天宗高紹天皇:光仁天皇(1)
寶龜元年(西暦770年)十月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
天皇諱白壁王。近江大津宮御宇天命開別天皇之孫。田原天皇第六之皇子也。母曰紀朝臣橡姫。贈太政大臣正一位諸人之女也。寳龜二年十二月十五日。追尊曰皇太后。天皇寛仁敦厚。意豁然也。自勝寳以來。皇極無貳。人疑彼此。罪廢者多。天皇深顧横禍時。或縱酒晦迹。以故免害者數矣。又甞龍潜之時。童謠曰。葛城寺〈乃〉。前在〈也〉。豊浦寺〈乃〉西在〈也〉。於志〈止度〉。刀志〈止度〉。櫻井〈尓〉。白壁之豆久〈也〉。好璧之豆久〈也〉。於志〈止度〉。刀志〈止度〉。然爲〈波〉。國〈曾〉昌〈由流也〉。吾家良〈曾〉昌〈由流也〉。於志〈止度〉。刀志〈止度〉。于時井上内親王爲妃。識者以爲。井則内親王之名。白壁爲天皇之諱。蓋天皇登極之徴也。寳龜元年八月四日癸巳。高野天皇崩。群臣受遺。即日立諱爲皇太子。
天皇の諱は白壁王である。「近江大津宮」で天下を統治された「天命開別天皇」(天智天皇。こちら参照)の孫で、田原天皇(施基皇子)の第六皇子である。母は「紀朝臣橡姫」といい、太政大臣・正一位を贈られた諸人(古麻呂に併記)の娘である。寶龜二(771)年十二月十五日に、後から尊号を奉って皇太后という。天皇は、心が広くて憐れみ深く、人情に厚く、心は豁然と開けていた。天平勝寶より以来、皇位を継ぐ人が決まらず、人はあれかこれかと疑って、罪し廃される者が多かった。天皇は、深くこうした思いがけない災難に遭うことを用心して、或いは酒を恣に飲んで所業をくらまし、そのために度々害を免れた。また、かつて天皇となる以前に次のような童謡が詠われている。
葛城寺の前なるや 豊浦寺の西なるや おしとど としとど
櫻井に白壁沈くや 好き壁沈くや おしとど としとど
然すれば 國ぞ昌ゆるや 吾家らぞ昌ゆるや おしとど としとど
この時、井上内親王は妃であった。物の分かる人には、”井”は即ち内親王の名、”白壁”は天皇の諱であり、思うに天皇に即位する前徴である、と考えられた。寶龜元年八月四日癸巳に高野天皇は崩じた。群臣は遺言を受けて、その日に白壁王を立てて皇太子とした。
● 紀朝臣橡姫
多くの人物がこの地から登場しているが、煩雑になるので割愛して表示した。諸人の事績としては征夷副将軍(従五位下)としての活躍があった程度、續紀での登場回数は限られている。
從一位、次いで太政大臣・正一位の追贈は、全て孫の白壁王の即位に基づくものである。皇位に就くことの偉大さであろう。それは兎も角として、「橡姫」の出自場所を求めてみよう。
「橡」=「木+象」と分解される。「象」は、大きい様を表すとしても良いが、ここでは「象」そのものを象形した表記と解釈される。橡=山稜が[象]の頭部のような形に延びている様と解釈する。その地形を図に示した場所に見出せる。まさか、まさかの皇太后となられたようである。
直ぐ後に従五位下の紀朝臣廣繼が民部少輔を任じられて登場する。叙位は未記載のようである。廣繼=[廣]を途切れずに連ねるところと読むと、図に示した「麻路」の息子連中の間に収まる場所と思われる。多分、兄弟であったと思われる。
また、その後に紀朝臣諸繼が従五位下を叙爵されて登場する。諸繼=[諸]を途切れずに連ねるところと解釈される。紀朝臣一族で諸=耕地が交差するような様の名前を持つ人物は諸人以外に登場していない。「諸」を引き継いだ人物は、図に示した場所が出自と推定されるが、血縁関係は不詳のようである。
と言うことは、この地に関わる地形に、白壁王の白壁=二つの谷間が平らに広がってくっ付いているところが表す地形を重ねて謡っているのであろう。
既出の文字列である櫻井=二つの谷間が寄り集まって四角く窪んでいるところと解釈した。書紀に登場した鏡王・額田姫王の場所を表していることが解る。「櫻井」は葛城寺の前にあると述べている。勿論、豊浦寺の西に当たる場所である。
