2022年7月29日金曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(11) 〔598〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(11)


天平字元年(西暦757年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

天平寳字元年春正月庚戌朔。廢朝。以諒闇故也。」勅度八百人出家。甲寅。勅。始自來四月十五日。至于五月二日。毎國令講梵網經。其今年安居者。宜以五月三日爲始。」又詔曰。比者。郡領軍毅。任用白丁。由此民習居家求官。未識仕君得祿。移孝之忠漸衰。勸人之道實難。自今已後。宜令所司除有位人。以外不得入簡試例。其軍毅者。省選六衛府中器量辨了。身才勇健者。擬任之。他色之徒。勿使濫訴。自餘諸事。猶如格令。乙夘。前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨。遣從四位上紀朝臣飯麻呂。從五位下石川朝臣豊人等。監護葬事。所須官給。大臣贈從二位栗隈王之孫。從四位下美努王之子也。戊午。從五位下石津王。賜姓藤原朝臣。爲大納言從二位仲麻呂之子。

正月一日の朝賀を廃している。天子が父の喪に服しているからである。勅命により、八百人を出家得度させている。五日、次のように勅されている・・・来る四月十五日から五月二日まで、國ごとに梵網経を講義させよ。そのため今年の安居(アンゴ:雨季の間一ヶ所に集まって修行をすること)は五月三日より始めよ・・・。

また、次のように詔されている・・・この頃、郡領・軍毅に無位の庶民を採用している。これにより人民はいながらにして官職につくことを当然と思い、君に仕えて俸禄を得ることを知らない。これでは親に仕えて孝を尽くすのと同じ気持ちで君主に忠を尽くすことは次第に衰え、人を導くことは難しい。今後所司は、有位の人以外選考の候補に入れてはならない。軍毅は兵部省が六衛府の中から、わきまえのある人物で、才智を備え勇ましく健全な者を選び、この者にまず候補として任用し、その他の者に濫りに任用の訴えをさせてはならない。それ以外の諸事については、格や令の規定に拠れ・・・。

六日、前左大臣の「橘朝臣諸兄」(葛木王)が亡くなっている。紀朝臣飯麻呂石川朝臣豊人等を遣わし、葬儀を監督・護衛させている。用いる物品は、官から給付している。大臣は、「栗隈王」の孫、「美努王」の子であった(こちら参照)。九日に石津王に藤原朝臣の氏姓を与え、大納言の藤原朝臣仲麻呂の養子としている。

三月戊辰。天皇寢殿承塵之裏天下大平四字自生焉。庚午。勅召親王及群臣。令見瑞字。乙亥。勅。自今以後。改藤原部姓。爲久須波良部。君子部爲吉美侯部。丁丑。皇太子道祖王。身居諒闇。志在淫縱。雖加教勅。曾无改悔。於是。勅召群臣。以示先帝遺詔。因問廢不之事。右大臣已下同奏云。不敢乖違顧命之旨。是日。廢皇太子以王歸第。

三月二十日に天皇の寝殿の天井の塵除けの帳の裏に「天下太平」の四文字が自然に出現している。二十二日に勅により、親王と群臣を召し集め、吉瑞の文字を見せている。二十七日に以下のように勅されている・・・今より後は、「藤原部」の姓を改めて「久須波良部」とし、「君子部」の表記を「吉美侯部」(こちら参照。君子[クンシ]は恐れ多い?)に改めよ・・・。

二十九日に皇太子の道祖王(鹽燒王に併記)は、服喪中(一年間)でありながら淫欲を恣にする心があり、教え戒めたが、悔い改めることがなかった。このため、勅により群臣を召し集め、先帝の遺詔を示し、皇太子を廃そうと思うがどうかと尋ねている。右大臣以下の人々は一致して[敢えて、ご質問の趣旨に反対致しません]と申し上げている。この日、皇太子の地位を廃し、元の王に戻して帰宅させている。

<藤原部(久須波良部)>
<久須原部連淨日>
● 藤原部(久須波良部)

過去に用いられた「藤原」の地名・人名を徹底排除、なのであろう。かつて「改備前國藤原郡名。爲藤野郡」なんてことも記載されていた(こちら参照)。

理由は推して知るべしであろう。勿論、藤原宮を改名することはなかったのだが・・・さて、この藤原部は何処の地を表しているのであろうか?・・・。

実は、天武天皇紀の『八色之姓』に「藤原部造」として登場していた。この藤原は、古事記の品陀和氣命(応神天皇)の孫であった藤原之琴節郎女に出現していた地を示すと解釈した。現地名は田川郡福智町伊方と弁城の境の地域である。現在に残る池を「藤」の文字で象形したのである。

その「藤原」の近隣を藤原部と名付けていたと思われる。今回の改名では、久須波良としている。そのまま読み解けば、久須波良=[く]の字形に曲がった州の端がなだらかになっているところとなる。図に示した山稜の形を表していることが解る。そして、現地名の小字「葛原」、正に残存地名と見做せるであろう。

後(称徳天皇紀)になって具体的な人物名が記載されている。久須原部連淨日が事変の功績によって外従五位下を叙爵されている。既出の文字列である淨日=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる[炎]のようなところと解釈する。図に示した場所がこの女孺の出自と推定される。

夏四月辛巳。天皇召群臣問曰。當立誰王以爲皇嗣。右大臣藤原朝臣豊成。中務卿藤原朝臣永手等言曰。道祖王兄塩燒王可立也。攝津大夫文室眞人珍努。左大弁大伴宿祢古麻呂等言曰。池田王可立也。大納言藤原朝臣仲麻呂言曰。知臣者莫若君。知子者莫若父。唯奉天意所擇者耳。勅曰。宗室中。舍人。新田部兩親王。是尤長也。因茲。前者立道祖王。而不順勅教。遂縱淫志。然則可擇舍人親王子中。然船王者閨房不修。池田王者孝行有闕。塩燒王者太上天皇責以無礼。唯大炊王。雖未長壯。不聞過惡。欲立此王。於諸卿意如何。於是。右大臣已下奏曰。唯勅命是聽。先是。大納言仲麻呂招大炊王。居於田村第。是日。遣内舍人藤原朝臣薩雄。中衛廿人。迎大炊王。立爲皇太子。勅曰。國以君爲主。以儲爲固。是以。先帝遺詔立道祖王。昇爲皇太子。而王諒闇未終。陵草未乾。私通侍童。無恭先帝。居喪之礼。曾不合憂。機密之事。皆漏民間。雖屡教勅。猶無悔情。好用婦言。稍多很戻。忽出春宮。夜獨歸舍。云臣爲人拙愚。不堪承重。故朕竊計。廢此立大炊王。躬自乞三寳。祷神明。政之善惡。願示徴驗。於是。三月廿日戊辰。朕之住屋承塵帳裏。現天下太平之字。灼然昭著。斯乃上天所祐。神明所標。遠覽上古。歴検往事。書籍所未載。前代所未聞。方知。佛法僧寳。先記國家太平。天地諸神。預示宗社永固。戴此休符。誠嘉誠躍。其不孝之子。慈父難矜。無礼之臣。聖主猶弃。宜從天廢却還本色。亦由王公等盡忠匡弼。感此貴瑞。豈朕一人所應能致。宜与王公士庶。共奉天貺。以荅上玄。洗滌舊瑕。遍蒙新福。可大赦天下。其自天平勝寳九歳四月四日昧爽已前大辟罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸悉赦除。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。強盜竊盜者。不在此例。其天下百姓成童之歳。則入輕徭。既冠之年便當正役。愍其勞苦。用軫于懷。昔者。先帝亦有此趣猶未施行。自今已後。宜以十八爲中男。廿二已上成正丁。古者。治民安國必以孝理。百行之本莫先於茲。宜令天下。家藏孝經一本。精勤誦習。倍加教授。百姓間有孝行通人。郷閭欽仰者。宜令所由長官。具以名薦。其有不孝不恭不友不順者。宜配陸奧國桃生。出羽國小勝。以清風俗。亦捍邊防。別有高臥頴川。遁跡箕山者。宜爲朕代之巣許。以礼巡問放令養性。其僧綱及京内僧尼復位已上。施物有差。内供奉竪子。授刀舍人。及預周忌御齋種種作物。而奉造諸司男女等。夙夜不怠。各竭乃誠。宜加位二級并賜綿帛。仕官疎緩並減一等。自餘内外諸司主典已上。及天下高年八十已上。中衛兵衛舍人。門部主帥雜工。并衛士仕丁。歴仕卅年已上。加位一級。但正六位上以上。及不仕者不在此例。其在京文武官職事正六位上已上。及月齋社祝等。賜物有差。天下鰥寡孤獨。篤疾癈疾。不能自存者。量加振恤。其高麗。百濟。新羅人等。久慕聖化。來附我俗。志願給姓。悉聽許之。其戸籍記。无姓及族字。於理不穩。宜爲改正。又東大寺匠丁。造山陵司役夫及左右京。四畿内。伊賀。尾張。近江。丹波。丹後。但馬。播磨。美作。備前。紀伊等國兵士并防人。鎭兵。衛士。火頭。仕丁。鼓吹戸人。輸車戸頭。並免今年田租。」百官詣朝堂。上表以賀瑞字。

