天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(11)
将軍大伴連吹負の活躍場面、と言うか「倭京」の西方からの近江側との戦闘に関する記述を別稿のように仕立てているのである。何故そうしたのか?…理由は読み下してからであろうが、簡単に言えば、「西方」→「倭京」→「近江大津宮」は、西から東へとほぼ一直線上に乗るのだが、通説ではそうはならない。「近江大津宮」支援部隊が直接向かわないと言う、奇妙な行動を取ることになるのである。
致命的な空間配置の不一致故に、かなり無理をした表現を行い、地名・人名も難解にし、日付の表記も含めて曖昧にすることによって乗り切ろうとしたようである。編者の杞憂は皆無な有様が現状であろう。がしかし、この段の表現は、「記紀」を通じて一貫性のあるものであり、そこに彼らの矜持が伺えて、真に興味深い記述となっているようである。引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
初、將軍吹負向乃樂至稗田之日、有人曰、自河內軍多至。則遣坂本臣財・長尾直眞墨・倉墻直麻呂・民直小鮪・谷直根麻呂率三百軍士距於龍田、復遣佐味君少麻呂率數百人屯大坂、遣鴨君蝦夷率數百人守石手道。是日、坂本臣財等次于平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍、知財等來、以悉焚秋税倉、皆散亡。仍宿城中。會明臨見西方、自大津・丹比兩道軍衆多至、顯見旗旘。有人曰、近江將壹伎史韓國之師也。財等、自高安城降以渡衞我河、與韓國戰于河西、財等衆少不能距。先是、遣紀臣大音、令守懼坂道。於是、財等、退懼坂而居大音之營。是時、河內國司守來目臣鹽籠、有歸於不破宮之情、以集軍衆。爰韓國到之、密聞其謀而將殺鹽籠。鹽籠、知事漏、乃自死焉。經一日、近江軍當諸道而多至。卽並不能相戰、以解退。
「初」は七月一日のこと。将軍「吹負」が「乃樂」へ向かって「稗田」に至ったところでの記事である。土地の者が河内からの軍が多数集まって来るようだと言ったのを受けて、三班に分けて入口の坂を守らせることにした、と述べている。
「坂本臣財」等が「平石野」に泊まったら「近江軍」が「高安城」に駐在していることを知り、向かうと、既にこちらの動きを察知して税倉を全て焼いて逃げてしまったと述べている。翌朝、西方を眺めると、大津道・丹比道共に兵士が多数やって来ていることが分った。これは近江将軍「壹伎史韓國」の軍だと誰かが言い、「財」等は城から降りて、「衞我河」を渡り、河西で戦ったが如何せん兵が少なく敵の進軍を止められなかったと述べている。
この出来事より以前に「紀臣大音」を遣わして「懼坂道」を守らせていたのだが、そこに「財」等は逃げ込んだと付記している。同じ時期、河內國司守「來目臣鹽籠」は「不破側」に見方をしようと兵を集めていたが、「韓國」に気付かれた思って、自死したと記載している。その一日後、余りにも多くの「近江軍」がやって来るのを見て、退散したようである。
この段も多くの登場人物名が載せられているが、初は「坂本臣財」、「壹伎史韓國」、「紀臣大音」である。その他は既出か、併記した人物であり、各リンクで参照できる。先ずは稗田(乃樂山)を囲む谷の出入口と思われる三つの場所について調べてみよう。
龍田道・大坂道・石手道
「龍田」は、「曲りくねって連なる田」と読むと現地名京都郡みやこ町勝山浦河内の谷間を表していると思われる。その谷間の入口は、味見峠に通じる道の入口でもあり、交通の要所である。当然抑えておかなくてはならない場所であろう。「浦河内」の谷間を上がって行くと「竜ヶ鼻」の麓に辿り着くが、頂上には辿り着けないようである(地図はこちら及び下図参照)。
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<大坂・石手道> |
「大坂」は現在の大坂山(飯岳山)の南麓を通る道に通じる谷間の口であろう。現在の御所ヶ岳山系が途切れたように深い谷間となっている場所と推定される。
大坂=平らな頂から腕のような山稜が延びているところと読むと、図に示した場所を表していると思われる。この谷間を抜けると、古事記が記載する大坂山口となり、「飛鳥」に向かうことができる。
「飛鳥」から大坂越えで「難波津」に向かう行程は度々記述されるのであるが、この坂が詳らかにされることはないようである。「記紀」を通じて見極め辛い場所の一つである。通説では「近江狹々波」とするわけだから、尚更、複雑怪奇な状況となるようである。
