天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(17)
七年春正月戊午朔甲戌、射于南門。己卯、耽羅人向京。是春、將祠天神地祗而天下悉祓禊之、竪齋宮於倉梯河上。夏四月丁亥朔、欲幸齋宮卜之、癸巳食卜。仍取平旦時、警蹕既動・百寮成列・乘輿命蓋、以未及出行、十市皇女、卒然病發、薨於宮中。由此、鹵簿既停、不得幸行、遂不祭神祗矣。己亥、霹靂新宮西廳柱。庚子、葬十市皇女於赤穗。天皇臨之、降恩以發哀。秋九月、忍海造能摩呂、獻瑞稻五莖。毎莖有枝。由是、徒罪以下悉赦之。三位稚狹王薨之。
一月半ば射会を催している。二十二日、耽羅人が京に向かったと述べている。天神地祗を祠るために隈なく祓禊を行ったと記載している。神仏の両方だから、なかなかに忙しい。それで「倉梯河上」に「齋宮」を建てたそうである。占いで四月七日が吉とのことで行幸の準備万端のところで十市皇女が突然宮中で発病して逝ってしまったと述べている。当然、行幸は中止となったようである。
四月十三日、新宮(淨御原宮:山稜を切り裂いた場所、前記の新城参照)の西廳柱に霹靂(落雷)があったとか。度々の出来事、荘厳な宮を造るなど、もっての外であったろう。翌十四日に十市皇女を「赤穂」に葬っている。天皇は甚く悲しまれた様子である。大友皇子の正妃と言う、複雑な状況にあった。近親の骨肉関係が生んだ悲哀であろう。
九月に「忍海造能摩呂」が「瑞稻五莖」を献上し、軽い罪の者を赦したと記載している。これも単なる瑞稻ではないように思われるが、後に調べてみよう。三位の稚狹王(父親難波皇子)が亡くなっている。
齋宮於倉梯河上
「倉梯」の文字は、阿倍倉梯麻呂(内麻呂)大臣で登場している。では、「阿倍」の地か!?…と決め付けるわけには行かないようである。
もう一つ関連する記述は、書紀の崇峻天皇の宮が「倉梯」にあったことであり、対応する古事記の長谷部若雀天皇(崇峻天皇)の宮は倉椅柴垣宮であったと記載されている。
また大雀命(仁徳天皇)紀の速總別王・女鳥王の逃避行に登場する倉椅山の記述もあった。即ち、古事記の「倉椅」の地を「倉梯」と記述していると解る。「椅」と「梯」とは似て非なる文字であって、地形的には全く異なる表記である。
図に示したように谷間全体を表した「倉椅」に対して、その麓にある「梯」の地形を表すと文字であると思われる。阿倍倉梯麻呂で読み解いたように「梯」=「木+弟」と分解され、梯=山稜が段々(ギザギザ)になった様である。その傍らの谷間(倉)を流れる川を「倉梯河」と名付けられていたのであろう。
その「河上」にあった齋宮の場所は、前記の泊瀬齋宮と同様に齋=齊+示=高台に同じような地形が等しく揃っている様から、図に示した高台に求められるであろう。何故この地に齋宮を造られたのかは記されていないが、崇峻天皇の最後に関わることも一つの理由ではなかろうか。即位五年以降飢饉が頻発、それに対して様々な祈願を行ったが決して有効ではなかったようである。上記の「天下悉祓禊之」の象徴としてこの地が選ばれたと推察される。
<赤穗> |
赤穗
「赤穗」=「[赤]の地形から穗のように延び出たところ」と読める。では「赤」は何処を示すのであろうか?…古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀の引田部赤猪子ではあり得ない。
「赤」を含む名前を持っていたのは、袁本杼命(継体天皇)の御子、赤比賣郎女がいた。「三尾」の山稜が作る谷間を「赤」で表記したと解釈した場所である。
「赤」=「大+火」と分解して、それぞれの要素が示す地形が組合わさったところである。現地名は田川郡京都郡みやこ町吉岡と推定した。そしてこの谷間を作る山稜が延びて稲穂のようになった場所を赤穗と呼んだと思われる。後に氷上夫人もこの地に埋葬されることになる。