四月四日に群臣を召して[どの王を立てて皇嗣とすべきか]とに尋ねられている。右大臣の藤原朝臣豊成、中務卿の藤原朝臣永手等は[道祖王の兄の鹽燒王を立てるべきである]と、また、攝津大夫の文室眞人珍努(智努王)、左大弁の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)等は[池田王(舎人親王の子)を立てるべきである]と申し上げている。大納言の藤原朝臣仲麻呂は[臣下のことを最もよく知っているのは君主であり、子供の場合は父親である。天皇の選ばれる者に従うばかりである]と申し上げている。

天皇は以下のように勅されている・・・皇室の中では、舎人・新田部の両親王が諸親王の中で最も年長である。そこで先に道祖王を太子に立てたが、天皇みずからの教えに従わず、ついには淫らな心を恣にした。この上は、舎人親王の子から選ぶべきであろう。けれども船王は閨房のことが乱れており、池田王については、かつて孝行に関して欠けるところがある。鹽燒王については、かつて太上天皇がその無礼の状を責めたことがある。ひとり大炊王については、壮年に達していないが、過誤悪行のあることを聞かない。この王を太子に立てたいと思う。諸卿の意見はどうか・・・。

そこで右大臣以下の人々は[ただ勅令にのみ従う]と申し上げている。これより先、大納言の藤原朝臣仲麻呂は、大炊王を招いて田村第に居住させていた。この日、内舎人の「藤原朝臣薩雄」と中衛二十人を遣わし大炊王を迎え、皇太子に立てている。

天皇は次のように勅されている・・・国家は、君主を以って主人とし、太子を以って固めとする。このため先帝の遺詔により、道祖王を皇太子に立てた。けれども王は、服喪も終わらず、御陵の土もまだ乾かないうちに、密かに侍童と姦淫して、先帝に対する恭敬の念がなかった。王の喪中の儀礼は。憂愁の意に叶っておらず、機密のことを民間に漏らしてしまった。そこでしばしば自分が教戒を加えたが、悔いる様子もなく、婦人の言を好んで取り上げ、違って服従しないことが多かった。王は、突然春宮を出て、夜分に独り私宅に帰って来たりし、[臣は拙い愚かな人間なので、将来皇位という思い任を担うことができない]と言っている。そこで朕は、密かにこの王を廃して大炊王を立てることを計画し、自ら仏と神に乞い祈って政治の善悪について、しるしを示されることを願った。---≪続≫---

ここに去る三月二十日に、朕の住居の塵よけの帳の裏に「天下太平」の文字が歴然と明らかに出現した。このことは、天が助け、神が表されたものである。遥かに上古のことを通覧し、過去の事実を調べてみても、書物にまた記されておらず、前代未聞のことである。これは仏・法・僧の三宝が、まず国家が太平になることを示し、天地の神々が国家は永く安定することをあらかじめ示したもの、と解釈される。このめでたいしるしを戴くことができて、まことに悦び躍る気持ちである。いったい孝行でない子は、慈しみ深い父でさえ哀れまず、礼儀のない臣下は聖人の君主でも見捨てるというから、天意に従って廃し退け、元の身分に還すべきである。---≪続≫---

また諸王・諸卿が忠誠を尽くし、誤りを正して助けたからこそ、この貴くめでたいしるしを感得したのであって、どうして朕一人で招くことができようか。従って諸王・公卿・官人・庶民等と共に、この天からの賜り物を頂き、天に答え、旧罪を洗い流し、広く新たな幸を蒙らせるべきである。そこで天下に大赦する。天平勝寶九歳四月四日の夜明け以前の、死罪以下の罪の軽重を問わず、発覚した罪もまだ発覚していない罪も、既に罪の定まったものも、審理中のものも、捕らわれて現に囚人となっているものも、全て赦免する。但し八虐を犯した者、故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗は、この限りではない。---≪続≫---

いったい天下の人民は、十七歳になると軽度の労役を課され、二十一歳になると成人の労役を課される。その苦労を憐れみ、心を痛めている。かつての先帝もまたこの気持ちをもっておられたが、軽減の政策は行われなかった。そこで今より以後は十八歳以上を中男とし、二十二歳以上を正丁とせよ。昔から民を治め国を安定させるには、必ず孝を以って治めた。孝はあらゆる行動の根本であって、これに優先するものはない。そこで天下の家ごとに『孝経』一巻を所蔵させ、暗誦・学習によく努めさせ、ますます教えを垂れるべきである。人民のなかに孝行が人にも聞こえ、村里の人々が敬い仰ぐような者があれば、所轄の長官にその者の名を詳しく報告させるべきである。一方、不孝・不恭・不友・不順の者があれば、それらを「陸奥國桃生」・「出羽國小勝」に配属し、風俗を矯正すると共に、辺境を防衛させるべきである。---≪続≫---

また別に、頴川に住み箕山に隠れるような隠遁者があれば、朕の世の許由・巣父(中国古代の伝説上の隠者、こちら参照)として認め、礼儀正しく訪ねて行って慰問し、好むままに隠遁の志をとげさせよ。また僧綱と京内の僧尼の復位以上を持つ者に地位に応じて物を与える。天皇の側近に供奉する竪子(内竪)・授刀舎人、及び一周忌の御齋会のために種々の物品を作成するのに関係してお造り申し上げる諸司の男女たちが朝早くから夜遅くまで怠らず誠意を尽くして勤めるならば、位階を二級増し進め、更に真綿・絹布を与えるようにせよ。役所での勤務が怠り弛んでいる者には、位階を一段階減ぜよ。---≪続≫---

その他の京内・京外の諸官司の主典以上、及び国内の高齢者で八十歳以上の者、中衛府と兵衛府の舎人、衛門府の門部、衛士府の主帥、兵部省などの雑工、それに衛士と仕丁の勤務すること三十年を越える者等に、位階を一級加え進める。但し、正六位以上の者と勤務についていない者は、この限りではない。在京の文武官であって、官職をもって現に勤務している正六位以上の者、及び月齋社の祝たちには、身分に応じて物を給う。天下の鰥・寡・孤(惸)・獨、篤疾・廃疾であって自活できない者には、その程度に応じて物を恵み与える。---≪続≫---

高麗・百濟・新羅の人であって、以前に天皇の徳化に浴することを望んで来朝し、わが国の風俗に馴染み、姓(氏名)を賜ることを願う者には、悉く希望を許すことにする。戸籍の記載に、姓がないのと族の字を付けているのとは、道理に背きよろしくないので改正すべきである。また造東大寺の匠丁、造山陵司の役夫、及び左右京・四畿内・伊賀・尾張・近江・丹波・丹後・但馬・播磨・美作・備前・紀伊などの國の兵士、それに防人・鎮兵・衛士・火頭・仕丁・鼓吹戸の人、輪車の戸の戸主には、今年の田租を免除する・・・。全ての官人等が朝堂に参上し、表文を進めて、めだたい文字(天下太平)を祝賀している。

