2020年8月31日月曜日

『壬申の乱』を振り返って・・・ 〔448〕

 『壬申の乱』を振り返って・・・


日本書紀においても、古事記と同様に”地形象形表記”に基づいているとして読み解いた『壬申の乱』の舞台は、古事記の舞台の中で起こった事件であることが解った。大長谷若建命(雄略天皇)が阿岐豆野(北九州市小倉南区平尾台と推定)と叫んだ「吉野」を中心にして、北と南に対峙した戦いであった。

皇位継承時に発生する「謀反」の出来事は、古事記にも多く記載されている。本ブログの冒頭も大雀命(仁徳天皇)の逝去後に三人の息子達の格闘であった。伊邪本和氣命(後の履中天皇)が命辛々逃亡する行程は、「難波之高津宮」、「大坂」、「遠・近飛鳥」、「石上神宮」、「波邇賦坂」など当時の重要な地点を示す名称が逃亡行程という連続的な記述の中で登場し、それらの相対的位置関係を明らかにする上で貴重な記述であった(詳細はこちら参照)。

書紀の「巻第二十八」はほぼ全文が『壬申の乱』に当てられており、行程ばかりでなく日程まで記載された稀有な戦闘物語となっている。記載される人名・地名も膨大になり、解読には桁違いの労力が求められることになる。更に、記述の真偽、従来より「記紀」の記述に関しては、中国史書とは違い書き手の立場から事実性を疑う論評が多く見受けられる。

「記紀」編者等は、確かに不都合なことは省略する傾向が伺える。古事記では邇藝速日命(邇邇藝命の兄、天火明命)に関する記述は最低必要限であるし、壱岐島の南半分、九州北西部(有明海沿岸部等)については全く記載しない。彼等が有明海沿岸部の「倭人」の存在知らない訳はなく、隋書俀國伝に登場した「阿毎多利思北孤」はそれらを纏めて引き継いだ国だと主張した、少なくとも中国の使者にはそう受け取られたようである。

書記に至っては、編者の立場は、事実として存在する奈良大和中心の世界観である。だが、現代の官僚とは大きく異なり(失礼!)、彼らの職務への矜持が伺える。決して嘘は書かないのである。省略するか、異説を挙げるか、なおかつ困難な場合は、万葉の表記をして、読み手に委ねる手法を採用している。実に多彩な”地形象形表記”を行っているのである。

古事記、中国史書、日本書紀(舒明天皇紀以降)を読み下して来て判明したことから、上記のような結論に至った。そしてこれらの書物の”地形象形表記”による解読結果から、日本の古代を事実として書き記した書物であることが導かれた。

そんな背景で読み解いた『壬申の乱』の全貌を図に纏めてみた(登場人物については、前記のブログ本文を参照)。舞台は、古事記の言う大倭豐秋津嶋・筑紫嶋及びその周辺である。

<壬申の乱(纏め)>

桑名・筑紫

あらためて眺めると、大海人皇子が吉野①を脱出して向かった桑名郡⑪は、貫山山塊を挟んで近江大津宮(近江朝)の対角の位置にあり、最も離れた場所であることが解る。そこに后含め一族郎党を集合して匿っている。隣接する忌部首一族の関与が推測されるところでもある。拠点を美濃國の不破郡⑬に置くのであるが、最大のリスクは筑紫❼の挙動であることが解る。

桑名郡⑪に到着した大海人皇子は、直ぐには不破郡⑬に向かわず、高市皇子の迎えを待ったと記載している。そうではなく、筑紫❼の情勢見極めであったことが分る。対唐・新羅用に集められた精鋭が駐屯する「筑紫」に目を付けられたら、全てが終わってしまったことが予想される。

当然ながら根回しなどの事前作業は語られないが、筑紫大宰の「栗隈王」の中立の姿勢は予測されていたのであろう。ただ、筑紫大宰を亡き者にするか、配置転換でもするか、近江朝側のやり方次第のところがあり、かなり際どい瞬間だったと思われる。「栗隈王」の対外最優先の返答を記述した箇所は、一応秀逸な一文、いや実際そうだったのかもしれない。

近江朝側の「吉備・筑紫」を味方に入れる戦略は、最も効果的な「敵の背後攻撃」であった。「吉備」は些か遠く、また近江朝側に付いたとしても「筑紫」の態度に大きく左右されたであろう(筑紫と吉備の位置関係は重要)。要するに筑紫❼の軍勢を如何に活用するかが決め手の戦略である。それが全く最悪の状況に陥ってしまった。近江朝群臣等は、唐の戦略に学ぶべき…遠い国と手を結ぶ…だっただろう。使者に事の重要さが伝わっていなかったようにも伺える。

同じことが最初に東國に向かって、伏兵を恐れて逃げ帰った「韋那公磐鍬」などの例があるように使者の役目が果たせなかった事例が多いのも近江朝側の誤算だったであろう。本文でも述べたように、『壬申の乱』は初動作戦段階で勝負は見えていたように思われる。

不破・鹿深

このもたつきの間に寄せ集めの不破軍が統制された軍団へと変貌している。大海人皇子が前面に立つことは無く、組織化された連隊を作り、明確なミッションを与えている。大津宮攻略の二つのルートを明言し、それぞれに別動隊を付与して、本隊が思惑通りに進軍できるように配置したのは特筆に値する戦略だったであろう。当時の勝敗は、背後を突き、虚を衝くことであり、また敵のそれらを防ぐことであろう。

不破側の鹿深山⑯攻防での敗戦は、「男依隊」の大軍が狭隘な倉歷道⑮を駆け上がって突入する際に最も危険な場所から敵を排除することだったと思われる。むしろ敗戦しながら敵を誘き寄せることが目的であったのであろう。だが、その道は神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が道を失い、「高倉下」の手を借り、挙句には「八咫烏」の世話にならなければならなかった道である。想定の通り、敵はその場から立ち去ったのである。「男依隊」の近江直入は、故事に倣った戦略と述べているようである。勿論既に「八咫烏」は必要がなかったであろう。

伊賀・莿萩野

莿萩野⑧の攻防は、敵の別動隊による奇襲防御である。「阿閉麻呂隊」が通り過ぎた後、桑名郡⑪への敵の侵攻、あるいは本隊の背後の防御を目的とした配置であろう。近江朝側で唯一策略に長けた「田邊小隅」軍がこれに引っ掛かって姿を消したのも勝利を決定的にしたように思われる。

倭京・西方(淡海)

「阿閉麻呂隊」は、機動部隊である「男依隊」が突入した後に続いてその背後を抑え、最終的には合流して敵陣包囲網を形成する作戦だったと思われる。将軍「吹負」の活躍は、望外の出来事であって、これによって西方(淡海)からの近江側の軍を遮断することができたと伝えている。勢い余って乃樂山㉖まで侵入したのは、結果的に敵の状況を知る上で効果的であった。占拠した「倭京」の防備はしっかりとしていたが、手薄な状態で攻め込まれた場合は、少々複雑な状況を生んだかも知れしれない。

いずれにしても、「阿閉麻呂隊」の援軍を得て、西方を完全に掌握できたのは、戦闘が短期で終了した最大の効果をもたらしたと推測される。「吹負」の役柄は、ドラマであれば人気の出るところであろう。この西方に関連する記述は、書紀編者が最も苦労をした箇所と思われる。それだけに複雑怪奇な文言となって、端折られて解釈されて来た感じである。

『壬申の乱』の勝負が逆転するような戦いであるにも関わらず、従来の解釈では、遠く離れた近江大津の南方の出来事となってしまう。西方の総大将名「壹伎史韓國」(巨勢氏が出自の地)とし、その出自を暈した記述して、曖昧な、即ち読み手に任せる表現を取っている。上図に示した状況が読み解けて初めて彼らの進軍の阻止の重要性が理解されるのである。ブログ本文中にも書いたが、大臣に匹敵する重罪を言い渡された大納言巨勢臣比等の存在を隠蔽し、最後の処罰で登場させている。

また、終戦後の斬首を粟津市㉔で行っているが、最初に挙げられた名前は「犬養五十君」(上図[犬養])である。この人物の出自を全く暈してしまっている。近江将軍として村尾㊲に陣取り、「吹負」を困らせたのであるが、「阿閉麻呂隊」の別動隊が間に合わなかったら、危いところであった。戦い終盤にヒヤリとさせられた敵将の首を真っ先に刎ねたようである。不破軍にとって、要するに西方からの攻撃が一番気掛かりだったことを述べている。

安河・瀬田

「男依隊」は安河濱㉑で戦意喪失の敵方を簡単に破り、「栗太軍」を追撃したという記述は、高安城㉞に陣取って、「坂本臣財」軍が攻めて来るのを察知して逃げ去った連中のことを想起させる記述である。「淡海」から組織化されていない連中が、かなり大津宮近隣までに入り込んでいたのであろう。勿論彼らは正面切って戦いに臨んだわけではなく、身の危険を感じたら、退散であろう。「淡海」故に記述は簡略、である。通説は、「淡海=近江」と、勝手に読んだ結果である。

そんな小競り合いを繰り返しながら、「男依隊」は「阿閉麻呂隊」との日程調整を行ったようである。背後に憂いがなくなれば、全軍での勝負に入るのが常套であろう。瀬田橋㉒の戦いは、近江側に然したる将軍も見当たらずの状態であって、川を渡れば、結末を迎えることになった。と同時に、別動隊が三尾城㊸攻略に向かっている。大津宮の背後を抑える、念の入れ方である。勝ち組の戦記である以上、そつのない作戦と記載されている。

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下図に通説とされている一例を示した。これを見て、どちらが謀反人なのか?…と問えば、近江朝となってしまう構図であろう。何せ、勝ち組の戦記、と片付けられて来た所以である。上記したように西方からの背後攻撃が全く俎上に乗っていない、と言うか載せられないからである。「筑紫・吉備」及び「淡海」方面が全て不詳の解釈である。近江朝は、押し寄せる謀反人を大きく外から包囲する戦略だったことが上図から伺える。それが悉く不成功に終わった故に敗れたのである。

不成功の理由は、憶測になってしまうが、従来より語られているような斉明天皇・天智天皇による使役の増大(百濟支援、白村江敗戦)による不満、大友皇子の出自(伊賀采女の子)などが挙げられている。書紀の読み下しのみでは何とも言い難いところではあるが、本事件は、起こるべくして起こった皇位継承時の争乱であろう。状況は異なるが、応神天皇が逝かれた後の宇遲能和紀郎と大山守命との確執、結局大雀命(後の仁徳天皇)が即位した事件が思い起こされる。全て真偽は闇の中だが、繰返し発生して来たのであろう。

