天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(12)
実に丁寧な、長い戦闘記を読み下すことができた。通説のように設定した舞台が奈良大和ならば、「筑紫」、「淡海」に関する記述は曖昧な表現にせざるを得なかったであろう。恣意的に錯綜させ、解釈を読み手に委ねた記述に、これ幸いと悪乗りしているのが現状のように思われる。
前記したように、それではどちらが謀反人なのか、まるで逆転の戦闘記となってしまうのである。いや、所詮勝ち組に寄り添った書物だから・・・と片付けては、書紀編者に真に失礼な解釈であろう。近江朝側の謀反人の背後を突く戦略、それが「筑紫」と「淡海」だったのである。大海人皇子の謀反は、間違いなく、無謀な戦いだったが、彼の知力と人望が結果をもたらした、と書紀は伝えている。加えて、やはり伊勢神宮の天照大神望拝だったかも、である。
二年春正月丁亥朔癸巳、置酒宴群臣。二月丁巳朔癸未、天皇命有司設壇場、卽帝位於飛鳥淨御原宮。立正妃爲皇后、后生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女爲妃、生大來皇女與大津皇子。次妃大江皇女、生長皇子與弓削皇子。次妃新田部皇女、生舍人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘、生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘、生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大蕤娘、生一男二女、其一曰穗積皇子・其二曰紀皇女・其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姬王、生十市皇女。次納胸形君德善女尼子娘、生高市皇子命。次宍人臣大麻呂女□媛娘、生二男二女、其一曰忍壁皇子・其二曰磯城皇子・其三曰泊瀬部皇女・其四曰託基皇女。乙酉、有勳功人等、賜爵有差。
即位二年(西暦673年)正月に正式に飛鳥淨御原宮で即位されている。正妃(菟野皇女)を皇后にされ、後に皇太子となる草壁皇子が誕生したと記載している。他の娶りと御子が羅列されているが、多くは天智天皇の息女である。
<大來皇女> |
①大田皇女(大來皇女・大津皇子)
天智天皇の長女、菟野皇女の姉に当たる。母は蘇我山田石川大臣の子、遠智娘である。天武天皇即位前に亡くなられたようで、皇位継承に少なからず影響があったように思われる。
姉の大來皇女は別名大伯皇女と言われ、斉明天皇が大伯海を渡る最中に誕生したと記載されていた。「大來」が本来の出自の場所を示すと思われる。大=平らな頂の山稜とすれば、來=山稜が長く広がる様の地が麓にある場所であろう。
すると廐戸皇子の兄弟、來目皇子の「來」に関連すると思われる。その付け根の場所にある池(沼)の畔を表していると推定される。
細長い池(沼)の形状は、「大伯」と重ねた表記にではなかろうか。天武天皇による斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)として泊瀬斎宮(後述)に入ったと伝えられている。六歳ぐらいで母親をなくし、十二歳で斎宮となったようである。
<長皇子> |
弟の大津皇子も娜大津(後に長津と呼ばれる)に関係するとのことで、祖母に絡む命名だったと記載されている。
皇后となった菟野皇女の御子、草壁皇子との関係が微妙な感じで語られ、自死する結末を迎えることになった。真相は闇、である。
②大江皇女(長皇子・弓削皇子)
天智天皇の御子であるが、母は忍海造小龍の子で、宮人だった色夫古娘と記載されていた。川嶋皇子、泉皇女は同母弟妹である。
二人の皇子を誕生させるが、出自の場所を求めると、兄の長皇子は母親の近隣、長=山稜が長く延びた様と解釈して、直ぐ南側の台地、現地名は福智町の中原辺りと推定される。
