2019年12月28日土曜日

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅰ) 〔387〕

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅰ)


Wikipediaよると…、

完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。

…と記されている。何せ極東から中央アジアまでを統一した大帝国であり、その記載量は膨大なものになるのは当然の結果と思われる。更に拡大膨張したとは言え物理的に全土を支配するには困難な状況故に決して安定した統治でもなかったことが伝えられている。


とりわけ東夷となれば、その情報の収集・検証に割く時間も少なかったであろう。「隋」の時代からもその兆候は見え隠れしており、かつ東夷そのものも激動の様相であり、情報の時間的変動も加わっていたと推測される。


そんな背景の中で『古事記』の読み解き手法を適用してみることにした。とは言え、その範疇を大きく逸脱した時代である。どこまで通じるか、憶測の領域を突き進むことになる。



1. 旧唐書東夷伝

『隋書俀國伝』に続いて『旧唐書東夷伝』に登場する「倭」に関係するところを抜き出してみると、『隋書』で記された「俀國」(但し「俀」は使われず「倭」となっている)、更に「日本國」という表記が登場する。中国史書には「倭奴國」、「倭國」、「俀國」、「日本國」の四つの国名が揃うことになる。

未だに王道を歩く、「邪馬壹國」が奈良大和にあったとする説を唱える人達にとっては、単に名前を変えただけのことと簡単に片付けられているようだが、各中国史書に記された付随する詳細な、かつ重要な記述の相違などが全く無視されているようでもある。

一方、古田武彦氏が唱えた「九州王朝」の存在を信奉する人々にとっては、決して簡単ではなく、その枠の中で種々の議論が噴出しているようである。とりわけ『隋書』の「俀國」について、その地に登場する「竹斯國」を「竹斯=筑紫」と置換えて、現在の博多湾岸の地に比定した結果がもたらす混迷状態のようである。あるいは早々と「俀國」を奈良大和に持って行く説も現れて来る有様である。

簡単に言えば、古田氏の「多元国家論」が中途半端だったことに由来するのであろう。多元国家が群雄割拠する江南の地を脱出した「倭族」は着地した日本列島でも「多元」であった。即ち一元的な「九州王朝」は存在せず、その地も「多元」であったと考えるべきなのである。

さて、旧唐書の原文を引用する…日本語訳はこちらこちらなどを参照。

倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿每氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束髮於後。佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。

貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歲貢、又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅、奉表、以通起居。

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人、好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天、宴之於麟德殿。授司膳卿、放還本國。

開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔、四門助教趙玄默、就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布、以爲束修之禮、題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歷左補闕、儀王友。衡、留京師五十年、好書籍。放歸鄉、逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年、遣使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海。元和元年、日本國使判官高階真人、上言「前件學生、藝業稍成。願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遣使朝貢。
 
倭奴國・倭國・俀國

『隋書』の記述に沿って要約した記述から始まっている。ただ「俀國」の表記は採用せず「倭國」としている。『隋書俀國伝』を読み解いた通り、「俀」の文字は、過去に遡って複数ある「倭國」を「爪(下向きの手の形)」で纏めた(抑えつけた)ような意味を表していると解釈した。実に上手い表現ではあろうが(魏徴撰)、旧唐書の撰者は、押し並べて「倭國」と見做すと読んだのであろう。

倭人の中に「倭奴族・邪馬族」(古有明海沿岸地域)と「天神族」(大倭豐秋津嶋:福智山・貫山山塊の山麓を主とする地域)とがあって、『隋書』に「俀國」と記されたのは「天神族」の国と明確に区別できなかったのである。勿論「天神族」は、過去の朝貢実績を根こそぎ頂くという奸計を行い、それが罷り通ったのは「倭奴族」間の小競り合い及び航海(造船)技術が停滞していたものと推測される。

