2023年12月28日木曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(7) 〔658〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(7)


寶龜三(西暦772年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀4(直木考次郎他著)を参照。

三年春正月壬午朔。天皇御大極殿。受朝。文武百官。渤海蕃客。陸奥出羽蝦夷。各依儀拜賀。宴次侍從已上於内裏。賜物有差。甲申。天皇臨軒。渤海國使青綬大夫壹萬福等貢方物。」復无位粟田朝臣深見本位從四位下。」授從五位上河内王正五位下。從五位下大田王從五位上。无位三方王。宗形王並從五位下。從五位上甘南備眞人伊香。佐伯宿祢助。佐伯宿祢眞守。巨勢朝臣公成。大藏忌寸麻呂。佐伯宿祢三方並正五位下。從五位下大伴宿祢不破麻呂。石川朝臣名繼。路眞人鷹養。安曇宿祢石成。大伴宿祢形見並從五位上。无位山邊眞人笠。正六位上石川朝臣名主。安倍朝臣諸上。多治比眞人歳主。粟田朝臣鷹主。藤原朝臣長繼。石上朝臣繼足。布勢朝臣清直。佐伯宿祢藤麻呂並從五位下。正六位上伊福部宿祢毛人外從五位下。己丑。授正六位上安倍朝臣家麻呂從五位下。外從五位下草鹿酒人宿祢水女從五位下。庚寅。授无位藤原朝臣巨曾子正四位上。辛夘。授從五位上長柄女王正五位下。无位高嶋女王從五位下。正五位上爲奈眞人玉足從四位下。正五位下橘朝臣麻都我。從五位上久米連若女並正五位上。從五位上多治比眞人古奈祢正五位下。從五位下橘宿祢御笠從五位上。正六位上佐味朝臣眞宮。无位縣犬養宿祢姉女。正六位下縣犬養宿祢竃屋並從五位下。正六位上若湯坐宿祢子虫外從五位下。丁酉。先是。責問渤海王表無礼於壹萬福。是日。告壹萬福等曰。萬福等。實是渤海王使者。所上之表。豈違例无礼乎。由茲不收其表。萬福等言。夫爲臣之道。不違君命。是以不誤封函。輙用奉進。今爲違例。返却表函。萬福等實深憂慄。仍再拜據地而泣更申。君者彼此一也。臣等歸國必應有罪。今已參渡在於聖朝。罪之輕重无敢所避。」陸奥出羽蝦夷歸郷。賜爵及物有差。庚子。却付渤海國信物於壹萬福。乙巳。信濃國水内郡人女孺外從五位下金刺舍人若嶋等八人賜姓連。丙午。授外從五位下昆解沙弥麻呂從五位下。渤海使壹萬福等改修表文代王申謝。丁未。從五位下長谷眞人於保賜姓文室眞人。

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けられている。文武の百官、渤海の蕃客、陸奥・出羽の蝦夷は、それぞれ儀礼に従って拝賀している。次侍従以上の官人と内裏で宴会し、地位に応じて物を賜っている。三日に宮殿の端近くに出御されて、渤海國の使者、青綬大夫の壹萬福等が土地の産物を献上している。

また、無位の粟田朝臣深見を本位の従四位下に復している。河内王(河内女王近隣)に正五位下、大田王()に從五位上、三方王(三形王)・宗形王(両者共に舎人親王後裔。『仲麻呂の乱』による無位から復位)に從五位下、甘南備眞人伊香(伊香王)佐伯宿祢助佐伯宿祢眞守巨勢朝臣公成(君成)・大藏忌寸麻呂佐伯宿祢三方(御方)に正五位下、大伴宿祢不破麻呂石川朝臣名繼(眞守に併記)路眞人鷹養安曇宿祢石成(刀に併記)・大伴宿祢形見に從五位上、山邊眞人笠(笠王。『仲麻呂の乱』による無位から復位)・石川朝臣名主(垣守に併記)・安倍朝臣諸上(阿倍朝臣常嶋に併記)・「多治比眞人歳主」・粟田朝臣鷹主(鷹守に併記)・藤原朝臣長繼(長道に併記)・石上朝臣繼足(眞足に併記)・布勢朝臣清直(清道)・佐伯宿祢藤麻呂(伊多治に併記)に從五位下、伊福部宿祢毛人(國造淨成女に併記)に外從五位下を授けている。

八日に「安倍朝臣家麻呂」に從五位下、草鹿酒人宿祢水女に内位の從五位下を、九日に「藤原朝臣巨曾子」に正四位上を、十日に長柄女王(難波長柄豐碕宮近隣)に正五位下、「高嶋女王」に從五位下、爲奈眞人玉足(東麻呂に併記)に從四位下、橘朝臣麻都我(麻都賀。古那可智に併記)久米連若女に正五位上、多治比眞人古奈祢(古奈弥。小耳に併記)に正五位下、橘宿祢御笠に從五位上、「佐味朝臣眞宮」・縣犬養宿祢姉女(八重に併記)縣犬養宿祢竃屋(眞伯に併記)に從五位下、若湯坐宿祢子虫(子人に併記)に外從五位下を授けている。

十六日、これより以前に渤海王の上表文が無礼であると壹萬福を責め追及していたが、この日、太政官が壹萬福等に以下のように告げている・・・萬福等が本当に渤海王の使であるならば、奉る所の上表文が、どうして通例と違って無礼であったのか。従ってその上表文は受納しない・・・。

これに対して壹萬福等は以下のように言上している・・・いったい臣下として踏むべき道は、君主の命に違わないことである。それで密封された函を誤ることなく進上した。ところが今、礼儀に違っているということで、上表文と函を返却されてしまった。萬福等は実に深く憂慮している。よって二度拝礼し地にひれ伏して号泣し、更に申し上げる。この地の主君も、本國の主君も、主君であることは同じである。臣等は國に帰ったならば必ずや罪されるであろうが、今は既に渡来して聖朝にいる。罪の軽重に拘わらず、敢えて避けることなく甘受する・・・。

この日、陸奥・出羽の蝦夷が郷里に帰るので、地位に応じて位階と物を賜っている。

十九日に渤海國からの贈物を壹萬福に返却している。二十四日に信濃國水内郡の人である女孺の金刺舎人若嶋等に連姓を賜っている。二十五日に昆解沙弥麻呂(宮成に併記)に内位の従五位下を授けている。また、渤海國使の壹萬福等が上表文を修正し、王に代わって謝罪している。二十六日に長谷眞人於保に文室眞人の氏姓を賜っている。

<多治比眞人歳主-年持>
<三上-濱成-宇美>
● 多治比眞人歳主

「多治比眞人」一族であるが系譜不詳の人物であり、名前が表す地形から出自場所を求めることになる。やはり大臣クラスが輩出されないと記録が残されないようである。

名前に用いられた珍しい例となるが、「歳」=「戌+步」と分解され、地形象形的には「歳」=「鉞のように山稜が延びている様」と解釈される。

纏めると、歳主=真っ直ぐに延びた山稜の前が鉞のようになっているところと読み解ける。別名の年主年=禾+人=谷間に稲穂のような山稜が延びている様であり、類似の地形を表していることが解る。

後に多治比眞人三上が従五位下を叙爵されて登場する。また従六位下の多治比眞人濱成が送唐客使の判官に任じられ、その後任務を果たして従五位下を叙爵されたと記載されている。更に後に多治比眞人宇美が従五位下を叙爵されて登場する。調べると彼等は國人の子、「嶋大臣」の子の「縣守」の孫と知られているようである。

各々既出の文字列である三上=三段に盛り上がっているところ濱成=水辺近くで平らに整えられているところ宇美=広がった谷間に山稜が延び出ているところと解釈すると図に示した辺りがそれぞれの出自と推定される。

また後に多治比眞人年持が従五位下を叙爵されて登場する。年持=稲穂のような山稜が抱え込むように延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。歳↔年となっていて、なかなかに洒落た名称のように思われる。その後、任官の記載が散見される。

<安倍朝臣家麻呂>
● 安倍朝臣家麻呂

調べるとこの人物の系譜が残されていて、宿奈麻呂の孫、小嶋の子であったようである。「阿倍引田臣」一族の中で最も勢いのあった系列に属していたことが分かった。

現在は広大な墓地となっている場所であり、その隙間のような谷間の地形を、当時を偲びながら出自の場所を求めることになる。現地名は北九州市門司区大里である。

とは言え、この谷間は廣目・息道・淨目などの居処と推定したが、さて残された空間は存在するのであろうか?・・・全くの杞憂であった。家麻呂の頻出の家=宀+豕=谷間にある山稜の端が豚の口ようになっているところの地形を図に示した場所に見出せる。

