2023年11月30日木曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(4) 〔655〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(4)


寶龜二(西暦771年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

三月戊午朔。大宰府献白雉。辛酉。遠江國磐田郡主帳无位若湯坐部龍麻呂。蓁原郡主帳无位赤染造長濱。城飼郡主帳无位玉作部廣公。桧前舍人部諸國。讃岐國三野郡人丸部臣豊捄。各以私物養窮民廿人已上。賜爵人二級。壬戌。令天下諸國祭疫神。戊辰。停隼人帶劔。庚午。詔以大納言正三位大中臣朝臣清麻呂爲右大臣。授從二位。正三位藤原朝臣良繼爲内臣。正三位文室眞人大市。藤原朝臣魚名並爲大納言。正三位石川朝臣豊成。從三位藤原朝臣繩麻呂爲中納言。四品諱爲中務卿。從三位石上朝臣宅嗣爲式部卿。正四位下藤原朝臣百川〈本名雄田麻呂〉爲大宰帥。右大弁内豎大輔右兵衛督越前守並如故。壬申。勅。内臣職掌。官位。祿賜。職分。雜物者。宜皆同大納言。但食封者賜一千戸。丙戌。復和氣公清麻呂本位從五位下。

三月一日に大宰府が「白雉」(閏三月十八日の記事参照)を献上している。四日に遠江國磐田郡の主帳(地方の第四等官)の「若湯坐部龍麻呂」、蓁原郡の主帳の「赤染造長濱」、「城飼郡」の主帳の「玉作部廣公・桧前舎人部諸國」、「讃岐國三野郡」の「人丸部臣豊捄」は、各々私物をもって貧窮の民二十人以上を養った。そこで位を二階与えている。五日に天下の諸國に疫病の神を祭らせている。十一日に隼人が剣を帯びることを止めさせている。

十三日に詔されて、大納言の大中臣朝臣清麻呂(東人に併記)に従二位を授けて右大臣、藤原朝臣良繼(宿奈麻呂)を”内臣”(本文下記参照)、文室眞人大市藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を大納言、石川朝臣豊成藤原朝臣繩麻呂を中納言、諱(山部親王)を中務卿、石上朝臣宅嗣を式部卿、右大弁・内豎大輔・右兵衛督・越前守をそのままとして藤原朝臣百川(本名雄田麻呂)を大宰帥に任じている。

十五日に以下のように勅されている・・・”内臣”の職掌・官位・俸禄・職分の雑物は、みな大納言と同じにせよ。但し、食封は一千戸を賜う・・・。二十九日に和氣公清麻呂を本位の従五位下に復している。

<若湯坐部龍麻呂>
● 若湯坐部龍麻呂

「遠江國磐田郡」については、既に幾つかの郡と共にそれらの配置を求めることができた(こちら参照)。現地名では中間市の東端に当たる場所である。

この郡に関する記述は、麁玉河の氾濫で「敷智郡・長下郡・石田(磐)郡」に甚大な被害があったと伝えたことが唯一で、ここを居処とする人物などは全く登場していなかった。

後の時代では國府が置かれたようであるが、些か續紀が語る雰囲気とは異なるように感じられる。それは兎も角として、貴重な人材である本人物の出自場所を求めてみよう。

若湯坐部に含まれる「若湯坐」の氏名は、飛鳥近傍に住まう若湯坐連家主等に用いられた文字列である。とても同祖の一族とは思えない状況であろう。勿論、「若湯坐」の地形を表しているものと思われる。若湯坐=多くの山稜が延び出ている地で水が飛び散るような川が流れる谷間が二つ並んでいるところと解釈すると、図に示した場所にその地形を見出せる。

名前の龍麻呂=[龍]の形に山稜が畝って延びているところと解釈して、「若湯坐」の南側の近傍()に、その地形を確認することができる。少々地形変形が見られるが、辛うじて当時を偲ぶことが叶いそうである。

<赤染造長濱>
● 赤染造長濱

上記と同様にして既に蓁原郡の郡域を求めた。現在の中間市の北部に位置し、水巻町の一部を含む境と推定した(こちら参照)。この郡については、聖武天皇紀に「遠江國蓁原郡」の君子部眞鹽女が三つ子を産んだと記載されていた。

「君子部」の地は、”高尾山”(国土地理院に記載されているが、現在は消滅)の北~西麓辺りと思われる。その他にも幾人かの登場人物が記載され、他の郡とは大きく異なっている(こちら参照)。

