2020年9月11日金曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(13) 〔450〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(13) 


さて、いよいよ天武天皇治世の記述となる。西海の状況は?…はたまた内政を重視したのであろうか?…書紀編者の捻くれた記述を解きほぐしながら読み下してみよう。時は即位二年(西暦673年)である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

三月丙戌朔壬寅、備後國司、獲白雉於龜石郡而貢。乃當郡課役悉免、仍大赦天下。是月、聚書生、始寫一切經於川原寺。

三月の出来事。備後國司が龜石郡で、「白雉」を捕らえて貢いだことから、該郡の課役を免除して、また一般にも恩赦を行ったと述べている。川原寺での写経会も行ったようである。「白雉」に纏わる記述は、白雉元年(西暦650年)に孝徳天皇紀に穴戸國司草壁連醜經が麻山で捕らえて献上し、元号にした謂れが長々と記載されていた。

その後元号に関する記載は見られないし、今回でも元号には採用しなかったようである。天武天皇紀の最後に「朱鳥」の元号が登場するまで、元号を用いなかったのか、単に記述漏れなのか?…その時の天皇の一言で決まっていたのかもしれない。

いきなりの…安閑天皇紀に一連の設置された屯倉の中に含まれているが…「備後」とは?…それにしても「白雉」は有難い鳥と思われていたのであろう。川原寺についてはこちらを参照。

備後國龜石郡

「備後」は吉備國に関わり、その背後に位置する國と推測される。背後は中心の地から遠いことを表しているのであろう。古事記における「吉備」の文字は、伊邪那岐・伊邪那美の島生みで登場する吉備兒嶋が最初であり、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀の吉備之高嶋宮で人が住まう地として記述される。如何にも古めかしい土地柄なのである。

更に登場人物も多く、この國が重要な役割を持っていたことも伺える。古事記中に登場した地名・人名マップがそれを裏付けているように思われる。倭建命の出自の地も近隣と推定した。この地が鉄の産地として、事あるごとに中央から人材が派遣されていたのであろう。

<備後國龜石郡>
背後の位置であって、国として区分されたと見做せるのは、現地名の下関市内日上の亀ヶ原辺りと思われる。

その地に亀の頭と延ばした両足が揃った地形が見出せる。この頭の部分を石=崖下の地と呼称したと思われる。「亀」は一文字残存地名かもしれない。

更に、その崖に二匹の鳥が佇んでいるように見える山稜がある。かつ、くっ付くように並んでいる様を白雉と称したのではなかろうか。

頻出の「白」=「くっ付いて並ぶ様」であり、また「雉」=「矢+隹」=「矢のような鳥の様」である。

と言うことは、白い雉ではなく、この山を開拓し、それを献上したと述べていることになる。これは大喜びであろう。またそれを天下に知らしめることも重要である。過剰とも思える褒美はあながちそうでもなく、実に具体的な対応であったと推測できる。

少々余談だが、欽明天皇紀に「備前兒嶋郡」に屯倉を設置したと記載されている。「備前」は吉備兒嶋の近隣を示す地域の名称としているが、上図の配置は妥当なものであろう。「備後」、「備前」の登場は少なく、その地を特定する上に於いても上記の「白雉」の記述は重要であったと思われる。

夏四月丙辰朔己巳、欲遣侍大來皇女于天照太神宮、而令居泊瀬齋宮。是、先潔身、稍近神之所也。五月乙酉朔、詔公卿大夫及諸臣連幷伴造等曰「夫初出身者、先令仕大舍人。然後、選簡其才能、以充當職。又婦女者、無問有夫無夫及長幼、欲進仕者、聽矣。其考選、准官人之例。」癸丑、大錦上坂本財臣卒。由壬申年之勞、贈小紫位。

四月半ばに大來皇女を「天照太神宮」に遣わしている。この時を正式な齋宮としての制度化がなされたと言われている。五月に入って、神に仕えるためには、先ずは身を浄めるのだが、その場所を神に近い場所の「泊瀬齋宮」と定めている。暫くして、該当者は、大舎人に仕え、当職を適するかを見極めること。また、年齢、夫がいるや否やは問わず、進んで仕えたいと思う者を拒まないで、官人の基準に従うこと、と述べている。

五月も終わろうとした時に将軍大伴連吹負の下で活躍した坂本臣財が亡くなっている。一階級特進のようである。今後も『壬申の乱』の功労者の逝去が続くようである。「泊瀬齋宮」の場所は皆目見当もつかないようで、柱の穴を見つけては、時代が合えば、”じゃないか”の報告が現在も継続中かな?・・・。

泊瀬齋宮

「泊瀬」は既に幾度か用いられた文字列であって、泊瀬仲王、泊瀬部皇女などがある。今一度振り返ると、「瀬」の解釈は「瀬」=「氵+頼」と分解される。更に「頼」=「束+頁」と分解され、「束ねたものをバラバラにする」意味を表す文字と知られる。「頁(ページ)」はそのイメージ通りであろう。

