2023年10月16日月曜日

高野天皇:称徳天皇(26) 〔650〕

高野天皇:称徳天皇(26)


寶龜元(西暦770年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

五月乙丑。始聽諸國國師乘驛朝集。庚午。以從五位下田上王。爲縫殿頭。從五位下眞立王爲造酒正。從五位下笠朝臣乙麻呂爲伊豆守。從五位上大伴宿祢駿河麻呂爲出雲守。正五位上大伴宿祢益立爲肥後守。壬申。先是。伊豫國員外掾從六位上笠朝臣雄宗獻白鹿。勅曰。朕以薄徳。祗奉洪基。善政未孚。嘉貺頻降。去歳得伊与國守從五位上高圓朝臣廣世等進白鹿一頭。今年得大宰帥從二位弓削御淨朝臣清人等進白雀一隻。乾坤降祉。符瑞駢臻。或瑞羽呈祥。或珠毛表貺。良由宗社積徳。餘慶所覃。豈朕庸虚。敢當茲應。奉天休而倍惕。荷靈貺。以逾兢。唯可与同徳。公卿佐治。良吏弘政。至道敬答上玄。宜准前綸。量施恵政。但其貢獻瑞物。勞逸不齊。獸則難致。鳥則易獲。如此之流。量定奏聞。於是。左大臣藤原朝臣永手。右大臣吉備朝臣眞備已下十一人奏。臣等言。臣聞。粤自開闢。世有君臨。休徴嘉應。時亦聞之。雜沓繽紛。豈如此盛。伏惟皇帝陛下。蘊徳乘機。再造區宇。括天地以裁成。叶禎祥而定業。礼樂備而政化洽。刑獄平而囹圄清。風雲改色。飛走馴仁。奇珍嘉瑞。不絶於册府。遠贐殊琛無停於史筆。臣等叨陪近侍。頻觀靈物。抃躍之喜。實万恒情。白鹿是上瑞。白雀合中瑞。伏望。進白鹿人叙位兩階。賜絁廿疋。綿卅屯。布五十端。稻二千束。共捕白鹿五人。各叙位一階。牧長一人。挾抄二人各賜稻四百束。捕鹿處駈使三人。水手十三人。各三百束。進白雀人叙位兩階。賜稻一千束。進瑞國司及所出郡司。各叙位一階。又伊豫。肥後兩國神護景雲三年以往正税未納。皆悉除免。出瑞郡田租免三分之一。臣等准勅商量。奉行如件。伏請付外施行。制曰可。癸酉。右京大夫從四位下勳四等百濟朝臣足人卒。戊寅。三田毘登家麻呂等四人賜姓道田連。

五月四日に初めて諸國の國師(僧尼の監督等をする僧の職名)が驛馬に乗って朝廷に参集することを許可している。九日に田上王を縫殿頭、眞立王(厚見王に併記)を造酒正、笠朝臣乙麻呂(不破麻呂に併記)を伊豆守、大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)を出雲守、大伴宿祢益立を肥後守に任じている。

十一日、これより前に伊豫國員外掾の笠朝臣雄宗(始に併記)が白鹿を献上し、次の勅が下されている・・・朕は德が薄い身で、慎んで皇位を受け継ぎ、善政をまだ布くほどになっていないのに、めでたい賜物がしきりに現れている。昨年は伊豫國守の高圓朝臣廣世(石川廣世)等の進上する白鹿(白祥鹿)一頭を受け、今年は大宰帥の弓削御淨朝臣清人等の進上する「白雀」一羽を受け取った。---≪続≫---

天地が幸いを下し、めでたいしるしが相次いで至っている。或いはめでたいしるしの羽がめでたいことを現し、或いは珠のような毛が天からの賜物であることを現している。真にそれは我が先祖の積んだ德のお陰が子孫に及んだものと言える。どうして朕のような凡庸で力のない者が、このような感応を受けるのに相当しようか。天の下した賞賛を承ってますます憂い、不思議の賜物を頂いていよいよ畏れるばかりである。---≪続≫---