余談になるが、Wikipediaによると…「旧赤穂郡(現在の赤穂市・相生市・上郡町域)は古代の令制国における播磨国に属したことが平城宮・京跡出土木簡から判明している」…と記されている。赤穗の地は丹波國・但馬國・播磨國に取り巻かれている。これも実に生真面目な国譲りの結果であろう。ところが、この赤穂は、通説では奈良市高畑にある”赤穂神社”とされている。赤穂の地があることは知っていながらの苦肉の場所であろう。
● 忍海造能摩呂
前出の忍海造小龍(色夫古娘)の近隣であろう。しなしながらこの地は忍海状態で山稜の端が突き出た場所であり、能=隅を定め難い有様である。「摩呂」は頼りにならず、さて・・・やはり「獻瑞稻五莖」は貴重な情報提供であった。
そもそも珍しい稲と言えども、それを「五茎」とは、分かったようですっきりとは理解し難い表現である。
「莖」=「艸+坙」と分解される。「坙」=「真っ直ぐに延びる様」であり、「輕」、「經」などで用いられている文字要素である。要するに真っ直ぐに延びる山稜が五つ寄り集まった場所を表していることが解る。
「忍海造能摩呂」の出自の場所は、それらの隅に当たり、この地を開拓し、献上したことを示しているのである。お喜びになって恩赦となったと記述している(他の献上品の記述は今一度見直す必要があるかもしれないが、後日としよう)。
冬十月甲申朔、有物如綿、零於難波、長五六尺廣七八寸、則隨風以飄于松林及葦原、時人曰甘露也。己酉、詔曰「凡內外文武官、毎年、史以上其屬官人等公平而恪懃者、議其優劣則定應進階。正月上旬以前、具記送法官。則法官校定、申送大辨官。然、緣公事以出使之日、其非眞病及重服、輕緣小故而辭者、不在進階之例。」
十月初め、難波に大きな綿のようなものが降り、松林、葦原で風で漂い舞ったと記載している。それを見た人が「甘露」と言ったとか。天武の治世を褒めた表現なのであろうか。二十六日に文部官の勤務評定について述べられている。出張するのに仮病を使ったり、どうでもよいようなことを理由にして断わる輩は進級させるな!と命じられている。ま、今に通じる話であろう。
十二月癸丑朔己卯、臘子鳥、弊天、自西南飛東北。是月、筑紫國大地動之、地裂廣二丈長三千餘丈、百姓舍屋毎村多仆壞。是時、百姓一家有岡上、當于地動夕以岡崩處遷、然家既全而無破壞、家人不知岡崩家避、但會明後知以大驚焉。是年、新羅送使奈末加良井山・奈末金紅世、到于筑紫曰「新羅王、遣汲飡金消勿・大奈末金世々等、貢上當年之調。仍遣臣井山、送消勿等。倶逢暴風於海中、以消勿等皆散之、不知所如。唯井山僅得着岸。」然、消勿等遂不來焉。
十二月も過ぎようとしている時、「臘子鳥」(スズメ目アトリ、冬鳥)として知られる。京の西南方角で地変を感じたのかもしれない。筑紫で大地震が発生して、被害の状況が詳細に記載されている。日本における具体的な記録が残された最古の地震だとか。凄まじい地滑りが起こったのであろう。そもそも自然に逆らわない住居ではある。
この年と記されて期日が不明だが、新羅の使者が暴風に遭って難破したことを漂着した送使の一人が告げている。記録に残っていない遭難事例は多くあった筈だと思われるが。
八年春正月壬午朔丙戌、新羅送使加良井山・金紅世等、向京。戊子、詔曰「凡當正月之節、諸王諸臣及百寮者、除兄姉以上親及己氏長以外、莫拜焉。其諸王者、雖母非王姓者、莫拜。凡諸臣亦莫拜卑母。雖非正月節、復准此。若有犯者、隨事罪之。」己亥、射于西門。
即位八年(西暦679年)正月五日、新羅が使者を送り、京に向かったと記載している。七日、百寮以上の者は、「兄姉以上親及己氏長」以外を礼拝してはいけないと述べている。また「王」は母と言えども「王姓」でなければ礼拝してはいけないとしている。