「古倭奴國」と記されている。『後漢書』の記述で「倭(人)」が初めて朝貢(西暦57年)した記録に基づくものである。既に読み解いたように「倭奴國」=「狗奴國」(『魏志倭人伝』で「邪馬壹國に属さない国として登場)とした。極東から中央アジアまでを領土とした大帝国の唐から見れば、これらの地域差は”誤差”であったろう。一つにひっくるめて「倭國」したくなるのは当然かもしれない。がしかし、その狭い地域の中での抗争、あるいは全く関わることなく存在していたのが倭人達の逃亡先に作った国々であったと思われる。
 
<阿毎多利思北孤>

阿毎

「其王姓阿每氏」と記載されている。『隋書』に記載された「俀王姓阿每、字多利思比孤、號阿輩雞彌」をそのまま引き継いだ表記となっている。

図を再掲すると『古事記』で「橘之豐日命」の別名表記であると結論された。

「天(阿麻)」の読みを巧みに取り入れた命名である。「姓」も「字」も「號」も無く名付けられていたものを”漢風”にした名前であろう。

『魏志』に「郡使往來常所駐」である「伊都國」に「特置⼀⼤率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國」から一大率を取り上げている。

『隋書』には一大率の記述はない。即ち「伊都國」に「駐」することはなく、「竹斯國」に直行したと伝えている。「邪馬壹國」及びその連合国にとって対外折衝の場所であった場所をスルーしており、「倭國」と「俀國」の場所が異なることを示していたのである。
 
<海岸・彼都>
『旧唐書』の撰者が実際に「倭・俀國」に向かった使者の情報に基づく記述ではなく、既述の資料を要領よく纏めた体裁をとったものであることが解る。

勿論「俀國」における「伊都國」の役割は「彼都」がある場所、『古事記』における「筑紫國」が担っていたことになる。

中国史書と古事記の記述が繋がった、重要なところであり、図を再掲した。

いずれにしても「地図」(当時にない概念であろうが…)は国防上最重要な情報であった筈で、『魏志』の陳寿の記述には見事な配慮がなされていると既述した。後の撰者が文字面だけで読むんだ結果が混乱を招くことになったと思われる。

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全くの余談だが・・・昨日幕末に発生したシーボルト事件に関する新たな資料が見つかったとの報道があった。「江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処刑された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。」とされる事件である。

持ち出し発覚(江戸露見説)の様子を克明に記した資料とのことで通説の台風による座礁船から見つかったという説は翻されたようである。元々オランダ側の資料との齟齬が解消したとのことである。何故台風座礁説などが登場したのかは憶測の域であるが、国禁の地図、オランダ側資料の正確さなど上記と重なる内容を示している。

また、列強に包囲されたかのような状況も「倭(俀)國」の立場に通じるものがあろう。そんな緊張状態における地図の重要性は想像以上のものであったと思われる。現在は何百もの衛星が天から見つめる時代、いや高度三千メートルからドローン攻撃もあり得る、時代は変わったようである。(2019.12.28)

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「倭(俀)國」の人々の様子や風俗は『隋書』に準拠するようであるが、「頗有文字、俗敬佛法」が加わっている。身分格差は大きくあるものの着実に進化していることを示しているように思われる。『古事記』は「佛法」のことは語らないが、その訳は定かではない。何かを意味しているような気もするのだが・・・。

貞観五年、二十二年(西暦631年、648年)の二度、遣使したと伝えている。『隋書』記載された遣使は大業三年(西暦607年)、そして裴世清が「俀國」を訪れたのが明年の大業四年(西暦608年)とある。おそらく帰国したのが大業六年(西暦610年)、「隋」はその八年後(西暦618年)に唐によって滅ぼされたと知られる。

「貞観」の遣使は日本書紀に記載された天皇紀では、舒明天皇~皇極天皇~孝徳天皇紀に該当する(西暦629~654年)。本ブログの解読からすると「俀國」の「邪靡堆」に坐した天皇となる。日本の歴史の真っ暗闇にどっぷりと浸かった時代を迎えることになる。

