天宗高紹天皇:光仁天皇(3)
寶龜二年(西暦771年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
二年春正月己未朔。御大極殿受朝。庚申。授正四位上藤原朝臣家子從三位。外從五位上上毛野佐位朝臣老刀自。正六位下國造淨成女並從五位下。壬戌。自天平神護元年以來。僧尼度縁。一切用道鏡印。印之。至是復用治部省印。辛未。停天下諸國吉祥悔過。癸酉。從五位上橘朝臣麻都我。從五位下藤原朝臣蔭並授正五位下。甲戌。饗主典已上於朝堂。賜祿有差。辛巳。立他戸親王爲皇太子。詔曰。明神御大八洲養徳根子天皇詔旨勅命〈乎〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。隨法〈尓〉皇后御子他戸親王立爲皇太子。故此状悟〈弖〉百官人等仕奉詔天皇御命諸聞食〈止〉宣。故是以大赦天下罪人。又一二人等冠位上賜治賜。又官人等〈尓〉大御手物賜。高年窮乏孝義人等養給治賜〈牟止〉勅天皇命〈乎〉衆聞食宣。」授從五位上藤原朝臣小黒麻呂正五位下。正六位上藤原朝臣鷲取。多治比眞人公子。巨勢朝臣馬主。阿倍朝臣常嶋。石川朝臣諸足。紀朝臣家守並從五位下。正六位上長尾忌寸金村外從五位下。」以式部大輔從四位上藤原朝臣家依爲兼皇后宮大夫。中衛員外中將從四位上伊勢朝臣老人爲兼亮。大納言正三位大中臣朝臣清麻呂爲兼東宮傅。兵部卿從三位藤原朝臣藏下麻呂爲兼春宮大夫。右中弁從四位下大伴宿祢伯麻呂爲兼亮。勅旨少輔從五位上石上朝臣家成爲兼員外亮。癸未。授正六位上多治比眞人名負從五位下。丙戌。授從四位上藤原朝臣繼繩正四位上。无位紀朝臣敏久。紀朝臣奈良並從五位下。
正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けている。二日に藤原朝臣家子(百能に併記)に従三位、上毛野佐位朝臣老刀自・「國造淨成女」に従五位下を授けている。四日に天平神護元年より以来、僧尼の度縁(出家得度の際に授けられる証明書)には、全て道鏡の印を押していた、ここに至って、また治部省の印を用いている。
十三日に天下諸國の吉祥悔過の法会を停止している。十五日に橘朝臣麻都我(麻都賀。古那可智に併記)・藤原朝臣蔭(影)に正五位下を授けている。十六日に主典以上の官人を朝堂に集めて饗宴し、身分に応じて禄を賜っている。
二十三日に他戸親王を立てて皇太子とし、次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ御神として大八洲を統治する「養德根子天皇」(光仁天皇)の詔旨として宣べ聞かせられる御言葉を、親王・諸王・諸臣・百官達、天下の公民は、皆承れと申し渡す。法に従って皇后の子の他戸親王を立てて皇太子とする。そこで、このことをよく知って、百官達は仕え申せと仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す。
そこで大赦して天下の罪人を許すことにする。また、一人二人の冠位を上げて優遇する。また、官人達に天皇の御手元の物を与える。年老いた者・貧しい者・孝行で正しい道を歩む者達を養い、優遇すると仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す。
藤原朝臣小黒麻呂に正五位下、「藤原朝臣鷲取」・多治比眞人公子(乙安に併記)・「巨勢朝臣馬主・阿倍朝臣常嶋・石川朝臣諸足・紀朝臣家守」に從五位下、「長尾忌寸金村」に外從五位下を授けている。また、式部大輔の藤原朝臣家依を兼務で皇后宮大夫、中衛員外中將の伊勢朝臣老人(中臣伊勢朝臣)を兼務で亮、大納言の大中臣朝臣清麻呂(中臣朝臣。東人に併記)を兼務で東宮傅、兵部卿の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を兼務で春宮大夫、右中弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を兼務で亮、勅旨少輔の石上朝臣家成(宅嗣に併記)を兼務で員外亮に任じている。
