位下藤原朝臣末茂爲伊豫守。從五位上藤原朝臣菅繼爲大宰少貳。癸未。右少史正六位上高宮村主田使。及同眞木山等。賜姓春原連。

七月四日に阿波・讃岐・伊豫の三國に命じて「山埼橋」を造営する材料を進上させている。

十三日に當麻王()を中務大輔、藤原朝臣乙叡()を侍從、近衛中將の紀朝臣船守を内厩頭・常陸守のままで兼務で中宮大夫、文室眞人久賀麻呂を左大舍人頭、石上朝臣家成(宅嗣に併記)を内藏頭、穗積朝臣賀祐(賀祜。老人に併記)を散位頭、大村直池麻呂を主計助、石川朝臣宿奈麻呂を主税頭、大伴宿祢眞麻呂を兵部大輔、笠王を大膳大夫、石川朝臣垣守を左京大夫、塩屋王()を若狹守、右衛士督の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で備前守、藤原朝臣末茂()を伊豫守、藤原朝臣菅繼を大宰少貳に任じている。

十四日に右少史の「高宮村主田使」と同姓の「眞木山」等に「春原連」の氏姓を賜っている。

<山埼橋>
山埼橋

Wikipediaによると・・・、

山崎橋は、かつて山城国山崎–橋本間(現在の京都府乙訓郡大山崎町–八幡市橋本間)で淀川に架かっていた橋である。日本三古橋の筆頭として、山崎太郎と呼ばれる。ちなみに、日本三古橋の残りの2つは、瀬田の唐橋(勢多次郎)と宇治橋(宇治三郎)である。

・・・と記載されている。

勿論、瀬田橋宇治橋も既に求めた通り、Wikipediaの述べる場所ではない、と解釈して来た。そして今回の「山埼橋」も淀川に架かる橋ではない、であろう。

山埼橋山埼=[山]の形の山稜が延びた先にあるところと解釈される。図に示した通り、明瞭な「山」の地形が確認される。その先端部を流れる川(現在名松坂川)に架けられた橋であることが解る。「山」の表記は、山部王のように、明確に「山」の文字形を表しているのである。

称徳天皇の紀伊國行幸の途中で檀山陵(檀山=積み上げられた山稜が[山]の形に延びているところ)の脇を通って宇智郡(宇治郡)に向かったと記載されていた。この陵がある谷間を抜けて「山埼橋」を通過する行程だったわけである。重要な渡渉地点だったと思われる。

<高宮村主田使-眞木山>
● 高宮村主田使

書紀の天武天皇紀に桑原連人足が登場した時に大倭(和)國葛上郡を出自と推定した。それは神功皇后紀に葛城襲津彥が新羅遠征時に捕虜とした漢人を住まわせた地「桑原・佐糜・高宮・忍海」と記載されていることに基づいていた。

同様に今回の登場人物は、「高宮」の地を居処としていたと思われる。續紀の称徳天皇紀に秦勝古麻呂が秦忌寸の氏姓を賜っていたが、「高宮」の地は東側に隣接する場所と推定した。高宮=皺が寄ったような山稜(高)に囲まれた谷間の奥まで積み重なっている(宮)ところと解釈される。

田使=谷間にある山稜が真ん中を突き通すように延びている前に田が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。また、高宮村主眞木山眞木山=[山]の形に延びる山稜の前で山稜の端が寄り集まって窪んでいるところと解釈される。図に示した場所が出自と思われる。

賜った春原連の氏姓については、春原=山稜が[炎]のように延び出た麓が平らに広がっているところと解釈される。「高宮」の別名として申し分のない表記であろう。更に後に高村忌寸に改姓されている。古事記に記載された大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の黑田廬戸宮があったと推定した場所である。「葛城」は早期に漢人等によって開拓された地であった。

八月壬寅。叙近江國高嶋郡三尾神從五位下。戊午。左少史正六位上衣枳首廣浪等賜姓高篠連。乙丑。以外從五位下吉田連季元爲伊豆守。 

八月三日に近江國高嶋郡の三尾神(三尾埼に鎮座)に従五位下を授けている。十九日に左少史の「衣枳首廣浪」等に「高篠連」の氏姓を賜っている。二十六日に吉田連季元(斐太麻呂に併記)を伊豆守に任じている。

<衣枳首廣浪>
● 衣枳首廣浪

「衣枳首」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見である。関連する記述も見当たらず、賜姓の「高篠連」を調べると、古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の子、五百木之入日子命の後裔と分かった。

「五百木」は伊豫國の別名であると読み解いたが、通説では全く解読されておらず、情報が欠落しているのは、当然の成り行きなのである。この人物は、他の史書中には幾度となく記載されており、活躍していたようなのだが、書紀・續紀の正史の扱いは貧弱である。八坂と「伊豫」が近接していては、何かと具合が悪いからであろう。

