廢帝:淳仁天皇(9)
五年春正月丁亥朔。廢朝。以新宮未就也。戊子。帝臨軒。文武百官主典已上依儀陪位。」授從三位文室眞人淨三正三位。從五位下林王從五位上。无位高嶋王。布勢王。忍坂王並從五位下。從四位下阿倍朝臣嶋麻呂從四位上。正五位上藤原朝臣魚名從四位下。從五位下粟田朝臣人成。藤原朝臣繩麻呂並從五位上。正六位上藤原惠美朝臣辛加知。安曇宿祢石成。粟田朝臣足人。石川朝臣弟人。佐味朝臣伊与麻呂。阿倍朝臣廣人。當麻眞人高庭。淡海眞人御船。藤原朝臣田麻呂。藤原朝臣黒麻呂。石川朝臣名足並從五位下。正六位上坂上忌寸老人。村國連虫麻呂。山田連古麻呂並外從五位下。」正四位下小長谷女王正四位上。正五位上池上女王。无位置始女王。小葛女王並從四位下。无位川上女王從五位下。從五位上阿倍朝臣石井正五位下。无位藤原惠美朝臣東子從五位上。无位藤原惠美朝臣額。橘宿祢眞都我並從五位下。正六位上御間名人黒女。正七位下壬生直小家主女。從七位上稻蜂間連仲村女並外從五位下。癸巳。詔曰。依有大史局奏事。暫移而御小治田岡本宮。是以。大和國國司史生已上。恪勤供奉者。賜爵一階。郡司者賜物。百姓者免今年之調。授守從四位下藤原惠美朝臣眞光從四位上。介外從五位下山邊縣主男笠外從五位上。大掾正六位下布勢朝臣清道已下。史生已上。爵人一級。賜郡司軍毅絁綿各有差。乙未。令美濃。武藏二國少年。毎國廿人習新羅語。爲征新羅也。丁酉。車駕至自小治田宮。以武部曹司爲御在所。壬寅。以從五位下粟田朝臣足人爲齋宮長官。從五位下藤原朝臣濱足爲大判事。外從五位下茨田宿祢枚野爲鑄錢次官。從四位下藤原惠美朝臣久須麻呂爲大和守。從五位下淡海眞人御船爲參河守。外從五位下御杖連祖足爲相摸介。從五位上石上朝臣宅嗣爲上総守。外從五位下上毛野公牛養爲美濃介。從五位下紀朝臣僧麻呂爲信濃介。從五位上藤原朝臣宿奈麻呂爲上野守。從五位下石川朝臣名足爲下野守。從五位下高橋朝臣人足爲若狹守。外從五位下高丘連比枝麻呂爲越前介。從五位下阿倍朝臣廣人爲越中守。外從五位下高松連笠麻呂爲備後介。從五位下大伴宿祢益立爲陸奥鎭守副將軍鎭國驍騎將軍。從四位上藤原惠美朝臣眞光爲兼美濃。飛騨。信濃按察使。授刀督從四位上藤原朝臣御楯爲兼伊賀。近江。若狹按察使。癸夘。以從五位下參河王爲和泉守。從五位下賀茂朝臣塩管爲土左守。丁未。使司門衛督正五位上粟田朝臣奈勢麻呂。礼部少輔從五位下藤原朝臣田麻呂等。六位已下官七人於保良京。班給諸司史生已上宅地。
正月一日、朝賀を廃している。新宮(保良宮)がまだ出来ていないためである。二日に宮殿の端近くに出御されて、文武百官の主典以上は、作法に従って位階に応じて列席する位置のところに控えている。また、以下の叙位を行っている。
文室眞人淨三(智努王)に正三位、林王に從五位上、「高嶋王・布勢王」・忍坂王(臣籍降下:大原眞人赤麻呂。廣野王に併記)に從五位下、阿倍朝臣嶋麻呂に從四位上、藤原朝臣魚名(鳥養に併記)に從四位下、粟田朝臣人成(馬養に併記)・藤原朝臣繩麻呂に從五位上、藤原惠美朝臣辛加知(薩雄に併記)・安曇宿祢石成(刀に併記)・粟田朝臣足人(深見に併記)・「石川朝臣弟人・佐味朝臣伊与麻呂」・阿倍朝臣廣人・當麻眞人高庭(子老に併記)・淡海眞人御船(三船。御船王)・藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)・「藤原朝臣黒麻呂・石川朝臣名足」に從五位下、坂上忌寸老人(犬養に併記)・村國連虫麻呂(子虫に併記)・山田連古麻呂に外從五位下を授けている。また、小長谷女王に正四位上、池上女王・置始女王・小葛女王(加豆良女王)に從四位下、「川上女王」に從五位下、阿倍朝臣石井(豊繼に併記)に正五位下、「藤原惠美朝臣東子」に從五位上、「藤原惠美朝臣額」・橘宿祢眞都我(古那可智に併記)に從五位下、「御間名人黒女・壬生直小家主女・稻蜂間連仲村女」に外從五位下を授けている。