2019年12月24日火曜日

『古事記』で読み解く『宋書倭國伝』 〔386〕

『古事記』で読み解く『宋書倭國伝』


「倭の五王」が登場する中国史書『宋書倭国伝(夷蛮伝倭国)』(南朝梁の沈約撰、西暦488年)について述べる。この書には、倭國の五王(讃・珍・濟・興・武)が朝貢(西暦421~478年)したと記録されている。同時代資料としての価値が高いとされている。読み下し文はこちらこちらなどを参照。

『宋書倭國伝』原文…、

倭國、在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰「倭、萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達、奉表獻方物。死、弟立、遣使貢獻。自稱、使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正、詔除、安東將軍倭國王。又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。二十年、倭國王、遣使奉獻、復以爲安東將軍倭國王。二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。幷除所上二十三人軍郡。死、世子興遣使貢獻。世祖大明六年、詔曰「倭王世子、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍倭國王。」死、弟立、自稱、使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王。

順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋涉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歲。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見吞、掠抄邊隸、虔劉不已、每致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。臣亡考濟、實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節。」詔除、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王。

「倭王武の上表文」は、中国南朝の六朝文化で流行した四六駢儷体という文体だとか、相当の漢文の使い手が存在していたことが解るそうである。倭の五王は、六ないし七國の安東将軍の認可を求めるのであるが、「百濟」は外されている。中国側からすると「百濟」を倭に任せるわけにはいかなかったのであろう。倭の要求そのまま飲めば朝鮮半島の南部全体となることを避けたかったと思われる。

登場する年代は、永初二年:西暦421年、元嘉二年・二十年・二十八年:西暦425年・443年・451年、大明六年:西暦462年、昇明二年:西暦478年とされている。およそ五十有余年で、半世紀程度の期間であったことが解る。前後を合わせるとほぼ西暦5世紀の期間、百済を除く朝鮮半島南部一帯を支配してと推定される。

前記で述べたように魏書・後漢書及び後になるが隋書に登場する倭國の人物名は、地形象形した表記であった。それ故に二文字以上の文字列でそれぞれの出自に関る地形を表していたのである。勿論一文字でも地形を象形することは可能ではあるが、別表記などで重ねられた記述とすることによって用いられていると思われる。上記の「讃・珍・濟・興・武」の一文字よる名称は他の場合と大きく異なっていることが伺える。

従来より推定年代から五人の天皇に比定したり、また委細は全く不詳となるが「九州王朝」の王だとか、色々と推測されて来ている。とりわけ上表文が記載されている最後の「武」を「雄略天皇」として、ほぼ日本列島を支配した王のような解釈がなされているようである。

本著が述べるところからすると、この五王の名称は、倭人が付けたものではない、と結論付けられる。狗邪韓國など洛東江下流の南西部に侵入した”非倭人”が騙ったものと推測される。宋書に記された倭國の”倭”は朝鮮半島南部にあったとする奥田尚氏の論考がある。下図に「狗邪韓國」を示した。
 
<狗邪韓國>
『新唐書
東夷伝』に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」と記載されている。

この地を失った”本来”の倭(俀)國は、「隋」の時代まで東アジアの歴史の表舞台に登場することはなくなったのである。

憶測の域になるが、『魏志倭人伝』に記された「邪馬壹國」及びその他の諸国は、『宋書倭國伝』に登場する”倭國”によって帯方郡への道筋を断たれた。

そして百濟國西南の航路を辿るには航海技術が未熟であったと推測される。古有明海という内海での航海で事足りたことは外海に乗り出す技術を育むことを阻んだのではなかろうか。

『古事記』に伊邪那岐の禊祓で誕生した綿津見神の子、宇都志日金拆命阿曇連の祖となる記述がある。『古事記』はその一族のことを詳らかにすることはないが、後に海人族として名を馳せる一族となったと伝えられる。