名前に含まれる「枳」=「木+只」=「小高い地から山稜が延び出ている様」と解釈すると、衣枳=小高い地から山稜が延び出ている前に山稜の端の三角の地があるところと解釈される。廣浪=水辺で山稜がなだらかに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

別名の廣波=水辺で覆い被さるように広がっているところも適切なものであろう。賜姓された高篠連高篠=皺が寄ったような山稜が細かく岐れて延び出ているところであり、出自場所の地形を表していることが解る。

九月庚午。授命婦外正五位下刑部直虫名從五位下。癸酉。京中大雨。壞百姓廬舍。詔遣使東西京賑給之。庚辰。伊豫守從五位下藤原朝臣末茂。坐事左降日向介。乙未。太白晝見。

九月二日に命婦の刑部直虫名に従五位下を授けている。五日に京中に大雨が降って、人民の家屋が壊れたいる。詔されて、使を東西の京(平城京と難波京)に派遣して物を恵み与えている。十二日に伊豫守の藤原朝臣末茂()が罪にふれて日向介に左遷されている。二十七日に太白(金星)が昼に現れている。

閏九月戊申。河内國茨田郡堤。决一十五處。單功六萬四千餘人。給粮築之。乙夘。天皇幸右大臣田村第宴飮。授其第三男弟友從五位下。

閏九月十日に河内國茨田郡の堤防が十五ヶ所で決壊したので、延べ六万四千人余りの人夫に食糧を与えて築造させている。十七日に右大臣(藤原朝臣是公)の田村第(南家の邸宅。「仲麻呂」の邸と同じかどうかは不明)に行幸して宴会・飲酒し、三男の弟友()に従五位下を授けている。

冬十月庚午。勅。備前國兒嶋郡小豆嶋所放官牛。有損民産。宜遷長嶋。其小豆嶋者住民耕作之。壬申。任御装束司并前後次第司。爲幸長岡宮也。甲戌。賜陪從親王已下五位已上装束物各有差。戊子。越後國言。蒲原郡人三宅連笠雄麻呂。蓄稻十萬束。積而能施。寒者与衣。飢者与食。兼以修造道橋。通利艱險。積行經年。誠合擧用。授從八位上。癸巳。以從五位下石川朝臣公足爲主計頭。從五位下大伴宿祢永主爲右京亮。又任左右鎭京使。各五位二人。六位二人。以將幸長岡宮也。乙未。尚藏兼尚侍從三位阿倍朝臣古美奈薨。遣左大弁兼皇后宮大夫從三位佐伯宿祢今毛人。散位從五位上當麻眞人永繼。外從五位下松井連淨山等。監護喪事。古美奈中務大輔從五位上粳虫之女也。適内大臣贈從一位藤原朝臣良繼生女。即是皇后也。丁酉。勅曰。如聞。比來。京中盜賊稍多。掠物街路。放火人家。良由職司不能肅清。令彼凶徒生茲賊害。自今以後。宜作鄰保検察非違。一如令條。其遊食博戯之徒。不論蔭贖。决杖一百。放火刧略之類。不必拘法。懲以殺罸。勤加捉搦。遏絶姦宄。

十月三日に次のように勅されている・・・「備前國兒嶋郡小豆嶋」で放牧している官牛が、人民の生業を損なうことがある。「長嶋」に遷し、「小豆嶋」には人民を住まわせ耕作させよ・・・。五日、御装束司と前後の次第司を任命している。長岡宮に行幸するためである。七日に行幸に従う親王以下、五位以上に地位に応じて装束の物を授けている。

二十一日に越後國が以下のように言上している・・・蒲原郡の人である「三宅連笠雄麻呂」は稲十万束を蓄え、積み置いてよく人に施した。寒さに震えて居る者には衣服を与え、飢えている者には食物を与え、それに加えて道路や橋を修造して、険しい所を通行できるようにした。善行を重ねて何年も経ったが、まことに登用されるべきである・・・。そこで従八位上を授けている。

二十六日に石川朝臣公足(眞人に併記)を主計頭、大伴宿祢永主を右京亮、また、左右京鎮使として、各々五位二人、六位二人を任じている。長岡宮に行幸するためである。

二十八日に尚蔵・尚侍の阿倍朝臣古美奈(子美奈)が薨じている。左大弁・皇后大夫の佐伯宿祢今毛人、散位の當麻眞人永繼(永嗣。得足に併記)松井連淨山(戸淨山)等を派遣して葬儀を監督・護衛させている。「古美奈」は中務大輔の粳虫の娘で、内大臣の藤原朝臣良繼に嫁ぎ女子を産んだ。これが皇后(藤原朝臣乙牟漏。子美奈に併記)である。

