2020年9月14日月曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(14) 〔451〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(14)


左右大臣の指名もなく、天皇自らが執政する体制を採ったようである。任せる人材がいなかったのかもしれないが、この独裁が吉と出るか凶と出るか、大きな賭けであったのではなかろうか。即位三年(西暦674年)正月からの記事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

三年春正月辛亥朔庚申、百濟王昌成薨、贈此小紫位。二月辛巳朔戊申、紀臣阿閉
麻呂卒。天皇大悲之、以勞壬申年之役贈大紫位。三月庚戌朔丙辰、對馬國司守忍海造大國言、銀始出于當國、卽貢上。由是、大國授小錦下位。凡銀有倭國、初出于此時。故、悉奉諸神祗、亦周賜小錦以上大夫等。秋八月戊寅朔庚辰、遣忍壁皇子於石上神宮、以膏油瑩神寶。卽日勅曰、元來諸家貯於神府寶物、今皆還其子孫。冬十月丁丑朔乙酉、大來皇女、自泊瀬齋宮向伊勢神宮。

正月早々に百濟王昌成()が亡くなっている。二月末、紀臣阿閉麻呂が逝ったとのこと、大紫の高位を贈っている。三月に「對馬國司守忍海造大國」が当地で銀が採れたと伝えて来た。小錦以上の臣下に分け与えたようである。

八月に入って忍壁皇子石上神宮に遣わして神宝を膏油で磨かせた(瑩)のだが、どうやら似付かわしくなかったようである。十月九日、大來皇女が泊瀬齋宮から伊勢神宮に向かったと述べている。

<對馬國司守忍海造大國>
對馬國司守忍海造大國

「對馬」は神代から登場する地名であるが、「國司」の名前は初登場である。古事記では「津嶋」、住人の名前が記述されることはない。

魏志倭人伝では「對海國」と表記され、官及び副官の名前が「卑狗」及び「卑奴母離」であった。そんな背景で一文字一文字をしっかり紐解いてみよう。

「記紀」を通じて忍海=一見海には見えない海と読み、川と海とが混じり合う場所のことを表している。

縄文海進・沖積の進行が未熟なことより現在の標高10m程度を目安に判断して来た。即ち、図に示したように中心地である対馬市厳原町の大半は海面下にあったと推定される。

その入江の奥に山麓の西側に大國=平らな頂の麓にある囲まれた地を示す場所が見出せる。それを守=山稜の端が岐れて取り囲まれた地に蛇行する川があるところと表記している。更に、=岐れた山稜の端が閉じるようになった様と付加しているのである。

<對海國>
「造」(牛の古文字)は取り囲まれた中に小高いところがあり、その麓に對馬國司が居たことを表していると思われる。流石に初登場、全ての文字が余すことなく地形象形に用いられていることが解る。

魏志倭人伝の對海國の官名から読み解いた図を再掲すると、その副官卑奴母離が示す場所に当たる。意味不明とされた表現が生き生きと蘇って来たようである。

さて、この地で銀が産出したとのことであるが、その痕跡が今も残っているようである。詳細は省略するが、対馬の下島の西側…同じく厳原町…に銀山(上)神社がある。

シルバーラッシュが発生し、谷間は石見銀山のような間歩だらけだったのかもしれない。直近で登場したのは對馬國金田城、通説とは全く異なる場所と推定した。

古代の地名が示す場所が確定している地に関わる記述がもう少し多く・・・と言いたいところではある。即位三年の出来事は少なかったようで、翌年へと進む。

四年春正月丙午朔、大學寮諸學生・陰陽寮・外藥寮、及舍衞女・墮羅女・百濟王善光・新羅仕丁等、捧藥及珍異等物進。丁未、皇子以下百寮諸人、拜朝。戊申、百寮諸人初位以上、進薪。庚戌、始興占星臺。壬子、賜宴群臣於朝庭。壬戌、公卿大夫及百寮諸人初位以上、射于西門庭。是日、大倭國貢瑞鶏、東國貢白鷹、近江國貢白鵄。戊辰、祭幣諸社。