父親「小嶋」の東側、「淨目」の南隣の場所である。念のため国土地理院航空写真1961~9を参照すると、ほぼ間違いなく、墓地になる前の地形を推測することができそうである。この後、幾度か登場され、正五位上に昇進されるが、その後の消息は定かではないようである。

<藤原朝臣巨曾子>
● 藤原朝臣巨曾子

「永手」の娘であって、「家依」の妹、「雄(小)依」の姉であったと知られている。また、光仁天皇夫人であり、今回無位から正四位上に叙爵されたと記載されている(こちら参照)。

出自場所は、勿論北家一族の周辺であろうが、少々凝った名前の持ち主だったようである。古事記風の名称を読み解いてみよう。

多用される「巨」は、その文字形を捩った山稜の形を表すと解釈して来た。すると、雄依の「雄」=「厷+隹」=「羽を広げた鳥のような様」を示す山稜の別表記であることが解る。

纏めると巨曾子=[巨]の山稜から積み重なった地(曾)が生え出ている(子)ところと読み解ける。「永手」の場所の別表現でもある。多分近隣に住まっていたのであろう。別名曹司=様々な山稜が寄り集まっている谷間が狭まっているところと読み解ける。実に的確な表記であろう。おそらく「永手」の山稜の先端部を表しているように思われる。

<高嶋女王・高嶋王>
● 高嶋女王

全く関連する情報が見当たらない状況である。「高嶋」の文字列は既出であるが、一に特定されるわけでもなく、即ち固有の地名ではなく、また、その地形は一般的なものであろう。

古くは古事記の吉備之高嶋宮に用いられてはいたが、女王の居する地ではありえない。前出の「大市王」(文室眞人大市)の子、「高嶋王」は、後に臣籍降下して「文室眞人高嶋」となっていて、この系列でもないようである(こちら参照)。

そんな背景の中で、もう一人正体不明の「高嶋王」が淳仁天皇紀に登場していた。どうやら、この二名の王・女王については得体知れずの有様であり、ここであらためて再考することにした。

「高」の注目すると、称徳天皇紀に『仲麻呂の乱」後に多くの王・女王が登場し、その中に「高向女王・高岡女王」が記載されていた(こちら参照)。現在の田川郡香春町の味見峠に向かう谷間に、びっしりと王・女王の居処があったことを突止めた。その配置を眺めると、「高向女王」の西側に嶋=山+鳥の地形が確認される。びっしり、ではなくて隙間が存在していたのである。

言い換えると、この場所が空いている方が不自然であり、即ち王・女王が住まっていたと考える方が自然な状況と推察される。ならば、この地が高嶋王の出自場所と推定することが可能なように思われる。

<佐味朝臣眞宮-繼人-山守>
● 佐味朝臣眞宮

佐味朝臣一族も連綿と人材登用されて来ているが、虫麻呂等の北部を中心としていたようである。ところが、『奈良麻呂の乱』で、最南端に住まう宮守が一躍脚光を浴び、その後地方官などに任用されている。

事変は、埋もれた人材が表舞台に飛び出る、またとない機会だったのである。密告は、決して気楽な仕業ではなく、正に命懸けであったのだが・・・。

眞宮=奥まで積み上がり広がった谷間が寄り集まって窪んだところ読み解くと、図に示した「宮守」の谷間の先辺りが、この人物の出自と思われる。内位の従五位下を叙爵されているが、この後に登場されることはないようである。

少し後に佐味朝臣繼人が従五位下を叙爵されて登場する。繼人=谷間を連ねるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。後に一度登場されるが
その後の消息は定かではないようである。

更に後に佐味朝臣山守が、同じく従五位下を叙爵されて登場する。山守=山稜が[山]の形をしている端が両肘を張り出したようになっているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。後に地方官を任じられたと記載されている。

二月癸丑。大納言從二位文室眞人大市上表乞骸骨曰。臣大市言。臣以愚質。幸逢聖朝。拖紫懷金。叨掌喉舌。貪榮負貴。戰過薄深。臣之如斯。不知所措。伏惟陛下。徳洽仁厚。邦舊命新。維城之遇千年。終譽之儀一會。今臣蒲柳向衰。桑楡方晏。病亦稍篤。垂盡无期。伏願。辭官俊乂。賜老丘園。止足以送餘年。返初而待終日。則上有成物之主。下無尸祿之臣矣。矜老存疾有國嘉猷。天鑒曲垂。暫慰朽邁。不任前路之至促謹詣朝堂。奉表陳乞以聞。詔報。省所上表。感念兼懷。宜隨力所堪。如常仕奉。是日。饗五位已上及渤海蕃客於朝堂。賜三種之樂。萬福等入欲就座言上曰。所上表文縁乖常例。返却表函并信物訖。而聖朝厚恩垂矜。萬福等預於客例。加賜爵祿。不勝慶躍。謹奉拜闕庭。」授大使壹萬福從三位。副使正四位下。大判官正五位上。少判官正五位下。録事并譯語並從五位下。着緑品官已下各有差。賜國王美濃絁卅疋。絹卅疋。絲二百絇。調綿三百屯。大使壹萬福已下亦各有差。戊辰。幸右大臣第。授正二位。其室正五位下多治比眞人古奈祢正五位上。癸酉。先是從五位上掃守王男小月王賜姓勝間田。流信濃國。至是復属籍。乙亥。奉黒毛馬於丹生川上神。旱也。丁夘。罷内豎省及外衛府。其舍人者分配近衛。中衛。左右兵衛。以從五位上菅生王爲中務大輔。少納言信濃守如故。左中弁從四位下大伴宿祢家持爲兼式部員外大輔。從三位藤原朝臣繼繩爲大藏卿。己夘。賜渤海王書云。天皇敬問高麗國王。朕繼體承基臨馭區宇。思覃徳澤。寧濟蒼生。然則率土之濱。化有輯於同軌。普天之下。恩無隔於殊隣。昔高麗全盛時。其王高武。祖宗奕世。介居瀛表。親如兄弟。義若君臣。帆海梯山。朝貢相續。逮乎季歳。高氏淪亡。自尓以來。音問寂絶。爰洎神龜四年。王之先考左金吾衛大將軍渤海郡王遣使來朝。始修職貢。先朝嘉其丹款。寵待優隆。王襲遺風。纂修前業。獻誠述職。不墜家聲。今省來書。頓改父道。日下不注官品姓名。書尾虚陳天孫僣号。遠度王意豈有是乎。近慮事勢疑似錯誤。故仰有司。停其賓禮。但使人萬福等。深悔前咎。代王申謝。朕矜遠來。聽其悛改。王悉此意。永念良圖。又高氏之世。兵乱無休。爲假朝威。彼稱兄弟。方今大氏曾無事。故妄稱舅甥。於禮失矣。後歳之使。不可更然。若能改往自新。寔乃繼好無窮耳。春景漸和。想王佳也。今因廻使。指此示懷。并贈物如別。庚辰。渤海蕃客歸郷。 

二月二日に大納言の文室眞人大市が上表文を奉って辞職を願い出、以下のように申し上げている・・・臣大市が申し上げます。臣は愚かな性質でありながら、幸いにも聖朝に生を受けることができた。紫色の組紐をつけた金印を帯びて弾正尹に任じられ、忝くも「喉舌」(大納言)の官を勤めている。栄華顕貴の地位を貪ることについては、戦き恐れて薄氷を履み深淵に臨む思いである。臣はこのような処遇にこのまま安住することはできない。---≪続≫---

伏して考えると、陛下におかれては、その德は普く行き渡り思いやりの心は厚く、國は古く、天命は新たなものがある。國を守る巡りあわせは永遠であるが、誉れを永く維持するのは、ただ一度の機会しかない。今、臣は虚弱で、衰弱に向かい、死期は確実に迫っている。病状も次第に篤く、残された時間は全くなさそうである。伏してお願い申し上げるが、俊英な者に官を譲り、この老躯に質素な隠居の地を賜り、分に安んじて余生を送り、初めに返って最後の日を待とうと思う。---≪続≫---

そうすれば上に万物を完成させる主君がおられ、下に無駄な禄を食む臣下はいないであろう。老人を憐れみ病者を永らえさせることは、國を支配する者の嘉いはかりごとである。天皇の御判断をつぶさに加えて頂き、暫く衰え朽ちようとする身をお慰め下さい。前途が促迫して来たのに堪えず、謹んで朝堂に詣で、上表文を奉って事情を陳べ辞職を請う次第である。どうかお聞き入れ下さい・・・。