三十日に次のように勅されている・・・聞くところによると、近頃京中に盗賊が次第に多くなり、街路で物を略奪し、人家に放火するということである。担当の役所では取り締まることができないために、このような凶徒が盗賊となって害を起こすことになる。今後はもっぱら令の規定にあるように、鄰組を作って間違ったことを検察するようにせよ。遊び暮らしている者や博奕打ちの連中は、蔭や贖のような特権を問題にせず、杖百回の罪とし、放火や追剥ぎ・恐喝のような罪は、必ずしも法律に拘らず死刑の罪で懲らしめよ。努力して捕らえ、悪事を根絶せよ・・・。

<備前國兒嶋郡小豆嶋-長嶋>
備前國兒嶋郡小豆嶋

備前國の郡名に関して、直近では称徳天皇紀に御野郡が登場していた。同紀に行われた藤野郡再編を経て、かなり縮小された「邑久郡」の西側の谷間である。

今回登場の郡名は、古の吉備兒嶋を想起させる文字列となっている。勿論、通説は”固有名詞”として疑うことはないようである。

何度も述べたようにかつての吉備國(備前國)は、美作國に改名されているのである。備前國は、北へ北へと開拓して統治領域を拡大して来たのである。ならば、新たな「兒嶋郡」は、その経緯の延長線上にある郡と推察される。

兒嶋郡兒嶋=頭部が窪んでいる[鳥]のように山稜が延びているところと解釈される。その地形を「御野郡」の北側に見出せる。古事記の兒嶋=島に成りかけのところと読み解いたが、これは古事記特有の文字使いと思われる。

小豆嶋小豆=高台が三角に広がっているところと解釈すると、図に示した場所を表していることが解る。「嶋」に「嶋」がくっ付いている様子である。光仁天皇紀の寶龜四(773)年十二月に備前國が木連理を献上したと記載されていた。正にその場所である。

開拓されて十年余り、耕地ではなく、放牧地として利用されていたのである。がしかし、長嶋(見たままの地形であろう)を放牧地として、「小豆嶋」はちゃんと耕地にせよ、と命じられている。耕地開拓は、決して楽な仕事ではないのである。

<三宅連笠雄麻呂>
● 三宅連笠雄麻呂

越後國蒲原郡は、文武天皇紀に越中國四郡を越後國に転属させたと記載され、調べると、その四郡は頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡」であったことが分かった。

国防体制強化策の一環として、越後國へのてこ入れがなされたものと推察した。「蒲原郡」の場所は、現在の奥畑川が流れる谷間の奥で広がった地域、「魚沼郡」の東隣、と推定された。

三宅連三宅=谷間に山稜が三つ並んで延びているところと解釈される。図に示した場所を表している。また、笠雄麻呂の頻出の「雄」=「厷+隹」=「羽を広げた鳥のような形」を表している。「笠」が付くのは、「笠」の地形に含まれているからであろう。

纏めると笠雄=[笠]のような形をした山稜に羽を広げた[鳥]の形をしているところと解釈される。急斜面の麓を開拓したことに加え、険しい山中での往来を可能したようである。




2024年8月15日木曜日

今皇帝:桓武天皇(6) 〔689〕

今皇帝:桓武天皇(6)


延暦三(西暦784年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

三年春正月己夘。宴五位已上。授无位小倉王。石浦王並從五位下。從四位下多治比眞人長野。紀朝臣家守並從四位上。正五位下紀朝臣鯖麻呂正五位上。從五位下大中臣朝臣諸魚從五位上。外從五位下和朝臣國守。安都宿祢眞足。正六位上文室眞人眞屋麻呂。藤原朝臣眞作。大伴宿祢永主。大原眞人越智麻呂。和朝臣三具足。石川朝臣魚麻呂。巨勢朝臣家成。大春日朝臣諸公。安倍朝臣廣津麻呂。坂本朝臣大足。田口朝臣清麻呂。笠朝臣小宗。三方宿祢廣名。紀朝臣兄原。佐伯宿祢老並從五位下。正六位上下道朝臣長人。丹比宿祢稻長。船連稻船。秦忌寸長足並外從五位下。宴訖賜祿各有差。辛巳。授從五位下文室眞人子老從五位上。正六位上平群朝臣牛養從五位下。又授女孺无位藤原朝臣宇都都古。大原眞人明並從五位下。丁亥。授外從五位下伊勢朝臣水通從五位下。戊子。宴五位已上於内裏。饗百官主典已上於朝堂。賜祿各有差。」授右大臣正三位藤原朝臣是公從二位。正五位下大伴宿祢不破麻呂正五位上。從五位下紀朝臣白麻呂。健部朝臣人上並從五位上。以正三位藤原朝臣小黒麻呂。從三位藤原朝臣種繼。並爲中納言。

