2019年12月12日木曜日

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅵ) 〔384〕

『古事記』で読み解く『魏志倭人伝』(Ⅵ)


帯方郡から韓國を陸行して倭國の北岸「狗邪韓國」に至る行程記述に続いて、「對海國」と「一大國」に渡海した記されている。その二つの国の大きさはそれぞれ「方可四百餘里」及び「方可三百里」と述べている。

島を巡行したならば、「八百餘里」及び「六百里」、合せて「千四百餘里」と見積もれることになる。帯方郡から女王国への総距離「万二千餘里」に含まれることを示すと、『「邪馬台国」はなかった・・・』で古田武彦氏が提唱した。

本ブログで公開した『古事記』で読み解くシリーズは、従来の解読法とは全く異なり、中国史書が示す地名・人名は地形を象形し、それに基づく結果は、現在の行政区分である町・村単位(旧の大字程度)の精度で比定できることを明らかにして来た。ならば上記の方可四百餘里」及び「方可三百里」の記述の確からしさも検証するに値すると思われる。

『魏志倭人伝』原文(抜粋)…、

始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里
土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里
多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

…記述は真に簡明であって、これらの国が対馬、壱岐であることは他の選択肢がないだけを根拠にしていると思われる。既に述べたように對海國一大國の名前が表す意味は、通説においては未だにあやふやな状況であろう。勿論方可四百餘里」及び「方可三百里」の解釈も「何となくそのようである」に留まっている。


對海國:方可四百餘里

「狗邪韓國」から一海を渡って着船したところは、「對海」(現在名は浅茅湾又は浅海湾)の入口、即ち対馬の西側に当たる場所であろう。その海を東(現在名は三浦湾)に抜けることになる。現在は幾つかの運河が掘られて容易に「對海」を抜けることが可能であるが、当時に運河はあり得なかったと推測される。
 
<對海國>
ならば「船越」するのが常套手段であり、現存する地名にも「大船越」、「小船越」が見出せる。

最も大きな運河は「万関瀬戸」であり、1,900年旧大日本帝国海軍によって開削されたとのことである。

その少し南側に1,671年に開通した「大船越瀬戸」がある。現在は漁港としての活用がなされているとのことである。

使者は迷うことなく「小船越」を通り抜けたと思われる。標高差10m以下、距離100m前後の細い谷間を抜けると三浦湾に繋がる入江に達することができる。

それから南下して對海國の中心地、現在の阿須浦に向かうことになる。概略の航路を図に示した。

暫しの休息を得て、次に向かうのであるが、まだ「瀚海」に向かわず、沿岸に沿って進んだと推測される。島の南東の端に達して、いよいよ次の「一大國」に向けて沿岸を離れたのであろう。

図に示した通り、「對海」の入ってからちょうど48km進んだところである。上記の「八百餘里」に該当する(60m/里)。前記で述べた末盧國~伊都國及び伊都國~(奴國)~不彌國における里程数に一致する。即ち海上船行ではあるが、沿岸海路ならば陸上歩行によって求めた距離に置換えることができたのであろう。「對海」航行の際は、それが難しく、「餘里」とアバウトな表記となったと思われる。
 
一大國:方可三百里

<一大國>

瀚海」を「千里餘里」渡って着船したのが現地名のタンス浦と推定した(前記の図参照)。

大国主命の末裔の系譜が新羅を巡った後に留まった地である。「一大國」は「高天原」の西の端と推定した。

対馬と同様に壱岐島の東南端まで沿岸海路で向かい、そこから次の「末盧國」に渡ったと思われる。

忠実に沿岸海路を求めてみると36km(六百里)となる。「餘」が付かないのは、自信あり、の表れかもしれない。

尚、一部の岬は当時は島状の地形であったと推定した。いずれにしても恐るべき精度であることが解る。

古代人の数値が”ええ加減”なのではなくて、そっくりそのまま読み取る方に返すべきであろう。

方可四百餘里」及び「方可三百里」と簡単に記載されていることから”ええ加減”な印象を受け、現在に至っている。確定的な比定地であれば尚更のこと記載された内容との検証が可能となるのではなかろうか。