2022年6月26日日曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(6) 〔593〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(6)


天平勝寶五年(西暦753年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

五年春正月癸夘朔。廢朝。天皇御中務南院。宴五位已上。賜祿各有差。丁未。伊勢大神宮神主外從五位下神主首名授外從五位上。」内人。物忌男卌五人。女十六人。授位各有差。庚午。從四位上平群朝臣廣成卒。

正月一日、朝賀を廃している。中務省の南院に出御されて、五位以上の官人等と宴を催し、それぞれに禄を賜っている。五日に伊勢大神宮の神主の神主首名に外從五位上を授け、物忌の男四十五人・女人十六人には、それぞれ位階を授けている。二十八日に平群朝臣廣成が亡くなっている。

二月辛巳。以從五位下小野朝臣田守爲遣新羅大使。辛夘。正六位上小田臣枚床授外從五位下。甲午。齋宮大神司正七位下津嶋朝臣小松授從五位下。

二月九日に小野朝臣田守(綱手に併記)を遣新羅大使に任じている。十九日に「小田臣枚床」に外從五位下を授けている。二十二日に齋宮大神司の「津嶋朝臣小松」に從五位下を授けている。

<小田臣枚床>
● 小田臣枚床

「小田臣」は、黄金を産出した陸奥國小田郡の郡領、小田臣根成の氏姓と記載されていた。この地の地形は、「天平感寶」の年号の由来でもあり、多くの情報が凝集した図になっているので、改めて登場した人物名のみを纏めて示した。

外従五位下の叙爵は、黄金に関係するようでもあるが、むしろ前記の遠田君小捄・金夜と同様に”蝦夷対策”だったのではなかろうか。

既出の文字列である枚床=山稜の端が岐れた先に四角く区切られた地があるところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。当時は、その高台の東側は海面下にあり、入江になっていたと推測される。かつての丹取郡の名称の由来と推測した地である。

「遠田君」の二人と合わせて、谷間に南北に並んでいることが解る。蝦夷の挙動を一早く知る役目を仰せつかったのであろう。黄金の産地を守ることも含めて、彼等三人への期待が込められた叙位だったと推測される。

<津嶋朝臣小松>
● 津嶋朝臣小松

「津嶋朝臣」は、元明天皇紀に堅石眞鎌共に従五位下を叙爵されて登場していた。その後、聖武天皇紀に家道(初見で外従五位下だが後に従五位下)、家虫・雄子(従五位下)が登場する。「家道」のみに初見で”外”を付いているが、不明である。

小松は從五位下で登場し、齋宮に関わっている。伝えられているように「中臣朝臣」と同祖であったことが伺える。いずれにせよ、使者派遣を命じたりして、新羅の挙動に関する情報収集と防御策を目論んだ叙位だったのではなかろうか。

既出の文字列である小松=二つの山稜が開いて延びる(松)前に三角の谷間(小)があるところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。現地名は、対馬市厳原町西里・今屋敷の境である。「津嶋朝臣」の中心地が厳原町西谷から移っているようである。

三月庚午。於東大寺。設百高座講仁王經。是日飄風起。説經不竟。於後。以四月九日。講説。飄風亦發。辛未。大納言從二位兼神祇伯造宮卿巨勢朝臣奈氐麻呂薨。小治田朝小徳大海之孫。淡海朝中納言大紫比登之子也。

三月二十九日に東大寺に百の高座を設けて、仁王経を講じさせている。しかし、この日につむじ風が起こって講義は途中までしか終わらなかった。その後四月九日に講じさせたが、またつむじ風が起こっている。三十日に大納言・神祇伯・造営卿を兼ねる巨勢朝臣奈氐麻呂が亡くなっている。小治田朝廷(推古天皇)の小徳の大海の孫、「淡海朝廷」(天智天皇)の中納言・大紫の比等(人、毘登。紫檀の兄)の子であった。

淡海朝廷の「淡海」は、書紀の記述では近江大津であり、通常、”近江國の大津”と読まれている。本著は、この「近江」は「淡海」を機械的に置き換えた結果と断定した。即ち、”淡海の大津”と解釈した。續紀が、正にその解釈を支持する記述を行っていることが確認された。より正確には、”近淡海の大津”である。續紀も、些か忖度して曖昧さを残した、のであろう。

幾度か述べたように、續紀は古事記の表現に限りなく近い。そして、まぼろしの『日本紀』は、日本書紀ではない、と推察した。書紀の表現に惑わされたままでは、續紀の解読には違和感が生じるであろう。それが續紀研究の少なさに通じているように思われる。

夏四月丙戌。詔曰。頃者皇大后寢膳不安。稍延旬月。雖用醫藥療治。而猶未平復。以爲。政治失宜。罹罪有徒。天遺此罸警戒朕身。其母子之慈。貴賎皆同。犯罪之徒。豈獨無親。庶悉洗滌。欲救憂苦。宜大赦天下。常赦所不免者。咸悉赦除。但殺其父母。毀佛尊像。及強盜竊盜。不在此例。若有入死減一等。癸巳。以正五位下大倭宿祢小東人爲參河守。從五位下阿倍朝臣小嶋爲駿河守。從五位上大伴宿祢犬養爲美濃守。從五位下平群朝臣人足爲越後守。從四位下巨勢朝臣堺麻呂爲丹波守。正四位下安宿王爲播磨守。從五位下安曇宿祢大足爲安藝守。從五位下石津王爲紀伊守。外從五位下清原連淨道爲筑後守。己亥。從五位下葛木連戸主授從五位上。

四月十五日に以下のように詔されている・・・この頃、皇太后(光明子)は寝食の状態が不安なことが十ヶ月にも及んでいる。医薬を用いて療治をしているが、なお回復には至らない。思うに朕の政治に誤りがあって、罪に陥って者が少なくない。天はこの罰を下して、朕の身を戒めているのである。母と子の慈愛は、身分の上下を問わず皆同じである。どうして罪を犯した者たちはその者たちだけが親なしでありえようか、そうではない。朕の願いとしては、彼等の犯した罪をすべて洗い流し、その親等の憂いや苦しみを救いたいと希望する。そのため天下に大赦を行うべきである。尋常の赦しに含まれない者もすべて赦免することにせよ。但し、父母を殺した者、仏の尊像を壊した者、及び強盗・窃盗は赦免の例には入れない。もし、この中で死罪にあたる者がおれば、罪一等を減ぜよ・・・。

二十二日に大倭宿祢小東人を參河守、阿倍朝臣小嶋(子嶋。兄の駿河に併記)を駿河守、大伴宿祢犬養(三中に併記)を美濃守、平群朝臣人足を越後守、巨勢朝臣堺麻呂を丹波守、安宿王を播磨守、安曇宿祢大足(阿曇宿祢。刀に併記)を安藝守、石津王を紀伊守、清原連淨道(淸道。高祿徳に併記)を筑後守に任じている。二十八日に葛木連戸主に従五位上を授けている。