Wikipediaによると瀬戸内海から近畿地方は言うに及ばず、伊豆から更には現在の山形県、内陸の長野安曇野にまで及ぶと言われ、中国、朝鮮半島との交易を促したと伝えられている。
 
<宇都志日金拆命・阿曇連>
「俀國」が対馬(對海國)を経ることなく帯方郡、更には中国本土に向かうことができたのは、
「綿津見神」を祖先とし優れた航海技術を獲得した「阿曇族」の航海技術に依るものと思われる。

「阿曇一族」の隆盛こそが「倭國」から「俀國」への主役交替に最も重要な役割を果たしたのではなかろうか。

古有明海は豊か過ぎた、のである。そして国々が並立する緩い連合体制であり、抗争が絶えない地域と、中央集権とまでには至らないが、それに限りなく近い体制を整えた地域との格差を伺わせるのである。

深読みすれば、『古事記』が「阿曇族」について詳細に語らないのは、その発達した航海技術の先に彼ら「天神族」の行く末が依存するからではなかろうか。「日本國」の登場は『古事記』の範疇ではないからである。

2019年12月16日月曜日

八重事代主神:天逆手矣・青柴垣 〔385〕

八重事代主神:天逆手矣・青柴垣


建御雷之男神が出雲に降り立ち、大国主命に国譲りを迫る場面で登場する八重事代主神は、何ともいとも簡単に引き下がり「此國者、立奉天神之御子」と言って雲隠れしたと伝えている。その最後の記述で記されるのが「天逆手」、「青柴垣」などの文字がある。下記に関連するところを抜き出して記載したが、すんなりとは読み下せない文字列と思われる。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

是以、此二神降到出雲國伊那佐之小濱伊那佐三字以音、拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言「天照大御神・高木神之命以問使之。汝之宇志波祁流此五字以音葦原中國者、我御子之所知國、言依賜。故、汝心奈何。」爾答白之「僕者不得白、我子八重言代主神是可白。然、爲鳥遊取魚而往御大之前、未還來。」故爾、遣天鳥船神、徵來八重事代主神而、問賜之時、語其父大神言「恐之。此國者、立奉天神之御子。」卽蹈傾其船而、天逆手矣、於青柴垣打成而隱也。訓柴云布斯。
[そこでこのお二方の神が出雲の國のイザサの小濱に降りついて、長い劒を拔いて波の上に逆樣に刺し立てて、その劒のきつさきに安座をかいて大國主の命にお尋ねになるには、「天照らす大神、高木の神の仰せ言で問の使に來ました。あなたの領している葦原の中心の國は我が御子の治むべき國であると御命令がありました。あなたの心はどうですか」とお尋ねになりましたから、答えて申しますには「わたくしは何とも申しません。わたくしの子のコトシロヌシの神が御返事申し上ぐべきですが、鳥や魚の獵をしにミホの埼に行つておつてまだ還つて參りません」と申しました。依つてアメノトリフネの神を遣してコトシロヌシの神を呼んで來てお尋ねになつた時に、その父の神樣に「この國は謹しんで天の神の御子に獻上なさいませ」と言つて、その船を踏み傾けて、逆樣に手をうつて青々とした神籬を作り成してその中に隱れてお鎭まりになりました]

該当する場所の武田氏の訳は「逆樣に手をうつて青々とした神籬を作り成してその中に隱れてお鎭まりになりました」となっている。「逆様に手を打つ」とは、「手の平」ではなく手を上下に重ねてように「手の甲」で打つことなのか?…デジタル大辞泉では「まじないをするときに、普通とは違った打ち方をする柏手(かしわで)。具体的な打ち方は未詳」と記されている。

