2022年11月2日水曜日

廢帝:淳仁天皇(7) 〔611〕

廢帝:淳仁天皇(7)


天平字四年(西暦760年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二月壬寅。從五位下石川朝臣廣成賜姓高圓朝臣。辛亥。以從四位下笠王。爲左大舍人頭。從五位下豊野眞人尾張爲内藏頭。在唐大使正四位下藤原朝臣河清爲文部卿。從五位下高圓朝臣廣成爲少輔。從五位下石川朝臣人成爲仁部少輔。從五位下巨勢朝臣廣足爲節部少輔。從五位上當麻眞人廣名爲遠江員外介。從五位下藤原朝臣楓麻呂爲但馬介。是日。渤海使高南申等歸蕃。庚申。設仁王會於宮中及東大寺。

二月十一日に石川朝臣廣成に高圓朝臣の姓を賜っている。二十日に笠王(舎人親王の孫)を左大舎人頭、豊野眞人尾張(尾張王)を内藏頭、唐に留まっている遣唐大使の藤原朝臣河清(清河)を文部(式部)卿、高圓朝臣廣成を少輔、石川朝臣人成を仁部(民部)少輔、巨勢朝臣廣足(淨成に併記)を節部(大藏)少輔、當麻眞人廣名(東人に併記)を遠江員外介、藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を但馬介に任じている。この日、渤海使の高南申等が帰国している。二十九日に仁王会(仁王経の法会)を宮中と東大寺で行っている。

三月癸亥。散位從四位下多治比眞人家主卒。辛未。沒官奴二百卅三人。婢二百七十七人。配雄勝柵。並從良人。甲戌。詔曰。比來。皇太后御體不豫。宜祭天神地祇。諸祝部等各祷其社。欲令聖體安穩平復。是以。自太神宮祢宜内人物忌。至諸社祝部。賜爵一級。普告令知之。授外從五位上神主首名外正五位下。外正六位上神主枚人外從五位下。丁丑。勅。錢之爲用。行之已久。公私要便莫甚於斯。頃者。私鑄稍多。僞濫既半。頓將禁斷。恐有騷擾。宜造新樣與舊並行。庶使無損於民有益於國。其新錢文曰萬年通寳。以一當舊錢之十。銀錢文曰大平元寳。以一當新錢之十。金錢文曰開基勝寳。以一當銀錢之十。庚辰。以外從五位下漆部直伊波爲佐渡守。丁亥。上野國飢。賑給之。伊勢。近江。美濃。若狹。伯耆。石見。播磨。備中。備後。安藝。周防。紀伊。淡路。讃岐。伊豫等一十五國疫。賑給之。

三月二日に散位の多治比眞人家主が亡くなっている。十日に謀反等の罪で朝廷の賎民とされた二百三十三人の奴と、二百七十七人の婢を雄勝柵に移して、いずれも良民としている。

十三日に次のように詔されている・・・この頃、(光明)皇太后のお体は不調である。天の神と地の祇を祭り、諸社の祝部達はそれぞれの社で祈祷してお体が安穏に回復されるようにしたい。このため伊勢太神宮の禰宜・内人・物忌から諸社の祝部に至るまで、位を一級ずつ賜る。全国に告げて知らせるように・・・。神主首名(伊勢大神宮禰宜)に外正五位下、神主枚人(首名に併記)に外従五位下を授けている。

十六日に次のように勅されている・・・銭を流通・使用させて以来既に久しい。公私にわたって必要かつ便利なこと、これ以上のものはない。しかしながらこの頃偽造が多くなり、贋金が全体の半分にも及んでいる。急に禁断すれば混乱がおこる恐れがある。そこで新しい様式のものを造り、旧銭とともに流通させたい。民に損がなく、国に益があるようにと願っている。新銭の文字は「万年通寶」とし、一枚で旧銭(和同開珎)十枚に相当させる。また銀銭の文字は「太平元寶」とし、一枚で新銭の十枚に相当させる。金銭の文字は「開基勝寶」とし、一枚で銀銭の十枚に相当させる・・・。