ただ、朕は先祖と德を同じくするように、公卿等は政治を助け、良吏等は善政を広め、最善の道を歩んで慎んで天にお応えすることにしたい。前の天皇の御言葉に準拠し、状況に応じて恵みある政治を施すようにしたい。但し瑞祥の物を献上する場合、その労苦は同じではない。獣は生け捕りにして進上するのは難しく、鳥は捕らえやすい。このような難易の等級について、量り定めて奏上せよ・・・。

そこで左大臣の藤原朝臣永手、右大臣の吉備朝臣眞備以下の十一人が以下のように奏上している・・・臣等が申し上げる。臣等は、歴史が開けて以来、世に君主の統治があり、めでたいしるしやよい感応が時々あったことは聞いている。しかし、それが入り乱れるほどしきりに起こり、このような盛況を示したことは聞いたことがない。---≪続≫---

伏して考えるに、皇帝陛下は德を積まれ、機会を得て再び天下を治められている。天地を束ねて適切に処断し、めでたいしるしに叶って統治の業を定められた。その結果礼楽が備わり、政治と教化は行渡り、刑罰は公平に行われ、獄舎もすがすがしい状態である。---≪続≫---

風や雪の様子も常と変わり、飛び走るものさえ恵み馴れ、珍奇なもの喜ばしくめでたいものが蔵に絶えず、遠方から宝と珍しい財宝は、史官の筆に書き留められないほどである。臣等は、恐れ多くも近くにお仕えし、しきりに不思議なものを見るにつけ、手を打ち躍り上がるような喜びは、実に平常の心に万倍するものがある。---≪続≫---

さて、「白鹿」は上瑞であり、「白雀」は中瑞に相当する。そこで以下のようになされることを望む・・・「白鹿」を進上した人には位二階を授け、絁二十匹・真綿四十屯・麻布五十端・稲二千束を賜い、共に「白鹿」を捕らえた五人にはそれぞれ位一階を授け、牧長一人と梶取り二人にはそれぞれ稲四百束を賜い、鹿を捕らえるのに駆使された者三人と水夫十三人には、それぞれ稲三百束を賜う。---≪続≫---

「白雀」を進上した人には位二階を授け、稲一千束を賜い、祥瑞を献上した國司と祥瑞の出現した所の郡司には、それぞれ位一階を与える。また、「伊豫・肥後」の両國については、神護景雲三年以前の正税の未納分を、みな免除とする。祥瑞が出現した郡の田租は三分の一を免除する。臣等が勅に従い、量り考えて執り行うことは以上のようである。伏して願うに、このことを地方に達して施行されるように・・・。制してこれを許可されている。

十二日に右京大夫・勲四等の百濟朝臣足人が亡くなっている。十七日に「三田毘登家麻呂」等四人に「道田連」の氏姓を賜っている。

<肥後國:白雀>
肥後國:白雀

伊豫國の白鹿献上は、白祥鹿として記載されていたが、ここでそれを献上した人物が伊豫國員外掾の笠朝臣雄宗であったことが明らかにされている。一方で今年になって、大宰帥が「白雀」を献上したという記事は見当たらない。

読み進めると大宰府管内の「肥後國」からの献上であったことが分かるように記載されているのである。読み飛ばさずに、しっかりと読め、と言うことなのであろう。

「肥後國」からは、直近に「葦北郡」の住人である「刑部廣瀬女」が白龜赤眼を献上したと記載されていた。勿論、そんな地形の場所を開拓したのであろう。

前置きが長くなったが、早速に「白雀」の地形を捜してみよう。既出の通りに白雀=頭の小さい鳥のような形をした山稜がくっ付いて並んでいるところと解釈すると、ずに示した場所が見出せる。「白龜赤眼」の西隣である。推定した郡割では、天草郡に属する地と思われる。

開拓者の名前が登場しないのは、既に古くから開拓されていたのだが、献上手続きが未了だったのかもしれない。弓削一族である新任大宰帥へのおもてなし、だったのかもしれない。