一体何を伝えんとした表記なのか、命乞いをしたのなら、真に失礼な態度とも思われるし、隠れるために何か特別な行為(一説には呪いの所作?)とも思われない。実に不可解な故に明解に解釈された例が見当たらないようである。
 
天逆手

「逆手」はともかくも「天」が示し意味を明らかにすることから読み解いてみよう。「天」=「阿麻」古事記の冒頭に記された訓であり、「擦り潰された台地」を表すと紐解いた。得体の知れない「天」ではなく様々な場所にある「阿麻」の地形を示している。

「手」=「山稜が延びたところ」であり、麓に事代主神が坐していた戸ノ上山の尾根から延びる山稜を表していると思われる。「逆」は、通常の意味では「逆(サカ)さ」であるが、「逆」=「辶+屰」と分解される。「屰」=「大の逆様」を象った文字と解説される。ある方向に対してその真逆の方向を表すことができる。「逆」=「迎える」という意味も有する。

<神屋楯比賣命・事代主神>
すると「逆手」=「延びた山稜が出会うところ」と読み解ける。

「天」が付くことより、その出会った山稜が「擦り潰されたような台地」であると記していると読み解ける。

更にこの文字列に「矣」が付加されている。

通常は「漢文の助字。句の最後につけて断定・推量・詠嘆などを表す」と解説されているが、助字の機能のように思わせて、異なる意味を持たせているように思われる。

あらためて紐解くと、「矣」は「挨」(挨拶)、「埃」(塵埃)などに含まれる文字で「寄り集まった様」を表す文字であることが解る。

即ち、天逆手矣=擦り潰されたような台地で延びた山稜が出会い寄り集まったところを示していると解釈される。図に示した「神大市比賣」(稲妻のように平らな頂から折れ曲がって延びる山稜が集まったところの比賣)が表す山稜が寄り集まった場所の別表記と見做せると思われる。この谷間は多くの山稜が寄り集まった地形であり、その全体像を示している。
 
青柴垣

「柴」=「布斯」と読めと注記されている。「節(フシ)」=「幹から枝の出るところ」であるから青柴垣=幹から出た枝山稜が垣根となりつつあるところと読み解ける。上図のちょうど「主」の頭頂に当たるところを示していると思われる。それを「打成」(作る)と続くのである。

天逆手矣、於青柴垣打成而隱也」を纏めて解釈すると八重事代主神は、坐していた谷間の最奥に引っ込んで隠れたと告げていると解る。日本書紀では事代主神の後裔が皇統に絡むような記述がなされている。出雲を淡海から遠く離れた地に持って行き、尚かつ、出雲の奔流が皇統に絡むような筋書きに仕立てているのである。

憶測の域を脱せないが、出雲(現島根県)と奈良大和との繋がりを強く意識した物語のように伺える。それは原・奈良大和が島根地方との深い繋がりを有していたことに由来するのではなかろうか。倭人の渡来に、九州北部に加えて、現山陰・北陸地方、即ち日本海沿岸への複数の渡来を匂わせているように感じられる。






















2019年12月12日木曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅵ) 〔384〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅵ)


帯方郡から韓國を陸行して倭國の北岸「狗邪韓國」に至る行程記述に続いて、「對海國」と「一大國」に渡海した記されている。その二つの国の大きさはそれぞれ「方可四百餘里」及び「方可三百里」と述べている。

島を巡行したならば、「八百餘里」及び「六百里」、合せて「千四百餘里」と見積もれることになる。帯方郡から女王国への総距離「万二千餘里」に含まれることを示すと、『「邪馬台国」はなかった・・・』で古田武彦氏が提唱した。

本ブログで公開した『古事記』で読み解くシリーズは、従来の解読法とは全く異なり、中国史書が示す地名・人名は地形を象形し、それに基づく結果は、現在の行政区分である町・村単位(旧の大字程度)の精度で比定できることを明らかにして来た。ならば上記の方可四百餘里」及び「方可三百里」の記述の確からしさも検証するに値すると思われる。