即位四年(西暦675年)正月一日に大學寮(官僚育成機関、儒教教育など)、陰陽寮(暦学など)・外藥寮(医・薬事関係)、及び舍衞女(インド北部舍衞城辺り)・墮羅女(斉明天皇紀に異伝で記載、下記で少し述べる)、他に百濟王善光()・新羅仕丁が薬や珍しいものを進呈したと述べている。

三つの寮は、そのお披露め的な感じではなかろうか。上下を問わずに幅広く人材育成するには、やはり教育機関を設けることであろう。百濟から亡命者に学識頭の職を与えていたのも一般庶民を対象する意識が高かったように思われる。

即位四年目にして、漸く正月の行事らしきところが行われた様子である。乱後の「射礼」の儀は、平穏な状況を表していると思われる。大倭國・東國・近江國がそれぞれ瑞鶏(珍しい鶏?)・白鷹・白鵄(白い鳶)を献上している。前記のような山地ではなく、鳥であろう。

久々に登場の「大倭國」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)に含まれる「倭」が示す場所であろう。現在の大坂山の西方にある愛宕山の西~南麓を表すと読み解いた。古事記におけるその表記は一度の出現で、倭建命によって熊曾建が征伐されかかった時に発した言葉に含まれ、その時は「倭國」に「大」を付けた尊称の表記であろう。明らかに両書が示す意味が異なっていると思われる。

「舍衞女」の「舍衞」インド北部舍衞城辺りとして、「墮羅女」の「墮羅」は何処を示すのであろうか?…『世界大百科事典 第2版』によると・・・、

タイのメナム川下流域にあったモン族の王国。歴史については不明な点が多いが,7世紀ころに興り,アンコール朝のクメール族がこの地方に進出した11世紀に消滅したと思われる。7世紀にインドを旅行した唐の玄奘は,カンボジアのイシャーナプラという王国とビルマ(現ミャンマー)のシュリークセートラと称する王国との間に,堕羅鉢底(だらはつてい)という国があると《大唐西域記》に記録した。堕羅鉢底はサンスクリットのドバーラバティの中国語による音写であった。

・・・と記載されている。カンボジアとミャンマの間のタイに該当する国のようである。堕羅鉢底=鉢の底からこぼれ落ちて崩れ連なったようなところであろう。勿論単なる音写ではなく、地形を見事に表していることが解る。

二月乙亥朔癸未、勅大倭・河內・攝津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狹・伊勢・美濃・尾張等國曰、選所部百姓之能歌男女及侏儒伎人而貢上。丁亥、十市皇女・阿閉皇女、參赴於伊勢神宮。己丑、詔曰「甲子年諸氏被給部曲者、自今以後、皆除之。又親王諸王及諸臣幷諸寺等所賜山澤・嶋浦・林野・陂池、前後並除焉。」癸巳、詔曰「群臣百寮及天下人民、莫作諸惡。若有犯者、隨事罪之。」丁酉、天皇幸於高安城。是月、新羅、遣王子忠元・大監級飡金比蘇・大監奈末金天沖・第監大麻朴武摩・第監大舍金洛水等、進調。其送使奈末金風那・奈末金孝福、送王子忠元於筑紫。

二月に、十三の国に歌える男女や小人(朱檮)で技のある者を差し出すように命じている芸能の奨励のようである。いや、正に天下泰平の様相である。十三日に十市皇女と阿閉皇女を伊勢神宮に参らせている。十五日には、天智天皇即位三年(664年)に私有できる民(部曲)が与えられたが、更にまた続けて、それに併せて、王族やら寺に与えた地を戻せと命じられている。

<十三諸國等>
純然たる「公地公民制」を、不満緩和策で与えたものを全て本来の姿にしようと試みられたようである。

自由に使用できた民と地を差し出させるにはかなりの抵抗があったであろうが、”天武独裁政権”では可能だったと推測される。

革命のある時期にはカリスマ性が求められると言うことなのかもしれない。重い罰則を課す、決め言葉である。

二十三日に「高安城」に出向かれた。これは、大坂山と思われるが、さて、目的は単なる国見だったのか・・・。

この月に新羅が王子を筆頭に大挙して進調したと伝えている。記録がきちんと残っていたのか、詳細である。「〇監」は武官とのことで、朝鮮半島征圧を踏まえた話し合いが目的だったのかもしれない。日本側の武官の名前が浮かんで来ないのだが、極秘かも。