五月庚戌。无位篠原王。伊刀王並授從五位下。乙丑。渤海使輔國大將軍慕施蒙等拜朝。并貢信物。奏稱。渤海王言日本照臨聖天皇朝。不賜使命。已經十餘歳。是以。遣慕施蒙等七十五人。齎國信物。奉獻闕庭。丁夘。饗慕施蒙等於朝堂。授位賜祿各有差。

五月十日に「篠原王」・伊刀王(道守王に併記)に従五位下を授けている。二十五日に渤海使輔國大將軍慕施蒙等が拝朝し、贈物を貢上している。そして次のように奏上している・・・渤海王(大欽茂)は、日本に君臨している神聖な天皇の朝廷に申し上げる。王は、天皇よりなすべきことのご命令を賜らなくなって既に十余年を経た。そこで、慕施蒙等七十五人を遣わし、我が国の贈物を持たせて朝廷に献上申し上げる・・・。二十七日に慕施蒙等を朝堂で饗応し、それぞれに位階を授け、禄を賜っている。

<篠原王>
● 篠原王

調べると鈴鹿王の子と分かった。即ち、高市皇子の孫である。同じ系譜では、前記に出雲王が多くの王たちと共に従五位下を叙爵されて登場していた。

すると出自の場所は、「出雲王」の東側の谷間と思われるが、その谷間は、「美和眞人」氏姓を賜って臣籍降下した壬生王・岡屋王の出自と推定した。

篠原王の既出の篠=竹+條(条)=細長く延びた山稜が連なってると解釈した。「笹のような様」とも読むことができる。その地形が、谷間の奧の西側に見出せる。

後に臣籍降下して豐野眞人氏姓を賜ったと知られる。豐=丰+丰+山+豆=高台に多くの段差がある様であり、谷間の西側の山稜の地形を表していると思われる。東側は「美和」の地形、実に上手く書き分けた臣籍降下だったようである。長屋王の子、黄文王の谷間と推定したが、その地に高市皇子一族が広がった様子が伺える。

六月丁丑。慕施蒙等還國。賜璽書曰。天皇敬問渤海國王。朕以寡徳虔奉寳圖。亭毒黎民。照臨八極。王僻居海外。遠使入朝。丹心至明。深可嘉尚。但省來啓。無稱臣名。仍尋高麗舊記。國平之日。上表文云。族惟兄弟。義則君臣。或乞援兵。或賀踐祚。修朝聘之恒式。効忠款之懇誠。故先朝善其貞節。待以殊恩。榮命之隆。日新無絶。想所知之。何假一二言也。由是。先廻之後。既賜勅書。何其今歳之朝。重無上表。以礼進退。彼此共同。王熟思之。季夏甚熱。比無恙也。使人今還。指宣往意。并賜物如別。」陸奧國牡鹿郡人外正六位下丸子牛麻呂。正七位上丸子豊嶋等廿四人賜牡鹿連姓。

六月八日に慕施蒙等が帰国している。天皇の印を捺した文書を賜り、次のように述べられている・・・天皇は敬んで渤海国王に尋ねる。朕は德は薄いが、うやうやしく天子の地位をお受けして、人民を育て養い、国の隅々まで君臨して治めている。王は、海外の僻地に居ながら、遠く使いを派遣し、入朝させている。真心は、まことに明らかで、深くこれを褒め称える。但し、もたらした書状を見ると、王は自身を臣とは称していない。そこで高麗の旧い記録を調べると、渤海が国を平定した日、王より天皇への上表文では次のように言っている。[日本と渤海は血族に例えるなら兄弟の関係だが、義の上では君臣の関係にある。そのため、時には援兵をお願いしたり、あるいは天皇の御即位をお祝い申し上げている。朝廷に参上する不変の儀式を整え、臣下としての忠誠の真心を表す]。---≪続≫---

それ故に、先代の聖武朝において渤海王の貞節を褒めて、使者に特別の恩恵を与えてもてなした。王の栄えある運命は日増しに隆盛となり、絶えることがないであろう。思うに王はこれをよく知っているであろう。どうしてそれに触れる必要があろうか。これにより、先回の後に、渤海に使者を遣わし、既に勅書を賜った。それなのにどうして汝の国は今歳の朝貢に際し、重ねて上表しようとしないのか。礼に従って行動することは、汝の国でも我が国でも共に同じである。王よ、よくよくこのことを思え。時は夏の末にあたり、暑さは甚だしい。近頃王は無事であるか。使人は今帰国しようとしている。朕はかねて思っていたことを指し示して申し渡し、併せて物を下賜するが、それは別紙の通りである・・・。

この日、「陸奧國牡鹿郡」の人、「丸子牛麻呂・丸子豊嶋」等二十四人に牡鹿連姓を賜っている。

<陸奥國牡鹿郡>
<丸子牛麻呂-豐嶋-嶋足(牡鹿連)>
陸奥國牡鹿郡

「牡鹿郡」は初見ではあるが、前記に牡鹿柵が登場していた。陸奥國の五柵の中の一つであった(こちら参照)。おそらく、その柵があった一帯を表していると思われる。

地図を確認すると「牡鹿」の地形は明瞭なのだが、その周辺となると、現在は大きく変貌していることが分かる。

国土地理院航空写真1961~9年を確認すると、それ変貌する以前の状態が分かるが、極めて不鮮明であり、少し時代が進んだ1974~8年の写真を用いることにした。

と言っても、海辺に山稜が迫った、実に狭隘な地であったことが認められた。だが、いつものように谷間があり、そこが記載された人物の出自の場所と思われる。

● 丸子牛麻呂・豐嶋 丸子は、図に示したように延びる山稜から丸い形の山稜が生え出た地形を表現したものと思われる。このあたりが、山稜が削り取られて全く消失してしまっている。牛麻呂は、牛の頭部を模した表記であろう。こちらもどうであるが、当時に近い地形をしていたと推測される。

豐嶋=段差のある高台が鳥の地形の傍らにあるところと読み解ける。「牛麻呂」の東側の場所を表していると思われる。賜った牡鹿連姓は、郡名そのままである。直近で登場した”小田郡の小田臣”、”遠田郡の遠田君”に類する氏姓である。八月記で丸子嶋足も牡鹿連を賜ったと記載される。併せて図に示した。これら人物等も蝦夷対策の一環として引き摺り出されたのであろう。

秋七月庚戌。散位從四位下紀朝臣清人卒。戊午。左京人正八位上石上部君男嶋等卌七人言。己親父登与。以去大寳元年。賜上毛野坂本君姓。而子孫等籍帳猶注石上部君。於理不安。望請。隨父姓欲改正之。詔許焉。
八月癸巳。陸奧國人大初位下丸子嶋足賜牡鹿連姓。

