2022年9月28日水曜日

廢帝:淳仁天皇(2) 〔606〕

廢帝:淳仁天皇(2)


天平字二年(西暦758年)八月(後半)の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

戊申。勅曰。子尊其考。礼家所稱。策書鴻名。古人所貴。昔者。先帝敬發洪誓。奉造盧舍那金銅大像。若有朕時不得造了。願於來世。改身猶作。既而鎔銅已成。塗金不足。天感至心之信終出勝寳之金。我國家於是初有奇珍。開闢已來。未聞若斯盛徳者也。加以。賊臣懷惡。潜結逆徒。謀危社稷。良日久矣。而畏威武。欽仰仁風。不敢競鋒。咸自馴服。可謂聖武之徳。比古有餘也。其不奉揚洪業。何以示於後世。敬依舊典。追上尊号。策稱勝寳感神聖武皇帝。謚稱天璽國押開豊櫻彦尊。欲使傳休名於萬代。与乾坤而長施。揚茂實於千秋。共日月而久照。普告遐邇。知朕意焉。」又勅。日並知皇子命。天下未稱天皇。追崇尊号。古今恒典。自今以後。宜奉稱岡宮御宇天皇。乙夘。遣使大秡天下諸國。欲行大甞故也。丁巳。勅。大史奏云。案九宮經。來年己亥。當會三合。其經云。三合之歳。有水旱疾疫之災。如聞。摩訶般若波羅密多者。是諸佛之母也。四句偈等受持讀誦。得福徳聚不可思量。是以。天子念。則兵革災害不入國裏。庶人念。則疾疫癘鬼不入家中。斷惡獲祥莫過於此。宜告天下諸國。莫論男女老少。起坐行歩口閑。皆盡念誦摩訶般若波羅密。其文武百官人等。向朝赴司。道路之上。毎日常念。勿空往來。庶使風雨隨時。咸無水旱之厄。寒温調氣。悉免疾疫之災。普告遐邇。知朕意焉。戊午。遣攝津大夫從三位池田王。告齋王事于伊勢太神宮。」又遣左大舍人頭從五位下河内王。散位從八位下中臣朝臣池守。大初位上忌部宿祢人成等。奉幣帛於同太神宮。及天下諸國神社等。遣使奉幣。以皇太子即位故也。癸亥。歸化新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。移武藏國閑地。於是。始置新羅郡焉。甲子。以紫微内相藤原朝臣仲麻呂任大保。勅曰。褒善懲惡。聖主格言。賞績酬勞。明主彜則。其藤原朝臣仲麻呂者晨昏不怠。恪勤守職。事君忠赤。施務無私。愚拙則降其親。賢良則擧其怨。殄逆徒於未戰。黎元獲安。固危基於未然。聖暦終長。國家无乱。略由若人。平章其勞。良可嘉賞。其伊尹有莘之勝臣。一佐成湯。遂荷阿衡之号。呂尚渭濱之遺老。且弼文王。終得營丘之封。况自乃祖近江大津宮内大臣已來。世有明徳。翼輔皇室。君歴十帝。年殆一百。朝廷無事。海内清平者哉。因此論之。准古無匹。汎惠之美。莫美於斯。自今以後。宜姓中加惠美二字。禁暴勝強。止戈靜乱。故名曰押勝。朕舅之中。汝卿良尚。故字稱尚舅。更給功封三千戸。功田一百町。永爲傳世之賜。以表不常之勳。別聽鑄錢擧稻及用惠美家印。是日。大保從二位兼中衛大將藤原惠美朝臣押勝。正三位中納言兼式部卿神祇伯石川朝臣年足。參議從三位出雲守文室眞人智努。參議從三位紫微大弼兼兵部卿侍從下総守巨勢朝臣關麻呂。參議紫微大弼正四位下兼左大弁紀朝臣飯麻呂。參議正四位下中務卿藤原朝臣眞楯等。奉勅改易官号。太政官惣持綱紀。掌治邦國。如天施徳生育萬物。故改爲乾政官。太政大臣曰大師。左大臣曰大傅。右大臣曰大保。大納言曰御史大夫。紫微中臺。居中奉勅。頒行諸司。如地承天亭毒庶物。故改爲坤宮官。中務省。宣傳勅語。必可有信。故改爲信部省。式部省。惣掌文官考賜。故改爲文部省。治部省。僧尼賓客。誠應尚礼。故改爲礼部省。民部省施政於民。惟仁爲貴。故改爲仁部省。兵部省。惣掌武官考賜。故改爲武部省。刑部省。窮鞫定罪。要須用義。故改爲義部省。大藏省。出納財物。應有節制。故改爲節部省。宮内省。催諸産業。廻聚供御。智水周流。生物相似。故改爲智部省。彈正臺。糺正内外。肅清風俗。故改爲糺政臺。圖書寮。掌持典籍。供奉内裏。故改爲内史局。陰陽寮。陰陽暦數。國家所重。記此大事。故改爲大史局。中衛府。鎭國之衛。但此爲先。故改爲鎭國衛。官重位卑。故大將爲正三位官。改曰大尉。少將爲從四位上官。曰驍騎將軍。員外少將爲正五位下官。曰次將。衛門府。禁衛諸門。監察出入。故改爲司門衛。左右衛士府。率諸國勇士。分衛宮掖。故改爲左右勇士衛。左右兵衛府。折衝禁暴。虎奔宣威。故改爲左右虎賁衛。丙寅。外從五位下津史秋主等卅四人言。船。葛井。津。本是一祖。別爲三氏。其二氏者蒙連姓訖。唯秋主等未霑改姓。請改史字。於是賜姓津連。

