2022年10月12日水曜日

廢帝:淳仁天皇(4) 〔608〕

廢帝:淳仁天皇(4)


天平字三年(西暦759年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

三年春正月戊辰朔。御大極殿受朝。文武百官。及高麗蕃客等。各依儀拜賀。庚午。帝臨軒。高麗使揚承慶等貢方物。奏曰。高麗國王大欽茂言。承聞。在於日本照臨八方聖明皇帝。登遐天宮。攀號感慕。不能黙止。是以。差輔國將軍揚承慶。歸徳將軍揚泰師等。令齎表文并常貢物入朝。詔曰。高麗國王遥聞先朝登遐天宮。不能黙止。使揚承慶等來慰。聞之感痛。永慕益深。但歳月既改。海内從吉。故不以其礼相待也。又不忘舊心。遣使來貢。勤誠之至。深有嘉尚。甲戌。停節宴。雨也。戊寅。以從五位下豊野眞人出雲爲少納言。從五位下船井王爲内史頭。外從五位下宇自可臣山道爲畫工正。從五位下高橋朝臣人足爲上野守。外從五位下生江臣智麻呂爲佐渡守。乙酉。帝臨軒。授高麗大使揚承慶正三位副使揚泰師從三位。判官馮方禮從五位下。録事已下十九人各有差。賜國王及大使已下祿有差。饗五位已上。及蕃客。并主典已上於朝堂。作女樂於舞臺。奏内教坊踏歌於庭。客主典殿已上次之。事畢賜綿各有差。丙戌。内射。喚客。亦令同射。甲午。大保藤原惠美朝臣押勝宴蕃客於田村第。勅賜内裏女樂并綿一万屯。當代文士賦詩送別。副使揚泰師作詩和之。丁酉。授正六位上高元度外從五位下。爲迎入唐大使使。

正月一日に大極殿に出御されて朝賀を受けられている。文武の百官及び高麗の蕃客等は各々礼儀に従って拝賀を行っている。三日に宮殿の端近くに出御されている。高麗使の揚承慶等は土地の産物を貢上するとともに、次のような國書を奏上している・・・高麗國王の大欽茂(渤海國第三代の王)が申し上げる。承ると、日本にあって八方の世界を照らし治めておられた聖明な皇帝(聖武天皇)が遠い天上の宮にお出ましになったと聞く。亡き皇帝を慕う気持ちが強く、黙ってじっとしていることはできない。そこで輔國将軍の揚承慶・帰徳将軍の揚泰師等を遣わして、上表文と恒例の貢物を持たせて入朝させる・・・。

これに答えて次のように詔されている・・・高麗國王は、先朝が遠い天上の宮に登ったと遥かに伝え聞き、黙ってじっとしていることができないで、陽承慶等に命じて来日慰問させた。これを聞いて、いたく感動し、先帝を永く慕う気持ちが益々深まっている。しかし年月が改まって國内は喪を終え平城に復している。それ故に弔問使に対する礼をもって応対することはしない。また古くからの心を忘れることなく、使者を遣わして来朝入貢させることは、真心を尽くしての勤めに、これ以上のものはない。深くよみし褒め称える・・・。

七日に、七日の節句の定例の宴会を、雨のために停めている。十一日に豊野眞人出雲(出雲王)を少納言、船井王を内史頭(図書頭)、宇自可臣山道(宇自賀臣山道)を画工正、高橋朝臣人足(國足に併記)を上野守、生江臣智麻呂(安久多に併記)を佐渡守に任じている。

十八日に宮殿の端近くに出御されて、高麗大使の揚承慶に正三位、副使の揚泰師に従三位、判官の馮方礼に従五位下、禄事以下十九人にもそれぞれ位を授けている。國王及び大使以下の使人等にはそれぞれ禄を賜っている。また、五位以上の官人と高麗の使人、並びに主典以上の官人を朝堂で饗応している。舞台で女人による楽を演じさせ、庭では内教坊の女性が踏歌を舞っている。高麗の使人や主典以上の者もこれに続いている。事が畢って後それぞれに真綿を賜っている。

十九日に内射(大射)を行っている。渤海の使人を喚び、同じく射を行わせている。二十七日に大保(右大臣)の藤原恵美朝臣押勝(藤原朝臣仲麻呂)が高麗の使人を田村第に招き宴会している。勅されて、内裏の歌妓を遣わし真綿一万屯を賜っている。また、当代の文人等が詩を賦して使人を送別し、副使の揚泰師が詩を作ってこれに唱和している。三十日に「高元度」に外従五位下を授け、迎入唐大使使(藤原朝臣清河を迎える使者)に任じている。

<高元度>
● 高元度

「高」の氏名は、高麗系渡来人を祖先に持つ一族と思われるが、前出に「高正勝・高益信」が登場し、それぞれに「三笠連・男捄連」の氏姓を賜ったと記載されていた。

それ以前に「高庄子」が續紀中最初に登場した人物と思われる。それぞれの系譜は不詳のようであるが、何らかの繋がりがあったのであろう(こちら参照)。

その後に高福子が登場し、彼等の出自は、古事記の玖賀耳之御笠の場所とし、現在の行橋市元永・長井に蔓延った一族であったと推定した。天皇家にとって、実に手強い相手だったのだが、時を経て徐々に馴染んできたのであろう。勿論、彼等は極めて優秀であったことは容易に理解できるところである。