<藤原朝臣薩雄-朝獵-小湯麻呂-辛加知>
● 藤原朝臣薩雄

藤原朝臣仲麻呂の子と知られている。既に「眞從」を始め、幾人かが登場して、彼等の出自の場所を求めたが(こちら参照)、図が煩雑になるために改めてこの人物の出自を示してみよう。

調べると、前出の「刷雄」と同一人物説があり、「サツオ」の読みが同じなのも、それを支持するような説が提案されている(同音異字)。

しかしながら、呉音では刷雄(セチオ)となる。漢音・呉音を都合よく使っては、混迷をもたらすのみであろう。

薩雄の「薩」は既出の文字であり、薩麻などに用いられている。薩=艸+阝+產=二つ並んだ高台が生え出ている様と解釈した。「雄」は、「刷雄」のとすると、出自の場所は図(国土地理院航空写真1961~9年)に示したところと推定される。「田村第」への使い走り、意気揚々とした気分は、時代の流れに巻き込まれて行く前兆だったのかもしれない。

後に藤原朝臣朝獵が従五位下に叙爵されて、陸奥守に任じられている。既出の「朝」=「𠦝+月」=「山稜の端に挟まれて丸く区切られた様」と解釈した。朝妻などで用いられた文字である。「獵」=「犬+巤」と分解され、更に「巤」=「巛+囟+鼠の下部」と分解される。獣の頭部の毛の有様を象形した文字と知られている。

合わせると朝獵=山稜の端に挟まれて丸く小高い地で平らな山稜が寄り集まった窪んだところと読み解ける。「薩雄」の「隹」の頭部でもある。凝った名称ではあるが、なかなかに洗練された文字使いのようにも思われる。朝狩の別名があったと知られているが、「守」の地形象形を確認するには、航空写真では叶わないようである。

更に他の兄弟の出自場所を求めると、藤原朝臣小湯麻呂は、小湯=三角形の山稜の傍らで水が飛び散るように流れているところと読み解ける。朝獵の西側の谷間の出口辺りが出自と推定される。別名が小弓麻呂と知られているが、「小」の形が弓を引いたように見做したのであろう。藤原朝臣辛加知は、辛加知=突き刺して押し開いく鏃のような山稜が延びているところと読み解ける。「小湯麻呂」に北側、谷間の最奥の場所が出自と思われる。

<陸奥國桃生(郡)>
陸奥國桃生

品行の悪い輩は、辺境の地で防衛に使役しろ、と述べておられる。実際に、それが具体化したかは知る由もないが・・・。ところで桃生は、この後もしばしば登場し、城が造られ、郡建ても行われたようである。

天皇の先見の明があったようで、言い換えれば勅によってその地の開発が促進されたのであろう。詳細は登場の時として、先ずは「桃生」の場所を求めてみよう。

「桃」=「木+兆」と分解され、「兆」=「二つに岐れている様」を表す文字と知られている。「桃」の果実の姿を表現したものであろう。地形象形的には、山稜がその姿を示していると見做したのであろう。

図に示した場所、遠田君小捄・金夜の北側に接する地をで表記したと思われる。桃生=[桃]のような地から生え出たところと解釈される。上図に国土地理院航空写真1974~8年を参照すると、それらしき姿が確認される。生え出た場所は、現在は貯水池となっているが、多分当時は、谷間が広がった地形であったと推測される。後に桃生郡として郡建てされている。

<出羽國小勝>
出羽國小勝

少し後に「小勝村」と表記され、地域の名称であることが分かるが、更に後に「小勝柵」の造営が記述されている。上記の「桃生城」と同じく辺境防衛策の一環として強化されたことが伺える。

出羽國は、現在の北九州市門司区畑にあった國と推定した。同区大里から鹿喰峠を越えた長い谷間の地形である。古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が韓比賣を娶って白髪命(後の清寧天皇)、若帶比賣命の出自の地であった(こちら参照)。

既出の文字列である小勝=三角形に小高く盛り上がっているところと解釈される。それらしき地形を探すと、図に示した山稜の端が見出せ、その麓に広がった地域を表していると思われる。後に雄勝城と記載されるが、「雄」=「厷+隹」=「鳥が羽を広げた様」の地形が「小」の中に見出せる。その麓に城を造ったのであろう。

通説は、前出の越後國の出羽柵近隣の雄勝村と同一視されているようだが、全く異なる配置である。かつて、神龜四(727)年九月、渤海部王の使者が出羽國に来着した、と記載されていた。淡海に迷い込んで出雲國に上陸し、鹿喰峠を越えると出羽國に届く。防衛拠点として重要な場所であったことを示しているようである。


2022年7月22日金曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(10) 〔597〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(10)


天平勝寶八歳(西暦756年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

八歳春二月丙戌。左大臣正一位橘朝臣諸兄致仕。勅依請許之。戊申。行幸難波。是日。至河内國。御智識寺南行宮。己酉。天皇幸智識。山下。大里。三宅。家原。鳥坂等六寺礼佛。庚戌。遣内舍人於六寺誦經。襯施有差。壬子。大雨。」賜河内國諸社祝祢宜等一百十八人正税。各有差。是日行至難波宮。御東南新宮。

二月二日に左大臣の橘朝臣諸兄(宿祢改姓)が辞職を申し出ている。勅されて乞いにより、これを許されている。二十四日に難波へ行幸し、この日は河内國に至り、智識寺の南の行宮に到着している。二十五日に「智識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂」の六寺に行幸し、仏像を礼拝している。

二十六日に内舎人を六寺に遣わして、誦経させている。また、寺の地位に応じて施し物をしている。二十八日に大雨が降っている。また、河内國の諸社の祝・禰宜等百十八人にそれぞれ正税を賜っている。この日、進んで難波宮(難波長柄豐碕宮跡)に至り、東南にある新宮に出御されている。

<河内國六寺>
河内國六寺

聖武天皇紀の天平勝寶元(749)年十月に河内國智識寺に行幸された記事があった。その時は「茨田宿祢弓束」の家を行宮としたと記載されていた(こちら参照)。

今回は、「智識寺」を含めた六寺を一日かけて廻られたと述べている。勿論、その周辺に建立されていた寺であろう。

山下寺山下=山の麓にあるところと解釈される。山だらけの土地ではあるが、智識寺の西側の特徴的な、山稜の端が小高くなった麓辺りにあったと推定される。

大里寺大里=平らな頂の山稜が区分けされたようになっているところと解釈すると、図に示した場所にあった寺と思われる。三宅寺三宅=谷間に三つの山稜が延びているところと読むと、「大里寺」の北側の谷間の地形を表していることが解る。

家原寺家原=谷間に延びた山稜の端が豚の口のようになって平らに広がっているところと解釈される。「大里寺」の山稜の端辺りを表していると思われる。鳥坂寺鳥坂=麓で山稜が鳥のような形に延びているところと解釈される。些か広範囲の地形であり、寺の場所を特定し辛いが、おそらく、図に示した辺りに建立されていたのであろう。

三月甲寅朔。太上天皇幸堀江上。乙夘。詔免河内攝津二國田租。戊午。遣使攝津國諸寺誦經。襯施有差。

三月一日に太上(聖武)天皇が堀江(難波之堀江)の上に行幸されている。二日に河内・攝津の二國の田租を免除している。五日に使を攝津國の諸寺に遣わして誦経させ、それぞれに布施(襯施)を与えている。

夏四月丁酉。勅曰。頃者。太上天皇聖體不豫。漸延旬日。猶未平復。如聞。鎖災致福。莫如仁風。救病延年。實資徳政。可大赦天下。但犯八虐。故殺人。私鑄錢。強盜竊盜。常赦所不免者。不在赦例。若以贓入死減一等。鰥寡惸獨。貧窮老疾。不能自存者。量加賑恤。戊戌。車駕取澁河路。還至智識寺行宮。庚子。還宮。乙巳。遣使奉幣帛于伊勢大神宮。壬子。遣醫師。禪師。官人各一人於左右京四畿内。救療疹疾之徒。」遣從五位下日下部宿祢古麻呂。奉幣帛于八幡大神宮。

