2022年10月5日水曜日

廢帝:淳仁天皇(3) 〔607〕

廢帝:淳仁天皇(3)


天平字二年(西暦758年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

九月壬申。西海道問民苦使從五位下藤原朝臣楓麻呂等採訪民之疾苦廿九件。勅大宰府隨事處分。丁丑。先是。國司交替。未有程期。仍令明法博士論定。明法曹司言。遷任國司。向京期限。依倉庫令。倉藏及文案孔目。專當官人交替之日。並相分付。然後放還。但今。令條雖立分付之文。律内無科淹滯之罪。因茲。新任國司。不勤受領。得替官人規延歳月。遂使踰年隔考。還到居官。於事商量。甚乖道理。謹案選叙令云。凡職事官。患經百廿日不愈者解官者。准是而論。官符到後。百廿日内。付了歸京。若應過限者。申官請裁。違此停留灼然合解。就中。欠負官倉。留連不付者。論實是罪人也。知情許容。限内无領者。准法是同罪也。何者。職制律云。凡有所請求。主司許者与同罪。據此而言。舊人規求延日者。所謂請求也。新司受囑聽容。所謂主司也。新舊兩人。並皆有罪。若此之輩。同合解官。但實无欠負。拘令解官者。原情可責。罪在新人。准律。以故入人罪論者。自茲以後。爲例行之。」常陸國鹿嶋神奴二百十八人便爲神戸。己夘。右京人正六位上辛男床等一十六人賜姓廣田連。丁亥。小野朝臣田守等至自渤海。渤海大使輔國大將軍兼將軍行木底州刺史兼兵署少正開國公揚承慶已下廿三人。隨田守來朝。便於越前國安置。丁酉。始頒越前。越中。佐渡。出雲。石見。伊豫等六國飛驛鈴。國一口。

九月三日に西海道問民苦使の藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)等が人民の悩み苦しむところ二十九件を採訪したので、大宰府に勅して事情に応じて処理させている。

八日、これより以前、新旧國司の交代については、その期限が決められていなかった。そこで明法博士に命じて議論させ決定している。明法関係の役人達が以下のように言上している・・・転任した國司が京に向かう期限については、倉庫令によると[倉・蔵と公文書の控えと目録は、担当の役人が交代する日、両者をお互いが引継ぎ、その後に前任者は帰ることができる]。---≪続≫---

しかし今、令の条文には引継ぎするという文言があるが、律には延滞した場合の罰則が規定されていない。これによって、新任の國司は事務の引継ぎを受けようとせず、交代する前任の役人は意図的に歳月を延ばし、ついに年を越え勤務評定の年度も越えてそのまま帰京し、新たな官職に就いてしまう。事情に則して考えてみると、これは非常に道理に背いている。謹んで選叙令を調べてみると、[すべて職事官については、病気を患って百二十日を経、それでも治癒しない者は官職を解く]となっている。---≪続≫---

これに準じて論ずるならば、交代を命じる太政官符が到着した後、百二十日以内に引継ぎを終わって帰京せよ。もしこの期限を過ぎる場合は、太政官に申請して裁可を請うようにせよ。これに違反して延滞していることが明白ならば、解任すべきである。とりわけ官倉に納入すべき租税を未納のまま補填せず、延び延びにして引継ぎを行わない者は、実態からいえば、犯罪人である。事情を知りながらこれを許し、期限内に交代書類の受け取りをしなかった後任國司は、法に従えば同罪である。---≪続≫---

何故ならば、職制律に[すべて法を曲げるよう請求するところがあって、主司(担当の役人)が許可したならば、ともに同罪とする]とある。これによって言うならば、前任者が意図的に求めて交代の期限を引延ばすことは、<請求>に相当する。新任國司が請託を受けて承諾したならば、<主司>に相当する。新旧両人ともに罪がある。このような輩は同じように解任すべきである。---≪続≫---

しかし現実に引継ぐ財物に不足はないが、令の規定(百二十日以内)に抵触して、解任された前任者については、事情を調べて責任の程度を明らかにすべきである。罪が新任官の方にあれば、律の規定に従って、故意に人を陥れる罪を当て嵌めよ。今後はこれを例として施行せよ・・・。