<壬申の乱(参考)>

従来説の異説を挙げれば、古田武彦氏及びその信望者が縷々述べられている説があろう。当然、本事件は九州北西部を舞台とするのであるが、書紀を正面から取り上げることは叶わないので、万葉歌などからその根拠を求めようと試みたようである。万葉の意味を示すところからでは、既にその場所が求められて、傍証としてなら可能であろうが、危険な論拠と思われる。

いせれにしても、幾度か述べたように、”古田史学”は「伊都國」を現在の糸島半島(怡土郡)辺りとするところで終焉を迎えていると思われる(「イト」ではなく「イツ」と読む)。彼の提案した”『九州王朝』はなかった”のである。

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『壬申の乱』が伝える最も重要なことは、近江朝側の「筑紫」及び「淡海」からの不破軍背後攻撃が機能しなかったと述べていることである。上記の参考図に見られるように、従来は、「筑紫・淡海」を含めた考察にはなっていない。これでは近江朝側の本来の戦略を無視した解釈となる。

遠く離れていたとする故に「筑紫大宰」の中立の態度の意味が伝わらず、更に「淡海=近江」と”勝手に”置き換えてしまっては、”真実”は海の彼方であろう。上図<壬申の乱(纏め)>に示したように、両軍の勝敗の行方は際どく、共に命懸けの戦いであった。書記編者は、この歴史的大事件を、奈良大和・滋賀大津が舞台の中心であったかのように、凄まじいほどに捻くり回して記述したのである。

今年は、書紀が編纂されて千三百年の節目の年である。全巻読み下しは、ちと無理かもしれないが、編者が、捻くり回した記述を解き解す目途は得られたように感じられる。






2020年8月28日金曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(11) 〔447〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(11)


将軍大伴連吹負の活躍場面、と言うか「倭京」の西方からの近江側との戦闘に関する記述を別稿のように仕立てているのである。何故そうしたのか?…理由は読み下してからであろうが、簡単に言えば、「西方」→「倭京」→「近江大津宮」は、西から東へとほぼ一直線上に乗るのだが、通説ではそうはならない。「近江大津宮」支援部隊が直接向かわないと言う、奇妙な行動を取ることになるのである。

致命的な空間配置の不一致故に、かなり無理をした表現を行い、地名・人名も難解にし、日付の表記も含めて曖昧にすることによって乗り切ろうとしたようである。編者の杞憂は皆無な有様が現状であろう。がしかし、この段の表現は、「記紀」を通じて一貫性のあるものであり、そこに彼らの矜持が伺えて、真に興味深い記述となっているようである。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

初、將軍吹負向乃樂至稗田之日、有人曰、自河內軍多至。則遣坂本臣財・長尾直眞墨・倉墻直麻呂・民直小鮪・谷直根麻呂率三百軍士距於龍田、復遣佐味君少麻呂率數百人屯大坂、遣鴨君蝦夷率數百人守石手道。是日、坂本臣財等次于平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍、知財等來、以悉焚秋税倉、皆散亡。仍宿城中。會明臨見西方、自大津・丹比兩道軍衆多至、顯見旗旘。有人曰、近江將壹伎史韓國之師也。財等、自高安城降以渡衞我河、與韓國戰于河西、財等衆少不能距。先是、遣紀臣大音、令守懼坂道。於是、財等、退懼坂而居大音之營。是時、河內國司守來目臣鹽籠、有歸於不破宮之情、以集軍衆。爰韓國到之、密聞其謀而將殺鹽籠。鹽籠、知事漏、乃自死焉。經一日、近江軍當諸道而多至。卽並不能相戰、以解退。

「初」は七月一日のこと。将軍「吹負」が「乃樂」へ向かって「稗田」に至ったところでの記事である。土地の者が河内からの軍が多数集まって来るようだと言ったのを受けて、三班に分けて入口の坂を守らせることにした、と述べている。

「坂本臣財・長尾直眞墨・倉墻直麻呂」・民直小鮪谷直根麻呂(兵三百人):龍田道
佐味君少麻呂(兵数百人):大坂道
鴨君蝦夷(兵数百人):石手道

「坂本臣財」等が「平石野」に泊まったら「近江軍」が「高安城」に駐在していることを知り、向かうと、既にこちらの動きを察知して税倉を全て焼いて逃げてしまったと述べている。翌朝、西方を眺めると、大津道・丹比道共に兵士が多数やって来ていることが分った。これは近江将軍「壹伎史韓國」の軍だと誰かが言い、「財」等は城から降りて、「衞我河」を渡り、河西で戦ったが如何せん兵が少なく敵の進軍を止められなかったと述べている。

この出来事より以前に「紀臣大音」を遣わして「懼坂道」を守らせていたのだが、そこに「財」等は逃げ込んだと付記している。同じ時期、河內國司守「來目臣鹽籠」は「不破側」に見方をしようと兵を集めていたが、「韓國」に気付かれた思って、自死したと記載している。その一日後、余りにも多くの「近江軍」がやって来るのを見て、退散したようである。

この段も多くの登場人物名が載せられているが、初は「坂本臣財」、「壹伎史韓國」、「紀臣大音」である。その他は既出か、併記した人物であり、各リンクで参照できる。先ずは稗田(乃樂山)を囲む谷の出入口と思われる三つの場所について調べてみよう。

龍田道・大坂道・石手道

「龍田」は、「曲りくねって連なる田」と読むと現地名京都郡みやこ町勝山浦河内の谷間を表していると思われる。その谷間の入口は、味見峠に通じる道の入口でもあり、交通の要所である。当然抑えておかなくてはならない場所であろう。「浦河内」の谷間を上がって行くと「竜ヶ鼻」の麓に辿り着くが、頂上には辿り着けないようである(地図はこちら及び下図参照)。

<大坂・石手道>
「大坂」は現在の大坂山(飯岳山)の南麓を通る道に通じる谷間の口であろう。現在の御所ヶ岳山系が途切れたように深い谷間となっている場所と推定される。

大坂=平らな頂から腕のような山稜が延びているところと読むと、図に示した場所を表していると思われる。この谷間を抜けると、古事記が記載する大坂山口となり、「飛鳥」に向かうことができる。

「飛鳥」から大坂越えで「難波津」に向かう行程は度々記述されるのであるが、この坂が詳らかにされることはないようである。「記紀」を通じて見極め辛い場所の一つである。通説では「近江狹々波」とするわけだから、尚更、複雑怪奇な状況となるようである。

「石手道」も決して簡単ではないが、唯一の手掛かりは、「手」の地形がある場所が既に登場している。石手=山麓に手のような山稜が延びているところと解釈する。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子の「日子八井命」が祖となった手嶋連がある。

現在の仲哀峠の出口に当たる場所であることが解る。この峠を越えて行き来する場合は殆ど記述されることはないようだが、間違いなく通じていたのであろう。そこを守れと命じられたのである。

<平石野・龍田道>
ところが、「龍田」に向かった筈の「坂本臣財」等は耳よりの情報を得たことから、行き先を変更して「高安城」に赴いたと記載されている。

稗田(乃樂山)から「龍田」へは長峡川沿いに谷間を遡る行程であろう。その途中にあったのが「平石野」である。図に示した現地名の勝山箕田の平らな麓の丘陵の野原の地形を表していると思われる。

この地も古くから開けた地で、上記の「日子八井命」の母親の父親である三嶋湟咋が治水を行っていた土地である。

また、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場した意富多多泥古が住んでいた河内之美努村と言われた場所でもある。

高安城

「高安城」は既出である、とは言い切れない微妙な表記であった。既出は倭國高安城とされていた。天智天皇紀に「築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城」と記載されている。「倭國にある高安城」と読めば、ここでの「高安城」だと主張できるであろう。また、「高安」は固有の名称であって、唯一のものだとすることも可能であろう。一方で、既に読み解いたように、高安=皺が寄ったように延びた山稜に挟まれた谷間がある様と読めば、その地形要件に合致する場所であれば名付けることができるのである。

<高安城>
要するに読み手に任せた表現を行っていると推測される。書紀編者の常套手段と思われる。勿論後者を選択することになる。

では「高安城」はどの山にあったのか?…山頂より西方が広く、遠く見渡せるところ、であろう。山稜の形、その山頂の周辺地形から、容易に選定することが可能である。

ここで言う高安山=大坂山(飯岳山)となる。その山頂は、彦山川流域を見渡すことができる場所である。現地名は香春町鏡山・柿下、みやこ町犀川大坂が接する。

「坂本臣財」等は、「平石野」を出て、上図<大坂・石手道>の「手」の間を抜けて、現在も登山道として使われていると思われる道を駆け上がり、尾根道を辿れば頂上に届く。書紀編者は、この城から翌朝眺める西方の景色を伝えんがために「財」を走らせたのである。

近江將壹伎史韓國

「壹伎」と読んだところで、これは「壱岐」のこと、決まっているとしてしまっては、編者の思う壺であろう。「壹伎國」と書けば、言い逃れはできないが、この文字列だと、何とでもなるわけである。「壱岐」に住んでなくても「壹伎」の名前を持つ人物がいても何の不思議もないのである。

<壹伎史韓國>
勿論、七月初めに「壱岐」から駆け付けることはあり得ない。たまたま別件で・・・それで命懸けの戦は叶わないであろう。

「筑紫大宰」での交渉決裂の状況を知れば、「壱岐」には全く情報が入っていなかったと考えるのが自然であろう。更に、「壱岐」にそれだけの軍団がいたのか、など切りがないくらいに「壱岐」と読んでは不自然な記述である。

「壱岐」ではないとしても、「尾張國」のように兵を集める地はあったのか、と言う問いに答えるためにも「壹伎史韓國」の文字列を読み下してみよう。意外に聞き慣れた地の別名かもしれない。

「壹」=「壺のような谷間を蓋するような様」、「伎」=「人+支」=「谷間が岐れた様」、「史」=「中+又(手)」=「真ん中を腕のような山稜が突き抜ける(真ん中から延び出る)様」、「韓」=「山稜で周りを囲まれた様」である。「壹」を「一」と読んでは、史書は解読不可である。

壹伎史=谷間を蓋する腕のような山稜が谷間を岐けて延びているところと読み解ける。名前の韓國=山稜で周囲を取り囲まれたところと解釈される。「巨勢臣」の地、その中央で長く延びる山稜に「韓」の地形が見出せる。勿論、”壱岐”と読み間違えるように記述されているのである。