『魏志倭人伝』原文(抜粋)…、

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里
多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

…記述は真に簡明であって、これらの国が対馬、壱岐であることは他の選択肢がないだけを根拠にしていると思われる。既に述べたように對海國一大國の名前が表す意味は、通説においては未だにあやふやな状況であろう。勿論方可四百餘里」及び「方可三百里」の解釈も「何となくそのようである」に留まっている。


對海國:方可四百餘里

「狗邪韓國」から一海を渡って着船したところは、「對海」(現在名は浅茅湾又は浅海湾)の入口、即ち対馬の西側に当たる場所であろう。その海を東(現在名は三浦湾)に抜けることになる。現在は幾つかの運河が掘られて容易に「對海」を抜けることが可能であるが、当時に運河はあり得なかったと推測される。
 
<對海國>
ならば「船越」するのが常套手段であり、現存する地名にも「大船越」、「小船越」が見出せる。

最も大きな運河は「万関瀬戸」であり、1,900年旧大日本帝国海軍によって開削されたとのことである。

その少し南側に1,671年に開通した「大船越瀬戸」がある。現在は漁港としての活用がなされているとのことである。

使者は迷うことなく「小船越」を通り抜けたと思われる。標高差10m以下、距離100m前後の細い谷間を抜けると三浦湾に繋がる入江に達することができる。

それから南下して對海國の中心地、現在の阿須浦に向かうことになる。概略の航路を図に示した。

暫しの休息を得て、次に向かうのであるが、まだ「瀚海」に向かわず、沿岸に沿って進んだと推測される。島の南東の端に達して、いよいよ次の「一大國」に向けて沿岸を離れたのであろう。

図に示した通り、「對海」の入ってからちょうど48km進んだところである。上記の「八百餘里」に該当する(60m/里)。前記で述べた末盧國~伊都國及び伊都國~(奴國)~不彌國における里程数に一致する。即ち海上船行ではあるが、沿岸海路ならば陸上歩行によって求めた距離に置換えることができたのであろう。「對海」航行の際は、それが難しく、「餘里」とアバウトな表記となったと思われる。
 
一大國:方可三百里

<一大國>

瀚海」を「千里餘里」渡って着船したのが現地名のタンス浦と推定した(前記の図参照)。

大国主命の末裔の系譜が新羅を巡った後に留まった地である。「一大國」は「高天原」の西の端と推定した。

対馬と同様に壱岐島の東南端まで沿岸海路で向かい、そこから次の「末盧國」に渡ったと思われる。

忠実に沿岸海路を求めてみると36km(六百里)となる。「餘」が付かないのは、自信あり、の表れかもしれない。

尚、一部の岬は当時は島状の地形であったと推定した。いずれにしても恐るべき精度であることが解る。

古代人の数値が”ええ加減”なのではなくて、そっくりそのまま読み取る方に返すべきであろう。

方可四百餘里」及び「方可三百里」と簡単に記載されていることから”ええ加減”な印象を受け、現在に至っている。確定的な比定地であれば尚更のこと記載された内容との検証が可能となるのではなかろうか。








2019年12月1日日曜日

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅲ) 〔383〕

『古事記』で読み解く『隋書俀國伝』(Ⅲ) 


本伝に登場する地名・人名の詳細が明らかになって来ると、冒頭の段の文言が読み解けるようになると思われる。隋書が記す「俀國」の前歴は「倭國」(代表としての邪馬壹國)であり、そして連綿と続く同一の国として扱われているが、間違いなく『隋書俀國伝』に現れた「俀國」は『古事記』が記述する「天神族」の国であることが解った。

中国の使者は「邪馬壹國」を引継いだように聞かされたのであろう。「倭國」は、大倭豐秋津嶋に悠久の昔からあったと・・・そして正史・日本書紀は、「倭」→「和」と置換えて、奈良大和にあったと・・・更に今もそうであるのが”正論”なのである。