頻出の葛城=閉じ込められたような地が平らになっているところの地形を示すと解釈したが、その場所を図に示した。見慣れた”葛城”のスケールとは、大きく異なるが…。本寺は、「金」の地形の山稜の端に建立されていたのである。その前が「櫻井」であり、「白壁」の地形となっていることが解る。
井上内親王の”井”の中で表立たずにひっそりと佇んでいた”白壁”が、やおら浮上して来るよ、と語っているようである。續紀中では希少な記述であるが、豊浦近辺の地形をものの見事に表現していると思われる。
寳龜元年冬十月己丑朔。即天皇位於大極殿。改元寳龜。詔曰。天皇〈我〉詔旨勅命〈乎〉親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。掛〈母〉恐〈伎〉奈良宮御宇倭根子天皇去八月〈尓〉此食國天下之業〈乎〉拙劣朕〈尓〉被賜而仕奉〈止〉負賜授賜〈伎止〉勅天皇詔旨〈乎〉頂〈尓〉受被賜恐〈美〉受被賜懼進〈母〉不知〈尓〉退不知〈尓〉恐〈美〉坐〈久止〉勅命〈乎〉衆聞食宣。然此〈乃〉天日嗣高御座之業者天坐神地坐祇〈乃〉相宇豆奈〈比〉奉相扶奉事〈尓〉依〈弖志〉此座者平安御坐〈弖〉天下者所知物〈尓〉在〈良之止奈母〉所念行〈須〉。又皇坐而天下治賜君者賢臣能人〈乎〉得而〈志〉天下〈乎波〉平安治物〈尓〉在〈良志止奈母〉聞看行〈須〉。故是以大命坐勅〈久〉。朕雖拙弱親王始而王臣等〈乃〉相穴〈奈比〉奉相扶奉〈牟〉事〈尓〉依而〈志〉此之負賜授賜食國天下之政者平安仕奉〈止奈母〉所念行〈須〉。故是以衆淨明心正直言以而食國政奏〈比〉天下公民〈乎〉惠治〈倍之止奈母〉所念行〈須止〉勅天皇命衆聞食宣。辞別詔。今年八月五日肥後國葦北郡人日奉部廣主賣獻白龜。又同月十七日同國益城郡人山稻主獻白龜。此則並合大瑞。故天地貺大瑞者受被賜歡受被賜可貴物〈尓〉在。是以改神護景雲四年爲寳龜元年。又仕奉人等中〈尓〉志〈何〉仕奉状隨〈弖〉一二人等冠位上賜〈比〉治賜〈布〉。又大赦天下。又天下六位已下有位人等給位一階。大神宮始〈弖〉諸社之祢宜等給位一階。又僧綱始〈弖〉諸寺師位僧尼等〈尓〉御物布施賜〈布〉。又高年人等養賜。又困乏人等惠賜〈布〉。又孝義有人等其事免賜。又今年天下田租免賜〈久止〉宣天皇勅衆聞食宣。」授從一位藤原朝臣永手正一位。從三位大中臣朝臣清麻呂。文室眞人大市。石川朝臣豊成。藤原朝臣魚名。藤原朝臣良繼並正三位。從五位上奈紀王正五位下。无位河内王。從五位下掃守王並從五位上。從四位上藤原朝臣田麻呂。藤原朝臣雄田麻呂並正四位下。從四位下阿倍朝臣毛人。藤原朝臣繼繩。藤原朝臣楓麻呂。藤原朝臣家依並從四位上。正五位上大伴宿祢三依從四位下。從五位上阿倍朝臣淨成。大伴宿祢家持。大伴宿祢駿河麻呂。佐伯宿祢三野。藤原朝臣雄依並正五位下。從五位下佐伯宿祢國益。石上朝臣家成。大野朝臣眞本。藤原朝臣小黒麻呂並從五位上。正六位上巨勢朝臣公足從五位下。正六位上村國連子老外從五位下。辛夘。授從六位上宍人朝臣繼麻呂從五位下。丙申。先是。去九月七日。右大臣從二位兼中衛大將勳二等吉備朝臣眞備上啓。乞骸骨曰。側聞。力不任而強者則廢。心不逮而極者必惽。眞備自觀。信足爲驗。去天平寳字八年。眞備生年數滿七十。其年正月。進致事表於大宰府訖。未奏之間。即有官符。補造東大寺長官。因此入京。以病歸家。息仕進之心。忽有兵動。急召入内。參謀軍務。事畢校功。因此微勞。累登貴職。不聽辞讓。已過數年。即今老病纒身。療治難損。天官劇務。不可暫空。何可抱疾殘體久辱端揆。兼帶數職闕佐万機。自顧微躬。靦顏已甚。慚天愧地。无處容身。伏乞。致事以避賢路。上希聖朝養老之徳。下遂庸愚知足之心。特望殊恩。祈於矜濟。不任慇懃之至。謹詣春宮路左。奉啓陳乞。以聞。至是。詔報曰。昨省來表。即知告歸。聖忌未周。縣車何早。悲驚交緒。卒無答言。通夜思勞。坐而達旦。不依所請。似逆謙光。欲遂來情。弥思賢佐。宜解中衛。猶帶大臣。坐塾之閑。勿空朝右。時凉想和適也。