四月十四日に次のように詔されている・・・この頃、太上(聖武)天皇の御体は不調となり、ようやく十日に及んだが、なお病状の回復には至っていない。[災いを鎮め福を招くには、仁徳の教化に勝るものはなく、病を救い寿命を延ばすには、まことに恵みある政治を実行することにかかっている]と聞いている。そこで天下に大赦を行う。但し、八虐を犯した者、故意の殺人、贋金造り、強盗・窃盗など、尋常の赦では許されない者は、この赦の範囲には入れない。もし、盗品に関したことのために死罪とされた者は、罪一等を減ぜよ。また鰥・寡・惸・獨及び貧窮や老年や病気のために自活できない者には、その程度を量り、物を恵んで助けよ・・・。

十五日に「澁河路」を採って帰途につき、智識寺の行宮に至っている。十七日に平城宮に還っている。二十三日に使を遣わして伊勢大神宮に幣帛を奉っている。二十九日に医師・禅師・官人をそれぞれ一人ずつ左右京と畿内四國に遣わし、疹疾に苦しむ人々を救け治療さている。また、日下部宿祢古麻呂(子麻呂。大麻呂に併記)を遣わして幣帛を八幡大神宮に奉っている。

<澁河路>
澁河路

難波宮からの帰途は、澁河路を通ったと記載している。「澁河」は、河内國澁川郡を流れる川を示していると思われる。書紀の持統天皇紀に罪人の所在地として登場した郡である。記紀・續紀を通じて河内國澁川(郡)は、たったの一度の出現である。

書紀では譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)の幸玉宮(古事記では他田宮)があった谷間を流れる川であり、「澁川郡」は、その下流域に当たる場所と推定した。現在の京都郡みやこ町勝山矢山を流れる矢山川である。長峡川の支流でもある。

図に難波宮からの行程を示した(前半部は省略)。長峡川沿いに、矢山川合流地点からは、矢山川沿いに遡って、勝山岩熊辺りで東北に向かい丘陵を抜けると智識寺の行宮に届いたと推測される。おそらく、難波宮への往路は、「大縣」の東側の谷間を抜けたのであろう。

五月乙夘。遣左大弁正四位下大伴宿祢古麻呂。并中臣忌部等。奉幣帛於伊勢大神宮。」免天下諸國今年田租。是日。太上天皇崩於寢殿。遺詔。以中務卿從四位上道祖王爲皇太子。丙辰。遣使固守三關。以從二位藤原朝臣豊成。從三位文室眞人珍努。藤原朝臣永手。正四位下安宿王。從四位上黄文王。正四位下橘朝臣奈良麻呂。從四位下多治比眞人國人。從五位下石川朝臣豊成爲御裝束司。六位已下十人。從三位多治比眞人廣足。百濟王敬福。正四位下鹽燒王。從四位下山背王。正四位下大伴宿祢古麻呂。從四位上高麗朝臣福信。正五位上佐伯宿祢今毛人。從五位下小野朝臣田守。大伴宿祢伯麻呂爲山作司。六位已下廿人。外從五位下大藏忌寸麻呂爲造方相司。六位已下二人。從五位下佐味朝臣廣麻呂。佐佐貴山君親人爲養役夫司。六位已下六人。丁巳。於七大寺誦經焉。己未。文武百官始素服。於内院南門外。朝夕擧哀。」正四位上春日女王卒。辛酉。太上天皇初七。於七大寺誦經焉。癸亥。出雲國守從四位上大伴宿祢古慈斐。内堅淡海眞人三船。坐誹謗朝廷。无人臣之礼。禁於左右衛士府。丙寅。詔並放免。戊辰。二七。於七大寺誦經焉。壬申。奉葬太上天皇於佐保山陵。御葬之儀如奉佛。供具有師子座香爐。天子座。金輪幢。大小寳幢。香幢。花縵。蓋繖之類。在路令笛人奏行道之曲。是日。勅曰。太上天皇出家歸佛。更不奉謚。所司宜知之。乙亥。三七。於左右京諸寺誦經焉。」勅曰。左衛士督從四位下坂上忌寸犬養。右兵衛率從五位上鴨朝臣虫麻呂。久侍禁掖。深承恩渥。悲情難抑。伏乞奉陵。朕嘉乃誠。仍許所請。先代寵臣。未見如此也。宜表褒賞以勸事君。犬養叙正四位上。虫麻呂從四位下。其所從授刀舍人廿人増位四等。丙子。勅。禪師法榮。立性清潔。持戒第一。甚能看病。由此。請於邊地。令侍醫藥。太上天皇得驗多數。信重過人。不用他醫。爾其閲水難留。鸞輿晏駕。禪師即誓。永絶人間。侍於山陵。轉讀大乘。奉資冥路。朕依所請。敬思報徳。厭俗歸眞。財物何富。出家慕道。冠蓋何榮。莫若名流万代。以爲後生准則。宜復禪師所生一郡。遠年勿役。丁丑。勅。奉爲先帝陛下屈請看病禪師一百廿六人者。宜免當戸課役。但良弁。慈訓。安寛三法師者。並及父母兩戸。然其限者終僧身。又和上鑒眞。小僧都良弁。華嚴講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎭慶俊。或學業優富。或戒律清淨。堪聖代之鎭護。爲玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大徳者。當于先帝不豫之日。自盡心力。勞勤晝夜。欲報之徳。朕懷罔極。宜和上小僧都拜大僧都。華嚴講師拜小僧都。法進。慶俊並任律師。

五月二日に左大弁の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)と中臣・忌部等を遣わして、幣帛を伊勢大神宮に奉らせている。また、天下諸國の今年の田租を免除している。この日、太上(聖武)天皇が内裏の正殿において崩じている。遺詔して中務卿の道祖王(新田部親王の次男。鹽燒王に併記)を皇太子に任命している。

三日に使を遣わして三關(鈴鹿不破愛發)を固守させている。またこの日、藤原朝臣豊成文室眞人珍努(智努王)藤原朝臣永手安宿王黄文王橘朝臣奈良麻呂(橘宿祢)多治比眞人國人(家主に併記)石川朝臣豊成(人成に併記)を御装束司に、この他に六位以下の官人十人を任じている。多治比眞人廣足(廣成に併記)百濟王敬福(①-)鹽燒王山背王大伴宿祢古麻呂(三中に併記)高麗朝臣福信(背奈公福信)・佐伯宿祢今毛人小野朝臣田守(綱手に併記)大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を山作司(造山司)に、この他に六位以下の官人二十人を任じている。大藏忌寸麻呂を造方相司に、この他に六位以下の官人二人を任じている。佐味朝臣廣麻呂(虫麻呂に併記)佐佐貴山君親人を養役夫司(造陵役民の食料支給)に、この他に六位以下の官人六人を任じている。

四日に七大寺(東大寺興福寺元興寺大安寺藥師寺弘福寺[川原寺]・法隆寺)において誦経させている。六日に文武の百官は、この日から初めて白無地の喪服を着て、内院南門の外において、朝と夕に挙哀(哀悼の意を表して声をあげる儀式)を行っている。この日に春日女王が亡くなっている。八日、太上天皇の初七日にあたるので、七大寺にて誦経させている。

十日に出雲國守の大伴宿祢古慈斐(祜信備)と內堅(天皇の側近)の淡海眞人三船(御船王)は、朝廷を非難悪口し臣下としての礼を失したという罪に連座させられ、左衛士府に拘禁されている。十三日に詔されて二人を放免している。十五日に太上天皇の二七日にあたるので七大寺において誦経させている。

十九日に太上天皇(聖武天皇)を佐保山陵に葬り申し上げている。御葬式の次第は、仏に仕えるが如くに行われた。供えものとして、獅子座の香炉、天子の座、金輪の幢、大小の玉飾りのある幢、香幢、花縵、きぬがさの類があった。また山稜までの路においては、笛を吹く人に行進の曲を奏でさせている。この日、天皇が[太上天皇は出家して仏に帰依されたので、あらためて諡を奉らない。所司はこれを承知せよ]と勅されている。

二十二日に太上天皇の三七日にあたるので、左右京の諸寺で誦経させている。また、次のように勅されている・・・左衛士の坂上忌寸犬養と右兵衛率の鴨朝臣虫麻呂は、永らく宮中に仕え、深くあついご恩を受けていた。それゆえ、悲しむ心は抑えがたく、山稜に仕えることを切に望んでいる。朕は、汝等の真心を喜び、よって、その願いを許す。先代の寵臣の中で、このような者をまだ見たことがない。彼等を褒め称えることを発表し、君に仕える者を励まそうと思う。「犬養」には正四位上、「虫麻呂」には従四位下を授け、彼等に従う授刀舎人二十人には位階を四等増やすことにする・・・。