因幡國高草郡
直後の二月に「因幡國高草采女從五位下國造淨成女等七人賜姓因幡國造」と記載されている。この人物の出自は「因幡國高草郡」だったようである。
全てが別名表記のようなのであるが、草=艸+皁(白+十)=山稜の端が丸く小高くなっている様と解釈される。地図上では省略しているが、因幡の一部(北部)を表わしていることが解る。
● 國造淨成女 上記したように因幡國造の氏姓を賜ることになったのであるが、漸く因幡國を統治する体制が整えられたのであろう。名前の淨成=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地の背後で平らに整えられているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。
少し後に伊福部宿祢毛人が外従五位下を叙爵されて登場する。前出の伊福部宿祢紫女と同族の人物であろう。毛人=谷間にある鱗のような形をしたところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。ご登場はこの場限りのようである。
● 藤原朝臣鷲取
藤原朝臣北家の「魚名」の子と知られているようである。調べると主な兄弟達が鷹取・末茂・眞鷲・藤成であったことが分かった。最後の「藤成」を除いて他は後に續紀に登場する。
と言うことで、纏めて各々の出自の場所を求めることにする。がしかし、何とも狭い谷間に果たして名前が示す地形を見出せるのであろうか?…いつもことながら、全くの杞憂であった。
❶鷹取=二羽の鳥が並んでいるような地にある[耳]の形をしたところ
❷鷲取=鳥の地形の前にある[疣]のように小高くなった地が[耳]の形をしているところ 初見の「鷲」=「就(京+尤)+鳥」と分解して解釈する。「尤」は「疣」の原字と知られている。
❸末茂=山稜の端が先の広がった矛のような形をしているところ
❹眞鷲=[鷲]の形をした地が窪んだ地に寄り集まっているところ
❺藤成=川が[藤]の木を伝わるように流る畔で平らに整えられたところ
[耳]の形以外の地形を確認し、上図に示した場所をそれぞれの出自場所を推定することができる。父親「魚名」の北側、谷間の東側に並んだ配置となったいる。思い起こせば「魚名」の場所に些か不安なところがあったのだが、息子達の出現で確からしくなったようである。
後に「眞楯」の子の藤原朝臣内麻呂❻が従五位下を叙爵されて登場する。内=門のようになっている地に入って行く様であり、図に示した場所が出自と推定される。その後従二位・右大臣となり、北家隆盛の礎となったようである。
桓武天皇紀に藤原朝臣鷹子が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳のようであるが、鷹子=「鷹」の地から生え出たところと解釈すると、「鷹取」の麓辺りと推定される。兄妹のようであるが、定かではない。その後の登場は見られない。
● 巨勢朝臣馬主
「巨勢朝臣」一族は連綿と途切れることなく人材登用されている。ただ、系譜不詳の人物が大半であって、この人物も同様のようである。やはり大臣クラスにならないと、伝承されないのかもしれない。
そんな背景で名前が示す地形から出自の場所を求めることになろう。「馬主」の名称も幾度か登場していて、例えば紀朝臣馬主等が登場していた。
馬主=山稜が[馬]の古文字形になった地にある真っ直ぐに延びる山稜があるところと解釈した。その地形を「巨勢朝臣」一族が住まう地域、現地名では直方市頓野辺りで探すと、図に示した場所が見出せる。
書紀で記載された近江将壹伎史韓國の居処とした場所であり、續紀では巨勢朝臣度守の出自が、その一部であったと推定した。書紀の記述は「有人曰、近江將壹伎史韓國之師也」であり、実に「有人曰」として、単なる噂で人物特定なのである。大納言巨勢朝臣人の一族だったわけである。書紀を日本紀への還元も行いたいが、些か時間切れかな?・・・。