この地なら兵の徴集も容易であろうし、大納言巨勢臣比等(人)が近江朝の重臣として存在している。いや、実際に彼が陣頭指揮したのであろう・・・これで、大納言が大臣に匹敵する重罪を課せられた理由が解けた。

もしも「壹伎史韓國」に「吹負」が負けていたら、不破全軍の背後を突かれることになる。勝利は手から零れ落ちて行ったであろう。結果的には背後を突く作戦、悉く不成功に終わったのである。古事記の戦闘物語とは、また、一味違った、読み応えのあるものであった・・・いや、まだ続きがあるので、早々に・・・。

衞我河・河西・懼坂道

「近江將壹伎史韓國軍」の大勢の兵士を見て、大急ぎで迎撃しようと大坂山を駆け下りて行って、渡渉した川が「衞我河」で戦ったのは、その「河西」と記載されている。「壱岐」から攻めて来るは、初登場の「衞我河」と言う川まで、まるで別世界の様相なのだが、別名表記のオンパレードと思われる。

<衞我河・河西・懼坂道>
大坂山から西に降りるには、愛宕山を経て、古事記に記載の伊波禮の地に向かうことになろう。香春一ノ岳の東南麓、そこに横たわる川は、現在の金辺川である。

衞我=ギザギザの戈のような地の周りを囲む様と読み解ける。香春一~三ノ岳の連山を「我」と表記したのである。

その「河西」とは?…前出の「河南」に類似する表現であろう。河=川が流れ出る谷間の口である。

すると西に進んだ場所にそれらしき地形が見出せる。彦山川との合流域に入るところである。その地が戦場となったと述べている。不幸にも、多勢に無勢の状況では、逃げるが勝ちと「懼坂道」に引き下がったようである。勿論、この軍団には「壹伎史韓國」は含まれてはいない。彼が「大坂道」を越えて来るのは、もう少し後のことである。

またまた怪しげな名称の「道」が登場する。こんな時は文字分解である。「懼」=「心+目+目+隹」となろう。「目」=「隙間」=「谷間」と展開すると、懼=二つの谷間に挟まれた中心に鳥の地形があるところと読み解ける。「飛鳥」の香春一ノ岳のことである。「懼坂道」は、その山稜が延びた麓(坂)にある「道」(首の形)を示すと解釈される。ここは「倭京」の西側の防御に必要な場所であり、既に設けて「紀臣大音」に守らせていたことは十分に納得できるであろう。

<西方攻防>
全ての事が同時進行しているのが戦争であり、それを文字で表すには些か苦戦をされた編者達であろう。

それに敬意を表しながら、素直に表現できなかったところを纏めたのが左図である。

さすが将軍「吹負」恐れる者なしの感じで突進されたのだが、背後への気配りが今一つ、「倭京」の防備を部下に指摘されたりした。

ここでは、勉強の甲斐あって、背後の入口を塞いだが、相変わらず顔を近江大津の方に向けている様子であろう。近江軍の西方からの攻撃、即ち不破軍背後への攻撃が本格化し始めた時の配置である。

ところで、「丹比道・大津道」からやって来た近江軍は、「坂本臣財」等を退けたと記載されている。彼等がそのまま「河西」に留まる筈はなく、書紀は語らないが、「坂本臣財」等が通った道を逆行し、「高安城」を経て東へと侵攻していたのかもしれない。

即ち、「男依隊」が「安河濱」で戦った時、追い討ちを掛けた「栗太軍」を示していると思われる。「淡海國」の「粟田軍」、これをそのまま記載するわけには行かなかった。書記編者の得意の省略表記である。

<河內國司守來目臣鹽籠>
河内國司守來目臣鹽籠

不破側に味方するつもりであったが、「韓國」に感づかれて自決したと記載されている。何とも取って付けたような挿入部なのだが、意味するところがあるのだろう。

そもそも「河内國」、「來目臣」共に既に登場した文字列であるが、これらが重なった表記は初登場である。「河内・來目」の地形を「韓國」の近傍で探索してみよう。

すると次段で登場する「大坂道」の下で大きく広がった山稜の端が見出せる。現在の福地川と近津川に挟まれた「河内」の地形である。大きく二つに岐れて延びる様を「來目」と表記したと解釈される。

「鹽籠」は、その中央部の凹んだ場所をしめしていると思われる。「韓國」が「大坂道」を越えて「倭京」に向かう途中で「鹽籠」の謀反を察知したと言うシナリオであろう。

危く既出の場所として、読み取るところであった。将軍「吹負」の活躍、即ち「倭京」の西方における攻防に関しては。上記の「高安城」と同様に、部分的に重複した名称を用いて、敢えて錯覚させる表現を行っているようである。勿論、奈良大和を舞台した「壬申の乱」と読ませるためである。

當諸道

本文「近江軍當諸道而多至」の「當諸道」=「諸々の道に当てる」と読めるのであるが、果たして「近江軍」は「諸々の道」に軍を配置する作戦があったとは思われない。結局、情報連絡が不十分で「倭京」を攻めきれなかったかのような解釈に陥ってしまう。これも書紀編者が読み手に勝手な思惑を起こさせる記述に嵌ってしまった結果であろう。

「當」は「當麻」を示すと解釈する。「韓國」軍は「大坂道」を越えて「當麻」を目指すわけで、「當諸道」は「大坂道」と「當麻衢」との間、限りなく「當麻」に近い場所と推定される。下図<當麻衢・葦池・當諸道>に併記した。「諸」=「言+者」と分解して、諸=耕地(言)が交差する(者)様と読み解く。道=首の付け根の様である。

「多至」は、この地に多くが集まった様子を述べているようである。「韓國」も「當麻」以西の味方を此処に集結させて「倭京」に向かう作戦だったと推測される。

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<坂本臣財>
● 坂本臣財

「坂本臣」は古事記の建内宿禰の子、木角宿禰が祖(坂本臣)となった地であろう。現地名は築上郡築上町椎田の山本辺りと推定した。

書紀では坂本吉士長兄が登場している。図の少し西側に当たり、掲載は略した。

「財」の頻度高く登場する文字であり、同じく建内宿禰の子の若子宿禰が祖となった江野財がある。財=貝+才=谷間を遮るように山稜が延びている様と読み解いた。勿論、小ぶりではあるが、その地形を見出すことができる。現地名は大字小原となっている場所である。

この地も、前記の難波吉士が示すように、海辺に限りなく近付いた地が開拓されつつあったと思われる。中国江南から移住した倭人達は、日本の谷間から、彼らが保有する水田稲作を展開した行った。現在、各地に残る棚田、正に”原風景”なのであろう。

<長尾直眞墨>
● 長尾直眞墨

「長尾直」は、調べると大倭國葛城の
地を居処とする一族だったようである。後に大和國葛下郡と称される場所であり、古事記では葛城長江曾都毘古の係累が蔓延ったとされる。

「玉手」と称されて、手の指が長く延びたような地形である。その指を長尾の由来としたのであろう。ただ、幾つもの長い手があり、その内の何れかと思われる。

名前の「眞墨」に含まれる頻出の「眞」=「鼎+匕」=「窪んだ地に寄り集まっている様」と解釈した。「墨」=「黒+土」に分解される。「黑」=「囗+※+灬(炎)」から成り、地形象形表記として「黑」=「谷間に炎のような山稜が延びている様」と読み解いた。

纏めると、眞墨=谷間にある窪んだ地に炎のような山稜が寄り集まっているところと解釈される。図に示した場所が出自と推定される。建小廣國押楯命(宣化天皇)の檜坰之廬入野宮があったと推定した近隣の地である。
 
● 倉墻直麻呂 東漢一族と知られているようだが、通説の解釈では渡来系の人物を十把一絡げ感が強く、居処は様々であろう。更にその子を椋垣子人(首)とする系図が残っているとも言われ、子孫が登場する機会を待つことにする。結果のみであるが、續紀に記載された「掠垣直子人」(倉垣[椋垣]連[忌寸])の出自の場所をこちらに示す。

<紀臣大音>
● 紀臣大音

「紀臣」も人材輩出の地であったようである。長く延びた谷間、現在も棚田が奇麗に作られている場所の登場が見られなかったが、漸くである。

「音」=「言+一」と分解される。言葉にならなくて耳に聞こえるものを「音」の文字で表記したと言われる。

そのものズバリで音=耕地(言)が区切られた(一)様と読み解ける。図に示されているように「」の池がある。池の前後で数メートルの段差が見られる。当時からなのか確証はないが、単純明快であろう。

大=平らな頂の麓である。書紀編者の思惑に差し障りがない限り、表記は素直である。あらためて見ると「紀温湯」、「藤白坂」は現在の和歌山県に飛んでいる。後代の地名有りきの解釈をあらためない限り、日本の古代は谷間の奥に眠ったままのようである。

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是日將軍吹負、爲近江所敗、以特率一二騎走之。逮于墨坂遇逢菟軍至、更還屯金綱井而招聚散卒。於是聞近江軍至自大坂道、而將軍引軍如西。到當麻衢、與壹伎史韓國軍、戰葦池側。時、有勇士來目者、拔刀急馳直入軍中。騎士繼踵而進之。則近江軍悉走之。追斬甚多。爰將軍令軍中曰「其發兵之元意、非殺百姓、是爲元凶。故莫妄殺。」於是、韓國、離軍獨逃也。將軍遙見之、令來目以俾射。然不中、而遂走得免焉。將軍更還本營。

七月四日に将軍「吹負」は乃樂山の戦いで敗れて、僅か一、二騎を率いて「墨坂」で「菟軍」に出会ったと記している。前記で東道将軍「阿閉麻呂」が「置始連菟」に千余騎を分けて「吹負」の支援に向かわせたと記載されていた。その援軍に出会うことができたわけである。その分隊が九日だから、結構「吹負」は彷徨っていたことになる。

還って、文字通りにUターンして、「金綱井」で散らばった兵を集め直している。そこで「近江軍」が「大坂道」を通って来ているとの情報を得て、西に向かったようである。「當麻衢」に至って、壹伎史韓國軍と「葦池」側で戦闘している。この時、勇士の「來目」敵陣に突入し、敵は悉く走り去ったと述べている。大将軍の風格となって、無益な殺生はするな!…と言ったとか。韓國は一人逃げ去ったようである。

<将軍吹負の敗走>
墨坂・金綱井

将軍「吹負」は乃樂山で敗れ、何とか逃げ延びたわけだが、その後の詳細が語られている。近江將大野君果安は「八口」まで追い駆け、峠から「倭京」の防備を見て、引き返してしまった。

