2020年9月20日日曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(16) 〔453〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(16)


即位五年(西暦676年)九月からの出来事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

九月丙寅朔、雨、不告朔。乙亥、王卿遣京及畿內、校人別兵。丁丑、筑紫大宰三位屋垣王、有罪流于土左。戊寅、百寮人及諸蕃人等、賜祿各有差。丙戌、神官奏曰「爲新嘗、卜國郡也。齋忌齋忌此云踰既則尾張國山田郡、次次此云須伎也丹波國訶沙郡、並食卜。」是月、坂田公雷、卒。以壬申年功、贈大紫位。

九月初日に行う予定の「告朔」を雨で中止している。「告朔」とは、「天皇が大極殿に出御して、諸司から進奏された公文に目を通す儀式」のようである。次第に行われなくなったとも記載されている。十日、武器毎に調査。

十二日に筑紫大宰の三位「屋垣王」を「土左」に流している。罪の内容は不明。栗隈王の後釜だったのであろうが、出自は全く不詳である。前記の麻續王同様、高位なのだが・・・。二十一日に神官が新嘗祭用の祭祀する供物をどこから得るかを占ったら「齋忌」(踰既:サキ)は「尾張國山田郡」、「次」(須伎:スキ)は「丹波國訶沙郡」になったと言う。従前より行われていたのであろうが、詳細は不明。

この月に坂田公雷が逝った。乱の功績(?)により大紫位を贈ったと記されている。

<屋垣王>
● 屋垣王

上記したように出自は全く不明である。付随する情報もなく、この文字列だけ推測するしか手が無いようである。

情報が少ない故に飛鳥の近傍として、「垣」の関連する記事を調べると、斉明天皇紀に「冠以周垣(田身山名、此云大務)」の文言が引っ掛って来た。

後飛鳥岡本宮の設営に関わり、その宮の場所を詳しく、と言っても実に分かり難い表現で、補足説明されている箇所であった。

太く長く延びる山稜を「垣」と見做した表現であって、頻出の屋=尸+至=尾根が延び至った様と解釈される。現地名は田川郡香春町鏡山、小富士山の北麓に当たる場所と推定される。呉川対岸の東側は、鏡王・額田姫王の地である。

そう言えば鏡王の出自も不詳であり、「鏡」の文字解きで何とかその場所を推定し、子の額田姫王で確からしさが得られたのである。飛鳥の地形を、敢えて詳らかにすることを避けているように思われる。読み手に勝手な解釈をさせる筆法であろう。

<尾張國山田郡>
尾張國山田郡

「山田」は、山稜に囲まれた平らな地を表していると思われる。古事記に倭建命が立ち寄った尾張國造美夜受比賣の家があった場所と推定される。

現在は長野緑地公園となっている近隣の谷間である。『壬申の乱』では省略されているが、西から尾張を経て美濃に抜ける要所であり、天智天皇含め多くの人々幾度も往来した道中にあった地と思われる。

調べると「齋忌」は、《「斎 (ゆ) 酒 (き) 」で、神聖な酒の意。それを奉る地というところから》大嘗祭 (だいじょうさい) のとき、新穀・酒料を献上すべき第一の国郡。また、そのときの祭場。「次」は、《2番目、次 (つぎ) の意》大嘗祭 (だいじょうさい) のとき、悠紀 (ゆき) とともに神饌 (しんせん) の新穀を献上すべき国郡。また、そのときの祭場。…と解説されている。「卜國郡也」では現在に繋がってはいないのであろうか・・・。

<丹波國訶沙郡>
丹波國訶沙郡

「丹波」の地で「訶沙」の地形を探索する。「訶」=「谷間で耕やされた地がある様」と読んで来た。「沙」=「水辺の地」であるから、訶沙=谷間で耕された地が水辺にあるところと読み解ける。

現在で最も大きな川である長野間川の流域であろう。当時は地図上「稲童」と記載した場所の西側辺りは海面下にあったと推測され、汽水の状態が谷奥深くまで達している場所であったと思われる。