七月十一日に散位の紀朝臣清人が亡くなっている。十九日に左京人の「石上部君男嶋」等四十七人が次のように言上している・・・私の父の「登与」は、去る大寶元(701)年に「上毛野坂本君」の氏姓を賜った。ところがその子孫たちの戸籍・計帳には、なお石上部君と記されている。道理からしても納得できない。そこで父の姓に従って上毛野坂本君に改正されることを望む・・・。詔されて許されている。

八月二十五日に陸奥國の人、「丸子嶋足」(上図参照)に牡鹿連の氏姓を賜っている。

<石上部男嶋・上毛野坂本君登與>
● 石上部男嶋(上毛野坂本君)

「石上部」の氏名は、聖武天皇紀に上野國碓氷郡の人である石上部諸弟が登場していた。「左京人」と記されているが、出自の場所は「諸弟」の近隣だったのであろう。

「石上」は、勿論、「磯の上」であり、「部」=「近隣」を表しているから、現在の五徳川沿いの地か?…と錯覚しそうになるところである。

と言うことで、迷わず「碓氷郡」で前の男嶋=「男」の地形がある鳥の形をした山稜が延びているところで探索することになる。ところが、一見では「嶋」=「山+鳥」の地形がすんなりとは見出せなかった。結果、「鳥」の形をいつものように羽を広げた形ではなく、側面から眺めた表記であることに気付かされた。

図に示したように、長くしなやかに曲がって延びる山稜を長い首、その端に細かく岐れている形を羽と見做した表記である。「男」は、首の付け根辺りの山稜の形を表してると思われる。

言上している氏姓の名称、上毛野坂本君(公)は実に興味深い。「上毛野」とくれば、多くの人材を輩出している地、ではなかろう。「上毛野」を表す地形がこの地に存在するのである。上毛野=盛り上がった地がある鱗のような形をした野と解釈した。「上毛・下毛」の」ような上・下流域を示すのではない。

既出の文字列である坂本=延びた山稜が麓で途切れているところと解釈した。図に示した通り、途切れる場所を「上毛」と表現しているのである。何度も述べるように、固有の人名・地名は存在しないのである。この一連の記述が、「上野」=「上毛野」とする従来の解釈の根拠となってしまったようである。

父親の名前である登与(與)=山稜が岐れる地にある高台で二つの山稜が寄り集まっているところと読み解ける。「登」も「與(与)」も重要な人名・地名に含まれる文字である。「男嶋」の西側にある谷間の奧を表している。

九月戊戌朔。无位板持連眞釣獻錢百万。授外從五位下。壬寅。攝津國御津村南風大吹。潮水暴溢。壞損廬舍一百十餘區。漂沒百姓五百六十餘人。並加賑恤。仍追海濱居民遷置於京中空地。乙丑。從四位上石川朝臣年足。授從三位。爲大宰帥。從四位上紀朝臣飯麻呂爲大貳。

九月一日に「板持連眞釣」が銭百万(文。一千貫)を献上し、外従五位下を授けている。五日に攝津國の「御津村」では、南風が大いに吹いたため海水がにわかに陸地に押し寄せ、家屋百十ヶ所が壊れ損じ、人民五百六十余人が流され沈んでいる。それそれ物を恵み与えている。これにより海浜に居住する人民を召して京中(難波京か?…ではなく、高台が大きく広がった地である)の空地に遷し住まわせている。二十八日に石川朝臣年足に従三位を授けて大宰帥に、紀朝臣飯麻呂を大弐に任じている。

<板持連眞釣>
● 板持連眞釣

「板持連」は、元正・聖武天皇紀に板持連内麻呂・安麻呂が登場していた。河内國錦部郡、現地名では行橋市下崎辺りと推定した場所である。

この二人の出自の場所は、何とか通常の地形図で求めることができたが、この地も上記の「陸奥國牡鹿郡」と同じく大変貌の地であり、国土地理院航空写真に頼ることになった。

眞釣眞=窪んだ地に寄せ集められている様であるが、「釣」は少々解釈をしてみよう。「釣」=「魚を釣り上げる」意味を示すが、「釣」=「金+勺」と分解する。地形象形的には釣=先が尖った高台(金)が柄杓のような形(勺)をしている様と読み解ける。

この地形を、国土地理院航空写真1974~8年の地図で確認することができる。現在では、ほぼ全て山稜が削り取られているようである。「眞釣」の出自の場所は、図に示した場所と推定される。銭一千貫も献上できる財力をこの谷間で生み出したのであろう。後に地方官として取り立てられ、昇位もされたようである。

攝津國御津村について、補足しておこう。書紀の孝徳天皇紀に記載された四天王寺の別称に「御津寺」あり、そして斉明天皇紀に難波三津之浦が登場している。即ち、「三津之浦」の背後の地を御津村と称したものと思われる。現地名は行橋市西泉である。上記でも述べたが、遷し住まわせた「京」の解釈、地形を表しているのである。

冬十月壬申。散位從四位下紀朝臣宇美卒。甲戌。中務卿從三位栗栖王薨。二品長親王之子也。

十月五日に散位の紀朝臣宇美が亡くなっている。七日に中務卿の「栗栖王」が亡くなっている。「長親王」の子であった(こちら参照)。

十一月己亥。尾張國獻白龜。
十二月丁丑。免攝津國遭潮諸郡今年田租。己夘。西海道諸國。秋稼多損。仍免今年田租。

十一月二日に尾張國が「白龜」を献上している。

十二月十一日に攝津國の高潮にあった諸郡の今年の田租を免除している。十三日に西海道の諸國は、秋の収穫の多くを損失している。よってこれら諸國の今年の田租を免除している。

<尾張國:白龜>
尾張國:白龜

尾張の地で白龜を探しなさい!…何ともご親切なことなのだが、勿論、「白い亀」ではない。幾度も記述されたように、白龜=亀のように見える地がくっ付いているところである。

これほどまでに記載されたなら、既に瑞祥ではない、筈である。解釈のしようがないので「白い亀」としてしまうのであろう。勿体ない話である。未開の地が開拓された歴史を見逃すことになる。

尾張國には山田郡が存在していたと記述されている。そもそもは、書紀の天武天皇紀に登場したのであるが、續紀もそれを引き継いで、生江臣安久多という人物を記載している。國分寺への寄進が認められて外従五位下を叙爵されていた。かなり精力的に山奥の谷間を開拓していたのであろう。

現在は高速道路が通り、地形の変形が見られるので、例によって国土地理院航空写真1961~9年を図に示した。と言うことで、少々不鮮明ではあるが、二匹の龜が並んでいるところが見出せる。そのくっ付いた谷間を耕地にし、公地として献上したのである。












 