てっきり「吹負」は逃げ込んだと思ったのであろうが、この将軍の行動は尋常ではなく、向かった先は「倭京」ではなく、「墨坂」であった。

「墨坂」は古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に流行った疫病対策を行った場所で、現在の金辺峠に北側から登る谷間の隅の急坂と推定した。

そこで援軍「置始連菟」と遭遇、早々に反撃態勢を整えている。「倭京」に籠っていてもいずれは援軍に出会うことになろうが、この積極的な動きは士気に関わり、その後の結末に大きな影響を及ぼしたのではなかろうか。金綱井の場所は既に併記して示したが、現地名は香春町鏡山で瀬戸の対岸である。金綱井=先が三角形(金)の細長い岡(綱)の傍の四角く囲まれた(井)ところである。

ここで軍の体制を整えて、近江軍が西から攻めて来ると言う情報に従って進軍したのである。タフでへこたれない将軍、勝っても負けても着実に成長されているようである。

<大坂道>
大坂道

「大坂」と言えば、ここだ!…ではない。「大坂」の地形を示すところである。上記の「鹽籠」のところで示したが、あらためて、大坂=平らな頂の麓で急傾斜の山稜が延びているところである。更に「道」が付加されている。「大坂」にある「首」の地形を示している。

「巨勢」の地から少し南に雲取山の西麓に長く延びる山稜があり、その付け根が「首」の形をしていることが解る。この場合は首根っこの形ではなく、「縊れた形」を表していると解釈される。

通説について言及するのは、後に纏めて行うつもりであるが、この「大坂道」の解釈は、極めて矛盾する記述になろう。上記で「②佐味君少麻呂(兵数百人):大坂」でこれを守れと命じられた記述に関係する。一体佐味君は如何なることになったのか、であろう。書紀編者にしてみれば、重複するような名称にして、暈す手法を採用した模様である。

<當麻衢・葦池・當諸道>
當麻衢・葦池・當諸道

「當麻(摩)」については、直近では當摩公廣嶋で登場した。その時にも少し述べたが、古くから開けた地であり、古事記も決してあからさまに語らないが、修験道の地であったと知られている。

衢」=「四辻」を表す文字で、邇邇藝命の出自の場所は天之八である。さて、衢=谷間が十字に交わる様であるが、何も修飾されない場合は、衢=道が十字に交差する様と読めるであろう。

「淡海」から「葛城」に抜ける交通の要所であったと推測される。図に示した場所は、現在も直方市永満寺と田川郡福智町上野の境となっている。

「韓國軍」が狭い谷間を登って来たところを谷の上で待ち構える状況となる。素早い行動で、この優位な場所を確保できたのであろう。既に勝敗は大方決まっていたのかもしれない。がしかし英雄物語に仕立てあげるべく、勇人「來目」を登場させている。自決した來目臣鹽籠の縁者かもしれないが、記載はない。

時、東師頻多臻。則分軍、各當上中下道而屯之。唯將軍吹負、親當中道。於是、近江將犬養連五十君、自中道至之、留村屋。而遣別將廬井造鯨、率二百精兵、衝將軍營。當時麾下軍少、以不能距。爰有大井寺奴名德麻呂等五人從軍、卽德麻呂等爲先鋒、以進射之。鯨軍不能進。是日、三輪君高市麻呂・置始連菟、當上道、戰于箸陵、大破近江軍。而乘勝、兼斷鯨軍之後。鯨軍悉解走、多殺士卒。鯨乘白馬、以逃之、馬墮泥田、不能進行。則將軍吹負、謂甲斐勇者曰、其乘白馬者廬井鯨也、急追以射。於是、甲斐勇者馳追之。比及鯨、鯨急鞭馬、馬能拔以出埿、卽馳之得脱。將軍亦更還本處而軍之。自此以後、近江軍遂不至。

この時不破軍では多くの兵が集まるようになって軍を上中下の三道に分けている。将軍「吹負」は中道を担当したようである。その中道に近江将軍「犬養連五十君」が進軍し、「村屋」に駐留したと記している。別将の「廬井造鯨」が「吹負」軍を攻撃している。大井寺の奴で「德麻呂」等が矢を放って辛うじて「鯨」軍の攻撃を退けていたようである。

この日、「三輪君高市麻呂・置始連菟」が上道から進軍し、「箸陵」で近江軍を大破し、勝ちに乗じて先に進んで「鯨」の軍の後方を断ったと述べている。これで敗走になり、「鯨」が「白馬」に乗って逃げようとしたが沼に足を捕られてなかなか進めなかったようで、「吹負」将軍が「甲斐」の勇者に追わせたら、必死で逃げ、以後近江軍は姿は見られなかった、とのことである。

<村屋>
村屋

中道を進んで「村屋」に駐屯したと述べている。実は、この「犬養」の場所が極めて曖昧で、何らかの思惑があって冠されない「犬養」と記述したのであろうと推測して来た。

種々の考察があるが、一例を述べると、皇極天皇紀に葛城稚犬養連網田が登場する。これは極めて懇切丁寧な表記で、容易にその出自の場所を求めることが可能であった。

この地は、明らかに「五十」(谷間が交差する地と十字に交わる地が連なるところ)の地形を示す谷間なのであるが、「葛城稚」が冠されない以上、すんなりと決め難かったのである。

何故省略した表記にしたのか、これでその理由が明らかになったようである。「葛城」では拙いからである。単に拙いのではなく致命的な拙さであろう。故に初登場の時から省略し、読み手に任せたのである。

現在の伊方川上流域が犬養連五十君の出自の場所であり、その地の手勢を引き連れて「村屋」へ、別将「廬井造鯨」が合流する手筈であった(出自の場所は後述)。「犬養連五十君」の所在が不明なのをいいことにして、北から「倭京」なんて説もあるようだが、今更、なんで南の倭京か…北に行け、って感じであろう。

村=木+寸=山稜が腕のように延びた様と読み解いた(白村江など参照)。村屋=尾根の山稜が腕にように延び切ったところと読み解ける。現地名は田川市夏吉だが、石上池の傍で須彌山を造った麓であろう。この地から別将「廬井造鯨」が先攻している。大井寺の奴、德麻呂が頑張ったと褒めているようである。

<中道攻防>
そんな時、不破第一大隊(阿閉麻呂隊)の分隊であろう「三輪君高市麻呂・置始連菟」隊が「上道」から到着する。

途中「箸陵」で近江軍、おそらく先攻組ではあるが「廬井造鯨」とは別、を撃破している。「箸陵」に「箸塚」で飛びついた説が実しやかに通説となってる。

箸陵=箸のように二つ並んだ山稜にある陵墓と読める。古事記の大倭日子鉏友命(懿徳天皇)陵、畝火山之眞名子谷上陵である。

前記したように北から「倭京」に向かうと甘檮岡(現地名香春町採銅所長光辺り)で二手に分かれる。その西側の五徳峠を越える行程を進んだことになる。

そして、どんぴしゃりで「廬井造鯨」軍の背後に届く。壊滅の様相となり、「鯨」が「白馬」に乗って逃げようとした、と記載されている。

書紀編者の戯れであろう、「白馬」ではなく「赤駒」である。万葉歌を知らないと意味不明となるが、この地は「赤駒」と表現される。天武天皇の地である(詳しくはこちら参照)。「甲斐」勇者は、この谷間の住人を表していると思われる。また「德麻呂」は「懼坂道」の東側の土手のような地形に由来する名前と思われる。「大井」も同じく「道」を示す別名であろう。

「犬養連五十君」は終戦後直ぐに粟津市で斬首されたようである。自らは戦闘に参加せず、しかも不破軍の背後を突く作戦の親玉、生かしてはおけなかった、のであろう。将軍「吹負」を主人公にしたドラマはきっと感動ものになるかも、書紀もそのような役柄設定と思えるのだが・・・。

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<廬井造鯨>
● 廬井造鯨

この表記のみでは、出自を求めるわけには行かないが、調べると「栗太郡」、勿論近江の、となっている。生真面目な方が国譲りしたとして、本著の「栗太郡」で探索することにした。

「淡海國」の「栗太郡」は現在の金剛山の北麓から長く延びる山稜が描く栗の雄花のような地形を表していると読み解いた。その北麓辺りの山稜に「盧」の地形が見出せる。

「盧」=「广+虍+囟+皿」=「崖(广)のような麓に虎の縦縞()のようにくっ付いた()山稜が延びる(皿)様」と読み解いた。

すると盧井=崖のような麓に虎の縦縞のようにくっ付いた山稜が延びる傍にある四角いところと読み解ける。図に示してた奥大谷池を含む場所であろう、「鯨」はの西側の山稜の麓が池には入り込んでいる様を「魚」の四つの鰭に模し、「京」=「大きく高い様」の表記と思われる。これも幾度か登場した「鯨」共通の文字使いである。

「淡海」の遠方から来て田川郡福智町伊方の川辺で「犬養連五十君」に合流したのではなかろうか。勢い込んだだけでは敵を倒すことは叶わず、敢無く退却したのであるが、その後消息は語られないようである。書紀原文の「淡海」を勝手に「近江」に置換えて読む。泥沼の中にある日本の古代史学を白馬、いや、赤駒に載せることはできないのであろうか・・・。

先是、軍金綱井之時、高市郡大領高市縣主許梅、儵忽口閉而不能言也。三日之後、方着神以言「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也。」乃顯之曰「於神日本磐余彥天皇之陵、奉馬及種々兵器。」便亦言「吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。」且言「自西道軍衆將至之、宜愼也。」言訖則醒矣。故、是以、便遣許梅而祭拜御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣而禮祭高市・身狹二社之神。然後、壹伎史韓國、自大坂來。故時人曰、二社神所教之辭適是也。又村屋神着祝曰「今自吾社中道、軍衆將至。故宜塞社中道。」故未經幾日、廬井造鯨軍、自中道至。時人曰、卽神所教之辭是也。軍政既訖、將軍等舉是三神教言而奏之。卽勅登進三神之品以祠焉。

この後に及んで、更に以前のこと、と書き出している。登場する神が、あの「事代主神」である。古事記と書紀で、これだけ扱いが異なる神も珍しい。当然理由がある訳だが、云々するのは書紀の当該箇所を読み下してからにする。どんな風に書紀が書き改めようと、「事代主神」は「建御雷之男神」に恐れをなして雲隠れした神であろう・・・と言うことは、話半分、いや、それ以下の信頼度で受け取れと述べているのかもしれない。

