2023年10月6日金曜日

高野天皇:称徳天皇(25) 〔649〕

高野天皇:称徳天皇(25)


寶龜元(西暦770年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

寳龜元年春正月辛未。宴次侍從已上於東院。賜御被。乙亥。大縣。若江。高安等郡。百姓之宅入由義宮者。酬給其價。戊寅。設仁王會於宮中。甲申。大宰管内大風。壞官舍并百姓廬舍一千卅餘口。賑給被損百姓。

寶龜元年正月八日に次侍従以上を東院の宴に招き、夜具を賜っている。十二日に河内國大縣若江高安などの郡で、人民の宅が由義宮の宮地に入る場合は、その代価を補償させている。十五日に仁王会を宮中で催している。二十二日に大宰府の管内で大風が吹き、官舎と人民の家一千三十余りが壊れている。被害を受けた人民に物を与えて救っている。

二月戊申。陰陽頭正五位下紀朝臣益麻呂爲兼伯耆介。丙辰。破却西大寺東塔心礎。其石大方一丈餘。厚九尺。東大寺以東。飯盛山之石也。初以數千人引之。日去數歩。時復或鳴。於是。益人夫。九日乃至。即加削刻築基已畢。時巫覡之徒。動以石崇爲言。於是。積柴燒之。潅以卅餘斛酒。片片破却。棄於道路。後月餘日。天皇不悆。卜之破石爲崇。即復拾置淨地。不令人馬踐之。今其寺内東南隅數十片破石是也。庚申。車駕行幸由義宮。

二月十五日に陰陽頭の紀朝臣益麻呂(益人)に伯耆介を兼任させている。

<西大寺・飯盛山・西隆寺>
二十三日に「西大寺」の東塔の心礎を壊し捨てている。この石は大きさが一丈四方余り、厚さ九尺で、「東大寺」の東、「飯盛山」で採った石であった(再掲した右図参照)。

初め、数千人で引き動かしたが、一日数歩分しか進まず、時には、また、うなり声がした。それから削り刻み、基礎を築くことも完了した。その時男女の巫の中に、ともすれば石の祟りがあると言う者がいた。

そこで柴を積んで石を焼き、三十石余りの酒を注いで小片に砕き、道路に捨てた。それから一ヶ月余りして、天皇が病気(不悆:心地よくない)になった。

占ったところ砕いた石が祟っているというので、すぐにまた拾って清らかな土地に置き、人馬が踏まないようにさせた。今、寺内の東南の隅にある数十の破片の石がそれである。

二十七日に由義宮に行幸されている。

三月丙寅。車駕臨博多川。以宴遊焉。是日。百官文人及大學生等各上曲水之詩。丁夘。初問新羅使來由之日。金初正等言。在唐大使藤原河清。學生朝衡等。属宿衛王子金隱居歸郷。附書送於郷親。是以。國王差初正等。令送河清等書。又因使次。便貢土毛。又問。新羅貢調。其來久矣。改稱土毛。其義安在。對言。便以附貢。故不稱調。至是。遣左大史外從五位下堅部使主人主。宣告初正等曰。前使貞卷歸國之日。所仰之政。曾無申報。今亦徒持私事參來。所以。此度不預賓礼。自今以後。宜如前仰。令可申事人入朝者。待之如常。宜以此状。告汝國王知。但進唐國消息。并在唐我使藤原朝臣河清等書。嘉其勤勞。仰大宰府安置饗賜。宜知之。賜國王祿絁廿五疋。絲一百絢。綿二百五十屯。大使金初正已下各有差。」授從六位下津守宿祢夜須賣從五位下。癸酉。以從五位下山口忌寸沙弥麻呂。西市員外令史正八位下民使毘登日理。權任會賀市司。壬午。内掃部司員外令史正六位上秦刀良。本是備前國仕丁。巧造狹疊。直司卌餘年。以勞授外從五位下。癸未。外正八位下周防凡直葦原獻錢百万。塩三千顆。授外從五位上。辛夘。葛井。船。津。文。武生。藏六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並着青摺細布衣。垂紅長紐。男女相並。分行徐進。歌曰。乎止賣良尓。乎止古多智蘇比。布美奈良須。尓詩乃美夜古波。与呂豆与乃美夜。其歌垣歌曰。布知毛世毛。伎与久佐夜氣志。波可多我波。知止世乎麻知弖。須賣流可波可母。毎歌曲折。擧袂爲節。其餘四首。並是古詩。不復煩載。時詔五位已上。内舍人及女孺。亦列其歌垣中。歌數闋訖。河内大夫從四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和舞。賜六氏歌垣人商布二千段。綿五百屯。