2022年6月20日月曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(5) 〔592〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(5)


天平勝寶四年(西暦752年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

秋七月甲寅。中務卿正三位三原王薨。一品贈太政大臣舍人親王之子也。庚申。正四位下栗栖王授從三位。甲子。下総國穴太部阿古賣一産二男二女。賜粮并乳母。戊辰。泰廉等還在難波舘。勅遣使賜絁布并酒肴。

七月十日に中務卿の「三原王」(御原王)が亡くなっている。太政大臣の「舎人親王」の子であった(こちら参照)。十六日に栗栖王に従三位を授けている。二十日に下総國の「穴太部阿古賣」は、一度に二男二女を産んだ。食糧と乳母を賜っている。二十四日に泰廉等は帰途について難波館に泊まった。勅されて、使者を派遣し、絁・麻布と酒や肴を賜っている。

<穴太部阿古賣>
● 穴太部阿古賣

「下総國」について、その詳細が記述されていたのが、「香取郡」及び外従五位下を叙爵された「香取連五百嶋」が登場していた(こちらこちら参照)。国土地理院航空写真1961~9年、所謂、日本列島改造が起こる以前の貴重な資料で地形を確認することができたのである。

「穴太部」は、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)の子、間人穴太部王(廐戸皇子の母親)に用いられていた。その他の地の「穴太部」の名称を持つ人物が登場していた。穴太部=山稜に囲まれた谷間(穴)が大きく広がった(太)地の近く(部)にあるところと解釈した。

その地形を図に示した「香取郡」の東側に見出せる。既に整地が進捗している様子であり、実に際どい・・・阿古=台地(阿)が丸く小高く(古)なっているところと読むと、「穴太」に隣接して台地があることが解る。上側の現在の地形図でも辛うじて谷間及び台地を確認することができる。その麓がこの人物の出自と推定される。

八月庚寅。捉京師巫覡十七人。配于伊豆。隱伎。土左等遠國。
九月庚戌。中納言從三位紀朝臣麻路爲兼大宰帥。乙丑。從三位智努王等賜文室眞人姓。丁夘。渤海使輔國大將軍慕施蒙等著于越後國佐渡嶋。

八月十七日に京中にいる巫覡(男女のみこ)十七人を捕らえて、伊豆・隠岐・土佐などの遠國に配流している。

九月七日に中納言の紀朝臣麻路(古麻呂に併記)を兼大宰帥に任じている。二十二日に智努王(長皇子の子。大市王:文室眞人大市に併記)等に「文室眞人」の氏姓を賜っている。二十四日に渤海使輔國大将軍慕施蒙等が「越後國佐渡嶋」に到着している。

越後國佐渡嶋について、天平十五(743)年に「二月辛巳。以佐渡國并越後國」と記載されていた。佐渡國渡嶋蝦夷の居処の嶋を示していると思われる。神龜四(727)年九月に渤海郡王の使者が出羽國に来着したと記されていて、彼等は大宰府には向かわず、「淡海」(現在の関門海峡)を通過するようである。

冬十月甲戌朔。地震。乙亥。亦震。戊寅。以常陸守從三位百濟王敬福爲検習西海道兵使。判官二人。録事二人。庚辰。遣左大史正六位上坂上忌寸老人等於越後國。問渤海客等消息。辛巳。伊世國飯野郡人飯麻呂等十七人賜秦部姓。

十月一日に地震が起こり、また翌日の二日にも発生している。五日に常陸守の百濟王敬福(①-)を検習西海道兵使(臨時の官職、以後記載されない)に任じ、判官二人及び録事二人も併せて任じている。七日に左大史の坂上忌寸老人(犬養に併記)等を越後國に遣わし、渤海客等の消息を問わさせている。八日に「伊世國飯野郡」の人、「飯麻呂」等十七人に「秦部」姓を賜っている。

<伊世國飯野郡・秦部飯麻呂>
伊世國飯野郡

一瞬戸惑わさせられるのが、伊世國であろう。そんな國があったのか?…ありました。伊勢國の別名表記である。

いや、別名ではなく、そもそも伊勢の名称は、現地名の北九州市小倉南区蒲生にある虹山の地形()に基づく名称と読み解いた(こちら参照)。伊勢國は、実に広大な國だったのである。

「伊世」の文字列は、如何なる地形を表しているのであろうか?…伊世=谷間で区切られた山稜が途切れずに引き継がれているところと読み解ける。図に示しが場所、伊勢國飯高郡として登場した地に含まれている。「勢」ではなく「世」の地形
が支配的な地域なのである。

多分に戯れている様子なのだが、古事記の「須理毘賣命」の別表記に「須理毘賣命」があった(こちら参照)。「勢」と「世」が置き換えられることによって、より正確に出自の場所を表すことができる。地形象形の妙味と言える表記であろう。共に「セ」と読んで問題なし、では勿体ないことこの上なしである。

さて、飯野郡は、勿論伊勢飯高君が坐した、その前面に広がるなだらかな野(山稜が平らに延びているところ)であろう。因みに飯高=なだからに延びる山稜の後ろにある皺が寄ったようなところである。直近では飯高君笠目が登場していた。

● 飯麻呂(秦部) 伊勢國には珍しい広い水田地帯、そこの住人が一向に登場することがなかった。藤原朝臣京家吉日がその北側の山麓に蔓延ったのだが、彼等は、この飯野には進出した気配は感じられなかった。漸く、そこに人々住まっていたと伝えてくれている。

「飯麻呂」は、そのまま解釈されるとして賜った秦部について述べてみよう。既出の秦=艸+屯+禾=二つの山稜が長く延び出ている様と解釈した。部=近隣として、「飯高」の山稜を「秦」と見做した表記と思われる。正に空白の地を埋め尽くす様相である。

十一月乙巳。正六位上佐伯宿祢美濃麻呂授從五位下。」復置佐渡國守一人。目一人。」以從四位上藤原朝臣永手爲大倭守。從五位下藤原朝臣宿奈麻呂爲相摸守。從五位下大伴宿祢伯麻呂爲上野守。從五位下小野朝臣小贄爲下野守。從五位下佐伯宿祢美濃麻呂爲大宰少貳。」又以參議從四位上橘朝臣奈良麻呂爲但馬因幡按察使。兼令検校伯耆。出雲。石見等國非違事。己酉。勅。諸國司等欠失官物。雖依法處分。而至於郡司未甞科斷。自今已後。郡司亦解見任。依法科罪。雖有重大譜第。不得任用子孫。壬子。制。諸司無故不上者。令放還本貫。其有位者爲外散位。无位者還從本色。
十二月癸酉朔。日有蝕之。