天皇が采女などに産ませた「王」が対象となるようで、大友皇子の出自を思い出させる記述であろう。「王」が付くのは天皇の五世までのようだから、かなりの人数になる。本紀に出自不詳の「王」が多く登場するが、この「詔」に関係するのかもしれない。
十八日に射会を催したと記載している。
二月壬子朔、高麗、遣上部大相桓父・下部大相師需婁等、朝貢。因以、新羅遣奈末甘勿那、送桓父等於筑紫。甲寅、紀臣堅摩呂、卒。以壬申年之功、贈大錦上位。乙卯、詔曰「及于辛巳年、檢校親王諸臣及百寮人之兵及馬。故、豫貯焉。」是月、降大恩恤貧乏、以給其飢寒。
二月初め、高麗が朝貢し、新羅が使者を筑紫に送っている。三日に紀臣堅摩呂(紀臣訶多麻呂)が亡くなり、大錦上の冠位を贈った。四日に百寮以上の者の兵器・馬を調べるよと命じている。この月に貧しく、また飢えているの者に恵んだと記載してる。
三月辛巳朔丙戌、兵衞大分君稚見、死。當壬申年大役、爲先鋒之、破瀬田營。由是功、贈外小錦上位。丁亥、天皇幸於越智、拜後岡本天皇陵。己丑、吉備大宰石川王、病之薨於吉備。天皇聞之大哀、則降大恩、云々。贈諸王二位。壬寅、貧乏僧尼、施絁綿布。
三月六日に兵衞(舎人)大分君稚見が死んでいる。『壬申大役』で瀬田橋の決戦の先鋒として大活躍したと記されていたが、その功績で外小錦上を贈っている。薨→卒→死と冠位順に表記が変わる。この時点で決まっていたかは不明。いずれにせよ、大役後の位は決して高くはなかったのであろう。
翌日、「越智」にある「後岡本天皇陵」(斉明天皇陵)に出向き、拝礼している。天武天皇の母親、勿論「拝礼」の「詔」に背いてはいない。前記で小市岡上陵と記載されていた場所であり、確度高く比定された、と述べたところである。
九日に吉備大宰の石川王(難波皇子の子)が病で亡くなっている。それで大恩赦をしたと記載している。二十二日には貧乏な僧尼に綿布を施している。
越智
「小市」を「越智」と表記しているのであるが、別名として通じるのであろうか・・・。
「越」=「止(足)+戉(鉞)」と分解する。地形象形としての越=山稜の端が鉞の様に広がった様と読み解ける。頻出の智=矢+口+日=鏃のような山稜の傍で炎のように山稜が延びる様と読み解いた。
図に示したように「越智」のこれら三つの山稜の端が寄り集まった場所を表していることが解る。即ち「小市」の別表記であることが確かめられたと思われる。益々確度が高まったようである。
吉備大宰の場所は情報少なく、筑紫大宰(平らな頂の麓の山稜が断ち切られたような様)と同様の地形を表しているとすると、現在の下関市吉見下にある光善寺辺りではなかろうか。後日に機会があったら詳細に求めてみようかと思う。
夏四月辛亥朔乙卯、詔曰、商量諸有食封寺所由、而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。己未、祭廣瀬龍田神。
四月初めの頃、寺の食封を調べ、加えるべきところは加え、また減らすべきところは減らすように、と命じられている。また諸々の寺の名前を定めている。九日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。
五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。乙酉、天皇、詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰「朕、今日與汝等倶盟于庭而千歲之後欲無事、奈之何。」皇子等共對曰、理實灼然。則草壁皇子尊、先進盟曰「天神地祗及天皇、證也。吾兄弟長幼幷十餘王、各出于異腹、然不別同異、倶隨天皇勅而相扶無忤。若自今以後、不如此盟者、身命亡之子孫絶之。非忘非失矣。」五皇子、以次相盟如先。然後、天皇曰「朕男等各異腹而生、然今如一母同産慈之。」則披襟抱其六皇子。因以盟曰「若違茲盟、忽亡朕身。」皇后之盟、且如天皇。丙戌、車駕還宮。己丑、六皇子共拜天皇於大殿前。