「馬主」はこの後も幾度か登場され、瑞祥の馬を献上するのだが、真っ赤な偽物だったとか、それが発覚して罪に問われるなど、最後は関与しなかったことが認められて復帰されるようだが、波乱の人生だったとのことである。
後に巨勢朝臣廣山が従五位下を叙爵されて登場する。例の通りに系譜不詳であり、名前の廣山=[山]の形に延びた山稜が広がっているところを頼りとして、図に示した場所が出自と推定される。昇進はないが、その後地方官・京官を任じられたと記載されている。
更に後(桓武天皇紀)に従五位下の巨勢朝臣総成が遠江介に任じられている(叙位は未記載)。總成=総のように細かく岐れた山稜が延びた麓が平らな高台になっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「廣山」同様に、その後地方官・京官を任じられている。
また後に巨勢朝臣道成が従五位下を叙爵されて登場する。道成=首の付けのように窪んだ地に平らに整えられた高台があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。横一列に並んだ様相であるが、兄弟だったのかもしれない。その後に登場されることはないようである。
● 阿倍朝臣常嶋
上記の「巨勢朝臣」と同様に途切れることがない「阿倍朝臣」であるが、また同じく系譜不詳が続いている有様である。従って名前が示す地形を頼りにして出自場所を探してみよう。
常嶋に含まれる頻出の「常」=「向+八+巾」=「北向きに山稜が延び広がっているところ」と解釈した。山稜を山頂から延び出る様ではなく、麓から見上げた様を象形しているのである。
この特徴的な地形から、それらしき場所を容易に見出せる。直近で登場した豆余理の北側に位置するところである。おそらく現在の大久保貯水池は存在せず、狭い谷間であったと推測される。
常嶋=鳥の形をした山稜が北向きに延び広がっているところと読み解ける。推定される出自の場所を図に示した。元明天皇紀に宿奈麻呂の言上によって阿倍一族が大同団結の様相となった地でもある。今回の人物も、おそらく奔流ではない系統だったのであろう。
直後に安倍朝臣諸上が従五位下を叙爵されて登場する。系譜も関連する情報も見当たらず、上記と同様の状況のようであり、名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。諸上=盛り上がっている地の前で耕地が交差するように延びているところと解釈する。河内國石川郡の人である山背忌寸諸上に含まれていた「諸上」の地形である。
更に少し後に阿倍朝臣土作が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同様に関連情報が皆無の人物であり、土作=谷間で大地がギザギザとしているところと解釈して、図に示した辺りと推定した。尚、現在は宅地開発されて当時の地形は、国土地理院航空写真1961~9年を参照した(こちら)。
● 石川朝臣諸足
「巨勢朝臣・阿倍朝臣」に引続き、絶えることなく登用されている「石川朝臣」一族であり、また同様に系譜不詳の人物のようである。
現地名の京都郡苅田町谷の地形に名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。頻出の文字列である諸足=交差するように連なっている耕地の先にある足の形のようなところと解釈する。
この地では、意外に「諸」の地形に該当する場所は少なく、図に示したところを見出せる。この近辺では、既に登場した人物名に「足」が多用されていることが解る。この後、幾度か續紀に登場されているが、備後介や讃岐介の地方官を歴任されたが、爵位も従五位下のまま、その後については詳らかではないようである。
後に石川朝臣奴女が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の奴=女+又=手のような山稜が嫋やかに曲がって延びている様として、図に示した場所が出自のように思われる。配置からすると「豊成」に関わる女官だったようだが、系譜不詳である。前出の毛比とは異なり、續紀中、その後に登場されることはない。