正月七日に五位以上の官人と宴を催している。小倉王()・石浦王()に從五位下、多治比眞人長野紀朝臣家守に從四位上、紀朝臣鯖麻呂に正五位上、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)に從五位上、和朝臣國守(和史。和連諸乙に併記)安都宿祢眞足(阿刀宿祢。子老に併記)・文室眞人眞屋麻呂(与伎に併記)・藤原朝臣眞作()・「大伴宿祢永主」・大原眞人越智麻呂(年繼に併記)・「和朝臣三具足」・石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)・巨勢朝臣家成(宮人に併記)・大春日朝臣諸公(五百世に併記)・「安倍朝臣廣津麻呂」・坂本朝臣大足(繩麻呂に併記)・田口朝臣清麻呂(祖人に併記)・笠朝臣小宗(雄宗。始に併記)・三方宿祢廣名(御方宿祢。大野に併記)・紀朝臣兄原(眞子に併記)・佐伯宿祢老に從五位下、下道朝臣長人(色夫多に併記)・丹比宿祢稻長(丹比新家連稻長。丹比宿祢を賜姓)・船連稻船(庭足に併記)・「秦忌寸長足」に外從五位下を授けている。宴を催してそれぞれに禄を賜っている。

九日に文室眞人子老(於保に併記)に従五位上、平群朝臣牛養(久度神に併記)に従五位下、女孺の藤原朝臣宇都都古(夜志芳古に併記)・大原眞人明(年繼に併記)に従五位下を授けている。十五日に伊勢朝臣水通(諸人に併記)に従五位下を授けている。十六日に五位以上の官人と内裏で宴会を行い、百官の主典以上を朝堂でもてなし、それぞれに禄を賜っている。

<大伴宿祢永主>
また、右大臣の藤原朝臣是公(黒麻呂)に従二位、大伴宿祢不破麻呂に正五位上、紀朝臣白麻呂(本に併記)健部朝臣人上(建部公人上)に従五位上を授け、藤原朝臣小黒麻呂藤原朝臣種繼(藥子に併記)を中納言に任じている。

● 大伴宿祢永主

中納言家持の子、旅人の孫と知られている。それなりの才覚があれば、順調に昇進したであろうが、「家持」が事件に関わり、それに連坐して配流されてしまったようである。

後に復位されるのであるが、その時点まで生き永らえていたのか、委細は不明である。「家持」の子孫が歴史の表舞台に登場することはないように思われる。

永主=山稜が長く真っ直ぐに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。續紀中では、右京亮に任じられた後、延暦四(785)年八月に配流された経緯が記載されている。

<和朝臣三具足-家麻呂>
● 和朝臣三具足

ほんの少し前に和史家吉が「和朝臣」の氏姓で外従五位下から内位に従五位下を叙位されていた。高野新笠(高野朝臣)の係累が一気に日の目を見ることになった様相である。

今回の人物は、勿論、その一族であり「武助」の谷間を出自としていたと思われる。名前の三具足=三段に並んだ[足]のような山稜が谷間にあるところと解釈される。図に示した場所として求めることができる。

また、別の解釈としては、具足=兜とすると、[兜]のような山稜が三つ並んでいるところとなる。こちらの方が、分り易いかもしれない。

後になるが、和朝臣家麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「國守」の子と知られている。聖武天皇の従弟になる。出自を父親の近隣と図に示した場所と推定した。渡来系の人物として、初めて公卿に列し、最終従三位・中納言となったと伝えられている。

<安倍朝臣廣津麻呂>
● 安倍朝臣廣津麻呂

少々先読みをしてみると、この後に七度ほど登場され、翌年には「皇后宮大進從五位下安倍朝臣廣津麻呂爲兼常陸大掾」、最後は「從五位上安倍朝臣廣津麻呂爲式部少輔。春宮亮越前介如故」と記載されている。

藤原朝臣乙牟漏が皇后となり、その子の安殿親王が皇太子となる時代の流れに寄り添っていることが分かる。この人物は、「乙牟漏」の近隣を出自としていたのではなかろうか。

廣津=水辺で[筆]の形のような地が広がっているところと解釈すると、現在の大川と落合川の合流地点が出自と推定される。幼馴染の気心の知れた間柄だった、のであろう。

それにしても、多くの人材が登場して来た地域であったが、すっぽりと空いていた中州、漸くにして登場である。「乙牟漏」の出自場所、「安倍朝臣」(元は布勢朝臣)の地であったことが確認されたように思われる。