「石手道」も決して簡単ではないが、唯一の手掛かりは、「手」の地形がある場所が既に登場している。石手=山麓に手のような山稜が延びているところと解釈する。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子の「日子八井命」が祖となった手嶋連がある。
現在の仲哀峠の出口に当たる場所であることが解る。この峠を越えて行き来する場合は殆ど記述されることはないようだが、間違いなく通じていたのであろう。そこを守れと命じられたのである。
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<平石野・龍田道> |
ところが、「龍田」に向かった筈の「坂本臣財」等は耳よりの情報を得たことから、行き先を変更して「高安城」に赴いたと記載されている。
稗田(乃樂山)から「龍田」へは長峡川沿いに谷間を遡る行程であろう。その途中にあったのが「平石野」である。図に示した現地名の勝山箕田の平らな麓の丘陵の野原の地形を表していると思われる。
この地も古くから開けた地で、上記の「日子八井命」の母親の父親である三嶋湟咋が治水を行っていた土地である。
また、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場した意富多多泥古が住んでいた河内之美努村と言われた場所でもある。
高安城
「高安城」は既出である、とは言い切れない微妙な表記であった。既出は倭國高安城とされていた。天智天皇紀に「築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城」と記載されている。「倭國にある高安城」と読めば、ここでの「高安城」だと主張できるであろう。また、「高安」は固有の名称であって、唯一のものだとすることも可能であろう。一方で、既に読み解いたように、高安=皺が寄ったように延びた山稜に挟まれた谷間がある様と読めば、その地形要件に合致する場所であれば名付けることができるのである。
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<高安城> |
要するに読み手に任せた表現を行っていると推測される。書紀編者の常套手段と思われる。勿論後者を選択することになる。
では「高安城」はどの山にあったのか?…山頂より西方が広く、遠く見渡せるところ、であろう。山稜の形、その山頂の周辺地形から、容易に選定することが可能である。
ここで言う高安山=大坂山(飯岳山)となる。その山頂は、彦山川流域を見渡すことができる場所である。現地名は香春町鏡山・柿下、みやこ町犀川大坂が接する。
「坂本臣財」等は、「平石野」を出て、上図<大坂・石手道>の「手」の間を抜けて、現在も登山道として使われていると思われる道を駆け上がり、尾根道を辿れば頂上に届く。書紀編者は、この城から翌朝眺める西方の景色を伝えんがために「財」を走らせたのである。
近江將壹伎史韓國
「壹伎」と読んだところで、これは「壱岐」のこと、決まっているとしてしまっては、編者の思う壺であろう。「壹伎國」と書けば、言い逃れはできないが、この文字列だと、何とでもなるわけである。「壱岐」に住んでなくても「壹伎」の名前を持つ人物がいても何の不思議もないのである。
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<壹伎史韓國> |
勿論、七月初めに「壱岐」から駆け付けることはあり得ない。たまたま別件で・・・それで命懸けの戦は叶わないであろう。
「筑紫大宰」での交渉決裂の状況を知れば、「壱岐」には全く情報が入っていなかったと考えるのが自然であろう。更に、「壱岐」にそれだけの軍団がいたのか、など切りがないくらいに「壱岐」と読んでは不自然な記述である。
「壱岐」ではないとしても、「尾張國」のように兵を集める地はあったのか、と言う問いに答えるためにも「壹伎史韓國」の文字列を読み下してみよう。意外に聞き慣れた地の別名かもしれない。
「壹」=「壺のような谷間を蓋するような様」、「伎」=「人+支」=「谷間が岐れた様」、「史」=「中+又(手)」=「真ん中を腕のような山稜が突き抜ける(真ん中から延び出る)様」、「韓」=「山稜で周りを囲まれた様」である。「壹」を「一」と読んでは、史書は解読不可である。
壹伎史=谷間を蓋する腕のような山稜が谷間を岐けて延びているところと読み解ける。名前の韓國=山稜で周囲を取り囲まれたところと解釈される。「巨勢臣」の地、その中央で長く延びる山稜に「韓」の地形が見出せる。勿論、”壱岐”と読み間違えるように記述されているのである。