この日、常陸國の「鹿嶋神社」(常陸國鹿嶋郡)の神奴二百十八人を賤の身分から神戸としている。

十日に右京人の辛男床(既に外従五位下を叙爵)等十六人に「廣田連」の氏姓を与えている。十八日に小野朝臣田守(綱手に併記)等が渤海より帰っている。渤海大使の輔國大将兼将軍行木底州刺史兼兵署少正・開國公の揚承慶以下二十三人が「田守」に随行して来朝し、越前國に滞在させている。

二十八日に初めて越前・越中・佐渡・出雲・石見・伊豫など六ヶ國に飛駅の鈴を、それぞれ一個頒布している。

冬十月甲子。勅。如聞。吏者民之本也。數遷易。則民不安居。久積習。則民知所從。是以。服其徳而從其化。安其業而信其令。頃年。國司交替。皆以四年爲限。斯則適足勞民。未可以化。孔子曰。如有用我。三年有成。夫以大聖之徳。猶須三年。而况中人乎。古者。三載考績。三考黜陟。所以表善簡惡盡臣力者也。自今以後。宜以六歳爲限。省送故迎新之費。其毎至三年。遣巡察使。推検政迹。慰問民憂。待滿兩廻。隨状黜陟。庶令移易貪俗。悉變清風。黎元息肩。倉廩有實。普告遐邇。知朕意焉。」又勅。諸國史生遷易。依格待滿六年者。望人既多。任所良少。由此。或有至於白頭不得一任。空歸故郷潜抱怨歎。自今以後。宜以四歳爲限。遍及群人。」發陸奥國浮浪人。造桃生城。既而復其調庸。便即占着。又浮宕之徒貫爲柵戸。丁夘。授遣渤海大使從五位下小野朝臣田守從五位上。副使正六位下高橋朝臣老麻呂從五位下。其餘六十六人各有差。」美濃國席田郡大領外正七位上子人。中衛无位吾志等言。子人等六世祖父乎留和斯知。自賀羅國慕化來朝。當時未練風俗。不著姓字。望隨國号。蒙賜姓字。賜姓賀羅造。

十月二十五日に次のように勅されている・・・聞くところによれば、官吏は人民統治の根本である。しばしば転任するとすれば、人民は送迎におわれて安堵できない。久しく在任しておれば、人民は従うようになる。であるから徳に感服して、その指導に従うわけであるし、その生業に安んじて、命令を信用するものなのである。此の頃國司の交代は、全て四年をもって期限としているが、これではまさに人民を労するばかりで、まだ指導することはできない。孔子は[もし私を登用することがあれば、三年にして事業を成就させるだろう]と言われた。大聖人の徳をもってしても、なお三年は必要であるのに、まして普通の人間であればどうであろうか。---≪続≫---

昔は三年で成績を評定し、九年で官位の昇降を決めていた。善を表彰し悪を摘出して、臣下の力量を発揮させるためである。今後は、六年をもって國司の任期とし、前任官をあ送り新任官を迎える経費を省くべきである。三年を経過するごとに巡察使を派遣し、治績を調査し人民の心配を慰問させよ。二回の巡察の結果をみて、事情によって官位の昇降を決定せよ。貪婪な風俗を改めて悉く清新な気風に変え、人民の負担を緩和して倉庫は充満していることを希望する。広く天下に布告して朕の意向を知らせるようにせよ・・・。

また、次のように勅されている・・・諸國の史生の交代は、格によると六年が満了するのを待って行うとある。しかし希望者が多いのに任ぜられる部署は本当に少ない。そのため、あるいは頭髪が白くなるまで一度も任命されずに空しく故郷に帰り、密かに怨みを抱く者がいる。今後は四年をもって任期とし、広く多くの者が任命されるようにせよ・・・。

陸奥國の浮浪人を徴発して桃生城を造営させている。徴発された浮浪人には、その調・庸を免除してあるので、直ちにそのまま桃生の地に定住させ、また、浮浪の徒は戸籍に編付して柵戸としている。