次のように詔されている・・・奉る所の上表文をみて、行き届いた懐いに感じ入った。能力の堪える程度に応じ、通常通りに仕えるようにせよ・・・。この日、五位以上者と渤海の蕃客を朝堂で饗応し、三種の楽で歓待している。

壹萬福等は座に就こうとする時に以下のように申し上げている・・・先に奉呈した上表文が常例に背いていたため、上表文と函、贈物は返却されてしまった。ところが、聖朝は恵み厚く憐れみをたれ、萬福等を外国使節の扱いとし、位階と俸禄を加え賜った。慶びに雀躍を抑えることができない。謹んで朝廷を拝礼する・・・。

大使の壹萬福に従三位、副使に正四位下、大判官に正五位上、少判官に正五位下、録事と譯語にそれぞれ従五位下を授けている。それ以外の緑色の衣を着る有位者以下には、それぞれ地位に応じて官位を授けている。更に渤海國王に美濃の絁三十疋、絹三十疋、糸二百絇、調の綿三百屯を、壹萬福以下にもそれぞれ物を賜っている。

十七日に右大臣(大中臣朝臣清麻呂)の邸宅に行幸されて正二位を、その正室である多治比眞人古奈祢(古奈弥。小耳に併記)に正五位上を授けている。二十三日、これより以前掃守王の子、「小月王」に「勝間田」の姓を賜って信濃國に配流した。ここに至ってその罪を赦し、諸王の籍に復している。二十四日に黒毛の馬を丹生川上神(芳野水分峰神)に奉納している。日照りのためである。

二十六日(丁丑の誤り?)に内竪省と外衛府を廃した。それらに仕えていた舎人は近衛・中衛・左右衛府に転属している。菅生王を少納言と信濃守はそのままとして中務大輔、右中弁の大伴宿祢家持を兼式部員外大輔、藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)を大藏卿に任じている。

二十八日に渤海王に書状を与えて、次のように述べている・・・天皇は敬んで高麗國王に尋ねる。朕は統治の基本を継承して天下に支配者として臨み、徳化の恵みを深くしようと思い、人民の救済と安寧を期している。それ故に、領土の隅々まで政治は同じ文物制度のもとに統一されているし、全世界に亘って、恵みが隣國と異なることはない。昔、高麗が全盛を誇った時、その王の高武は始祖より歴代、大海の彼方に居りながら、親交は兄弟のようであり、節義は君臣のようであった。海を渡り山に梯を架けて朝貢することが続いていたが、末年に及んで高氏が滅亡し、それ以来音信は絶えてしまった。神龜四(727)年に至って、王(文王)の亡父の左金吾衛大将軍・渤海郡王(武王)が使者を遣わして来朝し、初めて朝貢物を献じた。

先朝(聖武天皇)はその真心をよしとして厚遇歓待した。王(大欽茂)は先王の遺風を踏襲し前代の事業を継承して、誠をもって仕え朝貢し、王家の評判と堕とさなかった。ところが今、もたらされた信書をみると、突然、父王の方針を改め、日付の下に官品・姓名が記されたおらず、信書の末尾にはそらぞらしく天孫というような僭越な称号を列ねてある。はるかに王の意を忖度すると、このような無礼なことがなされる筈がない。また手近なところで事情を考えても、恐らく何らかの錯誤であろう。そこで官司に命じて、使節に対する賓客としての待遇は停止した。

ただし、使者の壹萬福等は深く先の過誤を悔い、王に代わって謝罪しているので、朕は遠来の使節ということを憐れみ、悔い改めているを聴き入れよう。王は、この意図をよく理解し、永くよい図をたてるように。また、高氏の時代には、兵乱が止まることなく、我が朝廷の威光をかるために、貴國では両國の関係を兄弟と称していた。ところが今、大氏の世になって全く安泰であるため、妄りに舅甥と称している。これは礼節を失したものである。今後の使節においては、二度とこのようなことをしないようにせよ。もし、確かに過去を改めて自ら革新するならば、隣交の好を永久に継続したいと思う。春の気配はようやく和やかになって来た。想うに、王も佳しかろう。今、帰還する使に託してこの思いを述べ、併せて別に物を贈る・・・。二十九日に渤海の蕃客が帰っている。

<小月王・勝間田>
● 小月王

珍しく父親が掃守王と記載され、出自場所探索の範囲がぐっと狭まって来るのだが、そもそも父親の系譜は伝わってはいない。その場所は難波宮跡の東側に並んだ山稜の一端と推定した。

その近辺に小月=山稜の端が三角に尖っているところの地形が存在するのか、あれば彼等親子の出自場所の確度が増すものと期待される。

結果、期待以上に明瞭な三角の地形を、図に示した場所に見出せる。父親の東側に当たる場所、現地名は行橋市大谷である。

「小月王」の罪状は語られることはないのだが、配流先で勝間田姓を名乗らせたと述べている。勿論、これは配流先の地形を表しているものと思われる。と言うことで、勝間=盛り上げられた地が門のように並んでいる谷間に山稜の端が延びているところと解釈される。「間」=「門+月」と分解した。すると図に示した信濃國伊那郡にその地を確認することができる。

現在、長野県伊那郡高遠町勝間という地名があり、一説に「小月王」の配流先だと言われているそうである。”国譲り”は、真に精緻である。”小月”も”勝間”も二度と續紀に登場することはなく、これ以上の詮索は難しいようである。

三月癸未。皇后井上内親王坐巫蠱廢。詔曰。天皇御命〈良麻止〉宣御命〈乎〉百官人等天下百姓衆聞食〈倍止〉宣。今裳咋足嶋謀反事自首〈之〉申〈世利〉。勘問〈尓〉申事〈波〉度年經月〈尓計利〉。法勘〈流尓〉足嶋〈毛〉罪在〈倍之〉。然度年經月〈弖毛〉臣〈奈何良〉自首〈之〉申〈良久乎〉勸賜〈比〉冠位上賜〈比〉治賜〈波久止。〉宣天皇御命〈乎〉衆聞食〈倍止〉宣。辭別宣〈久〉謀反事〈尓〉預〈弖〉隱而申〈佐奴〉奴等粟田廣上安都堅石女〈波〉隨法斬〈乃〉罪〈尓〉行賜〈倍之〉。然思〈保須〉大御心坐〈尓〉依而免賜〈比〉奈太毎賜〈比弖〉遠流罪〈尓〉治賜〈波久止〉宣天皇御命〈乎〉衆聞食〈倍止〉宣。」授從七位上裳咋臣足嶋外從五位下。甲申。置酒靭負御井。賜陪從五位已上。及文士賦曲水者祿有差。丁亥。禪師秀南。廣達。延秀。延惠。首勇。清淨。法義。尊敬。永興。光信。或持戒足稱。或看病著聲。詔充供養。並終其身。當時稱爲十禪師。其後有闕。擇清行者補之。丙申。始免出羽國司戸徭。

三月二日に皇后の井上内親王巫蠱(呪いで人を殺す)罪に連座して廃され、次のように詔されている(以下宣命体)・・・天皇の御言葉であると仰せられる御言葉を、百官達、天下の人民達、皆承れと申し渡す。今、「裳咋足嶋」が謀反の事を自首してきた。尋問すると、それに対して白状したところは、既に年月が経過しているが、法に照らせば「足嶋」にも罪があると思われる。しかし年月が経過しているとはいえ、臣下としての道から自首してきたのを奨励する意味で、「足嶋」の官位を上げ優遇すると仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す。---≪続≫---

また別に仰せられるには、謀反の事に関与しながら、秘して自首しなかったものども、「粟田廣上・安都堅石女」は法に従って断罪に処すべきである。しかし思うところがあるので赦し和らげて、遠流の罪に処すると仰せになる天皇の御言葉を、皆承れと申し渡す・・・。「裳咋臣足嶋」に外従五位下を授けている。

三日に靫負の御井で酒宴を開き、随行した五位以上の者と、曲水の宴で詩歌を詠んだ文人に、それぞれ物を賜っている。六日、禅師の秀甫・廣達・延秀・延惠・首勇・清淨・法義・尊敬・永興・光信は、戒律を持することで称賛に値したり、看病僧として著名であったりする。詔されて、飲食・衣服などの物を施し、みなその終身までを保証した。当時は十禅師と言われ、その後、欠員が生ずれば行いの清らかな者を選んでこれを補っている。十五日に初めて出羽國國司の戸の雑徭を免除している。