五月五日に天皇は吉野に行かれ、翌日、草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子(川嶋皇子)・忍壁皇子・芝基皇子(施基皇子)に向かって「千年経っても無事を願いたいのだが、如何なものか?」と問うと、草壁皇子が先んじて「我が兄弟は長幼合せて十余王、母親は異なるが、変わらぬことはなく、天皇に従って、助け合います。もしこれが果たせぬなら子孫は絶えてしまうことになるでしょう」と述べた。残りの皇子も誓い合ったと記載してる。皆で誓い合って吉野を去っている。
五月十日には大殿で六皇子が天皇に拝礼している。今に伝わる「吉野の盟約(誓い)」と呼ばれる段である。しかしながら、時を経ずして、この誓いは破られることになる。そしてこの誓い通りに子孫は絶えてしまう。皇統、危うしの時期を迎えることになる。
後者の施=㫃+也=旗が畝ってなびいているようなところと解釈した。それを芝=艸+之=山稜が並んでいる地に蛇行する川があるところと読み解ける。全くの別表記として受け入れられる置換えであろう。そして各々の推定した場所の確からしさが高められたように思われる。
六月庚戌朔、氷零、大如桃子。壬申、雩。乙亥、大錦上大伴杜屋連、卒。秋七月己卯朔甲申、雩。壬辰、祭廣瀬龍田神。乙未、四位葛城王卒。八月己酉朔、詔曰、諸氏貢女人。己未、幸泊瀬、以宴迹驚淵上。先是、詔王卿曰「乘馬之外、更設細馬、以隨召出之。」卽自泊瀬還宮之日、看群卿儲細馬於迹見驛家道頭、皆令馳走。庚午、縵造忍勝、獻嘉禾、異畝同頴。癸酉、大宅王卒。
六月初めに桃の大きさの雹が降っている。二十三日に「雩(アマヒキ)」(雨乞い)をしたようである。二十六日に「大伴杜屋連」が亡くなっている(大伴長德の子と言われているが…)。七月十四日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀。十七日に葛城王(不詳で敏達天皇の子の葛城王の子孫ではないかと言われる)が逝ったと伝えている。
八月初めに諸々の氏族は娘を献上しろと命じている。采女の採用であろう。十一日に「泊瀬」に行幸、「迹驚淵上」で宴会を行っている。これに先立って、「乗馬」の外に「細馬」(細身の馬、競走馬か?)を提出すように、と命じられている。「泊瀬」より帰る時に、郡卿が備えた「細馬」を「迹見驛家」の道で走らせたと記載している。
八月二十二日に「縵造忍勝」が畝が異なっているが穗が一緒の稲を献上している。またもや、その地形を示しているようであるが、後程読み解いてみよう。二十五日に大宅王が(難波皇子の子、栗前王他に併記)亡くなったと記載している。
迹驚淵上・迹見驛家道頭
「女人」の話に続く「泊瀬」は前出の泊瀬齋宮の場所を示すのであろう。「齋宮」に仕える人手を主として意味していたと思われる。
宴会をした場所を「迹驚(トドロキ)淵上」と記している。水が飛び跳ねる音を感じさせる表現であるが、「迹驚」は何を示しているのであろうか?…淵を流れる川は迹太川と解釈した。
桑名への逃亡時に、その川岸で天照大御神を望拝したと記述されていた。その迹=川中の州を使い、驚=敬+馬=馬が何かに驚いて身を引き締める様と繋げている。
川が蛇行する内側(低流速側)で州が広がらずに盛り上がった様を表していると読み解ける。現在は堰が設けられて当時を偲ぶことは叶わないようである。
「迹驚淵上」は図に示した辺りと推定される。視覚に加えて聴覚による自然の営みを感じながらの宴会だったようである。「細馬」は脚がほっそりした現在のサラブレッドを伺わせる表現であろう。それを集めさせて走らせた場所を「迹見驛家道頭」と記載している。文字が示す意味が読み取れず、頭を並べて走らせた、のような珍訳まで見受けられる。
