2023年9月12日火曜日

高野天皇:称徳天皇(22) 〔646〕

高野天皇:称徳天皇(22)


神護景雲三(西暦769年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

秋七月乙亥。賜厨眞人厨女封卌二戸。田十町。」始用法王宮職印。庚辰。遣使奉幣於五畿内風伯。壬午。左京人阿刀造子老等五人賜姓阿刀宿祢。丁亥。周防國戸五十烟入四天王寺。

七月十日に厨眞人厨女(不破内親王)に封戸四十ニ戸と田十町を賜っている。また、初めて法王宮職印を用いている。十五日に使者を派遣して、畿内五ヶ國の風神に幣帛を奉納している。十七日に左京の人である「阿刀造子老」等五人に「阿刀宿祢」の姓を賜っている。二十二日に周防國の五十戸を四天王寺に施入している。

<阿刀造子老・阿刀宿祢眞足>
● 阿刀造子老[阿刀宿祢]

書紀の天武天皇紀に「安斗(阿刀)連」一族が多く登場していた。後に「阿刀宿祢」を賜っている。「玄昉僧正」もこの一族の出身と知られている(こちら参照)。

更に称徳天皇紀になって登場した人物は安都宿祢と表記されている。目まぐるしく書き換えられているが、一族が蔓延るに連れて、居処の地形が微妙に変化していることに基づくのであろう。決して、単なる気紛れではあり得ない。

勿論、今回の「阿刀造」は異なる地を出自とする人物と思われる。聖武天皇紀に登場した義淵法師(功績により兄弟等に「岡連」の氏姓を賜姓)の俗名は「市往」であり、後に市往泉麻呂が同じく岡連氏姓を賜っている。續紀では記載されないが、大和國高市郡の「阿刀」氏の出身であったとも伝えられている。

阿刀=台地が刀の形をしているところと読むと、「義淵」等の北側の山稜を表していることが解る。頻出の子老=生え出た山稜が海老のように曲がっているところとすると、図に示した場所が出自と推定される。賜姓の阿刀宿祢が混在するように錯覚するが、実は、きちんと書き分けられているようである。

後(光仁天皇紀)に阿刀宿祢眞足が外従五位下を叙爵されて登場する。眞足=[足]のような山稜が寄り集まった窪んだところと解釈すると、図に示した「子老」の西側に当たる場所が出自と推定される。

八月丙申朔。日有蝕之。庚午。授外從五位下武藏宿祢不破麻呂從五位上。辛丑。授從八位下茨田連稻床外從五位下。以貢獻也。甲辰。尾張國海部。中嶋二郡大水。賜尤貧者穀人一斗。」授從五位下皇甫東朝從五位上。戊申。遠江。越前二國戸各廿烟。大和。山背兩國田各五町捨入龍淵寺。己酉。下総國猿嶋郡災。燒穀六千四百餘斛。癸丑。河内國大縣郡人從五位下上村主五百公賜姓上連。甲寅。以從五位下當麻眞人永繼爲左少弁。從四位下大伴宿祢伯麻呂爲員外右中弁。造西大寺次官如故。從五位下太朝臣犬養爲右少弁。正五位下小野朝臣小贄爲中務大輔。勅旨大丞從五位下健部朝臣人上爲兼圖書助。從五位下山上朝臣船主爲陰陽助。筑後掾如故。外從五位下百濟公秋麻呂爲允。外從五位下雀部兄子爲内藥正。外從五位下清湍連雷爲雅樂大允。從五位下阿倍朝臣意宇麻呂爲主船正。正四位下田中朝臣多太麻呂爲宮内大輔。從五位下大伴宿祢不破麻呂爲彈正弼。大藏卿從三位藤原朝臣魚名爲兼左京大夫。從五位上阿倍朝臣清成爲造宮大輔。式部少輔正五位下藤原朝臣家依爲兼大和守。從五位下多治比眞人長野爲介。從五位下小野朝臣石根爲近江介。從五位上弓削宿祢大成爲信濃員外介。正五位上石川朝臣名足爲陸奥守。從五位下輔治能眞人清麻呂爲因幡員外介。外從五位下田部宿祢足嶋爲淡路守。從五位上袁晋卿爲日向守。丙辰。始置大宰府綾師。

