2023年9月16日土曜日

高野天皇:称徳天皇(23) 〔647〕

高野天皇:称徳天皇(23)


神護景雲三(西暦769年)十月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

冬十月乙未朔。詔曰。天皇〈我〉御命〈良麻止〉詔〈久〉。挂〈麻久毛〉畏〈岐〉新城〈乃〉大宮〈尓〉天下治給〈之〉中〈都〉天皇〈能〉臣等〈乎〉召〈天〉後〈乃〉御命〈仁〉勅〈之久〉。汝等〈乎〉召〈都留〉事〈方〉朝庭〈尓〉奉侍〈良牟〉状教詔〈牟止曾〉召〈都留〉。於太比〈尓〉侍〈弖〉諸聞食。貞〈久〉明〈尓〉淨〈伎〉心〈乎〉以〈天〉朕子天皇〈仁〉奉侍〈利〉護助〈麻都礼〉。繼〈天方〉是太子〈乎〉助奉侍〈礼〉。朕〈我〉教給〈布〉御命〈尓〉不順〈之天〉王等〈波〉己〈我〉得〈麻之岐〉帝〈乃〉尊〈岐〉寳位〈乎〉望求〈米〉人〈乎〉伊射奈〈比〉惡〈久〉穢心〈乎〉以〈天〉逆〈尓〉在謀〈乎〉起。臣等〈方〉己〈我〉比伎婢企是〈尓〉託彼〈尓〉依〈都都〉頑〈尓〉無礼〈伎〉心〈乎〉念〈弖〉横〈乃〉謀〈乎〉構。如是在〈牟〉人等〈乎波〉朕必天翔給〈天〉見行〈之〉退給〈比〉捨給〈比〉岐良〈比〉給〈牟〉物〈曾〉。天地〈乃〉福〈毛〉不蒙〈自〉。是状知〈天〉明〈仁〉淨〈伎〉心〈乎〉以〈天〉奉侍〈牟〉人〈乎波〉慈給〈比〉愍給〈天〉治給〈牟〉物〈曾〉。復天〈乃〉福〈毛〉蒙〈利〉永世〈尓〉門不絶奉侍〈利〉昌〈牟〉。許己知〈天〉謹〈麻利〉淨心〈乎〉以〈天〉奉侍〈止〉將命〈止奈毛〉召〈都流止〉勅〈比〉於保世給〈布〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。復詔〈久〉。掛〈毛〉畏〈伎〉朕〈我〉天〈乃〉御門帝皇〈我〉御命以〈天〉勅〈之久〉。朕〈尓〉奉侍〈牟〉諸臣等朕〈乎〉君〈止〉念〈牟〉人〈方〉大皇后〈仁〉能奉侍〈礼〉。朕〈乎〉念〈天〉在〈我〉如〈久〉異〈奈〉念〈曾。〉繼〈天方〉朕子太子〈尓〉明〈仁〉淨〈久〉二心無〈之天〉奉侍〈礼〉。朕〈方〉子二〈利止〉云言〈波〉無唯此太子一人〈乃味曾〉朕〈我〉子〈波〉在。此心知〈天〉諸護助奉侍〈礼〉。然朕〈波〉御身都可良〈之久〉於保麻之麻須〈尓〉依〈天〉。太子〈尓〉天〈都〉日嗣高御座〈乃〉繼〈天方〉授〈麻都流止〉命〈天〉朕〈尓〉勅〈之久〉。天下〈乃〉政事〈波〉慈〈乎〉以〈天〉治〈与〉。復上〈波〉三寳〈乃〉御法〈乎〉隆〈之米〉出家道人〈乎〉治〈麻都利〉。次〈波〉諸天神地祇〈乃〉祭祀〈乎〉不絶。下〈波〉天下〈乃〉諸人民〈乎〉愍給〈弊〉。復勅〈之久〉。此帝〈乃〉位〈止〉云物〈波〉天〈乃〉授不給〈奴〉人〈尓〉授〈天方〉保〈己止毛〉不得。亦變〈天〉身〈毛〉滅〈奴流〉物〈曾〉。