今回登場の人物名の赤染造に含まれる「赤染」も既出の文字列である。赤染=平らな頂の谷間に[火]のような山稜が延びている地の傍らに水辺で[く]の字形に曲がっているところと解釈した。書紀の天武天皇紀に初見であるが、續紀の聖武天皇紀に子孫が常世連の氏姓を賜ったと記載されていた。上記の「若生坐」と同じような背景となっている。

高尾山の南方にある図に示した場所に、その地形を確認できる。長濱=長く続く浜があるところと読むと、多分、現在の中間北小学校辺りが出自と推定される。地形変形が見られるが、何とか当時を偲ぶことができたように思われる。

<玉作部廣公・桧前舎人部諸國>
● 玉作部廣公・桧前舎人部諸國

「城飼郡」は初見であるが、上記したように既にその郡域を推定した。城飼=狭い谷間の前に平らに整えられた地が延び広がっているところと解釈したが、地形変形が少なく、明瞭にその場所を特定することが可能であった(こちら参照)。

蓁原郡・長上郡の東側に当たる場所である。尚、この郡の北側は、隋書俀國伝の使者がまるで中国のようだと驚いた秦王國の場所と推定した。未だ日本の史書には登場しないが、その地を含めない領域と推測される。

玉作部玉作=玉のような山稜の傍らにある谷間がギザギザとしているところと解釈すると。図に示した谷間を表していると思われる。その「玉」の一つが廣公=谷間にある小高い地が広がっているところが出自と推定される。

桧前舎人部の既出の桧(檜)前舎人=山稜が出会う地(檜)が谷間に延びた山稜の端が盛り上がって広がっている地(舎人)の前にあるところと解釈される。図に示した場所にその地形を見出せる。諸國=耕地が交差するように延びている取り囲まれたところと解釈すると、出自の場所を求めることができる。

<讃岐國三野郡:人丸部臣豊捄>
讃岐國三野郡

「讃岐國」については、既に那賀郡等の幾つかの郡が記載されて来たが、直近では「香川郡」の住人に賜姓したと記載されていた(こちら参照)。

残り僅かな地域なのであるが、果たして今回登場の三野郡が示す三野=野が三つ並んでいるところの地形を満足するであろうか?…勿論、そのズバリの地形が見出せたようである。

「香川郡」の北側、讃岐國の東北の隅に当たる場所、現地名では北九州市若松区原町・深町辺りと推定される。西側は「那賀郡」が延びているとした配置である。

● 人丸部臣豊捄 人丸部臣人丸=[人]の形の谷間の背に丸く盛り上がった地があるところと読み解ける。その近辺()であることを示している。珍しく「臣」姓が付加されている。名前の豊捄の「捄」=「手+求」と分解する。「求」=「引き寄せる様」を表すと解説される。

地形象形的には、「手のような山稜が引き寄せられている様」を解釈する。纏めると豐捄=段差のある高台が手のような山稜を引き寄せているようなところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