十一月三日に「佐伯宿祢美濃麻呂」に從五位下を授けている。また、「佐渡國」に守一人、目一人を復置している。藤原朝臣永手を大倭守、藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)を相模守、大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を上野守、小野朝臣小贄を下野守、「佐伯宿祢美濃麻呂」を大宰少弐に任じている。また、参議の橘朝臣奈良麻呂(橘宿祢)を但馬因幡両國の按察使に任じ、併せて伯耆・出雲石見などの國での違法の行為(非違事)を取り調べさせている。

七日に以下のように勅されている・・・諸國の國司等が官物を欠失した場合は法に依って処分しているが、郡司の場合は今まで処罰していなかった。今後は郡司も現職を解任し、法に依って罪科を処すことにする。代々郡司に任ぜられてきた有力な名門であっても、そのような者の子孫を任用することはしない・・・。

十日に以下のように制している・・・諸司の官人で理由なく出勤しない者は、本籍地に送還する。有位者は外散位にし、無位の者は、本籍地に帰して本来の身分に従わせよ・・・。

十二月一日に日蝕があったと記している。

<佐伯宿禰美濃麻呂-國益>
● 佐伯宿祢美濃麻呂

初見で内位の従五位下で叙爵されての登場である。直近では乙首名(全成に併記)も同様であり、多分、その近隣が出自と思われる。調べると、Wikipediaには、大伴宿祢美濃麻呂と混同された記事が掲載されているようである。

それは兎も角、「佐伯宿祢」の地で、美濃麻呂の「美濃」の地形を探してみよう。美濃=谷間が広がった地に二枚貝が舌を出したような山稜が延びているところと解釈した。「美濃」は固有の地名・人名ではない。

すると、「乙首名」の背後の山稜がその地形を示していることが解る。この近辺を出自とする人物名を併せて記載したが、何とも見事に配置されているように思われる。狭隘な谷間に?…全くの杞憂であった。

別名に美乃麻呂があったことが知られている(後の淳仁天皇紀に記載)。二枚貝の形を「乃」で表しているが、確かに「貝」よりも適切な表現かもしれない。この地の周辺は、急な斜面に凄まじいくらいに棚田が形成されていたのであろう。今に残る日本の原風景である。

後(淳仁天皇紀)に佐伯宿祢國益が従五位下を叙爵されて登場する。相変わらず系譜は不詳のようである。國益=囲まれた大地が谷間に挟まれて平らに広がっているところと解釈すると、「美濃麻呂」の西側の山腹が出自と推定される。

<佐渡國>
佐渡國

上記したように佐渡國は、天平十五(743)年に越後國に併合されたのだが、またここで元に戻している。再掲した佐渡國の地形をあらためて見ると、越後國(図では越後蝦狄)が目を光らせるには、些か広範囲過ぎるであろう。

そもそも、佐渡からの侵入に対して、越後國の秋田村高清水岡に出羽柵を設置して防御する体制を採っていた。それは適切な配置かと思われるが、佐渡までの侵入を許したことになる。もう一歩進めた対策が必要だったのである。

勿論、これは「渤海」来着が、契機であろう。越後國に任せきりでは、彼等のその後様子が把握できない。慌てて使者を送る羽目になったと記載している。「渤海」の興隆に加えて、新羅の王子が語るように朝鮮半島統一の「新羅」が大船団で来朝したり、大陸内での動きが活発になりつつあったと感じたのであろう。太平の時代から動乱へと移って行く時を迎えていたのである。

按察使に監察をさせた但馬・因幡両國は、古の新羅王子に関わる地であり、淡海に面する伯耆・出雲両國は佐渡國周辺であり、その地の状況把握は極めて重要であったと思われる。また石見國は、大倭への直入する拠点の地である。「非違事」とは、武器の装備を暗示しているのであろう。

幾度も述べるように、朝鮮半島が騒ぐと、東北の蝦夷対策に走る日本、この史実を真面に説明できることが肝要であろう。佐渡國は、まかり間違っても現在の佐渡島ではない。

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『續日本紀』巻十八巻尾

 

2022年6月14日火曜日

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(4) 〔591〕

寳字稱徳孝謙皇帝:孝謙天皇(4)


天平勝寶四年(西暦752年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月己夘朔。大宰府獻白龜。辛巳。禁斷始從正月三日迄于十二月晦日天下殺生。但縁海百姓。以漁爲業。不得生存者。隨其人數。日別給籾二升。又鰥寡孤獨。貧窮老疾。不能自存者。量加賑恤。己丑。地動。是日。度僧九百五十人。尼五十人。爲太上天皇不悆也。癸夘。以正七位下山口忌寸人麻呂爲遣新羅使。戊申。從六位下山田史君足授外從五位下。

正月一日に大宰府が「白龜」を献上している。三日、正月三日から十二月晦日まで全国に殺生を禁じている。但し、海の近くに住む民で漁を生業としなければ生活をしていけない者には、その人数に応じて日ごとに籾米二升を与えている。また、「鰥・寡・孤・獨」の者、貧苦に苦しんだり、年老いたり病気になったりして自活できない者に対しては、その程度に応じてものを恵み与えている。

十一日に地震が起きている。この日に僧九百五十人と尼五十人を出家させている。太上天皇が病気(不悆:心地よくない)のためである。二十五日に山口忌寸人麻呂(父親の大麻呂に併記)を遣新羅使に任じている。三十日に「山田史君足」に外従五位下を授けている。

<大宰府:白龜>
太宰府:白龜

正月早々の瑞祥の献上である。後日談があるのか否やは、後に述べるとして、勿論、「白い亀」では毛頭ない。地形象形表記の文字解釈は、白龜=亀の形をした山稜がくっ付いているところである。

太宰府の献上は、書紀の天武天皇紀に赤鳥(三輪君小鷦鷯の出自場所)、大鐘三足雀などが記載されている。現在の妙見山から北に延びる山稜の西麓、急峻な地形を開拓したことを伝えていると解釈した。

「龜」の地形を認識するのに些か戸惑ったが、どうやら、図に示した、現在の延命寺川が流れ出る谷間の出口の地形を示していると思われる。西は鞠智城(三足雀)、東は筑紫八幡社がある小山を「龜」の頭に見立てたと思われる。

その上流域は古事記の言う黄泉國・・・開拓は、そこまで進捗しつつあったのだろう。白龜は、両側の山稜が延びてくっ付くような()場所と推測される。現在は大谷池が造られて、大きく変化しているが、当時は谷合を整えて耕地としたのではなかろうか。

<山田史君足(廣野連)・山田御井宿祢公足>
● 山田史君足

山田史一族の登場が、それなりに多く見られるようになった。御形に始まって、直近では「女嶋・廣人」が山田三井宿祢の氏姓を賜ったと記載されている。

決して広い土地ではなく、果たして新規の登場人物を収めることができるのであろうか?…山田の地を散策すると、それらしき場所に辿り着けたようである。

既出の文字列である君足=区切られて整えられた高台から延びる山稜が足のような形をしているところと読み解ける。姓「君」ではなく、地形象形表記として用いられている。出自の場所は、最奥の谷間と推定される。後に「廣野連」の氏姓を賜り、廣野連君足と名乗ったと記載されている(更に長野連へ変わったとか)。谷間の奥が広がった様子を表記したのであろう。