三月三日に「博多川」に行幸され、宴を催し遊覧されている。この日、百官や文人と大学生等は、それぞれ曲水の詩を奉っている。

四日に、初めに新羅の使節に来朝の理由を尋ねた時、金初正等は以下のように言上している・・・唐に留まっている大使の藤原河清(清河)と学生の「朝衡」(阿倍朝臣仲麻呂、船守の子。こちら参照)等は、唐に宿衛する我等が王子、金隠居が帰郷する際、書信を託して故郷の親族に送るよう依頼した。そこで我が國王は初正等を任命して、河清等の書信を送らせた。また使者として来たついでに、土毛(土地の産物)を献じる・・・。

また、[新羅が調を献上することは長い間続いている。この度、調ではなく土毛と改称したわけは、どこにあるのか]と尋ねると、[便宜により使者に託して献上するので、調と称さない]と答えた。

ここに至って左大史の堅部使主人主(田邊公吉女に併記)を遣わし、初正等に以下のように告げさせている・・・前回の使者金貞巻が帰國する日(天平字四[760]年九月)に、仰せつけたやり方について全く返答がなく、今また、徒に私事をたてにやって来た。それゆえ今回は賓客の礼にあずからせない。今後は前回に仰せ付けたようにせよ。外交上の問題を処理できる人を来朝させるなら、常例のように待遇しよう。こうした事情を、お前たちの國王に報告して知らせよ。ただし、唐國の情勢と在唐の我が大使藤原朝臣河清等の書信を進上したことにつき、その苦労を褒め、大宰府に命じて安全に滞在させ、饗宴と物を賜うことにした。このことを承知せよ・・・。

新羅國王に、禄として絁二十五匹・絹百絢・真綿二百五十屯を授け、大使の金初正から以下の者にも、それぞれ物を与えている。また、津守宿祢夜須賣(眞前に併記)に従五位下を授けている。

十日に山口忌寸沙弥麻呂(佐美麻呂。田主に併記)と西市員外令史の「民使毘登曰理」を權(臨時の)「會賀市」司に任じている。十九日に内掃部司員外令史の秦刀良(財田直常人に併記)は、元は備前國出身の仕丁であった。巧妙に幅の狭い畳(敷物)を作り、司に勤務すること四十余年に及んだので、功労により外従五位下を授けている。二十日、「周防凡直葦原」が銭百万文と塩三千個を献上し、外従五位下を授けている。

二十八日に葛井・船・津・文・武生・藏の六氏の男女二百三十人が、歌垣に奉仕している。その服装は、青く摺染めを施した細布の衣を着て、紅の長い紐を垂らし、男女が互いに並んで、列を分けて緩やかに進み以下のように歌っている[乙女等に 男立ち添い 踏み平らす 西の都は 万世の宮]。

その歌垣では以下のように歌われた[淵も瀬も 清くさやけし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも]。歌の切れ目ごとに、踊り手は袂を挙げて節目としている。その他の四首は、いずれも古歌であった。もう一度煩わしく載せることはしない。

ここで五位以上の人々と内舎人及び女孺等に詔して、その歌垣の中に参加させている。歌数を歌い終わった時、河内大夫の藤原朝臣雄田麻呂以下の人々が、和舞を演奏している。六氏の歌垣を行った人等に、それぞれ商布二千段を真綿五百屯を与えている。

<博多川・會賀市>
博多川・會賀市

「會賀」の文字列は、本紀で「私眞縄」等に賜った會賀臣に用いられていた。その出自の場所は、河内國交野郡、現地名では行橋市入覚と推定した。

勿論、地名は固有ではなく、類似の地形、會賀=押し開かれた谷間が出会うところを表すと解釈するのであるが、由義宮があった同國若江郡の北に隣接する地であり、同一場所を示している可能性が高いと思われる。

「博多」の文字列も既出であり、淳仁天皇紀に博多大津に、古くは古事記の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の掖上博多山上陵に含まれていた。博多=山稜の端の三角州がびっしりと平らに広がっているところと解釈した。その地形を會賀市の麓に見出せる。

歌垣の中で「布知毛世毛。伎与久佐夜氣志。波可多我波。知止世乎麻知弖。須賣流可波可母(淵も瀬も 清くさやけし 博多川 千歳を待ちて 澄める川かも)」が「淵」も「瀬」もある川と詠われている。”曲水”の詩である。それらの地形を明瞭に確認することができる。尚、この原文は全て地形象形表記となっているが、詳細は省略する。

