2023年10月26日木曜日

高野天皇:称徳天皇(27) 〔651〕

高野天皇:称徳天皇(27)


寶龜元(西暦770年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

八月庚寅朔。日有蝕之。遣參議從四位下外衛大將兼越前守藤原朝臣繼繩。左京少進正六位上大中臣朝臣宿奈麻呂。奉幣帛及赤毛馬二疋於伊勢太神宮。遣若狹國目從七位下伊勢朝臣諸人。内舍人大初位下佐伯宿祢老。奉鹿毛馬於若狹彦神。八幡神宮。各一疋。辛夘。遣神祇員外少史正七位上中臣葛野連飯麻呂。奉幣帛於越前國氣比神。能登國氣多神。使雅樂頭從五位下伊刀王受神教於住吉神。癸巳。天皇崩于西宮寢殿。春秋五十三。」左大臣從一位藤原朝臣永手。右大臣從二位吉備朝臣眞備。參議兵部卿從三位藤原朝臣宿奈麻呂。參議民部卿從三位藤原朝臣繩麻呂。參議式部卿從三位石上朝臣宅嗣。近衛大將從三位藤原朝臣藏下麻呂等。定策禁中。立諱爲皇太子。」左大臣從一位藤原朝臣永手受遺宣曰。今詔〈久〉。事卒尓〈尓〉有依〈天〉諸臣等議〈天〉。白壁王〈波〉諸王〈乃〉中〈尓〉年齒〈毛〉長〈奈利〉。又先帝〈乃〉功〈毛〉在故〈尓〉太子〈止〉定〈天〉奏〈波〉奏〈流麻尓麻〉定給〈布止〉勅〈久止〉宣。」遣使固守三關。」以從三位文室眞人大市。高麗朝臣福信。藤原朝臣宿奈麻呂。藤原朝臣魚名。從四位下藤原朝臣楓麻呂。藤原朝臣家依。正五位下葛井連道依。石川朝臣垣守。從五位下太朝臣犬養。六位十一人。爲御裝束司。從三位石川朝臣豊成。從五位上奈癸王。正四位下田中朝臣多太麻呂。從四位上佐伯宿祢今毛人。從四位下安倍朝臣毛人。從五位上安倍朝臣淨成。從五位下小野朝臣石根。六位已下八人。爲作山陵司。從五位下石川朝臣豊人。外從五位下高松連笠麻呂。六位二人爲作路司。外從五位下佐太忌寸味村。外從五位下秦忌寸眞成。判官主典各二人。宮内。大膳。大炊。造酒。筥陶。監物等司一人。爲養役夫司。興左右京四畿内。伊賀。近江。丹波。播磨。紀伊等國役夫六千三百人。以供山陵。乙未。天下擧哀。服限一年。差近江國兵二百騎。守衛朝庭。以從三位藤原朝臣宿奈麻呂爲騎兵司。從五位上阿倍朝臣淨成爲次官。判官主典各二人。丁酉。停釋奠。以天下凶服也。是日自天皇崩。爰登一七。於東西大寺誦經。戊戌。授正五位下豊野眞人出雲從四位下。從五位上豊野眞人奄智正五位下。從五位下豊野眞人五十戸從五位上。以其父故式部卿從二位鈴鹿王舊宅。爲山陵故也。授從五位上藤原朝臣乙繩從四位下。正六位上藤原朝臣是人從五位下。己亥。蝦夷宇漢迷公宇屈波宇等。忽率徒族。逃還賊地。