2020年9月17日木曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(15) 〔452〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(15)


引き続き即位四年(西暦675年)の記事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

六月癸酉朔乙未、大分君惠尺、病將死。天皇大驚、詔曰「汝惠尺也、背私向公、不惜身命、以遂雄之心勞于大役。恆欲慈愛。故爾雖既死、子孫厚賞。」仍騰外小紫位。未及數日、薨于私家。

六月二十三日に大分君惠尺が病に臥せっていると知らされ、天皇は驚き、「背私向公」の態度を高く評価されていたようである。子孫に厚く賞すると述べている。外小紫を贈ったが、数日に内に亡くなったようである。吉野逃亡する際、倭京の留守司の高坂王に驛鈴を乞うたが聞き入れられず、その足で高市皇子に逃亡の伝達を行った。乱初の際どい行動に関わった人物であった。

秋七月癸卯朔己酉、小錦上大伴連國麻呂爲大使・小錦下三宅吉士入石爲副使、遣于新羅。八月壬申朔、耽羅調使王子久麻伎、泊筑紫。癸巳、大風飛沙破屋。丙申、忠元、禮畢以歸之、自難波發船。己亥、新羅・高麗二國調使、饗於筑紫、賜祿有差。九月壬寅朔戊辰、耽羅王姑如、到難波

七月七日に大伴連國麻呂(父親大伴長德連馬飼に併記)・三宅吉士入石(但馬國、三宅連石床に併記)を新羅に遣わしている。八月初めに耽羅が進調。王子の久麻伎が筑紫に来たようである。二十日過ぎには新羅の王子、忠元が帰国している。新羅・高麗の調使を筑紫でもてなしたりしている。九月の終わり頃には耽羅王の姑如が難波に来たと伝えている。

活発な外交である。八月には台風が来たのかもしれない。耽羅王自らが訪問しているが、さて、如何なる話し合いが行われたのであろうか?・・・。

冬十月辛未朔癸酉、遣使於四方、覓一切經。庚辰、置酒宴群臣。丙戌、自筑紫貢唐人卅口、則遣遠江國而安置。庚寅、詔曰、諸王以下初位以上、毎人備兵。是日、相摸國言、高倉郡女人生三男。十一月辛丑朔癸卯、有人、登宮東岳、妖言而自刎死之。當是夜直者、悉賜爵一級。是月、大地動。

十月初め頃に四方に使者を遣わして「一切経」を探させたと記載している。経典の総称であって、全巻と言うよりも欠けている経典を求めたように思われる。いずれにしても全巻揃えておきたかったのではなかろうか。十日には収穫祭を行ったのであろう。十六日筑紫より唐人三十人が送られて来て、「遠江國」に配置したようである。

二十日には冠位あるものは全て兵器を揃えて置け、と命じられている。「相摸國」が高倉郡の女人が三人の男子を産んだと述べている。単に人口増加を褒め称えたことなのであろうか・・・。十一月初め頃に「宮東岳」に登って「妖言」して自死した者がいたが、その夜の当直を昇級させた記載している。天皇に憚れるような内容だったのか、昇級の根拠が不明な記述であろう。また、地震あり。

<遠江國>
遠江國

書紀中、二度の出現である。仁徳天皇紀に「遠江國」の「大井河」に大樹の流木が見つかり、それを「南海」を経て難波に運び御船を造らせたと言う記述である。

それとここでの記述であるから、「遠江國」の位置付けは皆目見当がつかない有様であろう。勿論、「大井河」、「南海」とそれらしき場所名が散りばめてあって、てっきり現在の静岡辺りの出来事か、と錯覚させているのである。

その地に唐人を配置するわけだから、なんのことやら、全く意味不明の記述となってしまうわけである。古事記に登場する「遠江國」…これも決して頻度高くはないが…に書紀及び隋書俀國伝で登場の周辺地名を加えた図を示した。

穴穗命(安康天皇)紀に登場した淡海之久多綿之蚊屋野は、狩場であって未開の地であった。それからいくらかの年月が過ぎたとは言え、まだまだ開拓すべき余地が残っていたと推測される。そこに唐人を投入、いつもの手法を用いたのであろう。西は遠賀湾、東は古洞海湾(洞海)に挟まれた厳しい環境であったと思われる。