八月一日に日蝕が起こっている。五日、武藏宿祢不破麻呂(丈部直。刀自に併記)に従五位上を授けている。六日に「茨田連稻床」に外従五位下を授けている。献上したことによる。九日に尾張國海部郡・中嶋郡の二郡に大水の被害があった。そこで、とりわけ貧しい者等に籾米を一斗ずつ賜っている。また、「皇甫東朝」(李元環の近隣)に従五位上を授けている。

十三日に遠江と越前の二國の各々の二十戸と、大和と山背の二國の水田各々の五町を「龍淵寺」に施入している。十四日に「下総國猿嶋郡」に火災があり、籾米六千四百余石が焼けている。十八日に河内國大縣郡の人である上村主五百公(大縣連百枚女に併記)に「上連」の氏姓を賜っている。

十九日に當麻眞人永繼(永嗣。得足に併記)を左少弁、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を造西大寺次官のままで員外右中弁、太朝臣犬養(多朝臣)を右少弁、小野朝臣小贄を中務大輔、勅旨大丞の健部朝臣人上(建部公人上)を兼務で圖書助、山上朝臣船主を筑後掾のままで陰陽助、百濟公秋麻呂(余民善女に併記)を允、雀部兄子(雀部直)を内藥正、清湍連雷(河内に併記)を雅樂大允、阿倍朝臣意宇麻呂(綱麻呂に併記)を主船正、田中朝臣多太麻呂を宮内大輔、大伴宿祢不破麻呂を彈正弼、大藏卿の藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を兼務で左京大夫、阿倍朝臣清成(淨成)を造宮大輔、式部少輔の藤原朝臣家依を兼務で大和守、多治比眞人長野を介、小野朝臣石根を近江介、弓削宿祢大成()を信濃員外介、石川朝臣名足を陸奥守、輔治能眞人清麻呂(和氣清麻呂)を因幡員外介、田部宿祢足嶋(男足に併記)を淡路守、「袁晋卿」(李元環の近隣)日向守に任じている。

<茨田連稻床>
二十一日に初めて大宰府に綾師(綾織の技術者)を置いている。

● 茨田連稻床
 
「茨田連」は、元正天皇紀に刀自女が唱歌師として褒賞されていた。勿論、古事記の日子八井命が祖となった一族の末裔と思われる。續紀は古事記の記述を忠実に引き継いでいる証左の例であろう。

現地名は京都郡みやこ町勝山松田、即ち”茨田=松田”の地と推定した。稻床の「稻」=「禾+爪+臼」=「三本の山稜が窪んだところに延び出ている様」であり、「床(本字は牀)」=「四角く区切られている様」と解釈した。

纏めると稻床=三本の山稜が延び出ている窪んだ地が四角く区切られているところと読み解ける。図に示した場所にその地形を見出すことができる。

<龍淵寺>
龍淵寺

諸王と同じく寺も唐突に記載されて、その本貫の地を求めるのに一苦労させられることが多いようである。直近では西大寺の「西」も立派な地形象形表記として建立の地を詳らかにすることができた。

とは言え、本寺に関する情報が皆無であり、調べると大安寺別院であって、その南側にあった寺と知られているようである。

施入された水田の規模からも大寺ではない様子であり、大安寺近隣を探索することにした。名称の龍淵=龍の頭部のような地の傍らに淵があるところと解釈すると、何と、見事に当て嵌る場所が見出せる。

元明天皇紀に記載された支半于刀の「刀」を「龍」と見做した地形象形表記であることが解る。熊凝精舎から始まってこの一帯に寺が建立されていたのであろう。

<下総國猿嶋郡・日下部淨人>
下総國猿嶋郡

少し前に下総國結城郡では河川の氾濫が多発するため流域を変える作業を行ったり、なかなかに自然災害への対応に手間が掛かっていると記載されていた。

今度は「猿嶋郡」では、火災で食糧に多大な被害が発生したと伝えている。上記の尾張國の大水など、人々が生き永らえるために必要な自然の恵みは、時にその牙を剥く…その戦いである。

「猿嶋郡」の「猿」=「犬+袁」=「平らな山稜がゆったりと延び広がっている様」と解釈した。頻出の「嶋」と合わせると、猿嶋=平らな山稜がゆったりと延び広がっている鳥のような形をしているところと読み解ける。

