吉野生尾人:國神の井氷鹿と石押分之子
少々時代を遡って、紐解き不十分なところを補ってみよう。あまりに明々白々なので、詳細を省略していた場所、「吉野」の地について、さてどのルートを使って登ったのか、広い草原の中で何処を中心としていたのかなど、現在の国道、登山道とは異なっているように思われる。それを読み解くキーマンがちゃんと記載されていたのである。
神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の一行が「吉野」に向かう直前から述べてみることにする。現在日本書紀の読み解きが進行しているが、古事記と書紀の記述に大きな齟齬が見られる場面の一つである。初代天皇は奈良吉野に来た、そう読むように仕掛けられた記述である。仕掛けが、やや稚拙なために、この天皇の実在まで疑われる羽目になったようである。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
於是亦、高木大神之命以覺白之「天神御子、自此於奧方莫使入幸。荒神甚多。今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、從其立後應幸行。」故隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天神御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖。從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答曰「僕者國神、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂石押分之子。今聞天神御子幸行、故參向耳。」此者吉野國巢之祖。
[ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏やたがらすをよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌うえを入れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光っております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等の祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖の祖先です。]
不慣れな山越えルートを選択した伊波禮毘古命、見るに見兼ねた高木御大からの「八咫烏」の支援である。なんとルートガイドまで提供される。奥には行くな…そうです、その山塊はとても危険…初めに言ってよ…なんて馬鹿なことは言わずに素直に後をついて行くこと。
[ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏やたがらすをよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌うえを入れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光っております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等の祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖の祖先です。]
不慣れな山越えルートを選択した伊波禮毘古命、見るに見兼ねた高木御大からの「八咫烏」の支援である。なんとルートガイドまで提供される。奥には行くな…そうです、その山塊はとても危険…初めに言ってよ…なんて馬鹿なことは言わずに素直に後をついて行くこと。
初見では「八咫烏=八田(ヤタ)の烏(住人)」であり、「現地の道案内ができる熊の毛皮を着た山男」と読み解いた。
彷徨した山中を抜けたところを「八田」と後に古事記が述べる。現在も「八田山」の地名がある(福岡県京都郡苅田町山口八田山)。
この地は後に建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰が開き、更に宗賀稲目一族(石河宿禰が祖となった蘇我臣)が強大な勢力を張る場所なのである。
これが読み取れず神の使いの烏になってしまい、挙句には足が三本になってしまう。重要な地名には一捻りした命名がなされる。それを読み解けなければ古事記が伝えることの理解はあり得ないであろう。
と言い放ってはみたものの「八咫」は何を意味しているのであろうか?…天照大御神が天石屋にお隠れになった時に登場した八尺勾璁・八尺鏡に関連すると読み取れる。後者は「訓八尺云八阿多」と注記される。即ち「尺」=「咫」であり、文字形そのものが地形象形していると紐解いた。
