天宗高紹天皇:光仁天皇(6)
寶龜二年(西暦771年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
十一月癸未朔。遣使造入唐使舶四艘於安藝國。癸巳。陸奧國桃生郡人外從七位下牡鹿連猪手賜姓道嶋宿祢。庚子。遣鍛冶正從五位下氣太王造齋宮於伊勢國。辛丑。以從五位下紀朝臣古佐美爲式部少輔。從五位下多治比眞人豊濱爲治部少輔。主殿頭從五位下美和眞人土生爲兼丹波員外介。從五位下多朝臣犬養爲但馬員外介。從五位下紀朝臣大純爲備前介。從五位下大伴宿祢村上爲肥後介。從五位上安倍朝臣御縣爲豊前守。癸夘。御太政官院。行大甞之事。參河國爲由機。因幡國爲須岐。參議從三位式部卿石上朝臣宅嗣。丹波守正五位上石上朝臣息嗣。勅旨少輔從五位上兼春宮員外亮石上朝臣家成。散位從七位上榎井朝臣種人立神楯桙。大和守從四位上大伴宿祢古慈斐。左大弁從四位上兼播磨守佐伯宿祢今毛人開門。内藏頭從四位下阿倍朝臣息道。助從五位下阿倍朝臣草麻呂奏諸司宿侍名簿。右大臣大中臣朝臣清麻呂奏神壽詞。弁官史奏兩國獻物。賜右大臣絁六十疋。賜五位已上衾各一領。乙巳。以從三位石上朝臣宅嗣爲中納言。正四位下藤原朝臣百川。從四位上阿倍朝臣毛人爲參議。是日。宴五位已上於閣門前幄。賜五位已上及内外命婦祿。各有差。丙午。賜親王已下五位已上絲。各有差。其明經。文章。音博士。明法。算術。醫術。陰陽。天文。暦術。貨殖。恪勤。工巧。武士。惣五十五人賜絲人十絇。」授從五位上紀朝臣廣庭正五位下。復无位大伴宿祢田麻呂本位從五位下。丁未。授從五位下壹志濃王從四位下。正五位下奈癸王正五位上。從五位下當麻王從五位上。從四位上大伴宿祢古慈斐。藤原朝臣楓麻呂並正四位下。從四位下藤原朝臣濱足。大伴宿祢伯麻呂並從四位上。正五位上大伴宿祢駿河麻呂。正五位下大伴宿祢家持。正五位上石上朝臣息嗣並從四位下。從五位上多治比眞人長野。李忌寸元環並正五位下。從五位下阿倍朝臣意宇麻呂。石川朝臣眞守。當麻眞人徳足。紀朝臣船守並從五位上。外從五位下内藏忌寸若人。外正五位下葛井連根主。正六位上大中臣朝臣宿奈麻呂。紀朝臣諸繼。平群朝臣臣足。藤原朝臣宅美並從五位下。正六位上阿刀宿祢眞足。内藏忌寸全成並外從五位下。是日。宴於五位已上。其内外文武官主典已上於朝堂。賜五位已上綿各有差。賜神祇官及主典已上。至國郡司役夫物各有差。戊申。授國司從五位上船井王正五位下。正四位下藤原朝臣田麻呂正四位上。從五位下大伴宿祢潔足。粟田朝臣鷹守並從五位上。正六位上賀茂朝臣人麻呂。安倍朝臣謂奈麻呂。笠朝臣名末呂並從五位下。正六位上日下部直安提麻呂外從五位下。賜郡司爵人一級。己酉。御由機厨。授正四位上藤原朝臣田麻呂。藤原朝臣繼繩從三位。從四位上佐伯宿祢今毛人正四位下。庚戌。御須岐厨。叙正三位文室眞人大市從二位。正五位下船井王正五位上。從五位上大伴宿祢潔足正五位下。」无位粟田朝臣人成本位從五位下。」正五位下藤原朝臣蔭正五位上。從五位下藤原朝臣人數。藤原朝臣諸姉。因幡國造淨成女從五位上。辛亥。有星隕西南。其聲如雷。壬子。散位從四位下下毛野朝臣稻麻呂卒。
十一月一日に使を遣わして安藝國に遣唐使の船四艘を造らせている。十一日に「陸奥國桃生郡」の人である「牡鹿連猪手」に道嶋宿祢の氏姓を与えている。十八日に鍛治正の氣太王(氣多王)を遣わして、「齋宮」を伊勢國に造らせている。
十九日に紀朝臣古佐美を式部少輔、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を治部少輔、主殿頭の美和眞人土生(壬生王)を兼務で丹波員外介、多朝臣犬養を但馬員外介、紀朝臣大純を備前介、大伴宿祢村上(形見に併記)を肥後介、安倍朝臣御縣を豊前守に任じている。