朕〈我〉立〈天〉在人〈止〉云〈止毛〉汝〈我〉心〈尓〉不能〈止〉知目〈尓〉見〈天牟〉人〈乎波〉改〈天〉立〈牟〉事〈方〉心〈乃麻尓麻世与止〉。命〈伎〉。復勅〈之久〉朕〈我〉東人〈尓〉授刀〈天〉侍〈之牟留〉事〈波〉汝〈乃〉近護〈止之天〉護近〈与止〉念〈天奈毛〉在。是東人〈波〉常〈尓〉云〈久〉。額〈尓方〉箭〈波〉立〈止毛〉背〈波〉箭〈方〉不立〈止〉云〈天〉。君〈乎〉一心〈乎〉以〈天〉護物〈曾〉。此心知〈天〉汝都可〈弊止〉勅〈比之〉御命〈乎〉不忘。此状悟〈天〉諸東國〈乃〉人等謹〈之麻利〉奉侍〈礼〉。然挂〈毛〉畏〈岐〉二所〈乃〉天皇〈我〉御命〈乎〉朕〈我〉頂〈尓〉受賜〈天〉晝〈毛〉夜〈毛〉念持〈天〉在〈止毛〉由無〈之弖〉人〈尓〉云聞〈之牟留〉事不得。猶此〈尓〉依〈天〉諸〈乃〉人〈尓〉令聞〈止奈毛〉召〈都留〉。故是以今朕〈我〉汝等〈乎〉教給〈牟〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。夫君〈乃〉位〈波〉願求〈乎〉以〈天〉得事〈方〉甚難〈止〉云言〈乎波〉皆知〈天〉在〈止毛〉先〈乃〉人〈波〉謀乎遲奈〈之〉我〈方〉能〈久〉都与〈久〉謀〈天〉必得〈天牟止〉念〈天〉種種〈尓〉願祷〈止毛〉猶諸聖天神地祇御靈〈乃〉不免給不授給物〈尓〉在〈波〉自然〈尓〉人〈毛〉申顯己〈我〉口〈乎〉以〈天毛〉云〈都〉變〈天〉身〈乎〉滅災〈乎〉蒙〈天〉終〈尓〉罪〈乎〉己〈毛〉人〈毛〉同〈久〉致〈都〉。因茲〈天〉天地〈乎〉恨君臣〈乎毛〉怨〈奴〉。猶心〈乎〉改〈天〉直〈久〉淨〈久〉在〈波〉天地〈毛〉憎〈多麻波受〉君〈毛〉捨不給〈之天〉福〈乎〉蒙身〈毛〉安〈家牟〉。生〈天方〉官位〈乎〉賜〈利〉昌死〈弖波〉善名〈乎〉遠世〈尓〉流傳〈天牟〉。是故先〈乃〉賢人云〈天〉在〈久〉。體〈方〉灰〈止〉共〈尓〉地〈仁〉埋〈利奴礼止〉名〈波〉烟〈止〉共〈尓〉天〈尓〉昇〈止〉云〈利〉。又云〈久〉。過〈乎〉知〈天方〉必改〈与〉。能〈乎〉得〈天方〉莫忘〈止伊布〉。然物〈乎〉口〈尓〉我〈方〉淨〈之止〉云〈天〉心〈仁〉穢〈乎波〉天〈乃〉不覆地〈乃〉不載〈奴〉所〈止〉成〈奴〉。此〈乎〉持〈伊波〉稱〈乎〉致〈之〉捨〈伊波〉謗〈乎〉招〈都〉。猶朕〈我〉尊〈備〉拜〈美〉讀誦〈之〉奉〈留〉最勝王經〈乃〉王法正論品〈尓〉命〈久〉。若造善惡業今於現在中諸天共護持示其善悪報。國人造惡業。王者不禁制。此非順正理。治擯當如法〈止〉命〈天〉在。是〈乎〉以〈天〉汝等〈乎〉教導〈久〉。今世〈尓方〉世間〈乃〉榮福〈乎〉蒙〈利〉忠淨名〈乎〉顯〈之〉。後世〈尓方〉人天〈乃〉勝樂〈乎〉受〈天〉終〈尓〉佛〈止〉成〈止〉所念〈天奈毛〉諸〈尓〉是事〈乎〉教給〈布止〉詔〈布〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。復詔〈久〉。