更にその東側は隋書が記載した秦王國と推定した地である。新旧の唐人達を淡海の地に固めた配置となったようである。「大井河」は当時の海面では、実に短い川であったと推測される(現在の金山川上流域)。遠賀川流域は激変の様相である。

<南海>
南海

「南海」は洞海湾のこと、斉明天皇が行幸した大伯海は、その入口の狭い海峡に基づいたものである。では、南海の名称は如何なる地形に基づくのであろうか?…響灘に対して南側にある海の表記とするもの一考かもしれないが。

やはり、「南」の文字が表す地形とするのが、記紀を通じての一貫した記述に違いないと思われる。ところが「南」の文字は、「東西南北」の中で最も分かり辛い文字なのある。草木が繁っている様を捉えて、南の方向を表すと解説されている。

通常の用いられ方からすると、それでも良しとできるのであるが、それを地形象形にとすると、何とも漠然として表記となってしまう。あれこれと考えた末に辿り着いた解釈は?…「南」の古文字の形を地形象形表記に採用していることが解った。

文字で表現すると、南=二つの山稜に囲まれた地で二つの谷間が一つになっている様となる。間違いなく、現在の洞海湾、かつては洞海、の姿を現わしているのである。四方の「南」を意味するのではなく、取り囲まれた海を表現していることが解った。勿論、この場合は重ねた表記にもなっている。

<相摸國高倉部>
摸國高倉郡

何となく馴染みのあるような名称であるが、書紀では初登場である。通常は「相模」と書かれるから、微妙に異なる文字が使われている。

古事記に登場した无邪志國相武國、書紀で出現した駿河國の近隣にある場所と思われるが、「相摸國」の文字列は何を表しているのであろうか?・・・。

相=木+目=山稜に隙間を隔てて並ぶ様と読み解いて来た。相武國は、矛のような山稜が麓で並ぶところと読んで、図に示した場所と推定した。

するとその近隣で尾根に目をやると、大きく山稜が分かれているような谷間が見出せる。「摸」=「手+莫」と分解される。「莫」=「隠れて姿がみえない様子」を表す文字と知られる。地形象形表現とすると、摸=腕のように延びた山稜が隠して見えない様と読み解ける。

纏めると相摸國=大きく山稜が分かれた谷間が腕のように延びた山稜に隠されて見えなくなっている國と読み解ける。「模」→「摸」とすることによって、より地形を詳細に表す表記となっていることが解る。高倉部は、その谷間の入口付近にある皺が寄ったような山稜の麓辺りと思われる。

後に武藏國が登場する。この文字見て違和感なく「ムサシ」と読む。その由来には定説がないようである。古くは「无邪志(ムザシ)」と言ったとするまでは良いが、「武藏(ムゾ→ザ)志(シ)」として漢字表記は「志」を省略した、何ていう解釈もある。二文字美称なんだそうだである。

无邪志の名称は、天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天咅比命の子、建比良鳥命が祖となった地に出現する。大変な古さと由緒ある名称の示す場所が不詳のために、全く繋がらないことになる。

図に示した通り、「无邪志」は谷間の→奥の地形を表し、その麓で延びる山稜の形を藏=矛のような山稜が四角く延びた様と表記していて、視点を変えているのである。書紀で既出の駿河國は、相武・无邪志(武藏)の裾野の海辺の地である。「記紀」を通じて用いられている地形象形表記を理解して初めて、地名の由来が解読されるようである。

宮東岳

飛鳥淨御原宮の東にあるのは高く聳える現在の香春一ノ岳である。それを宮東岳と表記したと思われる。実に簡明なことなのだが、通説は、些か工夫をして、「岳」→「丘(岡)」と解釈されている感じである。現在のように「嶽」、「岳」、「山」、「丘」、「岡」などの地形を表す文字を、全くその文字が表す意味に従わずに命名される時代とは異なる。定量的な尺度がないことに甘んじて、一層混乱させてしまったのであろう。「記紀」共に「岡」は「岡」として書き分けられている。

五年春正月庚子朔、群臣百寮拜朝。癸卯、高市皇子以下小錦以上大夫等、賜衣袴褶腰帶脚帶及机杖、唯小錦三階不賜机。丙午、小錦以上大夫等、賜祿各有差。甲寅、百寮初位以上、進薪。卽日、悉集朝庭賜宴。乙卯、置祿射于西門庭、中的者則給祿有差。是日、天皇御嶋宮、宴之。甲子、詔曰、凡任國司者、除畿內及陸奧・長門國、以外皆任大山位下人。
二月庚午朔癸巳、耽羅客、賜船一艘。是月、大伴連國摩呂等、至自新羅。