弟の弓削皇子の「弓削」の文字列は幾度か登場した。物部弓削(守屋)大連などがある。これらに共通する地形象形は、弓削=山稜の端を弓なりに削ぎ取ったようなところと読み解いた。山稜の端で二つに岐れる様が弓のようになだらかになっている地形を表している。
<弓削皇子・舎人皇子> |
無修飾での「弓削」から、飛鳥の地で探索すると図に示した場所が該当するように思われる。
「物部」の地のようなくっきりとした山稜の端ではないが、必要な要件は満たしているようである。高市皇子の麓で延びた山稜の端となる。
兄弟は天武天皇の時代には、まだ幼く活躍の機会は後になったようであるが、弓削皇子は歌人として活躍されたと伝えられている。
③新田部皇女(舍人皇子)
ここでも何の修飾もなく「舎人」故に飛鳥近辺で求めると、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場した河瀨舎人の場所が浮かんで来る。王族関連の簡略記述では一に特定することは叶わないが、おそらく図に示した辺りかと思われる。
④氷上娘(但馬皇女)・五百重娘(新田部皇子)
藤原大臣の子、氷上娘に但馬皇女が誕生する。藤原大臣の姻戚関係は、全く語られることがないので、これはかなり難度の高い出自探索となろう。関連する僅かな情報としては別名「大刀自」があったようである。氷=冫+水=二つに割れた様を表すと読み解いた。
書紀では氷連眞玉・老人で出現した。藤原大臣がのこのこと物部の地に出向くことは、無いとは言えないが、そんな状況を設定するのは難しいであろう。
一方古事記では伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)が旦波比古多多須美知宇斯王の比賣に氷羽州比賣命を(行橋市稲童の仲津小・中辺りと推定)娶ったと記載されている。
「丹波」なら大臣のお出ましもあり得るかもしれない。すると、氷上=[氷]の上にあるところと読み解ける。現在の覗山の南麓と推定される。
加えて「大刀自」が重要な情報をもたらしてくれるようである。そのまま地形象形で読むと、大刀自=平らな頂の麓(大)にある[刀]の地の端(自)のところと読み解ける。
御子の但馬皇女の前に妹の五百重娘を求めてみよう。「五百」は度々の登場で、五百重=交差するように小高いところが連なって積み重なったところと読み解ける。姉の西隣、覗山山稜の端の地形を表していると思われる。御子の新田部皇子の「新田」も幾度か出現し、新=辛+木+斤=山稜が切り裂かれたような様を表す。母親の西側の窪んだところと推定される。
現地名は、姉が行橋市稲童、妹及び息子は行橋市道場寺となっている。JR日豊本線新田原駅の近隣であるが、残存地名と言うには、少し一般的過ぎる。いや「〇〇新田」は無数に存在しているようでもある。
さて、氷上娘の御子、但馬皇女については、「但馬國」をそのまま表現したような名前である。それでは一に特定はできない?…かもしれない。
古事記に登場した多遲摩(麻)毛理は、三宅連の祖と記載されていた。図に示した二人の三宅(連)が登場している。すると「毛理」と「三宅」を合せた地形は、「馬」の姿をしていると見做せることが解る。
但=人+旦=谷間で盛り上がった様であり、それが「馬」の形をしている場所を「但馬」と名付けたと読み解ける。「旦」=「太陽が水平線から頭を出す様」を象った文字であり、少しばかり盛り上がった様を表現していると思われる。
<大蕤娘> |
⑤大蕤娘(穗積皇子・紀皇女・田形皇女)
大臣の子が並ぶ。今度は蘇我赤兄大臣の子、大蕤娘である。姉の常陸娘は天智天皇に娶られて山邊皇女を生んでいて、「蘇我赤兄」はかつての蘇我一族のような・・・いや、そういう時代ではなくなって、できなくされていたであろう。
何とも見慣れない「蕤」の文字が使われている。がしかし、構成要素は意外に見慣れたもののようである。
「蕤」=「艸+豕+生」と分解する。通常は「草木の花が垂れ下がるさま」を意味する文字と知られる。地形象形的には、各要素の集まりとして、蕤=並ぶ山稜が生え出て「豚」の口のようになっている様と紐解ける。
