2022年11月9日水曜日

廢帝:淳仁天皇(8) 〔612〕

廢帝:淳仁天皇(8)


天平字四年(西暦760年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

秋七月戊子朔。日有蝕之。庚戌。大僧都良弁。少僧都慈訓。律師法進等奏曰。良弁等聞。法界混一。凡聖之差未著。斷證以降。行住之科始異。三賢十地。所以開化衆生。前佛後佛。由之勸勉三乘。良知。非酬勲庸。無用證眞之識。不差行住。詎勸流浪之徒。今者。像教將季。緇侶稍怠。若无褒貶。何顯善惡。望請。制四位十三階。以抜三學六宗。就其十三階中。三色師位并大法師位。准勅授位記式。自外之階。准奏授位記式。然則戒定惠行非獨昔時。經論律旨方盛當今。庶亦永息濫位之譏。以興敦善之隆。良弁等。學非渉獵。業惟淺近。輙以管見。略事採擇。叙位節目。具列別紙。」勅報曰。省來表知具示。勸誡緇徒。實應利益。分置四級。恐致勞煩。故其修行位。誦持位。唯用一色。不爲數名。若有誦經忘却。戒行過失者。待衆人知。然後改正。但師位等級。宜如奏状。」又勅曰。東大寺封五千戸者。平城宮御宇後太上天皇皇帝皇太后。以去天平勝寳二年二月廿三日。專自參向於東大寺。永用件封入寺家訖。而造寺了後。種種用事未宣分明。因茲。今追議定營造修理塔寺精舍分一千戸。供養三寳并常住僧分二千戸。官家修行諸佛事分二千戸。癸丑。設皇太后七七齋於東大寺并京師諸小寺。其天下諸國。毎國奉造阿弥陀淨土畫像。仍計國内見僧尼。寫稱讃淨土經。各於國分金光明寺礼拜供養。

七月一日に日蝕があったと記している。二十三日に大僧都の良弁、少僧都の慈訓、律師の法進(鑑真の弟子)等が以下のように奏上している・・・良弁等が聞くところによると、世界が混とんとしていた時代には、凡夫と聖者の差は顕れていなかったが、釈迦が悟りを得て以降、菩薩の修行にも十行・十住に至る区別が初めて生じて来た。このため三賢の段階にいる菩薩は、衆生をさとし導き、前仏(釈尊)と後仏(弥勒菩薩)は悟りのための三つの実践に努めることを勧めている。そこでよく知ることができるのであるが、勲労ある僧に酬いないならば、悟りを開いた善知識(名僧)を登用することができず、行・住の段階に応じて差を設けないならば、どうして修行のために流浪している僧等を励ますことができようか。---≪続≫---

現在は像法の世がまさに末法の世になろうとしている時であり、僧等はやや修行を怠るところがある。もし褒めたり咎めたりすることがないならば、どうして善悪の別を明らかにすることできようか。そこで僧位として四位十三階を制定して、戒・定・惠の三学を修め、六宗に優れた者を抜き出して、十三階に位置付けるようにしたいと思う。その中では、三種類の師位と大法師位とは勅授の位記式に準じ、そのほかの階は奏授の位記式に準じたいと思う。---≪続≫---

そうすれば、戒・定・惠の三学を学ぶ修行は単に昔のことではなくなり、経(釈迦の所説)・論(教義の解釈)・律(戒律)の本旨は、現在においても盛んとなるであろう。なおまた僧の位を濫発するというそしりを永く止めさせ、立派な善を一層隆盛にすることを願う。良弁等は、広く学問を行ってはおらず、修行も浅いものである。即ち狭い見識でおおよそこの案を採択した。僧に叙する位に関する要目は、別紙に列挙した・・・。