<裳咋臣足嶋-船主-得麻呂>
● 裳咋臣足嶋

「裳咋臣」は記紀・續紀を通じて初見の氏姓であろう。續紀中を調べると、天応元(781)年五月記に「丁亥。尾張國中嶋郡人外正八位上裳咋臣船主言。己等与伊賀國敢朝臣同祖也。是以曾祖宇奈已上。皆爲敢臣。而祖父得麻呂。庚午年籍。謬從母姓。爲裳咋臣。伏望。欲蒙改正。於是。船主等八人賜姓敢臣」と記載されていることが分かった。

これに従うと「足嶋」も尾張國中嶋郡の人であったと推測される。隣接の「海部郡・葉栗郡」と共に水害が発生したと記載されていた。現地名では北九州市小倉南区田原と推定した。

氏名の裳咋の「裳」=「向+八+衣」と分解される。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の陵墓が造られた惠賀之裳伏岡で用いられた文字である。地形象形表記としては「裳」=「山稜の端が北に向かって広がり延びている様」と解釈される。裳咋=山稜の端が北に向かって広がり延びている地がギサギサとしているところと読み解ける。「中嶋郡」の地形の別表記とも言えるであろう。

足嶋=足ような山稜が島になっているところと解釈すると、図に示した場所を表していることが解る。「中嶋」の由来とした場所、そのものであろう。後の記述となるが、そこに登場する裳咋臣船主=船のような形をした山稜が真っ直ぐに延びているところ、及び得麻呂得=彳+貝+寸=手のように延びた山稜に四角く窪んだ地があるところと解釈すると、「足嶋」の東~南側にその地形を見出せる。

どうやら彼等は移住して来た一族のようである。この地は、海水面の後退が進んで初めて人が住まうことができるようになった場所である。自然による地形変化と符合した記述ではなかろうか。実に興味深いものなのだが、詳細は後日としよう。

● 粟田廣上・安都堅石女 それぞれ姓が省略されていて、前者は「粟田朝臣」、後者は「安都宿祢」の一族であろう。「粟田朝臣」の直近の登場者は鷹守・鷹主(兄弟かも)であった。連綿と続いてはいるが、高位に就く者は少なくなっているようである。

<粟田廣上・安都堅石女>

系譜不詳の粟田廣上については、名前が示す地形から出自の場所を求めてみよう。廣上=盛り上がった地が広がっているところと読むと、図に示した「人上」の東側の高台辺りが出自かと思われる。何らかの関係があったようにも思われるが伝わっていない。

「安都宿祢」は、安斗連・阿刀宿祢と変遷を経た後に賜った氏姓である。物部派生一族として多くの人物が登場していた。安都堅石女堅石=谷間に手のような山稜が延びた麓で小高く区切られているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。

「廣上」と同じように系譜が知られている系統の近隣ではあるが、確たる記録がないのであろう。共に罪を減じられて遠流となっているが、この後續紀に登場されることはなく、消息不明のようである。













2023年12月18日月曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(6) 〔657〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(6)


寶龜二(西暦771年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

十一月癸未朔。遣使造入唐使舶四艘於安藝國。癸巳。陸奧國桃生郡人外從七位下牡鹿連猪手賜姓道嶋宿祢。庚子。遣鍛冶正從五位下氣太王造齋宮於伊勢國。辛丑。以從五位下紀朝臣古佐美爲式部少輔。從五位下多治比眞人豊濱爲治部少輔。主殿頭從五位下美和眞人土生爲兼丹波員外介。從五位下多朝臣犬養爲但馬員外介。從五位下紀朝臣大純爲備前介。從五位下大伴宿祢村上爲肥後介。從五位上安倍朝臣御縣爲豊前守。癸夘。御太政官院。行大甞之事。參河國爲由機。因幡國爲須岐。參議從三位式部卿石上朝臣宅嗣。丹波守正五位上石上朝臣息嗣。勅旨少輔從五位上兼春宮員外亮石上朝臣家成。散位從七位上榎井朝臣種人立神楯桙。大和守從四位上大伴宿祢古慈斐。左大弁從四位上兼播磨守佐伯宿祢今毛人開門。内藏頭從四位下阿倍朝臣息道。助從五位下阿倍朝臣草麻呂奏諸司宿侍名簿。右大臣大中臣朝臣清麻呂奏神壽詞。弁官史奏兩國獻物。賜右大臣絁六十疋。賜五位已上衾各一領。乙巳。以從三位石上朝臣宅嗣爲中納言。正四位下藤原朝臣百川。從四位上阿倍朝臣毛人爲參議。是日。宴五位已上於閣門前幄。賜五位已上及内外命婦祿。各有差。丙午。賜親王已下五位已上絲。各有差。其明經。文章。音博士。明法。算術。醫術。陰陽。天文。暦術。貨殖。恪勤。工巧。武士。惣五十五人賜絲人十絇。」授從五位上紀朝臣廣庭正五位下。復无位大伴宿祢田麻呂本位從五位下。丁未。授從五位下壹志濃王從四位下。正五位下奈癸王正五位上。從五位下當麻王從五位上。從四位上大伴宿祢古慈斐。藤原朝臣楓麻呂並正四位下。從四位下藤原朝臣濱足。大伴宿祢伯麻呂並從四位上。正五位上大伴宿祢駿河麻呂。正五位下大伴宿祢家持。正五位上石上朝臣息嗣並從四位下。從五位上多治比眞人長野。李忌寸元環並正五位下。從五位下阿倍朝臣意宇麻呂。石川朝臣眞守。當麻眞人徳足。紀朝臣船守並從五位上。外從五位下内藏忌寸若人。外正五位下葛井連根主。正六位上大中臣朝臣宿奈麻呂。紀朝臣諸繼。平群朝臣臣足。藤原朝臣宅美並從五位下。正六位上阿刀宿祢眞足。内藏忌寸全成並外從五位下。是日。宴於五位已上。其内外文武官主典已上於朝堂。賜五位已上綿各有差。賜神祇官及主典已上。至國郡司役夫物各有差。戊申。授國司從五位上船井王正五位下。正四位下藤原朝臣田麻呂正四位上。從五位下大伴宿祢潔足。粟田朝臣鷹守並從五位上。正六位上賀茂朝臣人麻呂。安倍朝臣謂奈麻呂。笠朝臣名末呂並從五位下。正六位上日下部直安提麻呂外從五位下。賜郡司爵人一級。己酉。御由機厨。授正四位上藤原朝臣田麻呂。藤原朝臣繼繩從三位。從四位上佐伯宿祢今毛人正四位下。庚戌。御須岐厨。叙正三位文室眞人大市從二位。正五位下船井王正五位上。從五位上大伴宿祢潔足正五位下。」无位粟田朝臣人成本位從五位下。」正五位下藤原朝臣蔭正五位上。從五位下藤原朝臣人數。藤原朝臣諸姉。因幡國造淨成女從五位上。辛亥。有星隕西南。其聲如雷。壬子。散位從四位下下毛野朝臣稻麻呂卒。

十一月一日に使を遣わして安藝國に遣唐使の船四艘を造らせている。十一日に「陸奥國桃生郡」の人である「牡鹿連猪手」に道嶋宿祢の氏姓を与えている。十八日に鍛治正の氣太王(氣多王)を遣わして、「齋宮」を伊勢國に造らせている。

十九日に紀朝臣古佐美を式部少輔、多治比眞人豊濱(乙安に併記)を治部少輔、主殿頭の美和眞人土生(壬生王)を兼務で丹波員外介、多朝臣犬養を但馬員外介、紀朝臣大純を備前介、大伴宿祢村上(形見に併記)を肥後介、安倍朝臣御縣を豊前守に任じている。

二十一日に太政官院に出御されて、大嘗祭の事を行われている。參河國を由機とし因幡國を須機としている。参議・式部卿の石上朝臣宅嗣、丹波守の石上朝臣息嗣(奥繼。宅嗣に併記)、勅旨少輔で春宮員外亮を兼ねる石上朝臣家成(宅嗣に併記)、散位の「榎井朝臣種人」が神の楯桙を立て、大和守の大伴宿祢古慈斐(祜信備)と左大弁で播磨守を兼ねる佐伯宿祢今毛人が門を開いている。内藏頭の阿倍朝臣息道、助の阿倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)が諸司の宿直者の名簿を奏上し、右大臣の大中臣朝臣清麻呂(東人に併記)が神寿詞を奏上し、弁官の史が由機・須機両國の献上物を奏上している。天皇は右大臣に絁六十疋を、五位以上の者には夜具をそれぞれ一領与えている。

二十三日に石上朝臣宅嗣を中納言、藤原朝臣百川(雄田麻呂)と阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を参議に任じている。この日、五位以上の者を閤門(大極殿の門)の前の幄舎に呼んで宴会し、五位以上の者及び内命婦・外命婦に身分に応じて禄を与えている。

