2023年10月1日日曜日

高野天皇:称徳天皇(24) 〔648〕

高野天皇:称徳天皇(24)


神護景雲三(西暦769年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

十一月丙寅。以外從五位下美努連智麻呂爲文章博士。外從五位下鳥取連大分爲美濃大掾。癸酉。車駕還宮。大和國守正五位下藤原朝臣家依授正五位上。介從五位下多治比眞人長野從五位上。丙子。新羅使級飡金初正等一百八十七人。及導送者卅九人。到着對馬嶋。庚辰。左京人神麻續宿祢足麻呂。右京人神麻續宿祢廣目女等廿六人復爲神麻續連。辛巳。授正六位上大和宿祢西麻呂外從五位下。壬午。彈正史生從八位下秦長田三山。造宮長上正七位下秦倉人呰主。造東大寺工手從七位下秦姓綱麻呂。賜姓秦忌寸。己丑。陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。傳聞。押人等本是紀伊國名草郡片岡里人也。昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫爲夷被虜。歴代爲俘。幸頼聖朝撫運神武威邊。拔彼虜庭久爲化民。望請。除俘囚名。爲調庸民。許之。庚寅。天皇臨軒。大隅薩摩隼人奏俗伎。外從五位下薩摩公鷹白。加志公嶋麻呂並授外從五位上。正六位上甑隼人麻比古。外正六位上薩摩公久奈都。曾公足麻呂。大住直倭。上正六位上大住忌寸三行。並外從五位下。自餘隼人等。賜物有差。是日。授无位春日王從五位下。壬辰。賜宴於五位已上。詔曰。今勅〈久〉。今日〈方〉新甞〈乃〉猶良比〈乃〉豊〈乃〉明聞〈許之賣須〉日〈仁〉在。然昨日〈能〉冬至日〈仁〉天雨〈天〉地〈毛〉潤万物〈毛〉萌毛延始〈天〉好〈阿流良牟止〉念〈仁〉。伊豫國〈与利〉白祥鹿〈乎〉獻奉〈天〉在〈礼方〉有礼〈志〉与呂許保〈志止奈毛〉見〈流〉。復三〈乃〉善事〈乃〉同時〈仁〉集〈天〉在〈己止〉甚希有〈止〉念畏〈末利〉尊〈備〉諸臣等〈止〉共〈仁〉異奇〈久〉麗白〈伎〉形〈乎奈毛〉見喜〈流〉。故是以黒記白記〈乃〉御酒食〈倍〉惠良〈伎〉。常〈毛〉賜酒幣〈乃〉物賜〈礼止之天〉御物給〈波久止〉宣。」賜祿有差。」以從五位上高賀茂朝臣諸雄爲員外少納言。

十一月二日に美努連智麻呂(奥麻呂に併記)を文章博士、鳥取連大分を美濃大掾に任じている。九日に宮に還られている。この日、大和國守の藤原朝臣家依に正五位上、介の多治比眞人長野に従五位上を授けている。十二日に新羅使節の金初正等百八十七人と使節を導き送る者三十九人が馬嶋に到着している。

十六日に左京人の「神麻續宿祢足麻呂」、右京人の「神麻續宿祢廣目女」等廿六人に、再び「神麻續連」の氏姓にしている(二月に宿祢賜姓。こちら参照)。十七日に大和宿祢西麻呂(弟守に併記)に外従五位下を授けている。十八日に弾正台史生の「秦長田三山」、造営省長上の「秦倉人呰主」、造東大寺司工手の「秦姓綱麻呂」等に、それぞれ「秦忌寸」の氏姓を授けている。

二十五日に陸奥國牡鹿郡の帰順した蝦夷である「大伴部押人」が以下のように言上している・・・伝え聞くところによると、「押人」等の先祖は、元は「紀伊國名草郡片岡里」の人であった。昔、先祖の「大伴部直」が蝦夷を征討した時、「陸奥國小田郡嶋田村」に至り、住み着いた。その後子孫は蝦夷の虜となり、数代を経て俘囚となった。幸い尊い朝廷が天下を統治する巡り合わせとなられ、優れた武威が辺境を圧しているのを頼みとして、あの蝦夷の土地を抜け出て、既に久しく天皇の徳化の下にある民となっている。そこで俘囚の名を削除し、調庸を納める民になることを申請する・・・これを許可している。

