『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅰ)
Wikipediaによると…、
完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。
…と記されている。何せ極東から中央アジアまでを統一した大帝国であり、その記載量は膨大なものになるのは当然の結果と思われる。更に拡大膨張したとは言え物理的に全土を支配するには困難な状況故に決して安定した統治でもなかったことが伝えられている。
とりわけ東夷となれば、その情報の収集・検証に割く時間も少なかったであろう。「隋」の時代からもその兆候は見え隠れしており、かつ東夷そのものも激動の様相であり、情報の時間的変動も加わっていたと推測される。
そんな背景の中で『古事記』の読み解き手法を適用してみることにした。とは言え、その範疇を大きく逸脱した時代である。どこまで通じるか、憶測の領域を突き進むことになる。
『隋書俀國伝』に続いて『旧唐書東夷伝』に登場する「倭」に関係するところを抜き出してみると、『隋書』で記された「俀國」(但し「俀」は使われず「倭」となっている)、更に「日本國」という表記が登場する。中国史書には「倭奴國」、「倭國」、「俀國」、「日本國」の四つの国名が揃うことになる。
未だに王道を歩く、「邪馬壹國」が奈良大和にあったとする説を唱える人達にとっては、単に名前を変えただけのことと簡単に片付けられているようだが、各中国史書に記された付随する詳細な、かつ重要な記述の相違などが全く無視されているようでもある。
一方、古田武彦氏が唱えた「九州王朝」の存在を信奉する人々にとっては、決して簡単ではなく、その枠の中で種々の議論が噴出しているようである。とりわけ『隋書』の「俀國」について、その地に登場する「竹斯國」を「竹斯=筑紫」と置換えて、現在の博多湾岸の地に比定した結果がもたらす混迷状態のようである。あるいは早々と「俀國」を奈良大和に持って行く説も現れて来る有様である。
簡単に言えば、古田氏の「多元国家論」が中途半端だったことに由来するのであろう。多元国家が群雄割拠する江南の地を脱出した「倭族」は着地した日本列島でも「多元」であった。即ち一元的な「九州王朝」は存在せず、その地も「多元」であったと考えるべきなのである。
さて、旧唐書の原文を引用する…日本語訳はこちら、こちらなどを参照。
倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿每氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字、俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束髮於後。佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。
貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歲貢、又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅、奉表、以通起居。
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。
長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人、好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天、宴之於麟德殿。授司膳卿、放還本國。
開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔、四門助教趙玄默、就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布、以爲束修之禮、題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歷左補闕、儀王友。衡、留京師五十年、好書籍。放歸鄉、逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年、遣使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海。元和元年、日本國使判官高階真人、上言「前件學生、藝業稍成。願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遣使朝貢。
開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔、四門助教趙玄默、就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布、以爲束修之禮、題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歷左補闕、儀王友。衡、留京師五十年、好書籍。放歸鄉、逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年、遣使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海。元和元年、日本國使判官高階真人、上言「前件學生、藝業稍成。願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遣使朝貢。
倭奴國・倭國・俀國
『隋書』の記述に沿って要約した記述から始まっている。ただ「俀國」の表記は採用せず「倭國」としている。『隋書俀國伝』を読み解いた通り、「俀」の文字は、過去に遡って複数ある「倭國」を「爪(下向きの手の形)」で纏めた(抑えつけた)ような意味を表していると解釈した。実に上手い表現ではあろうが(魏徴撰)、旧唐書の撰者は、押し並べて「倭國」と見做すと読んだのであろう。
倭人の中に「倭奴族・邪馬族」(古有明海沿岸地域)と「天神族」(大倭豐秋津嶋:福智山・貫山山塊の山麓を主とする地域)とがあって、『隋書』に「俀國」と記されたのは「天神族」の国と明確に区別できなかったのである。勿論「天神族」は、過去の朝貢実績を根こそぎ頂くという奸計を行い、それが罷り通ったのは「倭奴族」間の小競り合い及び航海(造船)技術が停滞していたものと推測される。