二十四日に親王以下、五位以上の者に絹糸をそれぞれ与えている。また明経博士・文章博士・音博士、律令に詳しい者、算術・医術・陰陽・天文・暦術に通じている者、財産を増やすことに努めた者、勤勉な者、工芸技術に優れた者、武術に優れた者、全て五十五人に絹糸をそれぞれ十絇与えている。また、紀朝臣廣庭(宇美に併記)に正五位下を授け、大伴宿祢田麻呂(諸刀自に併記)を本位の従五位下に復している。

二十五日、壹志濃王()に從四位下、奈癸王(奈貴王。石津王に併記)に正五位上、當麻王()に從五位上、大伴宿祢古慈斐藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)に正四位下、藤原朝臣濱足大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に從四位上、大伴宿祢駿河麻呂(三中に併記)大伴宿祢家持石上朝臣息嗣に從四位下、多治比眞人長野李忌寸元環に正五位下、阿倍朝臣意宇麻呂(綱麻呂に併記)石川朝臣眞守當麻眞人徳足(得足)・紀朝臣船守に從五位上、内藏忌寸若人(黒人に併記)葛井連根主(惠文に併記)大中臣朝臣宿奈麻呂(子老に併記)紀朝臣諸繼(橡姫に併記)・平群朝臣臣足(眞繼に併記)・藤原朝臣宅美(良継の長男。乙刀自に併記)に從五位下、阿刀宿祢眞足(阿刀造子老に併記)・内藏忌寸全成(黒人に併記)に外從五位下を授けている。

この日、五位以上の者を呼んで宴会している。内外の文武官の主典以上の者は朝堂で行っている。五位以上の者には真綿を、神祇官及び主典以上から國司・郡司に至るまで、それぞれ物を与えている。

二十六日に因幡國國司の船井王に正五位下、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)に正四位上、大伴宿祢潔足(池主に併記)粟田朝臣鷹守に從五位上、「賀茂朝臣人麻呂」・安倍朝臣謂奈麻呂(船守の子。詳細はこちら参照)・笠朝臣名末呂(賀古に併記)に從五位下、日下部直安提麻呂(伊豆直乎美奈に併記)に外從五位下を授けている。因幡・參河國の郡司に位階一級を与えている。

二十七日に由機院の厨に出御されて、藤原朝臣田麻呂藤原朝臣繼繩(繩麻呂に併記)に従三位、佐伯宿祢今毛人に正四位下を授けている。二十八日に須機院の厨に出御されて、文室眞人大市に從二位、船井王に正五位上、大伴宿祢潔足に正五位下を授けている。また、粟田朝臣人成(馬養に併記)に本位の從五位下に復させている。また、藤原朝臣蔭(影)に正五位上、藤原朝臣人數藤原朝臣諸姉(乙刀自に併記)因幡國造淨成女に從五位上を授けている。

二十九日に流星があり西南に落ち、その音は雷のようであった。三十日に散位の下毛野朝臣稻麻呂(信に併記)が亡くなっている。

<陸奥國桃生(郡)>
陸奥國桃生郡

「陸奥國桃生郡」の初見の記述であろう。桃生(左図に再掲)の名称は、孝謙天皇紀に出羽國小(雄)勝と共に辺境の地に造られた城柵であり、その後に浮浪人などを移住させたと記載されていた。

対蝦夷の最前線基地であり、それ故に何度も登場している場所である。おそらく、移住者が増えたことから郡建てを行ったのであろう。

図に示した通り、この地は聖武天皇紀に登場した遠田君(公)一族が支配していた、帰順した蝦夷等の近隣の地と推測される。

類似の例としては、新田柵があった地を新田郡として郡建てされている。城柵を造って、その周辺の地に人々を住まわせたのである。辺境の開拓手法を述べていると思われる。上図に示した小捄・金夜の領域は「遠田郡」に属していたと思われる。

<牡鹿連猪手[道嶋宿祢]>
<道嶋大楯-御楯>
● 牡鹿連猪手

上記の「桃生郡」に住まっていた人物なのだが、名前は「牡鹿郡」を出自であることを示していると思われる。「道嶋宿祢」は、陸奥國大國造に任じられた道嶋宿祢嶋足(牡鹿連嶋足)が賜った氏姓であり、「嶋足」の命を受けて「桃生郡」に移住していたのではなかろうか。

それは兎も角として、猪手=平らな山稜が手が交差するように延びているところと読み解くと、図に示した場所を表していると思われる。

残念ながら、現在の地形図では全く確認することが叶わず、国土地理院航空写真1974~9年を参照して求めた結果である。どうやら「道嶋宿祢」一族としては、この人物が最後であり、陸奥國を代表する立場から次第に退いていったようである。

と、思われたのだが、後の『寶龜の乱』で陸奥國牡鹿郡大領であった道嶋大楯が殺害されてしまったと記載されている。大楯=平らな頂の山稜が谷間を塞ぐように延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。やはり道嶋宿祢一族が衰退した切っ掛けとなったのではなかろうか。

更に後(桓武天皇紀)に蝦夷討伐の別将であった道嶋御楯が登場する。敗残兵を率いて多賀城(柵)に帰還したと記載されている。御楯=谷間を塞ぐように延びる山稜を束ねているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

<齋宮於伊勢國(伊勢齋宮)>
齋宮於伊勢國

上記本文では「齋宮於伊勢國」と記載されている。書紀の天武天皇紀に大來皇女が初代の齋王として入った泊瀬齋宮なのか?…どうやら別の場所に造られたようである。

あらためて齋宮が表す地形を述べると、「齋」=「齊+示」と分解される。更に「齊」=「同じような物が等しく揃っている様」を表す文字である。地形象形表記としては、齋=齊+示=高台に同じような地形が等しく揃っている様と解釈される。

この表記で求めた「泊瀬齋宮」の場所の地形に酷似する場所が、図に示したように伊勢國多氣郡に見出せる。文武天皇紀に登場した多氣大神宮の南側に当たる。齋王は年に三度のみ伊勢太神宮に赴き神事に奉仕し、普段は齋宮で遥拝する習わしだったとのことである。

少々距離が長くなったが、「泊瀬齋宮」と同じように谷間の出口にある天照大御神を望拝できる場所に造営されたのであろう。多氣大神宮は、既に度會郡に遷宮済みであり、その時に齋宮の場所として定められていたのかもしれない。現在の国史跡斎宮跡(三重県多気郡明和町斎宮)の”本貫”の地である。

<榎井朝臣種人>
● 榎井朝臣種人

『壬申の乱』で多大な功績を上げた「物部朴井連」一族が「榎井朝臣」の氏姓を賜り、連綿と人材が登用されて来ている。直近では称徳天皇紀に祖足が従五位下を叙爵されていた。

残念ながら、この一族の系譜は伝わっていなようであるが、狭い谷間に蔓延った一族故に系譜など不用の状況だったように思われる。古事記も含めて史書における邇藝速日命系列の扱いは、最少限度である。忖度なのかもしれない。

ともあれ、種人=稲穂のような山稜が谷間を突き通しているところと読み解くと、図に示した場所が、この人物の出自と推定される。折角のご登場なのであるが、この後續紀に記載されることはないようである。

<賀茂朝臣人麻呂-比良麻呂>
● 賀茂朝臣人麻呂

初見で従五位下を叙位されているのだから、列記とした「賀茂朝臣」一族に属する人物でろあろう。珍しく系譜の情報があり、一説では高賀茂朝臣諸雄、あるいは角足の子と言われているようである。

いずれにせよ吉備麻呂系列の後裔らしい様子であり、その地域を探索することにする。鴨(賀茂)の高台の西側の領域である。

人麻呂の人=[人]の形に岐れた山稜が揃って並んでいる様を表すと解釈した。その地形を図に示した場所、「根足」の隣の地に見出すことができる。

「高賀茂朝臣」の氏姓は田守が以下のように言上していた・・・昔、大泊瀬天皇(雄略)が葛城山で狩りをされた。その時に老夫がいて毎度天皇と競争して獲物の取り合いをした。そこで天皇はこれを怒り、その老人を土左國に流した。これは我等の先祖が祭祀を掌っていた神が化身し老夫と成ったもので、この時大和國から土左國へ追放された<分注。以前の記録を調べたが、この事件は見当たらない>・・・。これにより土左國から高鴨神を本来の場所に迎え入れ、更に彼等一族に「高賀茂朝臣」の氏姓を賜った、と記載されていた。