指不多及。丁酉。賜獲白龜者山稻主。日奉公廣主女爵人十六級。絁十疋。綿廿屯。布卌段。正税一千束。」從二位文室眞人淨三薨。一品長親王之子也。歴職内外。至大納言。年老致仕。退居私第。臨終遺教。薄葬不受皷吹。諸子遵奉。當代稱之。遣使弔賻之。辛亥。以從四位下大伴宿祢伯麻呂爲右中弁。正五位下阿倍朝臣清成爲員外右中弁。從五位上石川朝臣豊人爲右少弁。從五位下多朝臣犬養爲式部少輔。從五位下阿倍朝臣淨目爲散位頭。從五位下豊國眞人秋篠爲治部大輔。甲斐守如故。從五位上掃守王爲大炊頭。主殿頭從五位下神眞人土生爲兼伊勢介。少納言從五位下當麻王爲兼尾張守。外從五位下佐太忌寸味村爲相摸介。從五位上巨勢朝臣公成爲常陸介。外從五位下内藏忌寸若人爲員外介。從五位下田口朝臣水直爲信濃員外介。從五位下池田朝臣眞枚爲上野介。從五位下石川朝臣名繼爲丹波介。從五位下川邊朝臣東人爲石見守。左少弁從五位下當麻眞人永嗣爲兼土左守。癸丑。授正四位上大野朝臣仲千從三位。正五位上飯高宿祢諸高從四位下。從五位下巨勢朝臣巨勢野。百濟王明信並正五位下。從五位下巨勢朝臣魚女從五位上。外從五位下賀陽朝臣小玉女。桑原公嶋主。武藏宿祢家刀自。正七位下縣犬養宿祢道女。无位和氣公廣虫並從五位下。正八位上神服連毛人女。正七位下金刺舍人若嶋並外從五位下。甲寅。授伊豫守從五位上高圓朝臣廣世正五位下。掾正六位上中臣朝臣石根從五位下。介外從五位下板茂連眞釣外從五位上。員外介正六位上百濟公水通外從五位下。外散位外從五位下越智直飛鳥麻呂。越智直南淵麻呂並外從五位上。肥後守正五位下大伴宿祢駿河麻呂正五位上。介從五位下若櫻部朝臣乙麻呂從五位上。員外介正六位上紀朝臣大純從五位下。掾正六位上山村許智人足外從五位下。並是貢瑞國郡司。去五月有勅。進位一階。至是授焉。丙辰。僧綱言。奉去天平寳字八年勅。逆黨之徒。於山林寺院。私聚一僧已上。讀經悔過者。僧綱固加禁制。由是。山林樹下。長絶禪迹。伽藍院中。永息梵響。俗士巣許。猶尚嘉遁。況復出家釋衆。寧无閑居者乎。伏乞。長往之徒。聽其脩行。詔許之。
十月一日に白壁王は大極殿で天皇の位に就き、元号を「寶龜」と改め、次のように詔されている(以下宣命体)・・・口に出すのも恐れ多い奈良宮に天下をお治めになった倭根子天皇(高野天皇)は、去る八月に、この天皇の治める國である天下を支配する任務を、拙く愚かな朕に賜って仕え奉れと、御委任になりお授けになったと仰せになる高野天皇の御言葉を、朕は頭上にお受けし、恐縮して承って、進退を如何にすべきか分からず、恐れつつしんでいる、と仰せになる御言葉を、皆承れと申し渡す。---≪続≫---
ところで、この天つ日嗣高御座の任務は、天に坐す神と地に坐す祇が共に承諾し、共に扶けることに依って、この地位には平らかに安らかに坐して、天下を統治するものであるらしいと思っている。また、天皇として天下を統治する君主は、賢い臣下で能力のある人を得て、天下を平安に統治するものであるらしいと聞いている。---≪続≫---
そこで、勅命であると仰せになるには、朕は、拙く弱くあるけれども、親王をはじめ諸王・諸臣達が力を出し合って仕え、共に扶け申し上げることによって、委任されお授けになった國を治め行くための天下の政治は、平安に処理して行くことができると思う。そこで皆々が、浄く明るい心、正直な言を以って、國の政務について奏上し、天下の公民を恵み治めるべきであると思う、と仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す。---≪続≫---
言葉を改めて仰せになるには、今年八月五日に、肥後國葦北郡の人である「日奉部廣主賣」が「白龜」を献じた。また同月十七日に同國「益城郡」の人である「山稻主」が「白龜」を献じた。これは、とりもなおさず、共に大瑞にあっている。そこで天地が賜る大瑞は、受け賜って歓び、受け賜って貴ぶべきものである。この故に、神護景雲四年を改めて寶龜元年とする。また、仕えている人達のなかで、その仕える様子に従って、一人二人の者どもに位階を上げて優遇する。また天下に大赦を行う。---≪続≫---