<民使毘登曰理>
● 民使毘登曰理

「民」の氏名を持つ氏族には「民直(忌寸)」の多数の人物が登場している(こちらこちら参照)。今回登場の人物は、多分、同祖なのだが、異なる系列に属していたのではなかろうか。

民使=[民]の傍らの[使]の地形のところと解釈される。「使」=「人+中+又+一」=「谷間の真ん中を突き通すように山稜が延びている様」であり、図に示した場所にその地形を確認できる。

既出の文字列である曰理=谷間に延びた山稜が切り分けられているところと解釈すると、その「使」の端の地形を表してることが解る。「民使毘登」氏姓の人物の登場は、上記の博多川・會賀市同様に、以後續紀に見られないようである。

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少々余談だが、「會賀」は何と読む?…「エガ」が最もらしく思われる。すると古事記に登場した、同じ読みの惠賀が思い起こされる。前者は河内國交野郡(現地名:行橋市入覚)、後者は河内國志紀郡・更荒郡及び和泉國大鳥郡(現地名:同市下崎・二塚・長木)が該当する場所と推定した。

「會」と「惠」の文字が表す地形は、全く異なっている。記紀・續紀の編者等にとっては、”読み”は二次的な意味で重要であって、漢字に含まれる要素の”象形”に基づいて記述しているのである。少しネットを散策すると、勿論、惠賀=會賀と解説されている。裏を返せば、それぞれの場所は、曖昧な状況であることを述べているのである。

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<周防凡直葦原・男公>
● 周防凡直葦原

「周防凡直」は、初見である。おそらく周防國を本貫とする人物であったと思われる。「凡直」は姓であるが、勿論、地形象形表記である。凡直=[凡]の形の谷間が真っ直ぐに延びているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。

既出の文字列である葦原=山稜に取り囲まれて平らに広がっているところであり、「凡直」の谷間の出口の地形を表していることが解る。前出の佐波郡の南に接する地域と思われる。正に地方の大豪族となった人物だったようである。献上品に”塩”が含まれている。既に推測したように当時の海面が間近に迫っていた地域なのである。

後(寶龜十[779]年)に、この人物名は再度記載されるのであるが、その時には周防國周防郡と明記されている。周防國周防=ぐるりと取り囲まれた地から台地が延びて広がったところと解釈したが、その地形を示す場所であり、國名と郡名が重なっているのは至極当然なのである。

ところが、この「周防郡」に関しては、全く関連情報が得られないようである。通説によると、周防國には大島郡・熊毛郡・玖珂郡・吉敷郡・都濃郡・佐波郡の六郡があったとされ(和名抄)、「周防郡」は全く省略されている。古代史の”闇”が、また、一つ顕在化したようである。

尚、熊毛郡・玖珂郡(元正天皇紀)、吉敷郡(聖武天皇紀)、佐波郡(称徳天皇紀)は記載されていたが、續紀には「大嶋郡・都濃郡」の二郡は登場しない。上図における「周防郡」の領域として、その西側(現地名:朝町)を含めるか否かは些か曖昧である。その地をこの二郡とすることも可能のような地形であるが、登場されない故に、これ以上の詮索は止めることにする。

寶龜十年に再登場した経緯は、彼の賎奴の男公が他戸皇子を名乗ったとかで、伊豆に配流されている。他戸皇子に関しては、その突然死の後に天変地異があったり、天皇としては何かと神経を尖らせていたのであろう。瞬時の出来事かもしれないが、震撼させられたのかもしれない。男公=山稜が岐れて広がった谷間に[男]のような地があるところと解釈して、出自の場所を図に示した。