續紀中、この後も「高賀茂朝臣」と「賀茂朝臣」とはきちんと書き分けられていて、「諸雄」の子孫とするのは不都合な様子である。また、配置的にも「清濱」辺りが限界のように思われる。「角足」は「吉備麻呂」の孫、「治田」の子であり、聖武天皇紀に外従五位下に叙位され、順調に昇進して内位の正五位上にまで達するが、『橘奈良麻呂の乱』に連座して処刑されている。父親とするには些か時代が異なっているように思われる。

ところで、処刑される前に「乃呂志角足」と改名させられていた。少し先で乃呂志比良麻呂なる人物が許されて「賀茂朝臣」の氏姓に復すると記載されている。この人物こそ「角足」の子孫であったと推測される。比良=なだらかに延びる山稜が並んでいるところと解釈され、図に示した場所に、その地形を見出せる。

「根足」の登場は、些か曲折を経た記述の中であり、孝謙天皇紀に官奴から解放されて賀茂朝臣に復帰したような内容であった。出自場所の位置関係からすると、父親は「根足」だったのかもしれない。系譜も含めた人物の出自を求めるには、なかなかに骨の折れる作業を伴うことを思い知らされたようである。

十二月癸丑朔。日有蝕之。戊午。以大納言從二位文室眞人大市爲兼治部卿。從五位下紀朝臣諸繼爲安藝介。己未。罷筑前國官員。隸大宰府。丙寅。從五位上因幡國造淨成女爲因幡國國造。丁夘。勅。先妣紀氏未追尊號。自今以後。宜奉稱皇太后。御墓者稱山陵。其忌日者亦入國忌例。設齋如式。甲戌。大宰府言。日向。大隅。薩摩及壹伎。多褹等博士醫師。一任之後。終身不替。所以後生之學。業術不進。乞同朝法。八年遷替。以示干祿。永勸後學。許之。癸酉。渤海使壹萬福等入京。

十二月一日に日蝕が起こっている。六日に大納言の文室眞人大市に治部卿を兼任させ、紀朝臣諸繼(橡姫に併記)を安藝介に任じている。七日に筑前國の定員を廃して大宰府につけている。十四日に因幡國造淨成女を因幡國國造に任じている。

十五日に次のように勅されている・・・さきに逝去した母親の紀氏(紀朝臣橡姫)には、まだ尊号を贈っていない。今後は皇太后と称して奉ることとする。その墓は山稜と称し、その命日もまた國忌の例に入れ、法会を行なって食事の用意をすることは規則の通りとせよ・・・。

二十二日に大宰府が以下のように言上している・・・日向・大隅・薩摩及び壹伎多褹などの博士・医師は、一度任命すれば、その後は死ぬまで交替することがない。そのため後輩は職を得るあてがなく学問や技術が進歩しない。朝廷の法と同じく八年で交替し、それによって任官できることを示し、後進の学ぶ者を励ますようにしたいと思う・・・。これを許可している。二十一日に渤海使の壹萬福等が入京している<日付?>。

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續日本紀卷第卅一尾














 

2023年12月9日土曜日

天宗高紹天皇:光仁天皇(5) 〔656〕

天宗高紹天皇:光仁天皇(5)


寶龜二(西暦771年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

秋七月乙未。故從四位上守部王之男笠王。何鹿王。爲奈王。正三位三原王之男山口王。長津王。船王之男葦田王及孫他田王。津守王。豊浦王。宮子王去天平寳字八年賜姓三長眞人。配丹後國。從四位下三嶋王之女河邊王。葛王配伊豆國。至是皆復属籍。丁未。以正五位下高賀茂朝臣諸雄爲員外少納言。從五位下依智王爲右大舍人頭。從五位下石城王爲縫殿頭。從四位上大津連大浦爲陰陽頭。從五位下藤原朝臣是人爲大學助。從五位下長谷眞人於保爲散位頭。從五位下甲賀王爲諸陵頭。外從五位下土師宿祢和麻呂爲助。正五位上石川朝臣名足爲民部大輔。從五位下佐伯宿祢久良麻呂爲少輔。從五位下百濟王武鏡爲主計頭。正四位下藤原朝臣田麻呂爲兵部卿。參河守如故。正五位下豊野眞人奄智爲大輔。從五位上大原眞人今城爲少輔。正五位上淡海眞人三船爲刑部大輔。從五位下吉備朝臣眞事爲大藏少輔。從五位下紀朝臣犬養爲宮内少輔。大納言正三位文室眞人大市爲兼彈正尹。從五位下石川朝臣諸足爲鑄錢次官。從五位下參河王爲和泉守。從四位下百濟王理伯爲伊勢守。從五位下安倍朝臣淨目爲遠江介。從五位下多治比眞人乙兄爲武藏員外介。從五位下笠朝臣道引爲陸奥介。外從五位下六人部連廣道爲越後介。左少弁從五位下美和眞人土生爲兼但馬員外介。從五位上船井王爲因幡員外介。從五位下大伴宿祢不破麻呂爲美作介。從五位下百濟王利善爲讃岐員外介。從五位下文室眞人忍坂麻呂爲伊豫守。從五位下石川朝臣眞永爲大宰少貳。外從五位下土師宿祢位爲肥前守。從五位上紀朝臣鯖麻呂爲豊後守。

七月十一日に既に死没している守部王の男子である笠王・「何鹿王・爲奈王」、三原王(御原王)の男子である「山口王・長津王」、船王の男子である「葦田王」及び孫の「他田王」・津守王・「豊浦王・宮子王」は、去る天平寶字八(764)年に「三長眞人」の氏姓を賜い、丹後國に配流された。また三嶋王の女子である河邊女王(川邊)・葛女王(加豆良)は伊豆國に配流された。ここに至って、皆元の所属していた皇族の籍に戻している。

二十三日に高賀茂朝臣諸雄(田守に併記)を員外少納言、依智王()を右大舍人頭、石城王()を縫殿頭、大津連大浦を陰陽頭、藤原朝臣是人を大學助、長谷眞人於保を散位頭、甲賀王()を諸陵頭、土師宿祢和麻呂(祖麻呂に併記)を助、石川朝臣名足を民部大輔、佐伯宿祢久良麻呂(伊多治に併記)を少輔、百濟王武鏡(①-)を主計頭、參河守のままで藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)を兵部卿、豊野眞人奄智(奄智王)を大輔、大原眞人今城(今木)を少輔、淡海眞人三船を刑部大輔、吉備朝臣眞事を大藏少輔、紀朝臣犬養(馬主に併記)を宮内少輔、大納言の文室眞人大市を兼務で彈正尹、石川朝臣諸足を鑄錢次官、參河王(三川王・三河王)を和泉守、百濟王理伯(①-)を伊勢守、安倍朝臣淨目(小路に併記)を遠江介、多治比眞人乙兄(乙安)を武藏員外介、笠朝臣道引(三助に併記)を陸奥介、六人部連廣道(鯖麻呂に併記)を越後介、左少弁の美和眞人土生(壬生王)を兼務で但馬員外介、船井王を因幡員外介、大伴宿祢不破麻呂を美作介、百濟王利善(①-)を讃岐員外介、文室眞人忍坂麻呂(文屋眞人。水通に併記)を伊豫守、石川朝臣眞永を大宰少貳、土師宿祢位を肥前守、紀朝臣鯖麻呂を豊後守に任じている。

● 山口王・長津王・葦田王・他田王・豊浦王・宮子王・大伴王・長岡王・采女王
 
<山口王・長津王・蓑田王・他田王・豊浦王・宮子王>
<大伴王・長岡王・采女王・小倉王・石浦王>


淳仁天皇(舎人親王の子、大炊王)の廃帝に連座して配流された王・女王達の復権が記載されている。この直後にも和氣王関連の記述が載せられていて、それも併せて図に纏めた。それにしても復権が初見である王等の多いことに驚かされる。作図の都合上、順不同となっている。

1.船王系列では、葦田王蓑田=山稜に取り囲まれた麓に広がる平らに区分けされたところ、その子等の他田王他田=くねって曲がる谷間の傍らにある平らに区分けされたところ豊浦王豐浦=段々になった高台の麓の水辺で平らに広がっているところ宮子王宮子=奥まで積み重なって広がった谷間から山稜が生え出ているところと解釈すると、各々の出自場所を図に示したように求めることができる。

葦田王の後裔達が草壁皇子の南側の谷間に蔓延った様子が伺える。即ち、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が坐した長谷朝倉宮の南側であり、勿論、記紀・續紀を通じて空白の地域であった。豊浦王の場所は、現在バイパス道路が通じて些か曖昧になってように思われる。