この地なら兵の徴集も容易であろうし、大納言巨勢臣比等(人)が近江朝の重臣として存在している。いや、実際に彼が陣頭指揮したのであろう・・・これで、大納言が大臣に匹敵する重罪を課せられた理由が解けた。
もしも「壹伎史韓國」に「吹負」が負けていたら、不破全軍の背後を突かれることになる。勝利は手から零れ落ちて行ったであろう。結果的には背後を突く作戦、悉く不成功に終わったのである。古事記の戦闘物語とは、また、一味違った、読み応えのあるものであった・・・いや、まだ続きがあるので、早々に・・・。
衞我河・河西・懼坂道
「近江將壹伎史韓國軍」の大勢の兵士を見て、大急ぎで迎撃しようと大坂山を駆け下りて行って、渡渉した川が「衞我河」で戦ったのは、その「河西」と記載されている。「壱岐」から攻めて来るは、初登場の「衞我河」と言う川まで、まるで別世界の様相なのだが、別名表記のオンパレードと思われる。
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<衞我河・河西・懼坂道> |
大坂山から西に降りるには、愛宕山を経て、古事記に記載の伊波禮の地に向かうことになろう。香春一ノ岳の東南麓、そこに横たわる川は、現在の金辺川である。
衞我=ギザギザの戈のような地の周りを囲む様と読み解ける。香春一~三ノ岳の連山を「我」と表記したのである。
その「河西」とは?…前出の「河南」に類似する表現であろう。河=川が流れ出る谷間の口である。
すると西に進んだ場所にそれらしき地形が見出せる。彦山川との合流域に入るところである。その地が戦場となったと述べている。不幸にも、多勢に無勢の状況では、逃げるが勝ちと「懼坂道」に引き下がったようである。勿論、この軍団には「壹伎史韓國」は含まれてはいない。彼が「大坂道」を越えて来るのは、もう少し後のことである。
またまた怪しげな名称の「道」が登場する。こんな時は文字分解である。「懼」=「心+目+目+隹」となろう。「目」=「隙間」=「谷間」と展開すると、懼=二つの谷間に挟まれた中心に鳥の地形があるところと読み解ける。「飛鳥」の香春一ノ岳のことである。「懼坂道」は、その山稜が延びた麓(坂)にある「道」(首の形)を示すと解釈される。ここは「倭京」の西側の防御に必要な場所であり、既に設けて「紀臣大音」に守らせていたことは十分に納得できるであろう。
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<西方攻防> |
全ての事が同時進行しているのが戦争であり、それを文字で表すには些か苦戦をされた編者達であろう。
それに敬意を表しながら、素直に表現できなかったところを纏めたのが左図である。
さすが将軍「吹負」恐れる者なしの感じで突進されたのだが、背後への気配りが今一つ、「倭京」の防備を部下に指摘されたりした。
ここでは、勉強の甲斐あって、背後の入口を塞いだが、相変わらず顔を近江大津の方に向けている様子であろう。近江軍の西方からの攻撃、即ち不破軍背後への攻撃が本格化し始めた時の配置である。
ところで、「丹比道・大津道」からやって来た近江軍は、「坂本臣財」等を退けたと記載されている。彼等がそのまま「河西」に留まる筈はなく、書紀は語らないが、「坂本臣財」等が通った道を逆行し、「高安城」を経て東へと侵攻していたのかもしれない。
即ち、「男依隊」が「安河濱」で戦った時、追い討ちを掛けた「栗太軍」を示していると思われる。「淡海國」の「粟田軍」、これをそのまま記載するわけには行かなかった。書記編者の得意の省略表記である。
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<河內國司守來目臣鹽籠>
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河内國司守來目臣鹽籠
不破側に味方するつもりであったが、「韓國」に感づかれて自決したと記載されている。何とも取って付けたような挿入部なのだが、意味するところがあるのだろう。
そもそも「河内國」、「來目臣」共に既に登場した文字列であるが、これらが重なった表記は初登場である。「河内・來目」の地形を「韓國」の近傍で探索してみよう。
すると次段で登場する「大坂道」の下で大きく広がった山稜の端が見出せる。現在の福地川と近津川に挟まれた「河内」の地形である。大きく二つに岐れて延びる様を「來目」と表記したと解釈される。