迹見驛家=[迹]が見える驛家であろう。前出の朝明郡家と思われる。その傍らの道頭=[首]の形に繋がる[頭]の地と読み解ける。図に示したように山稜の端にある平らな小高い場所を表していると思われる。現在のパドックでの下見を行ったと述べている。齋宮周辺を「迹」をキーワードに見事に再現しているのである。
● 大伴杜屋連
「大錦上」の爵位を有するわけだからかなりの大物と推測されるのだが、書紀での登場はこの記述のみである。大伴連長徳の子と言われるが、定かではないようである。
「大伴」の谷間の地で「杜屋」の文字を読み解くことにする。頻出の屋=尸+至=山稜が延び至る様と読み解いて来た。すると谷間の出口から延びる山稜の示していると思われる。
「杜」=「木+土」と分解される。単純な文字要素ほど解釈に注意が必要である。「土」=「大地が盛り上がった様」を示すことから「杜」=「山稜が盛り上がった様」と解釈する。纏めると杜屋=山稜が延び至ったところが盛り上がっている様と読み解ける。
僅かではあるが、端が盛り上がっている様子が伺える。杜屋の出自の場所はこの山稜の西側の谷間と推定される。別名で守屋と称していたとのことであるが、守屋=山稜が延び至ったところが肘を曲げたような山稜に囲まれた様と読むと上流域の地形に注目した表記となる。妥当な別名であろう。物部守屋大連の例を挙げておこう。
● 縵造忍勝
目出度い稲を献上したと告げている。いきなりの登場であるが、調べると百濟系渡来人の子孫のようである。と言うことで、「百濟」の近辺を探索すると、適当な場所が見出せる。
「縵」=「蔓性の植物」と辞書に記載されていることから、地形象形的には、縵=細い山稜が長く延びた様と読み解く。
古事記の師木津日子玉手見命(安寧天皇)が娶った阿久斗比賣の場所の特徴的な山稜を表していることが解る。名前の忍勝は、既出の文字の組合せであり、忍勝=谷間の真ん中にギザギザとした山稜がのびて盛り上がっているところと読み解ける。現在の菅原神社の西側に当たる場所が出自と推定される。
「異畝同頴」の稲も、前記と同様に地形を示す表現と思われる。即ち、「縵」が途切れて「異畝」となり、「同頴」は「畝」から延びた穗のような地がくっ付くように繋がり延びた様を表していると思われる。紛うことなく、この地を開拓し献上したことを述べているのである。
九月戊寅朔癸巳、遣新羅使人等、返之、拜朝。庚子、遣高麗使人・遣耽羅使人等、返之、共拜朝庭。冬十月戊申朔己酉、詔曰「朕聞之、近日暴惡者多在巷里。是則王卿等之過也。或聞暴惡者也煩之忍而不治、或見惡人也倦之匿以不正。其隨見聞以糺彈者、豈有暴惡乎。是以、自今以後、無煩倦而上責下過・下諫上暴、乃國家治焉。」
戊午、地震。庚申、勅制僧尼等威儀及法服之色・幷馬從者往來巷閭之狀。甲子、新羅、遣阿飡金項那・沙飡薩虆生、朝貢也。調物、金銀鐵鼎錦絹布皮馬狗騾駱駝之類、十餘種。亦別獻物、天皇・皇后・太子、貢金銀刀旗之類、各有數。是月、勅曰「凡諸僧尼者、常住寺內以護三寶。然、或及老・或患病、其永臥狹房久苦老疾者、進止不便・淨地亦穢。是以自今以後、各就親族及篤信者而立一二舍屋于間處、老者養身・病者服藥。」
九月十六、二十三日と新羅、高麗及び耽羅から使者が帰還、朝廷にて拝礼している。十月二日、天皇が「巷間に悪者が多くいると知ったが、王卿の怠慢だ」と述べてられる。「上責下過・下諫上暴」のように皆で悪しきところを直すべし、と命じられている。
十一日に地震があったと記している。十三日に僧尼の「威儀」(立ち振る舞いの作法)と法服の色、馬と従者が寺と里との往復する形式を定めたと述べている。十七日に新羅が金銀など様々なものを大量に朝貢したと伝えている。この月に僧尼に対して「常時寺に在して三宝を守れ」と命じられている。また穢れの無いようにしろとも言われている。