これに答えて、次のように勅されている・・・提出された上表文を見て、汝等の示した提案を詳しく知ることができた。僧侶を戒め勧めることは、まことに利益のあることである。しかしながら四級に分けると、おそらく煩雑になるであろう。そこで修行位と誦持位とは、ただ一種類として数階級とはしないようにせよ。それによってもし暗誦しているべき経を忘れ、戒を破る者がでれば、そのことが衆人に知られた時点で改正せよ。但し、師位の等級については、奏状の通りで良い・・・。

また、次のように勅されている・・・東大寺の封五千戸は、平城宮御宇後太上天皇(聖武)・皇帝(孝謙)・皇太后(光明)が、去る天平勝寶二(750)年二月二十三日に、自ら東大寺に出向いて、寺家に永久に施入したものである。ところが寺の造営が終了したあと、この封戸からの収入の種々の用途は、まだ明確に示されていなかった。そこで、今追加審議し、塔や寺や僧坊を営造修理するための分として一千戸、三宝や寺に常駐する僧に供養する分として二千戸、政府が種々の仏事を行うための分として二千戸、と定める・・・。

二十六日に光明皇太后の七々(四十九日)の齋会を東大寺と京内の諸々の小寺で行っている。天下の諸國に命じて國ごとに阿弥陀浄土の画像を造らせ、國内に現にいる僧尼の数を計算して『称讚浄土経』を写させ、それぞれ國分金光明寺において礼拝・供養させている。

八月甲子。勅曰。子以祖爲尊。祖以子亦貴。此則不易之彜式。聖主之善行也。其先朝太政大臣藤原朝臣者。非唯功高於天下。是復皇家之外戚。是以。先朝贈正一位太政大臣。斯實雖依我令。已極官位。而准周礼。猶有不足。竊思勳績蓋於宇宙。朝賞未允人望。宜依齊太公故事。追以近江國十二郡。封爲淡海公。餘官如故。繼室從一位縣狗養橘宿祢贈正一位。以爲大夫人。又得大師奏状稱。故臣父及叔者。並爲聖代之棟梁。共作明時之羽翼。位已窮高。官尚未足。伏願。廻臣所給太師之任。欲讓南北兩左大臣者。宜依所請。南卿贈太政大臣。北卿轉贈太政大臣。庶使酬庸之典垂跡於將來。事君之臣盡忠於後葉。普告遐邇。知朕意焉。」又勅。大隅。薩摩。壹岐。對馬。多褹等司。身居邊要。稍苦飢寒。擧乏官稻。曾不得利。欲運私物。路險難通。於理商量。良須矜愍。宜割大宰所管諸國地子各給。守一万束。掾七千五百束。目五千束。史生二千五百束。以資遠戍。稍慰羈情。」以從四位下阿倍朝臣嶋麻呂爲參議。辛未。轉播麻國糒一千斛。備前國五百斛。備中國五百斛。讃岐國一千斛。以貯小治田宮。乙亥。幸小治田宮。天下諸國當年調庸。便即收納。己夘。賜新京諸大小寺。及僧綱大尼。諸神主。百官主典已上新錢。各有差。癸未。施新京高年僧尼曜藏。延秀等卅四人絁綿。

八月七日に次のように勅されている・・・子孫は祖先によって尊ばれ、祖先は子孫によって貴くなるということは、変わることのない常の原則、聖人である君主の善行である。先朝の太政大臣の藤原朝臣不比等は、ただその功績が天下に高いだけでなく、皇室の外戚でもある。そこで先朝(元正朝)に正一位太政大臣を贈られた。これはまことに、我が国の令によって最高の官位を極めているのであるが、『周礼』によると、まだ不足していることがある。密かに思うに、彼の勲功は宇宙を覆う程であるのに、朝廷による賞賛は、まだ人々の望むところに達していない。そこで、斉の太公が営丘に封ぜられた故事にちなんで近江國の十二郡に封じて「淡海公」(古事記の近淡海國)とする。ほかの官はそのままとする。後妻で從一位の縣狗(犬)養橘宿祢(三千代)には、正一位を贈って大夫人とする。---≪続≫---