八月九日に次のように勅されている・・・子が父を尊ぶことは儒家の称賛するところであり、史書に令名の書かれることは古人の貴ぶところである。昔、先帝(聖武天皇)は敬んで大いなる誓願を立て、廬舎那仏の金銅の大像を造立された。もし朕の治世に造立し終えることができなければ、来世において生まれ変わってでも造立したい。既に像の鋳造は終って塗金が不足していたが、天は心からの信仰に感じて、ついに優れた宝としての黄金を出現させられた。我が国家においては、ここに初めて珍しい財宝がでてきたことになる。---≪続≫---

開闢以来、未だこのように盛んな德のあったことを聞かない。それのみならず。賊臣(藤原廣嗣)が悪心を懐いて逆徒を結集し、国家を危うくしようと謀ることがあったが、情勢が変わり聖武天皇の勢威を畏れ、つつしんで仁徳を仰いで、敢えて武力を競うような行動に出ず、皆自ら屈服してしまった。その神聖なる武威の德は、過去の帝王に比べてもなお余りあると言うべきである。---≪続≫---

その大いなる業を顕彰しなければ、どうして後世に伝え示すことができようか。敬んで古典に則り、尊号を追贈したいと思う。策命して勝寶感神聖武皇帝と称し、諡して天璽國押開豐櫻彦尊と申し上げる。大いなる尊名を万代に伝え、天地と共に長く使用させ、優れた業績を永遠に称揚し、日月と共に久しく明らかにしたいと思う。広く遠近の諸方に告知して朕の意向を知らせるようにせよ・・・。

また、次のように勅されている・・・日並知皇子命(草壁皇子)は世間では未だ天皇と称されていない。しかし皇子のような人に対して、天皇の尊号を追贈して崇めることは古今の恒例である。今後、岡宮御宇天皇と称し奉るべきである・・・。

十六日に使者を遣わして天下の諸國に大祓をさせている。大嘗祭を執行するためである。十八日に次のように勅されている・・・大史局(陰陽寮を改称、下記参照)が奏上して、[『九宮経』(占いの書)を調べてみると、来年己亥の年は三合(陰陽道の厄年)に当たる。その『九宮経』には、三合の歳は洪水・日照りや疫病の災難が起こると言われている。聞くところによると、『摩訶般若波羅密多経』は、諸仏の母である。四句の偈(経典中の詩句)などを覚えて読誦すれば、福徳が集まって来て、その効果は判断を越えるほどと言われている。そこで天子がこれを念じたならば、病気や疫病神は家中に侵入して来ない。悪を断ち幸福を得るにはこれ以上の手段はない]と言っている。---≪続≫---

そこで天下の諸國に布告して、男女老若の区別なく、起居動作にあたって口が閑な時は、みな『摩訶般若波羅密多経』を念誦させるようにせよ。文武百官の人達も、朝廷に出仕し官庁に赴く時、その途中の道路においても常に念じて、往来の時間を無駄にすることのないようにせよ。願うところは、風雨が時節通りとなって全く洪水や日照りの災厄がなく、寒さ暖かさが順調で病気の災いを逃れるように、ということである。広く遠近の諸方に告知して朕の意向を知らせるようにせよ・・・。

十九日に攝津大夫の池田王を遣わして、齋王を選定したことを伊勢太神宮に報告させている。また、左大舎人頭の「河内王」(河内女王近隣)、散位の「中臣朝臣池守」、忌部宿祢人成(呰麻呂に併記)等を遣わして、幣帛を太神宮に奉らせている。更に天下諸國の神社にも使者を派遣して幣を奉らせている。皇太子(大炊王)の即位を報告するためである。二十四日に帰化した新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武藏國の「閑地」に移住させている。ここに初めて「新羅郡」を設置している。