記載された諸国の配置を図に示した。概ね既出の国々であるが、少々補足する。近江國は既に読み解いたように、近江=斧の形をした入り江である。古事記の近淡海國に相当し、同じく近淡海=斧で二つに切り分けられた形をした[炎]のように水が舞い上がる海を表す表記である。複雑な形状の入江の傍らにある国であって、少々入組んだ地域となっている。いずれにせよ当時の海水面を考慮することなく、読み解くわけには行かないのである。

攝津國は書紀中には幾度か登場しているが、本ブログでは初登場である。「攝」=「手+耳+耳+耳」と分解される。「幾つかのものを寄せ集める様」を表す文字と解説される。

<攝津國>
地形象形的には如何に読み解けるであろうか?…「耳」=「耳の形」=「入江()」と解釈すると、攝津=幾つかの津を寄せ集めたところと読み解ける。難波三津之浦があり、また、武庫水門などが寄り集まって場所を示していると思われる。

図に現在の標高およそ10mのところを破線で示した。当時の海岸線かと思われる。すると犀川(今川)の川沿いの地、難波の入江に面した場所に幾つかの津の背後にある地が見出せる。

津が連なったような海辺の背後にある国を攝津國と名付けたのであろう。残念ながらこの国の内陸側の広がりは定かではないが、そもそも峠のないところでは国境がなかったのかもしれない。

後に活田村が登場する。「活」=「水+舌」と分解される。活=水辺の[舌]のような形をしたところと読み解ける。大きく窪んだ入江の真ん中で突き出た地形を示していると思われる。

淡路國は、勿論、淡路島ではない。謀反の嫌疑を掛けられた有間皇子が牟婁津を封鎖して籠城するか、と仰ったと記述された時に登場する。書紀中、たった一度の登場である。現地名は行橋市東泉の草場橋の西側に当たる。上記の攝津國と同様、その西側の境界は定かではない。

上図で示せば、両国が並んでいるように見えるが、曖昧である。現在の大阪府摂津市に接している大阪市東淀川区に淡路の地名がある。いつものことながら、何とも生真面目な国譲りであろうか・・・困った時には、大変参考になる、のである。

若狹國は、古事記と共有の表記であろう。こちらを参照して、現在の北九州市門司区今津、及びその上の谷間と思われる。尚、図中に関連する国々も併せて記載した。九州東北部の地に登場する多くの国が、その名称が地形を表しつつ、整然と収まっていることが解る。

三月乙巳朔丙午、土左大神、以神刀一口進于天皇。戊午、饗金風那等於筑紫、卽自筑紫歸之。庚申、諸王四位栗隈王爲兵政官長、小錦上大伴連御行爲大輔。是月、高麗、遣大兄富干・大兄多武等、朝貢。新羅、遣級飡朴勤修・大奈末金美賀、進調。

三月に入って、「土左大神」が神刀を進呈している。十六日に栗隈王を「兵政官長」に、大伴連御行(大伴連長徳の子、佐伯連大目に併記)を次官に任命したと伝えている。極秘ではなっかったようである。記述の流れからすると、新羅の様子に応じた任命のような感じであろう人選は真に順当である。

高麗が朝貢、新羅が進調となかなかに活発である。勿論、それぞれの背景と思惑があってのことであろう。対馬海峡も随分と狭くなって来ていたのであろう。

土左大神はここだけの登場であり、古事記の土左國を頼りとするしか選択の余地はないようである。情報少なく、こちらの地図を参照(北九州市若松区乙丸、戸脇神社辺りかもしれない)。「沼名木」と別名された地である。

夏四月甲戌朔戊寅、請僧尼二千四百餘而大設齋焉。辛巳、勅「小錦上當摩公廣麻呂・小錦下久努臣麻呂二人、勿使朝參。」壬午、詔曰「諸國貸税、自今以後、明察百姓・先知富貧・簡定三等、仍中戸以下應與貸。」癸未、遣小紫美濃王・小錦下佐伯連廣足、祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大蓋・大山中曾禰連韓犬、祭大忌神於廣瀬河曲。丁亥、小錦下久努臣摩呂、坐對捍詔使、官位盡追。