此賜〈布〉帶〈乎〉多麻波〈利弖〉汝等〈乃〉心〈乎〉等等能〈倍〉直〈之〉朕〈我〉教事〈尓〉不違〈之天〉束〈祢〉治〈牟〉表〈止奈毛〉此帶〈乎〉賜〈八久止〉詔〈布〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。」其帶。皆以紫綾爲之。長各八尺。其二端。以金泥書恕字。賜五位已上。其以才伎并貢獻叙位者。不在賜限。但藤原氏者。雖未成人。皆賜之。甲辰。從五位上奈癸王爲正親正。」大宰府言。此府人物殷繁。天下之一都會也。子弟之徒。學者稍衆。而府庫但蓄五經。未有三史正本。渉獵之人。其道不廣。伏乞。列代諸史。各給一本。傳習管内。以興學業。詔賜史記。漢書。後漢書。三國志。晋書各一部。」讃岐國香川郡人秦勝倉下等五十二人賜姓秦原公。己酉。車駕幸飽浪宮。辛亥。進幸由義宮。癸丑。以從四位下藤原朝臣雄田麻呂爲河内守。左中弁右兵衛督内匠頭並如故。乙夘。權建肆廛於龍華寺以西川上。而駆河内市人以居之。陪從五位已上以私玩好交關其間。車駕臨之。以爲遊覽。難波宮綿二万屯。塩卅石。施入龍華寺。辛酉。賜陪從仕丁仕女已上及僧都已下綿有差。壬戌。授无位上村主刀自女從五位下。時年九十九。優高年也。癸亥。大和國造正四位下大和宿祢長岡卒。刑部少輔從五位上五百足之子也。少好刑名之學。兼能属文。靈龜二年。入唐請益。凝滯之處。多有發明。當時言法令者。就長岡而質之。勝寳年中。改忌寸賜宿祢。寶字初。仕至正五位下民部大輔兼坤宮大忠。四年遷河内守。政無仁惠。吏民患之。其後授從四位下。以散位還第。八年任右京大夫。以年老自辞去職。景雲二年。賀正之宴。有詔特侍殿上。時鬢髮未衰。進退無忒。天皇問之曰。卿年幾。長岡避席言曰。今日方登八十。天皇嘉嘆者久之。御製授正四位下。是日。賜配智識寺今良二人。四天王寺奴婢十二人。爵人三級。甲子。詔以由義宮爲西京。河内國爲河内職。賜高年七十已上者物。免當國今年調。大縣。若江二郡田租。安宿。志紀二郡田租之半。又當國犯死罪已下。並從赦除。仍賜弓削御淨朝臣清入等。并供事國郡司軍毅爵一級。」授正三位弓削御淨朝臣清人從二位。從四位下藤原朝臣雄田麻呂從四位上。從五位上弓削御淨朝臣廣方。葛井連道依並正五位下。從五位下紀朝臣廣庭。弓削御淨朝臣秋麻呂。弓削御淨朝臣塩麻呂並從五位上。无位弓削御淨朝臣廣津從五位下。及復无位山口忌寸沙弥麻呂本位從五位下。正六位上河内連三立麻呂。六人部連廣道。井上忌寸蜂麻呂。高安忌寸伊可麻呂並外從五位下。從五位上弓削御淨朝臣美努久賣。乙美努久賣並正五位下。无位藤原朝臣諸姉。弓削宿祢東女並從五位下。正六位上伊福部宿祢紫女外從五位下。」從四位上藤原朝臣雄田麻呂爲河内大夫。本官如故。從五位上紀朝臣廣庭爲亮。法王宮大進外從五位下河内連三立麻呂爲兼大進。外從五位下高安忌寸伊賀麻呂爲少進。 

