2023年11月14日火曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(2) 〔653〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(2)


寶龜元(西暦770年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

十一月己未朔。授從四位下飯高宿祢諸高正四位下。壬戌。外從五位下山田連公足等卅人賜姓宿祢。癸亥。授外從五位下山田宿祢公足外從五位上。甲子。詔曰。現神大八洲所知倭根子天皇詔旨〈止〉宣詔旨〈乎〉親王王臣百官人等天下公民衆聞食宣。朕以劣弱身承鴻業〈弖〉。恐〈利〉畏進〈毛〉不知〈尓〉退〈毛〉不知〈尓〉所念〈波〉貴〈久〉慶〈伎〉御命自獨〈能味夜〉受給〈武止〉所念〈弖奈毛〉法〈能麻尓麻尓〉追皇掛恐御春日宮皇子奉稱天皇。又兄弟姉妹諸王子等悉作親王〈弖〉冠位上給治給。又以井上内親王定皇后〈止〉宣天皇御命衆聞食宣。」授從四位下諱四品。從五位下桑原王。鴨王。神王並從四位下。酒人内親王三品。從四位下衣縫女王。難波女王。坂合部女王。能登女王。弥努摩女王並四品。无位淨橋女王。飽波女王。尾張女王並從四位下。戊辰。行幸御鹿原。授山背守從五位下橘宿祢綿裳從五位上。丁丑。授典膳正六位上安曇宿祢諸繼從五位下。即轉奉膳。授正六位上上毛野坂本朝臣男嶋外從五位下。戊寅。正六位上國栖小國栖。无位栗原勝乙女並授外從五位下。癸未。復无位大伴宿祢古慈斐本位從四位上。乙酉。勅。先後逆黨。一切皆從原宥。其情願留住配處者。宜恣聽之。如窮乏之徒無資歸郷者。路次諸國。量給食馬。

十一月一日に飯高宿祢諸高(笠目)に正四位下を授けている。四日に山田連公足(古麻呂に併記)等三十人に宿祢姓を賜っている。五日に山田宿祢公足に外従五位上を授けている。

六日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ御神として大八洲を統治する倭根子天皇(光仁天皇)の詔旨として申し渡す御言葉を、親王・諸王・諸臣・百官人達、天下の公民達、皆承れと申し渡す。朕は拙く愚かな身でありながら、天皇の高い地位を受け継ぎ、恐れ多く進退をどうすればよいかわからないのであるが、貴く喜ばしい先帝の御言葉を自分独りだけがどうしても承れようかと思い、法の通りに、口に出すのも恐れ多い春日宮においでになった皇子(施基皇子)を天皇と称し奉り、また、兄弟姉妹と朕の諸皇子達を全て親王とし、冠位を上げ、しかるべく取り計らうこととする。また井上内親王を皇后に定める、と仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す・・・。

諱(山部王。後の桓武天皇)に四品、桑原王鴨王()・神王()に従四位下、「酒人内親王」に三品、衣縫女王・難波女王・坂合部女王(海上女王に併記)・「能登女王・弥努摩女王」に四品、「淨橋女王・飽波女王・尾張女王」に従四位下を授けている。

十日に御鹿原(甕原[ミカハラ]。甕原離宮周辺)に行幸されている。山背守の橘宿祢綿裳に従五位上を授けている。十九日に典膳(内膳司次官)の「安曇宿祢諸繼」に従五位下を授け、同時に奉膳(内膳司長官)に転任させている。上毛野坂本朝臣男嶋に外従五位下を授けている。二十日、「國栖小國栖・栗原勝乙女」に外従五位下を授けている。

二十五日に大伴宿祢古慈斐(祜信備。『橘奈良麻呂の変』に連座して土左國に配流)を本位の従四位上に復している。二十七日に次のように勅されている・・・先と後の叛逆者どもは、一切全て許すことにする。その配流された所に留まり住むことを願う者は、望み通りに許可せよ。もし、窮乏している者等で故郷に帰るための費用がない者には、通過する諸國は事情に応じて食料と馬を支給せよ・・・。

<酒人内親王等>
● 酒人内親王・能登女王・弥努摩女王・尾張女王

本文で宣命体で詔された通りに、しかるべく取り計らわれた冠位が記載され、初見の親王・諸王が一挙に登場されることになる。

天皇の出自場所は、決して広くはない谷間であり、尚且つ現在では高速道路が通過している地域であって、地形の変形が凄まじくなっている。

国土地理院航空写真1974~9年を参照して、各々の出自場所を突止めてみよう。また、未だ登場されていない皇子等も併せて図に示した。

各人に関する若干の補足と名前が示す地形を以下に纏めて示す。酒人内親王井上皇后の子であり、後に「山部王」(桓武天皇)の后になったと知られている。正に「白壁王」の筆頭の子である。酒人=谷間の水辺に酒樽のようなところと解釈される。図に示した「白壁王」の西側に当たる場所が出自と推定される。