瀬=水がバラバラに流れる様=水が飛び跳ねながら流れる様を表すと解説されている。急流の早瀬、水深が浅く石のゴロゴロした浅瀬などで使用される。また、大きく蛇行する場所も静かではなく、飛び跳ねながらうねって流れる様であろう。前記の瀬田の場所はそれに該当する場所と推定した。

<泊瀬齋宮>
そう考えると、泊瀬=飛び跳ねながら流れる川を止めるような様を表していると読み解ける。即ち、川が大きく蛇行する場所を示していると解る。

その地が「稍近神之所也」と記載されている。「倭京」から「天照太神宮」への道筋にあったことを述べている。

天武天皇が吉野を逃れて伊勢に向かった時に、「天照大神」を朝明郡で望拝する場所があった。その東側、迹太川(現在の紫川)が谷間から出て大きく曲がるところを「泊瀬」と呼んだのであろう。

すると、その近傍に小高い山稜から切り離されたような高台が見出せる。朝明郡家の直ぐ南に当たる。

宮を置くには適した場所であることが分かるが、決め手に欠けるようでもある。さて、何としたものか・・・「齋」=「身を浄めて神に仕える」と辞書に記載されている。それ以上は何も告げてはいない・・・あらためてこの文字の構成を調べると、実に単刀直入であった。

齋=三つの稲穂を台の上に乗せる様である。図の高台を拡大表示してみると、台の頂きは三つの峰が束ねられた様をしていることが解る。即ち、「齋」は、この高台の地形を表す文字であった。現在も三つの峰に神社が三社ある。逃亡中に勇気を与えてくれた望拝の地、その近隣に齋宮を設置、天武天皇の思いが伝わる記述であろう。

かつて望拝したのは「天照大神」と記載されていたが、ここでは「天照太神宮」となっている。「宮」故にその場所を示しているのである。太安萬侶のところで述べたように太=平らな頂の麓に高台があるところを表す表記と読んだ。同様にこの宮…現在の蒲生八幡神社だが…は高台に鎮座している。「齋宮」も同じく高台に位置し、両宮の繋がりを示していると思われる。

閏六月乙酉朔庚寅、大錦下百濟沙宅昭明卒。爲人聰明叡智、時稱秀才。於是、天皇驚之、降恩以贈外小紫位、重賜本國大佐平位。壬辰、耽羅、遣王子久麻藝・都羅・宇麻等朝貢。己亥、新羅、遣韓阿飡金承元・阿飡金祗山・大舍霜雪等、賀騰極。幷遣一吉飡金薩儒・韓奈末金池山等、弔先皇喪。一云、調使。其送使貴干寶・眞毛、送承元・薩儒於筑紫。戊申、饗貴干寶等於筑紫、賜祿各有差、卽從筑紫返于國。

六月に「沙宅昭明」が亡くなっている。余自信等と共に百濟滅亡後日本へ逃げて来た一人で、「法官大輔」の職が与えられていた(天智天皇紀の「沙宅紹明」)。出色の人物だったようである。

「重賜本國大佐平位」の一文は、天皇にそんな資格があるのか?…だが、当時の百濟と日本の関係は現在から見た以上に密接な関係であったことを表しているのかもしれない。天皇家のルーツは、既に憶測したように中国江南から百濟、更に任那(狗邪韓國)を経て壱岐へと渡った一族なのであろう。

また、耽羅から朝貢があったり、新羅から即位の祝いと前天皇の弔いの使者が訪れている。筑紫でもてなしたと記載されている。

秋八月甲申朔壬辰、詔在伊賀國紀臣阿閉麻呂等壬申年勞勳之狀、而顯寵賞。癸卯、高麗、遣上部位頭大兄邯子・前部大兄碩千等、朝貢。仍新羅、遣韓奈末金利益、送高麗使人于筑紫。戊申、喚賀騰極使金承元等中客以上廿七人於京。因命大宰、詔耽羅使人曰「天皇、新平天下、初之卽位。由是、唯除賀使以外不召、則汝等親所見。亦時寒浪嶮、久淹留之還爲汝愁、故宜疾歸。」仍在國王及使者久麻藝等、肇賜爵位。其爵者大乙上、更以錦繡潤飾之、當其國之佐平位。則自筑紫返之。

八月に伊賀國に駐在している紀臣阿閉麻呂等に褒賞を与えて労っている。伊賀の謀反を見定める役目が主であろうが、伊勢神宮への往来に不測の事態が生じるかもしれず、その地域の治安確保も兼ねていたのであろう。

大友皇子は明治になって「弘文天皇」の漢風諮号が付けられているように、天武天皇による皇位略奪であったとの見方もあろう。それだけに皇子の出自の地、伊賀の動向は不穏な雰囲気を醸していたことを示す記事かもしれない。書紀編者の忖度としておこう。

高麗の使者が新羅に送られて朝貢している。朝鮮半島内は新羅が支配した様子である。彼らを京に導いているが、耽羅の使者は筑紫止まり。筑紫大宰(栗隈王)にその趣旨を述べさせている。耽羅は百濟配下の時代より、かなり窮状の様子だったのかもしれない。