また、大師(恵美押勝)の奏状によると[今はなき自分の父(武智麻呂)と叔父(房前)は、あいならんで聖帝の御代の棟梁として、共によく治まった時代を補佐していた。位は既に高位を極めているが、官の方はなお足らない。そこで伏して願うには、私が給わっている大師の職を廻して、南北の両左大臣に譲りたいと思う]とある。この請願を認めることとする。南卿には太政大臣を贈り、北卿には転じて太政大臣を贈る。願うところは、功績に報いる基準としてこれを将来に示し、君主に仕える臣下の後々の代にも忠を尽くすようにさせることである。このことを広く遠近に告げて、朕の意のあるところをしらせるようにせよ・・・。

また次のように勅されている・・・大隅・薩摩・壹岐・對馬・多褹などの司は、その身は辺境の要地にあって、飢えと寒さに苦しんでいる。それを補うために出挙しようにも官稲が乏しく、全く利息を得られない。そこで私物を運ぼうとしても、路が険阻で通行には困難が多い。道理を量ってみるに、まことに哀れむべきである。そこで大宰府が管轄している諸國の地子(公田からの収穫)の一部を割いて、それぞれに支給するようにせよ。守に一万束、掾に七千五百束、目に五千束、史生に二千五百束とする。このようにして辺境を守る苦労を助け、故郷を離れ他郷にいる心を慰めたい・・・。この日、阿倍朝臣嶋麻呂を参議に任じている。

十四日に播磨國の糒一千石・備前國の同五百石・備中國の同五百石・讃岐國の同一千石を転送して、小治田宮に貯えさせている。十八日に「小治田宮」に行幸されている。天下の諸國の今年の調と庸を、そのままこの宮に収納させている。二十二日に「新京」(保良宮)の大小の寺院、僧綱や大尼、神主たち、百官の主典以上の官人に、その地位に応じて新銭を賜っている。二十六日に「新京」の高齢の僧尼、「曜藏・延秀」等三十四人に絁・真綿を施している。

<曜藏・延秀>
● 曜藏・延秀

高齢の僧尼の名前であろう。勿論、地形象形表記と思われる。僧尼については、多くは出自の地域が不明であるが、今回は保良宮の近隣として詳細を求めてみよう。

曜藏の「曜」は、多分名前に用いられたのは初見と思われる。「曜」=「日+羽+隹」からなる文字である。通常は「光り輝く天体」を意味し、それを七曜として一週間を表すとして、今日も用いられている文字である。

地形象形的には、三つの文字要素をそのまま地形に当て嵌めた表記と思われる。即ち「日」=「[炎]のような様」、「羽」=「鳥の羽のような様」、「隹」=「鳥のような様」となる。

訳せば、曜=鳥の羽が大きく高く広がって[炎]のようになっている様と解釈される。鳥の羽が大きく高く(一部は変形しているが)広がっている地形が特徴的である。頻出の藏=艸+戕+臣=長方形に取り囲まれた様と解釈した。曜藏の出自の場所は、これらの地形要素を満足する場所と推定される。

既出の文字列であり延秀=山稜が延びた先で[乃]の形になっているところと解釈される。延秀の出自場所は図に示した保良宮の東南の地と推定される。この地からの登場人物は希少であり、その地の地形を伺い知る上に置いて、実に貴重な記述と思われる。同一人物か否かは不明だが、後に一度登場されている。

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淳仁天皇は、すっかり保良宮がお気に召した様子で、淡海公の後ろ盾も重なってこの地を都とする気持ちに傾いていたのであろう。糒やその年の調・庸を”小治田宮”に収納させているのは、一体何を告げようとしているのであろうか?・・・。

間違いなく、宮の運営に関わる膨大な数の人々の賄いであり、それが急激に生じたわけだから、利便性に優れた糒を調達したと思われる。また、永住するとなれば調・庸を保管する広大な場所が必要となって来るのだが、保良宮の地での確保は未達だったと推測される。