即位五年(西暦676年)正月一日に、高市皇子(群臣の頭)以下小錦以上が朝廷で拝礼し、装束類を賜っている。小錦には机がなかった。一月十五日に百寮の初位以上の者が薪を進呈している。中国の故事に倣ったようである。翌日嶋宮で宴をしたり、射会を催している。また國司について、機内と陸奥長門國以外は大山以下を任じるようにと命じられた。穏やかな正月行事が執り行われたと伝えている。

二月、耽羅に船一艘を与えている。この月に新羅に遣わした大伴連國麻呂が帰還している。

夏四月戊戌朔辛丑、祭龍田風神・廣瀬大忌神。倭國添下郡鰐積吉事、貢瑞鶏。其冠、似海石榴華。是日、倭國飽波郡言、雌鶏化雄。辛亥、勅「諸王諸臣被給封戸之税者、除以西國、相易給以東國。又外國人欲進仕者、臣連伴造之子及國造子、聽之。唯雖以下庶人、其才能長亦聽之。」己未、詔美濃國司曰「在礪杵郡紀臣訶佐麻呂之子、遷東國、卽爲其國之百姓。」

四月四日に龍田風神廣瀬大忌神を祭祀している。田植えの季節だったのか、秋の収穫を祈願したのであろう。「倭國添下郡鰐積吉事」が冠が「海石榴華」のような珍しい鶏、また「倭國飽波郡」が言うには「雌鶏化雄」だそうである。大事件が発生しないと、書紀編者も、鶏尽くしですっかり戯れの表記、平穏である。

十四日に与えた「封戸」分の税を東國に与えよ、と命じられている。乱に貢献した東國支援策なのかもしれない。兵隊は大部分が東國出身だったと思われる。また、人材登用に関して、畿内の外からは國造以上の子弟にするのだが、才能あれば取り入れよ、と述べられている。

二十二日に美濃國司が「礪杵郡」に居る紀臣訶佐麻呂(既出の紀臣訶多麻呂に併記)の子を東國に移し、百姓としたと告げている。近江朝側で歯向かったために左遷されていたのであろう。それを更に東國に向かわせている。納税を渋ったのか、國司としては放っておけない事情が発生したようである。

倭國添下郡鰐積吉事

拡大解釈した「倭國」と言えば、現在の田川郡(市)その周辺として、「添下」の地を探索することになる。調べると「添上郡」と記載された例があることが分かり、どうやら川に沿った地域であると推測される。「添」=「水+忝」と分解される。「水のように平らに薄く張り付く様」を表す文字と知られる。

<倭國添下郡:鰐積吉事>
地形象形的にもほぼ同様に解釈して添=水辺で平らに広がっている様と読み解ける。倭=人+委=谷間が嫋やかにしなやかに曲がっている様の地で、川辺で広がった地が続く場所を示していることが解る。

「倭」と「添」の文字から導かれる地形要素を持つ場所は、かなり容易に見出すことができる。現地名田川郡添田町である。間違いなく「添」は残存地名である。

さて、その地で「鰐積吉事」が示す場所を求めることになる。「鰐」=「魚+咢」と分解される。日本には生息しない「ワニ」の姿形を模しているとは到底思われず、この分解された文字要素が示す意味、即ち、鰐=魚の口のような歯が諤々と噛合わさる様と読み解ける。

積=積み重なる様として、口先に当たる山稜の形を示し、既出の事=真っ直ぐに立っている様とすれば、吉事=真っ直ぐに立っている山稜に蓋をしたようなところと読み解ける。「吉」=「蓋+囗」と分解される。岩石山の急斜面の南西麓を表す表記と推定される。現地名は田川郡添田町添田である。

鶏冠が「海石榴華」のようだと記載されている。調べると「海石榴」は「ヤブツバキ」と呼ばれ、海岸林に自生する「椿油」が採れる貴重な資源であると述べられている。遣使の進物品の一つとして重宝されたとか。その大輪の花を麓の三つの小高いところに模したことが解る。そして、この地を切り開き、朝貢したのである。