十九日に漆部直伊波を佐渡守に任じている。二十六日に上野國が飢饉になったので、物を恵み与えている。また伊勢・近江・美濃・若狭・伯耆・石見・播磨・備中・備後・安藝・周防・紀伊・淡路・讃岐・伊豫の十五ヶ國に疫病が流行ったので、物を恵み与えている。

夏四月丁巳。志摩國疫。賑給之。戊午。置歸化新羅一百卅一人於武藏國。

四月二十七日に志摩國に疫病が流行ったので物を恵み与えている。二十八日に帰化した新羅人百三十一人を武藏國(新羅郡)に定住させている。

閏四月壬午。轉讀大般若經於宮中。丁亥。仁正皇大后遣使於五大寺。毎寺施雜藥二櫃。蜜缶一缶。以皇太后寢膳乖和也。

閏四月二十三日に『大般若経』を宮中で転読させている。二十八日に仁正皇太后(光明皇太后)は使を五大寺(東大寺興福寺・元興寺大安寺藥師寺)に遣わして、寺ごとに種々の薬を二櫃、蜂蜜を一缶を寄進している。皇太后の健康が不調のためである。

五月壬辰。授從三位河内王正三位。從五位下岡田王從五位上。從五位上氣太公十千代正五位上。從五位下石上朝臣國守從五位上。丙申。以從五位下巨勢朝臣廣足爲安房守。」大膳大夫從四位下御使王。命婦從四位下縣犬養宿祢八重並卒。戊戌。右大舍人大允正六位下大伴宿祢上足坐記災事十條傳行人間。左遷多褹嶋掾。告人上足弟矢代任但馬目。丁未。於京内六大寺誦經。戊申。勅。如聞。頃者。疾疫流行。黎元飢苦。宜天下高年。鰥寡孤獨。癈疾及臥疫病者。量加賑恤。當道巡察使与國司。視問患苦。賑給。若巡察使已過之處者。國司專當賑給。務從恩旨。

五月三日に「河内王」(河内女王。天平字二年八月に従三位。河内王は直前で従五位上)に正三位、「岡田王」(岡田女王。岡田離宮)に従五位上、氣太公十千代に正五位上、石上朝臣國守(國盛)に従五位上を授けている。七日に巨勢朝臣廣足(淨成に併記)を安房守に任じている。この日、大膳大夫の御使王(三使王)と命婦の縣犬養宿祢八重が亡くなっている。

九日に右大舎人大允の「大伴宿祢上足」は災いを十ヶ条記し、世間に広めていたため、多褹嶋(多禰)掾に左遷されている。告発した人である「上足」の弟の「矢代」は但馬目に任じられている。十八日に京内の六大寺(上記の五大寺+法華寺[隅院近隣、光明皇太后ゆかりの寺])で経を誦ませている。

十九日に次のように勅されている・・・聞くところによると、この頃疫病が流行して、人民が飢えて苦しんでいるという。天下の八十歳以上の老人、鰥・寡・孤・獨、廃疾及び疫病で病臥する者には、程度を量って物を恵み与えるようにせよ。その地域が所属する道の巡察使は國司とともに病苦をたずね、物を恵み与えよ。もし巡察使が既に通過したところでは、國司が単独でことにあたり、物を恵み与えよ。巡察使や國司は、この情け深い考えに添うように努めよ・・・。

<大伴宿祢上足-矢代-呰麻呂>
● 大伴宿祢上足・大伴宿祢矢代

何が目的で記述されたのか、些か訝しいところではあるが、多分、大伴宿祢一族の”辺境”の地を示しているのであろう。即ち、茅渟道沿いに出自を持つ一派、現在は京都郡苅田町の山口ダムに、その大半が埋没した地と思われる。

名負・百世等の居処を参照しながら、不仲な兄弟の出自場所を求めてみよう。「上足」の「上」は、上野國の「上」と同様に「盛り上がっている様」を表すと解釈すると、上足=足のような山稜が盛り上がっているところと読み解ける。「百世」の背後の山稜を示していると思われる。

