廢帝:淳仁天皇(5)
秋七月丁夘。勅。准令。彈正尹者從四位上官。官位已輕。人豈能畏。自今以後。改爲從三位官。」以從四位下阿倍朝臣嶋麻呂爲左大弁。從四位下大伴宿祢犬養爲右大弁。從五位上石川朝臣豊成爲左中弁。從四位下佐味朝臣虫麻呂爲中宮大夫。備前守如故。從五位下佐佐貴山君親人爲亮。從五位下橘宿祢綿裳爲左大舍人助。從四位下岡眞人和氣爲内匠頭。從四位下御方王爲木工頭。三品池田親王爲糺政尹。外從五位下食朝臣三田次爲西市正。從五位下阿倍朝臣許智爲山背介。外從五位下陽侯史玲珎爲伊賀守。鎭國衛次將從五位下田中朝臣多太麻呂爲兼上総員外介。從五位下三嶋眞人廬原爲武藏介。從三位百濟王敬福爲伊豫守。己巳。夫人正二位廣岡朝臣古那可智薨。正四位上橘宿祢佐爲之女也。天平勝寳九歳閏八月十八日。有勅賜姓廣岡朝臣。丁丑。内藥佐從七位下粟田臣道麻呂賜姓朝臣。庚辰。左京人中臣朝臣楫取詐造勅書。詿誤民庶。配出羽國柵戸。」授從七位上川上忌寸宮主外從五位下。
七月三日に次のように勅されている・・・令によると、弾正尹は従四位上相当の官であって、官位が甚だしく軽い。これでは人々が弾正尹をよく畏れるであろうか。今後は従三位の官とせよ・・・。
この日に阿倍朝臣嶋麻呂を左大弁、大伴宿祢犬養(三中に併記)を右大弁、石川朝臣豊成を左中弁、備前守の佐味朝臣虫麻呂を兼務の中宮大夫、佐佐貴山君親人を亮、橘宿祢綿裳を左大舍人助、岡眞人和氣(和氣王)を内匠頭、御方王(三形王)を木工頭、池田親王を糺政(弾正)尹、食朝臣三田次(息人に併記)を西市正(平城宮西側の市を司る長、右京職に属する)、阿倍朝臣許智(駿河に併記)を山背介、陽侯史玲珎(兄弟の令璆は、前記で越後守)を伊賀守、鎭國衛次將の田中朝臣多太麻呂を兼務の上総員外介、三嶋眞人廬原を武藏介、百濟王敬福(①-❽)を伊豫守に任じている。
五日、聖武天皇夫人の廣岡朝臣古那可智(橘朝臣)が亡くなっている。橘宿祢佐爲(佐爲王)の娘で、天平勝寶九(757)歳閏八月十八日に勅されて廣岡朝臣を賜姓されていた。十三日に内薬佑の「粟田臣道麻呂」に朝臣姓を賜っている。十六日に左京人の「中臣朝臣楫取」は、勅書を偽造し、庶民を欺き惑わしたので、出羽國の柵戸に移住させている。また、「川上忌寸宮主」に外従五位下を授けている。
● 粟田臣道麻呂
今に至って「粟田臣」の氏姓であり、漸く「朝臣」姓を賜ったと記載されている。前出の粟田朝臣一族とは、些か離れた場所を出自とする…同祖なのだが…人物だったのであろう。
粟田朝臣は、古事記の天押帶日子命が祖となった地であり、狭い谷間が粟の穗のように延びている地形に蔓延ったと推定した。
道麻呂の道=辶+首=首の付け根のように窪んだ様であり、その地形を図に示した、その谷間の入口付近に見出すことができる。北側に隣接する谷間は、「小野朝臣」一族との端境になる。共に天押帶日子命が祖となった一族である。
五年後に外従五位下を叙爵され、その後一挙に従四位下へと駆け上り、参議に列した人物だったと伝えられている。なかなかのやり手だったようであるが、皇統に絡む紛争に絡んで最後は配流の憂き目にも・・・この後幾度か登場されるようである。
● 中臣朝臣楫取・川上忌寸宮主
「左京人」の「中臣朝臣」と記載されている。「中臣朝臣」で左京に住んでいた人物か?…と読むのではなかろう。元正天皇紀に「左京人紀朝臣家所獻白龜」と記されていた。「紀朝臣」ではなく、「紀朝・臣」と解釈した(こちら参照)。
これに準じるならば「中臣朝・臣」と解釈されることになる。読み解くと中臣朝=狭い谷間(臣)を突き通す(中)山稜の端に挟まれた丸く小高い(朝)ところの臣(姓)となる。
その地形を、前出の漆部造君足の近隣に見出せる。その東側の山稜を「朝」と見做した表記と思われる。楫取=山稜が長く延びた端が[耳]の形をしているところと読み解くと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。勅書を偽造するとは、大胆な犯罪であり、本来は遠流だったのだが、委細は不明ながら柵戸として移住の罪としたようである。