二十六日に宮殿の端近くに出御されて、大隅・薩摩の隼人が郷土の歌舞を奏している。薩摩公鷹白と「加志公嶋麻呂」に外従五位上を、「甑隼人麻比古・薩摩公久奈都・曾公足麻呂・大住直倭・大住忌寸三行」に外従五位下を授けている。その他の隼人等にそれぞれ物を授けている。この日、「春日王」に従五位下を授けている。

二十八日に五位以上の官人を招いて宴を催し、次のように詔されている(以下宣命体)・・・今仰せられるには、今日は新嘗祭の直会の豊明の日である。ところが昨日の冬至には雨が降り、土地が潤い、万物が芽ぐみ萌え始めて結構であると思っていたところ、伊豫國から「白祥鹿」を献上して来たので、嬉しく喜ばしく、それを見た。また三つの良い事が同時に集まるとは、大変珍しいと思うので、畏まり貴んで、諸臣達と共に、不思議な麗しい白い形を見て喜んでいる。この故に、黒酒白酒の御酒をいただいて楽しみ、例として賜う酒宴の賜物を受け取れ、として手元の物を賜うのである、と仰せられる・・・。また、身分に応じて禄を賜っている。高賀茂朝臣諸雄(田守に併記)を員外の少納言に任じている。

<秦長田三山・秦倉人呰主・秦姓綱麻呂>
● 秦長田三山・秦倉人呰主・秦姓綱麻呂

ここに登場の三名、職務・職掌を記載されているのだが、出自は全く不詳である。致し方なく別途情報を求めると、播磨國賀古郡に関わりのある人達だったようである。

通説では、現地名の兵庫県神戸市西方である加古川・明石の地域となるが、勿論、これは”国譲り”後の地名となろう。

既に求めたように現地名では築上郡築上町岩丸辺り、岩丸川流域が賀古郡があった地域であり、その下流域に明石郡があったと推定した。

秦長田三山三山=三段に並んだ山稜が[山]の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。その麓に細長く延びた長田が見られる。秦=艸+屯+禾=稲穂のような山稜が延び出ている様と解釈され、この谷間の地形を表していると思われる。

秦倉人呰主倉人=谷間が倉のような四角く区切られているところ呰主=真っ直ぐに延びた山稜の前に谷間を挟む山稜が折れ曲がって延びているところと読み解ける。これらの地形を示す場所がこの人物の出自と推定される。「三山」の対岸の場所と思われる。

秦姓綱麻呂姓=女+生=山稜がしなやかに曲がって生え出ている様と解釈される。「賀古」の「賀」を形成する山稜であろう。そして、その山稜の端が綱=糸+岡=綱ように太く延びている様を表していることが解る。彼等三名に秦忌寸を賜姓されているが、正に濫発の氏姓となる。後に混乱が生じるような気もするが、敢えて濫発しているようでもある。

<紀伊國名草郡片岡里・大伴部直>
紀伊國名草郡片岡里

紀伊國名草郡は、文武天皇紀に登場していた。古事記の竈山(現上ノ山)の南麓に当たり、書紀に記載される日前神・國縣神の坐す場所がある場所と推定した。

この地は、山麓の地形変形が大きく、詳細を見るには、国土地理院航空写真1961~9年を参照することにした(尚、1945~50年の写真から既に大きく変形していることが確認される)。

片岡里片岡=切れ端のような山稜が小高くなっているところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していることが解る。この「岡」の周辺に人々が住まっていたのであろう。

● 大伴部直 陸奥國牡鹿郡の人である「大伴部押人」の先祖の地となるが、更に人名が記載されている。「片岡」の東側は、少し前に宿祢姓を賜った大伴大田連沙美麻呂の出自の場所と推定した。例に依って部=近隣と解釈し、直=真っ直ぐな様として、「押人」の先祖の場所を突止められたように思われる。