十月一日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・天皇の御言葉として仰せられるには、口に出すのも畏れ多い「新城乃大宮」(山稜を切り分けて平らに整えられた地にある宮:平城宮)にあって、天下を治められた中つ天皇(元正天皇)が、臣達を召して、御遺言として[おまえたちを召したのは、朝廷にお仕え申し上げる様子を教えようとして、召したのである。心穏やかにして、みな承れ。貞しく明らかに浄い心を持って朕の子である天皇(聖武天皇。事実は甥)にお仕え申し上げ、護り助け申し上げよ。---≪続≫---

次には、この太子(阿倍内親王。称徳天皇)を助けお仕え申し上げよ。朕の教える言葉に従わないで、王達は、自分の得ることのできない帝の尊い位を望み求め、人を誘って悪い穢い心で、道理に背いた陰謀を企て、臣下達は自分の贔屓により、この人に就き、或いは、かの人に頼み、頑なな無礼な心を抱いて、邪な陰謀を企てる。このような人達を、朕は必ず天翔けて見て、退け捨て、除き去るものであるぞ。彼等は天地の与える幸福も蒙るまい。こうしたことを知って、明らかに浄い心を持ってお仕え申し上げる人を、朕は慈しみ哀れんでよく取り計らうものであるぞ。---≪続≫---

また、このような人が天の与える幸福も蒙り、後世まで永く家門を絶えずに、お仕え申し上げて栄えるであろう。ここのところを知って、謹んで浄い心でお仕え申し上げよ、と仰せられるために召したのである]と勅し仰せられる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

また、仰せられるには・・・口に出すのも畏れ多い朕の天のみ門の帝皇(聖武天皇)の御言葉として、[朕に仕える臣下達で、朕を君主と思う人は、大皇后(光明子)によくお仕え申し上げよ。朕を思っているようにお仕えし、朕とは違うとは思うな。次には、朕の子の太子(阿倍内親王)に明らかに浄い心で、二心なくお仕え申し上げよ。朕は子が二人いるということはない。ただこの太子一人だけが、朕の子であるのだ。この朕の心を知って、皆は護り助けお仕え申し上げよ。---≪続≫---

そうして、[朕は身体が疲労しているので、太子に皇位の継承をお授けしよう]と仰せられ、朕(称徳天皇)に[天下の政は慈の心で治めよ。また上は仏法を栄えさせ、出家者を優遇し、次に、諸々の天神地祇の神々の祭祀を絶やさずに、下は、天下の諸々の人民を憐れみなさい]と仰せになった。---≪続≫---

また、[この天皇の位というものは、天が授けようとしない人に授けては、保つこともできず、また返って身も滅ぼしてしまうものであるぞ。朕が太子として立てた人であっても、そなたの心で良くない人と知り、そなたの目に悪いと見た人を改めて他の人を立てるのは、思うままに任せよ]と仰せられた。---≪続≫---

また、[朕が東人に太刀を授けて仕えさせるのは、そなたの身辺の護衛として護れよと思ったためである。この東人等は常に、〈額に敵の矢の立つことがあっても、背中に矢を立てまいぞ〉と言って、君を一心に護る人々であるぞ。この心を知って、彼等をそなたが使え]と仰せられた御言葉を朕は忘れない。こうした事情を悟って、諸々の東國の人達は、謹んで仕えよ。---≪続≫---

さて、口に出すのも畏れ多いお二人の天皇の御言葉を、朕は頭上に承り、昼も夜も心に刻んでいるけれども、よいてだてがなくて人に言い聞かせることができずにいた。この機会に、諸々の人に聞かせようとして、召したのである。それ故、いま朕がお前たちに教える御言葉を、みな承れと申し渡す。---≪続≫---

いったい君主の位は、願い求めても得ることが極めて難しいということは、みな知っているが、先に君主の位を得ようとした人は謀が拙かった。自分こそはうまく強く計らって必ず皇位を得ようと思い、いろいろと願い祈るけれども、やはり諸聖たちや天神地祇の神々、代々の天皇の御霊がお許しにならず、お授けにならないものだから、自然に人もその皇位を得ようとする願いを申し現わし、自分でもその願いを口に出してしまい、返って身を滅ぼし災いを被り、ついに自分も誘った他人も罪に陥ってしまった。---≪続≫---

このため、天地を恨み、君主や諸臣を恨んでいる。それでもやはり、心を改めて直ぐ浄くすれば、天地の神々も憎まれることなく、君もお捨てにならず、幸福を得て身も安らかになろう。生きている時は官位を頂いて栄え、死後は善い名を後世にまで伝えることになろう。---≪続≫---