既出の文字列である元度=長い谷間にある丸く小高い地が山稜の端を跨ぐように延びているところと解釈される。図に示した場所が、その地形を再現していることが解る。任命された迎入唐大使使として、渤海使に随行して入唐するが、藤原朝臣清河を迎えることが叶わず帰国した、と後に述べられている。また、地方官として幾度か登場されるようである。

二月戊戌朔。賜高麗王書曰。天皇敬問高麗國王。使揚承慶等遠渉滄海。來弔國憂。誠表慇懃。深増酷痛。但隨時變礼。聖哲通規。從吉履新。更无餘事。兼復所貽信物。依數領之。即因還使。相酬土毛絹卌疋。美濃絁卅疋。絲二百絇。綿三百屯。殊嘉尓忠。更加優。賜錦四疋。兩面二疋。纈羅四疋。白羅十疋。彩帛卌疋。白綿一百帖。物雖輕尠。寄思良深。至宜並納。國使附來。无船駕去。仍差單使送還本蕃。便從彼郷達於大唐。欲迎前年入唐大使藤原朝臣河清。宜知相資。餘寒未退。想王如常。遣書指不多及。」授從五位下當麻眞人廣名從五位上。癸丑。揚承慶等歸蕃。高元度等亦相隨而去。

二月一日に高麗(渤海)王に次のような書を賜っている・・・天皇は敬んで高麗國王に尋ねる。使の揚承慶等は遠く海を渡り、日本に来て先帝の不幸を弔問した。誠に懇ろな気持ちを表したもので、強い哀しみを深くした。しかし、時に随って礼を変えるのは、聖人や哲人が定めた通則である。礼に従い、新しい年を迎え、それ以上のことは行わない。なおまた贈られた品は記された数の通りに受領した。---≪続≫---

そこで帰国する使者に付して、特産の絹四十疋、美濃國産の絁四十疋、絹糸二百絇、真綿三百屯を返礼として贈る。また特に汝の忠誠を褒め称えて、更に追加して錦四疋、両面織の錦二疋、纈羅(絞り染めをした薄絹)を四疋、白羅を十疋、彩錦を四十疋、白い真綿を百帖与えることとする。品物は軽少であるが、思いを寄せることはまことに深い。手元に届いたなら、いずれも受納するように。---≪続≫---

貴國の國使は日本の國使に付き従って来たけれど、乗って帰る船がない。よってそのための使者を任命して、貴國の使者を本國に送り帰す。我が使は、そのまま貴國より大唐に行かせて、前年の入唐大使である藤原朝臣河清(清河)を迎えようと思う。よく事情を理解して助けられたい。余寒が退かないが、王には変わりがないと想う。書を遣わすが、思うところを十分に尽くしていない・・・。この日、當麻眞人廣名(東人に併記)に従五位上を授けている。

十六日に揚承慶等が蕃(渤海)に帰っている。「高元度」等もまた渤海使に従って共に出発している。

三月丁夘朔。日有蝕之。庚寅。大宰府言。府官所見。方有不安者四。據警固式。於博多大津。及壹岐。對馬等要害之處。可置船一百隻以上以備不虞。而今无船可用。交闕機要。不安一也。大宰府者。三面帶海。諸蕃是待。而自罷東國防人。邊戍日以荒散。如不慮之表。萬一有變。何以應卒。何以示威。不安二也。管内防人。一停作城。勤赴武藝。習其戰陳。而大貳吉備朝臣眞備論曰。且耕且戰古人稱善。乞五十日教習而十日役于築城。所請雖可行。府僚或不同。不安三也。天平四年八月廿二日有勅。所有兵士全免調庸。其白丁者免調輸庸。當時民息兵強。可謂邊鎭。今管内百姓乏絶者衆。不有優復无以自贍。不安四也。勅。船者宜給公糧。以雜徭造。東國防人者衆議不允。仍不依請。管内防人十日役者。依眞備之議。優復者。政得其理民自富強。宜勉所職以副朝委。
夏四月辛亥。以外從五位下陽胡史玲璆爲越後守。

三月一日に日蝕があった、と記している。二十四日に大宰府が以下のように言上している・・・府の官人として見ると、現在、不安と考えることが四つある。警固式によると、「博多大津」及び壱岐や對馬などの要害の地に百隻以上の船を置いて非常の場合に備える定めになっているが、現在は使用できる船がなく、全ていざと言う場合に間に合わない。これが第一の不安である。---≪続≫---

大宰府の管内は三方が海に面しており、諸々の蕃國と向き合っている。しかしながら東國の防人を罷めてからは、國境の守りは日毎に荒れて隙間だらけになっている。もし不慮のことが起こり、万一の事変が生じたならば、どのようにしてにわかの事態に応じ、どのようにして国の威を示すことができるか。これが第二の不安である。--≪続≫---

管内の防人はもっぱら城を造ることを停めて、武芸の修練に努め、職場での陣の立て方を習うことになっている。しかし大宰大弐の吉備朝臣眞備は[古人も兵士は耕作する一方で戦闘を行うのが良いから、防人は五十日間武芸を教習し、十日間、城を築く労役に就かせたいと思う]と論じている。「眞備」の請うように行うべきであるが、大宰府の役人のなかには、賛同しない者もある。これが第三の不安である。--≪続≫---