この地も早くから開けたところと思われるが古事記に登場することはなかった。書紀にも、他には出現していないようである。当然のことながら人々が住まっていることは、古事記の表舞台に現れる必要な条件ではあるが、十分ではなかったのであろう。

後に𣏾田史名倉が登場する。罪に問われて島流しにされるのであるが、出自の場所を併記した。「𣏾」=「木+戈」と分解すると、「山稜が戈(矛)の様」と読める。「史」=「腕のような山稜が真ん中を突き通す様」から𣏾田史=腕のように延びた田が作られた山稜の先が矛のようになって真ん中に突き出ているところと読み解ける。

名倉=山稜の端の三角州がある谷間と読み解けるが、現在の地図では些か判別し辛いようである。当時は池が幾つか並んでいるところに山稜の端が延びていたのではなかろうか。

<坂田公雷>
● 坂田公雷

「坂田公」は継体天皇紀に登場しているようであるが、それ以外には見られず、希少である。古事記の坂田大俣王…やはり袁本杼命(継体天皇)紀に登場…の場所を手掛かりにして求めることにする。

「雷」の文字は、古事記の建御雷之男神に用いられている。「雷」の旧字体は「靁」と知られる。何となく「田に雨をもたらす」ようにも見えるが、本来の姿ではないとのことである。

「田」は「丸い形」を表していて、それが寄り集まった様を表現している。岩がゴロゴロと転がっている情景を暗示して「靁」、更に「雷」へと展開してと解説されている。

日本語の「カミナリ」も、やはり稲妻の光より、音を優先しているようにも受け取れる。知ったか振りの現代人にとっては、古代人の自然観、今一度思い起こすべきことなのかもしれない・・・ポンチ絵の雷、太鼓を周囲に巡らすのは的を得ているように・・・。

「靁」=「雨+畾」と分解すると、寄り集まった崖にある小高く丸いところ(畾)が見出せ、そしてそれから[雨]が滴り落ちるように延びた山稜の端の場所を表していると思われる。上記の「建御雷之男神」もそうであったが、実に上手い表記と思われる。

冬十月乙未朔、置酒宴群臣。丁酉、祭幣帛於相新嘗諸神祇。甲辰、以大乙上物部連摩呂爲大使・大乙中山背直百足爲小使、遣於新羅。

十一月乙丑朔、以新嘗事、不告朔。丁卯、新羅、遣沙飡金淸平、請政。幷遣汲飡金好儒・弟監大舍金欽吉等、進調。其送使奈末被珍那・副使奈末好福、送淸平等於筑紫。是月、肅愼七人、從淸平等至之。癸未、詔近京諸國而放生。甲申、遣使於四方國、說金光明經・仁王經。丁亥、高麗、遣大使後部主簿阿于・副使前部大兄德富、朝貢。仍新羅、遣大奈末金楊原、送高麗使人於筑紫。是年、將都新城。而限內田園者、不問公私、皆不耕悉荒。然遂不都矣。

十月一日に群臣達と宴会、三日に「相新嘗」(相嘗祭:新嘗祭に先立つ祭祀儀礼)を行っている。十日に物部連摩呂と「山背直百足」を新羅に遣わしたと述べている。

新嘗祭ために十一月の「告朔」を中止している。三日に新羅は「請政」(直訳すれば「政を請う」であろうが、「政情を申し述べる」)と進調、及び送使の役割をきっちりと分けていることが判る。全権大使は重みもあって良いが、拗れた時には全面戦争になる、かもしれない。「請政」の使者に伴って肅愼七名が筑紫に来たと記載している。

十九日、二十日と「近京諸國」に生け捕った獲物を放す儀式と四方の國に金光明經・仁王經を説かせるために派遣している。仏教を隅々に広げる策であろうが、その目的は新羅の動向を踏まえた「護国」のようである。