十一月丁丑朔庚寅、地震。己亥、大乙下倭馬飼部造連爲大使・小乙下上寸主光父爲小使、遣多禰嶋、仍賜爵一級。是月、初置關於龍田山・大坂山、仍難波築羅城。十二月丁未朔戊申、由嘉禾、以親王諸王諸臣及百官人等給祿各有差、大辟罪以下悉赦之。是年、紀伊國伊刀郡貢芝草、其狀似菌、莖長一尺、其蓋二圍。亦、因播國貢瑞稻、毎莖有枝。
十一月十四日、またもや地震があった。二十三日に倭馬飼部造連・「上寸主光父」を多禰嶋(詳細はこちら)へ遣わしている。爵位を一級進めている。この月に龍田山・大坂山に「關」(関)を設置し(こちら参照)、難波に「羅城」を築いている(「羅城」は初出の表記、後日に求めてみよう)。国防に関しても手抜かりなく、であろう。
十二月二日、「嘉禾」(8/22 縵造忍勝が献上)に由って、親王・諸王・諸臣・百官に個別に禄を給し、死罪以下へ恩赦したと述べている。「忍勝」の地で、この年の収穫が豊かだったのかもしれない。この年「紀伊國伊刀郡」が巨大な「芝草」(万年茸)を、「因播國」が「瑞稲」(茎ごとに枝がある?)朝貢したと記載している。
● 上寸主光父
この人物も情報が極めて少なく、ほぼ皆無と言える。「寸」の文字を頼りに関連するところを引っ張り出すと、古事記の橘豐日命(用明天皇)の陵墓、石寸掖上がある。「寸」=「又(手)+一」=「肘を曲げた腕のような山稜」と読んだ。
上寸主=上(流部)の肘を曲げた腕のような山稜の傍にある真っ直ぐに延びた様と読み解ける。
幾度か登場する「光」=「火+人」=「谷間のある炎のような山稜」と読む。即ち、光父=谷間にある炎のような山稜が交差する様となる。纏めると、上寸主光父=[上寸主]の麓で[炎]のような山稜が交差するところと読み解ける。現地名は田川郡香春町五徳、その谷間の奥の場所と推定される。
後の持統天皇紀に上村主百濟が登場する。「寸」が「村」に置き換えられているが、「村」=「木+寸」から成る文字と分れば、全く同様の地形象形表現である。父親が光缺と知られている。「光父」とは一文字違いで、兄弟のようにも思われるが、定かではない。
「光」の最も西側の谷間の出口が「コ」の字形に欠けている(缺)ところが出自と推定される。頻出の百濟=小高いところが並び揃っている様と読み解いたが、現在は見事な棚田が並んでいる地となっていて、些か当時を偲ぶのが難しいようではあるが、おそらく香春一ノ岳・二ノ岳の間の谷間に幾つかの山稜が延びた端辺りと思われる。
天武天皇紀の人材の出自は、実に多彩である。有能な者を身分に関わりなく受け入れよ、と言う指示が浸透していたのであろう。故に、名前からのみでその地を求めるのが困難な状況追い込まれてしまうようである。
紀伊國伊刀郡
書紀の「紀伊國」は、古事記の「紀國」に該当する。因みに書紀の「紀國」は、古事記の「木國」である。どちらが正しいと言うことではなく、地形象形表記が異なるだけである。
紀伊=紀(己に曲がった山稜)が伊(谷間で区切られた)様である。古事記には「伊」の認識はない。
その地でこれも「刀」の地形を探すと、難なく現在の北九州市門司区上吉田に見出すことができる。「伊」が付加されるのは「刀」の上部で山稜が区切られたようになっているからであろう。
ひょっとすると、郡の大きさはもっと小さいかったかもしれない。更に、やはりこの段の記述も開拓地の献上であった。刀の足の部分が大きな傘のキノコの形状を示していることが解る。耕地面積増大は、国力充実に大きな寄与をなしたものと推察される。
最後の因播國は、前出で示した通りであるが、ここでも「瑞稻、毎莖有枝」と記されている。正に多くの山稜が延びて広がった様を表している。特定の「莖」ではなく全体を表している(前掲の図を参照)。