2020年9月26日土曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(18) 〔455〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(18)


年が明けて即位九年(西暦680年)の記述である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

九年春正月丁丑朔甲申、天皇、御于向小殿而宴王卿於大殿之庭。是日、忌部首首賜姓曰連、則與弟色弗共悅拜。癸巳、親王以下至于小建、射南門。丙申、攝津國言、活田村桃李實也。

一月八日に王卿等と饗宴し、この日「忌部首首」が「連」姓を賜り、弟の「色弗」共々大喜びしている。「首」はやはり心地よくない姓であったか、地形に基づいた「姓」が消えて行った記述であろう。後に大量の改姓が実施されることになる。逆に言えば、この改姓のフィルターを通して古代を解釈することは間違い、である。

十七日に親王から小建に至るまで参加した射会が催されている。二十日、攝津國活田村で桃李の実がなったと告げている。難波津海辺の微妙な地形、開拓地の献上か否かは判別し辛いところであろう。

<忌部首(宿禰)首(子人)-色夫知(色弗)>
● 忌部首首・色弗

「連」姓を賜って歓喜した兄弟の出自の場所を求めてみよう。「忌部首」の「首」の表記は、既出の忌部首子人の場所と思われる。即ち、同一人物の別名表記であろう。

大将軍大伴連吹負が東へ北へと徘徊する中、「倭京」の守備を固めたと記載されていた。書紀編纂の中心執筆者であったと知られるが、死後一年して書紀が完成する。

既出の色=渦巻くように小高くなった様である。「弗」=「弓+八」と分解され、「飛び出て広がり延びる様」と解釈される。

合わせると色弗=渦巻くように小高くなった地から飛び出て広がり延びたところと読み解ける。この人物には別名があって後の持統天皇紀に忌部宿禰色夫知と記載される。姓が「首」→「連」→「宿禰」と変わっている。「忌部」の地を教えてくれた「首」とはお別れの時代となったようである。それはともかくとして、「色」は上記と同じ解釈、と言うか同じ小高い場所であろう。

それなりの頻度で用いられる「夫」及び「知」は、夫=寄り合ってくっ付く様知=矢+口=鏃のような様と読み解いた。「首」の谷間の出口で山稜が寄り集まっているところと推定される。現在は広い住宅地に開発されているのだが、何とかその地形を読み取ることができたと思われる。現地名は北九州市小倉南区葉山町である。

二月丙午朔癸亥、如鼓音聞于東方。辛未、有人云「得鹿角於葛城山。其角、本二枝而末合有宍、宍上有毛、毛長一寸。則異以獻之。」蓋驎角歟。壬申、新羅仕丁八人返于本土、仍垂恩以賜祿有差。三月丙子朔乙酉、攝津國貢白巫鳥。(巫鳥、此云芝苔々。)戊戌、幸于菟田吾城。

二月半ば、鼓のような音が東方から聞こえた。火山、雷鳴なのか、何かを暗示する記述なのかも不明のようである。二十六日に葛城山で鹿角を得たのだが、何とも珍しい形をしているので献上したと記載している。何とも戯れた内容なのだが、献上したとなると、やはり特異な地かもしれない。

二十七日に新羅の仕丁八人を禄を与えて本国に帰している。三月十日、今度は攝津國が白巫鳥を献上したと述べている。これは、間違いなく開拓地であろう。二十三日に菟田吾城に行幸されている。吉野脱出して程なくして休息した場所である。

<葛城山・鹿角>
葛城山・鹿角

「葛城山」は前記で登場した葛城嶺の中心の山であろう。現在の福智山と推定される。その山麓を探すと二つに岐れた鹿の角のような山稜の端が見出せる。

この二つの山稜に囲まれた谷間に更に小高いところがある。既出の宍=宀+六=山稜に囲まれた谷間にある盛り上がった様と解釈した。

更にこの「宍」が尾根と微かに繋がっているような山稜=毛が見える。「毛」の長さは…一寸=ごく短い…洒落であろう。まるで、地形の細部までを表すかのような記述であることが解る。

深い谷間の崖淵ではあるが(現在はダムとなっている)、小ぶりな耕地とされたのではなかろうか。この地は畿内北限(赤石櫛淵)に入っている場所である。畿内の隅々まで開拓されつつあることを述べたかったのか?…褒賞は記載されていない。

<攝津國白巫鳥(芝苔々)>
攝津國白巫鳥(芝苔々)

「白巫鳥」を調べると、簡単に鳥の古名と切り捨てられているようだが、それもその筈、異説多しの不明なのである。「白いもの」は吉兆だと・・・。

頻出の白=くっ付いて並ぶ様と解釈する。何かがくっ付いていると珍しいように見えるから「白」を用いる。「巫」=「工+人+人」と分解すると、巫=二つの谷間に挟まれた台地と読み解ける。