尚、金光明經・仁王經については、Wikipediaに「・・・大乗経典に属し、日本においては『法華経』・『仁王経』とともに護国三部経・・・」と記載されている。後者は、「・・・釈尊が舎衛国の波斯匿王との問答形式によって説かれた教典で、六波羅蜜のうちの般若波羅蜜を受持し講説することで、災難を滅除し国家が安泰となるとされ、般若経典としては異質の内容・・・」とも記されている。

二十三日に高麗が使者を派遣して朝貢したのであるが、新羅が筑紫に送ったと記載されている。肅愼及び高麗まで新羅が取り纏めた行動を行っていることが述べられている。肅愼は、古事記の熊曾國(現在の企救半島北西部)であり、新羅の日本列島における”橋頭保”の地と推定した。日本の「アキレス腱」のような存在である。新羅の戦略が透けて見える仕業であったことを告げているのである。

想定内の出来事とは言え、現実に起こるとなると今後の戦略に少なからず影響したのではなかろうか。いずれにせよ、唐の後ろ盾をちらつかせながらの「請政」には緊張感だ漂っていたかと推測されるが、語られていない。

<山背直百足>
大使の
物部連摩呂は「麻呂」と記載されていた。「呂」の地が接近して並ぶ様を表すように変わったようである。少々領地が広がっていたのかもしれない。前記したが後に「石上朝臣麻呂」と称されるようになる。

●山背直百足

既出の山背直小林等の近隣であろう。すると「百足」らしい地形が見出せる。
百足=丸く小高い地が連なる山稜が足のように延びているところと解釈される。

前出の「小林」の南側の谷間に当たる場所と推定される。新羅使を任命された後の消息は不詳で、書紀には後に登場されることはないようである。

新城

この年、「新城」の地に都を造ろうとして、公私を問わずに耕作を中止したのだが、結局造られることはなかった、と伝えている。さて何処の地かと、書紀内を調べると、神武天皇紀に、たった一度だけだが登場していることが判った。原文引用すると…「是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者」…と記載されている。「層富縣」が重要な手掛かりと与えてくれそうである。
 
<新城・層富縣>
「層」=「尸+曽」と分解すると、「層」=「尾根が積み重なっている様」と読み解ける。

「富」は、古事記では「山稜に囲まれた麓(山麓)の坂」と紐解いて来た。「酒迎え」の慣習を捩った表記と解釈したが、書紀ではこの用い方は行われていないようである。

即ち、「富」=「宀+畐」と分解した「畐」=「酒樽」そのものとして読み、「酒樽」=「板を束ねた様」とする。

地形象形的には「富」=「山稜に囲まれた地(宀)にある真っ直ぐな板のような山稜を束ねた様(畐)」と読み解く。すると層富縣=積み重なった尾根(層)に板を束ねたような山稜がある囲まれた地(富)がぶら下がっている(縣)ところと読み解ける。「縣」はこちら参照。

前記で登場した倭國添下郡鰐積吉事の北側の山稜場所を表していることが解る。これから容易に「新城」は不動川・彦山川を挟んだ対岸の山稜の麓と推定される。新城=山稜を切り裂いて平らに盛り上げられたようなところである。図に示した場所と推定される。現地名は田川郡添田町庄である。少し北側に小字新城と地図上に記載されているが、立派な残存地名であろう。

古事記では「層富縣」の地に神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が足を踏み入れた記述は見られない。書紀もたった一度の登場であり、歴史の表舞台に現れた人物が少なかったのであろう。何とも人里離れた場所に都を求めたものである。真意は不明である。

六年春正月甲子朔庚辰、射于南門。二月癸巳朔、物部連摩呂、至自新羅。是月、饗多禰嶋人等、於飛鳥寺西槻下。三月癸亥朔辛巳、召新羅使人淸平及以下客十三人於京。夏四月壬辰朔壬寅、𣏾田史名倉、坐指斥乘輿、以流于伊豆嶋。乙巳、送使珍那等、饗于筑紫。卽從筑紫歸之。


年が明けて即位六年(西暦677年)正月、早々の儀式は省略されて十七日の射会の記述で始まっている。二月初めに物部連摩呂が新羅から帰朝している。また同月に多禰嶋(詳細はこちら)人等を飛鳥寺西槻の下で饗応したと記している。三月十九日に新羅の使者を京に招いたとのこと。