閏三月戊子朔。授正五位下佐伯宿祢三野從四位下。以從五位下紀朝臣廣純爲左少弁。從五位下大中臣朝臣繼麻呂爲勅旨少輔。從四位下神王爲左大舍人頭。從五位下布勢王爲内匠頭。外從五位下吉田連斐太麻呂爲内藥正。從五位下廣川王爲内礼正。從四位上藤原朝臣家依爲式部大輔。從五位下多治比眞人豊濱爲大學助。從五位下巨勢朝臣馬主爲雅樂頭。從五位上船井王爲玄蕃頭。從五位下石川朝臣眞永爲民部少輔。從五位下阿倍朝臣許智爲主税頭。正五位上石川朝臣名足爲兵部大輔。從五位下紀朝臣古佐美爲少輔。從四位下藤原朝臣濱足爲刑部卿。從五位下多治比眞人名負爲少輔。正五位下豊野眞人奄智爲大判事。從五位下伊刀王爲木工頭。外從五位下日置造道形爲助。從五位下三關王爲正親正。從五位上佐伯宿祢麻毛流爲右京亮。從五位下文室眞人眞老爲造宮少輔。從五位下淨原眞人淨眞爲攝津亮。從五位下阿倍朝臣常嶋爲河内介。左衛士督正四位下藤原朝臣田麻呂爲兼參河守。正五位下石川朝臣垣守爲安房守。式部大輔從四位上藤原朝臣家依爲兼近江守。從五位下宍人朝臣繼麻呂爲員外介。中衛少將正五位下藤原朝臣小黒麻呂爲兼美濃守。中衛中將從四位上佐伯宿祢伊多智爲兼下野守。從四位下佐伯宿祢美濃爲陸奥守兼鎭守將軍。從五位下巨勢朝臣池長爲越前介。正五位上石上朝臣息繼爲丹波守。從五位下田中王爲丹後守。外衛大將正四位上藤原朝臣繼繩爲兼但馬守。近衛將監從五位下紀朝臣船守爲兼介。衛門佐從五位下粟田朝臣鷹守爲兼因幡守。正五位下奈癸王爲伯耆守。内廐頭正五位下藤原朝臣雄依爲兼備前守。正四位下坂上大忌寸苅田麻呂爲中衛中將兼安藝守。近衛少將從五位下藤原朝臣種繼爲兼紀伊守。從五位下當麻眞人永嗣爲土左守。己丑。授无位橘宿祢御笠從五位下。甲午。授正六位上藤原朝臣鷹取從五位下。壬寅。始免陸奥國司戸内雜徭。是日。僧綱請置威儀法師六員。許之。甲辰。授從五位下神服宿祢毛人女從五位上。乙巳。壹伎嶋獻白雉。授守外從五位下田部直息麻呂外從五位上。賜絁十疋。綿廿屯。布卌端。稻一千束。目從七位下笠朝臣猪養從七位上。賞賜半之。除當嶋田租三分之一。己酉。授外從五位下伊豆國造伊豆直乎美奈從五位下。乙夘。无位清原王。乙訓王。並復本位從五位下。无位安倍朝臣息道從四位下。无位多治比眞人木人。大原眞人今城並從五位上。 

閏三月一日に佐伯宿祢三野(今毛人に併記)に從四位下を授けている。紀朝臣廣純を左少弁、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)を勅旨少輔、神王()を左大舍人頭、布勢王(布施王)を内匠頭、吉田連斐太麻呂を内藥正、廣川王(廣河王。)を内礼正、藤原朝臣家依を式部大輔、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を大學助、巨勢朝臣馬主を雅樂頭、船井王を玄蕃頭、石川朝臣眞永を民部少輔、阿倍朝臣許智(許知。駿河に併記)を主税頭、石川朝臣名足を兵部大輔、紀朝臣古佐美を少輔、藤原朝臣濱足を刑部卿、多治比眞人名負を少輔、豊野眞人奄智(奄智王)を大判事、伊刀王(道守王に併記)を木工頭、日置造道形(通形)を助、三關王()を正親正、佐伯宿祢麻毛流(眞守)を右京亮、文室眞人眞老(長嶋王に併記)を造宮少輔、淨原眞人淨眞(大原眞人都良麻呂)を攝津亮、阿倍朝臣常嶋を河内介、左衛士督の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を兼務で參河守、石川朝臣垣守を安房守、式部大輔の藤原朝臣家依を兼務で近江守、宍人朝臣繼麻呂(倭麻呂に併記)を員外介、中衛少將の藤原朝臣小黒麻呂を兼務で美濃守、中衛中將の佐伯宿祢伊多智(治)を兼務で下野守、佐伯宿祢美濃を兼務で陸奥守兼鎭守將軍、巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)を越前介、石上朝臣息繼(奥繼。宅嗣に併記)を丹波守、田中王()を丹後守、外衛大將の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を兼務で但馬守、近衛將監の紀朝臣船守を兼務で介、衛門佐の粟田朝臣鷹守を兼務で因幡守、奈癸王(奈貴王。石津王に併記)を伯耆守、内廐頭の藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)を兼務で備前守、坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を中衛中將兼安藝守、近衛少將の藤原朝臣種繼(藥子に併記)を兼務で紀伊守、當麻眞人永嗣(得足に併記)を土左守に任じている。

二日に橘宿祢御笠に從五位下(復位か?)を、七日に藤原朝臣鷹取()に從五位下を授けている。十五日に初めて陸奥國司の戸内の人にかかる雑徭を免除している。この日、僧綱が威儀の法師(法会などの時に僧の作法を指示する役)六員を置くことを申請し、許可されている。十七日に神服宿祢毛人女(神服連)に従五位上を授けている。

十八日に壹伎嶋が「白雉」を献じている。壹伎守の田部直息麻呂に外従五位上を授け、絁十疋・真綿二十屯・麻布四十端・稲一千束を与えている。壹伎目の笠朝臣猪養(兄の賀古に併記)に従七位上を授け、褒美は守の半分としている。この嶋の田租の三分の一を免除している。