2.御(三)原王系列では、和氣王・細川王・弓削女王が登場していたが、今回山口王山口=山の形に延びた山稜が谷間の口にあるところ長津王長津=水辺で筆のような山稜が長く延びているところがいたと記載している。各々の名前が表す地形を求めると、とは言え、山稜の端でかなり高低差が少ないのだが、何とかそれらしき場所を見出せる。

また、ずっと後の延暦三[784]年正月になって小倉王石浦王が従五位下を叙爵されて登場する。「御原王」の子と知られており、併せて図に記載した。小倉王小倉=谷間の囲われた地が三角形になっているところ石浦王:石浦=山麓の小高い地の先が水辺で平らに広がっているところと解釈する。

各々の出自場所は図に示したように推定される。「小倉王」には別名として、雄倉王があったと知られているが、「御原王」の高台を雄=厷+隹=羽を広げた鳥のような様と見做した名称であろう。

「和氣王」の後裔達が登場している。大伴王大伴=平らな頂の山稜を谷間が二つに分けているところ長岡王長岡=[岡]の形の山稜が長く延びているところ采女王采女=谷間が割れ目のようになっているところと解釈される。それぞれの出自の場所を図に示しように求めることができる。草壁皇子の子、輕皇子(後の文武天皇)の周辺を、すっかり覆い尽くしたようである。

尚、賜った三長眞人三長=三段になって長く延びている様と解釈すると、舎人親王の子孫が蔓延った山稜を表しているようである。後に許されて皇籍に戻るのであるが、もっと適切な別名を賜って臣籍降下したと伝えている。

● 何鹿王・爲奈王・三直王・庸取王・三宅王・畝火女王・石部女王

<何鹿王・爲奈王>
<三直王・庸取王・三宅王・畝火女王・石部女王
3.守部王系列では、既に笠王が登場していたが、弟等の何鹿王及び爲奈王の二名が記載されている。

「何鹿(イカルガ)」と訓するようであるが、さて、どんな地形を表しているのであろうか?・・・。

「笠王」の近辺で探索すると、”笠”の柄の傍らの谷間を「何」の文字形で表現したのではなかろうか。何鹿=[何]の形の谷間が麓にあるところと解釈される。

「爲」=「爪+象」と分解される。佐爲王に用いられた文字であり、「象のように大きな山稜の傍に手のような山稜がある様」と解釈した。すると爲奈=平たくなだらかで象のように大きな高台の傍らに手のように延びている山稜があるところと読み解ける。

「笠王」もそうであったが、”舎人”の地形を見事に捉えた表記であることが解る。「守部王」あるいは彼等兄弟の名付け親は、かなりの”漢字通”だったのかもしれない。

4.三使王系列では、既出の人物は存在せず、全て初見である。三直王三直=三段になった山稜が真っ直ぐに延びているところ庸取王庸取=[耳]の形をした山稜の先が真っ直ぐに突き通すように延びているところ三宅王三宅=三段になった山稜が長く広がって延びているところ畝火女王畝火=[炎]のように延びる山稜が畝のようになっているところ石部女王石部=山麓で小高くなった地の傍らのところと解釈される。各々の出自は図に示した場所と推定される。

下記の九月の記事で三嶋王の男子である林王及び上記山邊眞人を賜り、臣籍降下させたと記載されている。彼等の居処に基づく名称として、何ら差支えのないものであろう。

八月丙辰。以從五位下多治比眞人乙兄爲遠江介。從五位下安倍朝臣淨目爲武藏員外介。丁巳。設高野天皇忌齋於西大寺。辛酉。毀外從五位下丹比宿祢乙女位記。初乙女誣告忍坂女王。縣犬養姉女等厭魅乘輿。至是姉女罪雪。故毀乙女位記。癸酉。授正六位上足羽臣眞橋從五位下。正六位上高田公刀自女外從五位下。己夘。初令所司鑄僧綱及大安。藥師。東大。興福。新藥師。元興。法隆。弘福。四天王。崇福。法華。西隆等寺印。各頒本寺。

八月三日に多治比眞人乙兄(乙安)を遠江介、安倍朝臣淨目(小路に併記)を武藏員外介に任じている<交替、理由?>。四日に高野天皇の一周忌の齋会を西大寺で催している。八日に丹比宿祢乙女の位記(叙位の辞令)を破毀している。初め「乙女」は、忍坂女王縣犬養姉女(八重に併記)等が天皇をまじないで呪い殺そうとしたと詐りの告訴をした。ところがここに至って、「姉女」の罪が晴れたことによる。

二十日に「足羽臣眞橋」に従五位下、高田公刀自女(三嶋部百足に併記)に外従五位下を授けている。二十六日に初めて関係の役所に命じて、僧綱及び大安藥師東大興福新藥師元興法隆弘福四天王崇福法華(隅院近隣)西隆などの寺々の印を鋳造させて、各々の寺に頒布している。

<足羽臣眞橋-黒葛>
● 足羽臣眞橋

「足羽臣」は初見であろう。「足羽」の文字列は、越前國足羽郡に用いられていた。多分、その地を居処とする一族を表していると思われる。現地名の北九州市門司区伊川・柄杓田の端境と推定した。

この地には、益田連繩手の居処でもあったようで、この人物の初見は孝謙天皇紀だが、称徳天皇紀に内位の従五位下の叙位及び連姓を賜ったと記載されていた。

足羽郡は、当時としてはかなり広範囲な領域を占めていて、他にも文武天皇紀に赤烏を献上した宍人臣國持が「繩手」の東側を出自としていたと推定した。古事記が記す”高志前”であり、古から開かれた地であることに違いなかろう。

名前の既出の文字列である眞橋=小高く曲がっている山稜の端が寄せ集められたような窪んだところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。標高差が十分にあり、久々にすっきりとした場所の確定ができたように思われる。

後に女孺の足羽臣黒葛が、委細は不明ながら本位の外従五位上に復されている。外位であることから「眞橋」とは系列が異なっていると思われるが、黒葛=閉じ込められたような地の谷間に[炎]の形の山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

九月甲申朔。授從五位下笠朝臣道引從五位上。丙申。和氣王男女大伴王。長岡王。名草王。山階王。采女王並復属籍。從四位下三嶋王之男林王。從四位下三使王之男女三直王。庸取王。三宅王。畝火女王。石部女王。從四位上守部王之男笠王。何鹿王。猪名王。賜姓山邊眞人。己亥。以從五位下當麻眞人永繼爲右少弁。土左守如故。從五位下石川朝臣望足爲大監物。從四位下安倍朝臣息道爲内藏頭。外從五位下賀祢公小津麻呂爲大學員外助。外從五位下林宿祢雜物爲主計助。外從五位下日置造道形爲主税助。從五位下相摸宿祢伊波爲鼓吹正。從五位下賀茂朝臣大川爲木工助。從五位下田部宿祢男足爲典藥員外助。外從五位下村國連子老爲園池正。正五位下小野朝臣小贄爲攝津大夫。從五位上榎井朝臣子祖爲造宮大輔。正五位下息長丹生眞人大國爲少輔。近衛少將從五位下藤原朝臣種繼爲兼山背守。從四位下桑原王爲上総守。從五位下巨勢朝臣馬主爲介。從五位下石川朝臣豊人爲下総介。從五位下少雀部朝臣道奧爲若狹守。從五位下和氣宿祢清麻呂爲播磨員外介。從五位下息長眞人道足爲長門守。從五位下伊刀王爲紀伊守。圖書助從五位下健部朝臣人上爲兼伊豫介。正五位上大伴宿祢益立爲大宰少貳。從五位上佐伯宿祢助爲肥後守。辛丑。復犬部内麻呂姉女等本姓縣犬養宿祢。乙巳。罷左右平準署。

九月一日に笠朝臣道引(三助に併記)に従五位上を授けている。十三日に和氣王の男子・女子である大伴王・長岡王・名草王・山階王・采女王を元の皇族の籍に復し、三嶋王の男子である林王三使王の男子・女子である三直王・庸取王・三宅王・畝火女王・石部女王守部王の男子である笠王何鹿王・猪名王(爲奈王)に「山邊眞人」の氏姓を賜っている。

十六日に土左守のままで當麻眞人永繼(永嗣。得足に併記)を右少弁、石川朝臣望足を大監物、安倍朝臣息道を内藏頭、賀祢公小津麻呂(雄津麻呂)を大學員外助、林宿祢雜物を主計助、日置造道形(通形)を主税助、相摸宿祢伊波を鼓吹正、賀茂朝臣大川を木工助、田部宿祢男足を典藥員外助、村國連子老(子虫に併記)を園池正、小野朝臣小贄を攝津大夫、榎井朝臣子祖(小祖父)を造宮大輔、息長丹生眞人大國(國嶋に併記)を少輔、近衛少將の藤原朝臣種繼(藥子に併記)を兼務で山背守、桑原王を上総守、巨勢朝臣馬主を介、石川朝臣豊人を下総介、雀部朝臣道奧(陸奥)を若狹守、和氣宿祢清麻呂を播磨員外介、息長眞人道足(廣庭に併記)を長門守、伊刀王(道守王に併記)を紀伊守、圖書助の健部朝臣人上(建部公人上)を兼務で伊豫介、大伴宿祢益立を大宰少貳、佐伯宿祢助を肥後守に任じている。