要するに、「近江軍」の「倭京」への接近方法に二つあって、次に出て来る「西道」、「中道」から攻めたのだ、と念を押している記述なのである。それにすっかり洗脳されたのか、「西道」は「大坂」を経る、一方の「中道」は、大将の「犬養連五十君」(書紀編者が不詳としてしまった)をさて置いて、別将の「廬井造鯨」が来る道、即ち、「淡海=近江」の「栗太郡」から来るから、実際は「北道」かと錯覚させているのである。決して書紀では「北道」とは記載されない。

そこまで念押ししなくても、十分だったのでは?・・・お陰で「犬養連五十君」等が「村屋」へ入った時の詳細行程が明らかになったようである。「吾社中道」が正式名称である。後程、読み解いてみよう。

<高市皇子・縣主許梅・高市社・身狹社・金綱井>
高市皇子の出自の場所で示した図を再掲する。既に読み解いた「金綱井」、「高市社」は、高市縣にあったと思われる。

「身狹社」は、身狹社=弓なりになった狹い地の傍らの盛り上がったところと読み解ける。現在の鏡山大神社辺りと思われる。

「高市縣主許梅」の許=言+午=耕地が杵を突くように延びている様梅=木+每=母の両腕のように山稜が延びている様と解釈する。

すると図に示した場所に、その地形を見出すことができる。地図上では耕地を確認することは不可だが、おそらく当時は谷間に棚田が並んでいたと推測される。また縣主=真っ直ぐに延びた山稜に首をぶら下げたようなところと読み解ける。これも立派に地形象形表記なのである。許梅=麓にある梅の実のようなところ、と読んでも通じるかもしれない。

「高市」は古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が坐した纏向之日代宮があった場所である。「倭」の中心地に宮を構えた最初の天皇であった。正に由緒ある地と言えるであろう。尚、「高市郡」は、上記の「高市縣」ではなく、「檜隈」の地を表している。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の輕嶋之明宮があった場所である。後に「桧前忌寸・民忌寸」等の居処となった地である。書紀の捻くれた表記の一つであろう。

<吾社中道>
吾社中道

この文字列は「我が神社(へ)の中道」ぐらいで解釈されるのであろう。「村尾神」まで登場させて言わせているのであるが、「西道」に対応するものではなかろう。書紀の得意な表現方法である。

幾度か出現の「吾」=「五+囗」と分解され、吾=大地が交差するような様であり、「社」=「示+土」と分解され、社=大地が盛り上がっている様と読み解いた。頻出の中=真ん中を突き通す様である。

「道」は前後の文意からすると、通常の「人が通る道」の意味として表記されている。「山稜が延びて交差した真ん中を突き抜ける道」を表しているのである。

「村屋」の北方にある地形を示し、この道から「犬養連五十君」等が来たことを述べている。既出の斑鳩寺近隣を通る道である。当時の主要”官道”だったのだろう。

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「不破軍」の「村國男依」隊の奇襲作戦がものの見事に的中した背景には、「西方」からの「近江軍」の攻撃を何としても防ぐ必要があったのだが、「倭京」を奸計で攻略した将軍「吹負」のその後の活躍を記した内容である。奈良大和・滋賀大津を舞台とした読み下しでは、この「倭京」周辺の攻防の全体に対する位置付けが極めて曖昧なものであろう。

この無理筋なことが書紀編者に課せられたのである。彼等の努力は、一応の成果をあげているのだが、やはり、史料価値を落とすことになったと思われる。細かいところは目を瞑って、と日本人らしさで今までやり過ごされてようでもある。しかしながら、本著の地形象形表記として読み解いた結果は、『壬申の乱』を実に生々しく当時の有様を再現したように感じられる。

繰り返すようだが、当時に固有の地名は存在しない。「大坂」は「平らな頂の麓にある山稜が崖のように延びたところ」である。「まぼろしの邪馬台国」も同じく、「記紀」に登場する主要な”地名”が未だに諸説乱立の状態、根本から見直すことを示しているように思われるが・・・。

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次回に『壬申の乱』を通説との比較も併せて纏めて述べようかと思う。本節で登場した地名・人名について、何一つ不詳とすることはなく求めることができたように思われる。それに従って配置した図を示すつもりである。


2020年8月25日火曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(10) 〔446〕

 天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(10)


七月十三日に「男依軍」は「安河濱」で大勝し、更に十七日には「栗太軍」追撃し、討伐している。その勢いで「瀬田」に到着したのが二十二日だったと伝えている。最後の決戦記、しかと読み下してみよう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

尚、書紀本文は、最終の結末に至る前に大伴連吹負将軍の活躍が長々と記述される。極めて重要な箇所であるが、本著は先に結末までを読み、その後に回すつもりである。

辛亥男依等到瀬田。時、大友皇子及群臣等、共營於橋西而大成陣、不見其後。旗旘蔽野、埃塵連天。鉦皷之聲聞數十里、列弩亂發矢下如雨。其將智尊、率精兵、以先鋒距之。仍切斷橋中須容三丈、置一長板。設有搨板度者、乃引板將墮。是以、不得進襲。於是、有勇敢士、曰大分君稚臣。則棄長矛・以重擐甲・拔刀急蹈板、度之。便斷着板綱、以被矢、入陣。衆悉亂而散走之、不可禁。時、將軍智尊、拔刀斬退者而不能止。因以、斬智尊於橋邊。則大友皇子・左右大臣等、僅身免以逃之。男依等、卽軍于粟津岡下。是日、羽田公矢國・出雲臣狛、合共攻三尾城、降之。

壬子、男依等、斬近江將犬養連五十君及谷直鹽手、於粟津市。於是、大友皇子、走無所入、乃還、隱山前、以自縊焉。時、左右大臣及群臣、皆散亡。唯物部連麻呂・且一二舍人、從之。

七月二十二日に瀬田到着の作戦は、実に巧妙だったと思われる。後に、この日に作戦参加の全軍、勿論「吹負隊」も含めて近江大津宮を取り囲むように集結していたと記載されている。即ち、瀬田橋の決戦は、不破側の止めの攻撃だったことが分る。退路を断たれたら、自害しか残らない、と言うのが当時の決戦の結末であろう。

先走りは、これくらいにして、本文は、待ち構える近江側について「大友皇子及群臣等、共營於橋西而大成陣、不見其後」と記している。東から攻められる状況では、あたり前の記述であるが、逆にこれを書く必要があったのか?…と勘繰りたくなる一文である。更に続けて、大勢の兵士が集まって砂塵が舞って旗が地面を蔽い尽くしていたと述べている。鐘を打ち鳴らし、矢を矢鱈めったら放つなど、追い詰められた烏合の衆の様相であろう。

近江側の将「智尊」(名前からすると沙門?)が瀬田橋に細工をして、簡単に渡れないようにしたのだが、不破側の大分君稚臣が勇敢にも橋を渡り切り、敵将を斬捨てた。それが切っ掛けになって近江軍が総崩れとなり大友皇子、群臣達は逃げ、「男依隊」は悠々と「粟津岡下」に軍を置いた、と記述している。この日、羽田公矢國出雲臣狛が相伴って三尾城を攻略したと付記されている。

翌日の二十三日に近江将軍、犬養連五十君、「谷直鹽手」を「粟津市」で斬首。大友皇子は走り去る場所もなく、戻って「山前」に隠れ、そこで自害したと述べている。「物部連麻呂」は見届け役、事後処理、介添えの役目であろうか。幾度か同様の場面で「物部」一族が登場するようである。

瀬田橋

<瀬田橋の攻防>
最後の決戦場所を求めてみよう。「瀬田」は何と解釈できるであろうか?…瀬=水+頼(賴)=水が飛び跳ねる様を表す文字と読んで来た。

すると、瀬田=水が飛び跳ねる傍らの田となるが、とてもそんな急流の地ではない。

「瀬」の用法には、水が飛び跳ねる場所は急傾斜ばかりではなく、大きく曲がって水が陸地とぶつかる場所も「瀬」と表現している。

舒明天皇以前となるが、大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)にも含まれる「泊瀬」は、古事記の「長谷」に対応する。現在の田川郡香春町を幾度も蛇行しながら流れる金辺川に関わる表記である。視覚的ばかりでなく、流れる水音が聞こえる場所を「瀬」と表現しているようである。

すると広大な田地の中で、現在の井尻川と大谷川が合流点近傍の三角州(中州)で井尻川が二回大きく蛇行するを見出すことができる。ここを「瀬田」と表記したと思われる。当時の川の流れと少々異なるかもしれないが、二つの川の合流点より下流域で渡渉、橋が架けられていたのではなかろうか。「男依軍」は西から長峡川沿いを進むと、この橋の北側に至る。

即ち、橋は、ほぼ南北に架かっていたと推測される。「男依軍」と「近江軍」は、川を挟んで南北に対峙したことになる。この配置が、書紀本文の余計な文言を説明してくれるのである。図に概略の「近江軍」兵士達の配置を示したが、川と山稜に挟まれた地に広がっている様子が伺える。ひしめき合う兵士達で押し出され、知らずの内に大友皇子は橋の西側で戦況を見守っていたのである。

粟津岡・粟津市

「粟津」は、前出の「大郡・小郡」がある山稜が延びた地形を表していると思われる。粟津=粟の粒のような地が集まったところである。それには「岡」と「市」があったと述べている。「岡」は米粒に挟まれた平らなところであり、その麓を「粟津岡下」と表記したのであろう。「市」は、粟粒に囲まれたところ、粟津の中央部の谷間であろう。水辺の近隣、斬首場所のようである。大郡・小郡・三韓館についてはリンクを参照。

辛亥、將軍吹負、既定倭地、便越大坂往難波。以餘別將軍等、各自三道進至于山前屯河南。卽將軍吹負、留難波小郡而仰以西諸國司等、令進官鑰・驛鈴・傳印。癸丑、諸將軍等悉會於筱(筱此云佐佐)浪、而探捕左右大臣及諸罪人等。乙卯、將軍等向於不破宮、因以捧大友皇子頭而獻于營前。

書紀本文では、将軍「吹負」の活躍物語りが挿入され、その後に上記の記述となる。同日(七月二十二日)の記事である。「倭地」を平定した将軍は「大坂」を越え、難波へ向かい、「難波小郡」(小郡宮)で西の諸国司等に駅鈴などの伝達機能を回復するように指示している。後に述べることになるが、将軍「吹負」は一回り以上の成長を遂げられたようである。

