2023年12月9日土曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(5) 〔656〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(5)


寶龜二(西暦771年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

秋七月乙未。故從四位上守部王之男笠王。何鹿王。爲奈王。正三位三原王之男山口王。長津王。船王之男葦田王及孫他田王。津守王。豊浦王。宮子王去天平寳字八年賜姓三長眞人。配丹後國。從四位下三嶋王之女河邊王。葛王配伊豆國。至是皆復属籍。丁未。以正五位下高賀茂朝臣諸雄爲員外少納言。從五位下依智王爲右大舍人頭。從五位下石城王爲縫殿頭。從四位上大津連大浦爲陰陽頭。從五位下藤原朝臣是人爲大學助。從五位下長谷眞人於保爲散位頭。從五位下甲賀王爲諸陵頭。外從五位下土師宿祢和麻呂爲助。正五位上石川朝臣名足爲民部大輔。從五位下佐伯宿祢久良麻呂爲少輔。從五位下百濟王武鏡爲主計頭。正四位下藤原朝臣田麻呂爲兵部卿。參河守如故。正五位下豊野眞人奄智爲大輔。從五位上大原眞人今城爲少輔。正五位上淡海眞人三船爲刑部大輔。從五位下吉備朝臣眞事爲大藏少輔。從五位下紀朝臣犬養爲宮内少輔。大納言正三位文室眞人大市爲兼彈正尹。從五位下石川朝臣諸足爲鑄錢次官。從五位下參河王爲和泉守。從四位下百濟王理伯爲伊勢守。從五位下安倍朝臣淨目爲遠江介。從五位下多治比眞人乙兄爲武藏員外介。從五位下笠朝臣道引爲陸奥介。外從五位下六人部連廣道爲越後介。左少弁從五位下美和眞人土生爲兼但馬員外介。從五位上船井王爲因幡員外介。從五位下大伴宿祢不破麻呂爲美作介。從五位下百濟王利善爲讃岐員外介。從五位下文室眞人忍坂麻呂爲伊豫守。從五位下石川朝臣眞永爲大宰少貳。外從五位下土師宿祢位爲肥前守。從五位上紀朝臣鯖麻呂爲豊後守。

七月十一日に既に死没している守部王の男子である笠王・「何鹿王・爲奈王」、三原王(御原王)の男子である「山口王・長津王」、船王の男子である「葦田王」及び孫の「他田王」・津守王・「豊浦王・宮子王」は、去る天平寶字八(764)年に「三長眞人」の氏姓を賜い、丹後國に配流された。また三嶋王の女子である河邊女王(川邊)・葛女王(加豆良)は伊豆國に配流された。ここに至って、皆元の所属していた皇族の籍に戻している。

二十三日に高賀茂朝臣諸雄(田守に併記)を員外少納言、依智王()を右大舍人頭、石城王()を縫殿頭、大津連大浦を陰陽頭、藤原朝臣是人を大學助、長谷眞人於保を散位頭、甲賀王()を諸陵頭、土師宿祢和麻呂(祖麻呂に併記)を助、石川朝臣名足を民部大輔、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を少輔、百濟王武鏡()を主計頭、參河守のままで藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を兵部卿、豊野眞人奄智(奄智王)を大輔、大原眞人今城(今木)を少輔、淡海眞人三船を刑部大輔、吉備朝臣眞事を大藏少輔、紀朝臣犬養(馬主に併記)を宮内少輔、大納言の文室眞人大市を兼務で彈正尹、石川朝臣諸足を鑄錢次官、參河王(三川王・三河王)を和泉守、百濟王理伯()を伊勢守、安倍朝臣淨目(小路に併記)を遠江介、多治比眞人乙兄(乙安)を武藏員外介、笠朝臣道引(三助に併記)を陸奥介、六人部連廣道(鯖麻呂に併記)を越後介、左少弁の美和眞人土生(壬生王)を兼務で但馬員外介、船井王を因幡員外介、大伴宿祢不破麻呂を美作介、百濟王利善()を讃岐員外介、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を伊豫守、石川朝臣眞永を大宰少貳、土師宿祢位を肥前守、紀朝臣鯖麻呂を豊後守に任じている。

● 山口王・長津王・葦田王・他田王・豊浦王・宮子王・大伴王・長岡王・采女王
 
<山口王・長津王・蓑田王・他田王・豊浦王>
<宮子王・大伴王・長岡王・采女王>

淳仁天皇(舎人親王の子、大炊王)の廃帝に連座して配流された王・女王達の復権が記載されている。この直後にも和氣王関連の記述が載せられていて、それも併せて図に纏めた。それにしても復権が初見である王等の多いことに驚かされる。作図の都合上、順不同となっている。