外従五位下を叙爵された川上忌寸宮主については、聖武天皇紀の神龜元(724)年五月に薩妙觀が「河上忌寸」氏姓を賜ったと記載され、その一族に属する人物と思われる。宮主=奥が広がった谷間に山稜が真っ直ぐに延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。左京・右京からの人物を登場させたようである。
八月己亥。遣大宰帥三品船親王於香椎廟。奏應伐新羅之状。
八月六日に大宰帥の船親王を香椎廟(仲哀天皇の香椎宮。古事記の訶志比宮。隋書俀國伝では彼都)に遣わして、新羅を伐つ事情を奏上させている(聖武天皇紀の天平十九(747)年に新羅の無礼振りを香椎宮を含む四社に報告)。
九月丁夘。勅大宰府。頃年新羅歸化舳艫不絶。規避賦役之苦。遠弃墳墓之郷。言念其意。豈无顧變。宜再三引問。情願還者。給粮放却。丙子。大宰府言。去八月廿九日南風大吹。壞官舍及百姓廬舍。戊寅。乾政官奏。百姓輸調。其價不同。理須折中以均賦役。又停廢品部。混入公戸。其世業相傳者。不在此限。伏聽天裁。奏可。事在別式。壬午。造船五百艘。北陸道諸國八十九艘。山陰道諸國一百卌五艘。山陽道諸國一百六十一艘。南海道諸國一百五艘。並逐閑月營造。三年之内成功。爲征新羅也。己丑。勅。造陸奥國桃生城。出羽國雄勝城。所役郡司。軍毅。鎭兵。馬子。合八千一百八十人。從去春月至于秋季。既離郷土。不顧産業。朕毎念茲。情深矜憫。宜免今年所負人身擧税。始置出羽國雄勝。平鹿二郡。玉野。避翼。平戈。横河。雄勝。助河。并陸奥國嶺基等驛家。庚寅。遷坂東八國。并越前。越中。能登。越後等四國浮浪人二千人。以爲雄勝柵戸。及割留相摸。上総。下総。常陸。上野。武藏。下野等七國所送軍士器仗。以貯雄勝桃生二城。
九月四日に次のように勅されている・・・近年新羅の人が天皇の徳化を慕って来日し、その人々の船が絶えることがない。彼等は租税・労役の苦しみを避け、遠く墳墓のある故郷を捨てて移住して来た。ここにその心中を推し量ってみると、どうして故郷を恋しく想い起すことがないだろうか。彼等に再三質問して、帰国したいと願う者があったら、食料を支給して自由に帰らせよ。
十三日に大宰府が[去る八月二十九日に南風が大いに吹いて、官の建物や人民の家屋が壊された]と言上している。十五日に乾政官(太政官)が以下のように奏上している・・・人民が調を納める時、地域によってその値が同じでなくなっている。理に叶なうように高低の中間の値を定めて、課税を均しくすべきである。また品部を廃止して、一般の農民と同じように扱いたく思う。但し祖先から伝えている仕事のある者は、この限りではない。恐れながら天皇の御裁可をお願い申し上げる・・・。奏上の通りに許可されている。その事は『別式』に記載されている。
十九日に船を五百艘造ることとなった。内訳は北陸道の諸國に八十九艘、山陰道の諸國に百四十五艘、山陽道の諸國に百六十一艘、南海道の諸國に百五艘で、いずれも農閑期をえらんで営造し、三年以内に仕事を完成するようにさせている。新羅を征討するためである。
二十六日に次のように勅されている・・・陸奥國の桃生城、出羽國の雄勝城を造らせているが、工事に使われている郡司・軍毅、鎮守府の兵士・馬子等併せて八千百八十人は、今年の春から秋まで、既に故郷を離れて生業に携わっていない。朕はこれを思うごとに、心中深く憐れんでいる。彼等が各々今年負担する出挙の利息を免除するようにせよ・・・。また、初めて出羽國の「雄勝・平鹿」の二郡に「玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河」の駅家を置き、並びに陸奥國に「嶺基」の駅家を置いた。
二十七日に坂東の八國と越前・能登・越後(・越中?)の四國の浮浪人二千人を「雄勝」の柵戸としている。また相模・上総・下総・常陸・上野・武藏・下野の七ヶ國から送られて来た兵士用の武器を一部保留して、「雄勝・桃生」の二城に貯えている。