四月に「𣏾田史名倉」(上図<丹波國訶沙郡>参照)が天皇を非難したようで、伊豆嶋(古事記の小豆嶋;現在の藍島)に流している。如何なる罪なのか不詳。麻續王(伊賀采女の出自と推定)の子を流した場所である。

五月壬戌朔、不告朔。甲子、勅大博士百濟人率母、授大山下位、因以封卅戸。是日、倭畫師音檮、授小山下位、乃封廿戸。戊辰、新羅人阿飡朴刺破・從人三口・僧三人、漂着於血鹿嶋。己丑、勅「天社地社神税者、三分之一爲擬供神、二分給神主。」是月旱之、於京及畿內雩之。

五月でも「告朔」を行わなかったとのこと。「百濟人率母」については、天智天皇紀に百濟から来た余自信等に冠位を授けた記述に「許率母(明五經)」が見られる。五経に明るい人が大博士となっていたようである。七日に新羅人が「血鹿嶋」(古事記の知訶嶋、福岡県大字安屋男島)に漂着している。二十八日に神社の租税に関して、1/3を神へ(祭祀用:天皇へ?)、2/3は神主に分けよと命じられている。神主厚遇なのか否や、不明。

<倭畫師音檮>
● 倭畫師音檮

「倭畫師」は初登場なのであるが、孝徳天皇紀に畫工(画工)として登場した狛堅部子麻呂の逸話が重要なヒントになっていると思われる。即ち「狛(高麗)」の地に生息していたと推測される。

既出の「音」=「言+一=耕地が区切られている様」、「檮」=「木+壽=長く延びた山稜」と読み解いた。すると図に示した場所がその地形を表していると思われる。

纏めると音檮=耕地が区切られている地が長く延びた山稜の傍らにあるところと読み解ける。蘇我蝦夷大臣が仏教を流布し、それに伴う仏画などの技術者を重宝したのであろう。一族の蘇我高麗の出自の場所である。

六月壬辰朔乙巳、大震動。是月、詔東漢直等曰「汝等黨族之自本犯七不可也。是以、從小墾田御世至于近江朝、常以謀汝等爲事。今當朕世、將責汝卒等不可之狀以隨犯應罪。然頓不欲絶漢直之氏、故降大恩以原之。從今以後、若有犯者必入不赦之例。」

六月半ば、大地震があったと記している。この月に東漢直に釘を刺している。ふとどき者が多いが、漢直一族を絶やすことは考えない。頭に乗って悪さをすれば許さないよ、と述べられている。

宮の警護役を割り当てられて来て、「乱」が発生した時には使い勝手良かった一族である。世の中が落ち着けば、悪さも増えるかもしれない。それへの布石であろう。東漢の地に閉じ込められたような雰囲気も感じられ、不満が発生していたのかもしれない。

秋七月辛酉朔癸亥、祭龍田風神・廣瀬大忌神。八月辛卯朔乙巳、大設齋於飛鳥寺、以讀一切經。便天皇御寺南門而禮三寶。是時、詔親王諸王及群卿、毎人賜出家一人。其出家者、不問男女長幼、皆隨願度之。因以、會于大齋。丁巳、金淸平歸國。卽漂着朴刺破等、付淸平等返于本土。戊午、耽羅、遣王子都羅、朝貢。九月庚申朔己丑、詔曰、凡浮浪人、其送本土者、猶復還到、彼此並科課役。

七月三日に龍田風神・廣瀬大忌神を祭祀している。年中行事となったようである。八月半ば、飛鳥寺で「設齋」(僧侶がお経を唱え、その後会食)して一切経を読んだとのこと。かなりの長時間であろう。多分午前中一杯か。郡卿以上に出家者一人を宛がっている。二十七日に新羅の使者が帰国する時に便乗させて漂着者を帰している。翌日に耽羅王子が朝貢。