天平四年八月二十二日の勅があり、西海道諸國にいる兵士達は調・庸を全て免除し、白丁は調を免除して、庸だけを納入させることとなった。当時としてはこれで民は休養でき、兵は強くなり、國境の鎮めと言うべきであった。しかし今管内の人民は貧窮極まる者が多く、租税の労役の免除がなければ、自立することができないであろう。これが第四の不安である・・・。

これに対して次のように勅されている・・・船は公の費用で食料を給して、人民の雑徭で造ることにする。東國の防人の復活は衆議により許さない。従って大宰府の要請は却下する。管内の防人を十日間労役に就かせる件は、「眞備」の建議によれ。租税や労役の減免については、実施しなくても政治が理に叶って行われたならば、民は自ずから富強となるであろう。官人等は職務をよく勤め、朝廷の信任に副うようにせよ・・・。

四月十六日に陽胡史令璆(眞身の子、天平勝寶元[749]年五月に兄弟揃って外従五位下を叙爵。陽侯史は別表記)を越後守に任じている。

<博多大津>
博多大津

大宰府が要害の地として、壱岐・對馬と並べてこの地を挙げている。地理的配置からすると、間違いなく現在の博多湾を示していると思われる。

過去に「大津」と表記された地には、筑紫大津(娜大津、長津)があり、また近江(淡海)大津が登場している。決して、「筑紫大津」のことを表しているのではない。「博多」は、紛うことなく残存地名なのである。

少し、「博多」の由来がどのように語られているかを調べると、Wikipediaによると…古く「那津(なのつ)」「荒津(あらつ)」「灘津(なだつ)」「冷泉津」「筑紫大津」と呼ばれていた博多湾は、797年(延暦16年)の『続日本紀』において「博多大津(博多津)」と記されているのが見出される。「ハカタ」の語源は、「土地博(ひろ)く人・物産多し」という言葉から「博多」、大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」、海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」、射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」(鶴の墓は太宰府市の榎社にある)、切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」などの説がある。この当時の「博多」というのは現在の博多湾に面する一帯を指すものであった。…と記載されている。

「博」が表すところは、「土地博(ひろ)く人・物産多し」と解釈されている。「博」=「十+甫+寸」=「びっしりと平らに広がっている様」を表す文字である。真っ当に解釈されているのであるが、「多し」は?…記紀・續紀を通じて頻出の「多」=「山稜の端で三角形の地(州)がある様」と解釈した。博多=山稜の端の三角形の地がびっしりと平らに広がっているところと読み解ける。

「博多」の文字列は、初見ではなく、古事記で御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)の掖上博多山上陵に含まれている。葛城山(現在の福智山)の西麓の地形を表している。多禰阿麻彌(奄美)の表記は、山稜の端が広がり延びている様を表し、纏めて「博多」と名付けたのである。

「博多大津」は、遣唐使船が帰路に彷徨った海域に面する場所であり、その後に標識などを設置して万が一に備えたと記載されていた(こちら参照)。対西海の要害の地が、「筑紫大津」から筑紫南海の地に移ったことを伝えているように思われる。しかしながら、大宰府が進言するように、まだまだ十分な防備を整えられてはいなかったのであろう。

五月甲戌。勅曰。朕以煢昧。欽承聖烈。母臨六合。子育兆民。見一物之或違。恨尭心之未洽。聞萬方之有罪。想湯責而多愧。而今大乱已平。逆臣遠竄。然猶天災屡見。水異頻臻。竊恐。聽易隔於黎元。人含寃枉。鑒難周於宇宙。家懷鬱憂。庶欲博採嘉言。傍詢妙畧。憑衆智而益國。據群明以利人。宜令百官五位已上。緇徒師位已上。悉書意見。密封奉表。直言正對。勿有隱諱。朕与宰相。審簡可否。不須詐稱聖徳。苟媚取容。面弗肯陳。退遺後毀。普告遐邇。知朕意焉。」又勅曰。頃聞。至于三冬間。市邊多餓人。尋問其由。皆云。諸國調脚不得還郷。或因病憂苦。或无粮飢寒。朕竊念茲。情深矜愍。宜隨國大小。割出公廨。以爲常平倉。逐時貴賎。糴糶取利。普救還脚飢苦。非直霑外國民。兼調京中穀價。其東海。東山。北陸三道。左平凖署掌之。山陰。山陽。南海。西海四道。右平凖署掌之。庚辰。先是。僧善神殉心以縱姦惡。僧專住極口而詈宿徳。並擯佐渡。令其悔過。而戻性不悛。醜聲滋彰。至是。還俗從之差科。壬午。以正五位下大伴宿祢犬養爲左中弁。從五位下布勢朝臣人主爲右少弁。從五位下阿部朝臣毛人爲文部少輔。從五位下大伴宿祢御依爲仁部少輔。從五位下石川朝臣人成爲節部少輔。外從五位下馬史夷麻呂爲典藥頭。正五位上大和宿祢長岡爲左京大夫。從五位下佐味朝臣宮守爲亮。正五位上粟田朝臣奈勢麻呂爲右京大夫。從五位下阿部朝臣三縣爲亮。外從五位下山邊縣主小笠爲大和介。從五位上當麻眞人廣名爲河内介。從五位下大野朝臣廣主爲和泉守。從五位上石上朝臣宅嗣爲參河守。從五位下巨曾倍朝臣難波麻呂爲近江介。從五位下藤原惠美朝臣久須麻呂爲美濃守。從四位上藤原朝臣巨勢麻呂爲播磨守。從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂爲美作介。從五位下阿倍朝臣繼人爲備前介。外從五位下茨田宿祢牧野爲備中介。從五位下穗積朝臣小東人爲周防守。從五位上山村王爲紀伊守。從五位下縣犬養宿祢吉男爲肥前守。