二十に日に「伊豆國造伊豆直乎美奈」に従五位下を授けている。二十八日に清原王(長嶋王に併記)乙訓王をそれぞれ本位の従五位下に復している。安倍朝臣息道に従四位下、多治比眞人木人大原眞人今城(今木)に従五位上を授けている。

<壹伎嶋:白雉>
壹伎嶋:白雉

前月に大宰府が献上した「白雉」に関連する記述であろう。少し前の大宰府管内の肥後國の白雀献上の記述に類すると思われる。

壹伎嶋は、勿論大宰府が管轄する地であり、大宰府を通して献上したことを述べている。それにしても壹伎嶋からの献上は、全くの初見である。既に開拓し尽されていた筈であり・・・ではなく、おそらく現在の壱岐嶋の南部へ向かう進展だったのではなかろうか。

上記の肥後國と同様に、地形判別が極めて難しい地域である。いや、溶岩台地であって、更に困難度が高いように思われる。そんな状況の中で、図に示した場所を白雉=雉のような尾の長い鳥が二つ並んでくっ付いているところの場所と推定した。現在の壱岐氏勝本町・芦辺町・郷ノ浦町の端境の場所である。

郷ノ浦町以南の地は、今の天皇家の『天神族』に先んじて、中国江南地方から渡来した一族が蔓延っていたと推測した。長い年月を経て、徐々に相互の交流が進捗したのであろう。また、その端境へと開拓が行われたものと思われる。

<伊豆直乎美奈・日下部直安提麻呂>
● 伊豆直乎美奈

「伊豆直」は、聖武天皇紀に「賜外從七位下日下部直益人伊豆國造伊豆直姓」と記載された記事に見られる氏姓である(こちら参照)。

配流先の伊豆三嶋の北側、伊豆嶋のほぼ中央に位置する場所が居処と推定した。現地名は北九州市小倉北区藍島である。

あらためて見ると、「伊豆直」の氏姓と言うよりは「伊豆國造伊豆直」の氏姓(複姓)のような感じである。多分、今回登場の「乎美奈」は采女であろう。

乎美奈=口を開いて呼気を吐き出すような地に谷間にある平らな高台が広がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。この「乎」の地は、「日下部直」の「日(炎)」の地形と見做したところである。

”炎”が消えて”呼気”となったようである。「日下部」の表記も各地で用いられていたことを伝えている。「(伊豆國造)伊豆直」の氏姓を持つ人物は、この後に續紀に登場されることはないようである。

直後に日下部直安提麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。伊豆直を賜姓された「乎美奈」とは同祖なのだが系列が異なっていたのであろう。近隣を居処としていたのには違いないとして、出自の場所を求めると、図に示したように推定される。安提=谷間で嫋やかに曲がる山稜が匙のような形をしているところと読み解ける。

夏四月壬午。復无位紀朝臣犬養本位從五位下。又正六位上大伴宿祢村上。紀朝臣勝雄並授從五位下。

<紀朝臣勝雄>
四月二十六日に紀朝臣犬養(父親の馬主に併記)を本位の従五位下に復している。また大伴宿祢村上(形見に併記)・「紀朝臣勝雄」に従五位下を授けている。

● 紀朝臣勝雄

系譜が知られていて、鯖麻呂の子であったようである。鯖麻呂は「麻路」の子であり、記紀・續紀における紀朝臣の奔流に属する人物であったことが分かる(こちら参照)。

この背景からすると、この人物の出自場所を鯖麻呂の近隣として求めてみよう。既出の文字列である勝雄=鳥が羽を広げたような地が盛り上がっているところと解釈すると、鯖麻呂の南隣の地にその地形を見出せる。

「勝雄」の子に「南麻呂」がいたようであるが、續紀に登場されることはない。いずれにしても、この系列についてはかなり情報豊かなように思われる。各々の昇進は少なく、鯖麻呂の正五位上を越えることはなかったようである。

五月戊子。外從五位下柴原勝乙妹女。勳十等柴原勝淨足賜姓宿祢。並止其身。己亥。授從五位上佐伯宿祢國益正五位下。正六位上賀祢公雄津麻呂外從五位下。」從四位上阿倍朝臣毛人爲伊勢守。從五位下大中臣朝臣子老爲介。從五位下藤原朝臣鷲取爲員外介。從四位下田中朝臣多太麻呂爲美濃守。從五位下紀朝臣廣純爲介。從五位下藤原朝臣長道爲員外介。正五位下藤原朝臣小黒麻呂爲上野守。右衛士督從四位上藤原朝臣楓麻呂爲兼讃岐守。從三位藤原朝臣藏下麻呂爲大宰帥。壬寅。授正六位上小野朝臣小野虫賣從五位下。甲辰。復无位若狹遠敷朝臣長女本位正五位上。戊申。近衛勳六等藥師寺奴百足賜姓三嶋部。己酉。右京人白原連三成獻蚕産成字。賜若狹國稻五百束。甲寅。始設田原天皇八月九日忌齋於川原寺。