1.船王系列では、葦田王蓑田=山稜に取り囲まれた麓に広がる平らに区分けされたところ、その子等の他田王他田=くねって曲がる谷間の傍らにある平らに区分けされたところ豊浦王豐浦=段々になった高台の麓の水辺で平らに広がっているところ宮子王宮子=奥まで積み重なって広がった谷間から山稜が生え出ているところと解釈すると、各々の出自場所を図に示したように求めることができる。

葦田王の後裔達が草壁皇子の南側の谷間に蔓延った様子が伺える。即ち、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が坐した長谷朝倉宮の南側であり、勿論、記紀・續紀を通じて空白の地域であった。豊浦王の場所は、現在バイパス道路が通じて些か曖昧になってように思われる。

2.御(三)原王系列では、和氣王・細川王・弓削女王が登場していたが、今回山口王山口=山の形に延びた山稜が谷間の口にあるところ長津王長津=水辺で筆のような山稜が長く延びているところがいたと記載している。各々の名前が表す地形を求めると、とは言え、山稜の端でかなり高低差が少ないのだが、何とかそれらしき場所を見出せる。

また、ずっと後の延暦三[784]年正月になって小倉王小倉=谷間の囲われた地が三角形になっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。別名に雄倉王があったと知られているが、「御原王」の高台を雄=厷+隹=羽を広げた鳥のような様と見做した名称であろう。

「和氣王」の後裔達が登場している。大伴王大伴=平らな頂の山稜を谷間が二つに分けているところ長岡王長岡=[岡]の形の山稜が長く延びているところ采女王采女=谷間が割れ目のようになっているところと解釈される。それぞれの出自の場所を図に示しように求めることができる。草壁皇子の子、輕皇子(後の文武天皇)の周辺を、すっかり覆い尽くしたようである。

尚、賜った三長眞人三長=三段になって長く延びている様と解釈すると、舎人親王の子孫が蔓延った山稜を表しているようである。後に許されて皇籍に戻るのであるが、もっと適切な別名を賜って臣籍降下したと伝えている。

● 何鹿王・爲奈王・三直王・庸取王・三宅王・畝火女王・石部女王

<何鹿王・爲奈王>
<三直王・庸取王・三宅王・畝火女王・石部女王
3.守部王系列では、既に笠王が登場していたが、弟等の何鹿王及び爲奈王の二名が記載されている。

「何鹿(イカルガ)」と訓するようであるが、さて、どんな地形を表しているのであろうか?・・・。

「笠王」の近辺で探索すると、”笠”の柄の傍らの谷間を「何」の文字形で表現したのではなかろうか。何鹿=[何]の形の谷間が麓にあるところと解釈される。

「爲」=「爪+象」と分解される。佐爲王に用いられた文字であり、「象のように大きな山稜の傍に手のような山稜がある様」と解釈した。すると爲奈=平たくなだらかで象のように大きな高台の傍らに手のように延びている山稜があるところと読み解ける。

「笠王」もそうであったが、”舎人”の地形を見事に捉えた表記であることが解る。「守部王」あるいは彼等兄弟の名付け親は、かなりの”漢字通”だったのかもしれない。

4.三使王系列では、既出の人物は存在せず、全て初見である。三直王三直=三段になった山稜が真っ直ぐに延びているところ庸取王庸取=[耳]の形をした山稜の先が真っ直ぐに突き通すように延びているところ三宅王三宅=三段になった山稜が長く広がって延びているところ畝火女王畝火=[炎]のように延びる山稜が畝のようになっているところ石部女王石部=山麓で小高くなった地の傍らのところと解釈される。各々の出自は図に示した場所と推定される。

下記の九月の記事で三嶋王の男子である林王及び上記山邊眞人を賜り、臣籍降下させたと記載されている。彼等の居処に基づく名称として、何ら差支えのないものであろう。

八月丙辰。以從五位下多治比眞人乙兄爲遠江介。從五位下安倍朝臣淨目爲武藏員外介。丁巳。設高野天皇忌齋於西大寺。辛酉。毀外從五位下丹比宿祢乙女位記。初乙女誣告忍坂女王。縣犬養姉女等厭魅乘輿。至是姉女罪雪。故毀乙女位記。癸酉。授正六位上足羽臣眞橋從五位下。正六位上高田公刀自女外從五位下。己夘。初令所司鑄僧綱及大安。藥師。東大。興福。新藥師。元興。法隆。弘福。四天王。崇福。法華。西隆等寺印。各頒本寺。