出羽國(雄勝郡/平鹿郡)驛家:玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河
勿論、前記の遣渤海使小野朝臣田守等が唐國情勢を詳細に報告、それに伴う新羅の動向を考慮した諸策であろう。
いつの間にやら出羽國に雄勝郡・平鹿郡が建てられ、そこに六つの驛家を設置したと記載している。
出羽國は、渤海から使者が何度も訪れた地であって、淡海を通過して出雲に上陸し、現在の鹿喰峠を越えると届く、西海からの侵入場所と推察した。それ故に雄勝城、また東側の陸奥國桃生城の守備を増強しているのである。
平鹿郡の平鹿=鹿の角ような山稜の前が平らになっているところであり、図に示した雄勝郡の南に接する地域と思われる。前出の最上郡・置賜郡(陸奥國から分割)に北側となる。玉野驛家は、玉野=玉のような地が野にあるところは、最上郡玉野と共有した表記であろう。
避翼驛家の避翼=谷間が大きく開いて(避)羽のような地が広がっている(翼)ところと読み解ける。図に示した山稜の端の地形を表していると思われる。平戈驛家の平戈=鉞のような形をして平らになっているところと読み解ける。図に示した場所を表していることが解る。
横河驛家の横河=谷間を横切るように川が流れているところと読むと、現在の谷川が激しく蛇行している場所を表しているのではなかろうか。雄勝驛家の雄勝は、「雄勝城」の「雄(小)勝」ではなく、その北側の山麓を示し、正に雄=羽を拡げた鳥の姿を示しているように思われる。
<陸奥國驛家:嶺基> |
助河驛家の助河=川が流れる谷間の出口(河)の前に積み重ねられた地(助)があるところと読み解ける。峠直下の場所と推定される。これだけの数の驛家を造ったのであるが、情報伝達を如何に素早くしたかったのかが伺い知れる。
陸奥國嶺基驛家
この記述の後に桃生城を造った経緯が語られる。多くの人が褒賞に与ることになるのだが、牡鹿郡から進入した様子であり、その地に驛家が設置されたと推測される。
海路で牡鹿郡に向かい、その後に上陸するならば、ほぼ一ヶ所に限られていることが分かる。牡鹿連の一族の山稜に囲まれた谷間の居処である。すると、嶺基=連なる嶺が箕の形をしているところと読み解ける。
桃生城造成に際して「跨大河凌峻嶺」の苦労を成し遂げたと記載されている。そのまま読めば、「大河を越え高く険しい峰を越えて」となるが、「峻嶺」の「嶺」は、「嶺基」の「嶺」、そして幾度か登場した「大河」=「平らな頂の麓にある谷間の出口が水辺にあるところ」と読むと、驛家から城に向かう行程で出遭う地形そのものを表現していることが解る。
書紀の斉明天皇紀に、新羅が攻めて来るかも?…と大慌てで対策を行ったと記載されていた。通説に従えば、その対策の実施場所は、現在の東北地方に当たる。西海からの脅威に対して、何故東北を防備するのか?…今回も同じように国防体制を整えようとしている。日本の古代史家は、まさか、当時の新羅に長距離巡行ミサイルを保有していた、と考えているのであろうか・・・。
冬十月辛丑。天下諸姓著君字者。換以公字。伊美吉以忌寸。壬寅。以從五位下丈部大麻呂爲齋宮頭。戊申。去天平勝寳五年。遣左大弁從四位上紀朝臣飯麻呂。限伊勢大神宮之界。樹標已畢。而伊勢志摩兩國相爭。於是。遷尾垂刹於葦淵。遣武部卿從三位巨勢朝臣關麻呂。神祇大副從五位下中臣朝臣毛人。少副從五位下忌部宿祢呰麻呂等。奉幣帛於神宮。辛亥。迎藤原河清使判官内藏忌寸全成。自渤海却廻。海中遭風。漂着對馬。渤海使輔國大將軍兼將軍玄菟州刺史兼押衙官開國公高南申相隨來朝。其中臺牒曰。迎藤原河清使惣九十九人。大唐祿山先爲逆命。思明後作乱常。内外騷荒。未有平殄。即欲放還。恐被害殘。又欲勒還。慮違隣意。仍放頭首高元度等十一人。往大唐迎河清。即差此使。同爲發遣。其判官全成等並放歸卿。亦差此使隨徃。通報委曲。壬子。中宮大夫從四位下佐味朝臣虫麻呂卒。丙辰。徴高麗使於大宰。