<陸奥國小田郡嶋田村・大伴部押人>
陸奥國小田郡嶋田村

陸奥國小田郡は、聖武天皇紀に金鉱が発見された場所として記載されていた。その地形は、元号に反映されて大変な騒ぎとなったようである。

嶋田村嶋田=山稜が鳥のような形をした麓で平らに整えられているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。後(孝謙天皇紀)に小田臣枚床の出自となった地と思われる。

図に示したように南側に桃生城(淳仁天皇紀)が造られたり、蝦夷対策上の最前線基地であったと伝えている。上記本文で記載されているように、それ以前では蝦夷が猛威を奮っていた地なのである。

● 大伴部押人 捕虜となって陸奥國牡鹿郡で生きながらえた「大伴部直」の子孫と述べている。名前の押人=谷間が山稜が甲羅のように延びている麓にあるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。その谷間は「大伴」の地形であるが、おそらく、先祖の氏名を引き継いでいたのであろう。

<加志公嶋麻呂>
● 加志公嶋麻呂

「加志公(君)」は、聖武天皇紀に日向國姶羅郡の大隅隼人である加志君和多利が登場していた。現地名では遠賀郡岡垣町波津である。

また、淳仁天皇紀に「大隅薩摩等隼人相替」と記載されていた。要するに、大隅隼人を薩摩隼人の地に移り住まわせた、また、その逆で移住させたようである。

この人物は、本籍が日向國姶羅郡であり、現住所が薩摩國であったことになる。薩摩國を早期に統治するために行った”相替”の様子を伺わせる記述であることが分かる。

と言うことで、嶋麻呂の出自の場所を図に示した辺りに求めた。「和多利」の西側、谷間の奥に当たる場所である。引き続いて、大隅國・薩摩國の人物が一挙に登場しているようである。順不同で、各々の出自の場所を求めてみよう。

<薩摩公久奈都-豊繼・曾公足麻呂>
● 薩摩公久奈都・曾公足麻呂

「薩摩公」は、淳仁天皇紀に鷹白・宇志が外従五位下を叙爵されて登場していた。現地名では福岡市南区にある鴻巣山山塊の東南麓に当たる場所と推定した。

既出の文字列である久奈都=[く]の字形に曲がって延びる平らな高台が寄り集まっているところと解釈され、図に示した辺りが出自と推定される。

後(光仁天皇紀)に薩摩公豊繼が外従五位下を叙爵されて登場する。薩摩の人材登用を重視していることようである。豊(豐)繼=段々になった高台が連なっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

曾公足麻呂については、元明天皇紀に日向隼人の「曾君細麻呂」が登場し、薩摩國の北西部の地を「日向國」と称していたと読み解いた(こちら参照)。「足麻呂」は、”君→公”として、この一族であったと推測される。

曾=積み重ねられた様であり、曾=麓が一段小高くなっているところの近隣を探すと、足=山稜が足のように延びて二つに岐れている様と解釈すると、図に示した「細麻呂」の麓にその地形を見出せる。

<甑隼人麻比古>
● 甑隼人麻比古

「甑」の文字は、記紀・續紀を通じて、人名に用いられたのは初見であろう。通常の意味は、”米などを蒸すための土器”である。それを地形象形に用いている。漢字の成立ちに立ち戻って解釈してみよう。

「甑」=「曾+瓦」と分解される。頻出の「曾」=「積み重ねる様」である。「瓦」=「カワラ、土器」を意味するとされている。すると、甑=土器を積み重ねたように山稜が延びている様と読み解ける。

薩摩國の地において、左図に示したように長く延びる山稜の形を「甑」で表現したのであろう。下方の土器に水を貯めるのであるが、現在の蓮根池がそれを表してるのかもしれない。

既出の文字列である麻比古=擦り潰されたような丸く小高い地が並んでいるところと解釈すると、この人物の出自の場所を図に示した辺りと推定される。文武天皇紀以降、徐々に馴化されて薩摩國の統治の進捗が伺える記述と思われる。