八月三日に多治比眞人乙兄(乙安)を遠江介、安倍朝臣淨目(小路に併記)を武藏員外介に任じている<交替、理由?>。四日に高野天皇の一周忌の齋会を西大寺で催している。八日に丹比宿祢乙女の位記(叙位の辞令)を破毀している。初め「乙女」は、忍坂女王縣犬養姉女(八重に併記)等が天皇をまじないで呪い殺そうとしたと詐りの告訴をした。ところがここに至って、「姉女」の罪が晴れたことによる。

二十日に「足羽臣眞橋」に従五位下、高田公刀自女(三嶋部百足に併記)に外従五位下を授けている。二十六日に初めて関係の役所に命じて、僧綱及び大安藥師東大興福新藥師元興法隆弘福四天王崇福法華(隅院近隣)西隆などの寺々の印を鋳造させて、各々の寺に頒布している。

<足羽臣眞橋-黒葛>
● 足羽臣眞橋

「足羽臣」は初見であろう。「足羽」の文字列は、越前國足羽郡に用いられていた。多分、その地を居処とする一族を表していると思われる。現地名の北九州市門司区伊川・柄杓田の端境と推定した。

この地には、益田連繩手の居処でもあったようで、この人物の初見は孝謙天皇紀だが、称徳天皇紀に内位の従五位下の叙位及び連姓を賜ったと記載されていた。

足羽郡は、当時としてはかなり広範囲な領域を占めていて、他にも文武天皇紀に赤烏を献上した宍人臣國持が「繩手」の東側を出自としていたと推定した。古事記が記す”高志前”であり、古から開かれた地であることに違いなかろう。

名前の既出の文字列である眞橋=小高く曲がっている山稜の端が寄せ集められたような窪んだところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。標高差が十分にあり、久々にすっきりとした場所の確定ができたように思われる。

後に女孺の足羽臣黒葛が、委細は不明ながら本位の外従五位上に復されている。外位であることから「眞橋」とは系列が異なっていると思われるが、黒葛=閉じ込められたような地の谷間に[炎]の形の山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

九月甲申朔。授從五位下笠朝臣道引從五位上。丙申。和氣王男女大伴王。長岡王。名草王。山階王。采女王並復属籍。從四位下三嶋王之男林王。從四位下三使王之男女三直王。庸取王。三宅王。畝火女王。石部女王。從四位上守部王之男笠王。何鹿王。猪名王。賜姓山邊眞人。己亥。以從五位下當麻眞人永繼爲右少弁。土左守如故。從五位下石川朝臣望足爲大監物。從四位下安倍朝臣息道爲内藏頭。外從五位下賀祢公小津麻呂爲大學員外助。外從五位下林宿祢雜物爲主計助。外從五位下日置造道形爲主税助。從五位下相摸宿祢伊波爲鼓吹正。從五位下賀茂朝臣大川爲木工助。從五位下田部宿祢男足爲典藥員外助。外從五位下村國連子老爲園池正。正五位下小野朝臣小贄爲攝津大夫。從五位上榎井朝臣子祖爲造宮大輔。正五位下息長丹生眞人大國爲少輔。近衛少將從五位下藤原朝臣種繼爲兼山背守。從四位下桑原王爲上総守。從五位下巨勢朝臣馬主爲介。從五位下石川朝臣豊人爲下総介。從五位下少雀部朝臣道奧爲若狹守。從五位下和氣宿祢清麻呂爲播磨員外介。從五位下息長眞人道足爲長門守。從五位下伊刀王爲紀伊守。圖書助從五位下健部朝臣人上爲兼伊豫介。正五位上大伴宿祢益立爲大宰少貳。從五位上佐伯宿祢助爲肥後守。辛丑。復犬部内麻呂姉女等本姓縣犬養宿祢。乙巳。罷左右平準署。

九月一日に笠朝臣道引(三助に併記)に従五位上を授けている。十三日に和氣王の男子・女子である大伴王・長岡王・名草王・山階王・采女王を元の皇族の籍に復し、三嶋王の男子である林王三使王の男子・女子である三直王・庸取王・三宅王・畝火女王・石部女王守部王の男子である笠王何鹿王・猪名王(爲奈王)に「山邊眞人」の氏姓を賜っている。