「鹽籠」は、その中央部の凹んだ場所をしめしていると思われる。「韓國」が「大坂道」を越えて「倭京」に向かう途中で「鹽籠」の謀反を察知したと言うシナリオであろう。
危く既出の場所として、読み取るところであった。将軍「吹負」の活躍、即ち「倭京」の西方における攻防に関しては。上記の「高安城」と同様に、部分的に重複した名称を用いて、敢えて錯覚させる表現を行っているようである。勿論、奈良大和を舞台した「壬申の乱」と読ませるためである。
當諸道
本文「近江軍當諸道而多至」の「當諸道」=「諸々の道に当てる」と読めるのであるが、果たして「近江軍」は「諸々の道」に軍を配置する作戦があったとは思われない。結局、情報連絡が不十分で「倭京」を攻めきれなかったかのような解釈に陥ってしまう。これも書紀編者が読み手に勝手な思惑を起こさせる記述に嵌ってしまった結果であろう。
「當」は「當麻」を示すと解釈する。「韓國」軍は「大坂道」を越えて「當麻」を目指すわけで、「當諸道」は「大坂道」と「當麻衢」との間、限りなく「當麻」に近い場所と推定される。下図<當麻衢・葦池・當諸道>に併記した。「諸」=「言+者」と分解して、諸=耕地(言)が交差する(者)様と読み解く。道=首の付け根の様である。
「多至」は、この地に多くが集まった様子を述べているようである。「韓國」も「當麻」以西の味方を此処に集結させて「倭京」に向かう作戦だったと推測される。
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<坂本臣財> |
● 坂本臣財
「坂本臣」は古事記の建内宿禰の子、木角宿禰が祖(坂本臣)となった地であろう。現地名は築上郡築上町椎田の山本辺りと推定した。
書紀では坂本吉士長兄が登場している。図の少し西側に当たり、掲載は略した。
「財」の頻度高く登場する文字であり、同じく建内宿禰の子の若子宿禰が祖となった江野財がある。財=貝+才=谷間を遮るように山稜が延びている様と読み解いた。勿論、小ぶりではあるが、その地形を見出すことができる。現地名は大字小原となっている場所である。
この地も、前記の難波吉士が示すように、海辺に限りなく近付いた地が開拓されつつあったと思われる。中国江南から移住した倭人達は、日本の谷間から、彼らが保有する水田稲作を展開した行った。現在、各地に残る棚田、正に”原風景”なのであろう。
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<長尾直眞墨> |
● 長尾直眞墨
「長尾直」は、調べると大倭國葛城の
地を居処とする一族だったようである。後に大和國葛下郡と称される場所であり、古事記では葛城長江曾都毘古の係累が蔓延ったとされる。
「玉手」と称されて、手の指が長く延びたような地形である。その指を長尾の由来としたのであろう。ただ、幾つもの長い手があり、その内の何れかと思われる。
名前の「眞墨」に含まれる頻出の「眞」=「鼎+匕」=「窪んだ地に寄り集まっている様」と解釈した。「墨」=「黒+土」に分解される。「黑」=「囗+※+灬(炎)」から成り、地形象形表記として「黑」=「谷間に炎のような山稜が延びている様」と読み解いた。
纏めると、眞墨=谷間にある窪んだ地に炎のような山稜が寄り集まっているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。建小廣國押楯命(宣化天皇)の檜坰之廬入野宮があったと推定した近隣の地である。
● 倉墻直麻呂 東漢一族と知られているようだが、通説の解釈では渡来系の人物を十把一絡げ感が強く、居処は様々であろう。更にその子を椋垣子人(首)とする系図が残っているとも言われ、子孫が登場する機会を待つことにする。結果のみであるが、續紀に記載された「掠垣直子人」(倉垣[椋垣]連[忌寸])の出自の場所をこちらに示す。
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<紀臣大音>
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「紀臣」も人材輩出の地であったようである。長く延びた谷間、現在も棚田が奇麗に作られている場所の登場が見られなかったが、漸くである。
「音」=「言+一」と分解される。言葉にならなくて耳に聞こえるものを「音」の文字で表記したと言われる。