図に示したように香取郡・結城郡の東側の山稜を表してることが解る。前記で記載された河曲驛があった場所と思われる。現在は広大な宅地に変わっていて、国土地理院航空写真1961~9年で、その地形を確認することができる。

後(光仁天皇紀)に当郡の住人である日下部淨人安倍猿嶋臣の氏姓を賜ったと記載されている。既出の日下部=太陽のような丸く小高い地の麓にちかいところと解釈した。図に示したように鳥の背中に当たるところを「日」と見做したのであろう。

これも既出の淨人=水辺で両腕で取り囲むように延びた山稜が谷間にあるところと読むと、この人物の出自の場所を求めることができる。賜姓に含まれる安倍=山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がって広がっているところであり、背後の谷間の様子を表現していることが解る。

九月丁夘。始賜任諸國軍主帳者爵一級。壬申。尾張國言。此國与美濃國堺。有鵜沼川。今年大水。其流沒道。毎日侵損葉栗。中嶋。海部三郡百姓田宅。又國府并國分二寺。倶居下流。若經年歳。必致漂損。望請。遣解工使。開掘復其舊道。許之。辛巳。河内國志紀郡人從七位下岡田毘登稻城等四人賜姓吉備臣。」以從四位下藤原朝臣楓麻呂爲信濃守。丙戌。左京人從八位下河原毘登堅魚等十人。河内國人河原藏人人成等五人。並賜姓河原連。己丑。詔曰。天皇〈良我〉御命〈良麻止〉詔〈久〉。夫臣下〈等〉云物〈波〉君〈仁〉隨〈天〉淨〈久〉貞〈仁〉明心〈乎〉以〈天〉君〈乎〉助護對〈天方〉無礼〈岐〉面〈幣利〉無〈久〉後〈仁波〉謗言無〈久〉姦僞〈利〉謟曲〈流〉心無〈之天〉奉侍〈倍岐〉物〈仁〉在。然物〈乎〉從五位下因幡國員外介輔治能眞人清麻呂其〈我〉姉法均〈止〉甚大〈仁〉惡〈久〉姦〈流〉妄語〈乎〉作〈天〉朕〈仁〉對〈天〉法均〈伊〉物奏〈利〉。此〈乎〉見〈流仁〉面〈乃〉色形口〈尓〉云言猶明〈尓〉己〈何〉作〈天〉云言〈乎〉大神〈乃〉御命〈止〉借〈天〉言〈止〉所知〈奴〉。問求〈仁〉朕所念〈之天〉在〈何〉如〈久〉大神〈乃〉御命〈尓波〉不在〈止〉聞行定〈都〉。故是以法〈乃麻尓麻〉退給〈止〉詔〈布〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。復詔〈久〉此事〈方〉人〈乃〉奏〈天〉在〈仁毛〉不在。唯言其理〈尓〉不在逆〈尓〉云〈利〉。面〈幣利毛〉無礼〈之天〉己事〈乎〉納用〈与止〉念〈天〉在。是天地〈乃〉逆〈止〉云〈尓〉此〈与利〉増〈波〉無。然此〈方〉諸聖等天神地祇現給〈比〉悟給〈尓己曾〉在〈礼〉。誰〈可〉敢〈弖〉朕〈尓〉奏給〈牟〉。猶人〈方〉不奏在〈等毛〉心中惡〈久〉垢〈久〉濁〈天〉在人〈波〉必天地現〈之〉示給〈都留〉物〈曾〉。是以人人己〈何〉心〈乎〉明〈尓〉清〈久〉貞〈尓〉謹〈天〉奉侍〈止〉詔〈布〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。復此事〈乎〉知〈天〉清麻呂等〈止〉相謀〈家牟〉人在〈止方〉所知〈天〉在〈止毛〉君〈波〉慈〈乎〉以〈弖〉天下〈乃〉政〈波〉行給物〈尓〉伊麻〈世波奈毛〉慈〈備〉愍〈美〉給〈天〉免給〈布〉。然行事〈乃〉重在〈牟〉人〈乎波〉法〈乃麻尓麻〉收給〈牟〉物〈曾〉。如是状悟〈天〉先〈尓〉清麻呂等〈止〉同心〈之天〉一二〈乃〉事〈毛〉相謀〈家牟〉人等〈波〉心改〈天〉明〈仁〉貞〈尓〉在心〈乎〉以〈天〉奉侍〈止〉詔〈布〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。復清麻呂等〈波〉奉侍〈留〉奴〈止〉所念〈天己曾〉姓〈毛〉賜〈弖〉治給〈天之可〉。今〈波〉穢奴〈止之弖〉退給〈尓〉依〈奈毛〉賜〈幣利之〉姓〈方〉取〈弖〉別部〈止〉成給〈弖〉其〈我〉名〈波〉穢麻呂〈止〉給〈比〉法均〈我〉名〈毛〉廣虫賣〈止〉還給〈止〉詔〈布〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。復明基〈波〉廣虫賣〈止〉身〈波〉二〈尓〉在〈止毛〉心〈波〉一〈尓〉在〈止〉所知〈弖奈毛〉其〈我〉名〈毛〉取給〈弖〉同〈久〉退給〈等〉詔〈布〉御命〈乎〉衆諸聞食〈止〉宣。」始大宰主神習宜阿曾麻呂希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使來云。大神爲令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聽彼神命。臨發。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋爲告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我國家開闢以來。君臣定矣。以臣爲君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。无道之人。宜早掃除。清麻呂來歸。奏如神教。於是道鏡大怒。解清麻呂本官。出爲因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。