<倭國飽波郡>
倭國飽波郡

上記と同様に探すのであるが、「飽」の文字が頼りであろう。この文字は前記の飽田郡の蝦夷の場所で登場した。

飽=山稜が丸く広がって取り囲むような様と読み解いた。辿り着いたのが、現地名田川市伊田、現在は細かく分かれた行政区分となっているが、かつての「大字伊田」に該当するところと推定される。

波=端を示すとして、この取り囲まれた地の先端部の地域を表していると思われる。

実に面白いのが「雌雞化雄」と記載され、奇想天外な話かと思いきや、その先端部に白鳥神社が鎮座していて、どうやら山稜の端を鳥の形に見做していることが伺える。そうすると、鶏冠の部分が大きく広がっていることが分かる。

要するに、この郡の人が鶏冠部分を開拓し、平らにしたことを述べていると気付かされる。現在は野球場として活用されているようであるが、1,300年以上も前の地形が残存していることに感動である。真に貴重な場所と言えるが、赤村の前方後円墳よりもっと実証性が高い、かもしれない。

<礪杵郡・礪杵道作>
礪杵郡

一見難しそうな名称であるが、美濃國司が述べたことから、その地で探索するが、頼りは「礪」の文字である。こままでは何ともし難く、分解すると、「礪」=「石+厂+萬」となる。

意外に既出の地形要素を示す文字から成っていることが分かる。すると探索の手掛かりとして萬=蠍の地形を得ることができる。

天萬豐日天皇(孝徳天皇)、番外編の太安萬侶に含まれた文字である。すんなりと現在の小倉南区朽網にある昭和池の谷奥に見出すことができる。かなり奥まった場所であるが、棚田が作られた形跡は確認できる。

「杵」はそのものを示すのではなく、杵=木+午=山稜が交差するような様と読む。交差する形が「杵」の形状およびそれを用いた時の動作を表していると解釈するのである。図に示した山稜の形であり、加えて「蠍」の先(厂)にゴロゴロとした小高いところ(石)が見える。用いた文字の構成要素を余すことなく示す地形と解る。

後の持統天皇紀に礪杵道作が登場する。大津皇子謀反に連座して伊豆嶋へ流されたと記載されている。「道=辶+首=首の付け根のような様」、「作=人+乍=谷間がジグザグになっている様」と読んで来たが、繋げると道作=首の付け根のような場所の傍にある谷間がジグザグになっているところと読み解ける。

図に示したように、礪杵郡の北側に見出せる。どうやらこの地の住人は流される定めにあったようであるが、厳しい地形環境の中で常に不満が蓄積していたことが謀反に加担する動機なのかもしれない。大津皇子の謀反そのものが脚色されている感じもあるが・・・。

五月戊辰朔庚午、宣進調過期限國司等之犯狀、云々。甲戌、下野國司奏、所部百姓遇凶年、飢之欲賣子。而朝不聽矣。是月、勅「禁南淵山・細川山、並莫蒭薪。又畿內山野、元所禁之限、莫妄燒折。」

五月初めのこと、進調の期限を過ぎた國司の罪状を明らかにしている。納税制度ができたのだが、やはり浸透するには時間がかかったのであろう。公にして見せしめ的な感じかもしれない。七日、「下野國」(下記で詳述)が飢饉で子を売る者が出て来たと訴え、税の免除を申し出たが、聞き入れなかったとのことである。これも税の重要性を認知させるためであろう。

<南淵山・細川山>
南淵山・細川山」は禁足地であって、立ち入りを厳しくする、と命じている。

南淵山・細川山

あらためてこの二山の3D地図を示す。「南淵山」は南淵の大半を、その山稜の端が占める山であろう。南麓は額田姫王の出自の地と推定した。

「細川山」は、その西側の谷間を流れる川(名称不明)が由来と思われる。「細」=「糸+囟」と分解される。「囟」=「頭蓋骨の泉門」を表す文字であり、地形象形的には「窪んだ様」と解釈する。細川=山稜の傍らの窪んだ地を流れる川と読み解ける。

万葉歌にも登場する有名な山々であり、勿論奈良大和に移されているが、人々の佇まいに少なからず関わっていたものと思われる。いつの日か、万葉の世界にも首を突っ込んでみようかと・・・かなり先のような気もするが・・・。