<大住直倭・大住忌寸三行>
● 大住直倭・大住忌寸三行

勿論、初見の人物等であるが、多分、大隅國を出自としていたのであろう。それにしても、上手く掛けられた名称である。

既出の文字列である大住=平らな頂の山稜が谷間で真っ直ぐに延びているところと解釈される。その地形を図に示した場所で確認することができる。また、「大隅」の表記でも何ら差支えのない場所でもある。

地形象形表記による名付けは、実に自由自在であろう。そして、真に多彩な表記となっていることが分かる。漢字を熟知していた倭人、時と共にその遺伝子は薄まって来たような感じである。

大住直倭倭=人+禾+女=谷間にある嫋やかに曲がって延びる稲穂のような様の地形を図に示した場所に見出せる。大住忌寸三行三行=山稜が三段に並んで延びているところと読み解くと、「倭」の南側の地が出自と推定される。筑紫南海の地、現在の博多湾岸の古代の様子が徐々にあからさまになりつつあるように思われる。

● 春日王 この名前を持つ幾人かの王が登場していたが、それぞれ系譜などが伝わっていて出自の場所を求めることができたが、当該王は全く不詳のようである。推測になるが、施基皇子の子で、聖武天皇紀に亡くなった春日王の跡地に住まっていたのではなかろうか。

<白祥鹿>
白祥鹿

これも、勿論、地形象形表記であるが、通説は大変にややこしい解釈となっているようである。”白い祥瑞の鹿”のように読まれるのであろうが、”白鹿”は祥瑞と解釈されている。

例によって貴重な伊豫國の地形情報を見逃すことになってしまうのである。何故、祥瑞の名称に「白」が付くのか?…考察された例が見当たらないように思われる。

「祥(祥)」=「示+羊」と分解される。各要素は、地形象形に頻度高く用いられている。即ち、「祥」=「高台が山稜に挟まれた谷間にある様」と解釈される。

纏めると、白祥鹿=山稜に挟まれた谷間にある高台の端が鹿の頭部のようになって二つ並んでいるところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。以前に求めた各郡の配置からすると、ちょうど端境になっている地である。

いよいよ、辺境にまで開拓が進んだことを伝えているように思われる。尚、少し後に発見者は伊豫國員外掾の笠朝臣雄宗(始に併記)と明かされている。

十二月甲辰。以從五位上佐伯宿祢助爲兵部大輔。乙巳。授正六位上三嶋宿祢宗麻呂外從五位下。癸丑。遣員外右中弁從四位下大伴宿祢伯麻呂。攝津大進外從五位下津連眞麻呂等於大宰。問新羅使入朝之由。乙夘。授外從五位下津連眞麻呂從五位下。爲肥前守。戊午。河内國志紀郡人外從五位下土師連智毛智賜姓宿祢。 

十二月十日に佐伯宿祢助を兵部大輔に任じている。十一日に三嶋宿祢宗麻呂(三嶋縣主廣調に併記)に外従五位下を授けている。十九日に員外右中弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)と攝津大進の津連眞麻呂等を大宰府に遣わし、新羅の使節の来朝した理由を尋ねさせている。二十一日に津連眞麻呂に内位の従五位下を授け、肥前守に任じている。二十四日に河内國志紀郡の人である「土師連智毛智」に宿祢姓を授けている。

<土師連智毛智>
● 土師連智毛智

河内國志紀郡の人物であり、ここで「宿祢」姓を賜っている。出雲國に蔓延った一族(例えば、こちら参照)とは、先祖は同じかもしれないが、異なる系列であることが分かる。

書紀の孝徳天皇紀に百舌鳥土師連土德(百舌鳥長兄に併記)が登場していた。この人物の出自の場所を河内國志紀郡と推定した。書紀の捩じれた表記を紐解いた結果であった。井上忌寸の南側に当たり、現地名は行橋市二塚である。

名前の智毛智は、些か凝った名付けのように思われる。「智」に挟まれた「毛」と読んでみる。智=矢+口+日=鏃のような山稜の傍らに炎のような山稜が延びている様と解釈した。毛=鱗のような様と解釈すると、図に示した場所が出自と求められる。

多くの渡来人がそれぞれの居処を構えていた志紀郡内で、土師一族が辛うじてその一角を占めていたのであろう。およそ百二十年弱を経て子孫が登場したようである。