九月三日に初めて諸國の軍団の主帳に任じられた者に位一級を賜っている。八日に尾張國が以下のように言上している・・・この國と美濃國の堺を流れる「鵜沼川」(現在の貫川。現在の流路とは大きく異なっていたと推測)で、今年大水があった。流水が河道を埋めて日毎に葉栗・中嶋・海部三郡に住む人民の水田・家屋を浸し、損なった。また國府と國分二寺は、共にその下流に位置しているので、もし歳月が過ぎると、必ず水害を受けて流され損じるであろう。そこで、土木技術を解する使者を派遣して掘削し、元の河道に復旧させるを申請する・・・この申請を許可している。

十七日に河内國志紀郡の人である「岡田毘登稻城」等四人に「吉備臣」の氏姓を賜っている。また、藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を信濃守に任じている。二十二日に左京の人である「河原毘登堅魚」等十人と河内國の人である「河原藏人人成」等五人に、それぞれ「河原連」の姓を賜っている。

二十五日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・天皇の御言葉として仰せられるには、いったい臣下というものは、君主に従って浄く貞しく明るい心をもって、君主を助け守り、無礼な面持をせず、陰にまわっても謗ることなく、邪で偽ったり、諂い曲がった心を持ったりすることなく、仕えるべきである。それなのに、因幡國員外介の輔治能眞人清麻呂(和氣清麻呂)は、その姉の法均(和氣廣蟲、廣虫賣)と、非常に悪く邪な偽りの話しを作り、朕に対して法均が述べた。---≪続≫---

それを見るに、面の顔色・表情といい口に出す言葉といい、明らかに自分が偽り作って言うことを、大神のお言葉とかこつけて言っているのであると、知った。問い詰めたところ、やはり朕が考えたように、大神のお言葉ではないと断定されたのである。それ故に、國法に従って両人を退けるのである、と仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

また仰せになるには・・・このことは人が偽りと申し上げたから分かったのではなく、ただ法均の言うことが道理に合わず、さかさまになっていたからである。面持ちも無礼で、自分の言うことを天皇が聞き入れて用いよ、と思っていたのである。天地が逆さまになると言うが、これよりひどいものはない。---≪続≫---

けれども、諸聖たちや天神地祇の神々が、偽りであると現わされ悟されたのである。誰が敢えて朕に偽りであると申し上げようか。やはり人が申し上げずとも、心の中が悪く汚く濁っている人は、必ず天地が現わし示されるものである。これ故に人々は自分の心を明らかに清く貞しくして、謹んで仕えよと仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

また仰せになるには・・・このことを偽りだと知りながら、清麻呂等と共に謀った人がいると知っているけれども、君主たるものは慈をもって天下の政治を行うものであるから、悲しみ哀れんで免罪にする。こうした行為を重ねた人を、國法の通り処分するものである。このような事情を悟って、先に清麻呂等と心を同じくして、一、二のことを共謀した人達は、心を改めて、明らかに貞しい心をもって仕えよ、と仰せなる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