二十一日に太政官院に出御されて、大嘗祭の事を行われている。參河國を由機とし因幡國を須機としている。参議・式部卿の石上朝臣宅嗣、丹波守の石上朝臣息嗣(奥繼。宅嗣に併記)、勅旨少輔で春宮員外亮を兼ねる石上朝臣家成(宅嗣に併記)、散位の「榎井朝臣種人」が神の楯桙を立て、大和守の大伴宿祢古慈斐(祜信備)と左大弁で播磨守を兼ねる佐伯宿祢今毛人が門を開いている。内藏頭の阿倍朝臣息道、助の阿倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)が諸司の宿直者の名簿を奏上し、右大臣の大中臣朝臣清麻呂(東人に併記)が神寿詞を奏上し、弁官の史が由機・須機両國の献上物を奏上している。天皇は右大臣に絁六十疋を、五位以上の者には夜具をそれぞれ一領与えている。
二十三日に石上朝臣宅嗣を中納言、藤原朝臣百川(雄田麻呂)と阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を参議に任じている。この日、五位以上の者を閤門(大極殿の門)の前の幄舎に呼んで宴会し、五位以上の者及び内命婦・外命婦に身分に応じて禄を与えている。
二十四日に親王以下、五位以上の者に絹糸をそれぞれ与えている。また明経博士・文章博士・音博士、律令に詳しい者、算術・医術・陰陽・天文・暦術に通じている者、財産を増やすことに努めた者、勤勉な者、工芸技術に優れた者、武術に優れた者、全て五十五人に絹糸をそれぞれ十絇与えている。また、紀朝臣廣庭(宇美に併記)に正五位下を授け、大伴宿祢田麻呂(諸刀自に併記)を本位の従五位下に復している。
二十五日、壹志濃王(❷)に從四位下、奈癸王(奈貴王。石津王に併記)に正五位上、當麻王(❻)に從五位上、大伴宿祢古慈斐・藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)・に正四位下、藤原朝臣濱足・大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に從四位上、大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)・大伴宿祢家持・石上朝臣息嗣に從四位下、多治比眞人長野・李忌寸元環に正五位下、阿倍朝臣意宇麻呂(綱麻呂に併記)・石川朝臣眞守・當麻眞人徳足(得足)・紀朝臣船守に從五位上、内藏忌寸若人(黒人に併記)・葛井連根主(惠文に併記)・大中臣朝臣宿奈麻呂(子老に併記)・紀朝臣諸繼(橡姫に併記)・平群朝臣臣足(眞繼に併記)・藤原朝臣宅美(良継の長男。乙刀自に併記)に從五位下、阿刀宿祢眞足(阿刀造子老に併記)・内藏忌寸全成(黒人に併記)に外從五位下を授けている。
この日、五位以上の者を呼んで宴会している。内外の文武官の主典以上の者は朝堂で行っている。五位以上の者には真綿を、神祇官及び主典以上から國司・郡司に至るまで、それぞれ物を与えている。
二十六日に因幡國國司の船井王に正五位下、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)に正四位上、大伴宿祢潔足(池主に併記)・粟田朝臣鷹守に從五位上、「賀茂朝臣人麻呂」・安倍朝臣謂奈麻呂(船守の子。詳細はこちら参照)・笠朝臣名末呂(賀古に併記)に從五位下、日下部直安提麻呂(伊豆直乎美奈に併記)に外從五位下を授けている。因幡・參河國の郡司に位階一級を与えている。
二十七日に由機院の厨に出御されて、藤原朝臣田麻呂・藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)に従三位、佐伯宿祢今毛人に正四位下を授けている。二十八日に須機院の厨に出御されて、文室眞人大市に從二位、船井王に正五位上、大伴宿祢潔足に正五位下を授けている。また、粟田朝臣人成(馬養に併記)に本位の從五位下に復させている。また、藤原朝臣蔭(影)に正五位上、藤原朝臣人數・藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)・因幡國造淨成女に從五位上を授けている。