五月三日に「柴原勝乙妹女」(栗原勝乙女)と勲十等の「柴原勝淨足」に宿祢姓を与えている(こちら参照)。但し、これは各人限りとする。

十四日に佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)に正五位下、「賀祢公雄津麻呂」に外從五位下を授けている。また、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を伊勢守、大中臣朝臣子老を介、藤原朝臣鷲取()を員外介、田中朝臣多太麻呂を美濃守、紀朝臣廣純を介、藤原朝臣長道を員外介、藤原朝臣小黒麻呂を上野守、右衛士督の藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を兼務で讃岐守、藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を大宰帥に任じている。

十七日に「小野朝臣小野虫賣」に従五位下を授けている。十九日に若狭遠敷朝臣長女を本位の正五位上に復している。二十三日に近衛勲六等の「藥師寺奴百足」に「三嶋部」の氏姓を賜っている。

二十四日に右京の人である「白原連三成」が蚕の産んだ卵が字の形に成ったものを献上している。若狹國の稲五百束を与えている。二十九日に初めて田原天皇(施基皇子)の八月九日の忌日の斎会を川原寺(弘福寺)で催している。

六月乙丑。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。」參議治部卿從四位上多治比眞人土作卒。壬午。渤海國使青綬大夫壹萬福等三百廿五人。駕船十七隻。着出羽國賊地野代湊。於常陸國安置供給。

六月十日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉っている。日照りのためである。また、参議・治部卿の多治比眞人土作(家主に併記)が亡くなっている。二十七日に渤海國の使節で青綬大夫の壹萬福等三百二十五人が船十七隻に乗って、「出羽國賊地野代湊」に着いた。そこで彼等を常陸國に安置して食料などを給わっている。

<賀祢公雄津麻呂>
● 賀祢公雄津麻呂

「賀祢公」は、勿論記紀・續紀を通じて初見の氏姓であろう。おそらく渡来系の人物で和風の名称を名乗っていたと推測される。

関連する情報は限られているが、越後國魚沼郡に「賀祢郷」の地名があったと伝えられている(こちら参照)。

「魚沼郡」は、文武天皇紀に越中國四郡を越後國に転属したという記述があり、その四郡の中の一郡であった(四郡配置を参照)。これらの情報に基づいて賀祢公雄津麻呂の出自場所を求めることにする。

頻出の文字列である賀祢(禰)=谷間を押し拡げるように高台が広がっているところと解釈される。既出だが、些か珍しい組合せの名前である雄津=羽を広げた鳥のような山稜の麓に水辺で筆のように延びている地があるところと読み解ける。後に小津麻呂の名前で幾度か登場されるが、小津=水辺で三角に尖った筆のような山稜が延びているところとなり、適切な別名表記と思われる。

現在は高速道路が通じているが、地形変形の少ない地域であり、名称が示す地形を満足する場所が容易に見出すことができる。図では省略しているが、聖武天皇紀に記載された蝦夷討伐隊の遠征行程上の男勝村があった近辺と推測される。

<小野朝臣小野虫賣-滋野>
● 小野朝臣小野虫賣

「小野朝臣」一族も途切れることなく登用されているのだが、高位者の出現が極めて限られて来たようである。直近では小贄・竹良、また女孺として初見であった田刀自が登場していた。

前記したように「小野」の谷間一つ一つに人物が配置されて行く様相であろう。ある意味、至極当然のことなのだが、その谷間の地形を名前に反映することが難しくなって来ているようにも感じられる。

今回登場の小野虫賣の「小野」は「小野朝臣」の発祥の地形を表しているものと思われる。即ち、山稜の端の”三角州”を捩った表記なのである(図参照)。「小」=「三角の形」であり、決して”小さい”の意味で用いられているのではない。

その「小野」に地に虫(蟲)=山稜が細かく三つに岐れて延びている様の地形を確認することができる。正に「小野朝臣」を代表するような場所であるが、續紀中この後に登場されることはないようである。