二十三日に次のように勅されている・・・禅師の法榮は、生まれつき潔く、戒律を守ることは誰よりも優れており、甚だよく病人を看護する。そのため、太上天皇の傍らに招き、医薬を担当して傍に居らせた。太上天皇は数多くの効き目を得て、信任の重さは他の人に勝り、他の医師を用いようとはされなかった。しかし、流れる水を留のが困難であるように、太上天皇は崩御された。禅師は直ちに次のように誓った[これから永く人との交わりを絶ち、山稜の傍に仕え、大乗経を転読して冥土の路へお出かけになるのをお助けしたい]。朕は求める所を聞き、敬んで心のこもったはたらきに報いる方法を思ったが、俗をきらい真の道に帰依する者には、財物はどうして富となろうか。出家して仏道を慕う者には、冠蓋はどうして身の栄えとなるだろうか。法榮のはたらきに報いるには、その名を万代にまで伝え、後人のよるべき手本とするに勝るものはないであろう。そこで禅師の生まれた一郡の租税負担を免除し、労役に使わないようにせよ・・・。

二十四日に次のように勅されている・・・先帝陛下の奉為に招いた看病の禅師百二十六人の戸の課役を免除せよ。但し、良弁・「慈訓」・安寛の三法師には、それぞれ父と母の所属する両戸にまで課役免除を及ぼせ。しかし、その期限は僧の死去までとする。また、和上(和尚)の鑑眞、少僧都の良弁、華厳講師の「慈訓」、大唐の僧の法進(鑑眞の弟子)、法華寺(隅院近隣)鎮の慶俊は、学業が優れゆたかな者、あるいは戒律に清く穢れなき者で、立派な世の鎮護としての任に堪えることができ、僧侶の上にたつ人々である。---≪続≫---

<慈訓>
それだけでなく、良弁と「慈訓」の二大德は、先帝が病気となった日に、自ら心力を尽くし、昼夜となく甚だ勤めた。その心のこもったはたらきに報いたく思い、朕の心は極まりない。和上と少僧都に大僧都、華厳講師には少僧都を授け、法進と慶俊
は律師に任ぜよ・・・。

● 慈訓

調べると慈訓は、船史(連)の出身であったことが分かった。唐で玄奘三蔵に師事し法相宗を学んだ船史惠尺の子、道照和尚も同じく船氏一族であった。

系譜は不詳であるが、「慈訓」の名前が表す地形から出自の場所を求めてみよう。慈=艸+絲+心=細かく岐れた山稜の中心にある様訓=言+川=耕地が川辺にある様と解釈すると、これらの地形要素を満たす場所を図に示した。現在の月輪寺辺りと推定される。尚、三法師残り一人の安寛については、俗姓が不明で出自を求めることが叶わなかった。後日の課題としておこう。

律師に任じられた慶俊について、調べると河内國の出身で、俗姓が「葛(藤)井連」だったようである。吉備國の葛井連(元は白猪史)と重なる氏姓であり、些か混乱気味なのであるが、後(淳仁天皇紀)に船連・津連と同祖の一族と記載され、彼等の近辺に求めた結果を図に示した(こちら参照)。

地形象形の文字解釈の詳細は省略するが、”葛”と”藤”の意味は類似するが、地形象形としては、全く異なる文字である。それが見事に当て嵌る場所であることが解る。それにしても、道昭慈訓と共に優れた僧侶を輩出した一族だったようである。

憶測するに、「道昭」の父親である惠釋は、『乙巳の変』の際、蘇我蝦夷等が天皇紀・國紀などを焼却しようとするのを未然に防ぎ、天智天皇に献上したと書紀で記載されていた。書物に対する意識が高く、そして、学ぶことができる環境を整えていたのであろう。同祖一族の子供等が知識を得ることができる稀有な地域だったと思われる。

六月乙酉。勅遣使於七道諸國。催検所造國分丈六佛像。丙戌。五七。於大安寺設齋焉。僧沙弥合一千餘人。庚寅。詔曰。居喪之礼。臣子猶一。天下之民。誰不行孝。宜告天下諸國。自今日始迄來年五月卅日。禁斷殺生。辛夘。太政官處分。太上天皇供御米鹽之類。宜充唐和上鑒眞禪師。法榮二人。永令供養焉。壬辰。詔曰。頃者。分遣使工検催諸國佛像。宜來年忌日必令造了。其佛殿兼使造備。如有佛像并殿已造畢者。亦造塔令會忌日。夫佛法者。以慈爲先。不須因此辛苦百姓。國司并使工等。若有稱朕意者。特加褒賞。丙申。六七。於藥師寺設齋焉。癸夘。七七。於興福寺設齋焉。僧并沙弥一千一百餘人。甲辰。始築怡土城。令大宰大貳吉備朝臣眞備専當其事焉。」勅。明年國忌御齋。應設東大寺。其大佛殿歩廊者。宜令六道諸國營造。必會忌日。不可怠緩。

六月三日に勅されて、使を七道諸國に遣わし、諸國が造っている國分寺の丈六仏像の造作を促し、調べさせている。四日、太上天皇の五七日に大安寺において僧侶に食事を供養している。僧・沙弥合わせて千余人が参加している。

八日に次のように詔されている・・・喪に服するの礼は、臣であろうと子であろうと同じである。天下の人民の中で、どうして孝を行わない者がいるであろうか。天下諸國に命令を下し、今日より始めて五月三十日まで、殺生を禁止させるようにせよ・・・。九日に太政官が以下のように処分している・・・太上天皇の供御に用いる米・塩の類は、唐の和上鑑眞と禅師の法榮の二人に充て、これからも永く供養するようにせよ・・・。

十日に次のように詔されている・・・この頃、技術者を使者として各地に派遣し、諸國の仏像の造作をうながし、調べさせた。来年の一周忌には、必ず仕上げるようにせよ。また、その仏像と仏殿を既に造り終えたならば、また塔を造り忌日に間に合わせよ。仏法は、慈しみを第一とする。このために(仏像・仏殿・塔の造営)、人民を苦しませてはならない。國司や派遣の技術者等で、もし朕の心に叶う者があれば、特に褒賞を与える・・・。

十四日、太上天皇の六七日にあたる。藥師寺において僧侶に食事を供養している。二十一日、太上天皇の七七日にあたる。興福寺において、僧侶に食事を供養している。僧・沙弥千百余人が参加している。

二十二日に初めて「怡土城」を築いている。大宰大貳の吉備朝臣眞備に築城の事を専ら当てらせている。また、以下のように勅されている・・・明年の國忌の御齋は、東大寺に設けることにする。大仏殿の歩廊は、六道諸國に命じて営造させ、必ず忌日に間に合わせよ。怠りや遅れがあってはならない・・・。

<怡土城>
怡土城

「怡土」は、記紀・續紀を通じて初見である。”邪馬台国ロマン”の世界では、真に有名な文字列であり、魏志倭人伝が記載する「伊都國」があった地として、決定的な解釈となっているようである。

別稿の記述で、「伊都(イツ)」=「燚」を意味する表記であることを明らかにしたことが思い起される(こちら参照)。倭人が呉太伯の末裔と自称するなら、関連する漢語は呉音で読むべし、であろう。

ともあれ、續紀に登場したならば、立派な地形象形表記である。「怡」=「心+耜」と分解する。「治」などに共通する文字要素「耜」を含んでいる。地形象形としては、怡=耜のように山稜が延びている中心にある様と読み解ける。土=盛り上がった様として、図に示したように現在の宗像市の特異な三つの突き出た小高い山稜の地形を表し、その中心の場所を示していることが解る。

古事記では秋津と表現し、秋=禾+火=山稜が火のような形になっている様の地形を示していた(こちら参照)。その「火」の文字の頭部が地形象形しているのである。「怡」に含まれる「心」、それが見事に「怡土」の場所を示している。誰が名付けたかは知る由もないが、実に洗練された文字使いと思われる。