いずれにしても保管場所として管理できる場所、可能な限り近隣であり、また既設の施設が活用できる場所として”小治田宮”が採用されたのではなかろうか。保良(大津)宮と小治田宮は、海路で繋げば数時間も要さない距離である。天皇の要求を満たす場所だったわけである。

通説の推定地は、小治田宮(奈良県明日香村の雷丘)と保良宮(滋賀県大津市国分)とされるが、それでは全く意味不明の記述となろう。木簡・土器・地名を拠り所とする推論では、續紀の記述を理解することは不可能である。

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九月癸夘。新羅國遣級飡金貞卷朝貢。使陸奥按察使從四位下藤原惠美朝臣朝獵等問其來朝之由。貞卷言曰。不脩職貢。久積年月。是以。本國王令齎御調貢進。又無知聖朝風俗言語者。仍進學語二人。問曰。凡是執玉帛行朝聘。本以副忠信通礼義也。新羅既無言信。又闕礼義。弃本行末。我國所賎。又王子泰廉入朝之日。申云。毎事遵古迹。將供奉。其後遣小野田守時。彼國闕礼。故田守不行使事而還歸。王子尚猶无信。况復輕使。豈足爲據。貞卷曰。田守來日。貞卷出爲外官。亦復賎人不知細旨。於是。告貞卷曰。使人輕微不足賓待。宜從此却迴。報汝本國。以専對之人。忠信之礼。仍舊之調。明驗之言。四者備具。乃宜來朝。

九月十六日に新羅國が金貞巻を派遣して朝貢して来ている。陸奥按察使の藤原恵美朝臣朝獵(薩雄に併記)等に来朝の理由を問わせている。「貞巻」は以下のように言った・・・朝貢をしないまま久しく年月が経った。このため本國の王が、御調をもたらして貢進させたのである。また、聖天子のおられる貴國の風俗・言語をわかる者がいないので、言葉を学ぶ者二人を遣わしている・・・。

これに対して「朝獵」等が以下のように質問している・・・およそ王や絹織物を持って天子に献上し謁見を請うことは、本来天子への忠義で誠実な心に叶い、礼に叶った正しい行いを通じる為である。ところが新羅は以前から言葉が信用できず、また礼儀を欠いている。根本の大事を捨てたままで末葉の小事を行う事は、我が國の賤しむところである。また、天平勝寶四年に王子の泰廉が入朝した時、[何事についても古来のやり方を守って、お仕え申したい]と述べている。ところがその後、小野田守を派遣した時は、かの國は礼を失した。そのため「田守」は使者の任務を果たさないまま帰國している。王子ですら信を守らないのに、まして身分の低い使では信を守る筈がない。どうして汝の言うことを頼りにできるであろうか・・・。

これに対して「貞巻」は以下のように答えている・・・「田守」が来た頃は、「貞巻」は都から出て地方官となっていた。また自分は身分が卑しいので細かい事情を知らない・・・。そこで「朝獵」等は「貞巻」に以下のように告げている・・・汝達使人は身分が軽微であるなら、賓客として接待することはできない。これから帰國して、汝の本國に事情を報告せよ。責任を持って対応のできる人、誠意があって偽りのない礼、旧来通りの調、明確な根拠のある言葉、この四者を備えて来朝して来るべきである・・・。

冬十月癸酉。陸奥柵戸百姓等言。遠離郷關。傍無親情。吉凶不相問。緩急不相救。伏乞。本居父母兄弟妻子。同貫柵戸。庶蒙安堵。許之。

十月十七日に陸奥の柵戸の人民が以下のように言上している・・・我々は遠く國元を離れており、傍らに親族がいない。このためお互いの吉凶の知らせもなく、危急の時助け合うこともできない。伏してお願い申し上げるが、郷里にいる父母・兄弟・妻子を、同じように柵戸として登録して、安堵させて頂きたく思う・・・。これを許可している。