纏めると白巫鳥=くっ付いて並ぶ谷間の挟まれた台地が鳥の形をしているところと解釈される。

攝津國は、残念ながら海辺の近隣の国であって、標高差の少ない地形を眺めることになるが、注意深く見ると、図に示した場所が山稜の端が二つ並んだ地形を示していることが見出せる。

この地は、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)紀に記述されている忍熊王・香坂王の謀反の事件に登場する「伊佐比宿禰」将軍の出自の場所と推定した。その図を再掲すると、標高線に従って当時の海水面を推測することができ、くっ付いて並ぶ地形が伺える。

<伊佐比宿禰>
更に、「鳥」の全体の姿は不鮮明だが、この突き出た二つの山稜を空飛ぶ「鳥」の脚に見立てたのではなかろうか。

古事記の読み解きの際には、些か疑心暗鬼な面もあった場所であるが、ここで、当時の地形を推定し得ることが解った。

加えて、「芝苔々」の訓は如何に読めるであろうか?…既出の芝=艸+之=山稜に挟まれた蛇行する川である。

「苔」=「艸+台」と分解されるが、「台」は「臺」の略字ではなく「始」の原字である。

即ち、苔=並んでいる山稜が始まるところを意味している。海辺の地で水田稲作を可能にした報告であり、それを献上した記録である。驚異の文字使いであろう。見事に上記の地形を表現していることが解る。鳥の古名とするしか残された道はなかったのであろう。

夏四月乙巳朔甲寅、祭廣瀬龍田神。乙卯、橘寺尼房失火、以焚十房。己巳、饗新羅使人項那等於筑紫、賜祿各有差。是月、勅「凡諸寺者自今以後、除爲國大寺二三以外、官司莫治。唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。且以爲飛鳥寺不可關于司治、然元爲大寺而官司恆治、復嘗有功、是以猶入官治之例。」

四月十日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。翌日「橘寺」の尼房から失火、十房が焼失したと述べている。本寺は廐戸皇子(聖徳太子)建立の七大寺の一つであり、皇子の出自の近隣とも言われているようである(推定した場所はこちら参照)。

この月に二、三の「國大寺」(官寺)を除いて官司が治めてはならないとし、「食封」はこの先三十年間に限る。一方、飛鳥寺には官司が治めるようにしろ、と命じられている。仏教流布のための寺・僧尼の数もある程度充足した感があったのかもしれない。

五月乙亥朔、勅、絁綿絲布以施于京內廿四寺各有差。是日、始說金光明經于宮中及諸寺。丁亥、高麗遣南部大使卯問・西部大兄俊德等朝貢、仍新羅遣大奈末考那、送高麗使人卯問等於筑紫。乙未、小錦下秦造綱手卒、由壬申年之功贈大錦上位。辛丑、小錦中星川臣摩呂卒、以壬申年之功贈大紫位。六月甲辰朔戊申、新羅客項那等歸國。辛亥、灰零。丁巳、雷電之甚也。

五月初めに京内の二十四寺に綿布を個別に与え、初めて金光明経を宮中及び諸寺で説かせたと記載している。護国に対する心構えは欠かせないが、平時にどっぷり浸かった状況だったのであろう。十三日、高麗が使者を派遣、この度も新羅が送迎する手筈となっていたようである(新羅は六月五日に帰国)。

二十一日、秦造綱手(秦造熊に併記、兄弟?)が亡くなって、乱の功績より大錦上位を贈られている。また二十七日には「星川臣摩呂」も亡くなり、同じくその功績で大紫位を贈っている。六月八日に灰が降り、十四日には雷が凄かったと述べている。火山の噴火があったのであろう。

<星川臣摩呂・黑麻呂>
● 星川臣摩呂

この人物も乱の場面では登場することはなった。古事記の波多八代宿禰の一族の一人に違いはないと思われる。今一度出自を確認しておこう。

「星」=「日+生」と分解される。地形象形的には、星=山稜が[炎]のように生え出た様と読み解いた。矢筈山の南西麓の地形を表していることが解る。

前出の羽田公矢國は、西麓であり、図に示したような位置関係にある。波多八代宿禰の同族であり、「矢國」が寝返った時に随伴したのであろう。死後贈られた大紫は極めて高位である。寝返りの効果の大きさを物語っているように伺える。

近江朝側の将軍であった韋那公磐鍬とは対岸の位置でもある。勿論当初は同じ側に立っていたのである。「矢國」と同様に、歴史の表舞台に立つ役柄とは遠く離れていた建内宿禰の子「波多八代」の後裔が舞台の袖から飛び出た感じであろう。