後に小野朝臣滋野遣唐使判官として帰朝報告を行って登場する。調べると竹良の息子と知られているようである。滋野=水辺で野に細かい山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その後に従五位下に叙爵され、豊前守を任じられたと記載されている。

<藥師寺奴百足(三嶋部)・高田公刀自女>
● 藥師寺奴百足

藥師寺の奴婢であるが、『仲麻呂の乱』で何らかの武勲を成したのであろうか、勲六等を授けられている。そのお陰で今回の賜姓となったのであろう。

勿論、身分に拘わらず、名前は地形象形表記の筈であり、(平城)藥師寺近隣の地に出自の場所を求めることになるものと思われる。

賜った三嶋部三嶋=三つの鳥のような山稜が並んでいるところであり、図に示した山稜の端の地形を表してるように思われる。「藥師寺」を取り囲むような配置となっている。

すっかりご無沙汰になっているが、一時は頻出した百足=丸く小高く連なっている山稜に足のような地があるところと解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。残念ながら二度と登場されることはなく、その後は不明のようである。

直ぐ後に高田公刀自女が外従五位下を叙爵されて登場する。「高田公」は記紀・續紀を通じて初見の氏姓であろう。『壬申の乱』の功臣である高田首新家等、また霊龜を献上した左京人の高田首久比麻呂が登場していたが、彼等は「首」姓である。また、「新家」の孫が事件を起こして封戸を没収されたとも記されていた。

一方、霊龜献上の「久比麻呂」への褒賞として爵位と物が与えられ、續紀中に記載されてはいないが、一族が蔓延っていたのであろう。今回の人物がそれに連なる出自を持つとして図に示したように、刀自=山稜が刀のように延びた端を居処とする女と解釈される。「公」は「首」の地形から離れて、公=八+ム=山稜に挟まれた谷間に小高い地がある様を採用したのではなかろうか。

<白原連三成>
● 白原連三成

「白原連」の氏姓は、少し前に白鳥村主馬人・白鳥椋人廣等に賜姓したと記載されていた。併記することも可能であったが、図が混み入るので、別途掲載することにした。

現地名の行橋市二塚であり、古事記の倭建命の白鳥御陵の北側に当たる地域に蔓延った一族と推定した。多くの渡来系の人々が開拓した地である。

名前の三成=平らに整えられた地が三つ並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。「白鳥御陵」を含めて三つの小高く盛り上がった地を表していると思われる。

續紀を検索すると、この後に「白原連」の記載はヒットすることはなく、登場した「馬人・椋人廣」及び「三成」の三名を主とする一族だったようである。

<出羽國賊地:野代湊>
出羽國賊地:野代湊

渤海國からの使者が着岸した場所が「野代湊」であったと記載されている。かつて、着岸した場所は佐利翼津(現地名:北九州市門司区大里東一辺りと推定)とされていて、おそらく今回の大船団が着岸するのが困難だったのであろう。

いずれにせよ淡海(現在の関門海峡)に面する場所には違いなかろう・・・がしかし、上記本文の解釈が怪しくなって来るのである。既出の出羽國は、淡海に面せず、峠を越えて辿り着く場所である。

わざわざ「賊地」と付加されていることから、どうやら通常の「出羽國」とするのではなく、「出羽國」=「生え出た羽のような山稜に取り囲まれたところ」の地形象形表記と思われる。すると出羽國賊地=生え出た羽のような山稜に取り囲まれた地に賊(蝦夷)が住まっているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。現地名は北九州市門司区清滝辺りである。

野代湊野代=杙のような山稜が延びている谷間の前で野が広がっているところと読み解ける。「湊」は、多分、図に示した辺りと推定される。現在の門司港に該当する場所である。通説では、現在の「能代」とされ、出羽國に属する場所となるが、”賊地”の解釈に難渋されているようである。勿論、例によって意味不明なら誤記とするか、及び/又は、黙殺である。

上記で越後國魚沼郡の賀祢公雄津麻呂が外従五位下を叙爵されて登場していた。「野代湊」から内陸に向かうと「佐渡國」を経て「越後國」に入ることになる(こちら参照)。渤海使の安置先である「常陸國」までへの行程において、何らかの寄与があったのではなかろうか(こちら参照)。

尚、「湊」を用いたのは、湊=氵+奏=水辺で山稜が寄り集まっている様であり、上図から分かるようにその地形を示している。単に「ミナト」と読んでは、野代湊が表す場所を突止めることは叶わないのである。