二十八日に渤海大使の小野朝臣田守に従五位上、副使の「高橋朝臣老麻呂」に従五位下を、その他の六十六人にもそれぞれ功労に応じて官位を授けている。この日、美濃國席田郡の大領の「子人」、中衛の「吾志」等が[子人等の六世の祖父である「乎留和斯知」は賀羅國(加羅國)から天皇の徳化を慕って来朝したものである。当時はまだ風俗に馴染まず、姓の字を付けていなかった。どうか國号に従って姓の字を賜りますように]と言上している。「賀羅造」の氏姓を与えている。

<高橋朝臣老麻呂>
● 高橋朝臣老麻呂

途切れることなく人材輩出の「高橋朝臣」一族であるが、本人物の系譜は不詳のようである。出自の場所は、埋め尽くされた感があるが、名前に従って求めてみよう。

直近では子老・人足(國足に併記、共に系譜不詳)が登場していたが、図が極めて煩雑になるので、あらためて示すことにした。

頻出の老=海老のように曲がっている様であり、麻呂=萬呂と解釈すると、図に示した場所が見出せる。「摩漏」の西隣に当たる。後に「子老」と共に大膳・内膳職に任じられているが、祖先が「膳臣」だったからではなかろう。

<子人-吾志(賀羅造)>
● 子人・吾志(賀羅造)

「美濃國席田郡」は、元明天皇紀に「席田君邇近」等新羅人七十四家を移住させて、その時に席田郡を建郡した、と記載されていた(こちら参照)。

現地名は北九州市小倉南区西貫・田原と推定した。その大部分はゴルフ場となっているが、「席田君」の場所は、辛うじて地形を判別可能であった。

今回登場の人物の出自を求めるに際しては、現在の地形図では全く判別不可であり、国土地理院航空写真を参照するのだが、通常の1961~9年では、既に開発が進んでおり、幸運にも1945~50年の写真を用いることができた。

既出の文字列である子人=延び出た山稜の先に谷間があるところ吾志=蛇行する川が交差しているところと解釈すると、図に示した場所が彼等の出自であることが解る。賜った賀羅造の氏姓は、賀羅=押し開かれた谷間が連なっているところと解釈すると、彼等の居処の地形を表していることが解る。勿論、加羅(伽耶とも)に因む名称となっている。

<乎留和斯知>
● 乎留和斯知

「賀羅造子人・吾志」の祖先が天皇の徳化を慕って来朝したと述べている。賀羅(加羅・伽耶)の周辺地域は、古事記の大國主神の後裔が蔓延った地であった(こちら参照)。

出雲で行き場を失った後裔達は、あろうことか壱岐に舞い戻り、更に比比羅木(新羅)の地へと遡って行ったのである。そして、最後は再び壱岐、元の場所ではなく、その西北部へと系譜が流れて行ったと記載されている(こちら参照)。

倭建命が賜った”比比羅木之八尋矛”は、新羅で作られた先進の鉄製武器だったわけで、決して柊(ヒイラギ)の木製ではなかったのである。東の脅威を征伐させるのに木製武器を与えて、どうするのであろうか。神懸かりの木、都合の良い時に神を持ち出すのである。

余談ぽくなってので、元に戻して、既出の文字である乎=口を開いて息を吐き出すように谷間が延びている様留=卯+田=隙間を押し開く様和=しなやかに曲がっている様斯=其+斤=切り分けられた様知=矢+口=鏃のような様と解釈した。その地形が図に示した場所に見出せる。現地名は、韓国慶尚南道金海市外洞辺りと思われる。

十一月辛夘。御乾政官院。行大甞之事。丹波國爲由機。播磨國爲須岐。癸巳。御閤門宴於五位已上。賜祿有差。甲午。饗内外諸司主典已上於朝堂。賜主典已上番上。及學生等六千六百七十餘人布綿有差。其明經。文章。明法。音。算。醫。針。陰陽。天文。暦。勤公。勤産。工巧。打射等五十七人賜絲人十絇。文人上詩者。更益十絇。辛未。神祇官人及由機須岐兩國國郡司等。並加位階。并賜祿有差。授播磨介從五位下上毛野公廣濱從五位上。丹波守外從五位下大藏忌寸麻呂從五位下。