怡土城の所在は、この突き出た半島(当時は嶋)の最も高い山の頂に設営されたのではなかろうか。この場所は、西海・南海を見渡すのに極めて有効であり、また、通航する船からは、絶好の目印となろう。因みに、通説では筑前國怡土郡(高祖山)にあった城となっているが、續紀には「怡土郡」の表記は出現しない。

西海の情報を一早く知ることは、正に喫緊の課題であったと推測される。また、この城から平城宮までの連絡経路の確立も必要であり、國が広がって行くことによって多くの難題も生じたであろう。「怡土城」は、この後も幾度か登場するようである。さて、如何なることになるのか・・・。

秋七月己巳。勅。授刀舍人考選賜祿名籍者。悉属中衛府。其人數以四百爲限。闕即簡補。但名授刀舍人。勿爲中衛舍人。其中衛舍人。亦以四百爲限。庚午。河内國石川郡人漢人廣橋。漢人刀自賣等十三人賜山背忌寸姓。癸酉。土左國道原寺僧專住。誹謗僧綱。无所拘忌。配伊豆嶋。

七月十七日に以下のように勅されている・・・授刀舎人の考遷を禄を支給するための名簿は中衛府の所管とせよ。また、その人数は四百人を限度とせよ。もし欠員が生じた時には直ちに代わりを選んで補え。但し、授刀舎人と名乗らせ、中衛舎人としてはいけない。その中衛舎人も四百人を限度とせよ・・・。

十八日に河内國石川郡の人、「漢人広橋・漢人刀自賣」等十三人に「山背忌寸」の氏姓を賜っている。二十一日に土左國の「道原寺」の僧の「専住」は、僧綱を悪く言って謗り、忌憚るところがないので、伊豆嶋に配流している。

<漢人廣橋・漢人刀自賣>
● 漢人廣橋・漢人刀自賣

「河内國石川郡」は、文武天皇紀に「河内國石河郡人河邊朝臣乙麻呂獻白鳩」の記述で登場し、多くの褒賞を賜ったと記載されていた(こちら参照)。

北側の志賀郡、南側の安宿郡に挟まれた郡と推定した。塔ヶ峰の東麓に広がる場所である。漢人の表記は、今までに何度も登場しているが、渡来系であると同時に漢人=谷間で川が大きく曲がって流れるところを表していると解釈した。

廣橋=山稜の端が広がって小高く曲がっているところと解釈すると、図に示した山稜の地形を表していると思われる。頻出の刀自=刀のような地が山稜の端にあるところであり、その地形を「廣橋」の西側に見出せる。共に大きく川が曲がっている傍らの場所であることが解る。

上記の「白鳩」の「鳩」に該当する山稜に関わる出自と推定される。賜った山背忌寸の氏姓は、塔ヶ峰をにした配置をそのまま表現したものであろう。”河内國”の”山背”となって、”固有”の名称とする通説は、大混乱いや突き抜けてスルーするのであろう。狭い石川郡の人物配置を明確に物語っている貴重な記述なのである。

<土左國:道原寺>
土左國:道原寺

何とも唐突な出現であるが、土左國には郡建ても記載されたこともなく、実に曖昧な状況にある。唐突に記載する背景を慮ると、おそらくその地の中心の地域にあったのではなかろうか。

例によって、現在の小中学校の周辺としてみる。すると、江川小学校の西側の谷間に道原=首の付け根のような地に野原が広がっているところの地形を見出せる。

● 僧專住 この寺に住まう僧、專住の名前から、その出自の場所を求めてみよう。「專」が地・人名に用いられたのは、記紀・續紀を通じて初見であろう。文字要素に分解すると、「專」=「叀+寸」となる。「叀」は、既出の「惠」=「叀(糸巻き)+心」=「山稜に囲まれた中心に小高い地がある様」に含まれる文字である。

それを用いると「專」=「專+寸」=「右手のような山稜に囲まれた小高い地がある様」と読み解ける。頻出の「住」=「人+主」=谷間に真っ直ぐに山稜が延びている様」と解釈すると、專住=右手のような山稜に囲まれた小高い地がある谷間で山稜が真っ直ぐに延びているところと読み解ける。図に示した場所がこの僧の出自と推定される。

僧綱に文句を言うくらいの人物、それなりの文字使いができたのであろう。いや、かなり有能だったのかもしれない。わざわざ、配流を記載したのは、この特異な地形を表した人物名を記録しておきたかったのではなかろうか。暫く後に再度登場されるようである。その時に僧侶の制度について述べてみようかと思う。

八月乙酉。以近江朝書法一百卷。施入崇福寺。

八月四日に近江朝の書法(書の手本)百巻を崇福寺(志賀山寺、紫郷山寺)に施入している。

冬十月辛巳朔。日有蝕之。丁亥。太政官處分。山陽南海諸國舂米。自今以後。取海路遭送。若有漂損。依天平八年五月符。以五分論。三分徴綱。二分徴運夫。但美作。紀伊二國不在此限。丙申。有白氣貫日。癸夘。大納言藤原朝臣仲麻呂獻東大寺米一千斛。雜菜一千缶。

十月一日に日蝕があったと記している。七日に太政官が以下のように処分している・・・山陽・南海道の諸國の舂米(臼でついた白米)は、今より以後、海路をとって京に漕運することにし、もし船が漂流して舂米が損失したならば、天平八年五月の符により、損失分を五等分して、三分は綱領より徴し、二分は運送の人夫より徴せ。但し、美作と紀伊の二國は、この対象とはしない・・・。

十六日に白氣(白い気体)があって、太陽を貫いている。二十三日に大納言の藤原朝臣仲麻呂は、東大寺に米千石・雑菜千缶を献上している。

十一月丁巳。勅。如聞。出納官物諸司人等。苟貪前分。巧作逗留。稍延旬日。不肯收納。由此。擔脚辛苦。竸爲逃歸。非直敗治。實亦虧化。宜令彈正臺巡検。自今以後。勿使更然。丁夘。廢新甞會。以諒闇故也。〈検神祇官記。是年於神祇官曹司行新甞會之事矣。〉

十一月七日に次のように勅されている・・・この頃、官物を出納する諸司の官人達は、少しでも前分を貪ろうとし、巧みに品物を留めて置き、次第に延びて十日経っても敢えて官物を収納しようとしないことがある。そのため、運送の人夫は、この足止めに苦しみ、競って逃げ帰ると聞く。これは直ちに政治を損なうだけでなく、実にまた人民の教化を傷付けるものである。弾正台に巡検させることにする。今より以後、二度とこのようなことをさせてはならない。

十七日に新嘗会を廃している。太上天皇の諒闇のためである。<分注。『神祇官記』を調べると、この年は神祇官の曹司(庁舎)において新嘗会の事が行われている。>

十二月庚辰朔。自去月雷六日。甲寅「申」。請僧一百於東大寺轉讀仁王經焉。乙未。先是。有恩勅。收集京中孤兒而給衣糧養之。至是。男九人。女一人成人。因賜葛木連姓。編附紫微少忠從五位上葛木連戸主之戸。以成親子之道矣。己亥。越後。丹波。丹後。但馬。因幡。伯耆。出雲。石見。美作。備前。備中。備後。安藝。周防。長門。紀伊。阿波。讃岐。伊豫。土左。筑後。肥前。肥後。豊前。豊後。日向等廿六國。國別頒下潅頂幡一具。道塲幡卌九首。緋綱二條。以充周忌御齋莊餝。用了收置金光明寺。永爲寺物。隨事出用之。庚子。太上天皇御輿丁一人叙四階。一人二階。五十七人外二階。一百廿六人外一階。己酉。勅遣皇太子。及右大弁從四位下巨勢朝臣堺麻呂於東大寺。右大臣從二位藤原朝臣豊成。出雲國守從四位下山背王於大安寺。大納言從二位藤原朝臣仲麻呂。中衛少將正五位上佐伯宿祢毛人於外嶋坊。中納言從三位紀朝臣麻路。少納言從五位上石川朝臣名人於藥師寺。大宰帥從三位石川朝臣年足。彈正尹從四位上池田王於元興寺。讃岐守正四位下安宿王。左大弁正四位下大伴宿祢古麻呂於山階寺。講梵網經。講師六十二人。其詞曰。皇帝敬白。朕自遭閔凶。情深荼毒。宮車漸遠。號慕無追。万痛纏心。千哀貫骨。恒思報徳。日夜無停。聞道。有菩薩戒。本梵網經。功徳巍巍。能資逝者。仍寫六十二部。將説六十二國。始自四月十五日。令終于五月二日。是以。差使敬遣請屈。願衆大徳。勿辞攝受。欲使以此妙福无上威力。翼冥路之鸞輿。向華藏之寳刹。臨紙哀塞。書不多云。