そのものズバリで音=耕地(言)が区切られた(一)様と読み解ける。図に示されているように「一」の池がある。池の前後で数メートルの段差が見られる。当時からなのか確証はないが、単純明快であろう。
大=平らな頂の麓である。書紀編者の思惑に差し障りがない限り、表記は素直である。あらためて見ると「紀温湯」、「藤白坂」は現在の和歌山県に飛んでいる。後代の地名有りきの解釈をあらためない限り、日本の古代は谷間の奥に眠ったままのようである。
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是日將軍吹負、爲近江所敗、以特率一二騎走之。逮于墨坂遇逢菟軍至、更還屯金綱井而招聚散卒。於是聞近江軍至自大坂道、而將軍引軍如西。到當麻衢、與壹伎史韓國軍、戰葦池側。時、有勇士來目者、拔刀急馳直入軍中。騎士繼踵而進之。則近江軍悉走之。追斬甚多。爰將軍令軍中曰「其發兵之元意、非殺百姓、是爲元凶。故莫妄殺。」於是、韓國、離軍獨逃也。將軍遙見之、令來目以俾射。然不中、而遂走得免焉。將軍更還本營。
七月四日に将軍「吹負」は乃樂山の戦いで敗れて、僅か一、二騎を率いて「墨坂」で「菟軍」に出会ったと記している。前記で東道将軍「阿閉麻呂」が「置始連菟」に千余騎を分けて「吹負」の支援に向かわせたと記載されていた。その援軍に出会うことができたわけである。その分隊が九日だから、結構「吹負」は彷徨っていたことになる。
還って、文字通りにUターンして、「金綱井」で散らばった兵を集め直している。そこで「近江軍」が「大坂道」を通って来ているとの情報を得て、西に向かったようである。「當麻衢」に至って、壹伎史韓國軍と「葦池」側で戦闘している。この時、勇士の「來目」敵陣に突入し、敵は悉く走り去ったと述べている。大将軍の風格となって、無益な殺生はするな!…と言ったとか。韓國は一人逃げ去ったようである。
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<将軍吹負の敗走>
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墨坂・金綱井
将軍「吹負」は乃樂山で敗れ、何とか逃げ延びたわけだが、その後の詳細が語られている。近江將大野君果安は「八口」まで追い駆け、峠から「倭京」の防備を見て、引き返してしまった。
てっきり「吹負」は逃げ込んだと思ったのであろうが、この将軍の行動は尋常ではなく、向かった先は「倭京」ではなく、「墨坂」であった。
「墨坂」は古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に流行った疫病対策を行った場所で、現在の金辺峠に北側から登る谷間の隅の急坂と推定した。
そこで援軍「置始連菟」と遭遇、早々に反撃態勢を整えている。「倭京」に籠っていてもいずれは援軍に出会うことになろうが、この積極的な動きは士気に関わり、その後の結末に大きな影響を及ぼしたのではなかろうか。金綱井の場所は既に併記して示したが、現地名は香春町鏡山で瀬戸の対岸である。金綱井=先が三角形(金)の細長い岡(綱)の傍の四角く囲まれた(井)ところである。
ここで軍の体制を整えて、近江軍が西から攻めて来ると言う情報に従って進軍したのである。タフでへこたれない将軍、勝っても負けても着実に成長されているようである。
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<大坂道>
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大坂道
「大坂」と言えば、ここだ!…ではない。「大坂」の地形を示すところである。上記の「鹽籠」のところで示したが、あらためて、大坂=平らな頂の麓で急傾斜の山稜が延びているところである。更に「道」が付加されている。「大坂」にある「首」の地形を示している。
「巨勢」の地から少し南に雲取山の西麓に長く延びる山稜があり、その付け根が「首」の形をしていることが解る。この場合は首根っこの形ではなく、「縊れた形」を表していると解釈される。
通説について言及するのは、後に纏めて行うつもりであるが、この「大坂道」の解釈は、極めて矛盾する記述になろう。上記で「②佐味君少麻呂(兵数百人):大坂」でこれを守れと命じられた記述に関係する。一体佐味君は如何なることになったのか、であろう。書紀編者にしてみれば、重複するような名称にして、暈す手法を採用した模様である。
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<當麻衢・葦池・當諸道> |