差使喚之。不肯來歸。言曰。率一二同族。必侵城柵。於是。差正四位上近衛中將兼相摸守勳二等道嶋宿祢嶋足等。検問虚實。乙巳。二七。於藥師寺誦經。丙午。葬高野天皇於大和國添下郡佐貴郷高野山陵。以從三位藤原朝臣魚名爲御前次第司長官。從五位下桑原王爲次官。判官主典各二人。從四位下藤原朝臣繼繩爲御後次第司長官。從五位下大伴宿祢不破麻呂爲次官。判官主典各二人。」皇太子在宮留守。道鏡法師奉梓宮。便留廬於陵下。」天皇自幸由義宮。便覺聖躬不豫。於是。即還平城。自此積百餘日。不親視事。群臣曾無得謁見者。典藏從三位吉備朝臣由利。出入臥内。傳可奏事。天皇尤崇佛道。務恤刑獄。勝寳之際。政稱儉約。自太師被誅。道鏡擅權。輕興力役。務繕伽藍。公私彫喪。國用不足。政刑日峻殺戮妄加。故後之言事者。頗稱其冤焉。庚戌。皇太子令旨。如聞。道鏡法師。竊挾舐粳之心。爲日久矣。陵土未乾。姦謀發覺。是則神祇所護。社稷攸祐。今顧先聖厚恩。不得依法入刑。故任造下野國藥師寺別當發遣。宜知之。即日。遣左大弁正四位下佐伯宿祢今毛人。彈正尹從四位下藤原朝臣楓麻呂。役令上道。」以從五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂爲多褹嶋守。辛亥。從五位上阿倍朝臣東人爲中務大輔。從五位上日置造簑麻呂爲圖書頭。從四位下藤原朝臣楓麻呂爲伊勢守。從五位下桑原王爲下野員外介。從四位上左中弁内豎大輔内匠頭右兵衛督藤原朝臣雄田麻呂爲兼越前守。式部大輔從四位下藤原朝臣家依爲兼丹波守。從五位下文室眞人高嶋爲備中守。從五位下大伴宿祢東人爲周防守。參議從三位兵部卿兼造法華寺長官藤原朝臣宿奈麻呂爲大宰帥。」流道鏡弟弓削淨人。淨人男廣方。廣田。廣津於土左國。壬子。三七。於元興寺誦經。是日。授從四位上坂上大忌寸苅田麻呂正四位下。以告道鏡法師姦計也。乙夘。河内職復爲河内國。」以慈訓法師。慶俊法師復爲少僧都。丁巳。授大學頭諱從四位下。」以從五位下賀茂朝臣淨名爲員外少納言。從四位上藤原朝臣雄田麻呂爲右大弁。内豎大輔内匠頭右兵衛督如故。從四位下諱爲侍從。從四位下吉備朝臣泉爲大學頭。從五位上紀朝臣廣庭爲河内守。從五位下桑原王爲下総介。造宮卿從三位高麗朝臣福信爲兼武藏守。大藏卿從三位藤原朝臣魚名爲兼但馬守。從五位下大伴宿祢潔足爲因幡守。近衛少將從五位下紀朝臣船守爲兼紀伊守。從四位下豊野眞人出雲爲大宰大貳。戊午。初天平十二年左馬寮馬部大豆鯛麻呂誣告河内國人川邊朝臣宅麻呂男杖枚代。勝麻呂等。編附飼馬。宅麻呂累年披訴。至是始雪。因除飼馬之帳。己未。四七。於大安寺設齋焉。