十二月一日、去月より雷がなること六日に及んでいる。五日に僧百人を東大寺に招き、仁王経を転読させている。十六日、これより先に天皇の思いやりの深い勅があり、京中の孤児を取り集めて衣服と食糧を支給しこれを養わせている。ここに至り、男九人・女一人が成人している。このために彼等に葛木連の氏姓を賜い、紫微少忠の葛木連戸主の戸に編入して、親子の関係としている。

二十日に越後・丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・美作・備前・備中・備後・安藝・周防・長門・紀伊・阿波・讃岐・伊豫・土左・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向等の二十六國には、潅頂幡一具・道塲幡四十九首・緋綱二条を頒ち下し、各國で行う太上天皇の一周忌御齋会の立派な飾りに充てさせている。また、使用後は金光明寺(國分寺)に収め置き、永く寺物として、必要なことが起これば出し用いさせている。二十一日に太上天皇の御輿丁の一人に位四階を昇叙し、一人には位二階、五十七人には外位二階、百に十六人には外位一階をそれぞれ授けている。

三十日に勅されて、皇太子(道祖王)及び右代弁の巨勢朝臣堺麻呂を東大寺に、右大臣の原朝臣豊成と出雲國守の山背王を大安寺、大納言の藤原朝臣仲麻呂と中衛少将の佐伯宿祢毛人を外嶋坊(隅院近隣の法華寺内)、中納言の紀朝臣麻路(古麻呂に併記)と少納言の石川朝臣名人(枚夫に併記)を藥師寺、大宰帥の石川朝臣年足と弾正尹の池田王を元興寺、讃岐守の安宿王と左大弁の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)を山階寺(興福寺)にそれぞれ遣わし、梵網経を講じさせている。講師は六十二人であった。

この時天皇から託された詞は次のようであった・・・皇帝は敬んで申し上げる。朕は父の喪に会ってから、深く思いやり(情深)非常に苦しんでいる(荼毒トドク)太上天皇の棺を載せた車はようやく遠ざかり、叫んでお慕いしても追いかけることはできなくなった。あらゆる痛みが朕の心に纏わりつき、数限りない哀しみが骨を貫いている。恒に恩に報いようと思い、昼も夜も止むことがない。聞くところによれば、菩薩戒を身に保つには、梵網経に基づくのが良い。---≪続≫---

また、この経の功徳は甚だ大きく、死者の助けになることができる、と聞いている。そこで、これを六十二部書写し、六十ニ國に講説させることにした。来年の四月十五日から始めて五月二日に終わらせる。これにより、使を差し遣わし、敬んで僧を請い招かせるのである。もろもろの大德たちよ、辞退せずに承知することをお願いする。その優れて豊かなこの上ない威力によって、冥路にある太上天皇をお助けし、蓮華蔵の宝刹(寺のこと)に向かわせてあげたいと思う。紙面に向かって哀しみに胸が塞がるばかりである。書中であるので、これ以上多くは言わない・・・。

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この年五月に聖武天皇が崩御され、唐突に、道祖王が皇太子とされている。皇嗣の諍いが発生することになるが、左大臣橘朝臣諸兄の辞任があったり、その息子奈良麻呂と着実に実力を示し始めた藤原朝臣仲麻呂との確執も水面下で進行しつつあった時であろう。仲麻呂の東大寺への寄進など、今後の伏線と見做せる記述と思われる。皇嗣問題は、永遠の課題なのであろう。

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『續日本紀』巻十九巻尾






 

2022年7月15日金曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(9) 〔596〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(9)


天平勝寶七年(西暦755年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

七年春正月辛酉朔。廢朝。以諒闇故也。甲子。勅。爲有所思。宜改天平勝寳七年。爲天平勝寳七歳。」從七位上山田史廣人。從五位下比賣嶋女等七人。賜山田御井宿祢姓。甲戌。外正六位上丸子大國贈從五位下。外正六位下六人部藥授外從五位下。

正月一日、朝賀を廃している。大皇太后宮子が亡くなって諒闇(天皇が喪に服す)のためである。四日に[思うところがあるため、「天平勝寶七年」を改めて「天平勝寶七歳」とせよ]と勅されている(唐國の表記に準じたか)。この日、山田史廣人・比賣嶋女(前出。山田三井宿祢併記)等七人に「山田御井宿祢」(山田三井宿祢)の氏姓を賜っている。十四日に丸子大國に從五位下を贈り、「六人部藥」に外從五位下を授けている。

<六人部藥>
● 六人部藥

「六人部」は、六人部王に用いられた文字列ではあるが、無姓の氏族名としては初見であろう。後に「六人部連」の姓を持つ人物が登場するが、無姓の一族は、右京の地が本貫であったと伝えられている。

六人部六人=谷間(人)で盛り上がって広がる(六)地があるところであり、その部=近隣を表していると解釈される。その地形を求めると、大來皇女の山稜が延びた場所、來目皇子(古事記では久米王)、更には久米朝臣が蔓延った地域にある、図に示した場所と推定される。

頻出の藥=山稜に挟まれた谷間に丸く小高い地があるところと解釈したが、その地形も地図上で確認することができる。後に六人部久須利の別称が記載されている。久須利=[く]の字形に曲がった州が切り分けられているところと読み解けば、視点を変えた表記であることが解る。

「久須利(クスリ)」は、「藥」の訓読みである。即ち「藥」のことを意味すると解釈されるが、全ての「藥」が表す地形ではない。あくまで、この人物にのみ適用される別表記なのである。

三月庚申朔。外從五位下山田史君足賜廣野連姓。丁亥。八幡大神託宣曰。神吾不願矯託神命。請取封一千四百戸。田一百卌町。徒无所用。如捨山野。宜奉返朝廷。唯留常神田耳。依神宣行之。

三月一日に山田史君足(前出。廣野連併記)に「廣野連」姓を賜っている。二十八日に八幡大神は、次のように託宣している・・・神である吾は、偽りを言って神の託宣にかこつけることを願わない。先に請け取った封戸千四百戸・位田百四十町は、用いる所がなく役に立たない。このままでは山野に捨てて置くようなものである。故に朝廷にお返しし、尋常の神田を留めるだけにしたい・・・。神の宣に従って処理している。

夏四月丁未。從五位下丘基眞人秋篠等廿一人更賜豊國眞人姓。

四月十八日に丘基眞人秋篠(秋篠王。豐國眞人併記)等二十一人に、更に「豊國眞人」姓を賜っている。

五月丁丑。大隅國菱苅村浮浪九百卅餘人言。欲建郡家。詔許之。

五月十九日に「大隅國菱苅村」の「浮浪」九百三十余人は、[新たに郡家を建てたい(建郡)と思う]と言上している。詔して許している。

<大隅國菱苅村>
大隅國菱苅村

大隅國は、現在の遠賀郡遠賀町にあった國と推定した。薩摩國の東側であり、陽侯史一族が居処としていた地である。直近で銭千貫を貢進した眞身一家は、大隅國の北側に蔓延ったことが解った。

菱苅村の「菱」=「艸+夌」=「山稜が角張って広がった様」と解釈すると、菱苅=角張って広がった山稜で刈り取られたようなところと読み解ける。

図に示した場所にその地形を見出せる。菱形の台地で区切られて幾つかの山稜が延びていると見做した表記と思われる。国土地理院航空写真1961~9を参照すると、より明確になろう。