當麻衢・葦池・當諸道
「當麻(摩)」については、直近では當摩公廣嶋で登場した。その時にも少し述べたが、古くから開けた地であり、古事記も決してあからさまに語らないが、修験道の地であったと知られている。
「衢」=「四辻」を表す文字で、邇邇藝命の出自の場所は天之八衢である。さて、八衢=谷間が十字に交わる様であるが、何も修飾されない場合は、衢=道が十字に交差する様と読めるであろう。
「淡海」から「葛城」に抜ける交通の要所であったと推測される。図に示した場所は、現在も直方市永満寺と田川郡福智町上野の境となっている。
「韓國軍」が狭い谷間を登って来たところを谷の上で待ち構える状況となる。素早い行動で、この優位な場所を確保できたのであろう。既に勝敗は大方決まっていたのかもしれない。がしかし英雄物語に仕立てあげるべく、勇人「來目」を登場させている。自決した來目臣鹽籠の縁者かもしれないが、記載はない。
時、東師頻多臻。則分軍、各當上中下道而屯之。唯將軍吹負、親當中道。於是、近江將犬養連五十君、自中道至之、留村屋。而遣別將廬井造鯨、率二百精兵、衝將軍營。當時麾下軍少、以不能距。爰有大井寺奴名德麻呂等五人從軍、卽德麻呂等爲先鋒、以進射之。鯨軍不能進。是日、三輪君高市麻呂・置始連菟、當上道、戰于箸陵、大破近江軍。而乘勝、兼斷鯨軍之後。鯨軍悉解走、多殺士卒。鯨乘白馬、以逃之、馬墮泥田、不能進行。則將軍吹負、謂甲斐勇者曰、其乘白馬者廬井鯨也、急追以射。於是、甲斐勇者馳追之。比及鯨、鯨急鞭馬、馬能拔以出埿、卽馳之得脱。將軍亦更還本處而軍之。自此以後、近江軍遂不至。
この時不破軍では多くの兵が集まるようになって軍を上中下の三道に分けている。将軍「吹負」は中道を担当したようである。その中道に近江将軍「犬養連五十君」が進軍し、「村屋」に駐留したと記している。別将の「廬井造鯨」が「吹負」軍を攻撃している。大井寺の奴で「德麻呂」等が矢を放って辛うじて「鯨」軍の攻撃を退けていたようである。
この日、「三輪君高市麻呂・置始連菟」が上道から進軍し、「箸陵」で近江軍を大破し、勝ちに乗じて先に進んで「鯨」の軍の後方を断ったと述べている。これで敗走になり、「鯨」が「白馬」に乗って逃げようとしたが沼に足を捕られてなかなか進めなかったようで、「吹負」将軍が「甲斐」の勇者に追わせたら、必死で逃げ、以後近江軍は姿は見られなかった、とのことである。
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<村屋>
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村屋
中道を進んで「村屋」に駐屯したと述べている。実は、この「犬養」の場所が極めて曖昧で、何らかの思惑があって冠されない「犬養」と記述したのであろうと推測して来た。
種々の考察があるが、一例を述べると、皇極天皇紀に葛城稚犬養連網田が登場する。これは極めて懇切丁寧な表記で、容易にその出自の場所を求めることが可能であった。
この地は、明らかに「五十」(谷間が交差する地と十字に交わる地が連なるところ)の地形を示す谷間なのであるが、「葛城稚」が冠されない以上、すんなりと決め難かったのである。
何故省略した表記にしたのか、これでその理由が明らかになったようである。「葛城」では拙いからである。単に拙いのではなく致命的な拙さであろう。故に初登場の時から省略し、読み手に任せたのである。
現在の伊方川上流域が犬養連五十君の出自の場所であり、その地の手勢を引き連れて「村屋」へ、別将「廬井造鯨」が合流する手筈であった(出自の場所は後述)。「犬養連五十君」の所在が不明なのをいいことにして、北から「倭京」なんて説もあるようだが、今更、なんで南の倭京か…北に行け、って感じであろう。
村=木+寸=山稜が腕のように延びた様と読み解いた(白村江など参照)。村屋=尾根の山稜が腕にように延び切ったところと読み解ける。現地名は田川市夏吉だが、石上池の傍で須彌山を造った麓であろう。この地から別将「廬井造鯨」が先攻している。大井寺の奴、德麻呂が頑張ったと褒めているようである。
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<中道攻防>
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そんな時、不破第一大隊(阿閉麻呂隊)の分隊であろう「三輪君高市麻呂・置始連菟」隊が「上道」から到着する。