<八咫烏> |
[八咫]の地形をよく知っている人
伊波禮毘古命は「熊野村」から徘徊しながら山越えで「八田」に降りた…「蘇賀」の北端に辿り着いたと述べている。
現地名では京都郡苅田町馬場・南原辺りから京都峠を越えるルートを通り同町山口八田山の豊前平野北部に下る。彼らは少々正規ルートからは外れたことも併せて…。
そこから「蘇賀」を南下すれば行き着いたところは「吉野河之河尻」=「小波瀬川下流」当時は現在の苅田町岡崎(岬を意味する)近くまで海であったろう。そこに辿り着いた。この川は後の雄略天皇紀の「吉野」の探索で比定する川である。要するに河口付近に出合ったのである。通説が全く説明できない箇所であり、引いては伊波禮毘古命が奈良大和に向かったのではないことが示されているのである。
そこで「阿陀の鵜飼」の祖に出会う…、
…である。吉野河(小波瀬川)の上流にある「平尾台」(北九州市小倉南区)を示していることが解る。「鵜飼」は、そのまま読むとこの人物は鵜匠であった、で済まされるところであるが、古事記は重ねた表記をしているであろう。
「鵜」=「弟+鳥」と分解される。「弟」=「段々になった様」を意味する。すると「鵜」=「段々になった[鳥]の地形」と読み解ける。「飼」=「食+司」と分解される。「食」=「山麓のなだらかな様」であり、「司」=「人+口」=「狭い隙間を出入りする様」を表す文字と解説される。「鵜飼」は…、
…と紐解ける。図に示した現地名行橋市高来にある興隆寺の北側辺りの谷間と推定される。抜け目なく、そして確実に彼らの足取りを示していると思われる。ところでこの「鵜飼」は「僕者國神、名謂贄持之子。」と言う。
「贄」=「幸+丸+貝」と分解される。「幸」=「手錠」を象った文字である。「丸」は「〇」ではなく「丮(ケキ)」=「両手で持つ様」と解説される。
要するに「執」=「両手を合わせて差し出す様」を表す文字と言われる。
それに「貝」を加えれば、「お宝を差し出す様」=「神などに捧げる様」と解釈されている。生贄である。
「持」=「手+寺」と分解される。地形象形的には「手」=「山稜」である。また「寺」=「蛇行する川」と読み解いた。
「之(進む)+止(止まる)」の二つの矛盾する構成要素を合わせた文字であり、「蛇行」=「進みつつ止まる」という概念を表していると読み解いた。伊邪那岐の禊祓で誕生した時量師神などに登場した。纏めると「贄持」は…、
…と紐解ける。正に「別名」のような表記となっている。そしてこの地が「吉野」に向かう登り口に当たる場所を表しているのである。
次に登場するのが「生尾人、自井出來」、「井」から「生尾人」である。平尾台に無数に存在する「井」=「カルスト台地のドリーネ」であろう。水汲みの「井戸」ではない。ドリーネとは石灰質の岩がすり鉢状に溶食された凹地あるいは内部が空洞化した後陥没して形成される。「生尾人」は毛皮を着した姿の表現であろう。
神様の話ではなく、生身の人、だからこの地、吉野の首等あるいは國巢の祖となる。後に応神天皇紀の洞穴で醸したお酒を献上した人々である。吉野の大吟醸である。後には雄略天皇が「蜻蛉野」と叫んぶところである。
さて、平尾台に到着した一行は不動洞・千仏鍾乳洞がある谷筋へと向かったと思われる。そこで生尾人「井氷鹿」と出会う。「井(ケイ)」=「四角く囲まれた様」を表す。井戸ではない。
「氷」=「冫+水」と分解される。氷が割れる状態を表した文字と解説される。
「氷」=「二つに割れた川」と解釈する。後の垂仁天皇紀に氷羽州比賣命が登場する。「二つに分かれた羽のような州」と解釈される。
「鹿」=「山麓」とすると、「井氷鹿」は…、
…と紐解ける。
「吉野首等」の「首」=「首の付け根のように凹んだところ」として、頻出する表記であることが解る。
更に「等」=「竹+寺」と分解され、「山麓に蛇行する川が流れるところ」と読み解ける。「寺」は上記の「持」に含まれていた。「井氷鹿」と「首等」の表記は、この地形を相補って表記していることが解る。
「石押分」は、そのまま読み取れるであろう。「石」=「岩」=「山」として…、
…と読める。そして、その結果が「吉野國巢」の「國巢」=「大地が巣のように丸く窪んだ形のところ」と紐解ける。上記と同様に相補って、極めて正確に精緻に平尾台の地形を表していることが解る。ここが、日本の古代における「吉野」である。
更に進んで、この台地の端、尾根のように連なるところが切り通された場所、それを「宇陀之穿」と名付けたと読み取れる。「穿つ」=「穴をあける、突き抜けて進む」などの意味を表す文字を使ったのは、周囲を山稜に囲まれた「巢」の底から抜け出る状況を伝えたかったのであろう。