四月に僧尼を招いて「大設齋」(食事会)を行っている。実数なのであろうが、凄まじい人数である。八日に當摩公廣麻呂(當摩公廣嶋に併記)・久努臣麻呂(社戸臣大口に併記、共に阿倍一族)に朝参禁止を命じたのだが、罪状は不明。後者は詔使の訪問を拒んだために官位剥奪に至っている。

また、「貸税」は金持ちには、行うな!と言われている。そもそもこの制度は貧しきものを助けるもの、だったのであろう。国の制度の”悪用”は、変わらぬものか・・・四月十日に美濃王佐伯連廣足を遣わして「龍田立野」に「風神」、また、間人連大蓋・「曾禰連韓犬」を遣わして「廣瀬河曲」に「大忌神」を祭らせたと伝えている。

<龍田立野・風神>
風神于龍田立野

五穀豊穣を願って神に祭祀することを始めたと告げている。その一つが「龍田立野」の「風神」と記載されている。

龍田は既に登場していて、将軍大伴連吹負坂本臣財が守れと命じられた場所であった。結局そこではなく高安城に向かったのであるが。

現地名の京都郡みやこ町勝山浦河内、味見峠への谷間の入口と推定した。山稜の端を「龍」に見立てた表記であろう。龍田=龍のような山稜が延びている麓で平らに整えられているところと読み解ける。

さて、その地に「立野」の地形があるのか?…簡単な文字であるが、解釈は難しいようである。「野を立てる」と読んでは、意味不明となろう。「立」は字源は「林」と言われる。「竝」=「立+立」は「並」の旧字体であり、即ち、立=並びんでいる様を表していると解説される。二つの谷間が並んでいるようになった地を立野と表現したと思われる。

ところで「風神」の「風」=「凡+虫」と分解される。地形で解釈すると、風=覆い被さるように曲がってくねる様と読める。この地の地形に適合した神であろう。故に祭祀に相応しい場所として選定されたのであろう。勿論、五穀豊穣を支配するものの一つが「風」と考えられていたと思われる。雲を呼び、雨を降らし、太陽の光を届ける神である。

<廣瀬河曲・大忌神>
大忌神於廣瀬河曲

廣瀬=広がった早瀬の様と読むと、香春岳西麓の谷間が直ぐに目に止まるであろう。これだけ広々とした深い谷間はめったに見られるものではない。

かつ河曲=川が大きく曲がって流れる様も容易に見出せる。図に示した香春町五徳にある場所と推定される。大忌神の「忌」は忌部首と同様に解釈すると、忌=[己]の字形に曲がる様となる。

上記と同じく「大忌神」を祭るに相応しい場所を選定したことになる。勿論大=平らな頂の麓である。一文字も無駄に使われていない表記であることが解る。

「大忌神」は「厄除け」の意味を示すと思われる。「風」の恩恵を被りながら、災いを避ける、二つの神を一組として祭祀する、真に理にかなった行い、と思われたのであろう。この後も引き続き祭祀が行われたようである。

それにしても神仏良いとこどりの有様、だがこの多様性が万葉の世界に通じるのであろう。幾多の年月を経て、多様であることが本来の姿であって、それを受け入れてこそ真実に近付けることが、漸く浸透しつつあるように感じられる。Naomi Osaka, US Open V2!!, 9/13 9:00.

<曾禰連韓犬>
● 曾禰連韓犬

調べると物部一族であることが分かった。と言うことで、物部の地で表記の地形を探すことにする。

曾禰=積み重なって広がった高台と読み解く。既出の文字の組合せであろう。すると直近で登場した阿閉の台地と推定される。

韓犬=取り囲まれた平らな頂の様と読み解けば、「阿閇」の北側の地形が要件を満たすことが解った。現地名は北九州市小倉南区母原である。物部の本拠地からは最も遠く離れた場所となっている。