途中「箸陵」で近江軍、おそらく先攻組ではあるが「廬井造鯨」とは別、を撃破している。「箸陵」に「箸塚」で飛びついた説が実しやかに通説となってる。
箸陵=箸のように二つ並んだ山稜にある陵墓と読める。古事記の大倭日子鉏友命(懿徳天皇)陵、畝火山之眞名子谷上陵である。
前記したように北から「倭京」に向かうと甘檮岡(現地名香春町採銅所長光辺り)で二手に分かれる。その西側の五徳峠を越える行程を進んだことになる。
そして、どんぴしゃりで「廬井造鯨」軍の背後に届く。壊滅の様相となり、「鯨」が「白馬」に乗って逃げようとした、と記載されている。
書紀編者の戯れであろう、「白馬」ではなく「赤駒」である。万葉歌を知らないと意味不明となるが、この地は「赤駒」と表現される。天武天皇の地である(詳しくはこちら参照)。「甲斐」勇者は、この谷間の住人を表していると思われる。また「德麻呂」は「懼坂道」の東側の土手のような地形に由来する名前と思われる。「大井」も同じく「道」を示す別名であろう。
「犬養連五十君」は終戦後直ぐに粟津市で斬首されたようである。自らは戦闘に参加せず、しかも不破軍の背後を突く作戦の親玉、生かしてはおけなかった、のであろう。将軍「吹負」を主人公にしたドラマはきっと感動ものになるかも、書紀もそのような役柄設定と思えるのだが・・・。
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<廬井造鯨>
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● 廬井造鯨
この表記のみでは、出自を求めるわけには行かないが、調べると「栗太郡」、勿論近江の、となっている。生真面目な方が国譲りしたとして、本著の「栗太郡」で探索することにした。
「淡海國」の「栗太郡」は現在の金剛山の北麓から長く延びる山稜が描く栗の雄花のような地形を表していると読み解いた。その北麓辺りの山稜に「盧」の地形が見出せる。
「盧」=「广+虍+囟+皿」=「崖(广)のような麓に虎の縦縞(虍)のようにくっ付いた(囟)山稜が延びる(皿)様」と読み解いた。
すると盧井=崖のような麓に虎の縦縞のようにくっ付いた山稜が延びる傍にある四角いところと読み解ける。図に示してた奥大谷池を含む場所であろう、「鯨」はの西側の山稜の麓が池には入り込んでいる様を「魚」の四つの鰭に模し、「京」=「大きく高い様」の表記と思われる。これも幾度か登場した「鯨」共通の文字使いである。
「淡海」の遠方から来て田川郡福智町伊方の川辺で「犬養連五十君」に合流したのではなかろうか。勢い込んだだけでは敵を倒すことは叶わず、敢無く退却したのであるが、その後消息は語られないようである。書紀原文の「淡海」を勝手に「近江」に置換えて読む。泥沼の中にある日本の古代史学を白馬、いや、赤駒に載せることはできないのであろうか・・・。
先是、軍金綱井之時、高市郡大領高市縣主許梅、儵忽口閉而不能言也。三日之後、方着神以言「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也。」乃顯之曰「於神日本磐余彥天皇之陵、奉馬及種々兵器。」便亦言「吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。」且言「自西道軍衆將至之、宜愼也。」言訖則醒矣。故、是以、便遣許梅而祭拜御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣而禮祭高市・身狹二社之神。然後、壹伎史韓國、自大坂來。故時人曰、二社神所教之辭適是也。又村屋神着祝曰「今自吾社中道、軍衆將至。故宜塞社中道。」故未經幾日、廬井造鯨軍、自中道至。時人曰、卽神所教之辭是也。軍政既訖、將軍等舉是三神教言而奏之。卽勅登進三神之品以祠焉。
この後に及んで、更に以前のこと、と書き出している。登場する神が、あの「事代主神」である。古事記と書紀で、これだけ扱いが異なる神も珍しい。当然理由がある訳だが、云々するのは書紀の当該箇所を読み下してからにする。どんな風に書紀が書き改めようと、「事代主神」は「建御雷之男神」に恐れをなして雲隠れした神であろう・・・と言うことは、話半分、いや、それ以下の信頼度で受け取れと述べているのかもしれない。
要するに、「近江軍」の「倭京」への接近方法に二つあって、次に出て来る「西道」、「中道」から攻めたのだ、と念を押している記述なのである。それにすっかり洗脳されたのか、「西道」は「大坂」を経る、一方の「中道」は、大将の「犬養連五十君」(書紀編者が不詳としてしまった)をさて置いて、別将の「廬井造鯨」が来る道、即ち、「淡海=近江」の「栗太郡」から来るから、実際は「北道」かと錯覚させているのである。決して書紀では「北道」とは記載されない。