八月一日に日蝕が起こっている。参議・外衛大将兼越前守の藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)と左京少進の大中臣朝臣宿奈麻呂(子老に併記)を遣わして、幣帛と赤毛の馬二匹を伊勢太神宮に奉納している。若狹國目の「伊勢朝臣諸人」と内舎人の「佐伯宿祢老」を遣わして、鹿毛の馬を若狹彦神八幡神宮に一匹ずつ奉納している。

二日に神祇官員外少史の「中臣葛野連飯麻呂」を遣わして、幣帛を越前國の氣比神(古事記の氣比大神)と能登國の氣多神に奉納している。雅楽頭の伊刀王(道守王に併記)を遣わして、住吉神の命令を受けさせている。

四日、天皇が西宮の正殿で崩じている。五十三歳であった。左大臣の藤原朝臣永手、右大臣の吉備朝臣眞備、参議・兵部卿の藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)、参議・民部卿の藤原朝臣繩麻呂、参議・式部卿の石上朝臣宅嗣、近衛大将の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)等が、禁中で策を練り、諱(白壁王、後の光仁天皇。天智天皇の施基皇子の子)を立てて皇太子にした。

左大臣の藤原朝臣永手が遺言の宣命を受けて以下のように述べている(以下宣命体)・・・今仰せになるには、事は突然であるので、諸臣たちの中で年齢も高く、また先帝(天智天皇)の功績もあるので、太子に定めてと奏上するので、奏上する通りに定める、と仰せなると申し渡す・・・。使者を遣わして三關を固め守らせている。

文室眞人大市高麗朝臣福信藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)藤原朝臣魚名(鳥養に併記)・藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)藤原朝臣家依葛井連道依(立足に併記)石川朝臣垣守太朝臣犬養(多朝臣)と六位の官人十一人を御装束司、石川朝臣豊成奈癸王(奈貴王。石津王に併記)・田中朝臣多太麻呂佐伯宿祢今毛人安倍朝臣毛人(粳虫に併記)安倍朝臣淨成小野朝臣石根と六位以下の官人八人を作山陵司、石川朝臣豊人高松連笠麻呂と六位以下の官人二人を作路司、佐太忌寸味村(老に併記)・秦忌寸眞成(首麻呂に併記)と判官・主典として各々二人と、宮内・大膳・大炊・造酒・筥陶・監物などの司から各々一人を養役夫司に任じている。左右京・畿内四ヶ國(大和/河内/山背/和泉)・伊賀・近江・丹波・播磨・紀伊などの國から、役夫六千三百人を徴発して、山陵造りに従わせている。

六日、天下の人々が哀悼の意を表している。服喪期間は一年に限っている。近江國の騎兵二百騎を動員して、朝廷を守衛させている。藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を騎兵司、阿倍朝臣淨成を次官、判官・主典を各々二人を任じている。八日に釈奠の儀を停止している。天下が服喪しているからである。この日、天皇が崩じてから一七日になるので、東大寺・西大寺において誦経させている。

九日に豊野眞人出雲(出雲王)に従四位下、豊野眞人奄智(奄智王)に正五位下、豊野眞人五十戸(猪名部王、別名五十戸王)に従五位上を授けている。彼等の父、故式部卿の鈴鹿王の旧宅の地を山陵にしたからである。藤原朝臣乙縄(縄麻呂に併記)に従四位下、「藤原朝臣是人」に従五位下を授けている。

十日に蝦夷の「宇漢迷公宇屈波宇」等が急に一味を率いて賊地に逃げ帰っている。使者を遣わして呼び戻したが、どうしても帰ろうとせず、[一、二の同族を率いて必ず城柵を侵略しよう]と言っている。そこで近衛中将兼相摸守・勲二等の道嶋宿祢嶋足(丸子嶋足)等を遣わして虚実を検べ問い質させている。十六日、二七日なので藥師寺において誦経させている。

十七日に高野天皇を「大和國添下郡佐貴郷」の「高野山陵」に葬っている。藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を御前次第司長官に、桑原王を次官に、判官・主典を各々二人を任じている。藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を御後次第司長官、大伴宿祢不破麻呂を次官、判官・主典を各々二人を任じている。皇太子は平城宮に居て留守を守った。道鏡法師は御陵につかえ、そのまま山陵のほとりに庵して留まった。

天皇は由義宮に行幸してから、直ぐに身体が不調であると自覚し、そこですぐに平城宮に帰った。これより百日余りを経るまで、自ら政事をとることがなかった。群臣等もその間、謁見することのできた者がなかった。ただ典藏(後宮の藏司次官)の吉備朝臣由利(眞備に併記)が、寝所に出入りして、奏すべきことを申し上げた。

天皇は厚く仏道を崇めて、努めて刑罰に服し獄にある者を哀れんだ。天平勝寶の頃、政治はつづまやかであると称された。太師(藤原仲麻呂)が誅殺されてから、道鏡が権力を恣にし、軽々しく力役を徴発し、努めて伽藍を修繕させた。このため公私ともに疲弊し、國の費用は不足がちになり、政治と刑罰は日増しに峻厳になり、妄りに殺戮を加えるようになった。それで、後日この時代について言う者は、たいそう無実の罪が多かったと述べている。