<三田毘登家麻呂・道田連安麻呂>
● 三田毘登家麻呂

「三田毘登」は、かつての「三田首」の氏姓を表していると思われる。文武天皇紀に「大倭國忍海郡」の住人である三田首五瀬が登場していた。

この地には忍海造一族が蔓延っていて、その一角を占めていたと推測した。後に定められた『八色之姓』で連姓を賜っている。

一方「三田首」一族の登場は皆無であった。今回も「道田連」の氏姓を授けたとのみの記述であり、爵位も省略されている有様である。この後、幾人かの人物名が記載されているようであるが、詳細は別途とする。

名前の家麻呂に含まれる頻出の家=宀+豕=谷間に延びた山稜の端が豚の口のようになっている様と解釈したが、その地形を五瀬の東側に確認できる。道田連道田=首の付け根のように窪んだ地が平らに整えられているところと解釈すると、「三田首」の「首」の地形を表していることが解る。

後(光仁天皇紀)に道田連安麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。頻出の安麻呂の地形を「五瀬」と「家麻呂」の間に見出せる。この後、主税助に任じられているが、その後の詳細は不詳のようである。

六月壬辰朔。勅曰。朕以菲薄。謬承重基。撫育乖方。黎首失所。顧念泣罪。情軫納隍。属有所思。欲流渙汚。可大赦天下。自神護景雲四年六月一日昧爽以前。大辟罪以下罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒及強竊二盜咸赦除之。其八虐。私鑄錢。常赦所不免者。不在赦限。但前後逆黨縁坐人等。所司量其輕重奏聞。普告天下。知朕意焉。甲午。正五位上藤原朝臣家依爲式部大輔。從五位下大伴宿祢東人爲散位助。從五位上弓削御淨朝臣秋麻呂爲大藏少輔。中納言從三位石川朝臣豊成爲兼右京大夫。從五位上粟田朝臣公足爲美濃員外介。外從五位上桑原公足床爲能登員外介。外從五位下堅部使主人主爲備後介。己亥。志摩國大風。賑給被害百姓。辛丑。初天皇自幸由義宮之後。不豫經月。於是。勅左大臣。攝知近衛。外衛。左右兵衛事。右大臣知中衛。左右衛士事。甲辰。左大弁從四位上佐伯宿祢今毛人爲兼播磨守。乙巳。美濃國霖雨。賑給被損之民。丁未。以從五位下息長眞人道足爲大監物。正四位下田中朝臣多太麻呂爲民部大輔。從五位上大伴宿祢家持爲少輔。正五位下小野朝臣小贄爲大宰少貳。甲寅。祭疫神於京師四隅。畿内十堺。乙夘。京師飢疫。賑給之。丙辰。授正六位下多治比眞人豊濱從五位下。

六月一日に次のように勅されている・・・朕は非才薄徳の身であるのに誤って重大な皇位を受け継いだが、慈しみ育む方法が間違っているので、人民は安住の所を失っている。顧み思って罪に陥った人のことを泣き悲しみ、窮地にある民のことに心を痛めている。そこで思うところがあって王者としての命令を発しようと思う。天下に大赦すべきである。---≪続≫---

神護景雲四年六月一日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重を問わず、既に発覚した者も未発覚の者も、既に罪名の定まった者もまだ定まっていない者も、現に獄にある囚人、しかし八虐・贋金造り・通常の恩赦では免除されない犯罪は、赦免の範囲に入れない。但し、近年二度の叛逆者(橘奈良麻呂藤原仲麻呂)に連座した人等は、担当の役所が罪の軽重を査定して、奏上せよ。広く天下に布告して、朕の意のある所を知らせよ・・・。

三日に藤原朝臣家依を式部大輔、大伴宿祢東人を散位助、弓削御淨朝臣秋麻呂(道鏡に併記)を大藏少輔、中納言の石川朝臣豊成を兼務で右京大夫、粟田朝臣公足を美濃員外介、桑原公足床(桑原連足床)を能登員外介、堅部使主人主(田邊公吉女に併記)を備後介に任じている。

八日に志摩國に大風が吹いたので、被害を受けた人民に物を与えて救っている。十日に初め天皇が由義宮に行幸して以来、身体不調(不豫)になり一月を経た。ここに至り勅して、左大臣(藤原永手)に近衛府・外衛府・左右兵衛府の職務を、右大臣(吉備眞備)に中衛府・左右衛士府の職務を管轄させている。