「古倭奴國」と記されている。『後漢書』の記述で「倭(人)」が初めて朝貢(西暦57年)した記録に基づくものである。既に読み解いたように「倭奴國」=「狗奴國」(『魏志倭人伝』で「邪馬壹國に属さない国として登場)とした。極東から中央アジアまでを領土とした大帝国の唐から見れば、これらの地域差は”誤差”であったろう。一つにひっくるめて「倭國」したくなるのは当然かもしれない。がしかし、その狭い地域の中での抗争、あるいは全く関わることなく存在していたのが倭人達の逃亡先に作った国々であったと思われる。
「其王姓阿每氏」と記載されている。『隋書』に記載された「俀王姓阿每、字多利思比孤、號阿輩雞彌」をそのまま引き継いだ表記となっている。
図を再掲すると『古事記』で「橘之豐日命」の別名表記であると結論された。
「天(阿麻)」の読みを巧みに取り入れた命名である。「姓」も「字」も「號」も無く名付けられていたものを”漢風”にした名前であろう。
『魏志』に「郡使往來常所駐」である「伊都國」に「特置⼀⼤率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國」から一大率を取り上げている。
『隋書』には一大率の記述はない。即ち「伊都國」に「駐」することはなく、「竹斯國」に直行したと伝えている。「邪馬壹國」及びその連合国にとって対外折衝の場所であった場所をスルーしており、「倭國」と「俀國」の場所が異なることを示していたのである。
倭人の中に「倭奴族・邪馬族」(古有明海沿岸地域)と「天神族」(大倭豐秋津嶋:福智山・貫山山塊の山麓を主とする地域)とがあって、『隋書』に「俀國」と記されたのは「天神族」の国と明確に区別できなかったのである。勿論「天神族」は、過去の朝貢実績を根こそぎ頂くという奸計を行い、それが罷り通ったのは「倭奴族」間の小競り合い及び航海(造船)技術が停滞していたものと推測される。
「古倭奴國」と記されている。『後漢書』の記述で「倭(人)」が初めて朝貢(西暦57年)した記録に基づくものである。既に読み解いたように「倭奴國」=「狗奴國」(『魏志倭人伝』で「邪馬壹國に属さない国として登場)とした。極東から中央アジアまでを領土とした大帝国の唐から見れば、これらの地域差は”誤差”であったろう。一つにひっくるめて「倭國」したくなるのは当然かもしれない。がしかし、その狭い地域の中での抗争、あるいは全く関わることなく存在していたのが倭人達の逃亡先に作った国々であったと思われる。
<阿毎多利思北孤> |
阿毎
「其王姓阿每氏」と記載されている。『隋書』に記載された「俀王姓阿每、字多利思比孤、號阿輩雞彌」をそのまま引き継いだ表記となっている。
図を再掲すると『古事記』で「橘之豐日命」の別名表記であると結論された。
「天(阿麻)」の読みを巧みに取り入れた命名である。「姓」も「字」も「號」も無く名付けられていたものを”漢風”にした名前であろう。
『魏志』に「郡使往來常所駐」である「伊都國」に「特置⼀⼤率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國」から一大率を取り上げている。
『隋書』には一大率の記述はない。即ち「伊都國」に「駐」することはなく、「竹斯國」に直行したと伝えている。「邪馬壹國」及びその連合国にとって対外折衝の場所であった場所をスルーしており、「倭國」と「俀國」の場所が異なることを示していたのである。
<海岸・彼都> |
勿論「俀國」における「伊都國」の役割は「彼都」がある場所、『古事記』における「筑紫國」が担っていたことになる。
中国史書と古事記の記述が繋がった、重要なところであり、図を再掲した。
いずれにしても「地図」(当時にない概念であろうが…)は国防上最重要な情報であった筈で、『魏志』の陳寿の記述には見事な配慮がなされていると既述した。後の撰者が文字面だけで読むんだ結果が混乱を招くことになったと思われる。
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全くの余談だが・・・昨日幕末に発生したシーボルト事件に関する新たな資料が見つかったとの報道があった。「江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処刑された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。」とされる事件である。
持ち出し発覚(江戸露見説)の様子を克明に記した資料とのことで通説の台風による座礁船から見つかったという説は翻されたようである。元々オランダ側の資料との齟齬が解消したとのことである。何故台風座礁説などが登場したのかは憶測の域であるが、国禁の地図、オランダ側資料の正確さなど上記と重なる内容を示している。
また、列強に包囲されたかのような状況も「倭(俀)國」の立場に通じるものがあろう。そんな緊張状態における地図の重要性は想像以上のものであったと思われる。現在は何百もの衛星が天から見つめる時代、いや高度三千メートルからドローン攻撃もあり得る、時代は変わったようである。(2019.12.28)
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「倭(俀)國」の人々の様子や風俗は『隋書』に準拠するようであるが、「頗有文字、俗敬佛法」が加わっている。身分格差は大きくあるものの着実に進化していることを示しているように思われる。『古事記』は「佛法」のことは語らないが、その訳は定かではない。何かを意味しているような気もするのだが・・・。
貞観五年、二十二年(西暦631年、648年)の二度、遣使したと伝えている。『隋書』記載された遣使は大業三年(西暦607年)、そして裴世清が「俀國」を訪れたのが明年の大業四年(西暦608年)とある。おそらく帰国したのが大業六年(西暦610年)、「隋」はその八年後(西暦618年)に唐によって滅ぼされたと知られる。
「貞観」の遣使は日本書紀に記載された天皇紀では、舒明天皇~皇極天皇~孝徳天皇紀に該当する(西暦629~654年)。本ブログの解読からすると「俀國」の「邪靡堆」に坐した天皇となる。日本の歴史の真っ暗闇にどっぷりと浸かった時代を迎えることになる。