後(續紀の元正天皇紀)に黑麻呂が『壬申の乱』功臣達の子の一人として、褒賞を賜っている。黑=谷間で炎のような山稜が延びている様と解釈した。地図上ではその地形が確認し辛いところではあるが、図に示した辺りと思われる。「黑」は今に残る地名なのであろう。四十年以上の後でも敵の将軍の足元を抄った効果は、高く評価されたようである。

秋七月甲戌朔、飛鳥寺西槻枝、自折而落之。戊寅、天皇幸犬養連大伴家以臨病、卽降大恩、云々。是日、雩之。辛巳、祭廣瀬龍田神。癸未、朱雀、有南門。庚寅、朴井連子麻呂、授小錦下位。癸巳、飛鳥寺弘聰僧終、遣大津皇子・高市皇子而弔之。丙申、小錦下三宅連石床卒、由壬申年功贈大錦下位。戊戌、納言兼宮內卿五位舍人王病之臨死、則遣高市皇子而訊之。明日卒、天皇大驚、乃遣高市皇子・川嶋皇子、因以臨殯哭之、百寮者從而發哀。

七月初め、飛鳥寺の西槻の枝が自然に折れて落ちたと述べている。盛り上がった山稜の端が崩落したのかもしれないが、真偽は不明。何かの予兆か?…。五日に犬養連大伴(縣犬養連大伴)の家に行き病を見舞っている。吉野脱出時に最初から随行していた。この日に雨乞いを行った。八日に恒例の廣瀬龍田神」を祭祀。十日に南門に「朱雀」が現れたとか。

十七日に朴井連子麻呂(雄君の弟)に小錦下を授けている。二十日、飛鳥寺の弘聰僧が亡くなり、大津皇子・高市皇子を弔問させたと述べている。二十三日に三宅連石床が亡くなり、大錦下を贈っている。二十五日、「舎人王」が危篤になり、高市皇子を訊ねさせている。翌日逝ったようである。皆哀しんだ様子である。

「舎人王」は「納言兼宮内卿五位」の立派な肩書が付加されている。宮中の舎人を束ねる要職にあったと思われる。にもかかわらず出自は殆ど伝えれておらず、不明である。「王」である以上皇族であってしかるべき素性を持っていた筈であろう。混同し易いのが舎人皇子(親王)であるが、こちらは天智天皇の娘、新井田部皇女を天武天皇が娶って誕生していた。

この時も出自場所は曖昧で、舎人の発祥の地、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀に記載された長谷部舍人・河瀬舍人から「河瀨舎人」の場所と推定した。まるで消去法のようになるが、「舎人王」は「長谷部舎人」の地を出自とするのではなかろうか。舎人に「左右」があったようで、「長谷朝倉宮」を中心とした表記と推測される。

八月發卯朔丁未、法官人、貢嘉禾。是日始之三日雨、大水。丙辰、大風折木破屋。九月癸酉朔辛巳、幸于朝嬬、因以看大山位以下之馬於長柄杜、乃俾馬的射之。乙未、地震。己亥、桑內王卒於私家。

八月五日に法官の人が「嘉禾」(穗が多くある稲)を献上している。この日から三日間雨となって洪水になったと伝えている。十四日には強風、激しい気候になっていたようである。九月九日に「朝嬬」に行幸されている。大山位以下の者の馬を見て、「長柄杜」で馬的を行ったと述べている。二十三日、地震。二十七日に「桑内王」が逝去したと記している。

<朝嬬・長柄杜>
朝嬬・長柄杜

書紀では、允恭天皇を「雄朝津間稚子宿禰天皇」、または「雄朝嬬稚子宿禰天皇」と記載している。古事記は、勿論、異なる表記であって「男淺津間若子宿禰命」である。

「朝津間・朝嬬・淺津間」は、同一場所の別名であることが解る。古事記で求めた場所は、現地名行橋市前田、長峡川の川辺の地であった。別名で読み解いてみよう。

「朝」=「𠦝+月」と分解され、「朝」=「盛り上がった山稜の端にある三角州」である。「嬬」=「女+需」と分解され、「需」=「しなやかに延びる様」とすると、「嬬」=「嫋やかにしなやかに延びる谷間」と読み解ける。

纏めると、朝嬬=盛り上がった山稜の端にある三角州の傍らに嫋やかにしなやかに延びる谷間があるところと解釈される。申し分なく允恭天皇の近傍の地形を表現していることが解る。