二十九日に流星があり西南に落ち、その音は雷のようであった。三十日に散位の下毛野朝臣稻麻呂(信に併記)が亡くなっている。
<陸奥國桃生(郡)> |
陸奥國桃生郡
「陸奥國桃生郡」の初見の記述であろう。桃生(左図に再掲)の名称は、孝謙天皇紀に出羽國小(雄)勝と共に辺境の地に造られた城柵であり、その後に浮浪人などを移住させたと記載されていた。
対蝦夷の最前線基地であり、それ故に何度も登場している場所である。おそらく、移住者が増えたことから郡建てを行ったのであろう。
図に示した通り、この地は聖武天皇紀に登場した遠田君(公)一族が支配していた、帰順した蝦夷等の近隣の地と推測される。
類似の例としては、新田柵があった地を新田郡として郡建てされている。城柵を造って、その周辺の地に人々を住まわせたのである。辺境の開拓手法を述べていると思われる。上図に示した小捄・金夜の領域は「遠田郡」に属していたと思われる。
● 牡鹿連猪手
上記の「桃生郡」に住まっていた人物なのだが、名前は「牡鹿郡」を出自であることを示していると思われる。「道嶋宿祢」は、陸奥國大國造に任じられた道嶋宿祢嶋足(牡鹿連嶋足)が賜った氏姓であり、「嶋足」の命を受けて「桃生郡」に移住していたのではなかろうか。
それは兎も角として、猪手=平らな山稜が手が交差するように延びているところと読み解くと、図に示した場所を表していると思われる。
残念ながら、現在の地形図では全く確認することが叶わず、国土地理院航空写真1974~9年を参照して求めた結果である。どうやら「道嶋宿祢」一族としては、この人物が最後であり、陸奥國を代表する立場から次第に退いていったようである。
と、思われたのだが、後の『寶龜の乱』で陸奥國牡鹿郡大領であった道嶋大楯が殺害されてしまったと記載されている。大楯=平らな頂の山稜が谷間を塞ぐように延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。やはり道嶋宿祢一族が衰退した切っ掛けとなったのではなかろうか。
更に後(桓武天皇紀)に蝦夷討伐の別将であった道嶋御楯が登場する。敗残兵を率いて多賀城(柵)に帰還したと記載されている。御楯=谷間を塞ぐように延びる山稜を束ねているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。
齋宮於伊勢國
あらためて齋宮が表す地形を述べると、「齋」=「齊+示」と分解される。更に「齊」=「同じような物が等しく揃っている様」を表す文字である。地形象形表記としては、齋=齊+示=高台に同じような地形が等しく揃っている様と解釈される。
この表記で求めた「泊瀬齋宮」の場所の地形に酷似する場所が、図に示したように伊勢國多氣郡に見出せる。文武天皇紀に登場した多氣大神宮の南側に当たる。齋王は年に三度のみ伊勢太神宮に赴き神事に奉仕し、普段は齋宮で遥拝する習わしだったとのことである。
少々距離が長くなったが、「泊瀬齋宮」と同じように谷間の出口にある天照大御神を望拝できる場所に造営されたのであろう。多氣大神宮は、既に度會郡に遷宮済みであり、その時に齋宮の場所として定められていたのかもしれない。現在の国史跡斎宮跡(三重県多気郡明和町斎宮)の”本貫”の地である。
『壬申の乱』で多大な功績を上げた「物部朴井連」一族が「榎井朝臣」の氏姓を賜り、連綿と人材が登用されて来ている。直近では称徳天皇紀に祖足が従五位下を叙爵されていた。
残念ながら、この一族の系譜は伝わっていなようであるが、狭い谷間に蔓延った一族故に系譜など不用の状況だったように思われる。古事記も含めて史書における邇藝速日命系列の扱いは、最少限度である。忖度なのかもしれない。