十一月壬辰。勅。先歳逆徒。家挂羅網。今年巡察。人畏憲章。古人有言。盜窺財主有自來焉。撫躬自訟。責歸元首。靜言興念。憂心如灼。書不云乎。徳惟善政。政在養民。今陽氣初萌。日南既至。地惟育物。天道更生。思承地施仁。順天降惠。俾茲黔庶與時競新。其自天平寳字四年十一月六日昧爽已前天下罪無輕重。已發覺。未發覺。繋囚見徒。并逋租調官物未納已言上者悉赦除之。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。叛徒隱不首者。不在免限。前年已赦。今歳亦除。竊恐。人習寛容。終無懲改。冀令悉停前惡。皆從後善。其七道巡察使所勘出田者。宜仰所司隨地多少。量加全輸。正丁若有不足國者。以爲乘田。遂使貧家繼業。憂人息肩。普告遐邇。知朕意焉。丙申。遣授刀舍人春日部三關。中衛舍人土師宿祢關成等六人於大宰府。就大貳吉備朝臣眞備。令習諸葛亮八陳。孫子九地及結營向背。丁酉。送高南申使外從五位下陽侯史玲璆至自渤海。授從五位下。餘各有差。丙午。大臣已下參議已上。夏冬衣服。節級作差

十一月六日に次のように勅されている・・・先年は、反逆の徒のために家々が法の網にかかり、今年は、巡察使を派遣したために人々は法律を恐れ慎んでいる。古人は、盗人が財を狙うのは、主人が自ら招いたと言ってよく、人民が我が身かわいさに自ら訴訟を起こすのは、君主に責任がある、と言っている。静かに思いを致すと、憂いの心は身を灼くようである。『古文尚書』に、德は政治をよくし、政治とは民を養うことである、と言っているではないか。---≪続≫---

今日は冬至に当たり、今陽気が初めて兆し、太陽は最も南に来ている。地は物をはぐくみ、天の道が再び現れて来た。思うに、地と天の働きに従って、仁を施しまた恵み下し、この人民に時の巡りと共に新たな気持ちを持たせたい。天平字四年十一月六日の夜明け以前の、天下の罪は軽重を問わず、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、獄につながれ服役している者、及び逃れた租・調や官物の未納で申告済みのものは、全てその罪を許す。但し、八虐の犯罪を犯した者、故意の殺人、私鋳銭、反逆の徒で隠れて自首しなかった者は、免罪の範囲に入れない。---≪続≫---

前年に既に赦を行ったばかりであるのに、今年また実施すると、人々が寛容に慣れて、懲り改めることがなくなることを密かに恐れている。願わくば以前の悪をことごとくやめて、これからは善に従わせたい。七道の巡察使が摘発した隠し田は、管轄の官司に命じて、土地の多少を見計らって、租税を完納させよ。耕作すべき正丁の不足する國があれば、乗田とし、かくて貧家に耕作させて家業を続けさせ、憂えている人の負担を軽くさせたい。広く遠近に告げて、朕の心を知らせるように・・・。

十日に授刀舎人の「春日部三關」、中衛舎人の「土師宿祢關成」等六人を大宰府に派遣して、大弐の吉備朝臣眞備から諸葛亮の『八陳』・『孫子』の九地篇や、軍営の作り方を習わせている。十一日に高南申を送る使者の陽侯史玲璆が渤海から帰國している。その功によって従五位下を、他の使人もそれぞれ位階を授けている。二十日に大臣以下、参議以上に支給する夏冬の衣服は、段階を作って差を設けさせている。

<春日部三關>
● 春日部三關

「春日部」は、「春日の近隣」を表していることには違いないであろうが、その地を出自とする人物の登場は、極めて稀である。

古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、五十日帶日子王が祖となった春日部君の場所を示していると思われる。現地名は田川郡赤村内田の門前辺りである。

実に由緒ある地なのだが、登用された人材がなく、君(公)の姓も授けられていない有様だったのであろう。系譜を語って請願しなければ認知される筈もなく、今回の大宰府遠征による功があるか否かが大きく影響するようである。