五月九日に次ように勅されている・・・朕は惑いの多い愚かな身でありながら、恐れ多くも先祖のこの上なく立派な功業を受け継いで、天下に母として臨み、万民を子として育んでいる。道理に違っていることが一つでもあるのを見ると、尭(中国太古の伝説上の聖王)のような心が洽(あまね)く行き渡っていないことを恨みに思い、四方の國々で、犯罪があるのを聞くと、湯(殷の初代王とされる伝説上の聖君主)が自分の身を責めたことを想い起して、愧じることが多い。---≪続≫---

今、大乱(橘奈良麻呂の変)は既に平らげられ、逆臣達は遠くへ島流しにされた。しかしながら、天災がしばしば生じ、水害も頻りに起こっている。人民の声をよく聞こうとしても隔てられ易くて聞きにくく、無実の罪に陥っている者があるのではないか、広く世界を隅々までよく見ることが難しくて、家々には憂鬱な嘆きごとを抱いている者があるのではないかと、朕は密かに恐れている。---≪続≫---

その為、博くよい進言を採り入れ、よい策略をあまねく問い求め、衆知に憑(たよ)って、國の益を増し、多くの賢人の力で、人々の利を増そうと願っている。そこで百官の五位以上と、僧侶の師位以上の者は、全て意見を書き、密封して上表文として奉るようにせよ。朕に真っ向から直言し、隠したり忌み憚ったりしてはならない。朕と宰相が審らかに調べて可否を決める。---≪続≫---

詐って朕のことを聖徳の君と褒め称え、かりにも媚びて採用されるようにし、表面では批判めいたことを述べず、陰で後ろから悪口を言うことがあってはならない。これらのことを広く遠近に告示して、朕の気持ちを知れせるようにせよ・・・。

また、次のように勅されている・・・この頃、冬の期間になると、市の周辺には餓えている人が多いと聞く。そのわけを問いただすと、みな[諸國から調を運んで来た人夫だが、故郷に還ることができない]と言っている。ある者は病のために悩み苦しみ、ある者は食糧がなくて、飢えと寒さに苦しんでいる。朕は密かに彼等のこと念い、深く心に憐れんでいる。---≪続≫---

そこで國の大小に随って、公廨稲から一定量を供出させ、これで常平倉を造り、米の時価の高い安いに応じて、米の売出し、買入れを行い、利潤をあげて、その利で還ろうとする人夫の飢えと苦しみを普く救うようにせよ。これはただ畿外の國の民に恩恵を施すだけでなく、併せて京中の米穀の価格を調整する効果もあろう。東海・東山・北陸の三道の常平倉は左平準署(米価調整用に新設された役所)がこれを管掌せよ。山陰・山陽・南海・西海の四道は右平準署がこれを管掌せよ。

十五日、これより先に僧善神は心の動くまま悪事を勝手気ままに行った。また、僧専住は口を極めて徳を積んだ老僧を罵った。そこで二人とも佐渡の寺に移して、二人に過ちを悔い改めさせようとしたが、捻じ曲がった性格は改まらず、悪い評判が益々彰かになった。そこで還俗させて、納税させ労役に従わせている。

十七日に以下の人事を行っている。大伴宿祢犬養(三中に併記)を左中弁、布勢朝臣人主(首名に併記)を右少弁、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を文部少輔、大伴宿祢御依(三中に併記)を仁部少輔、石川朝臣人成を節部少輔、馬史夷麻呂(比奈麻呂)を典藥頭、大和宿祢長岡(大倭忌寸小東人)を左京大夫、佐味朝臣宮守を亮、粟田朝臣奈勢麻呂を右京大夫、阿部朝臣三縣(御縣)を亮、山邊縣主小笠(男笠)を大和介、當麻眞人廣名(東人に併記)を河内介、大野朝臣廣主(廣言)を和泉守、石上朝臣宅嗣を參河守、巨曾倍朝臣難波麻呂(陽麻呂に併記)を近江介、藤原惠美朝臣久須麻呂(藤原朝臣。眞從に併記)を美濃守、藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)を播磨守、縣犬養宿祢沙弥麻呂(佐美麻呂)を美作介、阿倍朝臣繼人を備前介、茨田宿祢牧野を備中介、穗積朝臣小東人を周防守、山村王を紀伊守、縣犬養宿祢吉男(須奈保に併記)を肥前守に任じている。