後(称徳天皇紀)に女官の山田御井宿祢公足が外従五位下を叙爵されて登場する。立派な氏姓を賜っているのだが、系列が異なっていたのかもしれない。公足=谷間にある小高い地から足のような山稜が延び出ているところと解釈すると、図に示した辺りが出自と推定される。

二月丙寅。陸奧國調庸者。多賀以北諸郡令輸黄金。其法。正丁四人一兩。以南諸郡依舊輸布。己巳。京畿諸國鐵工。銅工。金作。甲作。弓削。矢作。桙削。鞍作。鞆張等之雜戸。依天平十六年二月十三日詔旨。雖蒙改姓。不免本業。仍下本貫。尋検天平十六年以前籍帳。毎色差發。依舊役使。

二月十八日に陸奥國の調・庸は、「多賀」より以北の諸郡には黄金を貢輸させるようにしている。その基準は、正丁四人につき一両としている。南の諸郡には旧来通りに、麻布を提出させている。

二十一日に京・畿内の諸國の鉄工・銅工・金作・甲作・弓削・矢作・鉾削・鞍作・鞆張等の雑戸は、天平十六年二月十三日の詔の趣旨によって、改姓を許すという恩典をこうむったが、本業を免除されたわけではない。そこで本籍地に照会して、天平十五年以前の戸籍や計帳をたずね調べて役種ごとに徴発し、旧来の通りに使役している。

陸奥國多賀は、前記で登場した多賀柵があった地であろう。黄金が出土した小田郡は陸奥國の最北地の一角にあり、多賀以北の人々が総動員された様子が伺える。広さでは陸奥國の半分以上となる。麻を収穫するより、黄金…実際、採掘に使役されたのだから、それが年貢となったわけである。

三月庚辰。遣唐使等拜朝。甲午。中務大輔從四位下安倍朝臣虫麻呂卒。
閏三月丙辰。召遣唐使副使已上於内裏。詔給節刀。仍授大使從四位上藤原朝臣清河正四位下。副使從五位上大伴宿祢古麻呂從四位上。留學生无位藤原朝臣刷雄從五位下。己巳。大宰府奏。新羅王子韓阿飡金泰廉。貢調使大使金暄及送王子使金弼言等七百餘人。乘船七艘來泊。乙亥。遣使於大内。山科。惠我。直山等陵。以告新羅王子來朝之状。

三月三日に遣唐使等が拝朝している。十七日に中務大輔の安倍朝臣虫麻呂(阿倍朝臣虫麻呂)が亡くなっている。

閏三月九日に遣唐使の副使以上を内裏に招集して、詔して節刀を与えている。よって大使の藤原朝臣清河に正四位下、副使の大伴宿祢古麻呂(三中に併記)に従四位上、留学生の藤原朝臣刷雄(眞從に併記)に従五位下を授けてる。

二十二日に大宰府が次ように奏上している・・・新羅の王子で韓阿飡の金泰廉、貢調使で大使の金喧、及び王子を送る使の金弼言等七百余人が七艘の船に乗って来て泊まっている・・・。二十八日に使者を「大内・山科・惠我・直山」などの陵に派遣して、新羅の王子が来朝したことを報告させている。

前記で”従四位上”の吉備朝臣眞備を副使に起用したことから、大使、もう一人の副使を”従四位上”以上にしたのである。と言うことで、なかなかに大物が揃った遣唐使団となったようである。

大内陵:天武・持統天皇陵、大内山陵。山科陵:天智天皇陵。惠我陵:古事記の品陀和氣命(応神天皇)陵、川內惠賀之裳伏岡陵。新羅王子の末裔である母親(こちら参照)のお腹の中で新羅に渡り、天皇即位後に朝鮮半島から多くの文化・技術・人材を受け入れている。直山陵:元明・元正天皇陵、奈保山(那富山)。

夏四月乙酉。盧舍那大佛像成。始開眼。」是日行幸東大寺。天皇親率文武百官。設齋大曾。其儀一同元日。五位已上者著礼服。六位已下者當色。請僧一万。既而雅樂寮及諸寺種種音樂並咸來集。復有王臣諸氏五節。久米舞。楯伏。踏歌。袍袴等哥舞。東西發聲。分庭而奏。所作奇偉不可勝記。佛法東歸。齋會之儀。未甞有如此之盛也。」是夕。天皇還御大納言藤原朝臣仲麻呂田村第。以爲御在所。辛夘。以從四位下藤原朝臣八束爲攝津大夫。

四月九日に廬舎那大仏の像が完成して、開眼供養をしている。この日に東大寺に行幸され、天皇自ら文武の官人等を引き連れて、供養の食事を設け、盛大な法会を行っている。その儀式は、全く元旦のそれに同じであった。五位以上の官人は礼服を着し、六位以下は位階に対応する規定の朝服を着けている。僧一万人を招請し、それまでに雅楽寮及び諸寺から、さまざまな音楽に携わる人々が全て集められている。また、全ての皇族・官人・諸氏族による五節舞・久米舞・楯伏の舞・踏歌の舞・袍袴の舞などの歌舞が行われている。東西に分かれて歌い、庭に分かれて演奏されている。その状況の素晴らしさは、いちいち書き尽くせないほどであった。仏法が日本に伝来して以後、斎会として未だかつてこのような盛大なものはなかった、と述べている。この日の夕べは、天皇は大納言の藤原朝臣仲麻呂の「田村第」(邸宅)に帰り、御在所にしている。

十五日に藤原朝臣八束(眞楯)を攝津大夫に任じている。

<田村第>
田村第

藤原南家が所有していた邸宅と知られている。「還御」と記載されるのだから、東大寺から平城宮に還る方向にあったと思われる。多分、左京の一角を占める地であろう。

重要なのは、この邸宅に田村第と言う名称が付けられていたことである。勿論地形象形表記として、その邸宅の場所を突き止めることができる。

「田村」の「村」の文字、それが示す地形を読み取れるや否や、”村の名前”としてしまっては、記紀・續紀は全く読めていないことになる。「田村(木+寸)」=「開いた手のように延びている地に田があるところ」と解釈される。「第」=「竹+弟」=「段々に積み重なっている様」である。

纏めると田村第=開いた手のように延びている地に田が段々に積み重なっているところと読み解ける。図に示した藤原宮の西側の谷間の地形を表していることが解る。両宮より広くはないが、それらに匹敵するくらいの広さを持った場所である。流石、と言うしかないであろう。藤原朝臣一族の権勢を垣間見る思いである。