弟の矢代=矢のように延びている山稜が谷間で杙の形をしているところと読み解ける。兄弟それぞれの出自は、図に示した場所と推定される。「左遷」の文字は、記紀には用いられず、初見であるが、この後はしばしば登場するようである。

少し後に大伴宿祢呰麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、名前が示す地形から出自の場所を求めると、図に示した上記の兄弟の北側の谷間と推定される。既出の=谷間を挟んで折れ曲がって延びる山稜に囲まれた様と解釈した。

六月乙丑。天平應眞仁正皇太后崩。姓藤原氏。近江朝大織冠内大臣鎌足之孫。平城朝贈正一位太政大臣不比等之女也。母曰贈正一位縣犬養橘宿祢三千代。皇太后幼而聡惠。早播聲譽。勝寳感神聖武皇帝儲貳之日。納以爲妃。時年十六。接引衆御。皆盡其歡。雅閑禮訓。敦崇佛道。神龜元年。聖武皇帝即位。授正一位。爲大夫人。生高野天皇及皇太子。其皇太子者。誕而三月立爲皇太子。神龜五年天而薨焉。時年二。天平元年。尊大夫人爲皇后。湯沐之外更加別封一千戸。及高野天皇東宮封一千戸。太后仁慈。志在救物。創建東大寺及天下國分寺者。本太后之所勸也。又設悲出施藥兩院。以療養夭下飢病之徒也。勝寳元年高野天皇受禪。改皇后宮職曰紫微中臺。妙選勲賢並列臺司。寳字二年。上尊号曰天平應眞仁正皇太后。改中臺曰坤宮官。崩時春秋六十。以三品船親王。從三位藤原朝臣永手。藤原朝臣弟貞。從四位上藤原朝臣御楯。從四位下安倍朝臣嶋麻呂。藤原惠美朝臣久須麻呂等十二人。爲裝束司。六位已下官十三人。以三品池田親王。從三位諱。文室眞人智努。氷上眞人鹽燒。正五位下市原王。正四位上坂上忌寸犬養。從四位下佐伯宿祢今毛人。岡眞人和氣等十二人。爲山作司。六位已下官十三人。以從五位下大藏忌寸麻呂。外從五位下上毛野公眞人。爲養民司。六位已下官五人。以從三位氷上眞人塩燒。從三位諱。正五位下石川朝臣豊成。從五位下大原眞人繼麻呂等。爲前後次第司。判官主典各二人。天下諸國擧哀三日。服期三日。癸夘。葬仁正皇太后於大和國添上郡佐保山。武部卿從三位藤原朝臣弟麻呂薨。平城朝贈正一位太政大臣武智麻呂之第四子也。

六月七日に天平應眞仁正皇太后(光明皇后)が崩御されている。姓は藤原氏。近江朝の大織冠・内大臣の鎌足の孫で、平城朝(元正朝)に正一位・太政大臣を追贈された不比等の娘である。母は、正一位を贈られた縣犬養橘宿祢三千代である。皇太后は幼いころから賢く、恵み深く、早くからよい評判が広がっていた。勝寶感神聖武皇帝が皇太子であった時、宮中に迎え入れて妃とした。時に年齢は十六であった(靈龜二[716]年)。

多くの人々を迎え導き、人々は皆それぞれに喜んで満足した。常に礼の教えに習熟し、あつく仏道を崇めた。神龜元(724)年、聖武皇帝が即位した時、正一位を授けられて大夫人になった。高野天皇(阿倍内親王、後の孝謙天皇)と皇太子を生んだ。その皇太子は誕生して三ヶ月で皇太子となったが、神龜五(728)年に幼少で死んだ。時に年は二歳であった。