<秦忌寸長足>
● 秦忌寸長足

「秦忌寸」に関しては、無姓の人々に賜姓したりと、やや錯綜として来ているが、本家では伊波太氣(石竹)が幾度か登場している。爵位は外従五位下であり、高位には届いていない様子である。

今回の人物も系譜不詳であるが、本家の地で出自場所を求めてみよう。現地名は田川郡赤村赤周辺である。

長足=谷間が長く延びた[足]のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「石竹」等の既出の人物の合間に位置していることが解る。

地味に空白の地が埋まって行く様子である。この後に豊前介に任官されているが、昇進もなく、以後の消息は不明である。

二月辛巳。授女孺无位百濟王眞徳從五位下。己丑。從三位大伴宿祢家持爲持兼征東將軍。從五位上文室眞人与企爲副將軍。外從五位下入間宿祢廣成。外從五位下阿倍猿嶋臣墨繩。並爲軍監

二月<辛巳?>、女孺の百濟王眞徳(②-)に従五位下を授けている。<己丑?>、大伴宿祢家持を兼務で持節征東將軍、文室眞人与企(与伎)を副將軍、入間宿祢廣成(物部直廣成)・阿倍猿嶋朝臣墨繩(日下部淨人に併記)を軍監に任じている。

三月甲戌。宴五位已上。令文人賦曲水。賜祿有差。乙亥。授外正六位上丸子連石虫外從五位下。以獻軍粮也。丙申。先是。伊豫國守吉備朝臣泉。与同僚不恊。頻被告訴。朝庭遣使勘問。辭泏不敬。不肯承伏。是日下勅曰。伊豫國守從四位下吉備朝臣泉。政跡無聞。犯状有着。稽之國典。容寘恒科。而父故右大臣。往學盈歸。播風弘道。遂登端揆。式翼皇猷。然則伊父美志。猶不可忘。其子愆尤。何無矜恕。宜宥泉辜令思後善。但解見任以懲前惡。乙酉。以外從五位下筑紫史廣嶋爲近衛將監。播磨大掾如故。外從五位下下道朝臣長人爲大和介。從四位上多治比眞人長野爲伊勢守。從五位下藤原朝臣繩主爲介。正五位上紀朝臣鯖麻呂爲尾張守。從五位上藤原朝臣黒麻呂爲遠江守。從五位上文室眞人与企爲相摸守。近衛將監從五位下佐伯宿祢老爲兼介。從五位下三國眞人廣見爲能登守。大外記外從五位下朝原忌寸道永爲兼越後介。外從五位下上毛野公薩摩爲但馬介。中宮大夫内藏頭從四位上紀朝臣家守爲兼備前守。從五位下文室眞人於保爲備後守。正五位下百濟王武鏡爲周防守。從五位下石川朝臣淨繼爲讃岐介。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂爲兼伊豫守。從五位下多治比眞人乙安爲肥後守。丁亥。叙從三位氣太神正三位。

三月三日に五位以上と宴会を行い、文人に曲水の詩を作らせ、それぞれに禄を賜っている。四日に「丸子連石虫」に外従五位下を授けている。兵糧を献上したからである。<甲申(十三日)?>これより先に伊豫國守である吉備朝臣泉(眞備に併記)は、同僚の官人と協調せず、何度も告訴されていた。そこで朝廷が使を派遣して勘問したところ、不敬に当たる言葉があり、承服しようとはしなかった。

この日、次のような勅を下している・・・伊豫國守の吉備朝臣泉については、その政治上の功績に見るべきものがなく。犯した罪は明白である。これを國の掟に照らし合わせると、定められた罪科に処すべきである。しかし、父である故右大臣(眞備)は唐に渡り多くのものを学び帰って、風俗を改良し、道徳を広め、ついに大臣の地位にまでのぼり、天子の政治を助けた。そういうことであるから、まさに父の立派な志を忘れてはならないのであり、その子のあやまちはどうして憐れんで許さないことがあろうか。「泉」の罪を許して将来正しい道を歩むことを考えさせるべきである。但し、現在の任は解いて、以前の悪事を懲らしめることにせよ・・・。

十四日に、筑紫史廣嶋を播磨大掾のままで近衛將監、下道朝臣長人(色夫多に併記)を大和介、多治比眞人長野を伊勢守、藤原朝臣繩主()を介、紀朝臣鯖麻呂を尾張守、藤原朝臣黒麻呂()を遠江守、文室眞人与企(与伎)を相摸守、近衛將監の佐伯宿祢老を兼務で介、三國眞人廣見(千國に併記)を能登守、大外記の朝原忌寸道永(箕造に併記)を兼務で越後介、上毛野公薩摩(大川に併記)を但馬介、中宮大夫・内藏頭の紀朝臣家守を兼務で備前守、文室眞人於保(長谷眞人)を備後守、百濟王武鏡(①-)を周防守、石川朝臣淨繼を讃岐介、右衛士督の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を兼務で伊豫守、多治比眞人乙安を肥後守に任じている。