能登女王は皇太夫人の「高野新笠」(詳細は後程)の子、山部王の同母姉である。既出の文字列の能登=丸く小高い地から山稜が岐れた谷間が隅にあるところと解釈した。弥努摩女王は宮中の女官の子である。後に神王の室になったようである。弥努摩=しなやかに曲がって延びる山稜が弓なりに広がり細かく岐れているところと解釈される。この両者について、残念ながら現在の地図では、詳細な地形を確認すること叶わず、それぞれの特徴的な「文字」の地形から推定した出自場所である。

未登場の皇子達を纏めて示す。開成王は母親は不詳。開成=門を両手で開いたような地にある平らに整えられたところと解釈される。天智天皇の和風諡号である天命開別天皇に含まれる「開」の文字が表す地形であるが、これも残念ながら詳細を確認できないが、図に示した場所がそれらしき地形を示しているように思われる。

早良王は、「山部王」の同母弟であり、後に桓武天皇の皇太子なる。「早」=「日+十」と分解される。「日(太陽)が十(覆われて)いる様」であり、通常の「早い」という意味を表してる。纏めると早良=覆われている丸く太陽のような地の麓でなだらかになっているところと読み解ける。図に示した山部王の東側の場所が出自と推定される。

薭田王は、尾張女王の子である。薭=艸+禾+卑=稲穂のような二つの山稜の端が丸く小高くなっているところと解釈すると、「山部王」の谷間が広がった場所と思われる。「尾張女王」は湯原王の子であり、尾張=山稜の先が延びて広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

他戸王は井上皇后の子、「酒人内親王」の弟であり、光仁天皇の皇太子となるが、夭逝されたようである。他戸=谷間の入口で曲がりくねっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<淨橋女王・飽波女王>
● 淨橋女王・飽波女王

上記の尾張女王と同列に並べられていることから、「白壁王」の姪達であろう。がしかし系譜は知られていないようである。加えて「白壁王」の兄弟姉妹が多くあって、何ともし難い状況ではある。

取り敢えず、名前が表す地形を読み解いてみよう。淨橋女王の既出の文字列である淨橋=水辺で両腕で取り囲むように延びている山稜の端がねじ曲がっているところと解釈される。

飽波女王の既出の文字列である飽波=なだらかに両腕で抱え込むような山稜が水辺で覆い被さるように延びているところと解釈される。共に特徴なる地形であることが解る。

それらの地形を図に示した場所に見出せる。淨橋女王は鴨王の、飽波女王は坂合部女王の、それぞれ東隣に位置する場所と推定される。多分、淨橋女王は高田王(壹志王に併記)の娘だったのではなかろうか。

『仲麻呂の乱』の褒賞で登場した多くの王達、それに加えて今回の「白壁王」の即位に関わる叙位で登場する王・女王、実に凄まじいばかりの人数である。全て名前が地形象形表記として配置することができた。地形変形から幾人かの曖昧さが残るが、はぼ満足できる結果と思われる。

<安曇宿祢諸繼-清成-刀自>
● 安曇宿祢諸繼

「安(阿)曇宿祢」一族からも途切れずに人材を登用しているようである。直近では、三國が淳仁天皇紀に従五位下を叙爵されていた。

古事記に記載されていた墨江之三前大神の地から内陸に入った地域であり、”阿”よりも”安”の文字を好んで用いていたのであろう。

今回登場の人物は従五位下を叙爵されて、奉膳(内膳司長官)に任じられている。少し前の称徳天皇紀に安曇・高橋二氏が内膳司長官に任じられた時の呼び名を奉膳(二氏以外の場合は正)とせよ、と勅されている。それに準じた任命であろう。

それは兎も角として、諸繼=耕地が交差している地を繋げているところと解釈すると、三國の南側の谷間を表していることが解る。この二氏の間には確執があったようであるが、それが語られる時が近付いているようである。

少し後に安曇宿祢清成・安曇宿祢刀自が各々従五位下を叙爵されて登場する。清(淸)成=水辺で四角く取り囲まれた地で平らに整えられているところと解釈すると、「諸繼」の南側に、刀自=山稜の端が[刀]の形をしているところが、更に南側に見出せる。共に地形変形が迫っているが、何とか判別できたように思われる。尚、国土地理院航空写真1961~9年のこちらを参照。

<國栖小國栖>
● 國栖小國栖

「國栖」は、古事記の神武天皇紀に記載れた「石押分」之子が祖となった「吉野國巢」の場所であろう(こちら参照)。「巢」と「栖」=「木+西」とは「西」=「笊」の象形で繋がっている(西大寺参照)。

具体的な人物名が記載されたのは、「石押分」以来、これが初見と思われる。現在の北九州市小倉南区平尾台のカルスト台地の中央に位置する場所である。

「吉野」の由来は?…近淡海(現在の行橋市)を蓋する(吉=蓋+囗)ように延びる山稜にあるなのである。若帶日子命(成務天皇)の志賀高穴穗宮など「吉野」が無数の鍾乳洞があるカルスト台地であることを繰り返し伝えている。

さて、今回登場の小國栖=三角形の國栖と解釈される。丸く窪んだところの南側にその地形を見出せる。現在の牡鹿鍾乳洞の近隣に位置する場所と推定される。外従五位下を叙爵されたが、續紀にこの後登場されることはないようである。