また仰せになるには・・・清麻呂等は忠実に仕える臣下であると思うからこそ、姓を与え、しかるべき取り計らいをしたのである。けれども今は汚い臣下として退けるのであるから、前に賜った姓を取り上げて「別部」とし、その名も「穢麻呂」とし、法均の名も元の「廣虫賣」に還す、と仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

また仰せになるには・・・「明基」(後宮に仕える尼僧。出自不詳)は「廣虫賣」と体は別であるけれども、心は一つであると知ったから、名を取り上げて還俗させ退ける、と仰せになる御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

初め、大宰府の主神である習宜阿曽麻呂(中臣習宜朝臣阿曽麻呂。山守に併記)は、気に入られようと道鏡に媚び仕えた。よって、八幡神の命令と偽り、[道鏡を皇位につければ天下は太平になるであろう]と述べた。道鏡はこれを聞いて、深く喜ぶと共に自信を持った。天皇は清麻呂を玉座の近くに招き、[昨夜の夢に、八幡神の使者が来て、〈大神は奏上することがあって、尼の法均を遣わされることを願っている〉と述べた。そなた清麻呂は代わって行き、かの神のお言葉を聞くように]と勅した。

出発に臨んで、道鏡は[大神が使者の派遣を請うのは、多分、私の即位のことについて告げるためであろう]と清麻呂に語り、そこで吉報をもたらせば官職位階を十分にあげてやろう、と持ち掛けた。清麻呂は、出掛けて行って八幡神の宮に到った。大神は[我が國家は始まって以来、君臣の秩序は定まっている。臣下を君主にすることは、未だかつてなかった。天つ日嗣には、必ず皇統の人を立てよ。無道の人は早く払い除けよ]と託宣した。

清麻呂は帰京して、神の命令をそのまま申し上げた。その時道鏡は非情に怒り、清麻呂の官職を免じ、因幡員外介に左遷したが、まだ任地に行かないうちに、引き続いて詔があり、除名されて大隅國に配流されている。その姉法均は、還俗させられて備後國に配流されている。

<岡田毘登稻城>
● 岡田毘登稻城

河内國志紀郡の住人が多く登場している。直近では、白鳥村主馬人等が「白原連」の氏姓を賜ったと記載されていた。古事記の白鳥御陵の周辺が埋め尽くされているかのようである。

彼等に併記することもできるが、些か図が込み入って来るので、あらためて作成することにした。例に依って名前が表す地形から出自の場所を求める。

岡田岡=网+山=谷間に山稜が延びている様であり、三本の山稜が並んで延びている地形を表している。田=平らに整えられた様である。名前の稻城稻=禾+爪+臼=三本の山稜が窪んだ地に延び出ている様城=盛り上がった地が平らになっている様と解釈する。全て頻出の文字である。

要するに「岡田」と「稻城」は、同じ地形に対する異なる表記であることが解る。また、賜姓の吉備=矢を入れた[箙]に蓋をするように山稜が延びているところと解釈したが、これも別表記の一つと思われる。「吉備」も、多用される文字列、即ちそれが表す地形が処々にあったことを示しているのである。

<河原毘登堅魚・河原藏人人成>
● 河原毘登堅魚・河原藏人人成

「河原毘登(史)」は、聖武天皇紀に「河内國丹比郡人正八位下川原椋人子虫等卌六人賜河原史姓」と記載されて登場していた(こちら参照)。今回の「堅魚」の本貫の地は河内國丹比郡であったと推測される。

現在の井尻川の川辺で水田が広がっている場所である。東側が多治比眞人一族、南側が船連一族の居処と推定した。正に多くの人材が登場した、その隙間を埋めるような配置である。

堅魚=谷間に延び出た手のような山稜が[魚]の形をしているところと解釈すると、図に示した場所が、この人物の本貫の地と思われる。故あって右京に住まっていたのであろう。「毘登」は「史」の文字を使えなくなり、本来は「河原史」であり、既出の人物等と同じ山稜上を出自としているのである。

河原藏人人成藏人=谷間にある四角く区切られたところと解釈される。川辺の開けた場所を示していると思われる。人成=[人]の形に岐れた地が平らに盛り上げられているところと解釈される。些か地図上の解像度が不足しているが、何とか、それらしき場所が見出せる。