そこまで念押ししなくても、十分だったのでは?・・・お陰で「犬養連五十君」等が「村屋」へ入った時の詳細行程が明らかになったようである。「吾社中道」が正式名称である。後程、読み解いてみよう。
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<高市皇子・縣主許梅・高市社・身狹社・金綱井> |
高市皇子の出自の場所で示した図を再掲する。既に読み解いた「金綱井」、「高市社」は、高市縣にあったと思われる。
「身狹社」は、身狹社=弓なりになった狹い地の傍らの盛り上がったところと読み解ける。現在の鏡山大神社辺りと思われる。
「高市縣主許梅」の許=言+午=耕地が杵を突くように延びている様、梅=木+每=母の両腕のように山稜が延びている様と解釈する。
すると図に示した場所に、その地形を見出すことができる。地図上では耕地を確認することは不可だが、おそらく当時は谷間に棚田が並んでいたと推測される。また縣主=真っ直ぐに延びた山稜に首をぶら下げたようなところと読み解ける。これも立派に地形象形表記なのである。許梅=麓にある梅の実のようなところ、と読んでも通じるかもしれない。
「高市」は古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が坐した纏向之日代宮があった場所である。「倭」の中心地に宮を構えた最初の天皇であった。正に由緒ある地と言えるであろう。尚、「高市郡」は、上記の「高市縣」ではなく、「檜隈」の地を表している。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の輕嶋之明宮があった場所である。後に「桧前忌寸・民忌寸」等の居処となった地である。書紀の捻くれた表記の一つであろう。
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<吾社中道> |
吾社中道
この文字列は「我が神社(へ)の中道」ぐらいで解釈されるのであろう。「村尾神」まで登場させて言わせているのであるが、「西道」に対応するものではなかろう。書紀の得意な表現方法である。
幾度か出現の「吾」=「五+囗」と分解され、吾=大地が交差するような様であり、「社」=「示+土」と分解され、社=大地が盛り上がっている様と読み解いた。頻出の中=真ん中を突き通す様である。
「道」は前後の文意からすると、通常の「人が通る道」の意味として表記されている。「山稜が延びて交差した真ん中を突き抜ける道」を表しているのである。
「村屋」の北方にある地形を示し、この道から「犬養連五十君」等が来たことを述べている。既出の斑鳩寺近隣を通る道である。当時の主要”官道”だったのだろう。
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「不破軍」の「村國男依」隊の奇襲作戦がものの見事に的中した背景には、「西方」からの「近江軍」の攻撃を何としても防ぐ必要があったのだが、「倭京」を奸計で攻略した将軍「吹負」のその後の活躍を記した内容である。奈良大和・滋賀大津を舞台とした読み下しでは、この「倭京」周辺の攻防の全体に対する位置付けが極めて曖昧なものであろう。
この無理筋なことが書紀編者に課せられたのである。彼等の努力は、一応の成果をあげているのだが、やはり、史料価値を落とすことになったと思われる。細かいところは目を瞑って、と日本人らしさで今までやり過ごされてようでもある。しかしながら、本著の地形象形表記として読み解いた結果は、『壬申の乱』を実に生々しく当時の有様を再現したように感じられる。
繰り返すようだが、当時に固有の地名は存在しない。「大坂」は「平らな頂の麓にある山稜が崖のように延びたところ」である。「まぼろしの邪馬台国」も同じく、「記紀」に登場する主要な”地名”が未だに諸説乱立の状態、根本から見直すことを示しているように思われるが・・・。
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次回に『壬申の乱』を通説との比較も併せて纏めて述べようかと思う。本節で登場した地名・人名について、何一つ不詳とすることはなく求めることができたように思われる。それに従って配置した図を示すつもりである。