「便越大坂往難波」(大坂を越える便で難波に往った)の行程は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀の謀反人、建波邇安王の征伐で通った山代之幣羅坂・丸邇坂の「幣羅坂」に該当する坂と思われる。まかり間違っても「大坂道」ではない。また実際には通らなかったが(「大坂山口」ではなく「當岐麻道」に向かった)、伊邪本和氣命(履中天皇)紀の騒動、墨江之中津王によって難波之高津宮を焼け出されて逃亡した伊邪本和氣命が通った道がこの「幣羅坂」に繋がる。書記編者の微妙な言い回しに惑わされては、伝わって来ない件である。

その他の将軍達は、それぞれの道を進んで、「山前」に至り、「河南」で駐屯したと述べている。詳細な時間は記されてないが、「男依軍」が勝利して、大友皇子が「山前」へ逃げ込んだ後、当然のことながら、それを取り囲んでいたのであろう。翌二十三日に皇子は自害する。その翌日(二十四日)に将軍達は「筱浪」に集まって左右大臣ら諸罪人を逮捕に取り掛った。二十六日、不破宮に大友皇子の頭を捧げた、と記している。

<山前・難波小郡>
山前・難波小郡

「山前」は、孝徳天皇が最後に御された宮、山碕宮であろう。中大兄皇太子(後の天智天皇)が、諸々を引き連れて倭京に帰ってしまい、失意の中で逝かれた場所である。実に性格の良い生真面目な天皇の最後であった。

因果は巡る、であろうがなかろうが、起こるべくして起こった事件と思われる。それにしても寂しい結末のようである。

諸将が駐屯した「河南」も舌足らずの表現である。いずれにせよ、物語の舞台が孝徳天皇の件は難波、今回は近江であり、「山前」を「山碕」に確定し辛くすることが目的であろう。

異なる場所を、一見類似の表記、また同一場所を、見た目異なる表記を用いる。これが書記の手管と知れば、ここも惑わされることはないであろう。

「河」=「水+可」と分解する。単純に「川」の意味と解釈されるが、分解した結果は、河=谷間から川が流れ出るところと読める。肅愼國征伐のところで使われた大河側がある。前後の関係で判断するのであるが、今回もこの解釈が有効のようである。即ち、山碕宮の北麓に集結したと述べているのである。

「難波小郡」は小郡宮があった場所である。全ての将軍達が「近江大津宮」の周辺に参集し、それぞれの残務をこなそうとしていたのである。処罰対象の逃げた近江側の諸将(群臣)を早々に見つけ出すことも重要であったと思われる。

筱(佐佐)浪

幾度か登場の場所である。古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀に登場した佐佐那美であり、書紀では孝徳天皇紀に記載された狹々波がある。現地名は京都郡みやこ町犀川大坂の笹原・松坂辺りである。それぞれのリンクを参照。古代の交通の要所であったことには違いない場所である。ここで手分けの相談も納得であろう。

八月庚申朔甲申、命高市皇子宣近江群臣犯狀。則重罪八人坐極刑、仍斬右大臣中臣連金於淺井田根。是日、左大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等及子孫、幷中臣連金之子・蘇我臣果安之子、悉配流。以餘悉赦之。先是、尾張國司守少子部連鉏鉤、匿山自死之。天皇曰、鉏鉤有功者也、無罪何自死、其有隱謀歟。丙戌、恩勅諸有功勳者而顯寵賞。

終戦後一か月余りが経った八月二十五日、高市皇子が近江群臣の罪状を公表している。重罪が八人、右大臣中臣連金は「淺井田根」にて斬首。左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等とその子孫、中臣連金の子、蘇我臣果安の子が流罪となっている。尾張國司守少子部連鉏鉤が自死したのに対して、何か策謀があったのか?…と述べられている。

実戦では登場しなかった大納言巨勢比等(人)の処罰が厳しくなされている。後にその理由を推し測ってみよう。その他は赦されたようで、大乱ではあるが、全体としての損失は可能な限り抑えられたのではなかろうか。勿論、西海の脅威が減じたわけでもなく、人材確保は最優先事項であったと思われる。

「淺井田根」は上図<瀬田橋の攻防>に示した場所と推定した。「淺」=「水+戈+戈」と分解される。淺=水辺で戈のような地が並んでいる様と読み解ける。井=四角く囲まれた様であり、田根=田が広がり延びる根本と読んで、淺井田根=[淺]の傍の[井]の地にある[田根]のところと解釈した。やはり斬首は水辺で行われるようである。

九月己丑朔丙申、車駕還宿伊勢桑名。丁酉宿鈴鹿、戊戌宿阿閉、己亥宿名張、庚子詣于倭京而御嶋宮。癸卯、自嶋宮移岡本宮。是歲、營宮室於岡本宮南。卽冬、遷以居焉、是謂飛鳥淨御原宮。冬十一月戊子朔辛亥、饗新羅客金押實等於筑紫。卽日、賜祿各有差。

十二月戊午朔辛酉、選諸有功勳者、増加冠位。仍賜小山位以上、各有差。壬申、船一隻賜新羅客。癸未、金押實等罷歸。是月、大紫韋那公高見、薨。

九月九日に「伊勢桑名」を発って「鈴鹿」で宿し、十日は「阿閉」、十一日は「名張」で宿している。十二日には「倭京」を詣でて「嶋宮」で御している。十五日に「岡本宮」に移り、その宮の南に宮室を設けた。冬には「飛鳥淨御原宮」に遷ったと記されている。

十一月二十四日に筑紫にて新羅の使者を饗応している。十二月四日、勲ある者に冠を昇位させている。十五日に船一艘を新羅に与え、彼らは二十六日に帰国したと伝えている。この月、大紫韋那公高見(「磐鍬」の兄)が亡くなっている。これで書紀本紀二十八巻終了である。

<凱旋帰京>
記載された凱旋帰京の行程を図に示した。「伊勢桑名」は桑名郡と記載されていた。皇后を含め一族共々歓喜したことであろう。そして夢にまで見た凱旋の旅に向かわれた。

その日の宿泊場所は「鈴鹿」であり、伊勢鈴鹿(關)である。「伊賀」から背後を襲われはしないかと不安が押し寄せて来た場所であった。がしかし、油断は禁物、後顧の憂いがないように・・・きっと手を打たれたことであろう。

翌日は「隱郡」では宿泊設備が不十分だったのだろう。また、時間もたっぷりあって、もう少し先に進んで、また渡渉もして「阿閉」で泊まったと言う。「阿閉」は第一大隊長紀臣阿閇麻呂の名前にも含まれていた。

阿閉=台地の谷間が閉じられているようなところと読み解いた。その地形が図に示した場所、現地名は北九州市小倉南区新道寺、母原との境に見出せる。本来の行程だったのであろう。往路は、何と言っても逃亡行程、全く状況が異なっている。

翌日、「名張」に向けて出立する。現地名ではない。この文字はこれが初出、後一回登場する。この由緒ある地名を勝手に「隱郡」なんかに当てては失礼千万であろう。

日毎の行程距離から見ても、「名張」は別の場所であることを示している。既に読み解いたようにこの地は菟道の西隣、現地名は小倉南区呼野である。ここで一泊であろう。金辺峠の急坂を登り切らないと「倭京」には届かない。そして翌日は長く続く「忍坂」を威風堂々と進んだことであろう。

名張=山稜の端の三角州が張り出た様である。現在の地形もそれなりに地形象形表記となっているようである。とすると往路の行程が怪しくなって来る。ちぐはぐな有様、そんな細かいところはどうでも良い、なのであろう・・・嶋宮で身辺整理をし、一旦岡本宮の南に居を構え、そしてその年が暮れる前に飛鳥淨御原宮(古事記序文の飛鳥淸原大宮)に遷られたと記載している。

<飛鳥淨御原宮>
飛鳥淨御原宮

その場所は既に古事記に記載された名称から求めることができている。現在の田川郡香春町、金辺川と五徳川が合流する三角州の上に建てられた宮と推定した。

また天渟中原瀛眞人天皇の和風諡号もその地を表していると読み解いて来たが、古事記の名称「飛鳥淸原大宮」に対する「飛鳥淨御原宮」は同一の宮を示しているのであろうか?…あらためて文字解釈を行うことにした。

「淨」=「氵+爭」と分解される。更に「爭」=「爪(手)+ノ+又(手)」と分解される。二つの手が引っ張り合う様を表し、通常の「争う」の意味を実現していると思われる。「氵(水辺)」を含めて地形象形的には「水辺で二つの腕のような山稜が引っ張り合うような様」と解釈される。

頻出の「御」=「束ねる様」から淨御原=水辺で二つの腕のような山稜が野原を引き寄せて束ねる様と読み解ける。図に示したように赤駒の胴体・脚が作る地形を「淨」の一文字で表現しているのである。古事記は淸原宮=水辺の元からある四角く囲まれた野原の傍らの宮と読み解いたが、何とも素朴な表現である。古事記本文ではないこともあろうが、やはり書紀の表現は洗練されていると感じられる。この宮の場所は、現在の須佐神社辺りと推定される。

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上記した範囲で初登場の人物の出自場所を求めておこう。尚「智尊」については全くの不詳である。

<物部連麻呂>
● 物部連麻呂

実にシンプルである。すると物部の谷間の中心にある「麻呂」な地形の麓が出自の場所であろう。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した兄宇迦斯・弟宇迦斯の弟が祖となった宇陀水取での谷間の奥、物部一族の奔流の地と思われる。

物部一族の”本家”と言えるであろう。調べると、「石上麻呂」とも言われ、後には「正二位・左大臣、贈従一位」と記されている。七十八歳で没。

「石上」と名乗るようになったのは、朝臣姓を賜った時からとも言われているようである。「石上神社」に関係したからか、あるいは地図から推測すると現在の井手浦浄水場辺りが沼状であって「石=磯」を形成していたことによるのかもしれない。

この乱の初期に貢献した「朴井連雄君」を含め、物部一族の忠誠の態度が近江側に居たこととは関係なく処せられた理由の一つではなかろうか。大津皇子を含め幾人かの連中がこの地を通過して大海人皇子の一団に追いついた時、手を下さなかったことも、挙げられるかもしれない。