十一月二十三日に乾政官(太政官)のある一郭に出御され、大嘗祭の神事を執り行っている。丹波國を由機、播磨國を須岐としている。二十五日に閤門(大極殿の前)に出御されて、五位以上の官人と宴を催し、それぞれに禄を与えている。

二十六日に内外の諸官司の主典以上を朝堂院に集めて、饗宴を催している。主典以上と、番上官(下級官職)、学生等六千六百七十余人に麻布・真綿をそれぞれに与えている。明経・文章・明法、音・算、医・針、陰陽・天文・暦に通じている者、公事に勤しむ者・産業に勤しむ者、工芸・技術に巧みな者、打毬や弓射に巧みな者等五十七人には、それぞれ絹糸十絇を、更に文人で詩を奉った者には、絹糸十絇を増して与えている。

二十七日に神祇官の官人と由機・須岐両國の國司・郡司等には、いずれも位階を加え、更に地位に応じて禄を与えている。播磨介の上毛野公廣濱(田邊史廣濱。史部虫麻呂に併記)に従五位上を、丹波守の大藏忌寸麻呂に従五位下を授けている。

十二月丙午。徴發坂東騎兵。鎭兵。役夫。及夷俘等。造桃生城小勝柵。五道倶入。並就功役。毀從四位下矢代女王位記。以被幸先帝而改志也。戊申。遣渤海使小野朝臣田守等奏唐國消息曰。天寳十四載歳次乙未十一月九日。御史大夫兼范陽節度使安祿山反。擧兵作乱。自稱大燕聖武皇帝。改范陽作靈武郡。其宅爲潛龍宮。年号聖武。留其子安卿緒。知范陽郡事。自將精兵廿餘万騎。啓行南往。十二月。直入洛陽。署置百官。天子遣安西節度使哥舒翰。將卅万衆。守潼津關。使大將軍封常清。將十五万衆。別圍洛陽。天寳十五載。祿山遣將軍孫孝哲等。帥二万騎攻潼津關。哥舒翰壞潼津岸。以墜黄河。絶其通路而還。孝哲鑿山開路。引兵入至于新豊。六月六日。天子遜于劔南。七月甲子。皇太子與即皇帝位于靈武郡都督府。改元爲至徳元載。己夘。天子至于益州。平盧留後事徐歸道。遣果毅都尉行柳城縣兼四府經畧判官張元澗。來聘渤海。且徴兵馬曰。今載十月。當撃祿山。王須發騎四万。來援平賊。渤海疑其有異心。且留未歸。十二月丙午。徐歸道果鴆劉正臣于北平。潛通祿山。幽州節度使史思明謀撃天子。安東都護王玄志仍知其謀。帥精兵六千餘人。打破柳城斬徐歸道。自稱權知平盧節度。進鎭北平。至徳三載四月。王玄志遣將軍王進義。來聘渤海。且通國故曰。天子歸于西京。迎太上天皇于蜀。居于別宮。弥滅賊徒。故遣下臣來告命矣。渤海王爲其事難信。且留進義遣使詳問。行人未至。事未至可知。其唐王賜渤海國王勅書一卷。亦副状進。於是。勅大宰府曰。安祿山者。是狂胡狡竪也。違天起逆。事必不利。疑是不能計西。還更掠於海東。古人曰。蜂蠍猶毒。何况人乎。其府帥船王。及大貳吉備朝臣眞備。倶是碩學。名顯當代。簡在朕心。委以重任。宜知此状。預設奇謀。縱使不來。儲備無悔。其所謀上策。及應備雜事。一一具録報來。癸丑。左京人廣野王賜姓池上眞人。壬戌。渤海使揚承慶等入京。丙寅。以式部散位四百人。蔭子位子留省資人共二百人。兵部散位二百人。爲定額与考。自餘額外情願輸錢續勞者。一依前格處分。

十二月八日に坂東の騎兵・鎮兵・役夫と、帰順した蝦夷等を徴発して、桃生城小勝柵を造営している。五道の諸國がみな参加して、ともに工事を完成している。この日、矢代女王の位記を破毀している。先帝の寵愛を受けながら、忠誠の心を裏切ったからである。