六月庚戌。帝御内安殿。喚諸司主典已上。詔曰。現神大八洲所知倭根子天皇詔旨〈止〉宣詔〈乎〉親王王臣百官人等天下公民衆聞食宣。比來太皇大后御命以〈氐〉朕〈尓〉語宣〈久〉。太政之始〈波〉人心未定在〈可波〉吾子爲〈氐〉皇太子〈止〉定〈氐〉先奉昇於君位畢〈氐〉諸意靜了〈奈牟〉後〈尓〉傍上〈乎波〉宣〈牟止〉爲〈氐奈母〉抑〈閇氐〉在〈ツ流〉。然今〈波〉君坐〈氐〉御宇事日月重〈奴〉。是以先考追皇〈止〉爲。親母大夫人〈止〉爲。兄弟姉妹親王〈止〉爲〈与止〉仰給〈夫〉貴〈岐〉御命〈乎〉頂受給〈利〉歡〈備〉貴〈美〉懼〈知〉恐〈利氐〉掛畏我皇聖太上天皇御所〈尓〉奏給〈倍波〉奏〈世止〉教宣〈久〉。朕一人〈乎〉昇賜〈比〉治賜〈部流〉厚恩〈乎母〉朕世〈尓波〉酬盡奉事難〈之〉。生子〈乃〉八十都岐〈尓自〉仕奉報〈倍久〉在〈良之止〉夜晝恐〈麻里〉侍〈乎〉。伊夜益〈須〉益〈尓〉朕私父母波良何良〈尓〉至〈麻氐尓〉可在状任〈止〉上賜〈比〉治賜〈夫〉事甚恐〈自〉。受賜事不得〈止〉奏〈世止〉宣〈夫〉。朕又念〈久〉。前聖武天皇〈乃〉皇太子定賜〈比氐〉天日嗣高御座〈乃〉坐〈尓〉昇賜物〈乎〉伊何〈尓可〉恐〈久〉私父母兄弟〈尓〉及事得〈牟〉甚恐〈自〉。進〈母〉不知退〈母〉不知〈止〉伊奈〈備〉奏。雖然多比重〈氐〉宣〈久〉。吾加久不申成〈奈波〉敢〈氐〉申人者不在。凡人子〈乃〉去禍蒙福〈麻久〉欲爲〈流〉事〈波〉爲親〈尓止奈利〉。此大福〈乎〉取々持〈氐〉親王〈尓〉送奉〈止〉教〈部〉宣〈夫〉御命〈乎〉受給〈利氐奈母〉加久爲〈流〉。故是以自今以後追皇舍人親王宜稱崇道盡敬皇帝當麻夫人稱大夫人兄弟姉妹悉稱親王〈止〉宣天皇御命衆聞食宣。辞別宣〈久〉。朕一人〈乃未也〉慶〈之岐〉貴〈岐〉御命受賜〈牟〉。卿等庶〈母〉共喜〈牟止〉爲〈弖奈母〉一二治賜〈倍岐〉家家門門人等〈尓〉冠位上賜〈比〉治賜〈久止〉宣天皇御命衆聞食宣。又御命坐〈世〉宣〈久〉。大保〈乎波〉多他〈仁〉卿〈止能味波〉不念。朕父〈止〉復藤原伊良豆賣〈乎波〉婆々〈止奈母〉念。是以治賜〈武等〉勅〈倍止〉遍重〈天〉辞〈備〉申〈尓〉依〈天〉默在〈牟止〉爲〈礼止毛〉止事不得然此家〈乃〉子〈止毛波〉朕波良何良〈仁〉在物〈乎夜〉親王〈多知〉治賜〈夫〉日〈仁〉治不賜在〈牟止〉爲〈弖奈母〉汝〈仁〉冠位上賜治賜〈夫〉。又此家自〈久母〉藤原〈乃〉卿等〈乎波〉掛畏聖天皇御世重〈弖〉於母自〈岐〉人〈乃〉自門〈波〉慈賜〈比〉上賜來〈流〉家〈奈利〉。今又无過仕奉人〈乎波〉慈賜〈比〉治賜〈比〉不忘賜〈之止〉宣天皇御命衆聞食宣。」從三位船王。池田王並授三品。正四位上諱從三位。從五位下御方王。御使王。无位林王。笠王。宗形王並從四位下。從五位下河内王從五位上。正四位下紀朝臣飯麻呂。藤原朝臣眞楯並正四位上。從四位上藤原朝臣巨勢麻呂正四位下。從四位下藤原朝臣御楯從四位上。正五位下阿倍朝臣嶋麻呂。大伴宿祢犬養。石川朝臣名人。正六位上岡眞人和氣。從五位下仲眞人石伴。從五位上藤原惠美朝臣眞光。從五位下藤原惠美朝臣久須麻呂並從四位下。正五位下中臣朝臣清麻呂。從五位上藤原朝臣魚名並正五位上。從五位下藤原惠美朝臣朝狩正五位下。從五位下都努朝臣道守。阿倍朝臣毛人。大伴宿祢御依。豊野眞人出雲並從五位上。正六位上三嶋眞人廬原。阿倍朝臣許智。藤原朝臣雄田麻呂。藤原惠美朝臣小弓麻呂。藤原惠美朝臣薩雄。橘宿祢綿裳並從五位下。從四位下室女王。飛鳥田女王並四品。從五位下弓削女王。无位川邊女王。加豆良女王。從五位下藤原惠美朝臣兒從並從四位下。」以從四位上藤原朝臣御楯任參議。壬子。令大宰府造行軍式。以將伐新羅也。丙辰。勅。如聞。治國之要。不如簡人。簡人任能。民安國富。竊見内外官人景迹。曾无廉耻。志在貪盜。是宰相訓導之怠。非爲人皆禀愚性。宜加誘誨各立令名。其維城典訓者。叙爲政之規模。著修身之検括。律令格式者。録當今之要務。具庶官之紀綱。並是窮安上治民之道。盡濟世弼化之宜。其濫不殺生。能矜貧苦爲仁。斷諸邪惡修諸善行爲義。事上盡忠撫下有慈爲礼。遍知庶事斷决是非爲智。与物不妄觸事皆正爲信。非分希福不義欲物爲貪。心无辨了強逼惱人爲嗔。事不合理好是自愚爲癡。不愛己妻喜犯他女爲婬。人所不与公取竊取爲盜。父兄不誠。斯何以導子弟。官吏不行。此何以教士民。若有修習仁義礼智信之善。戒愼貪嗔癡淫盜之惡。兼讀前二色書者。擧而察之。隨品昇進。自今以後。除此色外。不得任用。史生已上。庶令懲惡勸善重名輕物。普告天下。知朕意焉。是日。百官及師位僧等。奉去五月九日勅。各上封事。以陳得失。正三位中納言兼文部卿神祇伯勳十二等石川朝臣年足奏曰。臣聞治官之本。要據律令。爲政之宗。則須格式。方今科條之禁。雖著篇簡。別式之文。未有制作。伏乞作別式。与律令並行。」參議從三位出雲守文室眞人智努及少僧都慈訓奏。伏見。天下諸寺。毎年正月悔過。稍乖聖願。終非功徳。何者。修行護國僧尼之道。而今或曾不入寺。計官供於七日。或貪規兼得。着空名於兩處。由斯。譏及三寳。无益施主。伏願。自今以後。停官布施。令彼貪僧无所希望。」參議從三位氷上眞人塩燒奏。臣伏見三世王已下給春秋祿者。是矜王親。而今計上日。不異臣姓。伏乞。依令優給勿求上日。」播磨大掾正六位上山田連古麻呂奏。臣竊見。正丁百姓或生五男已上。其年並登廿已上。乃輸庸調父子倶從課役。臣謂。合有優矜。伏乞。庶民生丁男五口已上者。免其課役。」並付所司施行。其緇侶意見。略據漢風。施於我俗。事多不穩。雖下官符。不行於世。故不具載。