<谷直鹽手-根麻呂>
● 谷直鹽手

「谷直」は倭漢一族と知られているようであるが、書紀では天武天皇紀のみの登場である。「谷」もありふれた文字で、そのまま読んでも居場所のヒントには及ばない。

「谷」=「八+八+口」と分解してみると、谷=二つの谷間が重なった地の入口と読み解ける。前記の「河」の用法に類似する表記であろう。

要するに、百濟河の出口付近の場所を表していると思われる。すると、既出の鹽=鏡のように平らな様で、手=山稜が腕のように延びた様の二つを満たす地形が見出せる。

また、後述で将軍「吹負」に従う谷直根麻呂が登場する。北側の山稜が延び出たところを示していると思われる。多くの倭漢一族が登場するのであるが、この谷間の出口には該当する人物は見られなかった。「谷直鹽手」の戦闘上での記載はなく、「犬養連五十君」と共に斬首される場面で現れると言う役柄である。「五十君軍」が駐屯した「村尾」の近隣が出自の場所であり、補佐役だったのであろう。「根麻呂」とは兄弟のような気もするが・・・。

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「壬申の乱」の結末まで読み下すことができたようである。この乱の全体図を纏めるつもりだが、将軍「吹負」の活躍場面を再現してからにする。これが、また、書紀編者の悪戦苦闘の様子が伺えて、実に興味深い、ようである・・・。





2020年8月22日土曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(9) 〔445〕

 天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(9)


不破側のもう一人の将軍大伴連吹負は倭京を陥落させた勢いで更に先に進もうと企んでいたのだが、その後の経緯が記述される。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

壬辰、將軍吹負、屯于乃樂山上。時、荒田尾直赤麻呂、啓將軍曰、古京是本營處也、宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂・忌部首子人、令戍古京。於是、赤麻呂等、詣古京而解取道路橋板・作楯、堅於京邊衢以守之。癸巳、將軍吹負、與近江將大野君果安戰于乃樂山、爲果安所敗、軍卒悉走。將軍吹負、僅得脱身。於是、果安追至八口、仚而視京毎街竪楯、疑有伏兵乃稍引還之。

七月三日、将軍「吹負」は思いの通りに「乃樂山」に駐留した。その時、部下の「荒田尾直赤麻呂」が古京(倭京)をちゃんと守りましょう、と進言し、将軍はそれを受入れ、「赤麻呂」等を遣わしている。彼等は古京に戻って、橋板で楯を作って守りを堅固にしたと言う。

明けて四日、乃樂山にて近江将軍「大野君果安」と戦ったが、負けてしまって兵士達ほあ悉く逃げ去り、「吹負」も辛うじて脱出したと述べている。近江側の「果安」将軍は追い駆けて「八口」まで至ったが、山に登って京を見ると、堅固な守備がなされており、伏兵などの疑いもあってそのまま引き返したようである。

「乃樂山」は通常、現在の奈良市の平城山丘陵を示すと言われているが、「古京」(倭京とも、勿論飛鳥と表記されていないが)との直線距離25kmを越える。また「八口」の場所を曖昧にしていることも空間感覚を暈した表現となっている。書紀編者の典型的な手口であるが、読み手に任せる記述であろう。「乃樂」も「奈良(ナラ)」と読めないこともなかろうが、素直な表記ではない。

兎も角も、寄せ集めの「吹負」隊は、尋常の戦いでは勝ち目がないことは承知の上であって、強くなるにはもう少し時間が必要だったのであろう。大事なことは、殺されないこと、粘ってているといつかは勝機が訪れる、そんな具合であろう。

近江将がまたもや、中途半端なところで、恐るべし「伏兵」で帰還してしまったことであろう。倭京奪還が使命なのか、あやふやで、組織だった行動とは思えない勝利であったと思われる。息の根を止めない限り敵は蘇るのが通常であり、一見、頼りなさそうな将軍「吹負」が後に大仕事を成遂げることになる。

<乃樂山>
乃樂山

上記でも少し述べたが、これが何処の場所を示すかが重要であり、関連して「八口」の場所、そしてそこから少し登ったところから「倭京」が丸見えでなければならない、そんな地形要求を満たす地である。

「乃樂山」の場所は、後に記述されところによれば「稗田」の近隣であることが示されている。古事記の速須佐之男命の御子、大年神の子である「大山咋神」が坐した近淡海國之日枝山の場所と推定した。書紀風だと「近江之守上山」かもしれない。勿論、書紀には登場しない。現地名は行橋市下稗田である。

乃=弓の弦が緩んだ様を象った文字と解説される。「樂」は、度々登場する「藥」の文字に含まれる要素であり、同様にして「樂」=「糸+糸+白+木」と分解しする。樂=小ぶりな丸く小高いところが連なっている様と読み解いた。すると図に示した上稗田にある山稜が「乃樂」の地形を表していると思われる。

「乃樂山」は、その中心の最も高い場所となろう。「日枝」の地は、近淡海國の中心にあり、上記したように「大国主命」が登場する何代も前に開かれた地だと古事記は記している。そんな場所を近江やら奈良大和に求めても混迷に陥るばかりであろう。勿論、この地の行き着くところは「比叡山」となっている。これは動かし難い国譲りなのである。とすると、本紀の記述との辻褄が合わなくなって来るようであるが、残る一手は書紀編者がおかしい、なのかもしれない。

<乃樂山・八口・古京>
八口

破れた「吹負」の兵達は、一目散に守りを固めた倭京の方に逃げたであろう。その行程は、現在の長峡川沿いに上流方向に向い、京都郡みやこ町勝山浦河内の谷間の入口に至る。

ここを「八口」と記している。何処にでも当て嵌めて下さい、と言う感じの記述であろう。八口=谷間の入口である。

ところがこの「八口」を進むと仚=人+山=山上に人がいる様となる。そして眺めるのである。古事記の大長谷若建命(雄略天皇)が長谷長倉宮から后がいる河内へ日下之直越道で向かう途中で「師木」(現在の香春町中津原近辺)の家並みを眺める峠があった。現在の味見峠である。この峠からは「古(倭)京もさることながら「師木」まで見えることを古事記が記述していたのである。

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新規の登場人物は、「荒田尾直赤麻呂」(東漢一族に併記)、「忌部首子人」(忌部首子麻呂に併記)、「大野君果安」である。

<大野君果安>
● 大野君果安

「大野」だけでは皆目見当が付かない有様であるが、調べると「下毛野」に関係がある人物と分った。この地は、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場する豐木入日子命が祖となったと記載されている(こちら参照)。

「記紀」には登場する機会が少ない地であって、かつ、大野=平らな頂の野原と読める故に山稜の端にある場所を示していると思われる。

「果安」の文字は既出であって、蘇我果安臣(天武紀では蘇賀臣果安と表記)に含まれていた。果安=丸く小高い地がある山稜に囲まれた谷間が嫋やかに曲がっているところと読み解いた。山の中腹の谷間の地であったが、全く異なる地形で見出せるか?・・・。

標高差が少なく見極め辛いが、図に示した場所が、その要件を満たしていることが解った。山稜の端の谷間に丸く小高いとこらが幾つかくっ付いたような地形を表している。「大野君果安」の居場所は、おそらくその谷間の出口辺りと推定される。何れにしても、図中の青っぽいところは、当時は海面下であったと思われる。大河の河口付近、現在とは大きく異なる風景である。

余談になるが、「忌部首子人」は、中臣大島(父親中臣渠毎連)と共に書紀編纂に関わっていたと伝えられている。長生きされ、戦後も多くの活躍があったようである。尚、父親は「忌部佐賀斯」とある。

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甲子、近江別將田邊小隅、越鹿深山而卷幟抱皷、詣于倉歷。以夜半之、衘梅穿城、劇入營中。則畏己卒與足摩侶衆難別、以毎人令言金。仍拔刀而毆之、非言金乃斬耳。於是、足摩侶衆悉亂之、事忽起不知所爲。唯足摩侶聰知之、獨言金以僅得免。乙未、小隅亦進、欲襲莿萩野營而急到。爰將軍多臣品治遮之、以精兵追擊之。小隅獨免走焉、以後遂復不來也。

七月五日に、近江の別将「田邊小隅」が「鹿深山」を越えて「倉歷」に届いている。夜中に「城」に侵入し、合言葉「金」を決めて、敵味方を区別しながら「足摩侶」(足麻呂)隊に襲い掛かったと述べている。「足摩侶」は敏く、何とか逃げ延びたようである。合言葉まで記述しながら、「城」の名称を省く、何とも書紀編者の”姑息さ”・・・いえ、書けなかったのである。

「鹿深」も重要な地点なのであるが、明瞭ではない。高市皇子が逃げた道は、この「鹿深」越えの行程だと述べていた。「近江大津」から伊勢に向かう時に通過する地点である「吉野越え」と対峙する「鹿深越え」、なのである。即ち、「鹿深」と「城」は密接に関連することが伺える。略記しながら、それを暗示する記述と思われる。

翌日六日に「小隅隊」は「亦進」と記載されている。しかもその向かった先は莿萩野だと述べている。そこで結局は待ち構えていた「品治隊」に敗れ去ってしまったようである。またもや「亦進」と言う曖昧な表現をしている。サラッと読めば「倉歷道」を進んだように錯覚するが、「亦」はそのまま先に進むとは限らない表記であろう。むしろ「韋那公磐鍬」、彼が「倉歷道」を通ったとは記載せず、「東國」と記載するしたたかさであるが、の報告、伏兵多しを知れば、決してそのまま先には進まなかったであろう。

上段に加え、この段も書紀編者の悪戦苦闘ぶりがまざまざと浮かび上がっている状況のようである。彼等の曖昧に暈した表現を白日の下に曝してみよう。できることは、記載された場所を求めることである。

<鹿深山>
鹿深山

「倉歷道」の近辺で探すことになるのだが、「鹿深」とは如何なる場所を表しているのであろうか?…この二文字は地形象形表記に用いられている。

「鹿」は通常「山麓」と解釈して問題のない文字であるが、深=水辺がある谷間に[炎]のような山稜が延びているところとは、些か繋がりがしっくり来ないようでもある。

しかしよく見るとこの山稜の西麓は蘇我高麗がいた地であり、その後にも「高麗(狛)」の名前を持つ人物、例えば高麗宮地が登場しているところである。

「高麗」に「鹿」が含まれていることが解る。麗=丽+鹿=鹿の角が二つ並んだような様と読み解いた。即ち、鹿深山=[深]の谷間の麓が[麗]の形をしている山と解釈される。現在の苅田アルプスの峰の大久保山である。

既に求めた「倭國高安城」は、この山の北方の峰、諌山の北側にあったと推定したが、正に苅田アルプスの各峰を彷彿とさせるような記述であることが解る。そして「鹿深越え」は、この山を越えて倉歷道に入って行く行程を表しているのである。