二十一日に皇太子が次のように令旨を下している・・・聞くところによると道鏡法師は、密かに皇位を窺う心を抱いて、久しく日を過ごしていたという。しかし山陵の土がまだ乾かぬうちに、悪賢い陰謀は発覚した。これはつまり、天神地祇が守られ、土地と五穀の神がお助け下さったのである。今過去の聖帝の厚い恵みを顧みると、法に依って刑罰を加えるに忍びない。そこで造下野國薬師寺別当に任じ、派遣することにする。この事情を了解せよ・・・。

即日、左大弁の佐伯宿祢今毛人と弾正尹の藤原朝臣楓麻呂を遣わして、催促して出発させている。また、中臣習宜朝臣阿曾麻呂(山守に併記)を遣わし、多褹嶋守に任じている。

二十二日に阿倍朝臣東人(廣人に併記)を中務大輔、日置造簑麻呂(蓑麻呂。眞卯に併記)を図書頭、藤原朝臣楓麻呂を伊勢守、桑原王を下野員外介、左中弁・内務大輔・内匠頭・右兵衛督の藤原朝臣雄田麻呂を兼務で越前守、式部大輔の藤原朝臣家依を兼務で丹波守、文室眞人高嶋(高嶋王)を備中守、大伴宿祢東人を周防守、参議・兵部卿・造法華寺(隅院近隣)長官の藤原朝臣宿奈麻呂を兼務で大宰帥に任じている。道鏡の弟の弓削淨人と「淨人」の息子である廣方・廣田・廣津を土左國に流している。

二十三日は、高野天皇の三七日であり、元興寺において誦経させている。この日、坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)に正四位下を授けている。道鏡法師の悪賢い陰謀を告発したからである。二十六日に河内職を再び河内國に戻し、慈訓法師と慶俊法師を再び少僧都に任じている。

二十八日に大学頭の諱(山部親王、後の桓武天皇)に從四位下を授けている。賀茂朝臣淨名を員外の少納言、内竪大輔・内匠頭・右兵衛督の藤原朝臣雄田麻呂を兼務で右代弁、諱(山部親王)を侍従、吉備朝臣泉(眞備に併記)を大学頭、紀朝臣廣庭(宇美に併記)を河内守、桑原王を下総介、造営卿の高麗朝臣福信を兼務で武藏守、大藏卿の藤原朝臣魚名を兼務で但馬守、大伴宿祢潔足(池主に併記)を因幡守、近衛少将の紀朝臣船守を兼務で紀伊守、豊野眞人出雲を大宰大貮に任じている。

二十九日、初め天平十二年に佐馬寮の馬部である「大豆鯛麻呂」は、河内國の人である「川辺朝臣宅麻呂」の息子、「杖代・勝麻呂」等をいつわって告発し、飼馬の名簿に付けさせた。「宅麻呂」等は連年訴え出て、ここに至りやっと無実の罪の汚名をそそいだ。そこで彼等の名を飼馬の名簿から除いている。

三十日は高野天皇の四七日であり、大安寺において法会を催し僧に食事を供している(設齋)。

<伊勢朝臣諸人-清刀自-水通>
● 伊勢朝臣諸人

伊勢國飯高郡を居処とする「伊勢朝臣」一族は、聖武天皇紀に伊勢直族大江が外従五位下を叙爵されて登場し、その後、「伊勢直大津」等が「中臣伊勢連」、更に「中臣伊勢朝臣」の氏姓を賜っている。

そして、称徳天皇紀になって「中臣」を外して「伊勢朝臣」(老人・子老)の氏姓に改められていた(こちら参照)。

そんな背景からして、今回の人物も彼等の谷間を出自とすることには間違いないであろう。名前の諸人=谷間で耕地が交差しているようなところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。従七位下の爵位であるが、この後に續紀に登場されることもなく委細は不明のようである。

後(光仁天皇紀)に伊勢朝臣清刀自が従五位下を叙爵されて登場する。清刀自=山稜の端が刀の形をしている前に四角く囲まれ地があるところと解釈される。その後の消息については不詳のようである。