七日に次のように詔されている・・・大史局(陰陽寮)の奏上して来た事があるので、しばらくは小治田岡本宮に移ることとする。これによって、大和國の國司の史生以上で、熱心に勤め供奉する者に位一階を賜り、郡司には物を賜り、人民には今年の調を免除する。(古那可智に併記)
大和守の藤原恵美朝臣眞先(眞光)に従四位上、介の山邊縣主男笠に外従五位上を授けている。大掾の「布勢朝臣清道」以下、史生以上にはそれぞれ位階を一級ずつ与えている。郡司と軍毅には地位に応じて絁と真綿を与えている。
九日に美濃・武藏の二國の少年それぞれ二十人ずつに新羅語を習わせている。新羅を征討するためである。十一日に小治田宮から平城宮に戻られ、式部(兵部)省の庁舎を御在所とされている。
十一日に粟田朝臣足人(深見に併記)を齋宮長官、藤原朝臣濱足を大判事、茨田宿祢枚野を鋳銭次官、藤原惠美朝臣久須麻呂(眞從に併記)を大和守、淡海眞人御船(三船)を参河守、御杖連祖足を相摸介、石上朝臣宅嗣を上総守、上毛野公牛養(眞人に併記)を美濃介、紀朝臣僧麻呂(龍麻呂に併記)を信濃介、藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を上野守、石川朝臣名足を下野守、高橋朝臣人足(國足に併記)を若狭守、「高丘連比枝麻呂」を越前介、阿倍朝臣廣人を越中守、「高松連笠麻呂」を備後介、大伴宿祢益立を陸奥鎮守副将軍・鎮國衛驍騎将軍(中衛少将)、藤原惠美朝臣眞先(眞光。眞從に併記)を兼任で美濃・飛騨・信濃の按察使、授刀督の藤原朝臣御楯(千尋)を兼任で伊賀・近江・若狭の按察使に任じている。
十七日に参河王(三河王)を和泉守、賀茂朝臣塩管を土左守に任じている。二十一日に司門衛(衛門府)督の粟田朝臣奈勢麻呂、礼部(治部)少輔の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)と六位以下の官人七人等を保良京に派遣し、諸司の史生以上の宅地を分配して支給させている。
● 高嶋王 天平勝寶元(749)年四月に無位から従五位下に叙爵された同一名の王が登場していた。単なる重複記事かもしれないが、その後に登場されることもなく、別人が同一場所を居処としていたのではなかろうか。
「高嶋」については、後(光仁天皇紀)に「高嶋女王」が従五位下を叙爵されて登場する。文室眞人(大市王)系以外で「高嶋」が表す地形の場所が何処かに存在していたことを示している。詳細は省略するが、結果として現在の田川郡香春町の味見峠に向かう谷間にその地形を見出すことができた。高嶋王・高嶋女王共に近隣に住まったのであろう(こちら参照)。
● 布勢王
同じく初見で従五位下を叙爵されているが、全く系譜は不詳のようである。「布勢」の文字列は、頻出の布勢朝臣に含まれている。
古くは古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、大郎子(意富富杼王)が祖となった布勢君で用いられた名称である。
布勢=布を広げたような丸く盛り上がったところと解釈される。その「布勢君」に酷似する地形を図に示した場所に見出せる。しかしながら、王の出自場所を”布を広げたような頂き”に求めることはできず、その周辺とせざるを得ないように思われる。
ところが、この年の十月記に従五位下の布施王を内染正(染物を司る長官)に任じたと記載される。即ち、「布勢」の別名として「布施」があったことが分かる。既出の文字である施=㫃+也=旗がくねくねとたなびく様を表す文字と解釈した。
図に示した通り「勢」の西側の地形を「施」で表記したことが解る。これで布勢(施)王の出自場所を求めることが可能となった。即ち[勢]と[施]が交差する谷間と推定される。「施」の場所については、一時期採石場とされたようだが、1970年代以前の状態を確認することができる(こちら参照)。