<丸子連石虫・丸子部勝麻呂>
十六日に氣太神(能登國氣多神)に正三位を授けている。

● 丸子連石虫

「丸子連」は、聖武天皇紀に陸奥國小田郡で金が発掘されて大騒ぎとなった時に登場した氏姓であった。宮麻呂が私的に得度したのを公的に認めて法名と僧位を授けたと記載されていた。

その後に登場することもなく、ここに至って漸く叙爵された人物が現れたようである。金の採掘が継続されていたのか、詳細が語られることもなく、小田郡は鎮まりかえっている様子である。

石蟲=山麓の小高い地の傍らに三つに細かく岐れた山稜が延び出ているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。この後に登場することもなくであるが、「丸子連」そのものも二度とお目に掛かることはないようである。

直後に陸奥國小田郡大領の丸子部勝麻呂が蝦夷征討に従軍したことから外従五位下を叙爵されている。部=近隣勝=盛り上がっている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。上記と同様、その場限りの登場である。

夏四月壬寅。授正六位上上毛野公我人外從五位下。」以外從五位下忌部宿祢人上爲神祇大祐。從五位上海上眞人三狩爲右中辨。從五位下藤原朝臣是人爲中務少輔。從五位下石川朝臣魚麻呂爲左大舍人助。從五位上藤原朝臣菅繼爲治部大輔。從五位上大中臣朝臣諸魚爲兵部大輔。少納言如故。從四位下淡海眞人三船爲刑部卿。大學頭因幡守如故。從五位上橘朝臣綿裳爲大判事。參議正四位下神王爲兼大藏卿。從五位下安倍朝臣弟當爲少輔。從五位下紀朝臣繼成爲大膳亮。從五位上宗形王爲大炊頭。從五位下山口王爲鍛冶正。從五位下川邊朝臣淨長爲主油正。外從五位下丹比宿祢眞淨爲内掃部正。正四位下藤原朝臣鷹取爲左京大夫。從五位下田口朝臣清麻呂爲右京亮。外從五位下上毛野公我人爲衛門大尉。從五位下大原眞人越智麻呂爲隼人正。外從五位下津連眞道爲右衛士大尉。近江大掾如故。從五位下紀朝臣眞人爲攝津亮。從五位下和朝臣三具足爲上総介。外從五位下飛鳥戸造弟見爲飛騨守。從五位下路眞人玉守爲上野介。從五位下文室眞人眞老爲長門守。從五位下正月王爲土左守。從五位下大春日朝臣諸公爲防人正。從五位下多治比眞人年持爲日向守。丁未。以從五位下巨勢朝臣家成爲大監物。從五位下吉田連古麻呂爲内藥正。侍醫如故。外從五位下出雲臣嶋成爲侍醫。從五位上藤原朝臣眞葛爲右大舍人頭。外從五位下丹比宿祢稻長爲内藏助。從五位下笠朝臣雄宗爲中衛少將。從五位下藤原朝臣眞友爲越前介。辛亥。大僧都弘耀法師上表辞任。詔許之。因施几杖。己未。參議中宮大夫從四位上紀朝臣家守卒。家守大納言兼中務卿正三位麻呂之孫。大宰大貳正四位下男人之子也。庚午。以從五位下紀朝臣作良爲右少弁。外從五位下船連稻船爲主計助。從五位下安倍朝臣眞黒麻呂爲宮内少輔。從五位下藤原朝臣内麻呂爲右衛士佐。從五位下紀朝臣豊庭爲甲斐守。正五位上巨勢朝臣苗麻呂爲信濃守。從五位下三嶋眞人大湯坐爲因幡介。從五位下御方宿祢廣名爲筑後守。