十六日に土左守のままで當麻眞人永繼(永嗣。得足に併記)を右少弁、石川朝臣望足を大監物、安倍朝臣息道を内藏頭、賀祢公小津麻呂(雄津麻呂)を大學員外助、林宿祢雜物を主計助、日置造道形(通形)を主税助、相摸宿祢伊波を鼓吹正、賀茂朝臣大川を木工助、田部宿祢男足を典藥員外助、村國連子老(子虫に併記)を園池正、小野朝臣小贄を攝津大夫、榎井朝臣子祖(小祖父)を造宮大輔、息長丹生眞人大國(國嶋に併記)を少輔、近衛少將の藤原朝臣種繼(藥子に併記)を兼務で山背守、桑原王を上総守、巨勢朝臣馬主を介、石川朝臣豊人を下総介、雀部朝臣道奧(陸奥)を若狹守、和氣宿祢清麻呂を播磨員外介、息長眞人道足(廣庭に併記)を長門守、伊刀王(道守王に併記)を紀伊守、圖書助の健部朝臣人上(建部公人上)を兼務で伊豫介、大伴宿祢益立を大宰少貳、佐伯宿祢助を肥後守に任じている。

十八日に犬部内麻呂・姉女等を本姓の縣犬養宿祢に復している。二十二日に左右の平準署を廃止している。

冬十月丁巳。授正六位上藤原朝臣仲男麻呂從五位下。丙寅。徴渤海國使青綬大夫壹萬福已下卌人。令會賀正。戊辰。詔充越前國從四位下勳六等劍神食封廿戸。田二町。己巳。復无位紀朝臣伊保本位正五位下。紀朝臣牛養本位從五位下。己夘。太政官奏。武藏國雖属山道。兼承海道。公使繁多。祗供難堪。其東山驛路。從上野國新田驛。達下野國足利驛。此便道也。而枉從上野國邑樂郡。經五ケ驛。到武藏國。事畢去日。又取同道。向下野國。今東海道者。從相模國夷參驛。達下総國。其間四驛。往還便近。而去此就彼損害極多。臣等商量。改東山道。属東海道。公私得所。人馬有息。奏可。」授正六位上英保首代作外從五位下。以搆西大寺兜率天堂也。

十月五日に「藤原朝臣仲男麻呂」に従五位下を授けている。十四日に渤海使の使節・青綬大夫の壹萬福以下四十人を召して。賀正の儀に出席させることにしている。十六日に次のように詔されている・・・越前國の勲六等の「劍神」に食封二十戸と田二町を与える・・・。十七日に紀朝臣伊保を本位の正五位下、紀朝臣牛養を本位の従五位下に復している。

二十七日に太政官が以下のように奏上している・・・武藏國は東山道に属しているが、兼ねて東海道にも通じている。そのため公使の往来が繁多であって、それを丁重に世話する労にとても堪えることができない。その東山道の驛路は、「上野國新田驛」より「下野國足利驛」に達しているが、これは便利な道である。しかし現在、道を枉げて上野國邑樂郡より五つ驛を経て武藏國に至り、用事が終わって退去する日には、また同じ道を取って下野國へ向かっている。---≪続≫---

今の東海道は、「相摸國夷參驛」より下総國に通じているが、間に四驛があり、往来するのに便利で近い。しかし、この道を止めて、あの道を取るとすると、損害が多くなる。考えるに武藏國を東山道を改めて東海道に属させるならば、公私共に都合が良くなり、人も馬も休息ができるであろう・・・。この奏上は許可されている。

この日、「英保首代作」に外従五位下を授けている。西大寺の兜率天堂(弥勒金堂)を建てたことによる。

<藤原朝臣仲男麻呂-友子>
● 藤原朝臣仲男麻呂

列記とした「藤原朝臣」一族なのであろうが、續紀中では後に「中男麻呂」の名称で登場されるが、関連する情報は欠落している状況のようである。多分、藤原四家には属さない系統の出自と思われる。

「不比等」の後裔であって、”非四家”の人物としては、吉日・殿刀自が思い起こされる。彼女等の出自場所を眺めると、図に示した近隣にそれらしきところが見出せる。

仲男麻呂仲男=谷間を突き通す[男]のようなところと読むと、「殿刀自」の西側に当たる場所となる。「藤原朝臣」一族としての広がりの西端となろう。いや、それを示すためにご登場されたのかもしれない。中男麻呂とすれば、”谷間”が省略された名称となろう。

後に藤原朝臣友子が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同じく系譜不詳であり、名前が示す地形から出自の場所を求めることになるが、「藤原朝臣」と名付けられる場所には違いない。友子=山稜が二つ揃って並んでいる地から生え出たところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。二度目の登場は見られないようである。