別名によって、出自場所を一に特定させる手法を行っている。過去の多くの例は、同一地形の別表現であったが、真に興味深い記述であろう。実は、ずっと後に「布勢」内親王が登場するが、別名に「布施」があったことが知られていることから、「布勢王」も續紀中に別名があったことを見つけることができたわけである。
<佐味朝臣伊與麻呂> |
● 佐味朝臣伊与麻呂
「佐味朝臣」一族は、途切れることなく人材を輩出している。この時点では従四位下の虫麻呂が筆頭であろう。佐味=谷間で山稜が途切れた地の入口に左手のような山稜が延びているところを表す表記である。
極めて特徴的な地形であると共に、外部からの侵入もなく(余計な諍いもなく)、豊かな繁栄が継続し、子孫が育まれていたのであろう。
今回登場の人物名、伊与麻呂に、おそらく初見であろう「与(與)」の文字が含まれている。例を挙げるならば、魏志倭人伝に登場する壹與に用いられていた。與=両手を延ばして牙を咬み合わせるような様と解釈した。伊=人+尹=谷間で山稜が区切られている様であり、「両手」を表すと解釈すると、図に示した場所が見出せる。
● 藤原朝臣黒麻呂
調べると南家(武智麻呂)の乙麻呂の子と分かった。なかなかに有能だったらしく、最終從二位・右大臣(贈從一位)と伝えられている。
黑麻呂の黒=囗+※+灬(炎)=谷間に[炎]のように山稜が延び出ている様と解釈するが、国土地理院1845~50年を用いて、図に示した「乙麻呂」の西側の場所が出自と推定される。
この後暫くして是公に改称している。是公=[匙]のような山稜が延びている谷間で区切られたところと読み解けるが、やはり「黑」の表記は、山稜の端の分岐が不鮮明で少々無理があったのではなかろうか(こちらの地形図参照)。
● 藤原恵美朝臣東子・額 この二人は「仲麻呂」の娘と知られている。東子=谷間を突き通すような地から生え出たところ、額=山腹が額のように突き出た麓のところと解釈すると、図に示した前出の兄弟等の間がそれぞれの出自と思われる。それにしても「東子」は初見で従五位上とは、流石である。
「石川朝臣」からは、凄まじいばかりの人材登用である。弟人の系譜は不詳でああり、弟人=谷間がギザギザとしているところと読むと、これでは一に特定するのが難しいように思われる。
別名に乙人・己人があったと知られている。弟⇔乙の例は、幾つか見られたが、「己」の置換えは珍しい。これらの文字列からすると谷間が[乙/己]の形に曲がって延びていると読める。
要するに「弟」と「乙・己」の地形を満足する図に示した場所が、この人物の出自であることを告げていると思われる。同じ谷間の西側を乙麻呂の居処と推定したが、何らかの繋がりがあったのかもしれない。
一方石川朝臣名足は、年足の子と知られている。名足=山稜の端が足ような形になっているところと読める。図に示した場所、父親の、まさに近隣の場所が出自と推定される。最終従三位・中納言にまで出世されるが、やや癖のある性格だったようである(Wikipedia)。更に弟の石川朝臣永年が従五位下を叙爵されて登場する。永年=[年]が更に長く延びたところと解釈すると、図に示した兄の北側に接する場所を示していると思われる。
● 川上女王 系譜不詳の女王である。「川上」は、前記で川上忌寸宮主が登場していたが、その出自場所を天武天皇紀の齋宮於倉梯河上の記述から「倉梯河上」と推定した。即ち、この地には「齋宮」があったわけで、それを出自とする女王ではなかろうか。
● 御間名人黒女
勿論、初見の人物であろう。少々戸惑う名称であるが、「御間」は書紀の崇神天皇の名前である「御間城入彦」に含まれる文字列であることに気付かされる。