六月十六日に内安殿に出御されて、諸司の主典以上の官人を喚んで次のように詔されている(以下宣命体)・・・現つ神として大八洲を統治する倭根子天皇の詔旨として仰せになる御言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人達、及び天下の公民は、みな承れと申し渡す。このごろ太上皇太后(光明皇太后)の御言葉として朕に仰せなるには、[国家の政治をみるようになった初めのころは、人心が安定していなかったから、そなたを皇太子と定めて、まず君の位にお上げ申し、それから諸人の心が静まりきった後に、その他のことについて仰せつけようと考え、今まで抑えていた。しかしながら今では天皇として天下を治められることに日月が重なってきた。---≪続≫---

そこで亡くなられた父上に天皇の号を追贈し、母上を大夫人とし、兄弟姉妹を親王とするように]と仰せになられた。この貴い御言葉を頭上に受け頂いて、歓び貴んで恐れおののき、口に出して言うのも恐れ多い私の大君であられる聖の太上天皇(孝謙)の御所に奏上すると、次のように光明皇太后に奏上するようにと、教え下さって、仰せになった[朕一人を天皇の位にお上げ下さった厚い御恩を朕の世で酬い尽くすことは困難で、子孫が次々にお仕え申し上げて、御恩に報いることができるであろうと夜も昼も畏まっているのに、更にその上に朕の実の父母(舎人親王と當麻夫人)や兄弟姉妹に至るまで、あるべき状態の通りに位を上げて下さることは、大変恐れ多いことである。お受けすることはできない]。---≪続≫---

朕もまた思うには[さきの聖武天皇の皇太子と定め頂いて、天つ日嗣高御座の位に昇らせて頂いた後に、どうして恐れ多くも実の父母兄弟にまで、その恩恵が及んでよいものか。まことに恐れ多いことである。どのように進退してよいかわからない]と辞退申し上げた。しかしながら度重なって光明皇太后が仰せられには、[私がこのように言わなくなったら、押して言う人はほかにいないであろう。いったい人の子が禍を除去し、幸福を蒙りたく思うのは、親のためにあるということである。天皇となった大いなる幸福を取り上げまとめて、それを舎人親王にお贈り申し上げよ]と教え諭される御言葉を承って、次のようにする。そこで、これからは舎人親王に天皇の称号をお贈りして、崇道尽敬皇帝と称し、當麻夫人を大夫人と称し、兄弟姉妹を全て親王と称するようにせよ、と仰せなる天皇の御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