「長柄」はその北側の、山稜が長く延びて二股になっている場所を示し、その中心にある「杜」を表していると思われる。現在は広大な団地開発が行われていて、「杜」の実態を伺うことは叶わないようである。「長柄」は孝徳天皇の難波長柄豐碕宮でも用いられた表記である。

<桑内王>
● 桑内王

この王の出自は、全く不詳であり、系譜も含めて、いまだかつて手掛かりらしきものは得られていないようである。

「桑」に関連する表記は、古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が春日の老女子郎女を娶って誕生させた御子が「難波王、次桑田王、次春日王、次大俣王」と記載されている。

最初の「難波王」=「難波皇子」であり、その子供達が何人も登場している(栗隈王、石川王、高坂王など)。しかしながら桑田王の系譜の人物は未だ登場せず、暗闇状態である。

この「桑」を頼りにするのであるが、それらしき場所は、現在の田川郡赤村内田山の内、かつては壹比韋と言われたところではなかろうか。

そこまで探索が進んだところで、「卒於私家」の文字列に目が留まった。何故わざとらしく「私家」の文字を書き足したのか?…「私」=「禾+ム」と分解される。「ム」は「公」などに含まれ、「地面より凸または凹になって区切られた様」を表す文字要素と解説されている。

すると、「禾」=「しなやかに曲がる山稜の端」として簡略に表現すると、私=山稜に囲まれた様と読み解ける。即ち「壹比韋」の別名表記と解る。ここまで来ると頻出の家=宀+豕=山麓にある豚の口のような様から居場所に辿り着く。「桑内王」の「私家」は図に示した場所を表していたのである。

冬十月壬寅朔乙巳、恤京內諸寺貧乏僧尼及百姓而賑給之、一毎僧尼各絁四匹・綿四屯・布六端、沙彌及白衣各絁二匹・綿二屯・布四端。十一月壬申朔、日蝕之。甲戌、自戌至子、東方明焉。乙亥、高麗人十九人返于本土、是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也。戊寅、詔百官曰、若有利國家寛百姓之術者、詣闕親申、則詞合於理立爲法則。辛巳、雷於西方。癸未、皇后體不豫。則爲皇后誓願之、初興藥師寺、仍度一百僧。由是、得安平。是日、赦罪。丁亥、月蝕。遣草壁皇子、訊惠妙僧之病。明日、惠妙僧終、乃遣三皇子而弔之。乙未、新羅遣沙飡金若弼・大奈末金原升進調、則習言者三人從若弼至。丁酉、天皇病之。因以度一百僧、俄而愈之。辛丑、臘子鳥蔽天自東南飛以度西北。

十月京内の貧乏な僧尼及び百姓に施したと記している。僧尼には綿・布など、沙彌(修行者)及び白衣(俗人)にも同様なものを、量は少ないが、与えている。十一月初めに日蝕が見られた。三日の午後十一時から十二時にかけて東方が明るかったと述べている。

四日に高麗十九人が帰国、後岡本天皇の喪に訪れていた者達とのこと。この時期、送迎は新羅が行っている。何らかの理由で新羅の船に乗らなかった、あるいは、乗れなかったのであろう。七日に「国家」に利する百姓の術があるなら申し出でよ、と命じている。記述の共有化、必須であろう。

十日、西の方で雷がなった。十二日に皇后が体調を崩して、初めて「藥師寺」を建立し、百人の僧を出家させ、結果無事に平安になったと伝えている。十六日に月蝕があり、草壁皇子に惠妙僧の見舞いに行かせたが、翌日亡くなっている。二十四日に新羅が進調。二十六日に天皇が病気になったが、百人の僧を出家させると癒えたと述べている。三十日、臘子鳥が東南から西北に向かって飛んだと記している。また大地震が来る前兆なのであろうか。

<藥師寺・藤原宮・輕市>
藥師寺・藤原京

正直に申せば、まさか藥師寺を福岡の田川に求めることになるとは、想定外であって、本寺の場所となると「藤原宮(京)」を探すことになる。さて、如何なる結果になったか、図を参照。

藥師寺、藤原宮共に申し分のない地形象形表記であった。既出の「藥」、「師」そして「藤」(池が連なって上がっていく様)これらが表す地形がきちんと揃った場所である。詳細な解説は、後日としよう。

調べると現在の藥師寺に対して、「本藥師寺」があると言う。差し詰め、ここは「元藥師寺」となるかも、である。

後に「輕市」の地名が登場する。頻出の文字の組合せより、輕市=三角州が寄り集まったところと読んで図に記載した場所と推定した。まだ、「天神族」は動かないようである。

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見え隠れしていた「藤原京」が「藥師寺」から見えた。今回は、実に捻じれた、と言うか巧みな表記の連続であった。解けると、また半歩前進した気分である。