また、天下の六位以下の位のある人達に位一階を与える。大神宮を初めとする諸社の禰宜達に位一階を与える。また僧綱を初めとして諸寺の師位の僧尼達に天皇の手回りの品を布施する。また高齢の人達を養い、また貧乏の人等に恵みを与える。また孝行で正しい道を守っている人達に、その課役を免じる。また今年の天下の田租を免除する、と仰せなる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す・・・。
藤原朝臣永手に正一位、大中臣朝臣清麻呂(中臣朝臣。東人に併記)・文室眞人大市・石川朝臣豊成・藤原朝臣魚名(鳥養に併記)・藤原朝臣良繼(宿奈麻呂)に正三位、奈紀王(奈貴王。石津王に併記)に正五位下、「河内王」(河内女王近隣)・掃守王に從五位上、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)・藤原朝臣雄田麻呂に正四位下、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)・藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)・藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)・藤原朝臣家依に從四位上、大伴宿祢三依(御依。三中に併記)に從四位下、阿倍朝臣淨成・大伴宿祢家持・大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)・佐伯宿祢三野(今毛人に併記)・藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)に正五位下、佐伯宿祢國益(美濃麻呂に併記)・石上朝臣家成(宅嗣に併記)・大野朝臣眞本・藤原朝臣小黒麻呂に從五位上、巨勢朝臣公足(公成に併記)に從五位下、村國連子老(復位。子虫に併記)に外從五位下を授けている。
三日に宍人朝臣繼麻呂(倭麻呂に併記)に従五位下を授けている。八日、これより先、去る九月七日に右大臣である兼中衛大将・勲二等の吉備朝臣眞備は、啓(皇太子等に奉る文書)を奉って辞職を申し出、以下のように述べている・・・もれ聞くところでは、力が及ばないのに無理につとめる者はやがて役に立たなくなり、心が及ばないのに極限までつとめる者は必ず判断を誤ると言う。「眞備」を自ら顧みると、まことに証拠とするに十分である。---≪続≫---
去る天平寶字八(764)年に、「眞備」は年齢が七十に満ちた。そこでその年の正月に、官職を辞する旨の上表文を大宰府に提出したことがある。ところが奏上されない間に、すぐさま官符があって、造東大寺司長官に任命された。これによって入京したが、病気になって家に帰り、役所に出仕する心を失くしていた。ところが、たちまち兵乱(仲麻呂の乱)が起こり、急に召されて参内し、軍務に従事し戦略を練った。---≪続≫---
乱が終わって戦功を検べた時、この微かな功績によって次々に高い官職に登り、辞職して道を譲ることを許されず、既に数年が過ぎてしまった。そのため最早今では老と病が身に纏い付いて、療治してもなかなか治らない。天官の職(右大臣)は、激務であって、しばらくでも休んで空席にしておくべきではない。どうして病をもって痛んだ身体の私が、久しく宰相の地位を穢し、数職を兼任して、そのために天皇の政務を補佐するのに手落ちがあったよいものであろうか。---≪続≫---
自らいやしい我が身を顧みるに、はなはだ赤面する次第である。天に恥じ地に恥じて身を容るところもない。辞職して賢者の出世の道を塞ぐことを避け、上には聖天子の朝廷が年老いた私に老を養わせる德をもたれることを請い願い。下には凡庸で愚かな私に足ることを知る心を遂げさせて頂くことを、伏してお願い申し上げる。---≪続≫---