夏四月癸巳朔。授正六位下縣犬養宿祢眞伯從五位下。」以外從五位下内藏忌寸若人爲攝津亮。河内亮從五位上紀朝臣廣庭。攝津亮外從五位下内藏忌寸若人並爲兼造由義大宮司次官。」美濃國方縣郡少領外從六位下國造雄萬獻私稻二万束於國分寺。授外從五位下。」陸奥國黒川。賀美等一十郡俘囚三千九百廿人言曰。己等父祖。本是王民。而爲夷所略。遂成賎隷。今既殺敵歸降。子孫蕃息。伏願。除俘囚之名。輸調庸之貢。許之。乙未。賜陪從文武百官及十二大寺僧沙弥物。各有差。丁酉。詔造由義寺塔諸司人及雜工等九十五人。隨勞輕重。加賜位階。正六位上船連淨足。東人。虫麻呂三人。族中長老。率奉歌垣。並授外從五位下。以東人爲攝津大進。又授正六位上土師宿祢和麻呂外從五位下。戊戌。車駕至自由義宮。庚子。賜弓削氏男女物有差。辛丑。對馬嶋飢。賑給之。癸夘。從五位上弓削宿祢牛養等九人賜姓弓削朝臣。外從五位下弓削連耳高等卅八人宿祢。外從五位下美努連財刀自及正八位上矢作造辛國賜姓宿祢。未經歳月。皆復本姓。己酉。授无位紀朝臣豊賣從五位下。壬子。授正八位上道公張弓從五位下。以貢獻也。戊午。初天皇。八年亂平。乃發弘願。令造三重小塔一百万基。高各四寸五分。基徑三寸五分。露盤之下。各置根本。慈心。相輪。六度等陀羅尼。至是功畢。分置諸寺。賜供事官人已下仕丁已上一百五十七人爵。各有差。

四月一日に「縣犬養宿祢眞伯」に従五位下を授けている。内藏忌寸若人(黒人に併記)を攝津亮、河内亮の紀朝臣廣庭(宇美に併記)と攝津亮の内藏忌寸若人を造由義大宮司次官を兼任させている。美濃國方縣郡(片縣郡)少領の國造雄萬が私財の稲二万束を國分寺に献上したので外従五位下を授けている。

また、陸奥國の黒川賀美など十一郡の俘囚三千九百二十人が以下のように言上している・・・私共の父祖は元々天皇の民であったが、蝦夷にかどわかされ、遂に卑しい身分になった。今既に、敵を殺して帰順し、子孫も増えている。どうか俘囚の名を削除して公民として調庸を納めることを認めることを請う・・・。申請を許可している。

三日に行幸に付き従った文武の官人と十二大寺の僧・沙弥等に、それぞれ物を賜っている。五日に詔されて、「由義寺」(由義宮近隣)の塔を造営した諸司の人々と、各種の工人等九十五人に功労の軽重に応じて位階を加え進めさせている。「船連淨足・東人・虫麻呂」の三人は、一族の長老であり、歌垣を率い仕えたので、それぞれ外従五位下を授け、「東人」を攝津大進に任じている。また、土師宿祢和麻呂(父親祖麻呂に併記)に外従五位下を授けている。

六日、由義宮から帰られている。八日に弓削氏の男女に、それぞれ物を賜っている。九日に對馬嶋に飢饉が起こったので物を与えて救っている。

十一日に弓削宿祢牛養(薩摩に併記:)等九人に朝臣姓を賜っている。弓削連耳高(薩摩に併記:)等三十八人には宿祢姓を、美努連財刀自(奥麻呂に併記)、及び「矢作造辛國」には宿祢姓を賜っている。しかし歳月を経ないうちに、みな元に姓に戻された。十七日に「紀朝臣豊賣」に従五位下を授けている。二十日、道公張弓(越前國加賀郡:勝石に併記)に従五位下を授けている。私財を献上したためである。

二十六日に初め天皇は天平字八年の「仲麻呂」の乱が鎮圧された際、大きな願い起こして死者供養のため三重の小塔百万基を作らせた。それは高さ四寸五分、底部の直径三寸五分で、露盤の下には、各々根本・慈心・相輪・六度などの陀羅尼を収めていた。この時に至って完成したので諸寺に分け置いている。このことに携わった官人以下仕丁以上の者、百五十七人にそれぞれ位を授けている。

<縣犬養宿祢眞伯-道女-竈屋>
● 縣犬養宿祢眞伯

「縣犬養宿祢」一族から久々である。一時は夥しい数の人物が登場していたが、少々落ち着いて来たところで、やはり途切れることなく登用されたようである。

とは言え、系譜は不詳のようであり、名前が示す地形から出自の場所を求めることになるが、この地も既に埋まっている様相であり、果たして・・・。

既出の文字列である眞伯=並んで延びる谷間が寄り集まっているところと解釈する。すると、図に示した場所が、それらしき地形のように思われるが、地形変形が凄まじく、些か当時の詳細な地形を確認し辛い感じである。

現在は池にもなっていてるが、これもかなり時代を遡るようである。地図情報が限られていることから、先ずは、この人物の出自場所として挙げて置くことにする。

少し後に縣犬養宿祢道女が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、名前が表す地形から出自場所を求めると、道=辶+首=山稜の麓が首の付け根のような形をしている様から、図に示した場所が見出せる。