五月庚戌。正六位上小野朝臣小贄授從五位下。女孺无位藤原朝臣兒從從五位下。壬子。女孺從六位下鴨朝臣子鯽授從五位下。己丑。外從五位下大鳥連大麻呂授從五位下。庚申。无位中臣殿來連竹田賣授外從五位下。丙寅。免官奴鎌取。根足。鎌取賜巫部宿祢。根足賀茂朝臣。辛未。以從五位下多治比眞人犢養為遠江守。從五位下巨勢朝臣淨成爲下総守。從三位百濟王敬福爲常陸守。從五位下笠朝臣蓑麻呂爲上野守。從四位上平群朝臣廣成爲武藏守。從五位上佐伯宿祢全成爲陸奧守。從五位下粟田朝臣奈勢麻呂爲越前守。從五位上阿倍朝臣嶋麻呂爲伊豫守。

五月五日に「小野朝臣小贄」に從五位下、女孺の藤原朝臣兒從(眞從に併記)に從五位下を授けている。七日に女孺の「鴨朝臣子鯽」に從五位下を授けている。(己丑?、己未)十四日に大鳥連大麻呂に從五位下を授けている。十五日に「中臣殿來連竹田賣」に外從五位下を授けている。二十一日に官奴を免じて、「鎌取」に巫部宿祢、根足(虫麻呂に併記)に賀茂朝臣の氏姓を賜っている。

二十六日に多治比眞人犢養(家主に併記)を遠江守、巨勢朝臣淨成を下総守、百濟王敬福(①-)を常陸守、笠朝臣蓑麻呂を上野守、平群朝臣廣成を武藏守、佐伯宿祢全成を陸奧守、粟田朝臣奈勢麻呂を越前守、阿倍朝臣嶋麻呂を伊豫守に任じている。

<小野朝臣小贄-竹良>
● 小野朝臣小贄

列記とした小野朝臣一族だったのであろう。初見で従五位下を叙爵されている。直近では、田守(綱手に併記)が同じく従五位下を賜っているが、この人物も系譜不詳であった。

「妹子」からの系譜は、かなり詳しく伝えられているようであるが、この系列は、現在の御祓川の西岸に広がっていた(こちら参照)。

上記の「田守」は、「妹子」に北側に当たり、御祓川東岸の山稜の麓と推定した。既出の文字列である小贄=三角形(小)の谷間(貝)を両手を合わせて差し延べるような山稜で挟まれた(執)ところと読み解ける。「贄」=「執+貝」と分解して解釈される文字である。その地形を妹子の南側の谷間に見出すことができる。

少し後に小野朝臣竹良が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳であり、竹良(竹のように山稜が並ぶなだらかなところ)の名前が表す地形から出自の場所を求めると、上図に示した辺りと推定される。別名に都久良([く]の字形に曲がった山稜が集まるなだらかなところ)があったと知られているが、地形的には、こちらの方がしっくりしているように感じられる。最終従四位下まで昇進されるようである。

今回もまた、取り残された地域からの登用のようである。九州東北部の全ての谷間を埋め尽くすかの様相である。續紀読解、途中で止めるわけにはいかない・・・ような感じである。

<鴨朝臣子鯽>
● 鴨朝臣子鯽

女孺であり、従五位下を授けれるとは、真っ当な鴨朝臣一族の女性だったのであろう。「藤原朝臣不比等」が「賀茂比賣」を娶って誕生したのが「宮子娘」(文武天皇夫人)・「長娥子」(長屋王妾)である(こちら参照)。

要するに「鴨」の地の東南部が彼女等の出自の場所であり、「藤原」の地で養育されたのではなかったのである。藤原四家が繁栄する以前、未だ藤原家の再興に漸く取り掛かった時期だったのであろう。

ともあれ、系譜が不詳な故に名前を頼りに出自の場所を求めることになる。「鯽」=「魚のフナ」であるから、子鯽=生え出た山稜が「フナ」の形をしているところと読むと、図に示した場所がその地形をしていることが解る。

<中臣殿來連竹田賣・中臣片岡連五百千麻呂>
● 中臣殿來連竹田賣

中臣一族の複姓氏族である。直近では配流されている中臣卜部紀奧乎麻呂が罪一等を減じられたと記載されていた。

何とも凄まじいばかりであるが、「物部」の派生氏族のように「物部」を冠しないのに比べると、少々ご親切な感じではある。

例によって、先ずは殿來連の「殿來」を解釈してみよう。幾度か登場の「殿」=「尻」であり、地形象形的には「山稜の端」と読める。頻出の「來」=「山稜が広がり延びる様」と解釈した。纏めると、殿來=山稜の端が広がり延びているところと読み解ける。

そんな地形を旧来の中臣(藤原を含めて)の地に求めることは不可であろう。目を更に山奥に向けると、そこには広大なゴルフ場が開発されていた。山間の奥地だが・・・しっかりと「殿來」の地形を活かした設計がなされていることが解る。

更に、竹田のような真っ直ぐに延びたフェアウェイを確認することができる。竹田賣の出自の場所は、おそらく図に示した辺りだったのではなかろうか。国土地理院航空写真1961~9を参照すると、その時点ではゴルフ場にはなっておらず、真っ直ぐに延びる山稜の形が示されている。

後(淳仁天皇紀)に中臣片岡連五百千麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。勿論、系譜など関連する情報は皆無であり、上記と同様に「片岡」が示す地形を探索することにする。どこにでも転がっていそうな名称なのだが、「中臣」の谷間からすると、極めて特徴的な地形である。既出の文字列である片岡=谷間にある山稜の端が区切られて小高くなっているところと解釈される。

「殿來」の東隣の場所に、その地形を見出せる。名前の五百千=丸く小高いところが連なって交差するように延びている山稜を谷間が束ねているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。図を眺めれば、既出の小殿連習宜連
「殿來連」との間にすっぽりと収まった配置となったようである。

<鎌取-巫部宿禰>
● 鎌取(巫部宿祢)

官奴となっていたのを元の「巫部宿祢」の氏姓に戻したのであろう。根足も元は「賀茂朝臣」と言う列記とした氏姓の持ち主であり、前年十月の大赦に含まれていたと思われる。

「巫部宿祢」の氏姓を持っ人物は、文武天皇紀に巫部宿祢博士が登場していた。書紀の天武天皇紀の『八色之姓』に巫部連が宿祢姓を賜ったと記載されている(現地名:北九州市小倉南区志井)。

その地で鎌取の地形を探索するのであるが、大きく変形していることが分かった。故に国土地理院航空写真1961~9年を併載した。

「鎌」は中臣鎌子で用いられたと同じく、「鎌のように山稜が延びている様」とし、既出の「取」=「耳+又」=「山稜の端が耳の形になっている様」と解釈すると、鎌取=鎌のような山稜と耳の形をした山稜が並んでいるところと読み解ける。「耳」の山稜がすっかり削り取って整地される以前の地形を航空写真で確認することができる。尚、「巫部」については、こちら参照。