これで、「城」の名称が省かれる理由が明らかとなる。「倭國高安城」は”西海”からの侵攻を見張る城であった。その城が”東國”への入口にあっては、全く矛盾する記述に陥ってしまうからである。後の記述に「高安城」が登場する。さて、彼らは何を伝えんとしたのであろうか・・・。

倉歷道から茅渟道へ

さて、別将「田邊小隅」は、「倉歷道」を守れと命じられた「足麻呂隊」が「倭國高安城」に陣取っているところを夜中に急襲した。「足摩侶」は辛うじて逃げ延びたと告げている。どちらかと言うと、勝って敵を追い散らすのではなく、後ろに控える大隊が伏兵となって、誘き寄せ殲滅することが目的だったように思われる。敵が追いかけて来なく、引き返すことも想定内であったろう。即ち、「男依隊」がいつでも突入できる道を作ることが与えられた使命だったと推測される。

「小隅」はそんな手には引っ掛かるわけではなく、更に「倉歷道」を見れば、この道から数万もの兵がやって来るとは思われず、やはり敵の本隊は、伊賀大山越の「莿萩野」を通って来ると確信したのであろう。彼の読みは正しかった。だが、それ以上に不破側はその行動を読み切っていたのである。

息せき切って届いては、待ち構えていた「品治隊」には歯が立たなかった。おそらく「今來大槻」の麓に降り、茅渟道を通って、倉山田石川大臣の逃亡行程を逆行して、「吉野」へ抜けて「伊賀郡」に向かった、と思われる。これでは兵の体力消耗は否めない行程だったと思われる。勝ち組みが残した記録とは言え、攻撃と防御の戦略なくして戦の勝利は望めないようである。

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この段では唯一の初登場は「田邊小隅」である。「犬上川濱」での大隊上層部の混乱に業を煮やして行動に出た感じであるが、大隊と別動隊の連携があって初めて作戦も機能するのだが、単独行は負けると惨めである。出自の場所は、前出の河内直鯨に併記した。

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丙申、男依等、與近江軍戰息長横河、破之、斬其將境部連藥。戊戌、男依等、討近江將秦友足於鳥籠山、斬之。是日、東道將軍紀臣阿閉麻呂等、聞倭京將軍大伴連吹負爲近江所敗、則分軍、以遣置始連菟、率千餘騎而急馳倭京。壬寅、男依等、戰于安河濱、大破。則獲社戸臣大口・土師連千嶋。丙午、討栗太軍追之。

七月六日に「田邊小隅」が「莿萩野」へ転進して「倉歷道」が開けた。その隙を狙って、七日に「男依隊」が近江へ突入したのである。そして「息長横河」で敵を破り、将軍「境部連藥」(坂合部連藥)を斬捨てている。

九日には、近江将軍「秦友足」を「鳥籠山」で討ち果たしている。同日、東道将軍「阿閉麻呂」等は、倭京将軍「吹負」の敗戦を知って、「置始連菟」に千余騎を付けて「倭京」に急行させたと述べている。

十三日には「男依隊」が「安河濱」で戦い、「大破」している。その時「社戸臣大口・土師連千嶋」を捕えたようである。十七日には「栗太軍」を追撃している。

近江突入以来、十日余りで敵陣深くに侵攻したようである。背後からの報復など全く気にせず、直進した感じの記述である。到達地点は「安河濱」である。本来は、近江側は犬上川濱に集結していた筈であるが、混乱が生じて「息長横河」まで後退してのであろう。あるいは、まさか、まさかの大軍の到来で後退りしながら、止むを得ず追い付かれて「息長横河」で決戦となったのかもしれない。

「阿閇麻呂隊」が威風堂々の主戦部隊なら、「男依隊」は機動部隊の様相である。ところで、本段にも怪しげな記述がなされている。「栗太軍」である。「栗太」の文字列は、「淡海國」の「栗太郡」として書紀は記述している。通説に従うと、出動要請の連絡及び駆け付ける時間を合わせると、とても「淡海」からは間に合う筈はなく・・・おっと、読み手が勝手に「淡海=近江」に解釈していた・・・。これも書紀編者の策略にまんまと引っ掛かったところであろう。

では何故、「栗太軍」追撃のことを記載したのか?…それは「淡海」方面から兵が送られていたことを暗示するためであろう。後に追記の形で「吹負」将軍の活躍が語られるが、彼の相手は「淡海」方面からの近江朝援軍との戦いであることが解る。不破側の背後を突く、最後の切り札、であろう。詳細は後日となる。

<息長横河>
息長横河

「男依隊(軍)」数万の兵士が満を持して倉歷道を駆け上り「近江」の地に侵入した。この地は、紛れもなく「近江」、古事記の言う近淡海國である。

これは凄まじいくらいの突進であったと推測される。あっと言う間に犬上川濱(現在の白川)、もう既に近江軍にはガッチリと受止める気力も薄らいでいたのではなかろうか。

追い付かれて「息長横河」での決戦となったしまったようである。現地名の京都郡苅田町鋤崎にある特異な地形を表していると思われる。息長=谷間の奥から(息を吐くように)山稜が長く延びたところと読む。

古事記で最初に「息長」の文字が登場する息長水依比賣の子、丹波比古多多須美知能宇斯王が「息長」の地形を示す名前である。

その延びたところを川が横切る場所を「息長横河」と表現したと思われる。現在の小波瀬川、古事記では「吉野河」と記載している川である。その川の源流が吉野(現在の平尾台)となる。進軍の行程として、真っ直ぐに「近江」の中心部に向かっていることが解る。

<鳥籠山>
鳥籠山

「息長横河」で撃破したが、更に敵の残党を追い討ちながら先に進むことになる。そんなに距離をないが、まだまだ小競り合いが発生する状況であったろう。慎重に、着実に前進しながら、敵の大将を仕留める目論みである。

丘陵のような山稜を越えて、次の山稜に差し掛かったところで追い付き、二人目の近江将軍を打ち取ったと述べている。その場所が「鳥籠山」と言われたたところであった。

そこには大きな鳥が二羽、書紀で登場の依網連稚子、そしてもう一羽は、古事記の倭建命の陵墓の名前で登場した白鳥御陵である。

「鳥籠山」の「籠」は「箙(エビラ)」の意味を持つ。「矢を入れる籠」であり、すると鳥籠山=矢のように鳥を入れた籠(エビラ)の山と読み解ける。二羽の鳥が頭を寄せ集めたところを表している。もう既に「男依軍」を誰も止めることは叶わなかったのであろう。次の決戦に備えて十分な休養を取りながら前進である。現地名は行橋市下崎の鳥井原である。

<安河濱>
安河濱

そのまま南下すると「安河」に届く。現在の長峡川である。「安」は頻出の文字であり、安=山稜に囲まれた嫋やかに曲がる(谷間)様と読み解いた。

途中「田邊小隅」の出自の場所を通過する。ひょっとすると残党狩りを行ったのかもしれない。何せ、背後に敵を置くことは最も危険な状況を生み出す。前進することは後ろを固めつつ進むことなのである。

そして「安河濱」での決戦も容易に勝利することができたようである。敵将もかなりやる気を消失してのであろう。早くに降伏、故に切り殺さなかった。

「栗太軍」については上記で述べたように、「淡海國」から馳せ参じた軍であろう。書紀の位置付けは「新興国」であり、それだけに功名心が旺盛、だがそれだけでは実戦で成果をあげるには至らなかったようである。淡海方面の状況については後程述べることにする。

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この段での初登場の人物の出自を求めておこう。「秦友足」、「社戸臣大口」、「土師連千嶋」の三名である。

<秦友足>
● 秦友足

「秦」は山背國の地を示すと思われる。既出の秦大津父などで読み解いた場所である。その中で「友足」の地形を探すのであるが、「足」だらけの地で「友」(又+又)も同様に多く見られるようである。

そんな中で、同じ大きさの山稜が人の足のように延びている場所が見出せる。図に示した、前出の調首淡海の西側に当たるところと思われる。現地名は京都郡みやこ町犀川木山である。

古事記の袁本杼命(継体天皇)紀に登場した坂田大俣王の比賣・黑比賣が生んだ多くの御子が散らばった地に当たる。彼等との繋がりは定かではないが、確実に人々が佇まっていた場所であろう。

● 社戸臣大口(久努臣麻呂)・土師連千嶋(土師連眞敷)

社戸臣」は「許曾部臣」とも表記される。孝徳天皇紀に登場した阿倍渠曾倍臣であろう。すると「大口」は「渠」の入口辺りを表している思われる。書紀中でも一度の登場で、「社戸」の表記は貢献度の極めて高い「阿倍臣」への気遣いか?…社戸=高台が戸になっているところと読める。

<社戸臣大口・久努臣麻呂・土師連千嶋-眞敷-甥>
後になるが、調べないと阿倍一族とは思われない久努臣麻呂が登場する。余り良い役柄ではないが・・・物部一族に類似した様子で、ご本家からの分家のようである。

久努=くの字に大きく曲がった山稜の様と読み解くと、その麓に「麻呂」が見出せる。既に「阿倍」の地形ではなくなっている場所であろう。

「土師連」は幾度も登場した一族で、上記の「阿倍臣」の北西に当たる場所と推定した。これまでの命名とは些か異なる様子なのであるが、「千嶋」は何と読み解けるか?・・・。

「千」=「人+一」と分解される。地形象形的には、千=谷間を束ねる様と読み解いた来た。また「嶋」は、頻出であり、嶋=山+鳥=山腹に[鳥]の形がある様と読み解く。すると、千嶋=山稜が[鳥]の形している前で谷間を束ねているところと読み解ける。

古事記の速須佐之男命の御子の八嶋士奴美神が坐した場所と推定したところを表していることが解る。正に古くから開かれた地、歴史の表舞台から遠ざかってはいても延々と繋がっていることが伺える。「記紀」の記述が何を伝えようとしたのか、朧気ながらその先が透けて見える気分である。

「土師連」にも後に土師連眞敷が登場する。平たく敷き詰められて()谷間を一杯にした()様を表しているのであろう。乱の功績評価で大錦上位を贈られている。おそらく「千嶋」に従っていたが、降伏を勧めたのかもしれない。更に唐の留学生であった土師連(改姓に従って宿禰)甥が抑留されていたが帰国したと述べている。「甥」の地形の前であろう。併せて図に記載した。

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物語は、いよいよ最終決戦へと進んで行くようである。がしかし、これでは近江朝側は何の策もなく敗れてしまったかのようになってしまう。それが長く引用されるが、一先ず決着へ・・・。