次いで伊勢朝臣水通が外従五位下を叙爵されて登場する。水通=樋のような地を川が流れているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「老人」の谷奥に当たる場所である。その後に幾度か登場し、内位の従五位上に昇進している。

<佐伯宿祢老-弟人>
● 佐伯宿祢老

相変わらず連綿と登用される「佐伯宿祢」一族からの新人である。直近では『仲麻呂の乱』における大活躍で勲二等を授与された「伊多治」等が登場していたが、彼等は大伴・佐伯の谷間の北部、現在の白川の上流域と推定した(こちら参照)。

彼等も系譜不詳だったのであるが、今回登場の「老」も同様のようである。と言う訳で、名前が示す地形から出自場所を求めるのであるが、頻出の文字であり、それが示す地形は明瞭である。がしかし、この谷間で見出すには、些か難度が高かった。

図に示した場所に何とかそれらしき地形を確認できたが、一応の候補地としておこう。この後も幾度か登場されるようなので、もう少し関連情報が得られるかもしれない。

後(桓武天皇紀)に佐伯宿祢弟人が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同じく系譜不詳のようである。弟人=谷間が曲がりくねって段々になっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「東人」の谷奥に当たる場所である。両者共に、時代的には「東人」や「常人」の子だったのかもしれない。

<中臣葛野連飯麻呂-廣江>
● 中臣葛野連飯麻呂

「中臣葛野連」の氏姓は、聖武天皇紀に中臣部干稻麻呂が賜っていた。そもそも「中臣部」は、所謂中臣一族の複姓氏名ではなく、居処も全く異なる地と推定した。

筑前國嶋郡、即ち現在の宗像市河東(ひばりヶ丘)辺りが「中臣部」一族の居処であったと思われる。中臣志斐連も同様である。

今回登場の飯麻呂は、勿論、干稻麻呂の近辺を出自とする人物であったと思われる、飯=山稜がなだらかに延びている様を求めると、図に示した場所が見出せる。續紀での登場は、これきりであり、以後の消息を伺うことは叶わないようである。

後(光仁天皇紀)に中臣葛野連廣江が外従五位下を叙爵されて登場する。名前の廣江=水辺で窪んだ地が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「飯麻呂」同様に以後に登場されることはないようである。

<藤原朝臣是人>
● 藤原朝臣是人

「藤原朝臣」氏姓を持つ人物は、直近では南家豊成系列から長道が登場していた。『仲麻呂の乱』後に復権して、登用される機会が増えて来たようである。

調べるとこの回の人物も同じく南家の乙麻呂系列であったことが分かった。この系列では、兄であり、後に右大臣を務めるほどに有能であった黒麻呂が、既に登場している。

「黒麻呂」は是公とも称し、称徳天皇紀ではその名称で記載されている。兄弟だから一文字共通か?…それもあるだろうが、本来の地形象形表記を行っている筈である。即ち、「是」=「山稜が匙のような形をしている様」の地が並んでいることを表している。

是人=山稜が匙のように延びている先に[人]の形をして岐れているところと読み解ける。「是公」の東側、父親の「乙麻呂」の西隣の場所と推定される。別名として許人麻呂とも記載されていたようである。その許=言+午=耕地が杵で臼を突くように延びている様を確認することができる。この後も幾度か登場されるようである。

<宇漢迷公宇屈波宇>
● 宇漢迷公宇屈波宇

蝦夷らしい名前であるが、正に古事記風の地形象形表記と思われる。ただ國・郡名は記載されず、果たして彼等の出自の場所を何処に求めるか?…幾つかのヒントが散りばめられている。

一つは、既に帰順していたことであり、もう一つは城の近傍に住まっていたことであろう。と言うことは、雄勝城や桃生城、あるいは伊治城の近辺と推測される。

結果的には、雄勝城の麓にその場所を見出すことができたようである。先ずは宇漢迷公宇=宀+于=谷間に山稜が延び出ている様漢=氵+𦰩=川が大きく(直角に)曲がっている様迷=辶+米=山稜が細かく岐れている様と解釈される。