名前の三關=三つの關(遮り止める)のように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。春日周辺の地も徐々に埋まって来たようである。

<土師宿禰關成-樽-冠>
● 土師宿祢關成

「土師宿祢」一族について直近では、「甥」の子等である「牛勝・弟勝」の兄弟が外従五位下を叙爵されて登場していた。幾つかの土師宿祢系列の一つとして知られている(こちら参照)。

今回登場の關成は、爵位の記述もなく、また系譜も全く知られていない様子である。その上に續紀で以後に登場されることもなく、極めて情報量の少ない人物であることが分かった。

關成の「關」は、上記と同様に關=山稜が遮り止めるように延びている様を表すとすると、谷間が狭まった地形を示し、図の場所が出自と推定される。成=丁+戊=平らに整えられた様であり、山稜の端の地形を示している。「甥」の後裔等の場所に近接するが、おそらく川の対岸が実際の出自場所だったのではなかろうか。

少し後に土師宿祢樽土師宿祢冠が外従五位下を叙爵されて登場する。共に上記と同様に系譜不詳であり、初見が最後の記載のようである。樽=木+尊=山稜が酒壺のようになっている様冠=冖+元+寸=覆い被さるように山稜が丸く取り囲んでいる様と解釈すると、それぞれの出自の場所を図に示したように推定される。

十二月戊辰。勅。准令給封戸事。女悉減半者。今尚侍尚藏。職掌既重。宜異諸人。量須全給。其位田資人。並亦如此。又勅。太皇太后宮。皇太后御墓者。自今以後。並稱山陵。其忌日者亦入國忌例。設齋如式。戊寅。藥師寺僧華達。俗名山村臣伎婆都。与同寺僧範曜。博戯爭道。遂殺範曜。還俗配陸奥國桃生柵戸。

十二月十二日に次のように勅されている・・・令の規定に拠ると、封戸を支給する場合、女はみな半分に減ずることになっている。しかし、尚侍(後宮の内侍司の長官)と尚藏(後宮の藏司の長官)は、ほかの人と異なって、その職掌が重い。これを考慮して封戸を全給するようにせよ。その位田・資人もそれそれ同じようにせよ。また、次のように勅されている・・・太皇太后(宮子)と皇太后(光明子)のお墓は、これからのち、共に山稜と称するようにせよ。その忌日は、國忌の例に入れ、式の通りに齋会を設けよ・・・。

二十二日に藥師寺の僧である「華達」は、俗名を「山村臣伎婆都」と言う。彼は同じ寺の僧範曜と博打を行って争いとなり、ついに範曜を殺した。そこで「華達」を還俗させて、陸奥國の桃生の柵戸に配属している。

<華達(山村臣伎婆都)・山村許智人足>
● 華達(山村臣伎婆都)

「山村臣」は、記紀・續紀を通じて初見である。上記のような事情からしても、この後に記載されることはないようである。類似の氏名を持つ人物としては、「山村許智人足」が登場する。

彼等の出自場所は大和國添上郡と知られている。現在の田川郡添田町にある英彦山へと向かう長い谷間の地と推定した(例えば、前記の添上郡佐保山参照)。

更に上流域へと遡ると、どうやらそれらしき場所に到達したようである。華達華=しなやかに曲がって延びた先が広がって小高くなっている様達=辶+大+羊=平らな頂の山稜が谷間に延びている様と解釈すると、図に示した地形を表していることが解る。

俗名の伎婆都=谷間が岐れた傍で山稜の端が寄り集まっているところと読み解ける。共に出自の場所を明瞭に示していると思われる。山村=[山]の形をした山稜が手を開いた腕のように延びているところと読めば、図に示した場所の地形を表していることが解る。

山村許智人足については、既出の文字列である許智=耕地が杵を突くように延びている傍らに[鏃]と[炎]の地形があるところと読み解ける。「華達」の南側の山稜端辺りを表している。名前の人足=山稜の端が人の足のようになっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。