十日、遣渤海使の小野朝臣田守等が唐國情勢について以下のように奏上している・・・天寶十四歳(天平勝寶七[755]年)乙未の年の十一月九日、御史大夫兼范陽節度使の安禄山が謀反を起こした。挙兵して反乱をなし、自ら大燕聖武皇帝と称し、范陽を霊武郡と改め、その邸宅を潜竜宮とし、年号を聖武と制定した。---≪続≫---

子の安卿緒を駐留させて知范陽郡事に任じ、自身は精兵二十万余騎を率いて南行し、十二月には直接洛陽に入り、新政府の百官を設置した。天子(玄宗皇帝)は安西節度使の哥舒翰を派遣し、三十万の軍勢を率いて潼津關を守備させた。また、大将軍の封常清には十五万の軍勢をつけて、洛陽を包囲させた。---≪続≫---

天寶十五歳(756年)には、禄山は将軍の孫孝哲等を派遣し、二万騎を率いて潼津關を攻撃させた。哥舒翰は の岸壁を破壊して黄河に落とし、孝哲等の通路を遮断し、引返した。孝哲は山塊を開削して道路を開き、軍兵を引き連れて新豊に到着した。六月六日、天子は剣南の地(蜀)に難を避けた。---≪続≫---

七月六日、皇太子の璵(寿王)が霊武郡の都督府で帝位に就き(肅宗)、改元して至徳元載とした。二十一日、天子(肅宗)が益州に至った時、平慮留後事の徐帰道は、果毅都尉行柳城縣兼四府經畧判官の張元澗を使者として渤海を訪問させ、援軍の兵馬を徴発させて[今年十月、安禄山を攻撃しようとしているので、渤海王は騎兵四万を徴発し、援軍として賊徒を平定されたい]と言った。しかし渤海では徐帰道に謀反の心があるのではないかと疑い、しばらく使者を抑留したまま帰国させなかった。---≪続≫---

ところが十二月二十二日、徐帰道は果たして劉正臣を北平で毒殺し、密かに安禄山に内通した。続いて幽州節度使の史思明が謀反を起こし、天子を攻撃しようとした。安東都護の王玄志は、その謀反を知るや、精兵六千余人を率いて柳城を打ち破り、徐帰道を斬殺して自ら権知平慮節度と称し、進軍して北平を鎮定した。---≪続≫---

至德三歳(天平字二[758]年)四月、王玄志は将軍の王進義を使者として渤海を訪問させ、国交を通じさせようとして[天子は西京(長安)に帰還し、太上天皇(玄宗)を蜀より迎えて別宮におらせ、いよいよ臣下の私を派遣し、命令を告げさせている]と述べた。渤海王は進義の奏上する事に信は置き難いとして、しばらく進義を抑留したまま、使者を唐土に派遣して詳細を尋ねさせた。しかし、その使者がまだ帰って来ないため、事情を知ることができていない・・・。

「田守」は唐王からの渤海國王に賜った勅書一巻を報告書に副えて進上している。そこで大宰府に次のように勅されている・・・安禄山は狂暴な胡人(中国北方の未開地方の人)で狡猾な男である。天命に違って叛逆を起こしたが、事は必ず失敗するであろう。恐らくこのままでは西征の計画は不可能で、かえって海東を攻略に来るかもしれない。古人は[蜂と蠍にさえ毒がある]と言っている。どうして人間にないことがあろう]。---≪続≫---

大宰帥の船王と大弐の吉備朝臣眞備は共に碩学であって名声は当代に聞こえており、朕は二人を忠臣として心に選んで重い任務を委ねている。そこでこの状況を理解して、予め優れた策をたて、たとえ安禄山が攻めて来なくても、準備は怠ることのないようにせよ。立案した上策と防備に必要な雜物は、一つ一つ具体的に記録して報告せよ・・・。

十五日に左京の人、廣野王に池上眞人の氏姓を与えている。二十四日に渤海使の揚承慶等が入京している。二十八日に式部省の散位は四百人、蔭子・位子、省に在籍している資人は、合わせて二百人、兵部省の散位は二百人を定数とし、考課の対象とする。その他定数外で銭を納めて勤務したと同等の資格を保とうと希望する者は、全て前格によって処理するようにせよ。

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『續日本紀』巻廿一巻尾