この故に、古の賢人が〈身体は灰と共に地に埋もれても、善い名は煙と共に天に昇る〉と言っている。また、〈過ちであることを知ったなら必ず改めよ。善いことを知ったなら忘れるな〉とも言っている。それなのに、口では自分は浄らかだと言いながら、心の中の穢い人を天は守らず地は容れないことになってしまう。この教えを忘れず保つ人は誉れを得て、捨てる人は謗を招くことになる。---≪続≫---

やはり、朕が貴み拝し、読誦する『最勝王経』の王法正論品に[もし人が善悪の所業をなせば、いま、この現在に諸天王達が護衛していて、受けるべき善・悪の報いを示すであろう。もし人民が悪い所業をなすのに、王者が放置して禁止しないのなら、これは正しい道理ではない。悪を罰するには法を定めるようすべきである]と言われている。この故に、朕はお前たちを教え導くのである。---≪続≫---

この世では世間の栄華・幸福を得、忠しく浄い名を現わし、後世では人間世界・天人世界に生まれ、その勝れた楽しみを受けて、遂には悟りをひらいて仏となれると思って、みなにこの事を教えるのであるという御言葉を、みな承れと申し渡す。また仰せられるには、ここにとらせる帯を受け取ってお前たちの心を整え直し、朕の教えに違わないで、まとめ治める表としてこの帯を賜る、と仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

その帯は、みな紫色の綾絹製で、長さはそれぞれ八尺で、その両端に金泥で「怨」の字を書いてある。それを五位以上の者に賜っている。特殊な才能・技術や私財の献上により、五位に叙された者は、賜る範囲に入れない。但し、藤原氏の者は、まだ成人していなくても、みな賜っている。

十日に奈癸王(奈貴王。石津王に併記)を正親正に任じている。この日、大宰府が以下のように言上している・・・この府は人間や物が多く賑やかで、天下有数の都會である。青年には学問をしようとする者が多いが、府の藏には五経があるだけで、三史の正本がなく、読み漁る人でも広く学ぶ道がない。そこで慎んで申請する。歴代の史書をそれぞれ一部賜り、それを管内で学習させ、学業を興隆させようと思う・・・。

詔されて、『史記』『漢書』『後漢書』『三國志』『晋書』をそれぞれ一部賜っている。また、「讃岐國香川郡」の人である「秦勝倉下」等五十二人に「秦原公」の氏姓を賜っている。

十五日に飽浪宮、更に十七日に「由義宮」に行幸されている。十九日に藤原朝臣雄田麻呂を、左中弁・右兵衛督・内匠頭はそのままとして、河内守に任じている。二十一日に仮に商店を「龍華寺」(弓削寺。由義宮の近隣)から西の川の畔に建て、河内國の商人達を促してそこに居らせている。付随った五位以上の人々は、自分の愛好物をそこで取引している。天皇は、この場に臨み遊覧されている。この日、難波宮の真綿二万屯と塩三十石を「龍華寺」に施入している。

二十七日に付随った仕丁・仕女から上と、僧都以下の僧侶に、それぞれ真綿を賜っている。二十八日に上村主刀自女(大縣連百枚女に併記)に従五位下を授けている。時に九十九歳であり、高齢を哀れみ優遇したのである。

二十九日に大和國造の「大和宿祢長岡」(大倭忌寸小東人)が亡くなっている。刑部少輔で従五位上の「五百足」の子であった(こちら参照)。若い時から法律の学を好み、また上手に文章を作成した。寶龜二(716)年に遣唐使に加わり、請益生(遣唐使と共に往来する短期留学者)として唐に行き、疑問不明とするところについて多く会得するところがあった。その当時、法律を論じる者は、「長岡」のもとに行き教えを請うのを常とした。

天平勝寶年中に忌寸の姓を改めて宿祢を賜り、天平字初年に正五位下の民部大輔で坤宮大忠を兼任した。天平字四(760)年に河内守に転任した。行政に思いやり恵む心がなく、下僚も人民も悩まされた。その後、従四位下を授けられ、散位になり屋敷に帰った。

天平字八(764)年に右京大夫に任じられたが、高齢(七十六歳)を理由に職を辞退した。神護景雲二(768)年の賀正の宴会に、詔があって、特に殿上に招かれた。その時鬢髮は衰えず、動作は作法に違わなかったので、天皇は[卿の年齢はいくつか]と問い尋ねた。「長岡」は席から退いて、[今日、まさに八十歳になります]と申し上げた。天皇は久しく感嘆し、自ら位記を書いて正四位下を授けている。