叔父に当たる蘇我果安臣に向かう途中の中腹である。当時の生活が現在と大きく異なっていたことを示す例であろう。倉山田石川大臣の子、遠智娘、姪娘も含めて、この山稜から多くの皇統に関わる人材が輩出したと告げている。大蕤娘は後に石川夫人として斎宮に向かわれたことが述べられている。
<穂積皇子・紀皇女・田形皇女> |
すると香春町宮原の北側にその地形が見いだせる。多くの山稜の端が金辺川に向かって延びているが、「穂積」らしさはこの地が最も示していると思われる。
長女の紀皇女は「紀」の山稜の麓が出自の場所であろう。これも最も紀=糸+己=山稜が[己]の形に曲がって延びる様らしさは、図に示したところと思われる。
末っ子の田形皇女の田形=田が四角い様は、凹凸が少なく、些か見出し難い地形であるが、谷間の出口辺りが四角く更地になったいる場所が見出せる。兄姉に挟まれた山稜の端が出自の場所と思われる。
いずれにしても天智天皇とは異なり、天武天皇には自分の出自の場所には御子の割り当てる地は無く、各地に散らばらせたようである。長男と次男の差であろうか・・・。
⑥額田姬王(十市皇女)
鏡王の子、額田姫王を娶ったと記載している。俗に言われる天智ー額田王ー天武の三角関係があって、絶世の美人であったとか・・・万葉集は、何かと人騒がせなことを残しているようでもある。ともあれ、絶世の美人として、その出自をあからさまにしてみよう。
先ずは鏡王を求めることから始める。この人物も不詳であって、「王」が付く故に天皇家の血筋を引く者のようである。「鏡」=「金+竟」と分解される。同様の意味を持つ文字に「鑑」があるが、「平らな金物」のイメージに対して「鏡」は「境となる金物」である。物が反射して映ることを「竟(境)」が作られたと見做しているのである。「鑑」は構造、「鏡」は機能を表している。
この違いが極めて重要な出自の場所に関係することが解る。
「鏡」の地形を飛鳥近隣で求めると、既出の南淵の東部の山稜に「鏡」の「金」が見出せる。そして「竟」=「境」=「坂合」であることに気付かされる。
幾度も登場した「境部連」は、「坂合部連」と別表記される。即ち、境=坂合=山稜が延びた端が出合うところを示しているのである(こちら参照)。
鏡王=[金]の地形の傍らにある[坂合]の王と読み解ける。すると、「金」の高台が「額」となって、その麓が額田姫王の出自の場所と解る。田川郡香春町採銅所は、間違いなく銅鏡の生産地であった。その「鏡」と重ねた表記であると思われる。重ねて、間違いなく額田姫王は、香春の鏡山で、その美貌に磨きを掛けていたのである。
後に鏡姫王が登場する。病に罹った時には天皇自らが見舞う程の女性だったようであるが、その出自は不詳とされている。「鏡」の文字が使われるのは、この地に限定されているとすると、紛うことなく鏡王の娘で、その傍近くに居たのではなかろうか。「金」の東側の谷間が出自の場所と推定される。
しかしながら、古事記の前例に登場した「十市」は、かなり広い範囲の地形を表すものであって、出自場所を特定することは困難であることが分かる。
即ち、「十市皇女」の「十市」は、別の場所の十市=十字形に山稜が寄り集まっているところの地形を表していると思われる。すると、図に示した現地名の田川郡赤村の内田と赤の端境の場所が出自と推定される。悲劇の皇女となるのであるが、後裔が活躍したことが知られている。それも併せてこの場所と推測することができる。
母親も天智・天武両天皇に関わる逸話があるが、彼女は「大友皇子」の正妃となっている。幾度も発生する”父親が夫の仇”の関係となったわけである。微妙な立場の中で、後に宮中で突然死され、赤穂に埋葬されたと記載される。兄弟間で固めた血縁関係は、破綻すると不幸な出来事を伴うことになったようである。詳細はその段にて述べることにする。
⑦尼子娘(高市皇子命)
胸形君德善の子、尼子娘および高市皇子については、既にそれぞれの出自の場所を求めた(胸形はこちら、皇子はこちら参照)。『壬申の乱』の総大将であり、その後も幼い弟妹達の良き兄貴として、決して皇位に関わることなく、天武天皇亡き後の持統天皇紀を通して臣下の纏め役に徹されたようである。柿本人麻呂が、最長の挽歌を残しているが、いずれ読み下してみようかと思う。