言葉を改めて次のように仰せになっている・・・朕一人が慶ばしい貴い御言葉を承ってよかろうか。卿等もみな、共に喜ぶようにと考えて、一人二人の優遇をすべき家柄の人々について、冠位を上げようと仰せなる天皇の御言葉を、みな承れと申し渡す・・・。

また、次のような御言葉を仰せになっている・・・大保(藤原恵美押勝)をただの臣下とは思わず、朕の父と思うし、また藤原郎女(押勝の妻、藤原朝臣袁比良)を母と思う。そこでそれに相応しい優遇しようと言ったが、度重ねて辞退するので、そのままにしておこうとしたけれど、やはりそれでは気が済まない。さて、この家の子供達は、朕の兄弟となるのに、舎人親王の子を親王として優遇している今日、どうして優遇しないすもうかと思い、汝達(押勝の子)に冠位を上げるように処置する。---≪続≫---

また、「押勝」の家と同様に藤原氏の人々は、申すも恐れ多い聖の天皇の御世々々、何代にもわたり需要な人を出した家門として、おめぐみなさり、位階をお上げになって来た家である。今また、この「押勝」の家のように、過ちなく仕えている人々にめぐみをかけ、優遇し、忘れないであろうと仰せになる天皇の御言葉をみな承れと申し渡す・・・。

船王池田王に三品、諱(白壁王)に從三位、御方王(三形王)・御使王(三使王)・「林王・笠王・宗形王」に從四位下、「河内王」(河内女王近隣)に從五位上、紀朝臣飯麻呂藤原朝臣眞楯(鳥養に併記)に正四位上、藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)に正四位下、藤原朝臣御楯(千尋)に從四位上、阿倍朝臣嶋麻呂大伴宿祢犬養(三中に併記)石川朝臣名人(枚夫に併記)岡眞人和氣(和氣王)・仲眞人石伴(石津王、藤原仲麻呂の養子)・藤原惠美朝臣眞光・藤原惠美朝臣久須麻呂(眞從に併記)に從四位下、中臣朝臣清麻呂(東人に併記)藤原朝臣魚名(鳥養に併記)に正五位上、藤原惠美朝臣朝狩(朝獵。薩雄に併記)に正五位下、都努朝臣道守(角朝臣)・阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)大伴宿祢御依(三中に併記)・豊野眞人出雲に從五位上、三嶋眞人廬原(廬原王)阿倍朝臣許智(駿河に併記)・藤原朝臣雄田麻呂藤原惠美朝臣小弓(湯)麻呂・藤原惠美朝臣薩雄橘宿祢綿裳(橘朝臣から廣岡朝臣に改氏姓、その後元に戻された)に從五位下、室女王・飛鳥田女王に四品、弓削女王(和氣王に併記)・「川邊女王・加豆良女王」・藤原惠美朝臣兒從(眞從に併記)に從四位下を授けている。この日、藤原朝臣御楯を参議に任じている。

十八日に大宰府に『行軍式』(軍事行動に関する規定)を作らせている。新羅を伐とうとするためである。

二十二日に次ように勅されている・・・聞くところによると、[国を治める要は人材を簡(えら)ぶのがなによりである。人材を簡んで、その才能に任せれば、民は安心し、国は富み栄える]と言う。密かに中央・地方の官人の行いを見ると、今まで恥を知る気持ちがなく、欲張って人の物でも盗み取ろうという気持ちをもっている。これは大臣等が役人達を教え導くことを怠っているからである。人がみな愚かな性格を生まれながらにもっているからではない。よく導き教えて、各々がよい評判を立てるようにさせよ。---≪続≫---

いったい『維城典訓』という書物は、政治を行う手本を述べ、我が身の行いを慎むための決まりを明らかにしたものであり、また、律・令・格・式は現在の大切なつとめを記録し、一般官人の従うべき法令・規則を具備したものである。これらは並びに政府を安定させ民を治める道を究めており、世を救い、君主の教化を助けるのに宜いことを尽くしている。---≪続≫---

そもそも濫りに殺生せず、よく貧苦の民を哀れんで恵むのが仁であり、諸々の邪悪を断ち諸々の善行を行うのが義である。また、上に事(つか)えて忠を尽くし、下々のめぐみを育てて慈しむのが礼であり、あまねく様々の事を知って、事の是非を判断し決定するのが智であり、物に関与して心を乱さず、事に触れて正しく対応するのが信である。それに対して分不相応に福を願い、道理に背くのに物を欲することが貪であり、わきまえ悟る心がなく強引に他人を追い詰め悩ますことが嗔(怒)である。行う事が理に叶わず、自分の愚かな行いを是とすることを好むのが痴(おろか)であり、自分の妻を愛さずに、他の女を犯すことを喜ぶことが婬であり、人が与えもしないものを、公然と取ったり、こっそりと取るのが盗である。---≪続≫---

手本となるべき父や兄が誠実でなければ、どのようにして子や弟を導くことができようか。官人や地方役人が正しいことを行わなければ、どうして下級役人や人民を教えることができようか。もし仁・義・礼・智・信という善を修め習い、貪・嗔・痴・婬・盗という悪を戒め慎んで、あわせて前の二種の書を読む者があれば、推挙させてよく観察し、程度に随って官位を昇進させよう。今後このような種類の人以外は、史生以上の官に任用してはならない。請い願うことは、悪を懲らしめ善を勧め、名を重んじ物を軽んずることである。このことを広く天下に告げて、朕の意向を知らせるように・・・。