十三日に左大弁の佐伯宿祢今毛人に播磨守を兼任させている。十四日に美濃國に長雨が降ったので被害を受けた人民に物を与えて救っている。十六日に息長眞人道足(廣庭に併記)を大監物、田中朝臣多太麻呂を民部大輔、大伴宿祢家持を少輔、小野朝臣小贄を大宰少貮に任じている。

二十三日に疫神を京の四隅と畿内外の堺十ヶ所で祭っている。二十四日に京に飢えと病の災害があったので物を与えて救っている。二十五日に多治比眞人豊濱(乙安に併記)に従五位下を授けている。

秋七月丙寅。授正六位上黄文連牟祢外從五位下。己巳。土左國飢。賑給之。乙亥。勅曰。朕荷負重任。履薄臨深。上不能先天奉時。下不能養民如子。常有慚徳。實无榮心。撤膳菲躬。日愼一日。禁殺之令立國。宥罪之典班朝。而猶疫氣損生。變異驚物。永言疚懷。不知所措。唯有佛出世遺教應感。苦是必脱。災則能除。故仰彼覺風。拂斯祲霧。謹於京内諸大小寺。始自今月十七日。七日之間。屈請緇徒。轉讀大般若經。因此。智惠之力忽壞邪嶺。慈悲之雲永覆普天。既往幽魂。通上下以證覺。來今顯識及尊卑而同榮。宜令普告天下。斷辛肉酒。各於當國諸寺奉讀。國司國師共知。檢校所讀經卷。并僧尼數。附使奏上。其内外文武官属。亦同此制。稱朕意焉。戊寅。常陸國那賀郡人丈部龍麻呂。占部小足獲白烏。筑前國嘉麻郡人財部宇代獲白雉。賜爵人二級。稻五百束。但馬國疫。賑給之。庚辰。以從三位藤原朝臣宿奈麻呂。從四位下多治比眞人土作。爲參議。」授從四位下多治比眞人土作從四位上。正五位上百濟王理伯。正五位下紀朝臣益麻呂並從四位下。從五位上石川朝臣垣守。高賀茂朝臣諸雄並正五位下。正六位上大中臣朝臣繼麻呂從五位下。正六位上吉田連斐太麻呂外從五位下。從五位下若狹遠敷朝臣長賣正五位上。辛巳。正五位上藤原朝臣家依。正五位下吉備朝臣泉並授從四位下。无位笠朝臣賀古從五位下。壬午。修志紀。澁川。茨田等堤。單功三万餘人。癸未。太政官奏。奉去六月一日勅。前後逆黨縁坐人等。所司量其輕重奏聞者。臣曹司且勘。天平勝寳九歳逆黨橘奈良麻呂等并縁坐惣四百卌三人。數内二百六十二人。罪輕應免。具注名簿。伏聽天裁。奉勅依奏。但名簿雖編本貫。正身不得入京。乙酉。外從五位下三嶋縣主宗麻呂賜姓宿祢。戊子。出羽國雨氷。稻禾爲之被損。己丑。今良大目東人子秋麻呂等六十八人賜姓桧前。若櫻部。津守部。眞髮部。石上部。丈部。桑原部。置始部。宇治部。大宅部。丸部。秦部。林部。穗積部。調使部。伊福部。采女部。額田部。上村主。湯坐部。壬生部。 

七月六日に「黃文連牟祢」に外従五位下を授けている。九日に土左國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。

十五日に次のように勅されている・・・朕は重い任務を負いて、薄い氷を踏み深い淵に臨むように恐れ慎んで来た。しかし上は天意に先立って時勢に奉仕することができず、下は民を我子のように養うことができず、常に德の薄いことを恥じ、まことに心中ほっとすることがない。食事を節して我が身を簡素にし、慎む心を日増しに固くしている。殺生禁断の法を国家に立て、罪を赦免する法を朝廷に頒布した。---≪続≫---