四月二日に上毛野公我人(大川に併記)に外従五位下を授けている。この日、忌部宿祢人上(止美に併記)を神祇大祐、海上眞人三狩(三狩王)を右中辨、藤原朝臣是人を中務少輔、石川朝臣魚麻呂(淨繼に併記)を左大舍人助、藤原朝臣菅繼を治部大輔、大中臣朝臣諸魚(子老に併記)を少納言のままで兵部大輔、淡海眞人三船を大學頭・因幡守のままで刑部卿、橘朝臣綿裳を大判事、參議の神王()を兼務で大藏卿、安倍朝臣弟當(詳細はこちら参照)を少輔、紀朝臣繼成(大純に併記)を大膳亮、宗形王を大炊頭、山口王()を鍛冶正、川邊朝臣淨長(東人に併記)を主油正、丹比宿祢眞淨(眞嗣に併記)を内掃部正、藤原朝臣鷹取()を左京大夫、田口朝臣清麻呂(祖人に併記)を右京亮、上毛野公我人(大川に併記)を衛門大尉、大原眞人越智麻呂(年繼に併記)を隼人正、津連眞道(眞麻呂に併記)を近江大掾のままで右衛士大尉、紀朝臣眞人(大宅に併記)を攝津亮、和朝臣三具足を上総介、飛鳥戸造弟見を飛騨守、路眞人玉守(鷹養に併記)を上野介、文室眞人眞老(長嶋王に併記)を長門守、正月王(牟都岐王)を土左守、大春日朝臣諸公(五百世に併記)を防人正、多治比眞人年持(歳主に併記)を日向守に任じている。

七日に巨勢朝臣家成(宮人に併記)を大監物、吉田連古麻呂(斐太麻呂に併記)を侍醫のままで内藥正、出雲臣嶋成を侍醫、藤原朝臣眞葛()を右大舍人頭、丹比宿祢稻長(丹比新家連)を内藏助、笠朝臣雄宗(始に併記)を中衛少將、藤原朝臣眞友()を越前介に任じている。

十一日に大僧都の弘耀法師は上表文を奉って辞任しようとし、詔して、これを許し肘付きと杖を与えている。十九日に参議・中宮大夫の「紀朝臣家守」が亡くなっている。「家守」は大納言兼中務卿の「麻呂」の孫で、大宰大貳の「男人」の子であった(こちら参照)。

三十日に紀朝臣作良を右少弁、船連稻船(庭足に併記)を主計助、安倍朝臣眞黒麻呂(阿倍朝臣)を宮内少輔、藤原朝臣内麻呂()を右衛士佐、紀朝臣豊庭(豊賣に併記)を甲斐守、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を信濃守、三嶋眞人大湯坐(大湯坐王)を因幡介、御方宿祢廣名(三方宿祢。大野に併記)を筑後守に任じている。

五月辛未朔。勅曰。比年。國師遷替。一同俗官。送故迎新。殊多勞擾。教導未宣。弘益有虧。永言其弊。理須改革。自今以後。宜擇有智有行爲衆推仰者補之。其秩滿之期。六年爲限。如有身死及心性麁惡爲民所苦者。隨即与替。庚辰。左京大夫正四位下藤原朝臣鷹取卒。癸未。攝津職言。今月七日夘時。蝦蟇二万許。長可四分。其色黒斑。從難波市南道。南行池列可三町。隨道南行。入四天王寺内。至於午時。皆悉散去。丙戌。勅遣中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。從三位藤原朝臣種繼。左大弁從三位佐伯宿祢今毛人。參議近衛中將正四位上紀朝臣船守。參議神祗伯從四位上大中臣朝臣子老。右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂。衛門督從四位上佐伯宿祢久良麻呂。陰陽助外從五位下船連田口等於山背國。相乙訓郡長岡村之地。爲遷都也。己丑。授正六位上藤原朝臣乙叡從五位下。甲午。攝津職史生正八位下武生連佐比乎貢白燕一。賜爵二級并當國正税五百束。」散位頭從四位下百濟王利善卒。

五月一日に次のように勅されている・・・この頃、國師の転任・交替は、世俗の官職と同じことで、前任者を送り後任者を迎える折に特に手数と煩いが多い。朕の教導が広く行き渡らず、益を弘めるのに不十分なところがある。永くその弊害の続くことを思うと、道理として改革すべきである。今後は優れた知識を持ち修行も積んで、多くの僧侶が尊び仰ぐ者を選んで任命せよ。任期は六年を限度とするように。もし死亡したり、性格が悪く人民の重荷となるような者であれば、その時はすぐに交替させよ・・・。

十日に左京大夫の藤原朝臣鷹取()が亡くなっている。十三日に攝津職が以下のように言上している・・・今月七日の卯の時(午前六時頃)、長さ四分ほどで色が黒くまだらな蝦蟇が二万匹ほどが、難波の市の南の道の南にあるたまり水から、約三町ばかり連なって道に従って南行し、四天王寺の境内に入り、午の刻(午前十二時頃)になって全て散り散りになった・・・<下記参照>。

十六日に勅して、中納言の藤原朝臣小黒麻呂藤原朝臣種繼(藥子に併記)、左大弁の佐伯宿祢今毛人、参議・近衛中将の紀朝臣船守、参議・神祇伯の大中臣朝臣子老、右衛士督の坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)、衛門督の佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)、陰陽助の船連田口(腰佩に併記)等を山背國に遣わして、「乙訓郡長岡村」の地を視察させている。都を遷すためである(長岡宮参照)。