十八日に犬部内麻呂・姉女等を本姓の縣犬養宿祢に復している。二十二日に左右の平準署を廃止している。

冬十月丁巳。授正六位上藤原朝臣仲男麻呂從五位下。丙寅。徴渤海國使青綬大夫壹萬福已下卌人。令會賀正。戊辰。詔充越前國從四位下勳六等劍神食封廿戸。田二町。己巳。復无位紀朝臣伊保本位正五位下。紀朝臣牛養本位從五位下。己夘。太政官奏。武藏國雖属山道。兼承海道。公使繁多。祗供難堪。其東山驛路。從上野國新田驛。達下野國足利驛。此便道也。而枉從上野國邑樂郡。經五ケ驛。到武藏國。事畢去日。又取同道。向下野國。今東海道者。從相模國夷參驛。達下総國。其間四驛。往還便近。而去此就彼損害極多。臣等商量。改東山道。属東海道。公私得所。人馬有息。奏可。」授正六位上英保首代作外從五位下。以搆西大寺兜率天堂也。

十月五日に「藤原朝臣仲男麻呂」に従五位下を授けている。十四日に渤海使の使節・青綬大夫の壹萬福以下四十人を召して。賀正の儀に出席させることにしている。十六日に次のように詔されている・・・越前國の勲六等の「劍神」に食封二十戸と田二町を与える・・・。十七日に紀朝臣伊保を本位の正五位下、紀朝臣牛養を本位の従五位下に復している。

二十七日に太政官が以下のように奏上している・・・武藏國は東山道に属しているが、兼ねて東海道にも通じている。そのため公使の往来が繁多であって、それを丁重に世話する労にとても堪えることができない。その東山道の驛路は、「上野國新田驛」より「下野國足利驛」に達しているが、これは便利な道である。しかし現在、道を枉げて上野國邑樂郡より五つ驛を経て武藏國に至り、用事が終わって退去する日には、また同じ道を取って下野國へ向かっている。---≪続≫---

今の東海道は、「相摸國夷參驛」より下総國に通じているが、間に四驛があり、往来するのに便利で近い。しかし、この道を止めて、あの道を取るとすると、損害が多くなる。考えるに武藏國を東山道を改めて東海道に属させるならば、公私共に都合が良くなり、人も馬も休息ができるであろう・・・。この奏上は許可されている。

この日、「英保首代作」に外従五位下を授けている。西大寺の兜率天堂(弥勒金堂)を建てたことによる。

<藤原朝臣仲男麻呂-友子>
● 藤原朝臣仲男麻呂

列記とした「藤原朝臣」一族なのであろうが、續紀中では後に「中男麻呂」の名称で登場されるが、関連する情報は欠落している状況のようである。多分、藤原四家には属さない系統の出自と思われる。

「不比等」の後裔であって、”非四家”の人物としては、吉日・殿刀自が思い起こされる。彼女等の出自場所を眺めると、図に示した近隣にそれらしきところが見出せる。

仲男麻呂仲男=谷間を突き通す[男]のようなところと読むと、「殿刀自」の西側に当たる場所となる。「藤原朝臣」一族としての広がりの西端となろう。いや、それを示すためにご登場されたのかもしれない。中男麻呂とすれば、”谷間”が省略された名称となろう。

後に藤原朝臣友子が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同じく系譜不詳であり、名前が示す地形から出自の場所を求めることになるが、「藤原朝臣」と名付けられる場所には違いない。友子=山稜が二つ揃って並んでいる地から生え出たところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。この後に「友子」に関する記載は見られないようである。

<越前國劍神>
越前國

些か広大な越前國で探索することになるが、せめて郡名を・・・と嘆いても致し方なく、「劍」の地形を求めることにする。

名称に「劍」を用いた例は極めて限られていて、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の墓所である劒池之中岡上に含まれている。但し、「剣」は新字体、「劍」は旧字体、「劔」は異体字、「劒」はその略体とのことである。

要するに「劔」の形をした”池”、ここでは”山稜”を表していると思われる。それを図に示した場所に見出すことができる。多くの山稜が延びている地域ではあるが、極めて特徴的な地形として判別できる。少し前に登場した敦賀直嶋麻呂の居処の東側の山稜の端に鎮座していた神と推測される。

検索すると越前二の宮(一の宮は氣比神宮)の劔神社のサイトに飛び、「現在所蔵する国宝の梵鐘は、第四十九代光仁天皇の御奉納といわれています」と記載されている。”食封二十戸・田二町”と共に施入されたのかもしれない。續紀に記載されているとの文言は見当たらないようである。

<武藏國:改東山道属東海道>
武藏國:改東山道属東海道

「東山道」に属する「武藏國」は、「東海道」にも含まれていて、むしろ後者に属させた方が何かと便利のようだ、と奏上している。

あらためて両道の経路を眺めてみよう。「東山道」は「甲斐國」を抜けて、上野國邑樂郡辺りを通って「下野國・武藏國」方面に向かうことになる。

右図に示した通り、「武藏國」は古事記の无邪志國が表すように、元来は曲がりくねる川が流れる谷間が主たる場所であった。續紀では橘樹郡・久良郡・入間郡と記載されている。「下野國」の西隣に並び、「東山道」の一員として扱われて来たのである。

ところが時を経て、書紀に記載された武藏國の名称が表す通り、徐々に下流域と発展し(高麗郡・秩父郡)、國の中心が南に移って行ったことが伺える。更に決定的なのが称徳天皇紀に「足立郡」の「丈部直不破麻呂」に「武藏宿祢」の賜姓及び「武藏國國造」を任じたことであろう(こちら参照)。

そんな背景から上記本文に記載された内容は、実に素直に理解できるものと思われる。「下野國」の西隣の谷間まで向かえばよかったのが、大きく南下す羽目になったのである。そして、来た道を戻って「下野國・上野國」へと通じることになる。

一方の「東海道」は、「相摸國」から「駿河國・上総國」を経て「下総國」に届く経路であり、その「駿河國」と「上総國」の間に「武藏國」を配置すれば、正に無駄のない行程となることが分かる。

上野國新田驛・下野國足利驛・相摸國夷參驛
 
<上野國新田驛-下野國足利驛-相摸國夷參驛>

登場した驛名からそれらの場所を求めた結果を上図に示した。「相摸國夷參驛」の「夷」=「大+弓」=「平らな頂の山稜が弓のように曲がって延びている様」と解釈した。夷參=弓のように曲がって延びている平らな頂の山稜が三つ寄り集まっているところと読み解ける。図に示した場所にあったのではなかろうか。

「下野國足利驛」の足利=切り分けられた山稜が足のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。古仁染思・虫名の居処の近隣と推定される。馴染みのある名称、”足利”の地形象形表記である。「下野國」に関連する貴重な記述であろう。

「上野國新田驛」の新田=山稜が切り分けられた麓にある平らに整えられたところと解釈される。図に示した場所、現在は高速道路となっているが、に驛が設けられていたと思われる。

<英保首代作>
● 英保首代作

「英保首」一族は、唐突の出現であり、この後に幾度か登場されるようなのだが、素性に関する情報は全く欠落している。致し方なく他を調べると、どうやら播磨國を出自としていたことが分かった。

例によって名称が示す地形を頼りに求めることになるが、果たして如何となるか?…含まれる文字列は極めて特徴的な地形を表していることが、せめても救いであろう。

「英」=「艸+央」と分解されるが、通常に用いられる意味とする解釈も結構難しい文字の一つである。既に備前國英多郡に用いられた文字であり、「英」=「花房」の形を象形しているとして解釈した。幾度か登場の「保」=「人+呆」=「谷間のある山稜の端が丸く小高くなっている様」と解釈した。

纏めると英保=花房のように延びている山稜の端に丸く小高い地があるところと読み解ける。その地形を播磨國賀茂郡の北側に見出せる。別名の郡建てがされていたようにも思われるが、定かではない。名前の代作=谷間にある杙のような山稜の傍らに谷間がギザギザとしているところと解釈される。出自の場所は図に示した辺りと推定される。「首」姓は、地形に基づくものであろう。