「俀」=「人+妥」と分解される。更に「妥」=「爪+女」である。「爪」=「下向きの手の形」とすれば、「[女]を手なずける様」と解釈される。それから「落ち着く」などの意味を表す文字となる。更に「下向きの手」で「まとめる」などの意味も生じると解説される。

裴世清は、確かに古文書に記された「倭國」だが、決して同じではないと感じたであろう。それを「俀」の文字で表記したと推測される。「倭」に含まれる[女]、倭国の象徴である。「俀國」は、その[女]を「爪(まとめる)」た国を表している。「邪馬壹国」(倭國)の領域が漠然とした解釈しかできず、また『古事記』が記す「天神族」の舞台も全く読み取れずのままである日本の古代史では、到底理解できない記述であろう。

隋書俀國伝原文(抜粋)…、

俀国在百済新羅東南⽔陸三千⾥於⼤海之中 依⼭島⽽居 魏時譯通中國三⼗餘國 皆⾃稱王夷⼈ 不知⾥數但計以⽇ 其國境東⻄五⽉⾏南北三⽉⾏各⾄於海 地勢東⾼⻄下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪⾺臺者也 古云去樂浪郡境及帶⽅郡並⼀萬⼆千⾥在會稽之東與儋⽿相近

と記述されている。魏志倭人伝、後漢書倭伝などに記載された内容を要約したように伺えるものであろう。百濟新羅の東南三千里、帯方郡から⼀萬⼆千⾥などは先書に記載された内容そのものである。

通説には「邪⾺臺」、「壹」ではなく「臺」を用いた表記を採用していることから種々の説が発生することになったようである。勿論奔流は「臺」であり、本来は異なる文字でありながら「台」と表記されることになる。更に「台(ト)」と読ませて「ヤマト」に繋がるところである。

隋書は全く異なる文字列ながら「邪靡堆」と記している。「靡」=「ビ、ヒ:漢音、ミ、マ:呉音」である。読みは「ヤマタイ」と読めることから「ヤマト」に結び付けているのである。がしかし「靡」と「馬」は異なる意味を示す文字であり、何故そうしたのか?…邪靡堆」が示す地形は何と紐解けるであろうか?・・・。

邪馬壹國の「邪」は「牙が集まったところ」と読み解いたが、「牙」に関わる文字に動物…例えば馬、狗…は存在せず、本来の「邪」=「曲りくねった様」と読む。勿論「牙」の「∨∧」のような様から発生する意味である。

「靡」=「麻+非」と分解される。「麻」=「細い、狭い」とすると「非」=「挟まれたところ」を象った文字と思われる。前記阿輩鶏彌に含まれれる「輩」(挟まれたところから連なり延びた地)の文字解釈に類似する。
 
<邪靡堆>
結果「邪靡」=「曲りくねって狭く挟まれたところ」と読み解ける。更に「堆」=「土+隹」であり、「鳥の形に盛り上がった地」と解釈される。

「隹」は『古事記』で多用されるが、例えば大雀命(仁徳天皇)などで登場した。「鳥」の形をしたところと解釈した。

纏めると邪靡堆=曲りくねって狭く挟まれた鳥の形に盛り上がった地と紐解ける。「邪馬壹國」とは、全く異なる地形を表していることが解る。

さてそれは如何なる場所を示しているのであろうか?・・・これこそ現在の香春一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳の山容を指し示していると気付かされる。

『古事記』は、香春一ノ岳の山容を飛鳥と表記した。残念ながら現在はその山容を見ることは叶わないが、現存する画像(上図参照)にその姿が留められている。伊邪本和氣命(履中天皇)紀に遠飛鳥と呼ばれたところである。隋書は俀國の中心地を「邪靡堆」と表記したのである。邪靡堆=遠飛鳥となる。