ことに、特別の御恩を望み乞い、あわれみを救って下さるように祈る。憂いの気持ちに堪えず、謹んで春宮の路の左に参って、啓を奉りお願い申し上げる。どうかお聞き届け下さい・・・。
この日になって、次のように詔されている・・・先に奉って来た上表をみて、初めて辞職をして家に帰りたいと言っていることを知った。天皇の喪がまだ一年にならないのに、引退するというのはなんと早い事か。悲しみと驚きが交錯して、すぐに答える言葉がない。夜通し労を思って坐しているうちに朝になってしまった。---≪続≫---
申請を退けたら、へりくだることによって明らかとなる「眞備」の徳に逆らうことになる。また、申請した来た情を遂げようとすると、いよいよ「眞備」の賢い助けが有難く思われる。そこで中衛大将は解くが、右大臣の職はそのまま帯びているようにせよ。高官が居並ぶ腰掛のなかにあって、朝廷の右の座を空席にすることがないように。今は涼しい季節で、快適に過ごしていることと思う。書面では意を尽くせない点が多い・・・。
九日に白龜を獲らえた「山稻主」、「日奉公廣主女」に各々位階を十六級、絁十疋、真綿二十屯、麻布四十段、正税一千束を与えている。文室眞人淨三(智努王)が亡くなっている。長親王の子であった。中央・地方の官職を歴任して大納言に至った。年老いて辞職し私邸に退去した。臨終に際しての遺言で、葬儀は簡素にして朝廷からの鼓吹(喪葬具の太鼓と笛)を受けないようにと命じ、子供達はそれに従っている。当時の人々は、これを賞賛している。朝廷は使者を遣わして物を贈って弔っている。
二十三日に大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を右中弁、阿倍朝臣清成(淨成)を員外右中弁、石川朝臣豊人を右少弁、多朝臣犬養を式部少輔、阿倍朝臣淨目(小路に併記)を散位頭、甲斐守の豊國眞人秋篠(秋篠王)を兼務で治部大輔、掃守王を大炊頭、主殿頭の神眞人土生(壬生王。美和眞人)を兼務で伊勢介、少納言の當麻王(❻)を兼務で尾張守、佐太忌寸味村(老に併記)を相摸介、巨勢朝臣公成(君成)を常陸介、内藏忌寸若人(黒人に併記)を員外介、田口朝臣水直(御直)を信濃員外介、池田朝臣眞枚(足繼に併記)を上野介、石川朝臣名繼(眞守に併記)を丹波介、川邊朝臣東人を石見守、左少弁の當麻眞人永嗣(得足に併記)を兼務で土左守に任じている。
二十五日に大野朝臣仲千(仲智、仲仟。廣言に併記)に從三位、飯高宿祢諸高(笠目)に從四位下、巨勢朝臣巨勢野・百濟王明信(①-⓱)に正五位下、巨勢朝臣魚女に從五位上、賀陽朝臣小玉女・桑原公嶋主(足床に併記)・武藏宿祢家刀自(丈部直刀自)・縣犬養宿祢道女(眞伯に併記)・和氣公廣虫に從五位下、「神服連毛人女・金刺舍人若嶋」に外從五位下を授けている。
二十六日に伊豫守の高圓朝臣廣世(石川廣世)に正五位下、掾の「中臣朝臣石根」に從五位下、介の板茂連眞釣(板持連)に外從五位上、員外介の「百濟公水通」に外從五位下、外散位の越智直飛鳥麻呂・越智直南淵麻呂(蜷淵)に外從五位上、肥後守の大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)に正五位上、介の若櫻部朝臣乙麻呂(上麻呂に併記)に從五位上、員外介の「紀朝臣大純」に從五位下、掾の山村許智人足(山村臣伎婆都に併記)に外從五位下を授けている。これらの人々は各々瑞を貢献した國司・郡司である。去る五月十一日に勅が出され位一階を進められたが、ここに至って位階を授けている。