この日、智識寺に配置した今良(官戸・官奴婢から良民になった雑役夫)二人と四天王寺の奴婢十二人に、それぞれ位を三階ずつ与えている。

三十日に詔されて、「由義宮」を「西京」とし、河内國を河内職としている。七十歳以上の高齢者に物を賜り、河内國の今年の調と、大縣若江の二郡の人に田租を、安宿志紀の二郡の人に田租の半分を、それぞれ免除した。また河内國で死罪以下の罪を犯した者をみな赦免している。なお、弓削御淨朝臣清人(淨人。道鏡に併記)達と、行幸に奉仕した國司・郡司・軍毅等に位一階を与えている。

弓削御淨朝臣清人(淨人。道鏡に併記)に從二位、藤原朝臣雄田麻呂に從四位上、弓削御淨朝臣廣方葛井連道依(立足に併記)に正五位下、紀朝臣廣庭(宇美に併記)・弓削御淨朝臣秋麻呂(道鏡に併記)・弓削御淨朝臣塩麻呂()に從五位上、弓削御淨朝臣廣津(廣方に併記)に從五位下、山口忌寸沙弥麻呂(佐美麻呂。田主に併記)に本位の從五位下、「河内連三立麻呂」・六人部連廣道(鯖麻呂に併記)・「井上忌寸蜂麻呂」・「高安忌寸伊可麻呂」に外從五位下、弓削御淨朝臣美努久賣()・乙美努久賣()に正五位下、藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)・弓削宿祢東女()に從五位下、「伊福部宿祢紫女」に外從五位下を授けている。藤原朝臣雄田麻呂を兼務で河内大夫、紀朝臣廣庭を亮、法王宮大進の「河内連三立麻呂」を兼務で大進、「高安忌寸伊賀麻呂」を少進に任じている。

<讃岐國香川郡・秦勝倉下>
讃岐國香川郡

讃岐國の郡割については、既に幾つかの郡名が記載されていた。古いのは、書紀の天智天皇紀に讚吉(岐)國山田郡があり、續紀にになって文武天皇紀に那賀郡が登場している。

その後に寒川郡が元明天皇紀に記載されているが、讃岐國を覆い尽くせる様相ではなく、今回の「香川郡」も含めて、また幾つかの郡が後に登場するようである。

例に依って、明治になって廃藩置県後の処理として、この「香川」が県名に用いられることになったようである。いずれにせよ、地名は固有のものではなく、幾多の変遷を経て来ているものである。

香川郡の「香」=「禾(黍)+甘」=「窪んだ地から稲穂のような山稜が延び出ている様」と解釈した。「川」=「[川]の文字形のように三つ並んでいる様」と解釈すると。香川=窪んだ地から稲穂のような三つの山稜が[川]の形に延びているところと読み解ける。その地形を図に示した、現在の高塔山の山稜に見出せる。

● 秦勝倉下 これも既出の文字列である秦勝=稲穂のような山稜が並んで延び出ている盛り上がったところと読み解ける。倉下=四角く区切られた地が麓にあるところと解釈すると、この人物の出自場所は図に示したところと思われる。賜姓の秦原公は無理のない表記であろう。

<由義宮(西京)・龍華寺>
由義宮(西京)・龍華寺

かつて登場した「弓削行宮」を「由義宮」と改称したのであろう。また、「弓削寺」も同様に「龍華寺」と記載していると思われる。「弓削」の名称では、場所を特定することは叶わなかったのであるが・・・。

既出の文字列である由義=山稜が突き出て先がギザギザとしているところと解釈される。国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、図に示した場所が見出せる。「弓削」のほぼ中央に当たる場所である。

この宮を西京と読んだと記載されている。勿論、”西方にある京”では、ない。通説では、河内國にあるのだから、平城宮からすると”西方”だ、と読み飛ばされているのであろう。西大寺と同様、西=笊の地形象形表記である。即ち、弓削の地形を笊と別表記したのである。