二十五日に紫微内相の藤原朝臣仲麻呂を大保(右大臣)に任命している。次のように勅されている・・・善を褒め悪を懲らすのは聖人たる君主の格言であり、功績を賞し功労に酬いるのは賢明な君主の常則である。ところで大保の藤原仲麻呂は、朝夕怠ることなく精勤に職責を守り、君主に事えるのに忠誠であって職務に私心がない。部下が愚拙であれば一族のものでも降格し、賢良であれば怨敵でも推挙した。反逆の徒を戦う前に鎮圧したので、人民は安泰を得、国家の基を危うくする事態を未然に防止したので、皇室の統治は永久に続くことになった。国家が乱れることのないのはこのような人物がいるためである。その功労を評価してみると、本当に賞賛すべきである。---≪続≫---

いったい伊尹(殷初期の賢臣)は有莘氏の側近の臣であったけれども、ひとたび湯王を補佐するや、ついに阿衡(宰相)の号を帯びるようになった。呂尚(太公望)は渭水の辺に住む世間から取り残された老人であったけれども、しばらく周の文王を補佐し、ついに斉の営丘に所領を与えられた。ましてや藤原氏は祖先である近江大津宮の内大臣(藤原鎌足)以来、代々、公明な德があって皇室をたすけ、天皇は十帝を経、その期間はほとんど百年、その間朝廷に大事がなく、国内は平穏である。---≪続≫---

このことからすれば、過去においても匹敵するものはなく、ひろく恵みを施す美徳もこれに過ぎるものはない。今より以降、藤原の姓に惠美の二字を加えよ。また、暴逆の徒を禁圧し、強敵に勝ち、兵乱を鎮圧した。故に押勝と名付けよう。朕の重臣のうちでは、卿よ、あなたはまことに尚い。それで字を尚舅(舅は中国の諸侯)と言おう。更に功封三千戸・功田百町を給付して、永く代々に伝える賜物とし、特例の勲功であることを表す。また別に銭を鋳造すること、稲を出挙すること、惠美家の印を用いることを許す・・・。

この日、大保兼中衛大将の「藤原恵美朝臣押勝」(藤原朝臣仲麻呂)、中納言兼式部卿・神祇伯の石川朝臣年足、参議・出雲守の文室眞人智努、参議・紫微大弼兼兵部卿・侍従・下総守の巨勢朝臣關麻呂(堺麻呂)、参議・紫微大弼兼左大弁の紀朝臣飯麻呂、参議・中務卿の藤原朝臣眞楯(鳥養に併記)等が勅を奉じて、官職名を次のように改めている・・・太政官は法令や規則を総轄して国家を統治することを司る。天が德を施して万物を成長させるようなものである。故に太政官を乾政官(乾は天を意味する)と改める。太政大臣を大師、左大臣を大傳、右大臣を大保、大納言を御史大夫とする。---≪続≫---

紫微中台は宮中にあって勅を奉じ、それを諸官司に頒布・施行する。大地が天から委ねられて万物を育成するようなものである。故に紫微中台を坤宮官(坤は地を意味する)を改める。中務省は勅語を宣べ伝えるのに、必ず信用がなければならない。故に信部省を改める。式部省は文官の考課と禄賜を司る。故に文部省と改める。治部省は僧尼・外国の賓客のことを司るが、それには誠に礼を尚ぶべきである。故に礼部省と改める。---≪続≫---

民部省は人民に政治を施すのに、仁の心を貴ぶ。故に仁部省と改める。兵部省は武官の考課・禄賜を司る。故に武部省と改める。刑部省は罪人を取締まって罪状を決定するが、必ず正義をもって行うべきである。故に義部省を改める。大蔵省は財物を出納するに際して節制が必要である。故に節部省と改める。宮内省は諸々の生業を催し勧めて天皇に供する品々を集めて回る。それは智者の楽しみする水が流れ巡って物を生かすのに似ている。故に智部省と改める。---≪続≫---

弾正台は内外の悪行を糺して風俗を整え清くする。故に糺政台と改める。図書寮は典籍を管理して内裏に奉仕することを職掌とする。故に内史局と改める。陰陽寮にういては、陰陽・暦・天文など国家の重視するところであり、この大事を記録する。故に大史局と改める。中衛府は国を鎮め守ることを第一の任務とする。故に鎮国衛と改める。---≪続≫---