古事記では御眞木入日子印惠命であり、現在の田川郡香春町中津原の中津原小学校がある高台の場所を表す表記と解釈した。
御眞木=山稜を寄せ集めて束ねた窪んだところであり、御間城=整えられた台地が隙間を束ねているところとなる。どちらかと言えば後者の方が分り易い表現かもしれない。
さて、御間名人を如何に読む解くか?…御間は上記通りとして、御間名人=山稜の端にある(名)隙間(間)を谷間(人)が束ねている(御)ところと解釈される。図に示したように中津原小学校の高台との間の谷間を表していることが解る。黑女の「黒」は上記と同様に山稜の端が更に細かく岐れている様を捩った表記であろう。
續紀にこの後登場されることもなく、また他の情報も皆無の様子である。「所知初國之御眞木天皇」と記載された天皇の宮周辺の地にも、人々の生業があったことを告げているのである。「師木水垣宮」の比定地、ほぼ確信の域に達したようである。
● 壬生直小家主女
「壬生直」一族については、書紀の持統天皇紀に唐で捕虜になったが生き永らえて帰国した肥後國皮石郡の壬生諸石が初見であろう。
續紀における肥後國は、全く別の地になっており、國名が被る記述となっている。詳細を語ることなく再配置を行っている例であろう。
それは兎も角も、その後聖武天皇紀になって壬生直國依・壬生使主宇太麻呂が登場している。現在の平山観音院がある狭い谷間であって、改めて今回登場の人物の出自場所を求めてみよう。
小家主女の既出の文字列である小家主=真っ直ぐに延びる山稜(主)の三角形(小)の端が豚の口(家)のようになっているところと読み解ける。「國依」と「宇太麻呂」に挟まれた山稜の端辺りが出自と思われる。後に”外”が外れて従五位下・勲五等を授けられている。
後(称徳天皇紀)に壬生眞根麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「眞」は「直」の誤りではない。先ずは名前の頻出の根麻呂=根のように山稜が岐れているところと解釈され、図に示した場所が出自と推定される。「眞」=「窪んだ地に寄り集まっている様」であり、「根がびっしりと詰まっている様」を表している。
「姓」は、元を質せば地形象形表記であった。それを踏襲した名称なのである。上図に示した「宇太麻呂」は「使主」の姓と解釈されるが、それも地形象形表記を兼ねていることが解る。「壬生直」の一族は、昔ながらの風習を頑なに守っているのかもしれない。
● 稻蜂間連仲村女
「稻蜂間連」は、全くの初見であろう。調べると山背國相樂郡の地が出自と分った。更に一族の醜麻呂等も連姓を授かり、その後には宿祢姓を賜わり、正五位上に叙爵されている。
既出の文字である「稻」=「禾+爪+臼」=「三つの山稜が窪んだ地に延びている様」、「間=隙間」、として初見の「蜂」=「虫+夆」と分解する。「虫」=「細い山稜」として、「夆」=「出逢う様」と解釈する。「蜂」=「細かな山稜が出逢っている様」を表している。
纏めると稻蜂間=窪んだ地に延び出た三つの山稜の細かな端が出逢っている隙間のところと読み解ける。仲村女の仲村=手を開いた腕のような山稜(村)が谷間を突き通している(仲)ところと読むと、図に示したように山背國相樂郡に造られた恭仁宮の北側の谷間を表していることが解る。
少し後に登場する醜麻呂の醜=酉+鬼=酒樽のような山稜の傍らで丸く小高い地から足のような山稜が延びている様と解釈される。図に示した場所が出自と推定される。上記の「御間名人黒女」と同じく、故宮周辺を居処とする一族への叙位のようである。また「稻蜂間」の別名として「因幡・因八萬・因八麻」があったとも知られているが、支障のない地形象形表現であろう。
「布勢朝臣」一族が「阿倍朝臣」に改名されて、少々混乱気味になっていたが、漸く本来の名称で登場するようになった様子である。直近では女孺の小野が従五位下を叙位されていた。