十月八日に天下の諸姓のうち、「君」の字を着けているものは「公」の字に換えさせ、「伊美吉」は「忌寸」に改めさせている。九日に丈部大麻呂を齋宮頭に任じている。十五日、去る天平勝寶五(753)年に、左大弁の紀朝臣飯麻呂を遣わして、伊勢大神宮の神域の境界を定めて、標識を立てさせたことがあった。しかしながら今も伊勢・志摩両國は境界について互いに争っている。そこで「尾垂刹」(標幟)を「葦淵」に遷し、武部(兵部)卿の巨勢朝臣關麻呂(堺麻呂)、神祇大副の中臣朝臣毛人(麻呂に併記)、少副の忌部宿祢呰麻呂等を派遣して幣帛を奉つらせている。
十八日に「藤原河清」(唐國での名称。藤原朝臣清河)を迎える使の判官、内藏忌寸全成(黒人に併記)は、渤海をまわって帰国する途中、海上で暴風に遭って対馬に漂着した。渤海使の輔國大将軍兼将軍・玄菟州刺史兼押衙官・開國公の高南申が、共に随って来朝して来た。彼の持参した中台の牒(官府間の往復文書)に以下のように記載されていた・・・「藤原河清」を迎える使は全部で九十九人である。大唐の安禄山は先に天子の命に背き、史思明もその後に乱を起こして、内外は荒れて騒がしく、まだ賊は平らげ亡ぼされてはいない。そのため「河清」を迎える使をそのまま唐に送り出そうとしても、恐らく殺されるなどの害を受けるであろう。---≪続≫---
渤海が迎える使を率いて日本に帰らせようとしても、考えてみれば隣國(日本)の意に反することになるであろう。それで頭首(長官)の高元度等十一人を出発させて大唐に往って「河清」を迎えさせ、同時にこちらの使者を任命して「元度」等と共に出発させる。また判官の「全成」等はいずれ帰国させることにする。またこちらの使(南申等)を任命し、随って往かせ、詳しく事情を通報させる・・・。
十九日に中宮大夫の佐味朝臣虫麻呂が亡くなっている。二十三日に高麗(渤海)からの使を大宰府に呼び寄せている。
尾垂刹・葦淵
神域の設定は、国境の線引きのようなものであったろう。住み着いた人々にとっては、都合の良いこともあれば、そうでないことも生じるのが、人の世の常と推察される。
このブログを書いている時代にも国境紛争は後を絶つことができないホモサピエンスである。ゲノム解析がノーベル賞授与となった。倭人のゲノム解析、一層の進展に期待したいところである。
横道に逸れて、崖から落ちそうな有様だが、本筋に戻して、伊勢大神宮の神域に接する志摩國の領域は、現地名の北九州市小倉南区高野、紫川の川辺と思われる。聖武天皇が伊勢に行幸された際に詳細な地名が記載された場所である。
尾垂刹の尾垂=尾のように延びた山稜の端が岐れて枝を垂れるようになっているところと解釈される。「刹」の解釈は、「標幟」=「はたじるし」とした。図に示した場所と推定される。葦淵=山稜に囲まれた水の流れが淀んで深くなったところと読むと「尾垂刹」の南側に「刹」を移動し幣帛を並べ立てたと伝えているのである。
地形的には「尾垂刹」の場所が神域の区切りと思われるが、そこから「葦淵」までの土地が曖昧であり、紛争の元となったと推察される。僅かな距離ではあるが、上図はその有様を的確に反映していると思われる。参考している資料では「刹」=「小規模な關」と解釈されているようだが、河口頓宮を別名關宮としている。ならば移動する必要はなかったのではなかろうか。