● 紀朝臣家守
重臣輩出の「紀朝臣」一族であり、今回登場の人物も列記とした系譜の持主だったようである。「大人」の子、「麻呂」の孫であり、父親が「男人」であったと知られている(こちら参照)。
「男人」の兄弟である「麻路」の系統は既に幾人かが登場していたのだが(こちら参照)、「男人」系列では初見と思われる。
頻出の文字列である家守=山稜の端が豚の口のようになっている地の背後に両腕を張り出して囲んだようなところと読み解ける。その地形を「男人」の西側、谷間を挟んだ地に見出せる。出自の場所は、「家」と「守」に挟まれたところと推定される。
有能な人物だったようで、この後も多数登場され、最終従四位上・参議にまで昇進されている。尚、Wikipediaによると、称徳天皇紀に登場した紀朝臣門守は「家守」の兄弟とされているが、「男人」の子供には含まれておらず、些か混乱気味である。「守」が共通することからの妄言ではなかろうか。
少し後に紀朝臣家繼が従五位下を叙爵されて登場する。「家守」の弟と知られている。家繼=[家]に連なるところと解釈して、図に示した場所が出自と推定される。續紀中では従五位上までの昇進が記載されている。
「長尾忌寸」は記紀・續紀を通じて初見である。「忌寸」の前は「直・首」すると、書紀の天武天皇紀の『壬申の乱』で活躍した長尾直眞墨が記載されている。
既出の文字列である金村=手を開いたように延びる山稜の前が[金]の文字形になっているところと解釈すると、図に示した「眞墨」の西側に当たる場所が出自と推定される。「眞墨」は功臣の筈だが、その後に登場することはなかったようである。
「金村」は、後に大学博士に任じられて、更に後になるが爵位は内位の従五位下を叙されている。「直」から「忌寸」の賜姓は、史書に記載されていないが、上図の配置からも「眞墨」と同族であったことに違いないようである。
● 紀朝臣敏久・紀朝臣奈良
関連する情報も、皆無の人物達のようである。本文の記載も他の「紀朝臣」とは別途に最後に二人並べている。おそらく兄弟なのかもしれない。
そんな背景で、例によって名前が示す地形から出自場所を求めるのであるが、二つの地形が近接していることも重要な情報であろう。
また「敏久」の「敏」の文字は敏達天皇に用いられているが、これは地形象形ではない。また、僧良敏の名前があり、それが示す地形を求めることができた。
敏=毎+攴=山稜が枝分かれした地に母が子を抱くように山稜が取り囲んでいる様と解釈される。頻出の久=[く]の字形に曲がっている様である。即ち敏久=[久]の形の山稜の前に[敏]の形の山稜が延びているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。
その山稜の先に奈良=小高くなった地がなだらかに広がっているところを確認できる。前出の猪養・僧麻呂の南側に位置する場所であり、前出の門守の北隣に当たる場所である。何らかの血縁関係があったのではなかろうか。
二月庚寅。復錦部連河内賣本位從五位上。丙申。因幡國高草采女從五位下國造淨成女等七人賜姓因幡國造。」石見國飢。賑給之。戊戌。以從五位下下毛野朝臣足麻呂爲外衛少將。外從五位下物部礒波爲左兵衛大尉。庚子。車駕幸交野。辛丑。進到難波宮。癸夘。左大臣暴病。詔大納言正三位大中臣朝臣清麻呂攝行大臣事。丙午。授莫牟師正六位上村上造大寳外從五位下。優高年也。戊申。車駕取龍田道。還到竹原井行宮。節幡之竿無故自折。時人皆謂執政亡沒之徴也。己酉。左大臣正一位藤原朝臣永手薨。時年五十八。奈良朝贈太政大臣房前之第二子也。母曰正二位牟漏女王。以累世相門起家。授從五位下。勝寳九歳至從三位中納言兼式部卿。寳字八年九月轉大納言。授從二位。神護二年拜右大臣。授從一位。居二歳。轉左大臣。寳龜元年。高野天皇不豫時。道鏡因以藉恩私。勢振内外。自廢帝黜。