その地形を、「雄勝城」の「雄勝」が表すそのもの地形を含めて、図に示した場所に見出せる。宇屈波宇=谷間に延び出て屈曲している山稜と水辺を覆い被さるように谷間に延び出ている山稜が並んでいるところと読み解ける。この人物の出自の場所を、余すことなく言い表していることが解る。

神護景雲元(767)年十一月に「甲寅。出羽國雄勝城下俘囚四百餘人。款塞乞内属。許之」と記載されていた。本事件の伏線だったのであろう。「宇漢迷公」一族の登場は續紀では見られないが、その後の史書には幾人かが記載されているようである。

<大和國添下郡佐貴郷・高野山陵>
大和國添下郡佐貴郷・高野山陵

既に何度も登場している大和(倭)國添下郡の初見は、書紀の天武天皇紀であり、現地名の田川郡添田町添田辺りと推定した(こちら参照)。

續紀になって、その地に登美郷・箭田郷があったと記載されていた。優れた僧侶(道慈・神叡)の出自場所もこの地に求めることができた。

佐貴郷に含まれる頻出の「佐」=「人+左」=「谷間にある左手のように山稜が延びている様」、「貴」=「(左手)+(右手)+貝」=「左右の手のような山稜が谷間を挟んでいる様」と解釈した。

纏めると佐貴=左右の手のような山稜が谷間を挟んでいる前に左手のような山稜が延びているところと解釈される。図に示した場所を表していると思われる。当時は、現在の彦山川・不動川の川幅も広く、島状の地形であったと推測される。

高野山陵高野=皺が寄ったような地が平たく広がっているところと読むと、その地にある山を陵としたのであろう。現在は、大きく変形した地形であり、詳細を求めることは叶わないようである。

<川邊朝臣宅麻呂-杖代-勝麻呂>
<大豆鯛麻呂>
● 川邊朝臣宅麻呂・杖代・勝麻呂

文武天皇紀に川邉朝臣乙麻呂が「白鳩」を献上したと記載されていた。その後、この「白鳩」の地に住まう漢人廣橋等に「山背忌寸」の氏姓を賜っていた。

今回登場の人物は、「乙麻呂」との関係は不詳であるのだが、勿論、その近隣を出自としていたのには違いないと思われる。

各人の名前が表す地形から出自の場所を求めることにする。宅麻呂宅=宀+乇=谷間に山稜が広がり延びている様であり、図に示した、「乙麻呂」の南側の場所が出自と推定される。

杖代に含まれる既出の文字である杖=木+丈=山稜が杖のように延びている様代=人+弋=谷間に杙のような山稜が延びている様と解釈した。図に示したように、杖と杙のような山稜が並んでいる麓辺りを表しているのであろう。勝麻呂勝=朕+力=押し盛り上げられたような様であり、「杖代」の東側の山稜を表していることが解る。

● 大豆鯛麻呂 上記の親子は、本文に記載されている通り、河内國を居処とする家族であるが、何故かこの人物の居処は明記されていない。多分、河内國ではないが、そう遠くない別國の人物だったのではなかろうか。「石川郡」は、近江國志賀郡に接する地と推定した。

大豆=平らな頂の山稜が高台になっているところ鯛麻呂鯛=魚+周=魚のような周辺に取り囲まれている様と解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。雑戸の身分に陥れたのだが、如何なる手段を用いたのであろうか?…ともあれ、解放されて目出度し、のようである。