天平元(729)年、大夫人を尊んで皇后とした。食封は湯沐(皇后は二千戸)の外、更に別封一千戸を加えた。また東宮であった高野天皇にも食封一千戸を加えた。皇太后は仁慈の心が深く、人々の苦しみを救うことを心掛けていた。東大寺や全國の國分寺を創建したことも、もともとは皇太后が天皇に勧めたのである。また、悲田・施薬の両院を設置し、天下の飢えと病で苦しむ人々を治療し養った。

天平勝寶元(749)年、高野天皇が譲位された時、皇后宮職を紫微中台と改称し、勲功のある人や賢明な人をうまく任用し、中台の官人に列した。天平字二(758)年、尊号を上って天平應眞仁正皇太后といい、中台を改めて坤宮官と称した。崩じた時、年齢は六十であった。

皇太后葬送のために船親王藤原朝臣永手・「藤原朝臣弟貞」(山背王)、藤原朝臣御楯(千尋)、安倍朝臣嶋麻呂(粳虫に併記)・藤原朝臣久須麻呂(眞從に併記)等十二人を装束司及び六位以下の官人十三人を任じている。池田親王、諱(白壁王)・文室眞人智努氷上眞人塩燒市原王(阿紀王に併記)、坂上忌寸犬養佐伯宿祢今毛人岡眞人和氣(和氣王)等十二人を山作司及び六位以下の官人十三人を任じている。大藏忌寸麻呂上毛野公眞人を養民司及び六位以下の官人五人を任じている。氷上眞人鹽燒、諱(白壁王)、石川朝臣豊成大原眞人繼麻呂(今木に併記)等を行列を整える前後の次第司、判官と主典とは二人ずつ任じている。天下の諸國には三日間悲しみの声をあげて哀悼の意を表し、三日間服喪させている。

癸夘(当月該当なし)、仁正皇太后(光明皇后)を「大和國添上郡佐保山」に葬っている。この日、武部(兵部)卿の藤原朝臣弟麻呂(乙麻呂)が亡くなっている。平城朝(聖武)に正一位・太政大臣を贈られた武智麻呂(南家)の第四子であった。

<大和國添上郡佐保山>
大和國添上郡佐保山

「佐保山」は、元正天皇、大皇太后(藤原朝臣宮子)、聖武天皇と続けて火葬した場所であった。場所は左京、現地名の田川市夏吉にある山稜と推定した(こちら参照)。

今回は「大和國添上郡」の「佐保山」と記載されている。元明天皇が埋葬された場所が添上郡椎山、当初は藏寳山の雍良岑だったが、最終的に「椎山」に造陵したと伝えている。

この地で佐保=左手のように延びた山稜に丸く小高くなっている地があるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。勿論、「椎山」からと同様に平城宮を見渡せる高台となっている。

人となりは、上記に記載された通りであろうが、他には万葉歌や書を嗜み、いずれも現在に伝わっている。皇族以外から初めて皇后となった女性であった。「佐保」の場所に関する通説は、現在の佐保川流域の丘陵地帯を示すとされている。ぼやけてしまって、全く不詳とした方が適切であろう。尚、「添上郡」の名称は、明治十三年に発足した行政区画とのことである。

<藤原朝臣弟貞(山背王)>
● 藤原朝臣弟貞(山背王)

長屋王と不比等の娘長娥子(宮子の妹)との間に生まれた山背王であり、事変後に処罰を受けることなく、また、橘奈良麻呂の謀反に加担したとして処罰された兄弟の安宿王黄文王とは袂を分けた経緯が伝えられている。

三年後に亡くなるのであるが、その経緯に関して「山背王陰上其變。高野天皇嘉之。賜姓藤原。名曰弟貞」と記載されている。母方の藤原朝臣氏姓に加えて、弟貞の名前を賜っている。

頻出の弟=折れ曲がっている様である。「貞」=「鼎+卜」と分解され、地形象形的には貞=折れ曲がって延びる山稜に囲まれて窪んだところと読み解ける。山背(山[細川山]が背後にあるところ)の簡略な表記から、極めて具体的な地形を表していることが解る。

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『續日本紀』巻廿二巻尾