しかしなお、疫病は生き物を損ない、天変地異が物をまで驚かしている。永くここに心を痛め、身の置きどころない思いがする。ただ、仏陀がこの世を解脱して残した教えが朕の態度に感応することがあるなら、苦境は必ず抜け出すことができ、災害はすぐに除くことができるであろう。そこで仏陀の悟りを仰ぎ、この妖気を払うことにしたい。---≪続≫---

謹んで京内の大小の寺々において、今月十七日から始めて七日の間、僧侶を招請して『大般若経』を転読させることにする。これより仏陀の知恵の力がたちまち嶺のように大きな邪悪を打ち破り、慈悲の雲が永く国土を覆い、既に亡くなった人の霊魂は上下ともに成仏し、未来と現在の人間は尊卑ともに同じく栄えよう。---≪続≫---

広く天下に布告して、五辛・肉・酒を禁じ、それぞれの國の寺々において、『大般若経』を転読せよ。國司と國師は共に事に当たり、読経の経巻と僧尼の数とを検査して、使者に託して奏上せよ。内外の文武の官人もまたこの制に従い、朕の意に叶うようにせよ・・・。

十八日に常陸國那賀郡の人である「丈部龍麻呂」と「占部小足」が「白烏」を捕らえている。「筑前國嘉麻郡」の人である「財部宇代」が「白雉」を捕らえている。それぞれ位二級と稲五百束を賜っている。また、但馬國に疫病が流行したので、物を与えて救っている。

二十日に藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)多治比眞人土作(家主に併記)を参議に任じている。「土作」に従四位上、百濟王理伯(①-)・紀朝臣益麻呂(益人)に従四位下、石川朝臣垣守高賀茂朝臣諸雄(田守に併記)に正五位下、大中臣朝臣繼麻呂(子老に併記)に従五位下、「吉田連斐太麻呂」に外従五位下、「若狹遠敷朝臣長賣」に正五位上を授けている。二十一日に藤原朝臣家依吉備朝臣泉(眞備に併記)に従四位下、「笠朝臣賀古」に従五位下を授けている。二十二日に河内國志紀・渋川・茨田などの堤を修繕している。延べ労働力三万余りであった。

二十三日に太政官が以下のように奏上している・・・去る六月一日の勅を承ると[近年二度の叛逆者に連座した人等については、担当の官司が罪の軽重を査定して奏上せよ]とある。私共太政官の曹司が些か調べてみると、天平勝寶九歳の叛逆者ども、即ち橘奈良麻呂等とそれに連座した者等は、全て四百四十三人であり、その内二百六十二人は、罪が軽く免ずべき者である。つぶさに名簿を記して、伏して勅裁を仰ぐ・・・。これに対する勅を承ると・・・奏上の通りにせよ。但し戸籍の名は本籍に編入しても、その身は入京してはならない・・・ということであった。

二十五日に三嶋縣主宗麻呂(廣調に併記)に宿祢姓を賜っている。二十八日に出羽國に氷の雨が降り、このため稲や穀草が被害を受けている。二十九日に今良の「大目東人」の子、「秋麻呂」等六十八人に桧前・若櫻部・津守部・眞髮部・石上部・丈部・桑原部・置始部・宇治部・大宅部・丸部・秦部・林部・穗積部・調使部・伊福部・采女部・額田部・上村主・湯坐部・壬生部の氏姓を賜っている。

<黃文連牟禰>
● 黃文連牟祢

「黃書(文)造」として書紀の天智天皇紀以来途切れることなく登場している一族である。高麗系渡来人を祖とし、山背國(現地名京都郡みやこ町犀川大村と推定)に居住していたと知られている(こちら参照)。

天武天皇紀の『八色之姓』で連姓を賜っている。淳仁天皇紀に眞白女が外従五位下を叙爵されて登場していた。今回も同様に外従五位下の叙位である。

牟祢の「牟」=「〇+牛」=「山稜が谷間に挟まれて延びている様」と解釈した。頻出の「祢(禰)」と合わせて、牟祢(禰)=谷間に挟まれて延びている山稜が高台となって広がっているところと読み解ける。