九月壬戌。令旨。比年。令外之官。其員繁夥。徒費國用。無益公途。省官簡務。往聖嘉典。除要司外。宜悉廢省矣。又以去天平勝寳九歳改首史姓。並爲毘登。彼此難分。氏族混雜。於事不穩。宜從本字。又先著袍衣。以疋爲限。天下服用。不聞狹窄。比來。任意競好寛大。至于裁袍更加半疋。袍襖亦齊。不弁表裏。習而成俗。爲費良深。自今以後。不得更然。乙丑。徴和氣清麻呂。廣虫於備後大隅。詣京師。丙寅。五七。於藥師寺設齋焉。」以從五位下文室眞人眞老爲丹波員外介。從五位下阿倍朝臣小東人爲伯耆守。從四位下藤原朝臣乙繩爲土左守。辛未。基信親族近江國人從八位下物部宿祢伊賀麻呂等三人。復本姓物部。癸酉。六七。於西大寺。設齋焉。乙亥。以從五位下石川朝臣眞守爲少納言。從五位上大伴宿祢家持爲左中弁兼中務大輔。從五位下橘宿祢綿裳爲少輔。從三位藤原朝臣宿奈麻呂爲式部卿。造法華寺長官如故。近衛大將從三位藤原朝臣藏下麻呂爲兼兵部卿。從五位上阿倍朝臣東人爲宮内大輔。中務少輔從五位下橘宿祢綿裳爲兼山背守。從五位下豊國眞人秋篠爲甲斐守。從五位上榎井朝臣子祖爲上総守。從四位下藤原朝臣乙繩爲美作守。從五位上巨勢朝臣公成爲長門守。從三位石上朝臣宅嗣爲大宰帥。正四位下坂上大忌寸苅田麻呂爲陸奥鎭守將軍。辛巳。七七。於山階寺。設齋焉。諸國者。毎國屈請管内僧尼於金光法華二寺。行道轉經。是日。京師及天下諸國大秡。壬午。停一年服期。天下從吉。

九月三日に皇太子は次のように令旨を下されている・・・近年、令外の官は、その員数が夥しく多くなり、徒に費用を消費して、公益に寄与していない。官職を省き政務を簡素にすることは、往古の聖帝のよい規範である。そこで主要な官司を除くほかは、全て廃止する。また、去る天平勝寶九歳(757年)に、首と史の姓を改めてそれぞれ毘登にしたが、首と史とが分別し難くなり、氏族の区別が混雑するようになった。これは穏当ではないので、元の字に戻すようにせよ。---≪続≫---

また先に、袍(官人の上着)を着る際は、用いる絹を一匹分に限らせた。天下の人々は、この規定に従って着用していたが、狭くて窮屈であると聞いたことがない。ところが近頃では、心に任せ競って広くゆったりしたのを好み、袍を裁縫する際は、更に半匹分を加えている。また袍も襖も同じように仕立てて、外衣・内衣の別が分からなくなり、それがそのまま風俗になってしまっている。これはまことに無駄な費えである。今後はこのようであってはならない・・・。

六日に和氣清麻呂・廣虫を備後と大隅から召し出し、京に入らせている。七日、高野天皇の五七日であり、藥師寺において法会を催して僧に食事を供している。また、文室眞人眞老(長嶋王に併記)を丹波員外介、阿倍朝臣小東人を伯耆守、藤原朝臣乙繩(繩麻呂に併記)を土左守に任じている。

十二日に基信(基眞。道鏡の側近)の親族である近江國の人、物部宿祢伊賀麻呂等三人を、元の物部の姓に戻している。十四日、高野天皇の六七日であり、西大寺において法会を催し、僧に食事を供している。

十六日に石川朝臣眞守を少納言、中務大輔の大伴宿祢家持を兼務で左中弁、橘宿祢綿裳を中務少輔、造法華寺長官の藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を兼務で式部卿、近衛大将の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を兼務で兵部卿、阿倍朝臣東人(廣人に併記)を宮内大輔、中務少輔の橘宿祢綿裳を兼務で山背守、豊國眞人秋篠(秋篠王)を甲斐守、榎井朝臣子祖(小祖父)を上総守、藤原朝臣乙繩(繩麻呂に併記)を美作守、巨勢朝臣公成(君成)を長門守、石上朝臣宅嗣を大宰帥、坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)を陸奥鎮守将軍に任じている。

二十二日、高野天皇の七七日であり、山階寺(興福寺)で法会を催し、僧に食事を供している。諸國では、國ごとに管内の僧尼を金光明と法華の二寺に招請し、行道(仏の周囲を巡る礼拝)し、誦経させている。この日、京と諸國で大祓をさせている。二十三日に一年間の服装を止めさせ、天下の生活を吉礼に従わせている。この年の六・七月、彗星が北斗七星に入っている。

――――✯――――✯――――✯――――
續日本紀巻卅巻尾