九月癸丑朔庚辰、饗金承元等於難波、奏種々樂、賜物各有差。冬十一月壬子朔、金承元罷歸之。壬申、饗高麗邯子・新羅薩儒等於筑紫大郡、賜祿各有差。

九月に難波(大郡、小郡、三韓館?)で新羅の使者を饗応しているが、「奏種々樂」と記されている。推古天皇紀には少年を集めて「樂」を習わしたという記述もある。賑やかな振る舞いだったのであろう。十一月には高麗・新羅の使者を「筑紫大郡」でもてなしている。

「筑紫大郡」は、前出の筑紫都督府と思われる。持統天皇紀に「筑紫小郡」が登場するが、おそらく都督府南側にある小高い場所と推定して「都督府」の図に記載した。

十二月壬午朔丙戌、侍奉大嘗中臣・忌部及神官人等・幷播磨・丹波二國郡司・亦以下人夫等、悉賜祿、因以郡司等各賜爵一級。戊戌、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拜造高市大寺司。今大官大寺、是。時、知事福林僧、由老辭知事、然不聽焉。戊申、以義成僧、爲小僧都。是日、更加佐官二僧。其有四佐官、始起于此時也。是年也、太歲癸酉。

十二月五日、即位初の新嘗祭(大嘗祭)が行われている。中臣・忌部・神官は当然として、「播磨」と「丹波」の国司が加わっている。この二国が穀倉地帯として重要な位置にあったことが伺える。古事記では天皇家草創期から「針間・旦波」として登場するのであるが、言い換えれば早くから目を付けて手中に収めた地であったことを示している。

十七日に美濃王と「紀臣訶多麻呂」に高市大寺(後に大官大寺と呼称)建立の司を命じている。また管理する役人も増やしたと記載されている。百濟大寺→高市大寺→大官大寺の変遷であろう。国政執行に仏教を据えて来たのであるが、それを一層明確にした様子である。

原文に知事(長官)が健康を理由に辞退する旨を告げたが、許さなかったとわざわざ記しているが、政権支配下に置かれることを望まなかったのかもしれない。神仏融合・政教融合の時代である。この時代に”地形象形表記”が抹消されて行ったように思われるが・・・。

<播磨國・針間國>
播磨國

「播磨(ハリマ)」と読んで何の違和感もない。そう読むものと教え込まれて来たからである。漢字は「播(ハ、バン)」である。勿論「針間」の地を示す表記であるが、何故変えたのかが重要である。

「播」=「手+番」と分解される。「手のひらを開いたり、閉じたりする様」であり、交互に入れ替わる様を表す文字と解説されている。「磨」=「擦って平らになった様」を表す。

すると播磨=平らになった(磨)腕のような山稜が次々と延びた(播)ところと読み解ける。図から明らかなように「針間」は針の隙間のような谷間を表す表記であり、「播磨」は山稜が延びて広がったところを表す表記である。

海退・沖積の進行、更には治水技術の進歩に伴って人々の主たる生活場所が徐々に下流域へと広がっていった状況を示していると思われる。「記紀」が伝える水田稲作は、ほぼ間違いなく谷間、棚田から広がって行ったのである。一方の魏志倭人伝などが伝える「倭國」は有明海の広大な水辺を主とした地から広がったと推察される。

同じ中国江南の倭族でありながら、前者はその技術を大きく進展させて後代へと引き継いで来たのであろう。別名表記、この場合は少々異なるが、豊かな情報を含んでいることが解る。そんな技法を「記紀」の編者等が共通して用いていることも併せて興味深いところである。

旦波=太陽が頭を覗かせる端の地の意味であろう。丹波=山稜に挟まれた谷間から延び出る山稜の端の地と読み解ける。幾つもの山稜が細く長く延びた端にあるところを表している(国土地理院地図はこちら)。いずれにしても豊かな水田稲作地帯を、現在と変わりなく、形成していたものと推察される。

<紀臣訶多麻呂・紀臣訶佐麻呂>
● 紀臣訶多麻呂

寺造りを命じられた初登場人物の出自の場所を求めておこう。既出の文字の組合せ故に、訶多=谷間にある耕地の傍らに山稜の端の三角州があるところと読み解ける。

「紀臣」から現在の豊前市の山稜にその地を見出すことができる。大将軍の紀臣阿閉麻呂の東側に当たる場所である。

後に紀臣訶佐麻呂が登場する。どうやら『壬申の乱』では近江朝側に属していたようで、左遷される憂き目に遭ったようである。詳細は語られていない。

「佐」=「助くる、脇(下)にある」と解釈して来たが、ここでは「佐」=「人+左」と分解して、佐=谷間にある左手を延ばしたようなところと読み解いた。上手い表記だが、些か紛らわしい、ようである。

下流域が繁栄する特徴がある紀臣一族、天智天皇紀では、その最下流域まで広がったのであるが、上流域でも人材を見出すことになったのであろう。世の中が乱れると埋もれていたものが飛び出る、これも自然の成り行きだったようである。

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様々な諸制度の見直しがなされたようである。そんな流れで物語は続く、のであろうか・・・。