⑧木穀媛娘(忍壁皇子・磯城皇子・泊瀬部皇女・託基皇女)
忍壁皇子は既に登場して、概略の出自場所を求めていたが、あらためて詳細に述べてみよう。フォントがなく、一文字の「木穀(カヂ)」を二字に分けて記載した。
<宍人臣大麻呂・木穀媛娘・宍人造老・膳臣摩漏> |
宍人臣大麻呂の「宍人」は「膳臣」一族と知られている。「宍」=「宀+六」と分解される。
「六」は簡単な文字ではあるが、字源となると意外に複雑な感じである。「五」に一つ加えた数で、少々突き出た、盛り上がった様を表すと解説されている。
これを信じて、宍人=山稜に囲まれた地(宀)に盛り上がった地(六)がある谷間(人)と読み解く。
基本的には「膳」と類似の地形であるが、「言」=「刃物で耕された地」に欠ける場所を表している。その通りの地形が東側に見出せる。大麻呂の「大」は、広い庭のような山頂を持つ戸城山(鳥見之白庭山)を示しているのであろう。
木穀媛娘の「木穀」は正字を分解したものとすれば、木穀=山稜の端が籾殻のような様と読み解ける。小さく突き出た山稜が集まっている地形を表していると思われる。「媛」=「女+爰」と分解すると、媛=嫋やかに曲がって緩やかな様と読める。木穀媛=山稜の端が籾殻のように突き出た麓が嫋やかに曲がって緩やかなところと読み解ける。図に示したように父親の少し山側の傾斜地が出自の場所と思われる。
後に宍人造老が登場する。「大麻呂」の東側の海老のように曲がった地形が見出せる。併せて上図に記載した。
また膳臣摩漏が逝去の際に登場する。乱の功績で大紫位を贈られる。「漏」=「水が小さく抜けでる様」を表す。小さな山稜が少し延び出ているところを示すと思われる。
御子の忍壁皇子は、前記で少し述べたが、別名「忍坂部皇子」、「刑部親王」などがあり、これらを併せて出自の場所が示されているようである。
この地の北側は金辺峠間近である。天武天皇の御子が忍坂全体に配置されたようである。おそらく歴代天皇の御子及びその係累達の多くがこの谷間に拡散して来たのであろう。外敵から峠で守られた”長谷”は天皇家の発展を支えた。最大の敵は、やはり、身内の爭いだったのかもしれない。
磯城=磯の傍の盛り上がったところと読むことができそうである。飛鳥淨御原宮の五徳川を挟んで対岸にある台地を表していると思われる。
活躍された記録は殆どなく、早世されたのではないかとも言われているようである。「磯城」の文字列は、古事記には登場しないが、書紀では主要な地域であったことが伺える。
図に示したように「石(磯)」であり、金辺川などが作る巨大な沼の周辺は「磯」であったと推定される。重要な空間認識であるが、通説では全く繋がらない解釈となっている。
その西側が次女の託基皇女の場所であろう。「託」=「言+乇」と分解される。「言」=「刃物で耕された地」であり、「乇」=「寄り集まる様」を表す文字である。
また「基」=「其+土」と分解される。「其」=「箕」とすると、「基」=「地が箕の形をしている様」を示していると解釈される。
これらを纏めると、託基=[箕]の形の地の傍らに耕地が寄り集まっているところと読み解ける。図に示した場所、前記で吾社中道と言われたところであろう。別名として多紀皇女が記載されている。斎宮に出向く時の呼び名である。勿論、多紀=山稜の端の三角州が[己]の形に曲がりくねっている様と矛盾はない。
斎宮を退下し、最後には「一品」に昇位され、女性では実に珍しいことのようである。天武天皇の皇女で最後に残った女性である。長女の泊瀬部皇女は、泊瀬仲王の近隣、少し下流の場所と思われる。天智天皇の次男、川嶋皇子に嫁いでいる。
尚、後に登場する橘寺の場所を併記した。既に幾度も読み解いたように多くの川が橘の様に寄り集まっている様と解釈する。廐戸皇子の近隣の地であるが、寺の詳細な位置は定かではない。
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ともかく、ロングバージョンの天武天皇紀のスタートである。さて、如何なることに物語は続くか・・・。