この日、百官及び師位の位の僧等が、去る五月九日の勅に従って各々封事を奉り政治の得失を陳べている。中納言兼文部(式部)卿・神祇伯・勲二等の石川朝臣年足は[政府を治める根本は必ず律令に準拠し、政治をなす大本は格式を用いる、と臣は聞いている。只今は律令に禁じるところは成文化されているが、『別式』の条文はまだ制作されていない。そのため、それを作り、律令と共に並んで施行するようにして頂きたく、伏して乞うものである]と奏上している。

参議で出雲守の文室眞人智努及び少僧都「慈訓」(天平勝寶八[756]歳五月に二大德の一人と記されている)は[恐れ多くも我々が見るところでは、天下の諸寺は毎年正月に吉祥悔過を行っているが、それは次第に仏の本願に背いて、結局は功徳ではなくなっている。なぜならば護国を修行することは僧尼の道である。ところが今では寺に入ったこともないのに吉祥悔過の七日間に官から賜る供物を得ようと画策し、あるいは官からの供物を二倍得ようとして、虚偽の名前を両方の寺院に登録する僧がいる。これによって非難が仏・法・僧の三宝にまで及び、施主(天皇)の益にもならない。今後は官からの布施を止めて、これらの貪欲な僧等の邪悪な望みをなくさせるように、伏してお願い申し上げる]と奏している。

参議の氷上眞人塩燒(参議就任はこの時点より後)は[臣が恐れ多くも見ているところでは、天皇から数えて三世の王以下に春と秋の禄を支給するのは、皇族を優遇するためである。しかしながら現在は一般の臣下と同じように出勤日数を計って禄を支給している。禄令の規定通り優遇の意味で支給し、一定の出勤日数の充足を要求しないように、伏してお願い申し上げる]と奏している。

播磨大掾の「山田連古麻呂」は[臣が密かに見るところでは、正丁の人民(二十~六十歳以下)がもし五人以上の男子を生んだとしても、子の年齢がそれぞれ二十歳以上になれば直ちに庸・調を納めさせ、父子が共に課役を負担させることになる。臣が思うに、その場合は憐れみをかけて優遇すべきである。庶民が正丁五人以上生んだ場合は、その課役を免除するよう、伏してお願い申し上げる]と奏している。

これらの奏上の通りに担当の官司に付託して施行させている。ただ僧侶の意見は大略中国のやり方に拠っており、我が国の社会で実施するには不適当な事が多い。官符を下したけれども実際には行われなかったので、詳細は載せていない。

<林王・笠王・宗形王・川邊女王・加豆良女王>
● 林王・笠王・宗形王・川邊女王・加豆良女王

淳仁天皇(大炊王)の父親、舎人親王が天皇の扱いとなったことから、一気にその孫までの叙位が行われたようである。

いや、真に目出度いことなのであるが、加えて登場人物の出自の場所も明瞭になって来ると言う、恩恵を授かった、と思われる。

林王は、別人として既出であるが(こちら参照)、今回は舎人親王の孫である。調べると三嶋王の子達に含まれていることが分かった。川邉女王加豆良女王が妹となる。林=木+木=山稜が小高くなって並んでいる様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。

片方の「木」は、「加豆良女王」の「豆」=「小高くなっている様」と共用しているが、もう一方は、国土地理院航空写真1974~8を参照すると、その地形を確認することができる。既出の文字列である加豆良=押し開くような小高い地の傍らでなだらかになっているところと読み解ける。川邉女王は、金辺川沿いの場所であろう。

笠王は、守部王の子と知られている。頻出の笠=笠のように三角の形をした様と解釈したが、図に示した山稜の端がその地形を示していたかもしれない。おそらく、少し見方を変えて、図に示した山稜の端が笠のように広がっている様を捩ったのではなかろうか。

宗形王の系譜は不詳のようであるが、宗形=山稜に囲まれた高台(宗)が四角く区切られている(形)様と解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。その配置からすると岸野王の子であったのではなかろうか。

<山田連古麻呂-銀-公足>
● 山田連古麻呂

山田史は既出であるが、「山田連」は記紀・續紀を通じて初見である。播磨大掾の職位から、おそらく地元播磨に出自を持つ人物であったと推測される。

すると、前出の宇自賀臣山道及び韓鍛冶百依の奥の谷間(現地名築上郡築上町小山田)を示しているのではなかろうか。これで古事記が記載する針間牛鹿臣の谷間全体に登場人物が広がったことになる。

山田は、上記の「山田史」も含めて「山田郡」の名称も登場していた。讚吉國山田郡及び尾張國山田郡が書紀が記載している。山深い谷間が平らに整えられた地形を表していると解釈される。古麻呂は、図に示したように谷間の最奥にある古=丸く小高くなった様の麓が出自と推定される。

初見の「山田連」は、この後に幾度か記載され、山田連銀山田連公足が登場する。詳細はご登場の時に述べるが、併せて上図に出自場所を記載した。上記の奏上が注目されたのであろう、後に「古麻呂」は外従五位下を叙爵、中央官司に任じられたり、また「公足」等は宿祢姓を賜ったと記載されている。