また、その任務は重大でありながら位が低いので、大将を正三位相当官とし、大尉を改め、少将は従四位上の官として驍騎将軍とし、定員外の少将は正五位下の官として次将とする。衛門府は諸門を護衛して出入りを監督する。故に司門衛と改める。左右の衛士府は諸國の勇士(軍団兵士)を率いて宮殿を分担して守衛する。故に左右の勇士衛と改める。左右の兵衛府は、敵勢を斥き暴徒を禁圧し、虎のように奔走して威力を示す。故に左右の虎賁衛と改める・・・。

二十七日に津史秋主(馬人に併記)三十四人が[船・葛井・津氏は、本来は同一の祖先であったが、分かれて三氏となっている。その内二氏は連姓を賜っているが、ただ「秋主」等のみはまだ改姓の恩恵に浴していない。どうか「史」の字を改めて頂きたい]と言上している。そこで「津連」の氏姓を与えている。

<中臣朝臣池守>
● 中臣朝臣池守

系譜が知られている意美麻呂系列垂目系列には含まれていない人物のようである。既出の名前である池守=川が蛇行する畔に両肘を張り出したようなところを表す場所が出自と推定した。

おそらく前出の中臣朝臣眞敷の周辺…意美麻呂の西側…と思われるが、「池守」の地形が一見では見出せなかった。とりわけこの地は、現在では深い谷間に樹木が成長して、元の地形を確認し辛い状況になっている。

そんな訳で、地図を拡大して眺めると、どうやらそれらしき場所を突き止めることができたように思われる。図に示した、「石木」の近隣を示していることが解る。後に従五位下を叙爵され、また地方官に任じられたようである。

<武藏國新羅郡>
武藏國新羅郡

武藏國には、既に秩父郡・高麗郡埼玉郡の三郡が記載されていた。なかでも、元正天皇紀に新たに設置された「高麗郡」は、高麗出身の人々を集めて移住させ、その地を開拓させたようである。

それと同じように今度は帰化した新羅人を武藏國の「閑地」に住まわせたと記している。参考にしている資料では”閑地=未開の地”と訳されているが、これは重要な地形象形表記であろう。

「閑」=「門+木」から成る文字で「遮って止める」意味を表す文字と知られている。地形象形表現とすると閑=谷間が山稜で遮られた様と解釈される。図に示した場所、「埼玉郡」の北側に当たる谷間と推定される。

現在は衣料田池となっているが、当時は崖に挟まれた深い谷間であったと推察される。武藏國の郡割が漸く揃って来たように思われる。ここに登場した名称は、後の武藏國周辺に用いられているのである。

<藤原恵美朝臣押勝>
● 藤原恵美朝臣押勝(藤原朝臣仲麻呂)

天皇の勅により、藤原朝臣仲麻呂の功績に報いて名に残すために贈られた名前が、その謂れから述べられている。
 
「恵美」=「恵みを施す美徳」、「押勝」=「強敵に勝ち、兵乱を鎮圧」に基づくようである。勿論、これは地形象形表記と重ねられた文言であろう。久々に万葉の世界に浸っているのである。

あらためて「仲麻呂」の出自場所を眺めてみよう。仲=人+中=谷間を突き通すように山稜が延びている様であり、その地形を「豊成」の地から延び出た山稜が示していると解釈した。

その延び出た山稜の端を詳細に見ると、丸く小高くなっていることが解る。既出の文字列である惠美=山稜に囲まれた中心に丸く小高い地があるところと解釈される。更に押勝=押し上げられて盛り上がったところと読むと、まさに「仲麻呂」の出自場所の地形を詳細に述べていることになる。天皇及び皇族に贈られる尊号と同じように尊称しているのである。

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上記本文に「外從五位下津史秋主等卅四人言。船。葛井。津。本是一祖。別爲三氏。其二氏者蒙連姓訖。唯秋主等未霑改姓。請改史字。於是賜姓津連」と記載されている。

「津史」一族は、「船連・葛井連」と同祖なのだが、未だ「連」姓を賜っていないと訴えている。ここに登場する葛井連は、元正天皇紀に白猪史一族が賜った「葛井連」と重なった氏姓となっている。彼等は吉備國を居処としていたと推定した。現地名では下関市吉見下である。

一方の「津史」及び「船連」は、河内國丹比郡、現地名では京都郡みやこ町勝山大久保であり、同祖と言うには、些か離れた場所となっている。書紀によると、吉備國の「白猪屯倉」に「胆津」が派遣されて、功績により「白猪史」の祖となったと記載されている。即ち、本貫の地が「津史・船史」の近辺であったのではなかろうか。

孝謙天皇紀に律師「慶俊」が登場していた。調べると、河内國丹比郡が出自と分かった。この情報に基づいて求めた「葛井連」の場所をこちらに示した。「葛井」の名称は、吉備國吉見下の地形に基づくと思われたが、それは彼等の本貫の地である河内國丹比郡の地形を表しているのである。

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