図に示したように「眞白女」の北に接する場所が出自と推定される。後に佐渡守に任じられたと記載されているが、その後の消息については詳らかではないようである。

<丈部龍麻呂・占部小足:白烏>
● 丈部龍麻呂・占部小足

ここで登場の二名の人物は、常陸國那賀郡を居処としていたと記載されている。元正天皇紀に当郡の大領である宇治部荒山が私穀を陸奥國鎮所に献上して外従五位下を叙爵されていた。

丈部龍麻呂丈部=杖のような真っ直ぐに延びた山稜の近隣のところであり、龍=山稜が龍のように延びている様と解釈すると、図に示した場所が、この人物の出自と思われる。那賀郡の谷間の奥に延びる山稜の麓である。

占部小足占部=山稜が枝分かれしている近辺のところであり、小足=山稜の端がが三角形の足のように延びているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。「龍麻呂」と「小足」の二人は、捕獲した白烏の麓に位置する場所であることが解る。絵にかいたような配置となっているのである。

参考にしている資料では”白鳥”と解釈されている。それを瑞祥と見做すのは、かなり無理があるのだが、お構いなしである。「白烏・赤烏」の献上物語は、不可解な記述の一つとされているのであろう。

<筑前國嘉麻郡:財部宇代・白雉>
筑前國嘉麻郡

既に筑前國の宗形郡・御笠郡・嶋郡の三郡が記載されていた(こちら参照)。現在の宗像市を流れる釣川の中~下流域に当たる場所と推定した。通説では、明治になって廃藩置県後に制定された地、現在の嘉麻市近辺とするのであろう。

嘉麻郡に含まれる「嘉」=「壴+加」と分解される。既に嘉禾嘉稻の表記で用いられた文字である。嘉麻=鼓のように丸く取り囲むように盛り上げられた地から擦り潰されたような山稜が延び出ているところと読み解ける。

その地形を「嶋郡」の東側、現在の横山川の対岸に見出すことができる。現地名では宗像市河東辺りである。勿論、記紀・續紀を通じて初見の場所であろう。その地に白雉の地形を容易に確認することができる。既に述べたように、雉=矢+隹=矢のような細長い鳥の様と見做せる地形なのである。

● 財部宇代 既出の財部=山稜が谷間を遮るように延びた近隣のところと解釈すると、「嘉麻」の谷間の出口辺りにその地形があることが確認される。宇代=谷間の延びた山稜が杙のような形をしているところと解釈される。推定される出自の場所を図に示した。

<吉田連斐太麻呂-古麻呂-季元>
● 吉田連斐太麻呂

「吉田連」は聖武天皇紀の神龜元(724)年五月に吉宜・吉智首が賜った氏姓であった。その後に兄人が外従五位下を叙爵されたと記載している。残念ながら彼等の系譜は定かではないようである。

彼等の居処は、古事記の丸邇臣之祖・日子國夫玖命の出自場所、現地名の田川郡香春町柿下辺りと推定した。今回の人物も同様に系譜不詳であり、名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。

斐太麻呂に含まれる「斐太」は既出の文字列であり、例えば巨勢斐太朝臣などに用いられていた。斐太=交差するような谷間で山稜が延び広がっているところと解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。この後幾度か登場され、最終従五位上に昇進されている。

後(光仁天皇紀)に吉田連古麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「宜」の子と知られている。頻出の古=丸く小高くなっている様と解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。この後、幾度か登場し、内位の従五位下となり、侍医を務めている。

更に後(桓武天皇紀)に吉田連季元が外従五位下を叙爵されて登場する。多分名称に用いられた初見と思われる季=禾+子=生え出た山稜が稲穂のように延びている様と解釈される。元=〇+儿=丸く小高い地から[足]のような山稜が延び出ている様と解釈される。その地形を「古麻呂」の「古」の麓に見出せる。續紀中では、「吉田連」としての最後の登場人物のようである。

<若狹國遠敷郡・若狭遠敷朝臣長賣>
<若狹彦神>
若狭國遠敷郡

「若狭國」は、実に古くから登場する國名である。古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)紀が初見であるが(こちら参照)、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に若狭之耳別が最も早い記述と思われる。