宗室有重望者。多羅非辜。日嗣之位。遂且絶矣。道鏡自以寵愛隆渥。日夜僥倖非望。泪于宮車晏駕。定策遂安社稷者。大臣之力居多焉。及薨。天皇甚痛惜之。詔遣正三位中納言兼中務卿文室眞人大市。正三位員外中納言兼宮内卿右京大夫石川朝臣豊成。弔賻之曰。藤原左大臣〈尓〉詔大命〈乎〉宣。大命坐詔〈久〉。大臣明日者參出來仕〈牟止〉待〈比〉賜間〈尓〉休息安〈麻利弖〉參出〈末須〉事〈波〉無〈之帝〉天皇朝〈乎〉置而罷退〈止〉聞看而於母富〈佐久〉。於与豆礼〈加母〉多波許止〈乎加母〉云。信〈尓之〉有者仕奉〈之〉太政官之政〈乎波〉誰任〈之加母〉罷伊麻〈須〉。孰授〈加母〉罷伊麻〈須〉。恨〈加母〉悲〈加母〉朕大臣誰〈尓加母〉我語〈比〉佐氣〈牟〉。孰〈尓加母〉我問〈比〉佐氣〈牟止〉悔〈弥〉惜〈弥〉痛〈弥〉酸〈弥〉大御泣哭〈之〉坐〈止〉詔大命〈乎〉宣。悔〈加母〉惜〈加母〉自今日者大臣之奏〈之〉政者不聞看〈夜〉成〈牟〉。自明日者大臣之仕奉儀者不看行〈夜〉成〈牟。〉日月累往〈麻尓麻尓〉悲事〈乃未之〉弥可起〈加母〉。歳時積往〈麻尓麻尓〉佐夫之〈岐〉事〈乃未之〉弥可益〈加母〉。朕大臣春秋麗色〈乎波〉誰倶〈加母〉見行弄賜〈牟〉。山川淨所者孰倶〈加母〉見行阿加良〈閇〉賜〈牟止〉歎賜〈比〉憂賜〈比〉大坐坐〈止〉詔大命〈乎〉宣。美麻之大臣〈乃〉万政惣以无怠緩事無曲傾事〈久〉王臣等〈乎母〉彼此別心无普平奏〈比〉公民之上〈乎母〉廣厚慈而奏事此耳不在。天皇朝〈乎〉暫之間〈母〉罷出而休息安〈母布〉事无食國之政〈乃〉平善可在状天下公民之息安〈麻流倍伎〉事〈乎〉旦夕夜日不云思議奏〈比〉仕奉者款〈美〉明〈美〉意太比之〈美〉多能母志〈美〉思〈保之ツツ〉大坐坐間〈尓〉忽朕朝〈乎〉離而罷〈止富良之奴礼婆〉言〈牟〉須部〈母〉無爲〈牟〉須倍〈母〉不知〈尓〉悔〈備〉賜〈比〉和備賜〈比〉大坐坐〈止〉詔大命〈乎〉宣。又事別詔〈久。〉仕奉〈志〉事廣〈美〉厚〈美〉弥麻之大臣之家内子等〈乎母〉波布理不賜失不賜慈賜〈波牟〉起賜〈波牟〉温賜〈波牟〉人目賜〈波牟〉美麻之大臣〈乃〉罷道〈母〉宇之呂輕〈久〉心〈母〉意太比〈尓〉念而平〈久〉幸〈久〉罷〈止富良須倍之止〉詔大命〈乎〉宣。」石川朝臣豊成宣曰。大命坐詔〈久〉。美麻志大臣〈乃〉仕奉來状〈波〉不今耳。挂〈母〉畏近江大津宮御宇天皇御世〈尓八〉大臣之曾祖藤原朝臣内大臣明淨心以〈弖〉天皇朝〈乎〉助奉仕奉〈岐〉。藤原宮御宇天皇御世〈尓八〉祖父太政大臣又明淨心以天皇朝〈乎〉助奉仕奉〈岐〉。今大臣者鈍朕〈乎〉扶奉仕奉〈麻之都〉。賢臣等〈乃〉累世而仕奉〈麻佐部流〉事〈乎奈母〉加多自氣奈〈美〉伊蘇志〈美〉思坐〈須〉。故是以祖等〈乃〉仕奉〈之〉次〈仁母〉有。又朕大臣〈乃〉仕奉状〈母〉勞〈美〉重〈美〉太政大臣之位〈尓〉上賜〈比〉授賜時〈尓〉固辞申而不受賜成〈尓岐〉。然後〈母〉將賜〈止〉思〈富之〉坐〈之奈何良〉太政大臣之位〈尓〉上賜〈比〉治賜〈久止〉詔大命〈乎〉宣。」遣正四位下田中朝臣多太麻呂。從四位上佐伯宿祢今毛人。從四位下大伴宿祢伯麻呂等。監護喪事。甲寅。授正六位上和氣公細目外從五位下。
二月三日に錦部連河内賣(吉美に併記)を元の位の従五位上に戻している。九日に因「幡國高草(郡)」の采女である従五位下「國造淨成女」等七人に「因幡國造」の氏姓を賜っている(こちら参照)。また石見國に飢饉があったので物を恵み与えている。
十一日に下毛野朝臣足麻呂を外衛少將、物部礒波(浪)を左兵衛大尉に任じている。十三日に「交野」に行幸されている。十四日、進んで難波宮に到っている。十六日に左大臣(藤原永手)が急に病気になった。そこで、大納言の大中臣朝臣清麻呂(東人に併記)に詔して、大臣の仕事を執り行わせている。
十九日に莫牟師(三韓系の管楽器奏者。滅んで伝わっていない)の「村上造大寶」に外従五位下を授けている。高齢を労わったことによる。二十一日に天皇は龍田道を取ったが、回って竹原井行宮(頓宮)に至っている。旗印の竿が理由なく自然に折れ、時の人は皆、執政が死亡する徴であると思った。