皆⾃稱王夷⼈ 不知⾥數但計以⽇ 其國境東⻄五⽉⾏南北三⽉⾏各⾄於海 地勢東⾼⻄下」この文言も魏志倭人伝で記載された「周旋可五千餘里」と同様に扱われているのが現状であろう。明らかに違っていることに気付く筈である。『魏志』は海を巡る、即ち有明海沿岸に並ぶ国々を表し、それに対して『隋書』は「」であることを述べていると思われる。だからこそ「地勢」が付加されている。

ただ、「夷⼈」は距離が計れず、所要日数でしか把握できないと述べ、「月」でその島の大きさを記述している。使者は、勿論実地検分せず、伝聞記述であることをあからさまにしていると解る。「夷人」は、間違いなく、彼らの統治の領域は「」と…大倭豐秋津嶋と言ったかどうかは定かではないが…伝えたのであろう。
 
彼都

「邪靡堆」の場所は『古事記』の「飛鳥」の地であったことが解った。一方隋書の裴世清は「海岸」から先の行程は記述することなく、即ち赴くことは無く「既至彼都」と記されている。『古事記』に従うと「海岸」と「邪靡堆」とは遠く離れた場所にある筈なのに「既に至った」という表現とは相容れないのである。

サラリと読み飛ばしては実に多くの情報を見逃すことになるようである。「彼」=「彳(進行)+皮」と分解されるが、「皮」=「覆い被さる、斜めに傾く」の意味があると解説される。「皮を剥がす時に斜めになっている様」に基づく意味である。類似する「波」=「海面が皮を剥がす時のようになっている様」を象った文字と知られている。
 
<海岸>
注目は「斜めに傾く」である。「彼」=「かの、あの」という指示代名詞ではない解釈とすると、『古事記』に登場する宮が浮かんで来る。

帶中津日子命(仲哀天皇)が坐した筑紫訶志比宮である。現在の妙見町、寒竹川が流れるところと推定した。

訶志比=蛇行する川が並ぶ谷間にある耕地と紐解いて現在の北九州市小倉北区にある足立山西麓の谷間にある妙見川(寒竹川)と妙見山田川に挟まれた高台の地である。

また訶志比=傾(カシ)いと置換えて、傾斜地にある宮とも読み解いた。即ち彼都=斜めに傾いた地にある都=訶志比宮と解釈される。

更に「都」の解釈を行うと、「都」=「者+阝(邑)」と分解される。「者」=「薪を集めて燃やす様」を表す文字と解説されている。

地形象形的には山稜が寄り集まって[炎]のような光景を示す時に使われる文字である。『古事記』の大長谷若建命(雄略天皇)紀に登場する引田部赤猪子に含まれる「猪」=「犭(突き出た口)+者」が示す場所と解る。天皇の都と思わせつつ、地形を表す、これも実に巧妙な表記であることが読み取れる。

「海岸」、「彼都」一般的な普通の名称の表記で固有の場所を表現していたと解る。漢字を用いた地形象形表記であると気付かなければ、到底理解できないところであろう。日本の漢字文化から全く抹消されてしまっていることに愕然とする思いである。

魏志倭人伝の陳寿、隋書俀國伝の魏徴の二人の撰者の聡明さに優るとも劣らない古事記の太安萬侶と言えるであろうか・・・中国史書の成立年からすると参照できたのかもしれない。とりわけ隋書の記述との整合性は見事である。

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「九州王朝」を提唱した古田武彦氏も『古事記』を解読することができなかった。厳然たる事実して存在する奈良大和へと繋げるために様々な試みをなされているが、反って混乱を招いたのではなかろうか。邪馬台国東遷などと陳腐な根拠の説で押し流された古代史と言えるのかもしれない。いずれにしても「まぼろし」、「ロマン」が冠される古代史の現状に日本の古代史学は黙して語らず、延々と従来の枠の中で論議している有様であろうし、将来も変わりはないようである。