十一月甲子。詔曰。如聞。去十月中大風。百姓廬舍並被破壞。是以。爲修其舍。免今年田租。丙寅。詔賜大保已下至于百官官人。絁綿各有差。以被風害屋舍毀壞也。丁夘。以從五位上藤原朝臣宿奈麻呂爲右中弁。從五位下菅生王爲大監物。從五位下文室眞人波多麻呂爲右大舍人助。從五位下藤原朝臣楓麻呂爲文部少輔。從三位氷上眞人塩燒爲禮部卿。從五位上阿倍朝臣毛人爲仁部大輔。從三位藤原朝臣乙麻呂爲武部卿。從五位上阿倍朝臣子嶋爲大輔。正四位上紀朝臣飯麻呂爲義部卿。河内守如故。正四位下文室眞人大市爲節部卿。從四位下御使王爲大膳大夫。從五位下和王爲正親正。從五位下高橋朝臣子老爲内膳奉膳。外從五位下小田臣枚床爲采女正。從四位下佐伯宿祢今毛人爲攝津大夫。從五位上大伴宿祢御依爲遠江守。正五位上藤原朝臣魚名爲上総守。從五位下池田朝臣足繼爲下総介。從五位下藤原惠美朝臣薩雄爲越前守。從五位下藤原朝臣武良自爲丹後守。右勇士督從四位下上道朝臣正道爲兼備前守。從五位下藤原朝臣繩麻呂爲備中守。正五位下久勢王爲備後守。從五位下田口朝臣水直爲土左守。辛未。勅坂東八國。陸奥國若有急速索援軍者。國別差發二千已下兵。擇國司精幹者一人。押領速相救援。」頒下國分二寺圖於天下諸國。癸酉。四品室内親王薨。一品舍人親王之女也。乙亥。造東大寺判官外從五位下河内畫師祖足等十七人賜姓御杖連。戊寅。遣造宮輔從五位下中臣丸連張弓。越前員外介從五位下長野連君足。造保良宮。六位已下官五人。庚辰。授外從五位下津連秋主從五位下。壬辰。勅益大保從二位藤原惠美朝臣押勝帶刀資人廿人。通前卌人。
十一月二日に次のように詔されている・・・聞くところによると、去る十月中に大風が吹き、人民の家屋が軒並み破壊されたという。そこでその家を修理する為に今年の田租を免除する・・・。四日に詔されて、大保(恵美押勝)以下、百官の役人に至るまで、絁・真綿を地位に応じて賜っている。大風の被害に遭って、官人の家が壊れたためである。
五日に以下の人事を行っている。藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を右中弁、菅生王を大監物、文室眞人波多麻呂を右大舍人助、藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を文部(式部)少輔、氷上眞人塩燒を禮部(治部)卿、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を仁部(民部)大輔、藤原朝臣乙麻呂を武部(兵部)卿、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)を大輔、紀朝臣飯麻呂を義部(刑部)卿兼河内守、文室眞人大市を節部(大藏)卿、御使王(三使王)を大膳大夫、和王(倭王)を正親正、高橋朝臣子老(國足に併記)を内膳奉膳、小田臣枚床を采女正、佐伯宿祢今毛人を攝津大夫、大伴宿祢御依(三中に併記)を遠江守、藤原朝臣魚名(鳥養に併記)を上総守、池田朝臣足繼を下総介、藤原惠美朝臣薩雄を越前守、藤原朝臣武良自を丹後守、右勇士督の上道朝臣正道(上道臣斐太都)を兼務の備前守、藤原朝臣繩麻呂を備中守、久勢王(久世王)を備後守、田口朝臣水直(御直)を土左守に任じている。
九日に「坂東八國」(九國。常陸國を除く)に次のように勅されている・・・陸奥國にもし緊急のことがあって、援軍を求めてくれば、國ごとに二千人以下の兵を徴発し、國司のうち優れて頼りになる者を一人択び、部隊を率いさせて、速やかに救援させよ・・・。この日、國分寺と國分尼寺の図を天下の諸國に頒ち下している。十一日に室内親王が亡くなっている。舎人親王の娘であった。
十三日に造東大寺判官の河内畫師祖足(祖父麻呂に併記)等十七人に「御杖連」の氏姓を賜っている。十六日に造宮輔の中臣丸連張弓と越前員外介の長野連君足(山田史。廣野連を経て長野連:地形的に長野が妥当と思われる)を遣わして「保良宮」を造らせている。他に六位以下の官人五人を副えて遣わしている。十八日に津連秋主(津史)に従五位下を授けている。三十日に次のように勅されている・・・大保の藤原恵美朝臣押勝(藤原朝臣仲麻呂)に帯刀資人を二十人増員する・・・。前と合わせて四十人である。
<保良宮> |
保良宮
少し後に近江國保良宮と記載され、この宮は近江國に造られたことが分かる(天平寶字五[761]年十月)。また、平城宮改修のために一時遷御された宮でもある。