文武天皇紀(續紀)に曾禰連足人が登場する。足人=山稜が延びた端(足)にある谷間(人)と読み解ける。「韓犬」に西側の小ぶりな谷間を示していると思われる。古事記の倭建命が息を引き取った場所がこの谷間の出口辺りと推定した場所である。能煩野の場所の特定に多くの時間を費やした記憶が蘇える懐かしい思いである。

庚寅、詔諸國曰「自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類。亦、四月朔以後九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁。且、莫食牛馬犬猨鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。」辛卯、三位麻續王有罪、流于因播。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋。丙申、簡諸才藝者、給祿各有差。是月、新羅王子忠元到難波。

四月半ばに諸国に通達している。漁猟に仕掛けのあるものを使ってはならない。また、四月初めから九月の終わりまでは、簗の設置などを禁じ、牛馬などを食してはならないと述べている。乱獲防止なのか、不明であるが、指示は微に入っている。

四月十八日、「麻續王」に罪があったとして、「因播」に配流している。その子二人はそれぞれ「伊豆嶋」(古事記の小豆嶋、現在の北九州市小倉北区藍島)、「血鹿嶋」(古事記の知訶嶋、福岡県大字安屋男島)に流したようである。また、「諸才藝」を有する者を優遇している。この月に新羅王子が難波に到着したと記載している。

● 麻續王

「三位」は栗隈王(四位)より上位である。なのに全く出自の情報が得られない王族である。加えて、乱後の処罰から見ても、二人の子供にもかなり厳しい罰を与えているにも拘わらず、罪状は語られることがない。史書としての体裁を全く意に関せずの記述が許された背景を憶測せざるを得ない有様である。

一応名前の地形象形を読み解くと、麻續=擦り潰されたような地が次々と連なる様であろう。これは正に伊賀采女の地形である。ならば大友皇子の兄弟か、天智天皇が異なる采女(闕名)に産ませた子なのかが考えられる。更に「伊賀」からの仇討に最も神経を尖らせていた時でもあり、根こそぎ断つ対応を行ったと憶測される。

この徹底した仕打ちをあからさまにすることを回避したのではなかろうか。後にも出自不明の高位の王族が幾人か登場する。記録に残されていない母親の王がそれだけ多くいたのであろう。当時ならば当然あり得る話しではある。

<因播>
因播

流刑の地の名称である。読みからして、古事記の稲羽に該当する場所と思われる。「因」=「囗+大」と分解すると、地形象形的には「因」=「囲われた(囗)平らな頂の山稜(大)」と解釈される。

播磨國で登場した「播」=「次々と広がり延びる様」と読み解いた。纏めると因播=囲われた平らな頂の山稜が次々と広がり延びたところと読み解ける。

現地名の宗像市上八・鐘崎の地形を表していることが解る。針間→播磨と同様に時代と共に地形の変化を表していて興味深い。この場合は谷間の棚田の開拓が進捗したことを告げているように受け取れる。

少々補足すると、上記で述べたように血鹿嶋は古事記の知訶嶋とした。血鹿嶋=血が流れ出た麓がある嶋と解釈できる(こちら参照)。知訶嶋の別名、天之忍男の「男」の部分(北側)を表している。人が住むことができそうな、極めて狭い場所である。現在は石油備蓄施設となっているが・・・正真正銘の流罪であろう。

<伊豆嶋>
伊豆嶋・小豆嶋

古事記の「小豆嶋」を書紀では「伊豆嶋」に書き換えている。地形象形表記から外れているわけではない、と思われる。

伊=人+尹(|+又)=谷間(人)で区切られた(|)山稜(手)と読み解いた。右図に示した通り、この島は溶岩台地であり、微小な凹凸が寄り集まった地形である。

その凸部が区切られて連なった様子を「伊」の文字で表現したと思われる。古事記の「小」はその凸部の三角形に着目した表記である。「記紀」併せて読み解けば、島の実態により近付けるようである。

通説は、それぞれ別の島であり、相模灘と瀬戸内海に浮かぶ島のようである。「伊」、「小」の由来は、遥かな大海の向う側なのであろう。

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国の基礎固めの雰囲気である。「公地公民制」が些か形骸化しつつある中、より強固に推し進めようとしているようであるが・・・。