<栗原勝乙女>
● 栗原勝乙女

「栗原勝」の氏姓は初見であろう。少し前(称徳天皇紀)に、陸奥國に「伊(此)治城」を造り、その地を「栗原郡」と名付けたと記載されていた(こちら参照)。

おそらくこの地に棲息する人物だったと思われる。しかしながら、現在は巨大な門司変電所となっていて地形の確認ができず、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、出自の場所を求めることにする。

結果的には、物の見事に名前が示す地形が確認され、また、後に登場する人物の場所も求めることができた。乙女=[乙]の字形に谷間が曲がっているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。

少し後に「五月戊子。外從五位下柴原勝乙妹女。勳十等柴原勝淨足賜姓宿祢。並止其身」と記載されている。「栗原勝」を「柴原勝」に改称し、宿祢姓を、一代限りで、賜っている。「伊治城」の別称である「此治城」の「此」は、”栗の雄花”を表すと述べたが、ここでは「柴」=「此+木」と表現している。

柴原勝淨足淨足=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地にある[足]のようなところと読み解くと、図に示した場所が出自と思われる。また「乙女」を「乙妹女」としているが、妹=女+未=山稜を横切る谷間が嫋やかに曲がっている様であり、更に丁寧で的確な表記となっていることが解る。

十二月乙未。賜左大臣正一位藤原朝臣永手山背國相樂郡出水郷山二百町。庚戌。贈太政大臣功封依舊賜之。丙辰。以從五位下大原眞人繼麻呂爲中務員外少輔。從五位下紀朝臣廣繼爲民部少輔。從五位下宍人朝臣繼麻呂爲主計頭。從五位下石川朝臣眞永爲兵部少輔。從五位上掃守王爲大藏大輔。從五位下廣田王爲大炊頭。從四位上大伴宿祢古慈備爲大和守。從五位下紀朝臣鯖麻呂爲美濃員外介。從五位下巨勢朝臣池長爲越前員外介。從五位上皇甫東朝爲越中介。大判事從五位下藤原朝臣長道爲兼讃岐員外介。從五位下高向朝臣家主爲筑後守。從五位下紀朝臣大純爲肥後介。

十二月七日に左大臣の藤原朝臣永手に「山背國相樂郡出水郷」の山二百町を与えている。二十二日に贈太政大臣(藤原不比等)の功封は、元のように子孫に与えている。

二十八日に大原眞人繼麻呂(今木に併記)を中務員外少輔、紀朝臣廣繼(橡姫に併記)を民部少輔、宍人朝臣繼麻呂(倭麻呂に併記)を主計頭、「石川朝臣眞永」を兵部少輔、掃守王を大藏大輔、廣田王()を大炊頭、大伴宿祢古慈備(古慈斐)を大和守、紀朝臣鯖麻呂を美濃員外介、巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)を越前員外介、「皇甫東朝」(李元環の近隣)を越中介、大判事の藤原朝臣長道を兼務で讃岐員外介、高向朝臣家主を筑後守、紀朝臣大純を肥後介に任じている。

<山背國相樂郡出水郷>
山背國相樂郡出水郷

山背國相樂郡には聖武天皇紀に恭仁京が造られたが、それは一時的なもので結局完成はしなかったと伝えられている。しかしながら、この地は河内・難波に抜ける重要な交通の要所であり、情報も多く伝えられている。

「出水(イズミ)」と訓すれば、関連する名称として泉橋が挙げられる。この「泉」の別称である確証はなく、読みを合わせただけの論拠となろう。

地形象形的には、全く別物と考えられる。泉=囟+水=窪んだ地から流れ出る様を表す文字である。出水=水を出すところと読むと、それは”山”であろう。本文に「出水郷」の”山”を左大臣に与えたと記載されている。

上記の考察から求めた出水郷、及びその背後のを図に示した。谷間に一段小高くなった「山」があり、その「山」から多くの谷間を伝わって水が流れ出ていた様子が伺える。二百町は、些か大盤振る舞いの表記なのではなかろうか。

<石川朝臣眞永-長繼>
● 石川朝臣眞永

途切れることなく「石川朝臣」一族の登場であるが、大半が系譜不詳のようである。やはり大臣クラスが登場しないと何らかの痕跡は留められていないのかもしれない。

直近では眞守等が登用されているが、どうやら彼等の周辺が賑わっているようである。併記することもできるが、図が混雑するので、あらためて右図に記載さした。

眞永=長く延びた山稜が寄り集まって窪んだところと解釈すると、眞守の北側の谷奥辺りと推定される。後に幾度か登場されるようである。

他書によると彼が大宰少貮を任じられている時の記録があり、その時は眞木と記されている。長い山稜を簡略に「木」と表記したと思われ、同一人物であろう。續紀で用いられることはない。

少し後に太政官符を偽造して使用したことが発覚した石川朝臣長繼が配流されたと記載されている。長繼=長く延びる山稜が連なっているところと解釈して、図に示した場所が出自と推定した。その後の関する記述もないようである。