二十に日に左大臣の藤原朝臣永手が亡くなっている。時に年は五十八歳であった。奈良朝(聖武天皇)に太政大臣を贈られた「房前」の第二子である。母は牟漏女王という。代々、大臣・宰相を出す家柄であることにより朝廷に仕えて、従五位下を授けられた。天平勝寶九歳(757年)に従三位・中納言兼式部卿に至った。天平寶字八(763)年九月に大納言に転任し従二位を授けられた。天平神護二(766)年に右大臣に任命され從一位を授けられ、在位二年で、左大臣に転任した。
寶龜元(770)年、高野天皇が病気になった時、道鏡が天皇の恩を自分のために利用して内外に勢を振るった。廃帝(淳仁天皇)が退けられて以来、天皇の身内で人望の高い人々の多くは無実の罪を被せられ、日嗣の位はついに絶えようとした。そこで道鏡は、自分が寵愛を深く受けていたので、日夜とんでもない望みを抱き求めた。天皇が崩御するにおよんで、方策(白壁王の即位)を定めて國を安定させたについては、大臣の力は非情に大きく、薨じるにおよんで、天皇は大変いたみ悲しんでいる。
そこで詔して、中納言兼中務卿の文室眞人大市と員外中納言兼宮内卿・右京大夫の石川朝臣豊成を遣わして、物を贈って弔わせ、次のように述べている(以下宣命体)・・・藤原左大臣に仰せになる御言葉を申し渡す。御言葉として仰せになるには、大臣は明日は参内して来て仕えるであろうと待っている間に、治って出仕することはなく、天皇の朝廷を置いて黄泉の國へ罷り退いた、と聞いて思うには、偽りの言葉か、戯言を言っているのか、真実ならば、仕えていた太政官の政務を一体誰に任せて退いて行ったのか、誰に授けて退いて行ったのか、悔しいことだ、悲しいことだ。---≪続≫---
朕の大臣よ、誰に私は語って我が心を晴らそうか、誰に私は問うて晴らそうか。悔しく、惜しく、痛ましく思い、悲しく思って、声をあげて泣いている、と仰せになる御言葉を申し渡す。悔しいことだ、惜しいことだ、今日からは、大臣が奏上していた政務は、聞くことがなくなるのか、明日からは大臣が仕えていた姿は、見ることがなくなるのか、日月が重なっていくにつれて、悲しいことばかりがいよいよ起きて来ることよ、歳月が積り行くにつれて、寂しいことばかりがいよいよ増して来ることよ。朕の大臣よ、春秋の麗しい風景を誰と共に見に行って楽しもうか、山川の浄い所を誰と共に見に行って心を晴らそうかと、歎き、憂えているのである、と仰せになる御言葉を申し渡す。---≪続≫---
大臣の貴方は、万の政務を総括し、怠り弛むことなく、曲げ傾けることなく、皇族や臣下を彼此と差別することなく、全てに公平に奏上し、公民の身の上についても、広く慈しんで奏上した。こうしたことだけでなく、天皇の朝廷を暫くの間も退出して休息することなく、國を治める政治が平安であるべきさまや、天下の公民が平安であるべきことを、朝も夕も夜も昼も区別なく、思い議って奏上し仕え申し上げるので、朕は勤勉なことよ、心の明らかなことよ、安心なことよ、頼もしいことよ、と思いながら過ごしていた間に、忽ちに朕の朝廷より離れ退いてしまわれたので、どのように言って良いかもわからず、どうしたら良いのかもわからず、悔しく心細く思っている、と仰せになる御言葉を申し渡す。---≪続≫---
また、言葉を改めて仰せられるには、仕えて来たことは広く厚いので、大臣の貴方の家の中の子達をも、放ちやらず、見捨てることはせず、慈しもう、官人に取り立ててやろう、世話をしてやろう、注意してやろう。大臣の貴方が退いて行く道も、後の事に心を残すことなく、心中も穏やかに思って、平安に、差し障りなく退いて行くように、と仰せになる御言葉を申し渡す・・・。
石川朝臣豊成は命を受けて次のように述べている(以下宣命体)・・・御言葉として仰せになるには、大臣の貴方が仕えて来た様子は、今だけに限ったことではない。口に出すのも恐れ多い近江大津宮で天下をお治めになった天皇(天智天皇)の御世には、大臣の曽祖父である藤原内大臣(鎌足)が明るく浄い心をもって天皇の朝廷を助けお仕え申し上げた。藤原宮で天下をお治めになった天皇(持統・文武天皇)の御世には、祖父である太政大臣(不比等)がまた明るく浄い心をもって天皇の朝廷を助けお仕え申し上げた。---≪続≫---