そもそも若狹=多く延び出ている山稜の隙間が狭くなっているところが表す地形は、その後右図に示した各郡が属する陸奥國として記載されている。要するに、新羅系渡来人達(蝦夷)によって占領された地となっていたのである。

「若狭國」を出自とする人物は、これまで皆無であり、その國域について語られることがなかったのも至極当然のことであったことが分かる。結局、「若狹國」として残った地が上記の「若狹之耳別」に該当する地だったのである。

● 若狹遠敷朝臣長賣 朝臣姓であり、初登場で正五位上を叙位されている。歴史の表舞台から遠ざかっていたものの遠祖は、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の孫、父親が日子坐王である室毘古王である。列記とした皇別氏族と認知されていたのであろう。

遠敷=ゆったりと延びる山稜の端の麓に平らに広がっているところと解釈すると、「耳」の内側の地を示していることが分かる。長賣はその先端部が出自であることを表していると思われる。

尚、續紀には記載されないが、「若狹國」にはもう一つ三方郡があったと知られている。図に示したように「耳」の外側の地を表しているようである。

翌八月記に若狭彦神が登場する。馬を奉納されている。彦(彥)=文+厂+彡=山麓で山稜が交差するように延び出ている様と解釈すると、上図の挿入図に示した場所に鎮座していたのではなかろうか。續紀中での出現は一度きりのようである。

<笠朝臣賀古-猪養-名末呂>
● 笠朝臣賀古

「笠朝臣」については、直近では「御室」の子である伊豫國員外掾の雄宗(始に併記)が白鹿を献上し、二階級特進して従五位上を叙爵されていた。

「賀古」の系譜を調べると、父親が「金村」で、祖父が「垂」であることが分かった。即ち、「雄宗」とは従弟関係であったのである。記紀・續紀を通じて「金村」は登場しないが、万葉歌人として有名だったとのことである。

既出の文字列である金村=腕のように延びた山稜の前が三角に尖っているところと解釈すると、図に示した「垂」の西側に当たる場所が出自と推定される。

同様に賀古=押し開かれた谷間に丸く小高い地があるところと解釈すると、出自の場所は図に示した辺りと思われる。この後に續紀に登場されることはないようである。父親の跡を継いだのかもしれない。

後(光仁天皇紀)に壹伎目を任じられていた弟の笠朝臣猪養が褒賞を賜って従七位上に叙位されたと記載されている。猪養=平らな頂の山稜が交差している谷間の先がなだらかに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。兄の東側に当たる場所である。

その少し後に笠朝臣名末呂が従五位下を叙爵されて登場する。麻呂(滿誓)の後裔であったと知られている。名末呂=山稜の端が切り取られたように段々になっているところと読み解くと、「麻呂」の麓に当たる場所と推定される。勿論「名麻呂」とも表記される。

<大目東人-秋麻呂>
● 大目東人・秋麻呂

淳仁天皇紀に「以今良三百六十六人。編附左右京。大和。山背。伊勢。參河。下総等職國」と記載されていた。官戸・官奴婢から良民として戸籍に編入したのだが、その入籍の地が左右京識及び各國であったと伝えている。

今回の賜姓対象者は六十八人で、上記の一部に該当するのであろう・・・と、ここまでは本文を読む下した結果であるが、「大目」親子は何処の出自なのであろうか・・・。

着目されるのが、賜姓の筆頭に記載されている桧前であろう。民忌寸一族の北隣であって桧前忌寸一族の南側の場所、即ち品陀和氣命(応神天皇)の輕嶋之明宮があったと推定した地域である。

その近傍で「大目」の地形を探索することにするのであるが、山稜の末端であり、標高差が少なく判別が難しい状況の中で、図に示した場所にそれらしき場所を見出せる。そして、頻出の東人=谷間を突き通すようなところ秋=禾+火=稲穂のような山稜が炎の形に延び出ている様から親子の出自の場所を図に示したように求めた。本文で挙げられた「若櫻部~壬生部」については、省略する。