龍華寺の「龍」は、その突き出た山稜を「龍」の頭部と見做していることが解る。龍華=[龍]の頭部のように延びて[華]のようになっているところと読み解ける。「由義」の別表記であり、宮と寺は近接していたことを示している。西川上は、そのまま西方にある川、図では谷間となっている場所を表していると思われる。

<河内連三立麻呂>
● 河内連三立麻呂

「河内連」は、記紀・續紀を通じて初見である。但し、『八色之姓』で忌寸姓を賜った「凡川内連」、即ち、後に登場する「(凡)河内忌寸」の元の姓を示しているように思われる(こちら参照)。

「忌寸」は「宿祢」に次ぐ、第四位の位置付けであった(「連」は第七位)。しかしながら、”伊美吉”の表記としたり、些か変遷があるように感じられる。

そんな背景から、ここで登場の「河内連」は「(凡)河内忌寸」の一族として、その出自の場所を求めてみよう。

三立麻呂三立=山稜が三段に並んでいるところと解釈すると、図に示した谷間の場所を見出せる。既出の人物等の近辺に位置するところであることが解る。尚、「(凡)河内忌寸」は、孝謙天皇紀の河内忌寸廣足を最後にして、その後に記載されるされることはないようである。

<井上忌寸蜂麻呂>
● 井上忌寸蜂麻呂

「井上忌寸」は聖武天皇紀に麻呂が外従五位下を叙爵されて登場していた。河内國志紀郡(現地名行橋市二塚)を出自とする人物と推定した。

白鳥村主(白原連)の東側、春野連の南側に当たる場所である。幾度か述べたように倭建命の白鳥御陵の周辺が時を経て人々が住まう土地に発展したことを伝えている。

蜂麻呂の「蜂」=「虫+夆」と分解される。「虫」=「山稜が細かく延びている様」であり、「夆」=「山稜が寄り集まった様」と解釈される。蜂=細かく延びた山稜が寄り集まっている様と読み解ける。

「麻呂」の上方の谷間の地形を表現していると思われる。同様に外従五位下を叙爵され、配置的には親子関係のように受け取れるが、定かではないようである。

<高安忌寸伊可麻呂>
● 高安忌寸伊可麻呂

「高安忌寸」は、記紀・續紀を通じて初見の氏姓と思われる。「高安」の名称は、少し前に毘登戸東人(橘戸高志麻呂に併記)が「高安造」の氏姓を賜ったと記載されていた。

その時点でも述べたが、彼等は「河内國高安郡」の住人であることが解った。この郡名が登場するのは、かなり後の寶龜十一(780)年五月であるが、名前が示す地形からその領域を求めた。現地名は京都郡みやこ町勝山浦河内である。

勿論、氏名は郡名の地形に基づいていることには違いなく、今回の登場人物の出自場所を推定することができる。伊可麻呂伊可=谷間に区切られた山稜の先で谷間が広がるところと解釈される。

また、別名として伊賀麻呂と記載されていて、頻出の伊賀=谷間に区切られた山稜が谷間を押し拡げているところと解釈した。勿論、差支えのない表記と思われる。渡来系の一族だったようである。

<伊福部宿祢紫女・伊福部妹女>
● 伊福部宿祢紫女

「伊福部宿祢」の具体的な人物名は、記紀・續紀を通じて初見である。書紀の天武天皇紀に制定された「伊福部連」に宿祢姓を賜うと記載されて以来である。

この一族の出自の場所を因播國(續紀では因幡國)、現地名の宗像市上八・鐘崎と推定した(こちら参照)。「伊福部」は、勿論、立派な地形象形表記である。

この女官の出自は、「紫」の一文字に示されているが、紫=此+糸=谷間が折れ曲がった二つの山稜に挟まれている様と読み解いた。正にその地形を図に示した場所に確認することができる。多分、その谷間の出口辺りと思われる。

古事記が記す稻羽之八上比賣以来の登場人物だったわけである。尚、少し前に、因幡國中心から外れた南部では因幡國博士の春日戸村主人足等が登場していた。

後(光仁天皇紀)に無姓の伊福部妹女が従五位下を叙爵されて登場する。妹女に含まれる既出の妹=女+未=嫋やかに曲がって延びる山稜が途切れている様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。「紫女」とは同族なのだが、系列が異なったいたのであろう。