更に後(光仁天皇紀)に縣犬養宿祢竈屋が従五位下を叙爵されて登場する。上記二名と同様に系譜不詳の人物のようである。名前が表す…なんと「竈」の文字が用いられている。紀朝臣竈門娘、文武天皇の嬪であった天武天皇の紀皇女であると推察した。嬪号剥奪故に名付けられたものであろう(こちら参照)。

それは兎も角として、「竈」は「山頂から延びる山稜を竈の中で燃える木」と見做した表記と解釈した。古事記の五瀬命を葬った紀國(續紀では紀伊國)に聳える竈山で用いられた文字である。図に示した竈屋=[竈]の山稜から延びる尾根が尽きるところが出自の場所と思われる。

<船連淨足-東人-蟲麻呂-住麻呂>
● 船連淨足・船連東人・船連虫麻呂

正六位上の爵位であり、未だかつてご登場のなかった長老達と記載されている。勿論、頻出の「船連一族」(例えばこちら参照)であり、出自の場所は彼等の近傍には違いないであろう。

と言うことで、河内國丹比郡辺りを名前が示す地形を探索する。淨足=水辺で両腕を延ばしたような地に足の形に山稜が延びているところ、頻出の東人=谷間を突き通すようなところ虫(蟲)麻呂=山稜の端が三つに岐れて延びているところと解釈される。

それぞれの出自場所を図に示した。「淨足」の場所は、かなり地形変形が見られ、些か当時の地形を確認するには難があるが、現在の地形から推測した結果である。

「東人」の谷間は、幾多の登場人物の出自場所には該当せず、いつかは?…と思っていた場所である。こんな形でお目見えすることになったとは、少々思惑が外れた感じのようである。

後(光仁天皇紀)に船連住麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳のようであり、名前が表す地形から、住=人+主=谷間に真っ直ぐに延びる山稜がある様と解釈すると、図に示した「東人」の東隣の場所が出自と推定される。その後にもう一度登場され、その後の様子は定かではないようである。

<矢作造辛國>
● 矢作造辛國

「矢作造」は、記紀・續紀を通じて初見であろう。調べると「河内國若江郡」に関わる一族だったようである。今回の登場も由義宮行幸に際して宿祢姓を賜ったと記載されていて、おそらく宮の近辺が出自と推測される。

矢作造の既出の文字列である矢作=山稜が突き出てギザギザとした谷間に傍らに矢のような山稜が延びているところと解釈される。その地形を図に示した、「弓削」の地形の東側に見出せる。

図に記載した「下村主」は、元正天皇紀に河内手人刀子作廣麻呂に賜った姓であって、その名前にも「作」の文字が含まれていた。同じ谷間を表していることが解る。

名前の辛國=刃物のような尖った山稜が取り囲まれた地に延びているところと解釈すると、出自の場所は、「矢」の先端部辺りと推定される。宮近隣の豪族を取り立てたのであろう。「矢作宿祢」の名称は、この後續紀に記載されることはないようである。

<紀朝臣豐賣(方名)-豊庭>
● 紀朝臣豊賣

初見で内位の従五位下を叙爵されているのだが、何とも素っ気なく、また、この後に登場されることもない有様である。他の史書からの情報も皆無のようであり、紀朝臣一族の地に出自を求めるにも、なかなかに困難な状況と思われる。

例によって名前が示す地形が頼りとなる。前記(聖武天皇紀)に豊川が登場していた。この人物も情報が少なかったのであるが、豐=高台が段々になっている様から、出自場所を推定した。

おそらく、この地の近辺が豊賣の出自だったのではなかろうか。図に示したように「豊川」の南側、犬養の北側の谷間辺りが該当する地形を示しているように思われる。「豊川」は外従五位下であるが、内位となっている。「犬養」は、曲折ながらも最終従四位下まで昇進されるようである。なんらかの繋がりがあったのかもしれない。

後(光仁天皇紀)に命婦の紀朝臣方名が従四位下を叙爵されて登場する。既に従五位下の爵位なのであるが、それに関する記述は見当たらず、方名=山稜の端の三角の地が広がったところの地形からすると、「豊賣」の別名だったのではなかろうか。「豊賣」の地形象形では曖昧だったのであろう。勿論、系譜不詳である。この名称でも、續紀にこの後に登場されることはないようである。

また紀朝臣豊庭が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であるが、「豊川・豊賣」の「豊」繋がりと推測すると、図に示した場所が出自と推定される。庭=山麓で弓なりに広がった様と解釈される。その後、幾度か登場されるようである。