二十八日に僧綱が以下のように言上している・・・去る天平寶字八年の勅を受け賜ると、朝廷に逆らう一味どもが、山林の寺院において、密かに僧一人以上を集めて読経や悔過を行っておれば、僧綱が固く禁制せよ、ある。この結果、山林や樹下には末長く禅行を行なうことが絶え、伽藍の区画の中でも永久に読経の響きが止んでいる。俗人の巣父や許由でさえ、なお山林に隠遁することを尊んでいる。どうしてまた出家した僧侶で山林にわび住まいするものがなくてよいであろうか。どうか山に隠遁した僧侶がそのまま山林で修業することを許して頂きたいと思う・・・。詔されて、これを許している。
右図に示した通り、前回と同様に白龜=くっ付いて並んでいる[龜]の頭部の地形が見出せる。「白龜赤眼」の東側の山稜が作る地形である。何とも多数の「龜」の生息地だったようである。
● 日奉部廣主賣 日奉部の「日奉」は既出の文字列である。書紀の天武天皇紀に『八色之姓』で連姓賜姓の財日奉造、また聖武天皇紀に日奉弟日賣が登場していた。日奉=太陽のように丸い地を両腕で奉るように山稜が延びているところと解釈した。図に示したように片方の「龜」を表していると思われる。
廣主賣の廣主=真っ直ぐに延びる山稜が広がっているところと読むと、この人物の出自の場所を求めることができる。二つの「龜」に挟まれた谷間、それを開拓して献上したという物語だったと推測される。
「肥後國益城郡」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。肥後國の郡割では上記の葦北郡の他に天草郡・八代郡が既に登場していた(こちら参照)。
また直近で、なぞなぞの文面であるが、「八代郡」にあった「正倉院」の近くから「蝦蟇」が隊列を組んで南に向い、「日暮」で分からなくなった、と記載されていた。蝦蟇=ガマのような山稜と解釈して、それらが点々と連なっている地形を表している、と読み解いた(こちら、こちら参照)。
勿論、八代郡の南側に未開の地が存在し、その地形を述べていることは分かるが・・・「龜」に食われたとでも言うのであろうか・・・横道に逸れ過ぎるので、元に戻すと、確かに小高い山稜が点在している地形であることが確認される。
その地形を既出の文字列である益(益)城=谷間に挟まれて一様に平らに盛り上げられて整えられたようなところと読み解ける。図に示した山稜の形を郡名に用いたものと思われる。すると、二匹の「龜」の存在が浮かび上がって来たようである。上記と同じく「龜」の頭部と見做した地が、現在の青柳川が流れる谷間を挟んでいることが解る。「蝦蟇」は「龜」の餌食となったようである。
● 山稻主 「山」は氏名だが、無姓なのであろう。天皇家の”感化”が及んでいない地域だったようである。ただ名前は「稻主」とあり、これも些か見慣れぬ文字使いなのであるが、稻主=窪んだ地に稲穂のように延びた三つの山稜の真ん中の麓のところと解釈される。
山=[山]の文字形のように山稜が延びている様を表しているのであろう。青天の霹靂で十六階級の昇進(無位か十六階級とすると、上記の「日奉廣主賣」も同じく正六位上)となったわけである。
書紀の天武天皇紀の『八色之姓』の中に神服部連に宿祢姓を賜ったと記載されている。但し、その後續紀中にも具体的な人物名が記載されることはなく、詳細場所は定かではなかった。
右図に神服=長く延びる高台の麓に箙のような谷間があるところの部=近傍の場所として、田川郡香春町香春の地に求めていた(こちら参照)。
今回登場の人物は神服連であり、正にその谷間に位置する場所を表していると思われる。そして、毛人女の毛人=谷間に鱗のような地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
後に幾度か登場され、宿祢姓を賜って従五位上に叙されている。二度の叙爵であり、何らかの曲折を経たのか、あるいは単なる重複記事なのかは不明のようである。
少し後の寶龜三年(772)正月に「乙巳。信濃國水内郡人女孺外從五位下金刺舍人若嶋等八人賜姓連」と記載されている。信濃國水内郡については、神護景雲二(768)年五月に二名の者が、その善行が認められて終身の田租を免除されていた(こちら参照)。