六月己丑。新羅王子金泰廉等拜朝。并貢調。因奏曰。新羅國王言日本照臨天皇朝庭。新羅國者。始自遠朝。世世不絶。舟楫並連。來奉國家。今欲國王親來朝貢進御調。而顧念。一日无主。國政弛乱。是以。遣王子韓阿飡泰廉。代王爲首。率使下三百七十餘人入朝。兼令貢種種御調。謹以申聞。詔報曰。新羅國始自遠朝。世世不絶。供奉國家。今復遣王子泰廉入朝。兼貢御調。王之勤誠。朕有嘉焉。自今⾧遠。當加撫存。泰廉又奏言。普天之下無匪王土。率土之濱無匪王臣。泰廉幸逢聖世。來朝供奉。不勝歡慶。私自所備國土微物。謹以奉進。詔報。泰廉所奏聞之。壬辰。外正六位下君子部和氣。遠田君小捄。遠田君金夜。並授外從五位下。是日。饗新羅使於朝堂。詔曰。新羅國來奉朝庭者。始自氣⾧足媛皇太后平定彼國。以至于今。爲我蕃屏。而前王承慶大夫思恭等。言行怠慢。闕失恒礼。由欲遣使問罪之間。今彼王軒英。改悔前過。冀親來庭。而爲顧國政。因遣王子泰廉等。代而入朝。兼貢御調。朕所以嘉歡勤款。進位賜物也。又詔。自今以後。國王親來。宜以辞奏。如遣餘人入朝。必須令齎表文。丁酉。泰廉等就大安寺東大寺礼佛。

十四日に新羅の王子金泰廉等が朝廷を拝し、併せて調を献上し、次のように奏上している・・・新羅の王から日本に君臨する天皇の朝廷に言上する。新羅は遠い昔の王の時代から代々絶え間なく、船と楫を列ねて渡来して、天皇に奉仕して来た。この度も王自ら来朝して御調を貢進したいと思っているが、よく考えてみると、一日でも主がいないと国政は弛み乱れる。そこで王子の泰廉以下を派遣して、王に代わる名代として、使の者三百七十余人を率いて入朝し、その上色々な御調を貢進させる。以上謹んで申し上げる・・・。

天皇は詔して次のように答えている・・・新羅は遠い昔の王の時代から代々絶え間なく仕えて来た。今また、王子の泰廉を派遣して来朝し、一緒に御調を貢進して来た。王の忠誠を朕は喜んでいる。今からずっと将来まで、いたわりいつくしみを加えよう・・・。

泰廉がまた、次のように奏上している・・・全て天の下は、王の土地でないところはなく、陸地の続く限り全て王の臣下でないものはない。幸いにも泰廉は聖である御世に生まれ、日本に来朝して供奉することができ、喜びにたえない。個人的に用意して来た産物を、つまらないものだが、謹んで進呈する・・・。これに対する詔として・・・泰廉が奏上する件を聞き届ける・・・と答えている。

十七日に君子部和氣(立花に併記)・「遠田君小捄・遠田君金夜」に外從五位下を授けている。この日、新羅の使者を朝堂に呼んで饗宴し、次のように詔されている・・・新羅が供奉するのは、気長足媛皇太后(神功皇后)がかの地を平定した時以来のことで、今に至るまで、ずっと我が國を守る垣根(蕃屏)の役割の國となっている。しかしながら前王の承慶(李成王)や大夫の思恭等は、言行が怠慢で常に守るべき礼儀を欠き失った。そこで使者を派遣して、その罪を問おうと思ってる間に、この度新羅王の軒英(承慶の弟、景徳王)は以前の過ちを悔いて、自分から朝廷に来たいと乞い願ったが、しかし國政を顧みなければならないので、その為王子の泰廉等を派遣して、王の代理として入朝させ、兼ねて御調を貢進するという。朕はこれを聞いて、大変喜ばしく、使者に位を進呈し物を与える・・・。また、詔して・・・これから以後は、王自ら来朝して直接言葉で奏上せよ。もし代わりの人を派遣して入朝するのであれば、必ず上表文を持って来るようにせよ・・・。

二十二日に泰廉等は、大安寺東大寺に赴き、仏を礼拝している。

<遠田君小捄-金夜>
● 遠田君小捄・遠田君金夜

「遠田君」に関しては、天平九(737)年の新羅の無礼に端を発する出来事で、その対応に様々な策を講じた中に「田夷遠田郡領外從七位上遠田君雄人」が登場していた。

新羅が不穏な行動を取ると、蝦夷対策を行うのである。既に幾度か述べたように蝦夷の地は、新羅の日本国における橋頭保の位置付けにある(現在の企救半島北部)。

陸奧持節大使(藤原朝臣麻呂)を遣わして、蝦夷の鎮撫に当たらせたが、その役割を担ったのが”田夷”の「雄人」だったと記載している(多くの柵の防衛強化など、こちら参照)。この度の新羅来朝時の叙爵となれば、信頼できそうな”田夷”を取り立てて、新羅に関わる蝦夷の動向を監視することが重要だったのであろう。

外従五位下を叙位された「小捄」の「捄」=「手+求」=「手のような山稜が引き寄せられている」と解釈される。「小」=「三角の形をしている様」(小田郡にも用いられている)とすると、小捄=三角の形した地が手のような山稜を引き寄せているところと読み解ける。

「金夜」に含まれる頻出の文字列、金夜=谷間を二つに分ける山稜の端が三角に尖った高台になっているところと解釈される。図に示した辺りが出自を推定される。これらの地形が「雄人」の北側に見出せ、「雄人」の縁者であることは間違いないであろう。

そう考えると、今回の叙爵の筆頭に挙げられている君子部和氣の出自場所が意味するところが浮かび上がって来る。彼は古遠賀湾に面する地が居処(現地名は遠賀郡水巻町・中間市の境)であり、正に新羅船団の監視に最適な地である。また、海上を自由に行き来できる能力を有していたであろう。

防衛策を講じながら、新羅王子を迎え入れている。決して信用していないことが、最後の上表文がないことを指摘していることから伺えるであろう。何度か述べたように、新羅が不穏だと蝦夷対策、現在の東北地方への対策?…全く辻褄の合わない記述なのである。古代史は闇の中にある、いや、ロマンの塊か・・・。

蛇足だが、古事記の息長帶比賣命が新羅を平定したわけではないが、新羅王子に面と向かっての文言であろう。これを文字通りに受け取って、”三韓征伐”とする薄っぺらな解釈では、先が暗い・・・のではなかろうか・・・。