既出の文字列である保良=谷間に延びる山稜の端が丸く小高い地がなだらかになっているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出すことができる。別の史書では大津宮と記載されていることが知られている。周防灘に面した津の地形であったことが推測される(当時図中青い部分は海面下)。決して淡海大津宮(近江大津宮)の近隣ではない。
「保良(ホラ)」と読み下せる表記である。即ち「保良」=「洞」の意味を示唆するのではなかろうか。この地は、文武天皇紀の大寶三(703)年九月に施基皇子に近江國鐵穴を賜ったと記載されていた。「保良宮」のある山稜の奥の谷間、それが「鐵穴」の場所と推定した。見事に繋がったようである。
「鐵穴」は、聖武天皇紀の天平十四(742)年十二月にも登場し、「鐵」(おそらく砂金)の取得争いで混乱が生じていたことを述べている。また、聖武天皇紀の天平十七(745)年には民部卿の藤原朝臣仲麻呂が近江守を兼務している。田村第と言い、淳仁天皇(大炊王)は「仲麻呂」の息のかかった場所を居処としたのであろう。様々な憶測が広がるが、ここらで止め置こう。
十二月甲午。置授刀衛。其官員。督一人從四位上官。佐一人正五位上官。大尉一人從六位上官。少尉一人正七位上官。大志二人從七位下官。少志二人正八位下官。丙申。武藏國隱沒田九百町。備中國二百町。便仰本道巡察使勘検。自餘諸道巡察使検田者亦由此也。其使未至國界。而豫自首者免罪。己亥。散位從四位下大伴宿祢麻呂卒。壬寅。外從五位下山田史白金。外從五位下忌部首黒麻呂等七十四人賜姓連。山田史廣名。忌部首虫麻呂。壹岐史山守等四百三人賜姓造。辛亥。高麗使高南申。我判官内藏忌寸全成等到着難波江口。丙辰。高南申入京。
十二月二日に授刀衛を設置している。その官員の爵位は、督が一人て従四位上、佐は一人で正五位上、大尉は一人で従六位上、少尉は一人で正七位上、大志は二人で従七位下、少志は二人で正八位下とされている。四日に隠没田(登録されていない隠し田)は武藏國で九百町、備中國では二百町が存在する。そこでその道の巡察使に命じて、調べて取り締まさせる。その他の諸道の巡察使に田を調べさせるのもこのためである。巡察使が國境に到達する前に自首する者は罪を免除する。
七日に散位の大伴宿祢麻呂(兄麻呂に併記)が亡くなっている。十日に山田史白金(銀)、忌部首黒麻呂等七十四人に連姓を賜っている。山田史廣名(銀に併記)・忌部首虫麻呂(黒麻呂に併記)・「壹岐史山守」等四百三人に造姓を賜っている。十九日に高麗(渤海)使の高南申と、我が國の使の判官内藏忌寸全成(黒人に併記)等が「難波江口」(難波津江口)に到着している。二十四日に高南申が入京している。
● 壹岐史山守
上記の「山田史・忌部首」と同じく、同祖なのだが、系列が異なる一族だったのであろう。近隣だが、少し離れた場所に蔓延っていたことを示しているように思われる。氏名を変えずに姓の名称を変えてそれを表しているのである。
既出の文字列である山守=山にある山稜の端が両肘を張ったように延びているところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。現地名も「伊吉連」が壱岐市芦辺町中山触、「壹岐造」が大左右触となっている。古代の人々の佇まいを今に残しているのであろう。
書紀の『壬申の乱』の際に「有人曰、近江將壹伎史韓國之師也」と記載されている。壹伎史韓國を「壹岐史(伊吉連・壹岐造)」の同族とするのが通説である。がしかし、「韓國」は「巨勢朝臣」一族と解釈した。續紀の孝謙天皇紀に登場する巨勢朝臣度守の近隣である。
”有人曰”、書紀らしい表記であろう。誰かに言わせて真偽不明としているのである。これを真面に受けて、壹岐史一族とする、何度も述べたが、壱岐と難波(江口)との間の時空感覚皆無の古代史学である。それは兎も角、”高天原”の住人は、續紀中未だにご登場されないのだが、果たして・・・。