九月三十日に浮浪人(出自の地を離れた人:納税回避)には、本貫及び逃げた先でも課税しろと命じている。現在、タックスヘブンを狙った節税対策が大手を振るっている。是非、天武さんに一喝して欲しいものである。

冬十月庚寅朔癸卯、內小錦上河邊臣百枝爲民部卿、內大錦下丹比公麻呂爲攝津職大夫。十一月己未朔、雨、不告朔。筑紫大宰獻赤鳥。則大宰府諸司人賜祿各有差、且專捕赤鳥者賜爵五級、乃當郡々司等加増爵位、因給復郡內百姓以一年之。是日、大赦天下。己卯、新嘗。辛巳、百寮諸有位人等賜食。乙酉、侍奉新嘗神官及國司等賜祿。十二月己丑朔、雪、不告朔。

十月の人事。河邊臣百枝を民部卿にしている。大蔵・財務大臣と言ったところであろうか。「丹比公麻呂」を攝津職大夫としている。難波津の管理・監督の長官のようである。十一月一日、この月も雨で「告朔」を行わなかった。筑紫大宰が「赤鳥」を献上し、その地の役人等に爵位を増し、百姓は一年免税としたと述べている。

いつぞやのパターンである。増位と赦免ならばこの記述も「鳥」の地形の山麓を開拓したと告げているのであろう。筑紫大宰の近隣・・・舒明天皇紀に登場した三輪君小鷦鷯は二羽の鳥が並んでいる地を表すと読み解いた。「赤」は、この地は古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場する引田部赤猪子で示された「赤」の地形を示していた。筑紫大宰と三輪君の配置を暗示する記述と思われる。

十一月二十一日に新嘗祭、その後に神官・國司に褒賞。十二月一日も雪で「告朔」は中止となったと述べている。即位六年(西暦677年)は静かに暮れて行ったのであろう。

<丹比公麻呂-嶋-池守-水守-縣守-三宅麻呂>
● 丹比公麻呂

「丹比」は古事記の多治比であるが、何とも簡単な記述で、それらしきところを求めると、図に示した水齒別命(反正天皇)の多治比之柴垣宮辺りと思われる。

井尻川が流れる谷間の出口であり、「麻呂」の地形も見出せる。それなりに豊かな地であったと思われるが、人材輩出とはならなかったようである。

調べると後に登場する(天武即位十二年)丹比眞人嶋の父親であることが分かった。例によって嶋=山+鳥であり、東側の山稜の端を象った表現であろう。

また既出の眞人=谷間で一杯に広がった様と解釈される。「丹」の間に広がった地形を表している。筑紫大宰となっていたようである。「眞人」は「八色の姓」(天武即位十三年)ではないようだが、若干の混乱もあるかもしれない。

ところが姓の制度ができてから登場する(持統即位七年)、「眞人嶋」の子、丹比眞人池守では確かに姓の「眞人」が用いられている。「池守」の居場所は、池=氵+也=水辺が畝っている様守=宀+寸(肘)=肘を張ったように曲がる山稜に囲まれている様と読み解いた。図に指名した井尻川の畔と推定される。

ずっと後(續紀の文武天皇紀)になるが池守の弟の水守、更に縣守が登場する。水守=肘を張ったように曲がる水辺に囲まれている様を表しているのではなかろうか。縣=ぶら下がった首のような様であり、「嶋」親子の山稜全体を示してると思われる。彼らは「守」の地に出自を持つことが解る。また、遅まきながら「嶋」の弟である多治比眞人三宅麻呂登場する。既出の宅=宀+乇=谷間に根のような山稜が延びている様と読み解いた。その地形が「麻呂」の西側に隣接する場所に見出せる。

あらためて眺めると「蝮」と呼ばれた、実に特異な地形をしている場所である。現在はその大半がゴルフ場となっている。「まむし注意!」と本著で述べたことが思い出させられる。

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何にせよ、新羅の動きは穏当ではない様子である。遣唐使も途絶えているようでもあり、西海の動きが気になるところであろう・・・。