「吉野」=「野に満ちたところ」ではあるが、併せてその地形を如実に語る表現であると思われる。漢語(字)を同化した日本語が、年を重ねてすっかりその本来の意味を問わなくなった今、益々古事記、日本書紀、そして中国史書の解読は難しくなるのではなかろうか・・・。
また、既に述べたが、ドリーネに住む人々、その”事実”を古事記が記述した。貴重な「文献」であろう。驚くのは、次の一文「其井有光」数ある鍾乳洞の中に「光水鍾乳洞」がある。今、一般公開はされていないようであるが、極めて重要な「証言」ではなかろうか・・・。平尾台カルスト台地、大切に保存することと、より詳細な調査研究が行われることを期待したい・・・あらためて、その思いに変わりはない。
阿(台地)|陀(崖)
「鵜」=「弟+鳥」と分解される。「弟」=「段々になった様」を意味する。すると「鵜」=「段々になった[鳥]の地形」と読み解ける。「飼」=「食+司」と分解される。「食」=「山麓のなだらかな様」であり、「司」=「人+口」=「狭い隙間を出入りする様」を表す文字と解説される。「鵜飼」は…、
なだらかな山麓で段々になった[鳥]の地の傍に狭い谷間があるところ
<阿陀之鵜飼(贄持)> |
要するに「執」=「両手を合わせて差し出す様」を表す文字と言われる。
それに「貝」を加えれば、「お宝を差し出す様」=「神などに捧げる様」と解釈されている。生贄である。
「持」=「手+寺」と分解される。地形象形的には「手」=「山稜」である。また「寺」=「蛇行する川」と読み解いた。
「之(進む)+止(止まる)」の二つの矛盾する構成要素を合わせた文字であり、「蛇行」=「進みつつ止まる」という概念を表していると読み解いた。伊邪那岐の禊祓で誕生した時量師神などに登場した。纏めると「贄持」は…、
両手を合わせて差出した様な山稜の隙間を川が蛇行しているところ
次に登場するのが「生尾人、自井出來」、「井」から「生尾人」である。平尾台に無数に存在する「井」=「カルスト台地のドリーネ」であろう。水汲みの「井戸」ではない。ドリーネとは石灰質の岩がすり鉢状に溶食された凹地あるいは内部が空洞化した後陥没して形成される。「生尾人」は毛皮を着した姿の表現であろう。
吉野=カルスト台地
神様の話ではなく、生身の人、だからこの地、吉野の首等あるいは國巢の祖となる。後に応神天皇紀の洞穴で醸したお酒を献上した人々である。吉野の大吟醸である。後には雄略天皇が「蜻蛉野」と叫んぶところである。
國神:井氷鹿(吉野首等)
さて、平尾台に到着した一行は不動洞・千仏鍾乳洞がある谷筋へと向かったと思われる。そこで生尾人「井氷鹿」と出会う。「井(ケイ)」=「四角く囲まれた様」を表す。井戸ではない。
<井氷鹿(吉野首等)・石押分(吉野國巢)> |
「氷」=「二つに割れた川」と解釈する。後の垂仁天皇紀に氷羽州比賣命が登場する。「二つに分かれた羽のような州」と解釈される。
「鹿」=「山麓」とすると、「井氷鹿」は…、
四角く囲まれた地で二つに分かれた川がある山麓
…と紐解ける。
「吉野首等」の「首」=「首の付け根のように凹んだところ」として、頻出する表記であることが解る。
更に「等」=「竹+寺」と分解され、「山麓に蛇行する川が流れるところ」と読み解ける。「寺」は上記の「持」に含まれていた。「井氷鹿」と「首等」の表記は、この地形を相補って表記していることが解る。
國神:石押分之子(吉野國巢)
「石押分」は、そのまま読み取れるであろう。「石」=「岩」=「山」として…、
山が押し分けられたところ
…と読める。そして、その結果が「吉野國巢」の「國巢」=「大地が巣のように丸く窪んだ形のところ」と紐解ける。上記と同様に相補って、極めて正確に精緻に平尾台の地形を表していることが解る。ここが、日本の古代における「吉野」である。
宇陀之穿
更に進んで、この台地の端、尾根のように連なるところが切り通された場所、それを「宇陀之穿」と名付けたと読み取れる。「穿つ」=「穴をあける、突き抜けて進む」などの意味を表す文字を使ったのは、周囲を山稜に囲まれた「巢」の底から抜け出る状況を伝えたかったのであろう。
「吉野」=「野に満ちたところ」ではあるが、併せてその地形を如実に語る表現であると思われる。漢語(字)を同化した日本語が、年を重ねてすっかりその本来の意味を問わなくなった今、益々古事記、日本書紀、そして中国史書の解読は難しくなるのではなかろうか・・・。
また、既に述べたが、ドリーネに住む人々、その”事実”を古事記が記述した。貴重な「文献」であろう。驚くのは、次の一文「其井有光」数ある鍾乳洞の中に「光水鍾乳洞」がある。今、一般公開はされていないようであるが、極めて重要な「証言」ではなかろうか・・・。平尾台カルスト台地、大切に保存することと、より詳細な調査研究が行われることを期待したい・・・あらためて、その思いに変わりはない。