今、大臣は愚かな朕を扶けて仕えて来た。このように賢い臣下達が代々お仕え申し上げて来たことを、かたじけないことよ、よく勤めたことよ、と思っている。その故に、祖先達がお仕え申し上げて来た後継ぎでもあり、また、朕の、大臣の仕えたさまもご苦労に思い、重大に思って、太政大臣の位に上げ、授けようとしたが、その時、固く辞退して受けずに終わった。その後も与えようと思っていたので、太政大臣の地位に上げて、優遇しようと仰せになる御言葉を申し渡す・・・。
二十七日に「和氣公細目」に外従五位下を授けている。
交野
「交野」の文字列は、河内國交野郡で用いられたのが初見である。通説はここで記載される「交野」は、その郡を示すと解釈されているようである。
續紀本文を眺めると、「交野郡」は元明天皇紀に一度記載された以降に登場することはない。一方「交野」の表記は、この場を含め数回登場する。
勿論、國名やら郡名などの修飾はなく、単に「交野」と記述されている。と言うことは、紛うことなく「交野郡」ではなく、類似の地形…交野=野が交差するところ…を持つ別の場所であることが導き出される。
「交野」が示すように、この地は交通の要所であったと推測される。東西南北に谷間の野が広がっている地形であろう。それを図に示した場所に、容易に見出すことができる。そして四方の谷間に多くの氏族が蔓延っていた地である。実は、書紀・續紀が語る多くの戦闘場面で既に登場していたが、特記されることがなかっただけなのである。
一例として『壬申の乱』における大海人皇子(天武天皇)側の坂本臣財隊の行程を思い起こすことができる。「龍田道」を防げとの命を受けたが、敵方の動向を知って、急遽進軍の方向を変えた、と記載されている。その転回場所「平石野」が「交野」の近傍と推定した(こちら参照)。
上記本文で光仁天皇も難波宮からの帰途で、一旦は「龍田道」に向かったが、”還”して竹原井行宮に到ったと述べている。『壬申の乱』における大坂道に向かったことになる。古事記の河内之美努村は、重要な拠点だったのである。
通説では「竹原井行宮」は「龍田道」沿いにあるため、”還”の文字の解釈は省略であろう。上記本文の記述に従うと”進”となる筈である。斉明天皇が伊豫熟田津から”還”して朝倉橘廣庭宮へ向かった記述に酷似する(こちら参照)。そのまま先に”進”むのか、”還”するのか、決して些細なことではないのである。
「村上造」については全く情報がなく氏名の「村上」そのものも用いられた形跡が見当たらなかった。勿論、もう少し後代になれば水軍一族で登場するのであるが・・・。
そんな背景で、辛うじて高麗系渡来人が「村上」を名乗ったとする記事が見つかり、それを頼りに探索を続けることにした。高麗系人達は各所に散らばっていたのだが、武藏國高麗郡に集約して住まわせたと記載されていた。
また、聖武天皇紀に篤農家として前部寶公が登場し、外従五位下を授けられているが、何故か淳仁天皇紀の賜姓には含まれていない。憶測するに、既に「村上造」を賜姓されていたのではなかろうか。これで今回登場の人物の出自場所を求めることができる。
あらためて村上造の地形を表すと村上=手を開いて延ばしたような山稜の先が盛り上がっているところと解釈される。「上」は「寶」に含まれる”玉”を表現していると思われる。名前の大寶=[寶]の地の上に平らな頂の山稜が広がっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。
勿論、多分だが、この「石无別」から派生して藤野郡の一族と推測される。清麻呂等の父親である「磐梨別乎麻呂」は、その名前が表す地形から、図に示した場所が出自と推定された。
この近隣の地で名前、細目=[目]の形をした山稜の前で細く窪んだところと解釈すると、図に図に示した場所が見出せる。「薗守」とは同族であるが異なる系列だったのであろう、宿祢姓を賜っていないようである。