今回登場の人物も「布勢朝臣」と名乗っていることから、出自場所を現在の戸ノ上山北麓、地名では北九州市門司区寺内辺りで求めることになる。
清道=水辺で四角く区切られた地が首の付け根のように窪んでいるところと解釈される。その地形を「廣道」の北側に見出すことできる。配置的には廣道の子のようにも思われるが、定かではない。
後(光仁天皇紀)に布勢朝臣清直が従五位下を叙爵されて登場する。清直=水辺で四角く区切られた地が長くなっているところと読むと、「清道」は正六位下が一階進級して正六位上になったと記載され、爵位も併せて同一人物の別名と思われる。
● 高丘連比枝麻呂
「高丘連」は、元明天皇紀に登場した播磨國大目の樂浪河内が聖武天皇紀に賜った氏姓と記載されていた。有能な人物だったらしく、その後幾度か登場し、最終正五位下・大学頭と伝えられている。
一族からの登用は、比枝麻呂が初見であり、調べると「河内」の一人息子だったとのことである。勿論、河内國古市郡を居処とした「河内」の近隣で出自を求めることになる。
既出の文字列である比枝=山稜が枝のように岐れて並んでいるところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。別名に比良麻呂・枚麻呂が知られているが、全く同様にその地形を表していることが解る。
父親に劣らず有能だったらしく、この時点では外従五位下であるが、最終従四位下まで昇進したとのことである。また、連姓から宿祢姓を賜っている。遠祖は秦王一族であり、百濟を経て日本に帰化した経緯が知られている。
● 高松連笠麻呂
「高松連」に関する情報は全く皆無のようで、「笠麻呂」と言う”倭風”の名前であり、既に外従五位下を叙爵されていることからも渡来系の後裔であったことが伺える。
出自場所を求めるには、手の施しようもない有様であるが、唯一の手掛かりである「笠麻呂」を、既出の人物から抽出することにした。勿論、笠朝臣麻呂は対象外である。
すると孝謙天皇紀に後部高笠麻呂が外従五位下を授けられて登場していた。高麗系の渡来人と推測される。高松連の「高」は「高麗」(高麗郡)、「皺が寄ったような山稜の麓」にも重ねられた表記であろう。
「松」は幾度か用いられているが、改めて「松」=「木+公」と分解される。「公」=「ハ+ム」=「谷間に小高い地がある様」と解釈する。纏めると松=山稜が[ハ]の形に岐れてできた谷間に小高い地があるところと読み解ける。図に示したように「笠麻呂」の背後の山稜の形を表現していることが解る。この後も幾度か登場され、地方官を務められたようである。
二月丙辰朔。勅。朕以餘閑歴覽前史。皆降親王之礼。並在三公之下。是以別預議政者。月料馬料。春秋季祿。夏冬衣服等。其一品二品准御史大夫。三品四品准中納言給之。」又勅。中納言。准格正四位上。此則職掌既重。季祿尚少。自今以後。宜改爲從三位官。其管左右京。並任一人長官者。名以爲尹。官位准正四位下官。戊午。越前國加賀郡少領道公勝石。出擧私稻六万束。以其違勅。沒利稻三万束。
二月一日に次のように勅されている・・・朕は政務の合間に前代の史書を通覧してみると、親王に対する礼は、みな三公の下に位置付けている。そこで議政官となっている親王については、月料・馬料・春秋の季禄、夏冬の衣服などは、一品・二品は御史大夫(大納言)に准じ、三品・四品は中納言に准じて支給せよ・・・。
また、次のように勅されている・・・中納言の相当位は、格によると正四位上である。これでは職掌が重いのに、季禄が少ない。今後は従三位相当の官に改めよ。左右京を管轄する為に、一人の長官を任命する場合は、職名を尹とし、官位は正四位下の官に准ぜよ・・・。
三日に「越前國加賀郡」の少領である「道公勝石」が、私稲六万束を出挙している。それは勅に違反するので、利稲三万束を没収している。