決して広い郡域ではないのだが、今回の登場人物の出自場所を、その地に求めてみよう。金刺舎人の金刺=[金]の文字形をした山稜の先に朿のように盛り上がった地があるところと読み解ける。
「舎人」も立派な地形象形表記であり、舎人=谷間で延びた山稜の端がて盛り上がって広がっているところと解釈した。要するに「舎人」の地が「金刺」の地形になっていることを表していることが解る。図に示した場所に、その地形を確認することができる。
名前の若嶋=細かく岐れた山稜の先に鳥のような形をした山稜が延びているところと解釈される。推定される出自の場所と図に示した。上記したように少し後に連姓を賜っているようである。
些か系統に異なる人物のように感じられたが、調べると書紀の天武天皇紀に登場した「渠每」の子である「大嶋」の孫であったことが分かった(こちら参照)。
「垂目」の子である「嶋麻呂」の系列からは、多くの人物が登用されていたが(こちら参照)、この系列では、音沙汰なしの状況だったようである。
系譜不詳の「麻呂」や「毛人」もこの近隣に出自の場所を求めたが、果たしてこの孫の居場所は見つかるのであろうか?…全くの杞憂であった。
石根=根のように山稜が細かく岐れた山麓で小高く区切られた地があるところと読み解くと、図に示した辺りが出自と推定される。折角の登場なのであるが、この後の様子を伺うことは叶わないようである。
「百濟公」は淳仁天皇紀に百濟人の「余民善女」等に賜った氏姓であった。余氏(後に百濟朝臣を賜姓)の近傍、現地名の京都郡苅田町与原辺りを居処していたと推定した(こちら参照)。
続いて称徳天皇紀には「秋麻呂」(上記引用図に併記)が外従五位下を叙爵されて登場していた。百濟系渡来人を重用する傾向に変わりはないようである。
あらためてその地の地形を伺うと、図に示したように、現在の二つの池の間に水路のような堀が見出せる。
当時は池ではなく、海面下にあったと推測される。おそらく半島を横切る水路のような役割を果たしていたのではなかろうか。それを水通と表現し、その近辺を出自とする人物だったと思われる。
● 紀朝臣大純
またもや「紀朝臣」一族からの新人の登場であり、尚且つ系譜不詳のようである。さて、出自の場所は何処?…なかなかな難問であったようで・・・。
名前の大純=平らな頂の山稜が細長く延び出ているところと解釈されるが、至る所でその地形を見出せる。様々に探索した結果を右図に示した。
宇美の東側、猪養の北側に当たる場所である。関連する情報も皆無であり、既出の人物の居処ではない場所として、この人物の出自場所とすることにした。
續紀の記述では、この後地方官を務められて幾度か登場されているようである。最終従五位上・備前守となっている。
後に紀臣眞吉が外従五位下を叙爵されて登場する。同祖なのであろうが、未だ朝臣姓を賜っていない一族だったのではなかろうか。元正天皇紀に紀臣龍麻呂・廣前等が朝臣姓を授けたと記載されていた。おそらく彼等と少々離れた場所で「紀朝臣」とは別の山稜に住まっていたと推測される。
眞吉=蓋をするように延びた山稜が寄り集まって窪んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。叙位されるのだが、その後に登場されることはないようである。
更に後に紀朝臣繼成が従五位下を叙爵されて登場する。こちらは列記とした「紀朝臣」一族なのであろうが、系譜不詳のようである。少し遡ると「成」の文字を含む名前の持ち主は登場していないことが分かった。
繼成=平らに整えられた高台を引き継ぐところと解釈されるが、一に特定するには些か曖昧な表記と思われる。関連する表記として僧麻呂に着目してみると、図に示したように積み重ねられた高台が連なっていることが解った。おそらく、その地が出自の場所だったと思われる。