<越前國劍神>
越前國

些か広大な越前國で探索することになるが、せめて郡名を・・・と嘆いても致し方なく、「劍」の地形を求めることにする。

名称に「劍」を用いた例は極めて限られていて、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の墓所である劒池之中岡上に含まれている。但し、「剣」は新字体、「劍」は旧字体、「劔」は異体字、「劒」はその略体とのことである。

要するに「劔」の形をした”池”、ここでは”山稜”を表していると思われる。それを図に示した場所に見出すことができる。多くの山稜が延びている地域ではあるが、極めて特徴的な地形として判別できる。少し前に登場した敦賀直嶋麻呂の居処の東側の山稜の端に鎮座していた神と推測される。

検索すると越前二の宮(一の宮は氣比神宮)の劔神社のサイトに飛び、「現在所蔵する国宝の梵鐘は、第四十九代光仁天皇の御奉納といわれています」と記載されている。”食封二十戸・田二町”と共に施入されたのかもしれない。續紀に記載されているとの文言は見当たらないようである。

<武藏國:改東山道属東海道>
武藏國:改東山道属東海道

「東山道」に属する「武藏國」は、「東海道」にも含まれていて、むしろ後者に属させた方が何かと便利のようだ、と奏上している。

あらためて両道の経路を眺めてみよう。「東山道」は「甲斐國」を抜けて、上野國邑樂郡辺りを通って「下野國・武藏國」方面に向かうことになる。

右図に示した通り、「武藏國」は古事記の无邪志國が表すように、元来は曲がりくねる川が流れる谷間が主たる場所であった。續紀では橘樹郡・久良郡・入間郡と記載されている。「下野國」の西隣に並び、「東山道」の一員として扱われて来たのである。

ところが時を経て、書紀に記載された武藏國の名称が表す通り、徐々に下流域と発展し(高麗郡・秩父郡)、國の中心が南に移って行ったことが伺える。更に決定的なのが称徳天皇紀に「足立郡」の「丈部直不破麻呂」に「武藏宿祢」の賜姓及び「武藏國國造」を任じたことであろう(こちら参照)。

そんな背景から上記本文に記載された内容は、実に素直に理解できるものと思われる。「下野國」の西隣の谷間まで向かえばよかったのが、大きく南下す羽目になったのである。そして、来た道を戻って「下野國・上野國」へと通じることになる。

一方の「東海道」は、「相摸國」から「駿河國・上総國」を経て「下総國」に届く経路であり、その「駿河國」と「上総國」の間に「武藏國」を配置すれば、正に無駄のない行程となることが分かる。

上野國新田驛・下野國足利驛・相摸國夷參驛
 
<上野國新田驛-下野國足利驛-相摸國夷參驛>

登場した驛名からそれらの場所を求めた結果を上図に示した。「相摸國夷參驛」の「夷」=「大+弓」=「平らな頂の山稜が弓のように曲がって延びている様」と解釈した。夷參=弓のように曲がって延びている平らな頂の山稜が三つ寄り集まっているところと読み解ける。図に示した場所にあったのではなかろうか。

「下野國足利驛」の足利=切り分けられた山稜が足のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。古仁染思・虫名の居処の近隣と推定される。馴染みのある名称、”足利”の地形象形表記である。「下野國」に関連する貴重な記述であろう。

「上野國新田驛」の新田=山稜が切り分けられた麓にある平らに整えられたところと解釈される。図に示した場所、現在は高速道路となっているが、に驛が設けられていたと思われる。

<英保首代作>
● 英保首代作

「英保首」一族は、唐突の出現であり、この後に幾度か登場されるようなのだが、素性に関する情報は全く欠落している。致し方なく他を調べると、どうやら播磨國を出自としていたことが分かった。

例によって名称が示す地形を頼りに求めることになるが、果たして如何となるか?…含まれる文字列は極めて特徴的な地形を表していることが、せめても救いであろう。

「英」=「艸+央」と分解されるが、通常に用いられる意味とする解釈も結構難しい文字の一つである。既に備前國英多郡に用いられた文字であり、「英」=「花房」の形を象形しているとして解釈した。幾度か登場の「保」=「人+呆」=「谷間のある山稜の端が丸く小高くなっている様」と解釈した。

纏めると英保=花房のように延びている山稜の端に丸く小高い地があるところと読み解ける。その地形を播磨國賀茂郡の北側に見出せる。別名の郡建てがされていたようにも思われるが、定かではない。名前の代作=谷間にある杙のような山稜の傍らに谷間がギザギザとしているところと解釈される。出自の場所は図に示した辺りと推定される。「首」姓は、地形に基づくものであろう。