越前國加賀郡
「越前國加賀郡」は、記紀・續紀を通じて初見である。後に本邦随一の加賀百万石と言われた発祥の地名である。勿論、国譲り後の場所であり、”加賀”の由来も全く定かではない有様である。
決して越國が三つに分割されたわけではなく、都度に開拓された地…蝦夷からの奪取とも言える…が付加されたり、配置換えを行ったことが記載されている。國自体もさることながら、今までに登場した郡には、角鹿郡、羽咋郡・能登郡・鳳至郡・珠洲郡(能登國として分割)があり、後に足羽郡(現在の伊川・柄杓田の境)も登場する。
加賀を地形象形表記として読むと、「加賀」=「加+賀(加+貝)」の文字要素から文字列となる。「加」=「押し開く様」が二つも含まれている。即ち、加賀=二つの山稜で谷間が押し開かれているところと読み解ける。古事記が高志國と表記する地だったことが解る。
● 道公勝石 「道君」の「君」の使用を禁止された氏姓であり、既に道君首名、越道君伊羅都賣が登場している。勝石=盛り上げられた山麓の区切られたところと読める。些か地図上での確認が難しくなっているが、図に示した辺りが出自と思われる。
後(称徳天皇紀)に道公張弓が私財を献上して従五位下を叙爵されている。なかなかに豊かな土地だったようである。張弓=山稜の端が張り出て弓のような形をしているところと解釈すると、図に示した場所の地形を表していると思われる。
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「越前國加賀郡」については、天平寶字六(762)年十月に・・・冬十月丙午朔。正六位上伊吉連益麻呂等。至自渤海。其國使紫綬大夫行政堂左允開國男王新福已下廿三人相隨來朝。於越前國加賀郡安置供給。我大使從五位下高麗朝臣大山。去日船上臥病。到佐利翼津卒。・・・と記載されている。
渤海の使者等が上陸した後に散々な目に遭って出羽國で保護されたことから、その上陸地点は、古事記の出雲國と推定した(こちら参照)。續紀と雖もこれはあからさまに記述することはできず、蝦夷との境界の地と曖昧な表現に止めていた。
ここでもさり気なく「佐利翼津」と具体的な名称を述べる。故に出羽國の「避翼驛家」(本著では出羽國の内陸部にあったと推定、こちら参照)辺りなどと推測されているが、「翼」が重なることなどが根拠であろう。更に何故越前國加賀郡に安置したのか?…海上500kmを越える移動が必要である。
むしろ渤海に近いのは加賀郡であり、その地の何処かに求める説もある。しかしながら郡そのものが、この期に及んでの登場では、既に幾度も来朝する渤海使が接岸する津の場所などは憶測の域を脱せず、根拠は更に希薄であろう。
「佐利翼津」の佐利翼=谷間にある左手のような地が切り分けられて鳥の翼のように広がっているところと読み解ける。古事記の伊那佐之小濱(谷間に切り分けられた山稜が平らに広がり左手のようになった地で浜が三角になっているところ)と読み解いた。紛うことなく、別名表記であることが解る。出雲國の”国譲り”の主役である建御雷之男神が降臨した地、即ち淡海から上陸する地点だったわけである。
上陸地点から鹿喰峠に向かえば出羽國に通じ、淡島神社に向かって峠を越えれば越前國加賀郡に辿り着く。出羽國へは、まさに直入ルートであり、そのため前記で雄勝城及び多くの驛家を設置し、防衛体制を整えている(こちら参照)。迂回ルートである加賀郡へ安置したのは、そんな状況を配慮した結果なのであろう。また、後日に詳細に述べることにしよう。
尚、高麗朝臣大山は「背奈大山」、「巨萬朝臣大山」とも表記されている人物である。「背奈公行文」の子と知られている。
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