ともあれ、種人=稲穂のような山稜が谷間を突き通しているところと読み解くと、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。折角のご登場なのであるが、この後續紀に記載されることはないようである。
● 賀茂朝臣人麻呂
人麻呂の人=[人]の形に岐れた山稜が揃って並んでいる様を表すと解釈した。その地形を図に示した場所、「根足」の隣の地に見出すことができる。
「高賀茂朝臣」の氏姓は田守が以下のように言上していた・・・昔、大泊瀬天皇(雄略)が葛城山で狩りをされた。その時に老夫がいて毎度天皇と競争して獲物の取り合いをした。そこで天皇はこれを怒り、その老人を土左國に流した。これは我等の先祖が祭祀を掌っていた神が化身し老夫と成ったもので、この時大和國から土左國へ追放された<分注。以前の記録を調べたが、この事件は見当たらない>・・・。これにより土左國から高鴨神を本来の場所に迎え入れ、更に彼等一族に「高賀茂朝臣」の氏姓を賜った、と記載されていた。
續紀中、この後も「高賀茂朝臣」と「賀茂朝臣」とはきちんと書き分けられていて、「諸雄」の子孫とするのは不都合な様子である。また、配置的にも「清濱」辺りが限界のように思われる。「角足」は「吉備麻呂」の孫、「治田」の子であり、聖武天皇紀に外従五位下に叙位され、順調に昇進して内位の正五位上にまで達するが、『橘奈良麻呂の乱』に連座して処刑されている。父親とするには些か時代が異なっているように思われる。
ところで、処刑される前に「乃呂志角足」と改名させられていた。少し先で乃呂志比良麻呂なる人物が許されて「賀茂朝臣」の氏姓に復すると記載されている。この人物こそ「角足」の子孫であったと推測される。比良=なだらかに延びる山稜が並んでいるところと解釈され、図に示した場所に、その地形を見出せる。
「根足」の登場は、些か曲折を経た記述の中であり、孝謙天皇紀に官奴から解放されて賀茂朝臣に復帰したような内容であった。出自場所の位置関係からすると、父親は「根足」だったのかもしれない。系譜も含めた人物の出自を求めるには、なかなかに骨の折れる作業を伴うことを思い知らされたようである。
十二月癸丑朔。日有蝕之。戊午。以大納言從二位文室眞人大市爲兼治部卿。從五位下紀朝臣諸繼爲安藝介。己未。罷筑前國官員。隸大宰府。丙寅。從五位上因幡國造淨成女爲因幡國國造。丁夘。勅。先妣紀氏未追尊號。自今以後。宜奉稱皇太后。御墓者稱山陵。其忌日者亦入國忌例。設齋如式。甲戌。大宰府言。日向。大隅。薩摩及壹伎。多褹等博士醫師。一任之後。終身不替。所以後生之學。業術不進。乞同朝法。八年遷替。以示干祿。永勸後學。許之。癸酉。渤海使壹萬福等入京。
十二月一日に日蝕が起こっている。六日に大納言の文室眞人大市に治部卿を兼任させ、紀朝臣諸繼(橡姫に併記)を安藝介に任じている。七日に筑前國の定員を廃して大宰府につけている。十四日に因幡國造淨成女を因幡國國造に任じている。
十五日に次のように勅されている・・・さきに逝去した母親の紀氏(紀朝臣橡姫)には、まだ尊号を贈っていない。今後は皇太后と称して奉ることとする。その墓は山稜と称し、その命日もまた國忌の例に入れ、法会を行なって食事の用意をすることは規則の通りとせよ・・・。
二十二日に大宰府が以下のように言上している・・・日向・大隅・薩摩及び壹伎・多褹などの博士・医師は、一度任命すれば、その後は死ぬまで交替することがない。そのため後輩は職を得るあてがなく学問や技術が進歩しない。朝廷の法と同じく八年で交替し、それによって任官できることを示し、後進の学ぶ者を励ますようにしたいと思う・・・。これを許可している。二十一日に渤海使の壹萬福等が入京している<日付?>。
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續日本紀卷第卅一尾