本文に記載された「浮浪」については、Wikipediaに解説されているが、この地では國守殺害事件が勃発したり、公地公民制による管理が難しい状況であったようである。通説のように奈良大和を中心とする解釈では、全国至る所に「浮浪」が発生していたのではなかろうか。

六月癸夘。安藝國獻白烏。壬子。大宰府管内諸國。國別貢兵衛一人。采女一人。」和氣王。細川王賜岡眞人姓。

六月十五日に安藝國が「白烏」を献上している。二十四日に大宰府管内の諸國別に兵衛一人・采女一人を貢上させている。この日に「和氣王・細川王」に岡眞人の氏姓を賜っている。

<安藝國:白烏>
安藝國:白烏

白烏は、これで四羽である・・・勿論、”白い烏”のことではなかろう。下総國獻白烏越前國獻白鳥上野國獻白烏、が記載されていた。面白いのが、越前國は「白鳥」を献じている。それでは瑞祥にはならないので、通常、「鳥」→「烏」に置換えられて解釈されている。

何故、「白」が用いられるのか?・・・白=くっ付ている様であり、開拓するのは二羽に挟まれた谷間だからである。重機のない時代に山そのものを開拓するのは至難であり、更に加えて神の住む山に手を加えることはあり得なかったのであろう。

さて、安藝國は、前記で木連理を献上した、と記載されていた。最も東側の山稜の端辺りと推定した。現在は宅地に造成され、国土地理院1961~9年航空写真を参照すると、その西側の山稜の端に白烏が鎮座していることが解った。下流域の開拓が着実に進捗している様子を物語っているようである。

<和氣王-細川王(岡眞人)・弓削女王>
● 和氣王・細川王[岡眞人]

久々に素性の知れた王達であった。父親は御原王(三原王)、舎人親王の孫となる系譜である。「和氣王」は、後に従三位・参議まで昇進するが、皇位継承に絡んで失脚したとのことである。

天武天皇直系の曽孫も臣籍降下させる時代に入ったのかもしれないが、何か特別の事情が潜んでいるようにも思われる。ともあれ、彼等の出自の場所を求めてみよう。

和氣王和氣=山稜がしなやかに曲がりくねっているところと解釈したが、御原王の山稜の北側の地形を表していると思われる。別名に別王があったと知られている。「別」=「冎+刀」=「骨の関節部のように区切られている様」と読むと、図に示した地形を示していることが解る。より的確な出自場所を求めることができたようである。

弟の細川王細川=窪んだ地を川が流れているところと読み解ける。前出の細川山で用いられた文字列である。図に示した場所が出自と推定される。續紀での登場は、この後見られないようである。二人に賜った岡眞人の氏姓については、彼等の居処が「岡」の地形であることに基づくのであろう。

後(淳仁天皇紀)に弓削女王が、叔父(大炊王)の即位に伴って従四位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である弓削=弓の形に削がれたところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。夫が叔父の三形王であり、皇位継承の混乱に翻弄された女王だったようである。

秋八月庚子。正六位上日下部宿祢子麻呂。食朝臣息人並授從五位下。

八月十三日に日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)・「食朝臣息人」に従五位下を授けている。

<食朝臣息人-三田次>
● 食朝臣息人

全く情報がない人物である。勿論、食(朝)臣も初見であるが、後には食朝臣三田次なる人物も登場するようである。関連するところを思い起こすと、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)に「御食津大神」(氣比大神)が記載されていた。

この大神の所在は、高志前之角鹿(都奴賀)、現地名では北九州市門司区喜多久、と推定した。沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の出自の場所があり、その他にも幾人かの人々の居処があった地である。

現在の地形図は、見る影もないくらいに変形していて、国土地理院航空写真1961~9年を参照すると、なだらかな山稜が広がった地域であったことが分かる。すると、息人=谷間の奥から延び出た山稜が[人]の形に岐れているところと読めば、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。

後に食朝臣三田次が登場する。三田次=三段になった平らな地が岐れて谷間になっているところと解釈すると、「息人」の上流域の谷間が出自と思われる。田口朝臣三田次などに用いられた文字列である。それにしても、凄まじいばかりの”掘り起こし”、であろう。

十月丙午。勅曰。比日之間。太上天皇枕席不安。寢膳乖宜。朕竊念茲。情深惻隱。其救病之方。唯在施惠。延命之要。莫若濟苦。宜大赦天下。其犯八虐。故殺人。私鑄錢。強盜竊盜。常赦所不免者。不在赦例。但入死罪者減一等。鰥寡惸獨。貧窮老疾。不能自存者。量加賑恤。兼給湯藥。」又始自今日。至來十二月晦日。禁斷殺生。」遣使於山科。大内東西。安古。眞弓。奈保山東西等山陵。及太政大臣墓。奉幣以祈請焉。

十月二十一日に次のように勅されている・・・ここ暫くの間、太上(聖武)天皇は、健康がすぐれず、寝食の状態がよろしくない。朕は密かにこれを思い、心中深くお気の毒に思い、悲しんでいる。病を救う方法は、ただ恵みを天下に施すだけである。延命の要は、人々の苦しみを救うに勝るものはない。天下に大赦を行うことにする。八虐を犯した者、故意による殺人、贋金造り、強盗・窃盗など、尋常の赦で許されない者は、この赦の範囲に入れない。但し、死罪にあたる者は、罪一等を減ぜよ。また、鰥・寡・惸・獨の者、貧窮や老年や病気のために自活できない者には、その程度を量って物を恵み与え、併せて煎じ薬を支給せよ。また、今日より始めて、來たる十二月の晦日に至るまで、殺生を禁止せよ・・・。

この日、使を山科(天智天皇陵)大内の東西(天武・持統天皇陵)安古(文武天皇陵。檜隈安古山陵)・「眞弓」(草壁皇子の墓)・奈保山の東西(元明・元正天皇陵。直山陵)などの山陵、及び太政大臣(藤原不比等)の墓に遣わして、幣帛を奉って太上天皇の回復を祈らせている。

<眞弓山陵・菅生王>
眞弓山陵

草壁皇子は、持統天皇即位三(689)年四月に二十七歳で早世した。前述したように、何とも素っ気ない記述を書紀がしていた。天武天皇崩御の後の皇嗣が混乱した時期でもあり、その墓所の記述は見られない。

関連する情報もなく、通説では、奈良県高市郡高取町眞弓丘陵とされているが、確たる根拠はないようである。そんな背景で、先ずは出自の場所近辺を探索することにする。

すると、娘の吉備皇女備=人+𤰇=山稜が[箙]のような形をしている様と解釈した場所、その[箙]の中の山稜が弓なりに曲がっていることに気付かされる。初見の文字列である眞弓=弓なりになった山稜が寄せ集められた窪んだところと読み解ける。

即ち、吉=蓋+囗=蓋をするように山稜が延びている様であるが、その「蓋」からはみ出た山稜も含めて眞弓と表現しているのである。纏めると眞弓山陵=弓なりになった山稜が寄せ集められた窪んだ地の傍らにある山に造られた陵墓と解釈される。

藤原不比等の墓所も求めたくなるところだが、その(地)名称でも分かれば試みてみよう。現在も考古学的には、例に違わず、確証が得られていないようである。

後(淳仁天皇紀)に菅生王が従五位下を叙爵されて登場する。相変わらず王の系譜については語られることはなく、他の情報も皆無のようである。名前を頼りに出自場所を求めると、既出の文字列である菅生=管のような山稜が生え出ているところと読むと、図に示した場所を見出すことができる。

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太安萬侶が古事記序文で、「於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改」と記載したように、「日下(部)」=「クサカ(べ)」と読む。これが何を意味しているのか、勿論、その場所も曖昧なままで今日に至っている。書紀は「草壁」と表記し、その場所を一に特定されることを避けているのである。古代史における最需要地点の一つを比定できていない有様である。奈良大和を掘り返しても、日本の古代は復元されることは、決して、ないであろう。

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十一月丁巳。遣少納言從五位下厚見王。奉幣帛于伊勢大神宮。

十一月二日に少納言の厚見王を遣わして、幣帛を伊勢大神宮に奉っている。

十二月丁未。以從五位下佐伯宿祢美濃麻呂爲越前守。

十二月二十三日に佐伯宿祢美濃麻呂を越前守に任じている。