十九日に藤原朝臣乙叡()に従五位下を授けている。二十四日に攝津職史生の「武生連佐比乎」が「白燕」一羽を貢上したので、位二級とその國の正税五百束を賜っている。散位頭の百濟王利善(①-)が亡くなっている。

<武生連佐比乎-朔>
● 武生連佐比乎

攝津職史生と記載れているが、河内國古市郡を居処とする武生連一族を出自とする人物と推測される。元は「馬毘登」の氏姓であったが称徳天皇紀に賜姓されていた。

直近では送渤海客使の鳥守が登場し、紆余曲折があったが、任務を果たして帰還し、その後に外従五位下を叙爵されていた。

既出の文字列である佐比乎=左手のような山稜が並んでいる地で谷間が息を吐くように延び広がっているところと解釈される。図に示したように少々山稜を広く大きく捉えた表記と思われる。お褒めを貰ったのだが、その後の官人としての活躍は不明のようである。

後の延暦七(788)年二月に
<白燕>
安殿親王の乳母の一人である武生連朔が従五位下を叙爵されて登場する。前記で安殿親王の名前の由来に関して若干言及した。

あらためて、「朔」の出自場所を求めると、朔=屰+月=山稜の端が向かい合うように延びている様と解釈され、図に示した辺りと推定される。

白燕

久々に”白〇”献上物語となっている。勿論、”白い燕”を献上したのではなく、攝津國にある燕の形をした山稜が二つ並んでいることを言上したのであろう。

その地形を図に示した場所に見出せる。難波宮(難波長柄豊埼宮)の東側に当たる地域であり、王等の居処があったと推定したが、まだまだ未開の地だったのであろう。幾度かの”白燕”献上が記載されて来たが(こちら参照)、珍しいことには違いない。

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さて、気になるのが以下の記述・・・癸未。攝津職言。今月七日夘時。蝦蟇二万許。長可四分。其色黒斑。從難波市南道。南行池列可三町。隨道南行。入四天王寺内。至於午時。皆悉散去・・・一般的な読み下しは、上記のようだが・・・である。

「蝦蟇」に関しては、称徳天皇紀に肥後國八代郡の「蝦蟇」が隊列を組んで、何処かに消えてしまったと記載されていた。これも八代郡の地形を詳細に物語る記述と解読した(こちらこちら参照)。やはり、今回も同様な記述かと思われる。

<蝦蟇が四天王寺へ①>
夘時蛇行する川の前で山稜の端が小高くなっている
蝦蟇二万許杵突くように延びている耕地の前で蝦蟇と二匹の萬が並んでいる
長可四分長い谷間が二つに分れ
其色黒斑箕のような山稜がある渦巻くように小高くなった地の麓に炎のように延び出た山稜と玉のようの山稜が交差している
從難波市南道難波に集まる南道に従うと
南行池列可三町水辺をうねりくねって南に行くと谷間が列をなして三つの平らなところがある
隨道南行道に従って南に行くと
入四天王寺内四天王寺境内に入る
至於午時蛇行する川の前で旗のような山稜が交差する地に至る

・・・と解釈される。

今回は多くの蝦蟇の地形ではなく、蝦蟇二万(萬)=二匹の萬(蠍)が並んでいると解釈する。長可四分其色黒斑は、更に詳細に現在の二先山の地形を表記しているのである。列可三町は、難波三津之浦の別表記であろう。四天王寺を通り抜けて、至於午時は、時刻を表しているように思わせて、きっちりと地形を表している。

<蝦蟇が四天王寺へ②>
上図では省略しているが、最後の皆悉散去は、この一文を締める相応しい、と言うか難解な表記なのだが、読み解くと・・・、

「皆」=「比+自」=「並び揃う様」、「悉」=「釆+心」=「真ん中に動物の爪のような形の山稜がある様」、「散」=「㪔+肉」=「引き千切る様」、「去」=「大+𠙴」=「平らに窪んだ様」

・・・と解釈される。纏めると皆悉散去=並び揃っている動物の爪のような山稜が谷間の真ん中で引き千切られて平らに窪んだ地になっているところと読み解ける。

古事記に記載された神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が東行を思い立った時訪れた「豐國宇沙」の地形を表していることが解る(こちらこちら参照)。通常、「宇沙」は現在の大分県宇佐と解釈されているが、明らかに”豊前”と”豊後”の領域に齟齬が生じている。黙して語らぬ古代史学である。

間違いなく、万葉歌にも地形象形表記が用いられているのであろう・・・となれば、それを紐解けば多くの地形情報が得られるような気になるが、後日としよう。

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