<下野國・上野國>
下野國・上野國

ところで「下野國」は、通常「下毛野國」と解釈され、「上毛野國」と対を成す場所とされている。「下野國」は書紀の本文中に唐突に出現する國である。

この後も頻度は高くないが引き続いて登場し、それは續紀にも引き継がれている。その記述に従うとこの國は所謂「東山道」に属する國であることが解り、本著では「上毛野國」とは全く異なる場所であることを示している。

すっかり書紀の捻じれ表記に嵌ってしまうところなのである。図に示した通り甲斐國の谷間を通り抜けた先にある國である。

下野=[下]の形の山稜の麓にある野原と読み解ける。「毛」(鱗の地形)を省略したのでは決してない。上下対になった國でもない(續紀に上野國が登場するが、これも「上毛」ではない)。天武天皇紀以前に登場している上野國も同様に読み解くと、上=山稜の端が盛り上がっている様であり、東側の山稜の地形を表していることが解る。巧みな表記であろが、読み手が大混乱に陥った、と言うかそれが目的で表記したのであろう。

書紀は何故捩じったのか?…天皇家草創期に、建内宿禰など主要な人物が多数登場する地、「上毛野」の場所を暈すためである。その口車に乗っかって「下・上毛野」は東山道にすっ飛んで行ったのである。ここでも嘘は記述していない、読み手が勝手に解釈した結果となっている。

六月、四位栗隈王、得病薨。物部雄君連、忽發病而卒。天皇、聞之大驚。其壬申年、從車駕入東國、以有大功、降恩贈內大紫位、因賜氏上。是夏、大旱。遣使四方、以捧幣帛祈諸神祗、亦請諸僧尼祈于三寶。然不雨、由是五穀不登、百姓飢之。

六月に栗隈王(栗前王)が病で逝き、物部雄君(朴井連雄君)が発病して間もなく亡くなったと記している。東國に入る時に車駕に従ったと述べている。本著では、彼の出自の場所を通過し、吉野脱出の最初の難所を案内したと推察した。大紫位を贈り、氏上としている。しかしながら、この年は雨が降らず、色々と手を尽くしたが叶わず、百姓達は飢えたと記載している。

秋七月丁卯朔戊辰、卿大夫及百寮諸人等、進爵各有差。甲戌、耽羅客歸國。壬午、祭龍田風神・廣瀬大忌神。是月、村國連雄依、卒。以壬申年之功、贈外小紫位。有星出于東、長七八尺、至九月竟天。

七月初め頃に大夫等の爵位を進級したが、一律ではなかったと述べている。八日に耽羅が帰国。十六日に龍田風神廣瀬大忌神を祭祀している。前回は三ヶ月前であった。雨乞いが主たるところであったのか。村國雄依(男依)が亡くなり、外小紫位を贈っている。「星」は彗星であろう。

八月丙申朔丁酉、親王以下小錦以上大夫及皇女・姬王・內命婦等、給食封各有差。辛亥、詔曰「四方爲大解除、用物則國別國造輸。秡柱、馬一匹・布一常。以外郡司、各刀一口・鹿皮一張・钁一口・刀子一口・鎌一口・矢一具・稻一束。且毎戸、麻一條。」壬子、詔曰「死刑・沒官・三流、並降一等。徒罪以下、已發覺・未發覺、悉赦之。唯、既配流不在赦例。」是日、詔諸國以放生。是月、大三輪眞上田子人君、卒。天皇、聞之大哀。以壬申年之功、贈內小紫位、仍謚曰大三輪眞上田迎君。

八月初め頃、親王、小錦以上の大夫、皇女、姫王、內命婦(ナイミョウブ:後宮の女官)等に食封を与えている。いよいよ本格的な「公地公民」を実施できる状態になりつつあったと推測される。続いて記述される「大解除(大祓)」も國造、郡司が執行せよ、と命じられている。地方の体制も徐々にではあるが、確立していることを伺わせている。

十七日に恩赦が記述されている。死刑・沒官・三流(島流し)の等級を下げよ、徒罪(労役:明記された最初)は放免するとしている。大三輪眞上田子人君(三輪君子首)が亡くなり、内小紫が贈られ、呼称も変わったと述べている。伊勢鈴鹿の「介」だった人物で、逃亡を助け、仲間となったと記載されていた。「首」を異なる表記とした名称である。

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『壬申の乱』で実際に功績のあった者が亡くなっている。時の流れは止まることを知らない、のであろう・・・。